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2011年11月20日 (日)

詩編109の祈り~復讐は神様に委ねて・・・

今朝、フランシスコ会訳の聖書で、詩編109を読みました。
フランシスコ会訳では、詩編109に、
敵に呪われた義人の祈り」という見出しがつけられています。
註の(1)としては、次のような言葉が書かれています。
(引用)
本詩は、全詩編のうちでいちばん非キリスト教的なものとしてしばしば挙げられる。本詩全体が作者の言葉とみなされるものであれば、また、罪と罪人、を区別するわれわれの考え―旧約時代ではこの区別はあまりされなかった―に従って判断するなら、このことはある程度真実であろう。しかし、今日では、ほとんどの学者が、6-19節、あるいは少なくとも6-15節を、悪人の言葉とみなしている。すなわち、義人の上に有罪の宣告とあらゆる災いを祈る悪人の言葉を、作者が引用したのである。そして、この呪いが自分を訴える悪人に振り向けられるようにと、20節(あるいは16-20節)で作者は祈る。
(引用終)※旧約聖書P.1491から

本文を読んでみると、
6節から19節までに、「 」(かぎかっこ)がつけられています。
たかが「 」(かぎかっこ)ですが、私にとっては驚きでした。
今まで何十回もこの詩編を読んできましたが、
この部分は作者の悔しい・腹立たしい思いの吐露であると思って読んできました。
他人事のような「悪人の言葉」とは考えたこともありませんでした。

実際、新共同訳では、8節から20節まで、
2文字下げていますが、「 」(かぎかっこ)はつけられていません。
新改訳では2文字下げるという処置はされていません。
新改訳チェーン式聖書の註では、
誰の言葉か、という区別についてはコメントしていません。
口語訳でも同様でした。
念のため、バルバロ訳で調べると、
6節から15節に「 」(かぎかっこ)がつけられています。
註として、「6節から15節までは仇の憎悪のことばともとられている。
と書かれています。(P.1009)
バルバロ訳でも一応読んでいましたが、
私にとってはバルバロ訳の「 」は全然印象に残っていなかったようです。

私にとって、詩編109は特別な思い入れがある詩編です。
今までの人生で最もつらかった夜。
絶望のどん底に突き落とされたように思いました。
詩編の言葉を借りるなら、
愛する者も友も
あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。
今、わたしに親しいのは暗闇だけです。

(詩編88:19新共同訳)でしょうか・・・

それでも朝は来て、私がその時読んだのが詩編109でした。
(今日もそうですが、自分から選んでとか、パッと開いてではなく、
詩編1から順当に1日1章ずつ読み続けた結果です。)
確か読んでいたのは新共同訳でした。
彼の生涯は短くされ・・・・」(詩編109:6新共同訳)から始まる、
激越な呪いの言葉の羅列・・・
私の心の中にあった悔しい思い、腹立たしい思い、怒りが、
詩編の言葉を通して表面化し、神様へと吸い取られるようでした。
わたしに敵意を抱く者に対して
わたしの魂をさいなもうと語る者に対して
主はこのように報いられる。

(詩編109:20新共同訳)
この言葉に至って、渦巻いていたすべての怒りや悲しみ、嘆きは取り去られ、
不思議な、まさに神様からの平安が私の心を支配しました。

学問的には、フランシスコ会訳の註の方が正しいのかもしれません。
しかし、その時の私にとっては、分別くさい、他人事のような「 」など無用でした。
全詩編のうちでいちばん非キリスト教的なもの」である詩編109から、
たぶん現在に至るまで最高の慰めを得たのですから・・・
いや、対人関係で傷ついている人にとっては、
他人事の「悪人の言葉」ではなく、
思い切って、詩編の言葉を通して、
否定的な思い・嘆き・怒りを神様にぶつけてみてはいかがでしょうか?
ちょうど、有名な讃美歌「いつくしみふかき」の言葉のように・・・
「♪心の嘆きを 包まず述べて
などかはおろさぬ 負える重荷を

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。
「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。

(新約聖書ローマの信徒への手紙12:19新共同訳)
無理して、我慢して、ウソくさく「●●さんを許します」とか言い続けるよりも、
復讐」は神様にお委ね・お任せするのが、
心の健康にいいかもしれませんね・・・

聖書は「無の境地」など求めていません。
人間だから、喜怒哀楽があるのは当たり前なのです。
けれども、怒りや悲しみという状態に留まったままは、
神様のお望みではありません。
新約聖書には、
怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。
日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。

(新約聖書エフェソの信徒への手紙4:26新共同訳)
という御言葉があるほどです。
怒り続けることや、恨みを抱き続けるのは、
結局、自分を蝕むだけです。

人間の怒りや悲しみを吸い取り、浄化するために、
詩編のさまざまな言葉があるのかもしれませんね・・・
神様はすべての嘆きをご存知ですが、
あえて、言葉で言い表してみませんか?

詩編の言葉を通して神様に祈る、ということに関しては、
来住 英俊神父の『目からウロコ 詩編で祈る』(女子パウロ会)という本が非常に有益です。
小著ながら、聖書的祈りの真髄を衝いていますよ。


目からウロコ 詩編で祈る

フランシスコ会訳聖書(聖書―原文校訂による口語訳)

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コメント

花さん、コメントありがとうございます。
詩編の言葉はどれも、
神様からのプレゼントですね。
癒しがあり、慰めがあり、力があります。
苦しい時こそ、
詩編の言葉の力を体験することができますね。

初めまして。
いつも読ませていただいております。

私も、この個所で、そのように感じておりました。
口語訳だからかもしれませんが。

ほかにも、ダビデが敵を滅ぼしてだとか、いろいろ叫ぶことがあるので、気にしていなかったです。
そのような解釈もあるのですね。
勉強になりました。

この記事へのコメントは終了しました。

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