書評:ティモシー・ケラー(Timothy Keller)著『「放蕩」する神』(原題:The Prodigal God)〜放蕩息子のたとえの再考
キリスト教書店の新刊コーナーで、
『「放蕩」する神 〜キリスト教信仰の回復をめざして』(いのちのことば社)と、
『偽りの神々~かなわない夢と唯一の希望~』(同上)という2冊の本を見かけました。
2冊の本の著者は、アメリカの牧師、ティモシー・ケラー(Timothy Keller)氏。
どちらも興味深そうな内容でしたが、
『「放蕩」する神 〜キリスト教信仰の回復をめざして』の方が厚さが薄かったので、
こちらから買って読んでみることにしました。
偽りの神々~かなわない夢と唯一の希望~
「放蕩」する神 〜キリスト教信仰の回復をめざして
原著The Prodigal God: Recovering the Heart of the Christian Faith
この本の主題は、新約聖書の有名なたとえ話の1つである、
「放蕩息子のたとえ」(ルカ15章)です。
話を要約すれば・・・
二人の息子を持つ父親がいた。
弟は父親の財産の一部の生前贈与を求めた。
父は弟に財産を分け与え、弟は遠い国へ旅立ち、
放蕩の限りを尽くして財産を使い果たした。
ついには食べるのにも困って、
ユダヤ人にとって忌むべき仕事である、
豚の世話をするほどまで落ちぶれた。
そこで弟は父の元に帰ることに決めた。
父親は戻ってきた息子をかわいそうに思い、すべてを受け入れ、
祝宴を開いた。
ところが、兄にとっては、弟が戻ってきて、
父が祝宴を開いているのは実に不愉快だった。
怒って祝宴に入るのを拒否していたところ、
父親がなだめに来る・・・
一般にこのたとえ話は、弟の方にウェイトをおいて、
罪人の悔い改めを喜ぶ父なる神、という説教展開がなされます。
この『「放蕩」する神』においては、
まず、このたとえ話は誰に向けて語られたかを考察します。
聖書から読み解けば、徴税人や娼婦などの「罪人」に対してではなく、
道徳的に正しい行いをしていると自負する、
パリサイ人や律法学者に向けて語られたものです。
(ルカ15:1〜2)
二人の息子、兄と弟を、
著者は「弟タイプ」=徴税人や罪人⇒「自由奔放」なライフスタイルの人々
「兄タイプ」=パリサイ人や律法学者
⇒伝統的な道徳を習慣として身につけ、聖書を勉強し、熱心に礼拝し、祈る人々
(P.22参照)
と位置づけます。
そしてどちらかというと、「弟タイプ」の人々よりも、
「兄タイプ」の心の闇に切り込んでいきます。
従来の解釈では、「失われていた」のは弟で、兄は道徳的に正しかった、
とするものが標準的でした。
しかし著者は、実は兄も弟と同様、「失われていた」と解釈します。
(P.48〜49から引用)
兄弟二人の心は同じでした。二人とも父親の権威を拒絶し、そこから離れて自由気ままに生きることを望んでいました。二人ともそれぞれ、父親を自分のいいなりにできるだろうと思われる立場に身を置いたのです。それぞれが、つまり、反抗したのです。一人は誰の目にも明らかな反抗を通して、一人は、あまりにもいい子になりすぎることによってです。二人とも父の心からは遠く離れ、つまり、失われていたのです。
それでは、ここでイエスは何を教えようとしていたのでしょうか。二人とも、父親自身を、父親だからという理由で愛していませんでした。むしろ、自分たちの自己中心的な欲求を満たすために、父親を利用していたのであって、息子として父を愛し、喜び、仕えることをしなかったのです。これは言いかえれば、私たちは誰でも、神に反抗することができるということです。そのおきてを破ることによってはもちろん、そのおきてを忠実に守り行うことを通しても、です。
ショッキングなメッセージではないでしょうか。神のおきてを注意深く守り行うことは、逆に神に反抗する巧妙な策略ともなりうる、というのです。
(引用終)
そしてさらに、正しさゆえに救い主の必要性をいつの間にか拒否する心理を暴きます。
(P.50から引用)
あなたはすべての道徳基準を満たすことによって、救い主であるイエス自身を避けられます。もし、すべての道徳的基準を満たすなら、あなたは「権利」を手に入れます。それは、神があなたの祈りにこたえ、良い人生を与え、死後、天国行きの切符を与えてくれるという権利です。無償の恵みによって、すべての過ちを赦してくださる救い主など、必要ないのです。なぜなら、あなた自身が自分の救い主だからです。
これこそ、兄の心の姿勢でした。
(引用終)
教会や教会学校では、ともすると、「イエス様を信じて、良い行いをしましょう」
という「道徳的な」メッセージになりがちです。
道徳的に良い行いをすることだけが「福音」なら、
イエス様の十字架など必要ないですね。
その程度であれば、仏教や神道、儒教の教えでもいいわけです。
しまいには、教会で熱心でない人々を裁きはじめる・・・
つくづく、「宗教」というのはイヤなものだ、と、
私もしばしば思うほどです。
(P.64、71に言及あり。)
著者は、弟の道、兄の道どちらも否定し、
「福音に生きるとは?」と問いかけます。
(P.118〜119から引用)
宗教は、「私は従う。だから神は私を受け入れてくださる」と考えます。福音の基本的な理念は、「私はイエスの働きによってすでに神に受け入れられている。だから従う」というものです。今まで見てきたように、福音を信じるとは、まず神との関係をつくるということです。そして神との新しい関係と、そこに立つ新しいアイデンティティが生まれます。
しかし、してはいけないのは、一度信じてクリスチャンとなったから、福音のメッセージについてすでに修了した者だと思うことです。マルチン・ルターの基本的な信仰の理念は、「宗教」は人の心の初期設定でしかないということでした。あなたのパソコンは、設定を変更し、アップデートしない限り、初期設定のままでしか動きません。ルターは、福音によって回心した後も、常に意図して「福音」設定にしていかなければ、人の心は「宗教」という初期設定でしか動かないと言っているのです。
(引用終)
イエス様を信じる事による信仰義認の喜びから、
いつの間にか自分が自分の救い主になってしまう「兄タイプ」の信仰・・・
反対に、自由奔放な生き方をする「弟タイプ」の生き方・・・
私自身にも、「兄と弟」どちらの心があることを、正直に告白します。
その2つではなく、その中間でもない道を、著者は指し示します。
(P.134から引用)
イエスは言います、「私は天国のパンだ」、と。弟タイプの欲望も兄タイプの道徳性も、霊的には袋小路なのですが、もう一つの道をイエスは示しました。それは、イエス自身を通る道です。
(引用終)
プロテスタント、カトリック問わず、広く読まれるべき書といえます。
あなたは、兄タイプ?弟タイプ?それとも、福音に生きていますか・・・
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
(新約聖書ヨハネによる福音書14:6〜7新共同訳)
レンブラント作「放蕩息子の帰還」
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