全き赦しを受取るには?〜赦しの実感がわかないクリスチャンの方々へ
わたしは罪をあなたに示し
咎を隠しませんでした。
わたしは言いました
「主にわたしの背きを告白しよう」と。
そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを
赦してくださいました。
(旧約聖書 詩編32:5新共同訳)
クリスチャンとして歩んでいるからといって、
罪と無縁になるわけではありません。
(この私もそうです・・・)
ところで、洗礼(バプテスマ)の意義・効果としては、
(カトリック)
「洗礼は、原罪、すべての自罪、また罪ゆえのすべての罰をゆるします。また成聖の恩恵、すなわちキリストとその教会に結び合わせる義化の恵みによって三位一体の神のいのちにあずからせます。そしてキリストの祭司職にあずからせ、すべてのキリスト者との交わりの土台をなします。さらに対神徳と聖霊のたまものを与えます。受洗者は、キリストの消えない証印(霊印)をしるされ、永遠にキリストのものになります。」
(『カトリック教会のカテキズム要約(コンペンディウム)』263⇒P.153)
(プロテスタント※福音派)
「キリスト教のバプテスマは、バプテスマのヨハネによるキリスト以前のバプテスマのような儀式的な洗いのかたちをしており、内的なきよめと罪の赦し(使徒22・16、Ⅰコリント6・11、エペソ5・)、御霊によってもたらされた新生と新しいいのち(テトス3・5)、そしてキリストにあって永遠に守られることを証言し保証する聖霊の内在という神の証印(Ⅰコリント12・13、エペソ1・13〜14)を表すために、神が与えたしるしである。」
(J・I・パッカー著『聖書教理がわかる94章 キリスト教神学入門』(いのちのことば社)
の「78 バプテスマ」P.262から引用)
(※下線は筆者による。)
というものが挙げられます。
すなわち、カトリック・プロテスタントの共通理解として、
「洗礼(バプテスマ)によって、洗礼以前のあらゆる罪が赦される」
という信仰理解が成り立ちます。
カトリック教会のカテキズム要約(コンペンディウム)
聖書教理がわかる94章~キリスト教神学入門~
※キリスト教書店に行った方が入手しやすいです。
⇒いのちのことば社のサイト
原著:Concise Theology: A Guide to Historic Christian Beliefs
とはいえ、日々生きていく上で、知らず知らず、
あるいは意図的に、罪を犯してしまうことが多いですね。
聖書にも、
「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」
(新約聖書ヨハネの手紙Ⅰ1:8〜10新共同訳)
とあるように、人間だから罪を犯してしまう傾向は、死ぬまで続くのでしょう・・・
では、罪(ここでいう「罪」とは、「主の御目から見て」です。
通常の日本語での「犯罪」も含まれますが・・・
大多数の人には、「犯罪」の部類の「罪」は無縁ですね・・・
むしろ、神を中心としていない生き方、というのを考えてみるといいでしょう。)
が赦されるには、どうすればいいのでしょう?
カトリック信者なら、「司祭に告解する(ゆるしの秘跡をいただく)」であり、
プロテスタントであれば、余計な仲介者を立てず、
ストレートに主に罪を告白します。
(24時間、365日年中無休で赦しが受けられます!)
ただ、ここで問題になるのが、
「赦された!!!!!!」という実感なのでしょう。
何度罪を告白しても、その事を思い出す(フラッシュバック?)・・・
赦されたという実感がわかない・・・
感激がない・・・
気持ちを問題にすれば、たぶんいつまで経っても、
「赦された!」という手応えを得ることはありません。
そもそも、「(霊的な何かを)感じた」から、
あるいは「感じなかった」から、「赦された」とか「赦されていない」、
ということになるのでしょうか?
感じに頼る信仰は危ういものがあります。
大切なのは、主のご約束である御言葉に堅く立つことです!
感じたか感じなかったかではなく、信仰によって、
「確かに得た!」と受け取ることです。
主が「赦す!」といったら、「赦される」のです!
ある方から、赦しのこと(実感がわかない)について聞かれて、
イザヤ書からの御言葉を正確に引用しようとしたのですが、
たまたまその時見つからなかったので
(主の完全な赦しについては、きちんと語ることができましたが・・・)、
今回書いてみました。
私が引用したかったのは、この御言葉でした。
見よ、わたしの受けた苦痛は
平和のためにほかならない。
あなたはわたしの魂に思いを寄せ
滅びの穴に陥らないようにしてくださった。
あなたはわたしの罪をすべて
あなたの後ろに投げ捨ててくださった。
(旧約聖書イザヤ書38:17新共同訳)
私がその時説明に使ったのは、次の御言葉でした。
同じくイザヤ書からです。
わたし(=主)、このわたしは、わたし自身のために
あなたの背きの罪をぬぐい
あなたの罪を思い出さないことにする。
(旧約聖書イザヤ書43:25新共同訳)
主は24時間私を、あなたを、私達を見守ってくださる(詩編121:4〜5)、
すばらしいカウンセラー(イザヤ9:5)なのです!
秘密は厳守、相談無料、必ず悩みは解決できます!
主は再び我らを憐れみ
我らの咎を抑え
すべての罪を海の深みに投げ込まれる。
(旧約聖書ミカ書7:19新共同訳)
罪が海の深みに投げ込まれたら、誰も探索できませんね・・・
主はお前の罪をことごとく赦し
病をすべて癒し(中略)
主はわたしたちを
罪に応じてあしらわれることなく
わたしたちの悪に従って報いられることもない。(中略)
東が西から遠い程
わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。
(旧約聖書詩編103:3、10、12新共同訳)
神様の姿や声が見えず・聞こえずとも、信じるのと同じように、
私たちのちっぽけな感情ではなく、主の広大な憐れみと赦しの御約束を信じ、
受け取ろうではありませんか!
主が赦されていないのではなく、私達が受け取っていないだけなのです!
疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたし(=主イエス)のもとに来なさい。
休ませてあげよう。
(新約聖書マタイによる福音書11:28新共同訳)
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