祝福を見るか、呪いを見るか〜信仰に応じたみことばへの着目点と、箴言16:5の各訳
先日、教会で、
旧約聖書の箴言16章1〜9について話す機会がありました。
まずは、この箇所を新共同訳で引用してみましょう。
箴言
16:1人間は心構えをする。主が舌に答えるべきことを与えてくださる。
16:2人間の道は自分の目に清く見えるが
主はその精神を調べられる。
16:3あなたの業を主にゆだねれば
計らうことは固く立つ。
16:4主は御旨にそってすべての事をされる。
逆らう者をも災いの日のために造られる。
16:5すべて高慢な心を主はいとわれる。
子孫は罪なしとされることはない。
16:6慈しみとまことは罪を贖う。
主を畏れれば悪を避けることができる。
16:7主に喜ばれる道を歩む人を
主は敵と和解させてくださる。
16:8稼ぎが多くても正義に反するよりは
僅かなもので恵みの業をする方が幸い。
16:9人間の心は自分の道を計画する。
主が一歩一歩を備えてくださる。
私としては、ここから「神の導き」、
「神にゆだねるとは?」というテーマで語る予定でした。
当然、中心となるのは、3節、9節です。
しかし、「この箇所で気になったところはありますか?」
とその場にいた人たちに質問したところ、
何人かの人たちが5節の後半につまづいてしまいました。
「子孫は罪なしとされることはない。」
旧約聖書的な、罪とその結果としての呪いに心が痛んだのでしょう。
結局、予定されていた時間の大半を、
この5節の説明(というよりは、弁解)に費やしてしまうことになってしまいました。
旧約聖書の律法では、恵みは幾千代にまで及ぶが、
呪いは三代、四代まで続く、といった箇所がありますね。
主は彼(モーセ)の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、 幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」
(旧約聖書出エジプト記34:6〜7新共同訳)
しかし後の預言者の時代になると、各人の責任が問われます。
罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。
(旧約聖書エゼキエル書18:20新共同訳)
それはともかくとして、聖書を読んだ時に、どこに着目するか、
人によってかなり違いますね。
祝福のメッセージに目を向けるか、
それとも、呪いや裁きのメッセージに目を止めるか・・・
(どちらかだけではなく、どちらも、というのが信仰的に健全といえますが・・・)
主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
(旧約聖書創世記2:16〜17新共同訳)
たくさんの「園のすべての木」(=祝福)か、
たった一本の「善悪の知識の木」(=呪い)か・・・
人はしばしば、満ち足りた恵みよりも欠けているところばかり数えがちですね。
私自身の経験で言えば、聖書を読み始め、教会の門を叩いた頃あたりは、
ヨハネ黙示録がおどろおどろしく思えていました。
どこをとっても、破滅と裁き・・・
しかし今では、たくさんの祝福に満ち溢れた、
「天上のミュージカル」のようにさえ思えています。
主にある確かな信仰があるなら、裁きのメッセージで自分を苛むよりも、
祝福のメッセージを受け取ればいいのです。
ところで、先ほどの箴言16:5に戻りますが、
改めて調べてみると、他の訳では違っていました。
(口語訳)
すべて心に高ぶる者は主に憎まれる、確かに、彼は罰を免れない。
(新改訳)
主はすべて心おごる者を忌みきらわれる。確かに、この者は罰を免れない。
(バルバロ訳)※「箴言」ではなく「格言の書」
神はおごる心を憎み、いずれ、罰を下されるだろう。
(フランシスコ会訳)
主は心高ぶる者をすべて忌み嫌われる。この者が罰を免れないのは確かなこと。
(NIV)
The Lord detests all the proud of heart.
Be sure of this: They will not go unpunished.
(New American Standard Bible (NASB))
Everyone who is proud in heart is an abomination to the Lord;
Assuredly, he will not be unpunished.
(Contemporary English Version (CEV))
The Lord doesn’t like
anyone who is conceited—
you can be sure
they will be punished.
新共同訳のように「子孫」と訳されているのは他にありませんでした。
高ぶっている人本人が「お咎めなし」で、
子孫にその非が行くのは理不尽ですね。
もしかしてこれは誤訳なのでは?
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