インクルーシブ(インクルージョン)教育は子どもにとって本当に幸福なのか?~おすすめブログ記事「脱インクルージョン教育」(ブログ名:斜に構えてみる)
何週間か前に、NHK朝のニュース「おはよう日本」で、
重度の障害がある子どもが普通の小学校に入学して、
一緒に学んでいる、という報道をしていました。
(⇒詳しく調べてみると、「2012年10月31日放送」でした。)
(NHKのサイトから引用)
2012年 10月31日(水) 学校が変わる “ともに学ぶ”ために
いま教育現場が大きく変わろうとしています。国は、重度の障害のある子どもが、特別支援学校だけでなく一般の学校に進学することも選択できるよう法令を改正することにしています。この流れを先取りして、この春、京都府京丹後市の小学校に重度の障害がある女の子が入学しました。受け入れた小学校では課題に直面する一方、“ともに学ぶ”ことで周囲の児童に変化が生まれました。学校はどう取り組み、どう変わったのか、お伝えします。
(引用終)
私が観た率直な感想を言いますと・・・
重い障害を持っていても、普通の小学校に通わせたい、
という保護者の気持ちは分かります。
障害がない子どもたちが障害を持っている子への配慮ができるようになった、
という教育効果も認めます。
大人はその光景を見て大満足でしょう。
しかし、当の子どもたちの気持ちは本当にはどうなのでしょう?
テレビ報道されたのはあきらかな形で目に見える障害だから、
子どもにもわかりやすいですが、
現在増えている発達障害の子どものように、
外見では判断がつきにくい子の場合には、
いじめや偏見をかえって助長しないでしょうか?
今、国際的には「インクルーシブ(インクルージョン)教育」が推し進められようとしており、
日本の文部科学省も少しずつ重い腰を動かしつつあります。
人権団体・障害者団体からの圧力・要請もあることでしょう。
「インクルーシブ(インクルージョン)教育」とは、
わかりやすく言えば、障害を持った子が学校で大半の時間を、
普通の子どもと一緒に通常教育を受けることです。
確かに、障害のある・ないに関係なく人々が共存できる社会、
というのは理想です。
私もそれに異存を唱えるものではありません。
しかし、こと教育に関しては、大人の理想よりも、
子どもの幸福を重視すべきではないでしょうか?
近年増加の一方をたどる発達障害と診断された子どもたちにとって、
普通学級にいることは苦痛であることが多いようです。
また、インクルーシブ教育を実際に導入・推進している国では、
障害ある子のお世話役を押し付けられた子が、
成人してから障害者排除の思想を持つことがあるようです。
先日たまたま教育関係のブログをいろいろ読んでいた時に、
「脱インクルージョン教育」(ブログ名:斜に構えてみる)という記事を見つけました。
発達障害のお子さんを持つ方のブログです。
オトナの上から目線の理想論ではなく、
子どもの目線で、子どもが教育を受ける権利について論じられています。
記事から一部引用します。
下線は記事で私が注目したところです。
(引用)
周りと違うことによるいじめを受け、自己肯定感の低さで苦しむ発達障害の子が少なくない現状を考えれば、お互いが未熟である成長過程で両者をインクルーシブして教育するメリットは、デメリットよりもかなり小さいのではないでしょうか。「小さい頃からその存在を認め合うこと大切だ」というご意見もありますが、未熟さゆえに相互の多様性を認められる土壌がまだできていないのであれば、やむを得ないことだと認識しています。
例えば、外国人と共に育たないと国際人になれないかと言えばそうじゃないですし、むしろ人種や民族のルツボと言われる国々で相互理解が足りずに紛争が起こっている現実を見れば、一緒に育てば相互の存在を認め合える関係を築けるということも無いと思います。要は外国語能力に加えて人を個人として尊重できる資質を育てることが肝要かと。
「似たもの同士はよく混ざり合う」というのは、私が高校時代の化学の先生から教わったことで、要は水酸基(-OH)を持つ分子同士は混ざり合うし、持たないものと持つものは混ざらない、水と油が混ざらない理由はこれだ、ということです。こういう自然の摂理を無視してもしょうがないでしょう。
これは、自閉の有無だけの問題ではなく、自閉のない単なる知的障害者と健常者が同じ学級にいて学ぶことについても同様だと思います。片方には授業内容が難しく片方には簡単で、休憩時間に会話をしても成り立たない状況であるならば、そこに一緒にいることは双方にとって辛くなる可能性があると思います。そしてこれを敷衍すると、頭が突出して良い子が人間的な深みを持つためには同レベルの子と切磋琢磨する環境が必要なのに自然には出会えない状況だから、意図的に出会える環境を作ることが大切ではないか、そういう環境の方が歪んだ優越感やプライドを持つことも無く、ノブレスオブリージュを意識させることで社会により貢献できるようになるのではないか、と考えています。
(中略)
よくできる子はさらに伸ばす、できない子は教え方を工夫する、それぞれ別の環境を用意するのが本来のあり方だと思います。
今は脱「ゆとり」の流れなのか、小学校も高学年の算数では事実上の能力別授業をやっていると聞きます。それを差別というのは時代遅れだと思いますし、個々人の能力を高めるという教育本来のあり方に戻していくべきだと思います。
(引用終)
子どもは天使なんかではなく、意外と残酷なものです。
容易に差別と偏見が生まれます。
本来、特別な支援を要する子を一般の子と同じ条件におきさえすれば、
自然に友達になれる、ボランティア精神が芽生える、というのはあまりにも楽観的すぎます。
むしろ、もっと分別がついてからの交流と共生でも遅くないと思います。
特別支援学級では天真爛漫としているような子が、
交流学級(通常のクラスに、体育や音楽の時間だけ一緒に授業を受けるクラス)に行った場合、
たいていは、窮屈だったり余計な緊張をして、「借りてきたネコ」状態になるようです。
オトナは「きちんと『交流』している!」と悦にいっていたとしても・・・
同じような子同士でいる方が、子どもにとっては安心できるようですね。
障害がある、ないだけではなく、
学習の習熟度にもそれぞれ差があります。
しかし、どの子だって、程度の差こそあれ、「できる」ようになりたいのは変わりません。
「みんな大切!みんなが輝くクラス」などと感動的な言葉で言いくるめられながら、
できない子(たとえば九九)はできないままほっておかれ、
「練り上げ」(算数の問題解決的授業)とかの訳のわからない教育法でスポイルされ、
あげくには不登校やいじめの対象にされたり、
学級崩壊が起きてしまう・・・
これこそ、子どもの学ぶ権利を阻害している状況を作り出していないでしょうか?
一人ひとり、教育的ニーズは違います。
そのすべてに対応することは無理でしょう。
しかしながら、特別支援教育をもっと手厚くしたり、
習熟度別学習によるクラス分けを推進していくことにより、
水と油ほどあわない子と一緒に学ばねばならない、
という子どもの苦痛を少しでも軽減できるのではないでしょうか?
結論を申せば、私はインクルーシブ(インクルージョン)教育には否定的ですし、
小学校でも習熟度別のクラス編成を推進すべきだ、と考えます。
学校は保育園ではありません。
まずは、教科の勉強を学ぶところです。
その次が、社会性でしょう。
社会性を学ぶことを優先するために、
教科の勉強が制限されるなら本末転倒ではないでしょうか?
(それとも、学校は社会性を身につけるところで、
塾が勉強するところ、というのが正しいとでも思いますか?)
(2012年11月29日追記)
「ヘンリー」さんから長文のコメントをいただきました。
発達障害者の方のようですね。
当事者からのコメントは実に貴重です。
ぜひお読みください。
読むとコメントされた方の子ども時代の痛々しさが生々しく伝わってきます・・・
思うに、特別支援学級や特別支援学校への偏見が強いので、
保護者が世間体を考えて、発達障害傾向の子を、
よかれと思って普通学級に無理に入れようとするから、
子どもが苦しむことになっていないでしょうか?
特別支援学級や特別支援学校の教育は、
一人一人に合わせた、オーダーメイドの教育であり、
もっと評価されるべきものなのです。
決して、恥ずべきものなどではありません!
親の思いはもちろん大切ですが、それ以上に、
子ども自身の「生きづらさ」を少しでも解消してあげる方が、
教育を受ける権利を真に保障することになるはずです。
ヘンリーさんのコメントから一部引用します。
(引用)
「ヘンリーは、とんでもない無能な欠陥人間だ。学級内のみんなはがんばっている。しかし、ヘンリーだけが役立たずで負担や迷惑をかけ続けている。ヘンリーは、他のみんなにフリーライドする極悪人だ。それだけではない。ヘンリーは、やってもらってあたりまえだと思っている図々しい奴だ。ヘンリーのようになったらおしまいだ。」ということを、私のクラスの人は「共に学んだ」のだと思います。
そして私は、「お客様役」「かませ犬役」を板につけることを「共に学び」ました。
(引用終)
こんな事を「共に学ぶ」教育なんて、おかしいではありませんか?
「お情け」や「おこぼれ」で「仕方なく」、「フツーの人々」に入れてもらえて、
嬉々としているフリをする屈辱的な生き方を、
発達障害を初めとした、
さまざまな障害を持つ子どもたちは望んでいないはずです。
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私の身の回りの現場の雰囲気として。
文科省に対して「こんな大変な問題を定数増やさずにやれとは何事か。
我々の給料はただでさえ減っているのに。いい加減にしてくれ。」
保護者に対しては、「早く特別支援とかにかかった方が本人のためなのに、かわいそうに。カウンセラーからWISK等の知能検査、神経科にかかって医学の専門家からも意見をもらえばいいのに。」
という意見が支配的です。
ただ、教師の指導力の向上で、「普通学級で対応可能だ」と思う子もいます。障害の程度問題もあるし、教師との相性もありますが。発達障害の児童生徒への対応は、TOSS等で基本的なことは紹介されています。不適切な行動をなくす&相当減らすことはできます。学力向上もしかりです。
これらのことを努力したとします。
でも無理な子はいます。
私なりに解決策を考えました。
あまりにも大胆です。実現の可能性が低いものもあります。ご了承ください。
①現状をすすめる。補助員の大量投入。公的なお金を可能な限り投入する。
お金が足らない分は、学校独自でボランティアを募る。退職教員で理解ある人を中心に。(研修は必要かもしれない。昔堅気の人もいるので)
②福祉の予算から、支援学級関係を流用する。教育費の増大が無理ならこの裏技。世間では、福祉の金を削ることは反発が大きいから。でも、お金がかかることには違いない。
③義務教育の落第制をつくる。一定の学力を有していない者は、普通学級のままなら落第。テストなどで判定。特別支援学級に編入なら進級を認める。(9年間の義務教育は変えない。よって、中3の内容まで学習できないものも出る。結果、その子が到達できる学習までしっかり勉強してもらうことになる。)(特別支援から普通学級へ行きたい子は当然テストを受けなければいけない。)だから、普通学級で明らかに不適応な者がいることが防げる。これなら、“お金”は必要以上に使わなくて済む。
制度として作ってしまうので、親からの文句は出ても「制度ですから」で一蹴。
①は現場の意欲次第です。でもお金の問題はつきまといます。
②は政治の世界でしか無理です。
③は一見冷たいやり方に思えますが、「かわいそうな子」「お客様」は激減するはずです。
これはインクルージョン教育からの方針転換でもあります。
各方面から大反対があるでしょう。
でも、お金がなければこうするよりありません。平和な学級を維持するためならば。
(ただ、進級を認めなられなかった親から裁判ざたになることもあるでしょう。決めるならそこまで覚悟を決めないと)
どちらにせよ、「インクルージョン教育は推進せよ。お金はないから工夫して何とかやれ」のやり方は早晩破たんするでしょう。
今度の選挙+政界再編によっては、③の検討も出てくるかもしれません。規制緩和とか財政を切り詰めてとか言っている政党もいますので。
投稿: 現場で苦闘する一教師 | 2012年12月 2日 (日) 13時08分
「現場で苦闘する一教師」様、
コメントありがとうございます。
<<われわれ教師が、苦労していることの一つに「明らかに特別支援学級(程度により支援学校)が適切なのに、認めようとしない親」の存在があります。子どもの「体裁」を考え、できるだけ普通学級で“粘ろう”とするのです。>>
親のミエのために、教員や学びのサポーターを、
一対一でそういう子に張り付けていくなら、
教員の総数は今の2、3倍、
あるいはそれ以上必要になり、
財政を圧迫することになるでしょう。
(ただでさえ、公務員の賃金が高いと批判を浴びているのに・・・)
教員の賃金を大幅に下げた上で、
総数を増やせ、という理不尽なことになってでも、
現場教師はインクルージョン教育を推進したいと思うでしょうか?
必要なのは、
教員の大幅増員を前提とするような形の
インクルージョン教育ではなく、
特別支援教育への理解と、
偏見をなくす事だと考えます。
普通学級で「お客様」状態であるのと、
特別支援教育において、
ニーズにあった支援を受けるのと、
どちらが子どもにとって幸せなのか・・・
子どもの幸福こそ、
第一に考えるべきものですね。
投稿: てんしちゃん | 2012年12月 1日 (土) 23時29分
インクルージョン教育は理想ですし、できるにこしたことはありません。バリアフリーの社会への一環として、この考えが起こってきたと想像します。
ただし、バリアフリーの実現には、大量の物的・人的資金が必要です。さまざまな改装、専門家の育成、多くの人の配置、そして社会の理解。これらがそろってこそ、実現できます。
学校教育でも全く同様のことがいえます。ここでは、人的配置(資金)に限り論述します。
われわれ教師が、苦労していることの一つに「明らかに特別支援学級(程度により支援学校)が適切なのに、認めようとしない親」の存在があります。子どもの「体裁」を考え、できるだけ普通学級で“粘ろう”とするのです。
子どもはかわいそうなものです。お客様です。あまりにも差がありすぎるので、他の子からバカにされます。もちろん、教師は指導はしますが発達段階を考えると無理からぬこともあります。(子どもの前では、いじめは絶対いかんと強力に指導しています!)いじめの解決後、いじめられる本人に改善を促しますが、本人の能力で無理な要求をしていることがあり、結局いじめの温床は残ったままです。そして、また形を変えて繰り返されます。・・・といった具合です。
子どもによっては、いじめをする側になることもあります。指導しても、本人の能力では無理なので、またいじめをくりかえします。こんなことが続くと、本人にも周りにも悪影響が出ます。(本人への排斥、保護者の不満、保護者のモンペア化、学級崩壊・・・という最愛のケースをたどることもありえます。)
認めようとしない親への“妥協点”として、学級への入り込み指導、取り出し指導があります。自分の学級に在籍しているなら、いいということです。(親によっては、入り込み指導をTT指導と区別がつかないように話したほうがいい場合もあります。TTという名目の元、その子に張り付きっぱなしということです。)
ただ、この方法は無茶苦茶大量の人員がいります。集団に不適応な子、学力が相当低い子が該当します。発達障害の程度がひどい、あるいは学力が低い学級・学年には、ものすごく大量の補助員が必要です。
・・・と私は、いろいろなところで力説していますが、人が足りない、お金がない・・・といつも言われてしまいます。ただ、子どもたちの学力保障、ひいては子どもたちが学級で平和に過ごすためには、ぜひとも努力しなければいけないと思います。少なくともインクルージョン教育を優先させるならば。
ちなみに、私は向山型算数指導もどきです。国語は反単元学習派です。(向山型国語をめざしていますがなかなか・・・)
また、市として「学びの共同体」をやっていますが、ほんの時々コの字型、適当にグループでの活動(話し合いなど)を入れてやっているふりをしています。グループでの活動を入れて、落ちそうな子がだいぶ救われているのは事実ですが、あまりにも低い子はそれもついていけません。(私のクラスに2人います)この子たちの学力保障を考えると、1日も早く特別支援学級へ!!無理なら大量の取り出し指導(入り込み指導)を!!!!と考えざるを得ません。
投稿: 現場で苦闘する一教師 | 2012年12月 1日 (土) 01時27分
ヘンリー様、貴重なコメントありがとうございます。
当事者からの声は大変参考になりました。
本文への追記、という形で、
今回はコメントをフォローさせていただきました。
本文中にコメントを引用させていただきました。
その箇所、読んでいて泣きそうになりました・・・
投稿: てんしちゃん | 2012年11月29日 (木) 22時09分
はじめまして。「特別支援」でブログ検索してこの記事を知りました。私は小学校入学時に、親のゴリ押しによって普通学級に入れられた過去を持つ発達障害者です。
この記事を書いてくださって、ありがとうございます。この記事の内容に私は賛成です。しかし、障害者本人がこの記事の内容と同じような主張をすると、インクルージョン推進派から袋叩きにあいます。
「親御さんの夢や希望をずたずたに壊したいのか。そのようなわがままは言うな。」と、何度も私はインクルージョン推進派から命令されています。このブログ記事を支持すると思われる障害者を、私は2桁の人数で知っているんですけどね。
障害者本人が主張困難な事柄について、丁寧に書いてくださって本当にありがとうございます。
私が小学生だった頃、私の親はPTA役員になって、「いわゆるお世話係」を丸投げする子供を根回しして決めていました。
「共に学ぶ」という言葉はいかがわしいです。「分けない教育」などと言いながら、普通学級を、「お世話係を丸投げされた子供と、その子に迷惑をかけ続けるヘンリー、この2人だけの世界」と「他の子供の世界」に分けた教育でした。
「ヘンリーは、とんでもない無能な欠陥人間だ。学級内のみんなはがんばっている。しかし、ヘンリーだけが役立たずで負担や迷惑をかけ続けている。ヘンリーは、他のみんなにフリーライドする極悪人だ。それだけではない。ヘンリーは、やってもらってあたりまえだと思っている図々しい奴だ。ヘンリーのようになったらおしまいだ。」ということを、私のクラスの人は「共に学んだ」のだと思います。
そして私は、「お客様役」「かませ犬役」を板につけることを「共に学び」ました。
子供のころから私は、お世話係を丸投げされた人に対して罪悪感を持っていました。しかし、まわりからは、「やってもらってあたりまえと思っている。何を甘えているんだ。」と罵倒され続けました。
学校卒業後、同窓会の類には絶対に参加できません。私をいじめた人達に2度と会いたくないというのと、丸投げされた人に対して会わせる顔がないと思っているからです。
「丸投げされた人の学習権を、私が奪った」という思いは、今でも私から離れません。
私をかませ犬にして身に着けさせたものが、「社会性」と呼んでよいものなのか? 疑問が残ります。
「インクルーシブ教育」なんていうけれど、所詮主役を張るのは「インクルーシブ教育推進派の人」なのです。障害者本人の意向なんて反映させる気は彼ら彼女にはなさそうです。
投稿: ヘンリー | 2012年11月29日 (木) 01時21分