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2013年6月の10件の記事

2013年6月27日 (木)

NHKBSプレミアム・プレミアムアーカイブス ハイビジョン特集 「インド・マレガオンのスーパーマン」(2013年6月27日再放送)

なんとなく面白そうかも?と思って録画しておいた番組です。
妻がまず途中まで観て、「オモシロイから一緒に観よう!」と強く勧めてくれました。
まずはNHKの番組HPから、放送内容を転載しましょう。
(転載)
マレガオンは、インド西部のイスラム教徒の町。若者たちがハリウッドを意識しながら「スーパーマン」のパロディー映画を製作した。そこには、現代インド社会への痛烈な皮肉が込められている。映画作りに情熱を燃やす若者たちの抱腹絶倒ドキュメント。2008年夏、「発掘アジアドキュメンタリー」として50分で放送したものを、好評に応えて80分完全版でお送りする。アメリカ国際フィルム・ビデオ祭 グランプリほか受賞作品。
(転載終)

インドは世界一の映画大国ですね。
年間映画制作本数も映画館観客総数も世界一多いそうです。
いまだに映画が娯楽の王様なのですね。
このドキュメント番組では、インドの若者が予算10万円で、
「スーパーマン」のパロディ映画を作るまでのメイキングと、
実際に作られた映画のダイジェスト版を放映していました。
(ちなみに、1978年に公開された「スーパーマン」は、
当時のお金で5500万ドルかかったそうです。)

ホームビデオで映画を作ってしまう映画製作者。
粗悪な映像でも、喜んで観てしまうほど娯楽に飢えた人々・・・
出来上がった「映画」は、そのチープさが現代の日本人にとっては爆笑ものでした。
スーパーマンが飛ぶシーンのチープさ!
楽しさという「光」とともに、インド社会の「闇」も少し映しだされていました。
(番組の最後に、「スーパーマン」を演じた若い人は、
既に亡くなってしまったことをコメントしていました・・・)
映画好きな人、インド好きな人にはオススメのドキュメントです。
(再々放送が2013年7月5日にあるそうです。)

2013年6月25日 (火)

書評:スコット・マクナイト著『福音の再発見 -なぜ"救われた"人たちが教会を去ってしまうのか』(原題:"The King Jesus Gospel : The Original Good News Revisited")(キリスト新聞社)〜問題意識は高いが、画竜点睛を欠くかも?

スコット・マクナイト(Scot McKnight)著、中村佐知訳
『福音の再発見 -なぜ"救われた"人たちが教会を去ってしまうのか』
(原題:"The King Jesus Gospel : The Original Good News Revisited")
(キリスト新聞社)を読みました。

キリスト新聞社のHPでの本書の紹介
いのちのことば社Gospel Shopでの本書の紹介

表紙の「なぜ、多くの若いキリスト者が、今日教会を去ってしまうのか」に注目して、
買ってしまいました。

本書では、「”救われた”はずのクリスチャンが、どうして教会を去るのか」、
という今日的な課題と、
「本当の福音とは何か」という2つの重要な問いかけがなされています。
メインはもちろん後者の問いです。
著者は、「福音」とは、今日の多くの教会で共通理解されているような、
「個人的救い」ではなく、ましてや「信仰義認」でもない、と指摘しています。
(P.27〜32の事例A・B・C)
つまり、キャンパス・クルセードの「四つの法則」で展開されるような「福音」は、
使徒達が説いたものとはほど遠い、というわけです。
(確かに、「四つの法則」で事足りるなら、
旧約聖書なんて必要ないデスネ・・・)
では、本当の「福音」とはどういったものなのでしょうか?
著者は、新約聖書コリントの信徒への手紙Ⅰ15章にある、
使徒パウロの福音の要点を元に、これこそ福音だ、
というものをまとめています。
元になる聖書箇所をまず引用しましょう。

最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
(新約聖書コリントの信徒への手紙Ⅰ15:3〜5新共同訳)

そこから、
(P.64から引用)
イエスは死んだ。
イエスは葬られた。
イエスはよみがえられた。
イエスは現れた。

(引用終)とまとめています。

この要点のみならず、旧約聖書の預言の成就もあわせて、
聖書全体から福音を物語る必要がある、と主張しています
(かなり乱暴な要約ですが・・・)
(参考)
(イエスは)そして、モーセとすべての預言者から始めて、
聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

(新約聖書ルカによる福音書24:27新共同訳)
そして、著者なりに「福音とは?」どういうものかを提示しています。
(P.210〜216「福音の概略」)
「四つの法則」ならものの数分で説明が足りるところを、
著者のいう「福音」は朗読するだけで10分ぐらいかかるでしょうし、
キリスト教的素養がない中で理解できる人はごくわずかではないでしょうか?
(途中で「「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。
(使徒言行録17:32新共同訳)というのが続出?)

著者の「本当の福音とは?」と、
安易な「救われた」人達とは?、ということについては理解できましたが、
この本の読後感は、あえて言えば「???」という感じでした。
確信や信仰の喜びを実感する、というのにはほど遠いものがありました。
なぜでしょうか?

正しく福音を認識する、聖書全体を学ぶ、正しい正統信仰を持つ、
教会暦や使徒信条といった信仰の遺産を再評価するなど、
いろいろ書かれてはいますが、
この本において決定的に欠けているのは、聖霊様の御力です。
聖霊様抜きで、著者が主張するような「正しい」福音を語ったとしても、
説得力に欠けるものではないでしょうか?
仏陀やクリシュナの伝説、ギリシャ神話や『古事記』などの神話、
あるいは『論語』や『妙法蓮華経』と、
イエス・キリストの「物語」を並列的に並べるだけのようなものに思えます。

わたし(キリスト)は道であり、真理であり、命である。
(新約聖書ヨハネによる福音書14:6新共同訳)
ということは、まさに「聖霊によらなければ」実感できないのです。
(参考)
聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
(新約聖書コリントの信徒への手紙Ⅰ12:3新共同訳)

そういう意味で、深くて問題意識を提示したものの、
聖霊様の働き、という「画竜点睛」を欠いてしまった、というのが、
本書の実に惜しいところでした。
ただし、「福音とは何か」というのを問い直すのと、
今日的な福音の提示に疑問を持つ方にとっては良い本だと思いますので、
一読する値はあると思います。

2013年6月23日 (日)

書評:『聖書入門ー四福音書を読む』(オリエンス宗教研究所)

カトリック教会の主日ミサに行くと配られる、
「聖書と典礼」(ミサの当日聖書箇所や共同祈願等が印刷されたもの)を発行している、
オリエンス宗教研究所から、『聖書入門ー四福音書を読む』という本が、
2013年6月に発刊されました。
単独の著者はなく、編者「オリエンス宗教研究所」という体裁となっています。
さっそく買って読んでみました。


聖書入門ー四福音書を読む


この本のP.5によると、もともとこのテキストは、
カトリック通信講座」の「聖書入門(Ⅰ)」のテキスト(15分冊)に加筆修正を加えて、
新たに一冊にまとめたもの、とのことです。

「聖書入門」という本はたくさんありますが、
この『聖書入門ー四福音書を読む』は、福音書に的を絞って、
仏教を始めとする日本的メンタリティーに十分な敬意を払いつつも、
押し付けがましくなく、
福音書からイエス様の生涯、
十字架と復活について適切な学びをすることができる好著です。
カトリック色はほとんどないので
(仏教・神道を毛嫌いしない、押し付けがましくない、
回心を性急に迫らない、というのが、
ある意味、カトリックらしいのかもしれませんが・・・)、
プロテスタント諸派でも、
学びのテキストとして使うことができるものではないかと考えます。
教会の求道者で、
これから福音書を読み始めようとする人にプレゼントしたり、
聖書の学びのテキストに使ったりという使用法が考えられます。
ぜひご一読を!

他のカトリック通信講座のテキストはどんなものか私は知りませんが、
この『聖書入門ー四福音書を読む』のような感じであれば、
ぜひそれぞれ一冊の単行本にしてシリーズ出版してほしいと思いました。


参考までに、『聖書入門ー四福音書を読む』本文の見出しを、
オリエンス宗教研究所のHPから転載します。

(転載)
第1講 新約聖書を開いて
福音書の成り立ち/福音書を読む/最初の戸惑い/系図のもつ意味

第2講 イエス・キリストの誕生
誕生前後の記録/ヨセフ、マリアに見る信仰/マリアの賛歌/誕生に見る貧しさ/聖家族に見習って

第3講 キリストの道を準備する
ヨルダン川のほとりで/洗礼の意味/荒れ野に叫ぶ声/イエスと洗者ヨハネの出会い/荒れ野での誘惑/誘惑と選択

第4講 イエス・キリストの招き
悔い改め/罪びとこそ招かれている/「わたしについて来なさい」

第5講 福音の核心
イエスの教える新しい価値観/種々の教え

第6講 あなたは何者ですか
いまだかつて見たことがない/故郷ナザレの人々は/イエスと対立する人たちは/一般群衆は/弟子たちは/さて私たちは/奇跡

第7講 イエスに出会った人々
あなたの罪はゆるされた/使徒たちにご自分の本性を示す/イエスを訪ねるニコデモ/イエスとあなたの出会い

第8講 神 の 国
神の国はすでに来ている/たとえ話/成長しつつある神の国/毒麦/タラントン/ぶどう畑の主人

第9講 神は私たちの父
唯一の神/神は父である/父の慈愛/父への信頼/父のもとに、みなきょうだい/父に向かって前進しよう

第10講 祈 り
イエスにならう/どんなときも/こう祈りなさい/祈りと日常生活/イエスの教えた祈り

第11講 互いに愛し合いなさい
愛と憎しみ/イエスの示す隣人愛/縦の愛・横の愛/愛は見返りを求めない

第12講 受難に向かうイエス
苦しみを背負う/受難の予告/群衆の歓呼に迎えられて/最後の晩さん/これはわたしの体・わたしの血/一つになるように/父がお遣わしになる聖霊/ゲッセマネの園にて

第13講 十 字 架
見捨てられた人/裁判/イエスの死/葬り

第14講 主はよみがえられた
望みをかけていたのに/空になった墓/主を見ました/復活の証言/復活の意味するもの/神と共に永遠なるキリスト

第15講 キリストと共に生きる
わたしにとどまりなさい/真理に導く聖霊/死を超えて/みことばは永遠に

(転載終)

2013年6月16日 (日)

書評:岡本茂樹著『反省させると犯罪者になります』(新潮新書)

なんとも刺激的なタイトルですね。
岡本茂樹著『反省させると犯罪者になります』(新潮新書)を読みました。
長年、刑務所での累犯受刑者の更生支援に関わった豊富な経験から、
悪い事をすればすぐに反省させ、
反省文を書かせるという教育のあり方に一石を投じています。


反省させると犯罪者になります (新潮新書)


新書の帯にある文章を引用しましょう。
(引用)
長年、受刑者の更生を支援するなかで分かってきたことは、彼らを更生させるためには、実は「反省させてはいけない」ということです。
私は彼らに反省を求めません。反省を求めない方法で個人面接や授業を進めていくうちに、彼らの多くは反省していきます。反省させようとする方法が受刑者をさらに悪くさせ、反省させない方法が本当の反省をもたらすのです。このことを、受刑者を支援するなかで、私自身が受刑者から教えてもらいました。それを本書で明らかにしようと思います。

(同書P.6から引用終)

著者の主張の要点は・・・
・犯罪者やいじめっ子らに、「被害者の立場で考えろ」、
「反省しろ」と強要するのは、その場しのぎだけになり、
真の反省にはつながらない。
・むしろ、加害者の視点から出発し、まずはホンネを出させることによって、
加害者は受け入れられている、大切にされていると実感し、
真の反省に至る事ができる。

本書の大半は刑務所受刑者の心理的実態についてですが、
後半では、通常の教育現場でのことも書かれています。
犯罪被害者の方にとっては読むのが酷な面もありますが
(結局、加害者は利己的であり、真に反省することは少なく、
自らの減刑手段として、「反省している」ように見せかけているにすぎない・・・)、
児童生徒の健全な心理的発達を考えるには、逆説的な意味でとても参考になりました。
一読に値する本といえます。

(ここから先は、キリスト教に興味のない方は、飛ばして結構です。)
有名な讃美歌「いつくしみふかき」には、こういう一節がありますね。
♪(イエスに)こころのなげきを つつまずのべて
などかはおろさぬ おえるおもにを

時折、模範的で、感謝と賛美に満ちた祈りが、
むなしく感じられることがあります。
詩編を読むと、賛美と感謝と同じくらい、嘆きが多いことに気づきます。
心の奥底の叫びを、主なる神にぶつけているわけです。

わたしは黙し続けて
絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
御手は昼も夜もわたしの上に重く
わたしの力は
夏の日照りにあって衰え果てました。〔セラ
わたしは罪をあなたに示し
咎を隠しませんでした。
わたしは言いました
「主にわたしの背きを告白しよう」と。
そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを
赦してくださいました。〔セラ

(旧約聖書詩編32:3〜5新共同訳)

罪を犯したとき、悔い改めも大事ですが、
ありのままの偽らない心を主にぶつけることも大事ではないでしょうか?
反省させると犯罪者になります』を読みながら、
信仰の面においても、応用できるのではないかと思いました。

テレメンタリー2012年度 優秀賞受賞作品「通知表のない学校~ブタの飼育から学ぶこと~」を観て・・・

長野県の伊那小学校といえば、30年以上も前から、
「総合学習」(※「総合的な学習の時間」とは別なコンセプト)の実践で有名です。
豚の飼育を通して、
算数や保健体育、音楽や理科といった教科を教えるとか、
学習指導要領にとらわれない教育をしています。

北海道では2013年6月16日(日)早朝(深夜)に再放送された、
テレメンタリー「通知表のない学校~ブタの飼育から学ぶこと~」で、
伊那小学校の取り組みの様子を視聴しました。
(東京等では、2013年6月10日)
テレメンタリー2012年度 優秀賞受賞作品だそうです。
放送内容を番組HPから転載します。
(引用)
長野県の伊那小学校には、通知表がない。国の方針に先駆け34年前から「総合学習」を実践している。
3年夏組は1年生の時からブタを飼育している。
ふんを堆肥にして野菜を育て、バザーで販売するなどして餌代に充てている。餌代の計算は算数の授業に組み込まれる。
出産や子豚の出荷、今後について常にクラス全員で話し合って決める。多数決は取らないのがルールで、最後の1人が納得するまで議論する。
子どもが自ら考え学んでいく教育の現場を見つめる。

(引用終)

見る人の立場が違えば、このドキュメント番組、
すごく感動的かつ刺激的なものになったでしょう。
「これこそ本当の教育だ!」とか・・・
しかし私には、醒めた目でしか観ることができませんでした。

小学生たちが豚のエサ代を稼ぐために、
野菜を作ってバザーで売ったり、はては新聞配達をして稼いだり・・・
一見、美談のようにさえ思えます。
しかし、ちょっと待てよ・・・
労働基準法第56条では、年少者(15歳未満)の雇用を禁止しています。
学校教育の一環とはいえ、エサ代を稼ぐために新聞配達をする、というのは、
明確な法令違反なのでは?
(伊那小学校がどういう対処をしているのかは知りませんが・・・)
私が保護者だったら、子どもにはこんな小学校に通わせたくないですね・・・
豚の飼育はユニークな経験でしょうが、
学習指導要領を遵守する指導内容の方が、
子どもの健全な発達に合っているのではないでしょうか?

チャイムがない、通知表も時間割もない・・・
子どもたちの主体性を生かす教育だ!と絶賛する方も多いようですが、
たとえていえば東京から大阪に行くのに、
新幹線や高速道路、都市間バス、飛行機もあるのに、
わざわざ徒歩で行かせるようなものではないでしょうか?

私立小学校ならともかく、公立学校でこういう実践、
今後も続けるつもりなのか、正直言って疑問ばかり残りました。

2013年6月15日 (土)

「味噌汁・ご飯授業」と、「ごちそう授業」というよりは「ジャンクフード授業」〜読売新聞北海道版「シリーズ学力危機」:学校力の現場(1)(読売新聞2013年6月13日朝刊記事)を読んで

北海道の教育は、
長年の北教組・道教育大による現場支配により、
低学力に悩んでいますが、
本気を出せばやれるんだ(まだ、「やれるかもしれない」ぐらいでしょうが・・・)、
という証拠のような好記事を読みました。

読売新聞北海道版のシリーズ「学力危機」は実にすばらしい企画記事です。
今までも読み応えがありましたが、新シリーズも期待できます。
2013年6月13日から新連載となりました。
今回の副題は「学校力の現場」。
道教育委が2012年度に開始した、
「学校力向上の総合実践事業」の指定校への取材により構成されるそうです。

第1回目は、北広島市立大曲小学校の取り組みでした。
算数でのTT(チームティーチング)の様子などを紹介していました。
記事の中で特に印象に残ったところを引用します。
(引用)
 大曲小は、2012年度に道教育委員会が開始した「学校力向上の総合実践事業」の指定校の一つだ。「味噌(みそ)汁・ご飯授業」を合言葉に、児童全員の授業参加を学校全体で推し進めている。この考え方は、同事業のアドバイザーで元横浜市立小学校教諭の野中信行さん(65)が3年前に提唱した。12年度に同校へ着任すると同時に取り入れた横藤雅人校長(58)は「授業は毎日食べる味噌汁やご飯のようなもの。全ての児童に学力という『栄養』が行きわたることを目指している」と意図を説明する。

 「味噌汁・ご飯授業」の反対語は「ごちそう授業」だ。特定の授業に力を入れ、手の込んだイラストやスライドを用意することを指す。準備に時間を割かれ、普段の授業がおろそかになりがちだ。立派に見える授業だが、学力の向上につながらないという指摘がある。同校では、ごちそう授業の傾向があったことを反省し、地道な指導を徹底している。(中略)

 道教委幹部は「ごちそう授業を続けている学校は多いが、学力の向上につながるかどうかは疑問だ」と話す。学校力アドバイザーの野中さんは「児童に基礎的な学力を身につけさせることは教諭の責任だ。日常の授業を大切にして、児童全員を参加させることが不可欠だ」と指摘している。
(引用終)

この記事(及び道教委)では、
「味噌汁・ご飯授業」と「ごちそう授業」という言葉で、
基礎基本の学力を保障する前者の教育を賞賛し、
後者の、ほとんどの小学校での「研究授業」に見られる、
イベント的な授業を疑問視しています。

「ごちそう授業」なんていい言葉を使っていますが、
「ごちそう授業」のほとんど(おそらく9割以上)は、実際には、
「ジャンクフード授業」なのではないか、とさえ思います。
(たくさん食べれば栄養に偏りがあり、害になる・・・)
算数の問題解決型授業に代表されるような、成果がでないのに続く「研究授業」・・・
こういうひどい授業でなくとも、
ただただ体裁を整えるため、見せびらかすためだけに、
たった1時間のためにあまりにも時間を費やしすぎる「研究授業」も問題です。
結局、日常の授業がおろそかになりがちです。
薄っぺらい教科書を最後まで教えるだけでも弱音を吐くような教員が多いようですが、
余計な仕事としての「ごちそう授業」は、自分で自分の首を絞め、
なおかつ、児童・生徒の基礎学力を阻害するものになります。

記事の中で紹介されていた、
元横浜市立小学校教諭の野中信行さんのブログ記事を拝見しました。
ブログ名「風にふかれて」です。
いくつかおすすめ記事を紹介します。
味噌汁・ご飯」授業 その1
北海道教育委員会からの報告書を読んで
そのような「重点研修システム」に改善していくべきである
ブログ記事には含まれませんが、
野中信行さんの「味噌汁・ご飯」授業という考えについて、
わかりやすい記事も紹介します。
「味噌汁・ご飯」授業を考える
元横浜市立小学校初任者指導教員 野中 信行先生

読売新聞北海道版の「学力危機」の新シリーズ「学校力の現場」は、
2013年6月15日に第2回目の記事が出ました。
次は登別市の幌別小学校の取り組みでした。
どこまで児童生徒がきちんと最低限の学力を身につけたか、という、
「成果」を問う、という当たり前のことが、
残念ながら、きちんとなされていなかったのを、
実際にやってみる取り組みをやっているそうです。
今までの授業は、悪く言えば、やりっ放しです。
特に研究授業は教師の自己満足(というよりは、アリバイ作り?)で終わりがちです。
道教委の新たな取り組みにエールをおくりたいものです。
(札幌市教委はカヤの外なのですが・・・
相変わらず、「児童の輝く瞳」が成功した授業なのでしょうか・・・)

2013年6月13日 (木)

根拠薄弱な実験を報道したNHKの怠慢〜NHKニュース「「人は本来は善人の可能性」の実験結果」(2013年6月13日放送)

2013年6月13日早朝のNHKニュースを、朝の支度をしながら見ていると、
???と思うような内容の報道がありました。
「人は本来は善人の可能性」の実験結果」というものです。

(NHKサイトからニュース記事全文引用)
赤ちゃんに図形を使っていじめの様子を見せたところ、赤ちゃんはいじめられた側に関心を示すとする実験結果を京都大学の研究グループが明らかにしました。グループでは「赤ちゃんが弱い立場の側に同情的な態度を示した結果で、人は本来、善人である可能性を示唆している」としています。

これは、京都大学大学院の鹿子木康弘特定助教らの研究グループが発表したものです。
研究グループは、ある図形が別の図形を攻撃していじめている様子をアニメ-ションで描き、生後10か月の赤ちゃん20人に見せました。このあと、赤ちゃんにアニメーションと同じ図形を選ばせたところ、80%に当たる16人がいじめられた側の図形を選んだということです。
研究グループでは、弱く苦しい立場の側に同情的な態度を示した結果と解釈できるとしています。グループでは、大人を対象に同じような実験を進めていて、大人では、いじめられた側に同情する割合が少なくなる傾向があるということで、鹿子木特定助教は「人は本来は善人である可能性を示唆している」と話しています。

(引用終)

報道された内容は、上記ニュース記事の元記事に、動画がありますので、
ぜひご覧になってください。

京都大学大学院の方が発表したからといって、
何でも信頼できるわけではない、という見本のような報道です。
素人目に見ても実に根拠薄弱な実験と言うしかないですね。
性善説を唱えた孟子が生きていれば、喝采するかもしれませんが・・・
「はじめに結論ありき」の実験ではないでしょうか?

青い球が黄色い四角を追い立てていく、時に攻撃するものを、
生後10ヶ月の子が、そもそも「いじめ」と認識できるのでしょうか?
映像だけみても、それは研究者の思い込みに過ぎないものでしょう。
まして、「人は生まれつき善人である可能性」なんて結論にはなりえないものです。
言葉による刷り込みだって可能性があります。
せいぜい、この実験から導きだせるのは、
乳幼児は追われるものを好む、というぐらいの結論が妥当でしょう。

銭形警部がルパンⅢ世一味を追いかける、
あるいは「トムとジェリー」でトムがジェリーを追いかける
というシチュエーションに置き換えてみれば、
必ずしも強いものが弱いものを追う=いじめ、という図式は成り立たなくなります。

いじめ問題で研究をすれば政府かどこかの宗教団体とかあたりから、
研究費・補助金でももらえるから、こんな実験を発表したのでしょうか?
水は答えを知っている
(水にきれいな言葉や音楽を聴かせると、きれいな結晶ができ、
乱暴な言葉やロックを聴かせると、きちんと結晶しない・・・
→写真を撮っている人の主観的な選択が強いもので、客観性がありません。)
とかのトンデモ科学と大差ないと思います。

水は答えを知っている(サンマーク文庫)

一方、日本では憲法上学問の自由が保障されています(第23条)。
こういう研究がなされてもいいとは思います。
むしろ、報道する側に問題があるといえます。
原発事故の時に東大教授とかを引っ張りだして、
放射能汚染の問題を過小評価させた大罪を忘れたのでしょうか?
「東大話法」そのもの(研究者は京大ですが・・・)です。
NHKの見識を疑った報道でした。
いじめ問題を議論している政府に媚を売るにはいい報道なのかも知れませんが・・・

人の本質は善か、悪か・・・
古くは「性善説」の孟子や、
「性悪説」の荀子の論争から、
ルターとエラスムスの論争(自由意志か奴隷意思か?)とか、
諸説たくさんあります。
聖書的人間観はどちらかというと性悪説に近いものがあります。
そもそも善とは何か、悪とは何か、正義とは何か・・・
あるいはもっと限定して、
いじめとは何か・・・
こんな恣意的な実験で結論できるようなものではないことは確かです。

人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。
(旧約聖書エレミヤ書17:9新共同訳)
善のみ行って罪を犯さないような人間は
この地上にはいない。

(旧約聖書コヘレトの言葉7:20新共同訳)
私自身は・・・性善説、性悪説どちらもとりません。
(もちろん、人の善なる部分を信じてはいますが・・・)
むしろ、快不快原則とか、功利主義的人間観に近いかもしれません。

この記事でちょうど1400本目となりました!
主なる神に感謝!
読んでくださっています読者の皆様にも感謝します。

2013年6月12日 (水)

デュメイ&ピリスのフランク:ヴァイオリン・ソナタ〜やっぱりこの盤が一番!

「あなたの最も好きなヴァイオリン・ソナタは?」と問われれば、
迷わず「フランクのヴァイオリン・ソナタ!」と答えます。
ブラームスの渋い3曲のヴァイオリン・ソナタも捨てがたいですが、
思い入れの深さが違うのです。

当ブログでは、フランクのヴァイオリン・ソナタについて、
既に2つ記事を書いています。
フランクのヴァイオリン・ソナタ
NHKBSプレミアム「名曲探偵アマデウス」・フランク「ヴァイオリン・ソナタ」
以前はカントロフ&ルヴィエ盤(DENON)なども挙げましたが、
このたび、改めてデュメイ&ピリス盤を購入し直し、
この演奏の前では、他の盤は色あせてしまうほどだな〜と実感しました。
(実際、既にカントロフ盤はだいぶ前に手放してしまいましたが・・・)

デュメイ&ピリス盤

今回、以前の記事で紹介した千住真理子&藤井一興盤(以下「千住盤」)
と聴き比べてみました。
デュメイ&ピリス盤(以下「デュメイ盤」)を知らないならば、この盤は、
十分合格点すぎるほどの演奏です。
(カップリングのフォーレのヴァイオリン・ソナタ第1番他も名演です!)

千住真理子&藤井一興盤

比較参考しやすいよう、千住盤とデュメイ盤のタイムを記載します。

千住盤
第1楽章:6:04
第2楽章:8:36
第3楽章:7:06
第4楽章:6:09

デュメイ盤
第1楽章:5:47
第2楽章:7:59
第3楽章:7:00
第4楽章:6:10

タイムだけ見ると、
若干デュメイ盤の方がテンポ早めですが、
実際聴いてみると、テンポの早さなど全然感じられません。
デュメイ盤の音の美しさは、
まさに音楽そのものが純粋に鳴り響いているものです。
冒頭から、色づく木々の葉が広がってハラハラと落ちていくのが見えてきそうです。
どこをとっても理想の演奏といえるほどです。
改めて聴いてみると、ふと目に涙が・・・
どの楽章もすばらしいのですが、ことに第4楽章は感動的です。

一方、千住盤も捨てがたい魅力はありますが、
デュメイ盤ほどの感動には至りません。
(2位なしの3位ぐらいなら、推薦してもかまいませんけど・・・)

結論から申せば、フランクのヴァイオリン・ソナタならば、
デュメイ盤1枚あれば、他はいらないほどです。
ただ、デュメイ盤のカップリングの他の曲(ドビュッシー&ラヴェルの曲)は、
あまり興味がないせいか、まったく聴かずじまいのままです・・・

2013年6月 3日 (月)

「聖徒の交わり」と「諸聖人の通功」〜聖人の恵みのお裾分けはありえるのか?

使徒信条の中に、「聖徒の交わり」という言葉がありますね。
聖徒の交わり」はギリシャ語で「コイノニア・ハギオン」(聖なるコイノニア)、
ラテン語で「サンクトルム・コミュニオ」というそうです。
カトリック教会では昔、「諸聖人の通功」と訳されていました。
カトリックとプロテスタントでは、「聖徒の交わり」の範疇が違います。
どちらにも共通しているのは、現在生きている信徒同士の「交わり」ですが、
カトリックでは「既に死んでいる信徒」、特に聖人との「交わり」が含まれます。
カトリックではさらに進めて、聖人の恵みのお裾分けができる、と考えました。
(引用)
 聖人は、その偉大な信仰と行いによって、自分自身が義とされる、つまり自分自身が救われるに十分な功績を持っているだけでなく、なお功績に余りがある、なお余力があると考えられたのです。
 中世初期から、教会には大別して二種類の信仰者がいると考えられてきました。この偉大な信仰をもって愛に生きた聖人と、自分自身の信仰では自分さえ救うことができない弱い、普通の信仰者です。二者の間に存在している交わりをサンクトルム・コミュニオ―ーー「諸聖人の通功」と呼んだのです。この交わりの中で、弱い普通の信仰者は、自分の救いのために、偉大な聖人の功績を融通してもらうことができるわけです。「通功」とは、功績の融通を意味します。

(藤本満著『わたしの使徒信条ーキリスト教信仰の神髄ー
(いのちのことば社)P.252から引用終)
果たして、「功績の融通」などできるのでしょうか?
神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。
(旧約聖書詩編49:8新共同訳)

藤本満著『わたしの使徒信条 ~キリスト教信仰の真髄~』(いのちのことば社)

プロテスタント教会では、この考え(諸聖人の通功)は否定されます。
先ほど引用した本では、カトリック教会の考え方に対して、
プロテスタント教会の考え方を対比させて書いています。
(とてもわかりやすい説明です)
(引用)
 一方プロテスタント教会は、そのような功績は互いに融通できるものではない、ましてや、どのような偉大な聖人の功績も、私たちを救うことはできない、救いはただキリストの十字架を信じる信仰によって、神から与えられると考えました。ですからプロテスタント教会は、サンクトルム・コミュニオを「諸聖人の通功」ではなく、「聖徒の交わり」と訳しました。(中略)
 プロテスタントでは、「聖徒」とは、特別な聖人のことではなく、聖書が一般的に使っているキリスト者、つまり十字架によって罪赦され、神の子どもとされた私たちキリスト者を指します。
(同書P.252〜253から引用終)

妻がある方から「聖徒の交わり」について問われ、
改めて、私たちが信じる「聖徒の交わり」とは何か、
再認識してみたくなりました。

生きている信徒同士の分かち合いとしての「聖徒の交わり」は、
否定されるべきではありませんが、
過度な聖人信仰は、キリストへの信頼を弱めるものです。

神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、
人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。

(新約聖書テモテへの手紙Ⅰ2:5新共同訳)

我々の大半は凡人に過ぎませんが、
主イエス様から見れば「聖徒」なのです!
「聖人ではないから二流信者」と卑屈になる必要はないのです。

もちろん、著書や良い行いというのは、
生きている限りだけでなく、死んでからも、
世界のいろいろなところで霊の実を結びます。
聖徒の交わり」が単純に、生きている人限定、
ということではないでしょうが、
聖人のお裾分けを待ち望むより、
主なる神ご自身に大きく期待したいものです。
そして、良いものを互いに分かち合っていきたいものです。

わたしが、あなたの神、主。あなたをエジプトの地から導き上った神。
口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。

(旧約聖書詩編81:11新共同訳)
彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
(新約聖書使徒言行録2:42新共同訳)
神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。
(新約聖書コリントの信徒への手紙Ⅰ1:9新共同訳)
わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、
あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。

(新約聖書フィレモンへの手紙6節新共同訳)
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
(新約聖書ヨハネの手紙Ⅰ1:3新共同訳)

2013年6月 1日 (土)

2013年5月のアクセス数ベスト10記事一覧

2013年5月のアクセス数ベスト10記事は以下のとおりです:
(※トップページを除く)
ベスト3までは記事リンクをつけています。

一位.ウコンは肝臓に悪い?~NHK・ためしてガッテン「肝臓の健康を守れSP」
(2011年6月29日放送)

二位.NHKEテレ・冨田勲のイーハトーヴ交響曲~初音ミクが歌う賢治の世界~
(2013年5月4日放送)〜第5楽章「銀河鉄道の夜」はさながら「東北レクイエム」・・・

三位.公立学校で習熟度別授業の導入はプラスか、マイナスか?
~読売新聞北海道版・連載「学力危機」第1部・札幌の格差 (10)を読んで

四位.映画「探偵はBARにいる」〜夫婦で評価が割れた作品
五位.映画「青い鳥」〜教育現場の事なかれ主義をえぐった佳作
六位.NHK・双方向クイズ天下統一「アニメ」(2013年5月4日放送)に
挑戦してみました!

七位.NHKBSプレミアム・映画「ロッキー」シリーズ一挙放送
(2013年4月28日〜5月3日)
〜特に「ロッキー・ザ・ファイナル」に感動!

八位. 煌めく音の洪水!〜NHKBSプレミアム・クラシック倶楽部
- ユジャ・ワン(Yuja Wang 王羽佳) ピアノ・リサイタル -(2013年5月22日放送)

九位.「学びあい」という美名の下の教育の堕落
~NHKEテレ・ETV特集「輝け二十八の瞳 ~学び合い 支えあう教室~」
(2012年2月5日放送)

十位.映画「おおかみこどもの雨と雪」〜中途半端なリアリズム

ベスト1は相変わらずでした。
2013年5月のトップ10は映画・テレビネタが多く含まれていました。
札幌にも暑さ到来です。
今月もご愛読よろしくお願いします。

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