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2012年7月29日 (日)

宗論はどちら負けても釈迦の恥~街角で一般人を巻き込む宗教論争の愚

宗論はどちら負けても釈迦の恥」というのは、落語の話ですね。
(私は「説法はどちら負けても釈迦の恥」と記憶していましたが、
実は「説法」ではなく「宗論」だったのですね・・・)
仏教というと、平和共存のイメージが強いですが、
中には他宗派をそしることで自らを正当化しようとするところもあるみたいですね・・・

 

2012年7月29日、妻とJR札幌駅南口付近を歩いていると、
何やら旗を持った人と、ビラを配る人々が・・・
(日蓮正宗の方のようです。)
「創価学会はアブナイです」と主張し、
下の写真のようなビラを通行人に手渡していました。
なんとなく、そのような主張をしている人々こそ、アブナイのでは、と危惧するほど・・・

 

(写真 表)
20120728_nitiren00

 

(写真 裏)
20120729_nitiren01_2

 

宗教たるもの、自らの正当性を主張しないと、存在の意味がなくなるわけですが
(だからこそ、宗教論争、ひいては宗教戦争や自爆テロまで起きてしまうわけですが・・・)、
何が正当かというのは、宗教の「身内」だけでやってほしいものです。
一般人には、関係のない話ですから・・・

 

私は創価学会の味方やシンパではありませんが、
創価学会が某○○○真理教のような反社会的カルトでもないのに、
こんなチラシを出して誹謗するのは、
かえって、日蓮正宗側のイメージダウンにつながるのではないでしょうか?
(少なくとも、私にはそう思えます。)
しかも論点は、「ご本尊」とかのたぐい・・・
(その方たちにとっては、切実な問題なのでしょうけど、
一般人や私のようなクリスチャンには興味のない話です。)
創価学会の「ご本尊」がしっかりしていないから、
「たたり」として、さまざまな災厄が起こるぞ!と脅すのは、
それこそカルト宗教の手口みたいですね・・・

 

日本の代表的なクリスチャンの一人、内村鑑三は、
代表的日本人』において、
日本精神を代表する日本人を5名挙げています。
その中には、日蓮正宗と創価学会の「教祖」ともいえる、
日蓮上人が選ばれています。
また、その生涯を知ると、やはり尊敬に値する方だと私は認めています。
しかし、その後の正当論争は、少なくとも私にとってはどうでもいいことですし、
一般人にとってもそうでしょう。

 

 

冒頭の言葉に戻りましょう。
ウィキペディアの「宗論」をひくと、こう書かれていました。
(引用)
息子の藤三郎がキリスト教信者になって旦那は不満でたまらない。何しろ、旦那自身が熱心な浄土真宗の門徒なのである。「小さいときからありがたいお説法を聴かせてあげたのに、死んだ婆さんがさぞや草葉の陰で泣いているだろう。」と今日も番頭相手に愚痴っているところに件の藤三郎が帰ってくる。「お父様ただいま帰りました。」「なんだい。その手は」「握手であります。」「変な手つきをしなさんな。どこへ行ってきました。」「教会であります。関西からピースというありがたい牧師様がいらっしゃいましたので、お説教を聴いてきました。」「その何かい。タバコみたいな牧師の噺を聴いてきたのか。これ藤三郎。なぜ、お前さんはうちにある仏壇の阿弥陀様を拝まないのです。」と親子で仏教とキリスト教の教義を巡って口論が始まる。
意見はかみ合わず、藤三郎は牧師の口調を真似て聖書の一節を語り、しまいには賛美歌を歌い出す。怒った旦那が殴ると、飯炊きの権助が仲裁に入り「旦那様、宗論はどちら負けても釈迦の恥て言いやす。どうか若旦那を許してくだんせえ。」と説得。興奮していた旦那も我に帰り「いや、権助ようく仲裁してくれました。宗論はどちら負けても釈迦の恥。その通りです。そんなことを言うお前さんも真宗(信州)かな。」「いいえ。おらあ仙台生まれだから奥州でがす。」
(説明)
キリスト教が出てくるのがユニークであるが、もともとは日蓮宗と浄土真宗の信者同士のいさかいの筋だったのを改作したものである。狂言にも同じ題の演目があり、これも日蓮宗と浄土真宗の僧が旅の途中で教義争いをする筋で、おそらくそのあたりがこの噺の源流と思われる。 (引用終)

 

どの宗教・宗派でも、熱心になればなるほど、
他宗教・宗派を誹謗中傷・全否定して自らを正当化する傾向がありますね。
(残念ながら平和を愛するはずのキリスト教会でも・・・)
信仰に熱心なのは結構ですが、
誹謗中傷をするような狂信者にはなりたくないものです。

 

塩は良いものである。
が、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。
自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。

(新約聖書マルコによる福音書9:50新共同訳)
キリスト・イエスに結ばれていれば、(中略)
愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

(新約聖書ガラテヤの信徒への手紙5:6新共同訳)

 

 

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