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2013年3月の16件の記事

2013年3月28日 (木)

札幌の中学校でのクラス分け資料流出事件への反応〜評価をしてはいけないのか?

札幌市東区の公立中学校で、2013年3月上旬に、
次年度(4月以降)の学級編制に使われる資料が、
誤って生徒に渡される、という事件が起きました。
生徒を「反社会」「障害」と分類文書、誤配布
(読売新聞 3月27日(水)10時27分配信)

札幌中学内部文書流出 教師側、紛失に丸2日気付かず(03/25 14:11)
これは、単純に言えば個人情報漏洩事件ですね。
ただ、そこに書かれてあった内容に、
「反社会」とか「障害」などと書かれてあったから、
「人権問題だ!」とまくしたてる人たちが出てくるわけです。

2013年3月28日の読売新聞朝刊(北海道版)によると、
札幌市の上田市長が、27日の定例記者会見において、
(読売新聞2013年3月28日道総合35面から引用)
文書に「障害」「反社会」といった記述があったことを問題視し、「教職員が上から目線で子供にレッテルを貼ることは許されない」と述べた。
(引用終)
とのことです。
この問題はなんと文部科学大臣にまで波及しています。
文科相「常識を逸脱」 札幌の中学内部文書に「反社会」(03/26 17:00)
記事によると、下村博文文部科学相までが、
(引用)
札幌市教委などによると、内部文書は学級編成のためのもので、周囲と打ち解けられない生徒を「障害」、同級生とけんかした生徒を「反社会」などと分類していた。下村文科相は、この記載について、「教育現場として常識を逸脱した、人権問題にもかかわるような表現だったのではないか」と批判し、市教委などに適切な対応を求めた。
(引用終)
と述べたとのことです。

私の考えとしては、この事件の問題点は、
教師が「反社会」「障害」などと書いたことでは決してありません。
繊細な注意を要する個人情報文書の管理が杜撰だったことなのです。

教員が学級編制をする場合や、学力を評定する場合(指導要録を書く等)、
当然、「評価」は避けられません。
また、次の担任等への引き継ぎのために、保護者対応のことや、
配慮を要する児童生徒のことを率直に書くのは、
当然なすべきことなのではないでしょうか?
(表現の問題はあるにせよ・・・)

教員=聖人君子、的に考えるから、問題が過度に大きくされているわけです。
たとえば、一般の例で考えてみましょう。
サラ金からお金を借りすぎている多重債務者は、
いわゆる「ブラックリスト」に載るわけです。
その情報は、関係業界で共有されています。
「クレーマー」は各業界にて要注意人物として登録されています。
ただそれらの情報は管理されているから、表には普通出てこないわけです。
それなら、教育の世界でも同じではないでしょうか?
札幌市の上田市長による「上から目線」云々は余計なお世話と言える発言でしょう。
情報管理の徹底をしっかりすべきであった、と陳謝する問題だったといえます。
誰とでも仲良くしましょうね、で済むなら警察や刑務所もいらないわけです。
安易な言葉狩りに偽善を感じます。

人は誰でも、いつかどこかで何らかの形で評価されるわけです。
評価はおかしいとか、差別化につながるといった人権派の甘い発言は、
結局、問題を先送りにしてしまうものなのです。
教育界における安易な競争・序列化反対の声(◯教組・・・)は、
子供をスポイルするだけです。

そういえば、東京都の公立高校で、
学力による3分類が始まる、というニュースを読みました。
基礎・応用・発展…都立高、学力レベルで3分類(2013年3月28日14時32分 読売新聞)
これにも、「学校の序列化につながる」との声があるそうです・・・
教師が競争を否定的に考えても、世の中「競争」で成り立っているわけです。
否定的な方ばかりに目を向けるのではなく、
「努力すれば報われるのだ!」という肯定的な方にも、目を向けるべきでしょう。

2013年3月27日 (水)

横浜・東京 夜景と桜めぐり(2013年3月)

北海道の3月はまだ「雪の華」が真っ盛りですが、
本州では既に桜が咲いていますね。
先日、妻と一緒に東京方面に行く機会がありました。
横浜と東京のあちこちで桜が咲き誇っていました。
今回は美しい桜の写真と、横浜の夜景を御覧ください。
たくさん撮った中から、10枚を披露します。
横浜での宿泊先は横浜ロイヤルパークホテルでした。
東京では、新宿御苑と千鳥ヶ淵(夜桜)に行きました。

滞在したホテルから見えた横浜の夜景
(横浜ロイヤルパークホテル)
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同上
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ホテルから見えた朝焼け
(※宿泊したのは61階でした!)
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※松田聖子さんの歌「瑠璃色の地球」を想起しました・・・


ホテル横の「さくら通り」
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同上
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妻が撮った、新宿御苑の椿
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新宿御苑の桜(遠くに見えるのは「NTTドコモ代々木ビル」です。)
※なんとなくニューヨーク的な雰囲気?
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同上
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千鳥ヶ淵の夜桜
(妻は「ボートに乗ってみたかった・・・」と言ってました。
時間の関係でできませんでしたが・・・
先日テレビのニュースに出ていたので、ぜひ行ってみたかったのです!
妻は新宿御苑よりもこちらの方が気に入ったようです。)
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同上
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ごらん、冬は去り、雨の季節は終った。
花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。

(旧約聖書 雅歌2:11〜12新共同訳)

2013年3月24日 (日)

妻と一緒に2日連続カラオケ三昧・・・

カラオケはお好きですか?
私は歌うことが好きですが、カラオケ店に行った事はあまりありません。
(マイクを使うよりも、マイクなしで高らかに歌う方が向いています。)
私はどちらかというと付き合いが悪い方なので(スイマセン・・・(゚ー゚;)、
宴会の2次会に出ることは滅多にありません。
そのため、カラオケ店に行ったことは、
職場や合唱団での付き合いで7〜8回(多くても10回前後?)と、
妻と結婚する前に1回、
妻と結婚してから妻と妻の友達を伴い1、2回行ったきりです。

先日、ふと妻が「カラオケに行ってみる?」と言ってから、
しばらく経って、ようやく昨日(2013.3.23)、
カラオケ店に行くこととなりました。

2時間だけやってみよう、ということになり、
いざ歌い始めたら・・・
あっという間に時間が経ち、
妻は「もう30分延長しよう!」と言い出すほどでした。
(都合により延長はしませんでしたが・・・)
カラオケ店に行き慣れていないので、
結局、2時間ドリンクもなしでひたすら歌いつづけました・・・

妻も私も満足だったので、今日(2013.3.24)もカラオケ店に行ってしまいました。
ところでいざ選曲するとなると、なかなか曲名や歌手名を思い出せないものですね。
だから、あらかじめ自分の歌いたい曲を前日に20曲ほど調べておいてリストを作り、
お店でどんどん歌いたい曲を入れまくりました。
私どもは、夫婦ふたりだけなので、余計なお世辞も盛り上げも気遣いもなく、
ひたすら自分の歌いたい曲を次々と歌いつづけました。
今回は3時間プラン。
それでも足りないぐらいだったほど・・・
2人で50曲ぐらい歌ったと思います。
(1番だけ歌うなら可能ですよ)

私ども夫婦は、どちらかというと、最近の曲はあまりわかりません。
70年代〜90年代のヒット曲や、英語の歌、
ミュージカルの曲などを好んで歌いました。
(職場の宴会ならヒンシュクものかも・・・)

私はカラオケでは5種類ぐらいの声音で歌い分けます。
「アルプスの少女ハイジ」の主題歌「おしえて」を裏声で歌ったと思えば、
「宇宙戦艦ヤマト」を低い声で歌い、
かたや平井堅の「瞳を閉じて」や森山直太朗の「さくら(独唱)」を
ハイトーン(ファルセット)で歌い、
女性が歌う曲をかわいらしい声で歌ってみるなど、
いろいろやりたい放題できました。

高校生の頃好きだったアンディ・ウィリアムスの”Moon River"や、
ディーン・マーティンの"Everybody Loves Somebody Sometimes"のような、
低い渋めの声の曲は得意です。
「千の風になって」なら、かなり上手にマネすることが可能です。

自分にとって歌う効果が上がる、英語の曲やクラシック的な曲とは別に、
もともと好きな日本の歌をあえてベスト5として挙げるとしたら・・・
1.瑠璃色の地球(松田聖子)
2.雪の華(中島美嘉)
3.恋におちて(小林明子)
4.夢をあきらめないで(岡村孝子)
5.想い出がいっぱい(H2O)
だいたいこの5曲はカラオケをやる際に入れたい曲です。

妻と一緒に歌う大きな喜びの1つは、デュエットができることです。
ミュージカルの「ウェストサイド物語」の"Tonight"や、
「オペラ座の怪人」の"Phantom of the Opera"や"All I ask of you"など、
少し難しいけど挑戦のしがいがある曲が、カラオケで歌える時代なのですね・・・

妻が歌ったベスト3は・・・
1.秋桜(コスモス)(山口百恵)
2.涙そうそう(英語版)(ヘイリー)
3.蕾(英語版)(ヘイリー)
その他いろいろありますけど・・・

休日の昼間に行くと、ソフトドリンク飲み放題・3時間歌い放題で、
1人600円という安さでした!
また妻と一緒に行こうかな・・・

2013年3月20日 (水)

書評:ティモシー・ケラー著『偽りの神々〜かなわない夢と唯一の希望』(いのちのことば社)※原題:Counterfeit Gods: The Empty Promises of Money, Sex, and Power, and the Only Hope that Matters (by Timothy Keller)

人の子よ、この人々は偶像を心に抱き
彼らをつまずかせる罪を目の前に置いている。
それなのに、わたしは彼らの求めに応じられようか。

(旧約聖書エゼキエル書14:3新共同訳)
※下線部筆者による。

「偶像礼拝」といえば、目に見える仏像とか何かの神々の像を拝む、
ということを指しますね。
(カトリックの方々なら聖母マリア像や大天使ミカエル、
あるいは、イエス・キリストの像を「崇敬」(※「崇拝」ではなく)している、
と答えますが、たとえキリスト教のイメージのものであっても、
本来的には「偶像礼拝」の範疇にいれた方がいいと私は考えています。
まぁ、どうしても、見ないと信仰がわかない、というなら、
「必要悪」かな、とも思いますが・・・)
プロテスタントの方々なら、「私は偶像崇拝なんかしていない。」と、
誇らしげに言うかもしれません。
しかし、「偶像」とは果たして、目に見える神々や仏の像だけなのでしょうか?

今回紹介します、
ティモシー・ケラー著『偽りの神々〜かなわない夢と唯一の希望』(いのちのことば社)は、
目に見える偶像ではなく、
クリスチャンかそうでないか問わず、たぶん大多数の人の心の中にある、
さまざまな「偶像」について論じています。
原題は、"Counterfeit Gods: The Empty Promises of Money, Sex, and Power, and the Only Hope that Matters"です。


偽りの神々~かなわない夢と唯一の希望~

>いのちのことば社のサイトでも入手できます。


原著:Counterfeit Gods: The Empty Promises of Money, Sex, and Power, and the Only Hope that Matters

心のなかの偶像、とは一体なんでしょう。
「愛(セックス)」、「金」、「成功」、「権力と栄光」といったものだけでなく、
ある意味、何でも「偶像」になりえるのです。
本書では聖書の人物たち
(アブラハム、ヤコブとその妻ラケルとレア、ザアカイ、ナアマン、
ネブカドネザル、ヨナ)の物語を通して、
現代における心の中の偶像を取り扱い、偽りの「偶像」から、
主イエス・キリストにある恵みと解放への道を示してします。

本書をじっくり読んでいくと、自分自身の心の中にも、
やはり多くの「偶像」があるんだなぁ・・・と実感しました。

本書の第5章「権力と栄光」の中で、
C・S・ルイスの「ナルニア国物語」シリーズの1つ、
朝びらき丸 東の海へ』への言及があります。
(20代前半の時に読みましたが・・・)
貪欲から竜に変身してしまったユースチス少年が、
ライオンのアスラン(イエス・キリストがモチーフ)によって、
元の人間の姿に戻されるところを引用し、このように解釈しています。

(P.162から引用)
 文中のアスランというライオンはキリストを表しているのですが、物語はすべてのクリスチャンが発見する事柄、つまり高慢は死と破滅、人間性の喪失を招くということについて証明していると言えるでしょう。しかし、その中で苦々しい感情に埋もれるのではなく、謙虚になり自分ではなく神の栄光を求めることを選ぶなら、自身のプライドの死は、その復活へとつながるのです。暗闇の中から閉ざされた心ではなく、柔軟な心を持った、本来あるべき人間としてついに浮上できるのです。
(引用終)

20代の頃に読んだ時には気づかなかった、
物語の象徴性に気づくことができたのは有益でした。


朝びらき丸東の海へ―ナルニア国ものがたり〈3〉


本書の結論部は少し物足りない気がしますが、キリストへの道を指し示しています。
あとは、読者が自分の歩む道を顧みて、正しい道に進むかどうかですね・・・
(P.214〜215から引用)
 偶像礼拝は、単に神に従うことに失敗することではありません。むしろ自分の心が神以外の何かのために生きている、という状態です。この症状は、偶像があることを認め、悔い改めるだけでは十分な治療にはなりません。意思の力をもって、違う生き方をしようと努めることも、効果はありません。偶像から背を向けるには、以上のような治療方法だけではなく、それ以上の何かが必要です。「いのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるから・・・・・上にあるものを求めなさい」(コロサイ3・1〜3)とは、イエスがあなたのためにしたことを感謝し、喜び、そこに憩うことを意味します。その結果として、喜びに満ちた礼拝、祈りの中に神の存在を実感するようになります。そうやってイエスを想像すると、今までよりももっと美しく、あなたが今まで持ってきた偶像よりももっと魅力ある存在になるはずです。それが偽りの神々を置き換えるという作業です。
(引用終)

気づかないうちにいつの間にか、心の中に祀られている偶像・・・
そういう存在があるということに気づくのが、
イエス様にある真の解放、真の自由への第一歩ですね。

あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。
(新約聖書ヨハネによる福音書8:32新共同訳)

2013年3月19日 (火)

全き赦しを受取るには?〜赦しの実感がわかないクリスチャンの方々へ

わたしは罪をあなたに示し
咎を隠しませんでした。
わたしは言いました
「主にわたしの背きを告白しよう」と。
そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを
赦してくださいました。

(旧約聖書 詩編32:5新共同訳)

クリスチャンとして歩んでいるからといって、
罪と無縁になるわけではありません。
(この私もそうです・・・)

ところで、洗礼(バプテスマ)の意義・効果としては、
(カトリック)
洗礼は、原罪、すべての自罪、また罪ゆえのすべての罰をゆるします。また成聖の恩恵、すなわちキリストとその教会に結び合わせる義化の恵みによって三位一体の神のいのちにあずからせます。そしてキリストの祭司職にあずからせ、すべてのキリスト者との交わりの土台をなします。さらに対神徳と聖霊のたまものを与えます。受洗者は、キリストの消えない証印(霊印)をしるされ、永遠にキリストのものになります。
(『カトリック教会のカテキズム要約(コンペンディウム)』263⇒P.153)
(プロテスタント※福音派)
キリスト教のバプテスマは、バプテスマのヨハネによるキリスト以前のバプテスマのような儀式的な洗いのかたちをしており、内的なきよめと罪の赦し(使徒22・16、Ⅰコリント6・11、エペソ5・)、御霊によってもたらされた新生と新しいいのち(テトス3・5)、そしてキリストにあって永遠に守られることを証言し保証する聖霊の内在という神の証印(Ⅰコリント12・13、エペソ1・13〜14)を表すために、神が与えたしるしである。
J・I・パッカー著『聖書教理がわかる94章 キリスト教神学入門』(いのちのことば社)
の「78 バプテスマ」P.262から引用)
(※下線は筆者による。)
というものが挙げられます。
すなわち、カトリック・プロテスタントの共通理解として、
「洗礼(バプテスマ)によって、洗礼以前のあらゆる罪が赦される」
という信仰理解が成り立ちます。


カトリック教会のカテキズム要約(コンペンディウム)


聖書教理がわかる94章~キリスト教神学入門~

※キリスト教書店に行った方が入手しやすいです。
いのちのことば社のサイト

原著:Concise Theology: A Guide to Historic Christian Beliefs


とはいえ、日々生きていく上で、知らず知らず、
あるいは意図的に、罪を犯してしまうことが多いですね。
聖書にも、
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。
(新約聖書ヨハネの手紙Ⅰ1:8〜10新共同訳)
とあるように、人間だから罪を犯してしまう傾向は、死ぬまで続くのでしょう・・・

では、罪(ここでいう「罪」とは、「主の御目から見て」です。
通常の日本語での「犯罪」も含まれますが・・・
大多数の人には、「犯罪」の部類の「罪」は無縁ですね・・・
むしろ、神を中心としていない生き方、というのを考えてみるといいでしょう。)
が赦されるには、どうすればいいのでしょう?
カトリック信者なら、「司祭に告解する(ゆるしの秘跡をいただく)」であり、
プロテスタントであれば、余計な仲介者を立てず、
ストレートに主に罪を告白します。
(24時間、365日年中無休で赦しが受けられます!)

ただ、ここで問題になるのが、
「赦された!!!!!!」という実感なのでしょう。
何度罪を告白しても、その事を思い出す(フラッシュバック?)・・・
赦されたという実感がわかない・・・
感激がない・・・

気持ちを問題にすれば、たぶんいつまで経っても、
「赦された!」という手応えを得ることはありません。
そもそも、「(霊的な何かを)感じた」から、
あるいは「感じなかった」から、「赦された」とか「赦されていない」、
ということになるのでしょうか?
感じに頼る信仰は危ういものがあります。

大切なのは、主のご約束である御言葉に堅く立つことです!
感じたか感じなかったかではなく、信仰によって、
「確かに得た!」と受け取ることです。
主が「赦す!」といったら、「赦される」のです!

ある方から、赦しのこと(実感がわかない)について聞かれて、
イザヤ書からの御言葉を正確に引用しようとしたのですが、
たまたまその時見つからなかったので
(主の完全な赦しについては、きちんと語ることができましたが・・・)、
今回書いてみました。
私が引用したかったのは、この御言葉でした。

見よ、わたしの受けた苦痛は
平和のためにほかならない。
あなたはわたしの魂に思いを寄せ
滅びの穴に陥らないようにしてくださった。
あなたはわたしの罪をすべて
あなたの後ろに投げ捨ててくださった。

(旧約聖書イザヤ書38:17新共同訳)

私がその時説明に使ったのは、次の御言葉でした。
同じくイザヤ書からです。

わたし(=主)、このわたしは、わたし自身のために
あなたの背きの罪をぬぐい
あなたの罪を思い出さないことにする。

(旧約聖書イザヤ書43:25新共同訳)

主は24時間私を、あなたを、私達を見守ってくださる(詩編121:4〜5)、
すばらしいカウンセラー(イザヤ9:5)なのです!
秘密は厳守、相談無料、必ず悩みは解決できます!

主は再び我らを憐れみ
我らの咎を抑え
すべての罪を海の深みに投げ込まれる。

(旧約聖書ミカ書7:19新共同訳)
罪が海の深みに投げ込まれたら、誰も探索できませんね・・・

主はお前の罪をことごとく赦し
病をすべて癒し
(中略)
主はわたしたちを
罪に応じてあしらわれることなく
わたしたちの悪に従って報いられることもない。
(中略)
東が西から遠い程
わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。

(旧約聖書詩編103:3、10、12新共同訳)

神様の姿や声が見えず・聞こえずとも、信じるのと同じように、
私たちのちっぽけな感情ではなく、主の広大な憐れみと赦しの御約束を信じ、
受け取ろうではありませんか!
主が赦されていないのではなく、私達が受け取っていないだけなのです!

疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたし(=主イエス)のもとに来なさい。
休ませてあげよう。

(新約聖書マタイによる福音書11:28新共同訳)

2013年3月18日 (月)

聖女マザー・テレサも、見方を変えてみると・・・

マザー・テレサといえば、
20世紀のキリスト教の偉人ですね。
カトリック、プロテスタント問わずキリスト教界で尊敬され、
果ては他宗教やスピリチュアリズムの方々からも称賛されています。
世俗の最高栄誉の1つ、ノーベル平和賞をも受賞していますね。
まさに「絶対聖女」、「生ける聖人」といったところです。
カトリックでは、既に2003年(没後わずか6年)で、
「聖人」の一歩手前の「福者」に認定されています。
「聖人」となるのは時間の問題でしょうね・・・

ところで先日、マザー・テレサについてのある記事を読みました。
聖女ではなかったマザー・テレサ 「洗脳看護」「カルト施設」、その実態とは!?」
(ハピズム 2013.03.13 水)

この記事から一部引用します。
(引用)
 去る3月2日、インドの日刊インターネット新聞「The Times of India」に、「Mother Teresa 'saint of the media', controversial study says」とのタイトルで、マザー・テレサのこれまでのイメージがメディアによって作られたものであるという研究結果が出たと、掲載された。

 マザー・テレサといえば、貧困や病気にあえぐ弱い人たちの救済活動に生涯を捧げた、カトリック教会の修道女。修道会「神の愛の宣教者会」の創立者でもある彼女は、"無償の愛"の代名詞のように伝えられており、今なお、世界中の人々から崇め、慕われている。しかし、カナダの宗教学専門誌「Religieuses」最新号で大学の研究者が発表した論文によると、マザー・テレサの美談や名声は、カトリック教会の誇大宣伝のためにデッチあげられたものであり、聖人には程遠い人物だったというのだ。(中略)
 彼らは、マザー・テレサに関する文献資料、約300件を調査し、「マザー・テレサが世界中に開設した517もの『死を待つ人々の家』ホスピスは、衛生状態が悪く、医薬品も慢性的に足りず、満足な治療が施せなかったと報告されている。しかし、彼女の修道会『神の愛の宣教者会』は何百万ドルもの多額の寄付金を受けており、金銭的に困っているわけではなかった」という事実を突き止めたと発表。そして、「マザー・テレサは、患者の痛みを和らげることはせず、痛みに耐えることを賛美して癒やすという、怪しげなことをしていた。多くの病人が、彼女の元を訪れれば、医師が治療をしてくれると思っていたにもかかわらず、彼女は、イエス・キリストの受難のように、痛みに耐えることは尊いことだと繰り返し言うだけだった」「人気が低迷しつつあったバチカンは、劣悪な環境で痛みに苦しむ人たちに『あなたは素晴らしい人間なのよ』と優しく接している、マザー・テレサのことをまさに“生きる聖女”だと大げさに宣伝することで、カトリックのイメージアップを図ろうとした」と指摘した。

 また、「バチカンは異例の早さで彼女を福者だと宣言したが、“痛みに耐えろ”という、怪しげな看護方法、問題点の多い政治家とのコネ(ハイチやアルバニアの独裁者を支持し多額の寄付金を得たという説がある)、多額の寄付金の管理に関する疑問点、そして、中絶、避妊、離婚に関して過度に批判していた点などは、一切、問題としなかった」とも綴っており、事実を知れば知るほど、マザー・テレサの神話はでたらめだということが明確になるとしている。
(引用終)※詳細は引用元でお読みください。

数年前に、マザー・テレサの「心の闇」が明らかにされましたが
(⇒マザー・テレサの「心の闇」の問題
※スピリチュアル系の記事なので半分くらいしかおすすめできませんが・・・)、
内面はともかく、外面に現れた行動を、
「聖女・聖人」という色メガネを外して見たら、
なるほど、違ったイメージが浮かび上がって来ますね。
なお、この記事が掲載されたのは、占いやスピリチュアル系のポータルサイトです。
記事自体が悪意に満ちた、うさんくさいものかもしれませんことを、
一言付け加えておきます。

記事の中の、
(引用)
「マザー・テレサが世界中に開設した517もの『死を待つ人々の家』ホスピスは、衛生状態が悪く、医薬品も慢性的に足りず、満足な治療が施せなかったと報告されている。しかし、彼女の修道会『神の愛の宣教者会』は何百万ドルもの多額の寄付金を受けており、金銭的に困っているわけではなかった」
(引用終)
というところを考えてみれば、
死にかけている人の治療を放棄して、
「痛みに耐えなさい」と「信仰による虐待」をしていたことになります。
にわかには信じがたい話ですが、確かに見方を変えればそうなりますね・・・

私も信仰の道を歩み始める際、
マザー・テレサ(と聖フランチェスコ)の存在・言動に大きく影響を与えられました。
今更こういう記事を読んだからといって、信仰が揺らぐわけではありませんけど・・・

どうも、カトリックの体質である、聖人を作りたがる傾向には辟易します。
(プロテスタント教会だって、ルターやカルヴァン、シュヴァイツァー、
ボンヘッファーやバルト、キング牧師や、
身近な牧師先生を必要以上に「崇める」なら、
聖人崇拝をしているに等しいのデスヨ。)
完璧なのはイエス様だけで十分なのです!

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。
(新約聖書ヘブライ人への手紙12:1〜2新共同訳)

2013年3月17日 (日)

圧巻!キム・ヨナの女王復活〜フィギュアスケート:世界選手権・女子シングル・フリー(2013年3月17日放送)

2013年のフィギュアスケート:世界選手権の女子シングル、
キム・ヨナ選手の女王復活の演技はやはり見事でしたね!
圧巻!という言葉しか思い浮かばないぐらい・・・
<世界フィギュア>女子 キム・ヨナが優勝 浅田は3位
毎日新聞 3月17日(日)12時18分配信

女子シングル・フリーで148.34点というのは、驚愕のスコアでした!
キム・ヨナ選手のショートプログラムの選曲は???(はっきり言って悪趣味)でしたが、
フリーは、再起にかける思いがひしひしと伝わってくるような、
すばらしいものだと思いました。
(使用曲:クロード=ミッシェル・シェーンベルク ミュージカル「レ・ミゼラブル」より

※上記はこちらのサイトから引用しました⇒
金妍兒[キム・ヨナ] 世界選手権2013 フリー演技 (解説:イタリア語・ルーマニア語・ロシア語・イギリス英語)

真央ちゃんの演技もすばらしいものではありましたが、
やはり相手は別格すぎた感じがありました。
(こちらはSP、フリー共に好選曲ですね!)

その他で印象に残ったのは、
2位のカロリーナ・コストナー選手の「ボレロ」。
アクシデントにもかかわらず、すらっとした長い手足を十分に生かして、
バレエのような見事な美を堪能させてくれました。

あとは、7位のジジュン・リ(李子君)選手。
かわいらしさ故、「中国の真央ちゃん」になれそうな予感・・・

アシュリー・ワグナー選手はもうちょっと伸びそうだったのに、
ミスが響いてちょっと残念でした。

村上選手は健闘しましたが、鈴木選手はちょっと残念・・・
(どちらかというと日本選手のうちでは鈴木選手を応援することが多いのですが・・・)
ともあれ、ようやく真の世界女王の実力を堪能できた、
見応えのある大会でした。

2013年3月16日 (土)

新ローマ教皇フランシスコへの期待と、ヨハネ黙示録におけるカトリックへの預言

新しいローマ教皇、フランシスコ1世の初ミサのニュース記事を読みました。
新ローマ法王、初のミサでカトリック教会の改革訴える
2013年03月15日 07:04 発信地:バチカン市国

(※日本では「ローマ法王」と表記されることが多いですが、
正しくは「ローマ教皇」です。)
(追記2:当初、「フランシスコ1世」と記載していましたが、
「フランシスコ2世」を名乗る教皇が今後出てきた場合から、
「フランシスコ1世」と呼称されるそうです。
ですから、現在の教皇名は「フランシスコ」が正しい、とのことです。
新聞等でも2013年3月20日から表記変更されていますので、
この記事においても以下の文章では「1世」を削除し、タイトルも訂正しました。
なお、ニュース記事からの引用はそのままとします。)
法王の呼称は「フランシスコ」に
2013年3月19日(火)22時24分配信 読売新聞

記事を引用します。
(引用)
【3月15日 AFP】中南米出身者として初めてローマ法王に選出されたフランシスコ1世(Francis)は14日、バチカンのシスティーナ礼拝堂(Sistine Chapel)で初のミサを行い、カトリック教会は改革に失敗すれば、精神的な基盤のない慈善団体になってしまうと警告した。

 フランシスコ1世は、先日の法王選挙で自らを選出した枢機卿らを前に、カトリック教会は「思いやりのあるNGO(非政府組織)」で終わってしまう可能性があると述べた。

「私たち全員に、主の面前を歩んでもらいたい。歩むこと、作り上げること、告白することは簡単ではない。時には震えにも襲われるだろう」
(引用終)
※下線部は筆者による。

「精神的な基盤のない慈善団体」、「思いやりのあるNGO」・・・
強烈な表現ですね。
短いニュース報道だと、真意が歪曲されている場合もありますので、
教皇フランシスコのコメントを全文引用します。
バチカン放送局」(日本語版)のサイトに掲載されています。
(引用)
「この3つの朗読には共通する何かがあるように思われます。それは「動き」ということです。第一朗読において、その動きは歩みの中にあります。第二朗読では、その動きは教会を築くことにあります。3つ目に福音朗読において、その動きは信じることにあります。歩くこと、築くこと、信仰を告白することです。

歩くこと。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」(イザヤ2,5)。これは、神がアブラハムに最初に言ったことです、わたしの現存のもとに歩き、非の打ち所のない者でありなさい。歩くこと。皆さんの人生は歩みであり、わたしたちが止まっている時は、物事は順調ではないのです。主のもとを、主の光のうちに、神がその約束においてアブラハムに望んだその完璧さを生きるよう努力しながら、いつも歩くことです。

築くこと。教会を築くことです。ここでは石のことを言っています。石にはずっしりとした中身があります。しかし、それは生きた石、聖霊によって祝別された石です。主ご自身である隅の親石の上に、キリストの花嫁である、教会を築くことです。築くこと、これがわたしたちの人生のもう一つの動きです。

3番目は、信仰を告白することです。わたしたちは歩きたいだけ歩けますし、多くのものを築けますが、イエス・キリストへの信仰を告白しないなら、それは何かが間違っているのです。わたしたちは慈善団体になってしまい、主の花嫁である教会ではないのです。歩かない時、わたしたちは止まっています。わたしたちが石の上に築かない時、何が起きるでしょうか?子どもたちが浜辺で砂の城を作る時に起きることが起きるのではないでしょうか。すべてが、何の中身もなく崩れてしまうのです。イエス・キリストにおける信仰を告白しない時、わたしにはレオン・ブロイの言葉が思い起こされます、「主に祈らない者は、悪魔に祈る」のです。イエス・キリストへの信仰を表さない時、悪魔の虚飾を信仰しているのです。

歩くこと、築くこと、信仰を告白すること。しかし、そうは簡単ではありません。なぜなら、歩くこと、築くこと、信じることにおいて、時に振動が起き、歩みとは言えない動き、わたしたちを後ろに引き戻す動きが起きるからです。

この福音には、特別な状況が続きます。イエス・キリストへの信仰を告白したペトロ自身が言うのです。あなたはキリスト、生ける神の子です。わたしはあなたに従いますが、十字架のことは話さないようにしましょう。これは関係のないことです。別の方法をもって、十字架なしで従います、と。わたしたちが十字架なしに歩き、十字架なしに築き、十字架のないキリストへの信仰を言い表す時、わたしたちは主の弟子ではないのです。その時、わたしたちは虚栄の世界の者なのです。わたしたちは司教、司祭、枢機卿、教皇ではあっても、主の弟子ではないのです。

わたしはこの恵みの日々の後に皆さんに望みます。わたしたちが勇気を持つこと、主の現存のもとに、主の十字架と共に歩み、主が十字架上で流された御血の上に教会を築き、唯一の栄光、十字架につけられたキリストへの信仰を宣言する勇気を持つことです。こうしてこそ教会は前進することができるのです。

わたしたちの母である、聖母への祈りのために、聖霊がわたしたち皆に、歩み、築き、十字架につけられたイエス・キリストへの信仰を表す恵みを与えてくださいますように。アーメン。」
(引用終)

新教皇の教会改革への意思が明確に表れていますね。
教皇名に「フランシスコ」を使ったのも、
アッシジの聖フランチェスコを意識し、
教会改革を成し遂げたい、という思いが入っているのでしょう。
現在のところ、新教皇には期待したいと思っています。

ところで、ヨハネ黙示録において、カトリック教会が預言されているという説があります。
ヨハネ黙示録2章、3章の「7つの教会にあてた手紙」に表されている、
7つの教会とは、実は7つの時代のキリスト教会のあり方だ、というものです。
・エフェソの教会〜使徒時代の頃
・スミルナの教会〜ローマ帝国下での迫害の時代の頃
・ペルガモの教会〜国教化された時代(中世)
・ティアティラの教会〜カトリック教会
・サルディスの教会〜宗教改革〜18世紀頃までのプロテスタント
・フィラデルフィアの教会〜伝道熱心だった頃のプロテスタント教会
・ラオディキアの教会〜現在、終末の教会

2章終わりの「ティアティラの教会」というのが、
カトリック教会を指す、と言われています。
ティアティラの教会は、最初に主イエスからほめられています。
わたし(=主イエス)は、あなた(=ティアティラの教会)の行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っている。
(新約聖書ヨハネの黙示録2:19新共同訳)
確かに、慈善活動では、カトリックはプロテスタントよりも進んでいるほどです。
(全世界で展開される「カリタスCaritas」とか・・・)
しかし、この教会には大きな問題点があります。
しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている。
(新約聖書ヨハネの黙示録2:20新共同訳)
「イゼベル」とは、旧約聖書の列王記上・下に出てくる、
イスラエル史を代表する悪女の名です。
ここでは、度を超えた聖母・聖人崇拝のたぐいを指しているのでしょう。

教皇フランシスコが指摘しているとおり、
土台は聖母・聖人崇敬や中世の伝統などではなく、
十字架のキリストなのです!
(引用)
主の現存のもとに、主の十字架と共に歩み、主が十字架上で流された御血の上に教会を築き、唯一の栄光、十字架につけられたキリストへの信仰を宣言する勇気を持つことです。
(引用終)

カトリック教会というと、
プロテスタントの方は「堕落した教会」というイメージで見ていることが多いです。
しかし、よくヨハネ黙示録を読んでみてください。
フィラデルフィアの教会を除けば、
どの教会も、たいてい叱責を受けているのですよ。
カトリックも、「勝利を得る者」(ヨハネ黙示録2:25〜26)がいるのです。
共通の基盤は、やはり御言葉であり、主イエス・キリストへの信仰です。
カトリック教会の改革も、どれだけ御言葉に立ち返り、
主イエス・キリストへの信仰に立ち返るかにかかっています。
(司祭の独身制とか、妊娠中絶・避妊の問題とか、さまざまあるでしょうが・・・)

アベノミクスという目先の繁栄と引き換えに、言論の自由を失っていいのか?〜おすすめ記事「「TPP参加」大合唱 大新聞テレビの身勝手- ゲンダイネット」

安倍総理の「アベノミクス」、マスコミでは大絶賛ですね。
新聞でも、TPP交渉参加を歓迎するムード一色です。
TPPへの参加は、
自ら不平等条約で縛られに行くようなものではないかと危惧しています。
本来ならもっと反対意見が出ていいはずなのに、
日本ではもはや野党が機能せず(民主党の存在異議はゼロに近いです。)、
きちんとNO!を言えるのは日本共産党だけ、というのが痛々しい限りです。
(安倍人気の前にか細い声・・・)
※民主党政権は確かにダメでしたが、
少なくとも原発事故前までは、言論の自由があったと思います。

マスコミ報道について、こういう記事を読みました。
「TPP参加」大合唱 大新聞テレビの身勝手- ゲンダイネット
(2013年3月16日07時00分)

(引用)
ご都合主義は許しがたい。「交渉参加を決断する時だ」(毎日新聞)、「速やかに参加の手続きを進めて、国益を確保すべきだ」(読売新聞)……などと、TPP(環太平洋経済連携協定)参加を煽(あお)りまくる大新聞テレビのことだ。

TPPで外資が日本市場に本格参入すればメディアだって自由競争の波にさらされる。それを覚悟の上で、それでも「国益」のために国民に参加を訴えるなら、まだ理解できるのだが、そうじゃない。例によって「オレたちだけは助けて」なのだ。

「TPPに関する自民党外交・経済連携調査会が2月末に『TPP交渉参加に関する決議』を採択しました。その中にメディアについて、『放送事業における外資規制、新聞・雑誌・書籍の再販制度や宅配についてはわが国の特性を踏まえること』なんて一文が盛り込まれているのです。大新聞テレビが押し込んだのは明らか。つまり、オモテでは『TPP参加で日本経済を強くしろ』と声高に叫び、反対する農協などを暗に批判しながら、ウラでは狡猾な動きをしているのです」(経済ジャーナリスト)
(引用終)

せっかく与えられている言論の自由を、「アベノミクス」という目先の繁栄のために、
失っていいものなのでしょうか?
何でも政府のやる事に反対というわけでもないし、
むしろ現政権のいいところは評価しているつもりです。
だからこそ、阿諛追従よりも、
厳しい目で政権の暴走を監視しなければならないのに、
マスコミが既得権を守るのに汲々では、日本の未来が危ぶまれます。
気がついたらファシズム国家になっている・・・
そんな悪夢さえ、現実になるかもしれませんよ・・・

TPP参加のデメリットは、農業だけではないのです!
目先の利益を取るか、長期的な視点での、真の国益を取るか・・・

TPP亡国論 (集英社新書)

ゴーマニズム宣言スペシャル 反TPP論

TPPと日本の論点 (農文協ブックレット)

2013年3月15日 (金)

書評:奥田健次著『メリットの法則』(集英社新書)&『子育てプリンシプル』(一ツ橋書店)〜不登校問題等への有効なアプローチとなるか?

先日、著者の奥田健次氏がNNNドキュメントに出ていて、
その働きぶりに興味を持ち、
著書の『子育てプリンシプル』(一ツ橋書店)と、
メリットの法則』(集英社新書)を買ってみました。
(過去記事があります。)
NNNドキュメント’13「口は悪いが腕はいい…自閉症の子を救う男わが子に起きた奇跡」(2013年2月18日放送)

著者は、「行動分析学」を使って、次々と不登校や、
5歳未満の子の自閉症・発達障がいに伴う問題行動を次々と解決してきました。
不登校の問題といえば、いじめとか世の中の変化、
その他様々な「心の問題」が原因とされるのが定説ですね。
「心の問題」だから、「もう少し様子を見ましょう」といった、
「時がすべてを解決してくれる」かのような処方が出されやすく、
結局、不登校を長期化させている面があります。

メリットの法則』の、
第5章「行動は見た目よりも機能が大事」のP.129〜154において、
特に不登校の問題と、その解決方を見事に提示しています。
(もちろん、学校でイジメがない、というのをしっかり確認する必要がありますが・・・)
カウンセリングとか薬物治療といったものではなく、
親のしっかりとした意思さえあれば、おそらくどんな家庭でも実践可能なものです。
(ぜひ読んでみてください!)

従来、「心の原因」とか、「小さい頃のトラウマ」といったものに、
心理的な原因を求める事が多かった心理学。
しかし、難解な分析がたとえできても、
その人の問題行動を変えることができなかったら、意味がないか、
あきらめで終わってしまいますね。
「行動分析学」では、「心の中身」よりも、
行動に伴うメリットを探り、それを強めたり、弱めたりすることによって
(「アメとムチ」ならぬ「アメとアメなし」と著者は表現しています。)
行動を変える確かな指針を提案しています。
『メリットの法則』は「行動分析学とは何ぞや?」という入門書として、
とてもオモシロイものだと思います。

子育て世代の方々にとっては、
子育てプリンシプル』(一ツ橋書店)がオススメです。
「プリンシプル」とは「原理・原則」です。
子供のいいなりになる甘やかし親にとっては、実に耳の痛い本です。
要は、ルールが大事、ということなのです。
たとえば、「おやつのグミは1個だけ」と子に約束したら、
どれだけわめこうと、暴れようとも、「1個だけ」を徹底して守る・・・
(P.25〜31参照)

「子供は二十歳になったら家から出てけ」を3,4歳から子に言い続け、
自立を促す(P.85〜96)といったところなど、
今日の引きこもり・ニート対策に役立つと思いました。

メリットの法則』では、「好子」、「嫌子」、「行動随伴性」といった、
行動分析学の専門用語がたびたび出てきて、少しわかりにくいところもありますので、
子育てプリンシプル』から読む方をおすすめします。
不登校や子供のワガママに悩む親への「福音」となるかもしれません。


メリットの法則――行動分析学・実践編 (集英社新書)


子育てプリンシプル

2013年3月14日 (木)

立ち読み日記〜諏訪哲二著『いじめ論の大罪 - なぜ同じ過ちを繰り返すのか? 』(中公新書ラクレ) 〜批判はするけど、処方はなし・・・

新聞広告で見たので、興味を持って立ち読みしましたが・・・
今回取り上げるのは、
諏訪哲二著『いじめ論の大罪 - なぜ同じ過ちを繰り返すのか? 』(中公新書ラクレ) です。
著者は「プロ教師の会」代表です。

いじめ問題の解決案については、百花繚乱状態が続いていましたが、
今や教師の体罰問題の方が取り上げられることが多くなって、
少し影が薄くなってきていますね。

著者は第3部「主要ないじめ論を検証する」として、
尾木直樹氏や大阪市の橋下市長、宮台真司氏、内藤朝雄氏らのいじめ対策案を批判します。
批判するなら、では、著者の意見は?といえば、なんともよくわからない・・・
結局、現場教師は耐え忍ぶしかない・・・みたいなことしか書いてなかったと思いました。
(立ち読み程度だから、もしかすると、どこかに書いているのかもしれませんが・・・)

批判のための批判でしかない、というなら、某日●組や北●組と大差ありません。
固定観念の枠組から一歩引いたところから、意外な解決法が出るのかもしれませんね。
ただし、著名人をとにかく批判して憂さ晴らしをするのが楽しみ、
という人なら、本書を読んでも大いに得るところがあるでしょう。
傷のなめあいみたいなものですが・・・
いじめ対策がなぜ後手後手になるのか、
そのできない理由づけをする思考を分析するにも最適かもしれません。
(結局、現場教師にいじめ対策を任せても、
できない理由づけをして終わってしまうのはなぜでしょう?)

いじめ論の大罪 - なぜ同じ過ちを繰り返すのか? (中公新書ラクレ)

書評:牧野恭仁雄著『子供の名前が危ない』(ベスト新書)〜キラキラネームをつける親の深層心理とは?

世に「はびこる」キラキラネーム(珍名・奇名)。
さまざまな批判がありますし、私も否定的にしかとらえられません。
(過去何度か記事にしたことがあります。)
キラキラネームと交ぜ書き~小学校での漢字指導と命名の法規制
DQNネーム検定
ビューティフル・ネーム?

牧野恭仁雄著『子供の名前が危ない』(ベスト新書)は、
日本に増殖している珍名・奇名についての分析と、
名付ける側である親の心理を、統計的な資料を使ってひもとき、
また、著者自身の体験(著者自身も珍名・奇名に入ります)から、
見事に解き明かした好著です。

前半に出てくるキラキラネームのオンパレードには、
思わず爆笑してしまいました。

さて、本書の「帯」に出てくる名前からクイズを出してみましょう。
「与夢」で「あとむ」(男)。
「新千絵」で「にーちぇ」(女)。
「夢大」で「さんた」(男)(ここまでで十分ヘン!)
「空海」で「そらみ」(女)。
では、「雄」くんは?(正解は本書P.19でどうぞ!)
※ヒントは、「猛獣」です!

P.4〜5では、20のキラキラネームが書かれています。
まずこれで小手調べ。
私は・・・20問中2問だけ(も?)正解でした。
(1問でも当たるだけで、ある意味嘆かわしいのかも?)

P.18〜19では、もしあなたが小学校1年生の学級担任を受け持つと仮定して、
名簿を見たらキラキラネームばかりだったら・・・というのが書かれています。
早晩、学級崩壊は必至かもしれませんね・・・
第1章が「めずらしい名前など、めずらしくない」とつけられているのは、
とても巧みで適切だと思いました。

第2章は、「名前は子供の人生を決めるのか」と題して、
キラキラネーム(著者は一貫して「珍奇ネーム」と呼んでいます)の子が、
大きくなってからの社会的不都合
(最近では名前だけで就職試験に落とされることさえあるそうです。)や、
果ては男なのに女の名前を付けられたと思い込んだ息子が、
父親を殺害するという痛ましい事件まで紹介しています。

第3章〜第5章こそ、本書の核心です。
明治安田生命が長年統計を取っている、子供の人気ネーム。
たとえば戦時中、戦況が不利になればなるほど、
「勇」とか「勝利」、「進」といった、
戦争の勝利を願うような名前が増えたそうです。
(P.63〜66参考)
また、戦前〜戦後の食糧難の時代には、「茂」、「豊」、「実」といった、
豊作を願う名前が増えたとのこと。(P.66〜68参考)
では、「幸子」、「節子」といった、
貞節や幸福を願う名前に人気があった時代は?
(本書P.68〜70参考)
最近では、キラキラネームの類は別として、
自然に関する名前が多くなっているそうです。その背景は?
(P.82〜84参考)

第4章「奇抜な名を生む深層心理」は、本書の白眉です。
特に著者の名前にまつわるエピソードとその分析は圧巻です。
(P.119〜125)
思わず胸を打たれました・・・

第5章は、これから親になる人と教育者ならぜひ読んでほしいところです。
「名前の読み方は自由なのか?」ということへの根本的な問いかけです。
たとえば「愛」を「あい」ではなく、「あ」とか「い」とか「う」とか、
勝手に読ませるとキリがないですね。
間違った読み方がいつの間にか「正しい」読みになってしまうこともありますが、
今の名前の読ませ方の異常さは完全に文化破壊といえます。

本書から得た大きな知見としては・・・
・名付けには親の欠乏感・劣等感・無力感が反映されている場合が多い。
特に珍名・奇名は顕著。

名前を通して世相と親の心理の関係を見事に読み解いた、
楽しく読みやすいけれどもいろいろと考えさせられる本です。
ところで、著者の名前は、果たしてなんと読むのでしょうか?その由来は?
興味がある方はぜひ手にとってみてください。

子供は親のペットではありません。
いつかは自立していく存在です。
自分の所有物と思って、好き放題でデタラメな当て字の名をつけるのは、
既に虐待・束縛の第一歩なのかもしれません。
キラキラネームは日本文化を壊すのでは?!


2013年3月10日 (日)

書評:ティモシー・ケラー(Timothy Keller)著『「放蕩」する神』(原題:The Prodigal God)〜放蕩息子のたとえの再考

キリスト教書店の新刊コーナーで、
「放蕩」する神 〜キリスト教信仰の回復をめざして』(いのちのことば社)と、
偽りの神々~かなわない夢と唯一の希望~』(同上)という2冊の本を見かけました。
2冊の本の著者は、アメリカの牧師、ティモシー・ケラーTimothy Keller)氏。
どちらも興味深そうな内容でしたが、
「放蕩」する神 〜キリスト教信仰の回復をめざして』の方が厚さが薄かったので、
こちらから買って読んでみることにしました。

偽りの神々~かなわない夢と唯一の希望~

「放蕩」する神 〜キリスト教信仰の回復をめざして

原著The Prodigal God: Recovering the Heart of the Christian Faith

この本の主題は、新約聖書の有名なたとえ話の1つである、
「放蕩息子のたとえ」(ルカ15章)です。
話を要約すれば・・・
二人の息子を持つ父親がいた。
弟は父親の財産の一部の生前贈与を求めた。
父は弟に財産を分け与え、弟は遠い国へ旅立ち、
放蕩の限りを尽くして財産を使い果たした。
ついには食べるのにも困って、
ユダヤ人にとって忌むべき仕事である、
豚の世話をするほどまで落ちぶれた。
そこで弟は父の元に帰ることに決めた。
父親は戻ってきた息子をかわいそうに思い、すべてを受け入れ、
祝宴を開いた。
ところが、兄にとっては、弟が戻ってきて、
父が祝宴を開いているのは実に不愉快だった。
怒って祝宴に入るのを拒否していたところ、
父親がなだめに来る・・・

一般にこのたとえ話は、弟の方にウェイトをおいて、
罪人の悔い改めを喜ぶ父なる神、という説教展開がなされます。

この『「放蕩」する神』においては、
まず、このたとえ話は誰に向けて語られたかを考察します。
聖書から読み解けば、徴税人や娼婦などの「罪人」に対してではなく、
道徳的に正しい行いをしていると自負する、
パリサイ人や律法学者に向けて語られたものです。
(ルカ15:1〜2)

二人の息子、兄と弟を、
著者は「弟タイプ」=徴税人や罪人⇒「自由奔放」なライフスタイルの人々
「兄タイプ」=パリサイ人や律法学者
⇒伝統的な道徳を習慣として身につけ、聖書を勉強し、熱心に礼拝し、祈る人々
(P.22参照)
と位置づけます。
そしてどちらかというと、「弟タイプ」の人々よりも、
「兄タイプ」の心の闇に切り込んでいきます。

従来の解釈では、「失われていた」のは弟で、兄は道徳的に正しかった、
とするものが標準的でした。
しかし著者は、実は兄も弟と同様、「失われていた」と解釈します。
(P.48〜49から引用)
 兄弟二人の心は同じでした。二人とも父親の権威を拒絶し、そこから離れて自由気ままに生きることを望んでいました。二人ともそれぞれ、父親を自分のいいなりにできるだろうと思われる立場に身を置いたのです。それぞれが、つまり、反抗したのです。一人は誰の目にも明らかな反抗を通して、一人は、あまりにもいい子になりすぎることによってです。二人とも父の心からは遠く離れ、つまり、失われていたのです。
 それでは、ここでイエスは何を教えようとしていたのでしょうか。二人とも、父親自身を、父親だからという理由で愛していませんでした。むしろ、自分たちの自己中心的な欲求を満たすために、父親を利用していたのであって、息子として父を愛し、喜び、仕えることをしなかったのです。これは言いかえれば、私たちは誰でも、神に反抗することができるということです。そのおきてを破ることによってはもちろん、そのおきてを忠実に守り行うことを通しても、です。
 ショッキングなメッセージではないでしょうか。神のおきてを注意深く守り行うことは、逆に神に反抗する巧妙な策略ともなりうる、というのです。

(引用終)
そしてさらに、正しさゆえに救い主の必要性をいつの間にか拒否する心理を暴きます。
(P.50から引用)
 あなたはすべての道徳基準を満たすことによって、救い主であるイエス自身を避けられます。もし、すべての道徳的基準を満たすなら、あなたは「権利」を手に入れます。それは、神があなたの祈りにこたえ、良い人生を与え、死後、天国行きの切符を与えてくれるという権利です。無償の恵みによって、すべての過ちを赦してくださる救い主など、必要ないのです。なぜなら、あなた自身が自分の救い主だからです。
 これこそ、兄の心の姿勢でした。

(引用終)

教会や教会学校では、ともすると、「イエス様を信じて、良い行いをしましょう」
という「道徳的な」メッセージになりがちです。
道徳的に良い行いをすることだけが「福音」なら、
イエス様の十字架など必要ないですね。
その程度であれば、仏教や神道、儒教の教えでもいいわけです。
しまいには、教会で熱心でない人々を裁きはじめる・・・
つくづく、「宗教」というのはイヤなものだ、と、
私もしばしば思うほどです。
(P.64、71に言及あり。)

著者は、弟の道、兄の道どちらも否定し、
「福音に生きるとは?」と問いかけます。
(P.118〜119から引用)
 宗教は、「私は従う。だから神は私を受け入れてくださる」と考えます。福音の基本的な理念は、「私はイエスの働きによってすでに神に受け入れられている。だから従う」というものです。今まで見てきたように、福音を信じるとは、まず神との関係をつくるということです。そして神との新しい関係と、そこに立つ新しいアイデンティティが生まれます。
 しかし、してはいけないのは、一度信じてクリスチャンとなったから、福音のメッセージについてすでに修了した者だと思うことです。マルチン・ルターの基本的な信仰の理念は、「宗教」は人の心の初期設定でしかないということでした。あなたのパソコンは、設定を変更し、アップデートしない限り、初期設定のままでしか動きません。ルターは、福音によって回心した後も、常に意図して「福音」設定にしていかなければ、人の心は「宗教」という初期設定でしか動かないと言っているのです。

(引用終)

イエス様を信じる事による信仰義認の喜びから、
いつの間にか自分が自分の救い主になってしまう「兄タイプ」の信仰・・・
反対に、自由奔放な生き方をする「弟タイプ」の生き方・・・
私自身にも、「兄と弟」どちらの心があることを、正直に告白します。
その2つではなく、その中間でもない道を、著者は指し示します。
(P.134から引用)
イエスは言います、「私は天国のパンだ」、と。弟タイプの欲望も兄タイプの道徳性も、霊的には袋小路なのですが、もう一つの道をイエスは示しました。それは、イエス自身を通る道です。
(引用終)

プロテスタント、カトリック問わず、広く読まれるべき書といえます。
あなたは、兄タイプ?弟タイプ?それとも、福音に生きていますか・・・

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
(新約聖書ヨハネによる福音書14:6〜7新共同訳)

レンブラント作「放蕩息子の帰還」
Rembrandt_son01

2013年3月 9日 (土)

煉獄は誰のために必要なのか?

先日、ある集会にて、熱心なカトリック信者の方が、
その人にとっての、
カトリック信仰のすばらしさ(とプロテスタントの誤り)を語っていました。
私は大変違和感を覚えました。
その場で反論・論破してやりたいと思ったほどでした・・・

その人の発言の要旨を書いてみます。
(私の誤解があるかもしれませんが・・・)
・使徒信条には「聖徒の交わり(・・・を信じます)」という言葉がある。
カトリック教会とプロテスタント教会では、
「聖徒の交わり」に対する解釈が違う。
「聖徒の交わり」といえば、カトリックの教えでは3つの教会がある。
「天上の教会」「煉獄の教会」「地上の教会」である。
・私たちは煉獄の教会にいる人々の苦しみを少しでも短縮するため、
熱心にミサに預かり、祈り、善行をしなければならない。
・私たちの善行(功徳)は煉獄の魂の償いになる。
1万年ぐらい苦しまねばならない魂を、速やかに天国に導くことさえできる。
・第2ヴァチカン公会議以前には、煉獄の魂の救いのために熱心に祈っていた。
現在の教会ではあまりこの話題は取り上げられないが、間違っている。
もっと煉獄の魂のために祈るべきだ。
・私たちは聖母や諸聖人に祈ることができる。助けがいっぱいある。
・煉獄やパパ様(ローマ教皇)、
聖母や諸聖人を認めないプロテスタントはおかしい。

以上のまとめは、私の誤解があるかもしれません。
私はその人の意見に対して「否!」と言いたいだけであって、
決して、個人攻撃をしようと思っているわけではありません。

その人の信仰理解は、
まるで、先祖供養や水子供養を勧めるたぐいと似ていると思いました。
(先祖供養や水子供養しないと、霊魂があの世で苦しみ続ける。
その苦しみゆえに、現世でタタリがある・・・)
あるいは、かつての某教団のように、
「カルマ、カルマ」と言って、修行に励ませるようなものか・・・

私がその発言を聞いて思ったのは、
・神が煉獄を必要とするなら、
イエス・キリストの救いが不完全だ、というのに等しい。
・個人の功徳というのはまるで、
ポイントカードやマイレージカードのポイントやマイルみたいなものだ。
功徳(ポイントやマイル)が貯まると、煉獄の苦しみが軽減される
(ポイントやマイルが使える・交換できる)・・・
神のみ救いは、そんな曖昧なものに頼らざろうえないほど、
弱いものだろうか・・・

ところで、キリスト教は大きく分けて、
カトリック・プロテスタント・正教会があるのはご存知ですね。
(「西方教会・東方教会」という分け方や、
西方教会でも聖公会やアナバプテストを分けるやり方等、
諸説ありますが・・・)
「煉獄」の教えがあるのは、実はカトリック教会だけなのです。
カトリックと並ぶ最も古い教会であるハリストス正教会にも、
「煉獄」の教えは存在しません。
(引用⇒日本正教会HPから)
カトリックでは「煉獄」という天国と地獄の中間状態を想定し、罪人がそこで苦痛を受けることによって罪が精算されるように教えますが、正教会では、神の憐れみとハリストス(キリスト)の贖罪を軽視するそのような考えを否定します。
(引用終)
プロテスタントでは当然、聖書に書いていないそんな教えは存在しません。
(「煉獄」の聖書的根拠として、
カトリックでは第二正典(旧約聖書続編※プロテスタントでは外典)の、
マカバイ記Ⅱ12:45を挙げています。
具体的に引用しましょう。
だが彼は、敬虔な心を抱いて眠りについた人々のために備えられているすばらしい恵みに目を留めていた。その思いはまことに宗教的、かつ敬虔なものであった。そういうわけで、彼は死者が罪から解かれるよう彼らのために贖いのいけにえを献げたのである。
(旧約聖書続編マカバイ記二12:45新共同訳)
実は、カトリック教会が煉獄を正当化する聖書的根拠は、これしかないのです。
膨大な聖書の中のたった1、2行・・・
根拠薄弱すぎると言わざろうえません。)

聖書から少し考えてみましょう。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
(新約聖書ルカによる福音書23:39〜43新共同訳)
十字架上で悔い改めた罪人に対して、
イエス様は「お前は改心したが、煉獄で苦しんで罪を償ってから、
天国に来ることになるぞ」と言いましたか?
イエス様を信じた時に、罪は赦されたのです!
新約聖書の「ヘブライ人への手紙」では、
キリストの救いの完全さについて、次のように書かれています。
それでまた、この方(イエス・キリスト)は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。
(新約聖書ヘブライ人への手紙7:25新共同訳)
なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。
(新約聖書ヘブライ人への手紙10:14新共同訳)
煉獄の教えは聖書的に根拠薄弱なのは既に指摘した通りですが、
キリストの救いの完全さは、新約聖書の中核とも言える思想であり、
また、旧約聖書に預言された救いの成就とも言えます。

キリストの救いが、人間の善行によって左右される程度のものなら、
私達が救われるのは絶望的でしょう。
神様は不完全な救いと不完全な世界を作った、欠陥商品製造者、ということになります。
(プラトンの『ティマイオス』に出てくる
「デミウルゴス(造物主)」のような存在・・・)

煉獄の教えを違う角度から見てみましょう。
いったい、誰にとってメリットがある教えなのでしょうか?
端的に言えば、中世において、
「敬虔さ」ゆえにキリストの無条件の救いが信じられなくなり、
罪の「借金」を自力で返す場が必要になったわけです。
そこで聖書中に何か合致できそうなところを探して、
「煉獄」を作り上げ、死後の苦しみを強調して、
(「先祖供養しないと死後苦しむ」に似ています。)
「免償」なる制度を作り、そこでお金儲けしたわけです。
(贖宥状によって儲かったからこそ、カトリック教会が、
あの立派なサン・ピエトロ大聖堂を建てられたわけです・・・)
つまり、死後の世界という目に見えないもので、
信者を脅して、教会に従順ならしめ、金づるを離さないシステムなのです。
教会にとって、実に都合のいい教義といえます。
そこに「否!」といったのが、マルチン・ルターであり、
宗教改革だったわけです。

ちょっと話がずれますが・・・
ある人と親しくなり、一緒に食事をしませんかと誘うとします。
会計の時、気持よく「私が(全部)持ちます」と相手に言ったところ、
頑なに拒否された経験はありませんか?
(ちなみに、私はワリカンが大嫌いです。大人数で行った場合は別ですが。)
何度言っても、それぞれが食べた分だけ払おう、ということになります。
内心では、結構気分を害します。

キリストの救いも同じではないでしょうか?
神様が完全な救いを提供しておられるのに、
頑なに、自分の善行や祈りによる救いに固守する・・・
また、キリストの救いは不完全だから、煉獄が必要だと主張する・・・
神様の全き愛を信じないことこそ、大きな罪なのです!

煉獄の教えの誤りをもう1つ述べるとしましょう。
使徒信条には、「(主は)生者と死者を裁くために(再び)来られます。」
「からだの復活」というのも書かれています。
つまり、煉獄⇒天国の世界観には、「再臨」という視点が欠如しているのです。

ダンテの『神曲』の「煉獄篇」や、
マーラーが未完の「交響曲第10番」で描こうとした、
「煉獄」なる世界・・・
芸術的・ファンタジーとしては興味ふかいものですが、
聖書信仰からは異質なものであり、排除されるべき「場所」といえます。

結論を述べましょう。
煉獄は、キリストの完全な救いを信じえないカトリック教徒にのみ、
「心理的に」必要である・・・
(実際、21世紀のカトリック教会では、
もはや煉獄を強調する教えになってはいませんが・・・)
私たちは、キリストの完全な救いを信じます!

2013年3月 2日 (土)

萩原麻未のはじけるラヴェル!〜テレビ朝日系(BS朝日)・題名のない音楽会「前代未聞!ネット実況風ピアノ協奏曲」(2013年2月24日、3月2・3日放送)

ピアニストの萩原麻未さんは、私が注目する若手ピアニストの一人です。
昨年(2012年)の5月にNHKBSプレミアム・クラシック倶楽部で放送された、
フランスの情景~小林美恵、萩原麻未と仲間たち~」で、
すっかり魅了されてしまいました。
(過去記事あります⇒コチラ
その彼女が、ラヴェルのピアノ協奏曲を弾くとあれば、観ないわけにはいきません。

2013年2月24日(BS朝日では3月2・3日)放送の「題名のない音楽会」では、
「前代未聞!ネット実況風ピアノ協奏曲」と題して、
萩原麻未さんのピアノ、山田和樹さん指揮、横浜シンフォニエッタによる、
ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調を全曲ノーカットで放送してくれました。
(私が録画して観たのはBS朝日・3月2日放送によります。)
番組では、
演奏と同時に、演奏の録画を観ながら、
司会の佐渡裕さんと演奏者の萩原麻未さん、山田和樹さんが語ったことが、
下の方に字幕で出る、という変わった企画をやっていました。

第3楽章の演奏の際、
あるフレーズの時に佐渡さんが「ゴジラ、ゴジラだね」とコメントしていたのは、
なかなか興味深かったです。
後で、ホントにそうかな、と思ってウィキペディアで「ゴジラ」シリーズの作曲者、
伊福部昭を調べてみたら、
実際そのとおりみたいですね・・・

さて、演奏そのものへのコメントに移りましょう。
第1楽章から、にぎやかでいきいきとした演奏が繰り広げられます。
洗練されたパリの街角というよりは、おもちゃ箱をひっくり返したような、
実に楽しくワクワクするような演奏でした。
(あるいは、シャンペーンがジュワシュワはじけるような・・・)
第2楽章の沈滞感、叙情性はまだまだこれからかな、とも思いましたが、
第3楽章では再び曲の楽しさが全開して、
しかもオーケストラを煽り立てるような躍動感がありました。
まさに、「のだめ」が実際にこの曲を弾いたら、こんな感じなのでは?
とさえ思ってしまうほどでした!
横浜シンフォニエッタの演奏は、多少荒削りな面があるとしても、
ソリストに合わせてイキイキとした演奏を繰り広げていました。
思わず2回も繰り返して視聴してしまいました・・・

萩原麻未さんの演奏はこれほどすばらしいのに、
未だに(2013年2月末現在)CDが1枚も出ていないのは残念ですね・・・


ところで、ラヴェルのピアノ協奏曲での私の愛聴盤は、
エレーヌ・グリモーのCDです。

ラヴェル&ガーシュウィン:ピアノ協奏曲

この演奏は第2楽章が特に秀逸です。
一方、両端楽章は、もう少し愉悦感がほしいところですが、
洗練されたパリの町並みを思わせます。

今回放送で聴いた萩原麻未さんの演奏と、
エレーヌ・グリモーの演奏では、
ピアノの愉悦感で萩原麻未さんに軍配を上げましょう!
オーケストラは、グリモー盤の方がわずかに勝ると思いますが、
全体的な楽しさでは、萩原麻未さんの今回の演奏の方を上としたいです。
早くCDデビューしないのかな・・・
(ちなみに、DVDでは1枚だけ、
ジュネーブ国際音楽コンクール優勝の際のがあります。)

萩原麻未 優勝 ≪ジュネーブ国際音楽コンクール2010ライヴ≫ [DVD]

2013年3月 1日 (金)

2013年2月のアクセス数ベスト10記事一覧

2013年2月のアクセス数ベスト10記事は以下のとおりです:
(※トップページを除く)
ベスト3までは記事リンクをつけています。

一位.ウコンは肝臓に悪い?~NHK・ためしてガッテン「肝臓の健康を守れSP」
(2011年6月29日放送)

二位.「学びあい」という美名の下の教育の堕落~
NHKEテレ・ETV特集「輝け二十八の瞳 ~学び合い 支えあう教室~」
(2012年2月5日放送)

三位.公立学校で習熟度別授業の導入はプラスか、マイナスか?
~読売新聞北海道版・連載「学力危機」
第1部・札幌の格差 (10)を読んで

四位.NHKニュース「おはよう日本」でシスター渡辺和子さんを特集
(2012年9月17日放送)

五位.退職すると訴訟?!社畜から奴隷へ?ブラック企業の恐怖・・・
~NHK・クローズアップ現代「やめさせてくれない~急増する退職トラブル~」
(2012年4月26日放送)

六位.NNNドキュメント’13
「口は悪いが腕はいい…自閉症の子を救う男わが子に起きた奇跡」
(2013年2月18日放送)

七位.ピーターパンの冒険(完結版)
八位.「あたらしいみかんのむきかた」著者、岡田好弘さんは実は牧師!
九位. どの聖書が一番いいか?(新約聖書編)
十位. NHK・クローズアップ現代「大人がハマる“数学ブーム”の謎」
(2011年7月27日放送)

ベスト1は相変わらずでした・・・
今月もご愛読よろしくお願いします。

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