空の空
空の空、一切は空である。(旧約聖書コヘレトの言葉1:2聖書協会共同訳)
空の空。
空の空、一切は空。(旧約聖書コヘレト1:2フランシスコ会訳)
なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。
(旧約聖書コヘレトの言葉1:2新共同訳)
旧約聖書の中でも異質な書、「コヘレトの言葉」。
口語訳では「伝道の書」、
新改訳(2017含む)では「伝道者の書」という題名になっていますが、
今回は「コヘレトの言葉」で統一します。
NHKEテレ「こころの時代」で、
2020年4月~9月の毎月第3日曜日に放送予定だった、
「シリーズ それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」」
コロナ禍で、放送が延期(少なくとも今秋以降)となりましたが、
テキストは発売中です。
著者の小友聡氏は、東京神学大学教授で、日本キリスト教団の牧師です。
この著者名は、昨年、札幌のジュンク堂書店のキリスト教コーナーで、
たまたま見つけた本
『コヘレトの言葉を読もう 「生きよ」と呼びかける書』(日本キリスト教団出版局)を読み、
感銘を受けたので、
期待して買ってみました。
さて、放送テキストの方に戻りましょう。
先ほど取り上げた『コヘレトの言葉を読もう』と共通しているところが多く、
一般向けの「コヘレトの言葉」入門書である『コヘレトの言葉を読もう』をさらに平易に、
コンパクトにまとめた、という感じでした。
冒頭に掲げた「空の空」の「空」とは、
仏教の「空」(これを説明するのは結構大変ですので省略・・・)とは違います。
へブル語の「へベル」=空、空しさを、
著者は「束の間」という言葉に置き換えています。
(P35~42)
そこから、
(引用)
「へベル=束の間」とすると、「空の空、一切は空である」は、「すべては、ほんの束の間である」と訳すことができます。「なんという空しさ、すべては空しい」(筆者注:新共同訳)と比べると、かなり印象が違うでしょう。「これもまた空であり、風を追うようなことである」は、「ルーアハ」(筆者注:ヘブル語で「風」、「息」ひいては「霊」)を追うような一瞬のことだと言っているのです。
へベルが「空しい」と訳されたのは、「新共同訳聖書」(一九八七年)からです。その前はずっと「空」でしたが、わかりやすくしようということで、「空しい」になったのではないかと思います。この聖書は今もよく読まれているので、コヘレトという人は、「空しい、空しい」といばかり言っているという認識が広まっているのです。(中略)
「人生は束の間である」という事実を、コヘレトはじっと見つめています。それを無意味だとは、彼(注:コヘレト)は決して言いません。むしろ、そこからどう生きるか、どう生きたらよいかを、知者コヘレトは徹底して考えるのです。
(P.38~39から引用終)
と述べています。
そこから、コヘレトの現世賛歌、終末嫌いなどについて論じていきます。
ちなみに、「コヘレトの言葉」中、「空」は、38回出てくるそうです。
(引用)
人間は塵から造られ、神から「命の息」を吹き込まれて、生を得たのです。ですから、人間の死において「息」は、それを与えた神に帰ります。ここには、「人間は最後に創造主である神の手の中に帰るのだ」というコヘレトの信仰の根拠があります。無神論者とか、信仰否定者などと呼ばれるコヘレトは、創造主への揺るがぬ信頼をはっきりと示しているのです。
人間は神から創造された存在です。しかも、本質的には塵という、脆く儚い存在なのです。にもかかわらず、その脆く儚い人間が神から「命の息」を与えられ、生きる者とされています。その命は、百年に満ちません。なんと短い命なのでしょうか。まさしくへベルです。
「一切は空である」の「空」はへベルの訳であり、「短い」「儚い」「束の間」という意味だと説明しました。世界には終わりがありませんが、人間という存在は有限で儚い。人生はまるで風のように束の間で、人間はあっという間に塵に帰ります。
けれども、コヘレトは儚いから意味がないとは決して考えません。人間の一生はへベルだからこそ、意味があるのです。へベルだからこそ、神から与えられた今のこの命を、精一杯生きよ。そんな逆説的な死生観が立ち上がってくるようです。
(P.128から引用)
私にとって、「コヘレトの言葉」は旧約聖書中、「詩篇」と並んで最も好きな書です。
旧約聖書を実際に読んでみよう、と思ったきっかけが、
「コヘレトの言葉」(最初に買った旧約新約が口語訳なので、「伝道の書」でしたが・・・)を、
ぜひ読んでみたい、と思ったからでした。
それは、高校生の時に読んだ、スタインベックの小説『怒りの葡萄』に、
「コヘレトの言葉」が結構引用されているからでした。
(私が読んだのは、岩波文庫版。)
(参考)(日本語)
怒りの葡萄〔新訳版〕(下) (ハヤカワepi文庫) (日本語)
以来、コヘレトはある意味、「心の友」みたいな存在でした。
徹底したリアリストでありながらも、神様と深くつながっている・・・
私はどちらかというと、天国信仰(この世は汚れていて、すべての喜びはあの世に・・・)よりも、
「この世で神をどう賛美・感謝して生きるか」という方に関心があります。
そういう意味で、コヘレトの言葉は深く心に刺さるものがあります。
今回のテキストの中でも、こんな風に紹介されています。
(引用)
繰り返しになりますが、「コヘレトの言葉」は、長年にわたり、虚無的で厭世的な、支離滅裂な文書とされ、好意的に読まれてきませんでした。しかし、ここ二十年ぐらいは、新たな解釈がなされ、再評価されてきています。
私のもとには、「コヘレトが好きだ」とか「コヘレトを読んでホッとする」などという声が届きます。それは、「コヘレトの言葉」が、現代に通じる言葉だからだと思います。
これからの時代、経済格差はますます広がり、引きこもりや自死などの問題がさらに深刻化していくことが懸念されます。努力しても報われない、先が見通せない世界で、私たちはどう生きるべきか。「コヘレトの言葉」を読んで、考えていきましょう。
(P.29~30から引用終)
現代だからこそ、「コヘレトの言葉」は表向きの敬虔さや、偽善の仮面を脱ぎ捨て、
グイグイと心に迫ってくるものがあります。
なお、著者の作品ではありませんが、他に「コヘレトの言葉」を解説した本として、
高橋秀典著『正しすぎてはならない』(いのちのことば社)もオススメです。
著者は立川福音自由教会の牧師です。私訳も載っています。
(私は20年ほど前に一度だけ、その教会に行ったことがあります。)
(日本語) オンデマンド (ペーパーバック)
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