「サマリアの女」でストップせずに・・・過度な聖母・聖人崇敬の弊害
ヒルティの名著『眠られぬ夜のために』第二部の、
「十二月九日」のところには、このような記事があります。
永いあいだに徐々に成立した聖母マリア崇拝を、カトリック教徒からふたたび奪いとることはできないし、またプロテスタントの信者にそれを強制することもできないであろう。このことが、教皇制とならんで、両教会の合一をさまたげている主な原因である。ほかのすべてのことは、現代では、まことのキリスト者なら、一致しうるであろう。そして今日、両教会のなかで多くの人びとが、なかば無意識に、十六世紀の宗教改革を、このような合同改革の趣旨で修正しようという考えに傾いている。しかし、(カトリックにあっては)聖母崇拝というのは、プロテスタントの救世主にたいする非常に親しい関係にかわる、埋合せなのである。というのは、カトリック教徒にとっては、救世主はもはや特別な人格を意味しないからである。そこで、彼らは別のだれかを必要とする。なぜなら、真に親しい愛をともなわぬ信仰はひとの心を満足させないし、また悟性にとっても常に薄弱な存在でしかないからである。最後に、教皇制であるが、これは、ちょうど聖アウグスティヌスやトマス・アクィナスがこころに描いたような教会、また、神にたいして純粋に個人的な、つまり集団的でない関係を決して持ちえない多くの人たちにふさわしい教会を徹底的に完成した制度だといえよう。だから、宗教改革でどちらの教派も勝利をおさめなかったのは、おそらくよいことであったろう。
(ヒルティ著『眠られぬ夜のために』第二部(岩波文庫)P.277~278から引用)
ヒルティはカトリックの信仰をかなり大目にみていますが、鋭く的確な分析ですね。
カトリックにおける聖母マリアの存在は、ちょっとやりすぎという面が否めません。
(なお、カトリックでは聖母や聖人は、「崇拝」ではなく、「崇敬」の対象です。
たとえカトリックといえども、信ずべきお方は、三位一体なる唯一のお方だけです。)
たとえば、「無原罪」。プロテスタントは当然認めませんが、
聖母を認めるハリストス正教会でも認めていません。
(そもそも、ハリストス正教会では、「原罪」というものを認めていませんが・・・)
これだと、聖母マリアはキリストよりすごい存在になってしまっています。
キリストとは別の「女神」みたいなもののようです。
(ちょうど、下の絵のような・・・「すべての民の御母」という御絵です。
キリストに代わって、聖母マリアが救世主になったかのような印象さえ与えます・・・)
聖母マリアは単独で尊い存在なのではなく、
キリストとの関係において独特な存在になるのです。
あるいは、「聖母・聖人のとりなしの祈り」。
「神の母聖マリア、罪深いわたしたちのために、今も、死を迎える時も祈ってください。」
(「聖母マリアへの祈り」から)
プロテスタント的にいえば、「祈ってください」と何十回も繰り返し聖母に祈るよりも、
自分が直接神様に祈った方がいいのでは、とさえ思います。
神様直通の「祈りのホットライン」を築くことの方が大事です。
(とはいえ、三位一体なる唯一なるお方を全面的に信頼できない段階での、
「方便」の価値はあるのかもしれませんが・・・)
「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」
(新約聖書テモテへの手紙Ⅰ 2:5新共同訳)
私は聖母や聖人たちを否定するつもりはありません。
しかし、あまりにも過度な聖母・聖人は、まことの信仰への妨げになると考えます。
それらは、ヨハネ福音書の「サマリアの女」(4章)にすぎないのです。
(「仲介者」というよりは、「協力者」というべきでしょう。)
肝心なのは、
「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。
わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
(新約聖書 ヨハネによる福音書4:42新共同訳)ということです。
私自身、信仰の初期には、聖フランチェスコと聖母マリアの存在は大きかったです。
しかし、まことの救い主を個人的に知ることにより、
別な仲介者はあまり必要を感じなくなりました。
ちょうど、自転車に乗り始めの幼子にとっては補助輪が必要ですが、
あとは自分でバランスがとれるから、補助輪が必要なくなるように・・・
あるいは、誰かの仲介で、偉い人と知り合いになれたとして、
その後は、仲介者を通してではなく、直接、個人的に、
その人と親しくなることができるのと同じように・・・
「神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:21新共同訳)
「すると、天使はわたしに言った。
『やめよ。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、
この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。』」
(ヨハネの黙示録22:9新共同訳)
求めるべきは、神御自身「だけ」です。
「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、
時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」
(ヘブライ人への手紙4:16新共同訳)
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