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2010年11月15日 (月)

おすすめWEB記事~「2つの誤り 変えないことと、変えすぎること」(藤原淳賀氏)

先日、キリスト教書店に行った際、
いのちのことば」2010年12月号を無料で頂きました。
(「いのちのことば」は「いのちのことば社」のPR冊子のようなものです。)
その中で、興味深い記事がありました。
聖学院大学総合研究所教授・日本バプテスト連盟恵約宣教伝道所牧師の
藤原淳賀氏による、
2つの誤り 変えないことと、変えすぎること」と題するものです。
これは、「いのちのことば」誌の「21世紀の教会のために」という連載の第2回目です。
すばらしい記事なので、全文タイプ入力して掲載しようかと思いましたが、
いのちのことば社のHPで全文掲載がありましたので、そちらをご覧ください。
http://www.wlpm.or.jp/cgi-bin/db/kiji_t.cgi?keys34=0002624

詳しくは、記事全文をごらんいただきたいですが、
中心となる文章を引用しましょう。


 永遠に変えられない真理はあるが、変えるべき多くの事柄がある。特にプロテスタント信仰はそのような変革を迫る面を強く持っている。もしあなたが二十年前に神を信じたが、それ以降は特に語るべき証しがないとすれば、それは問題である。キリスト者も教会も神の前に悔い改め、新たに変革され続けていかなければならない。プロテスタント宗教改革とは、単に十六世紀に起こった歴史的出来事ではなく、われわれの生の中で、現在も起こっていかなければならない。
 変革ということを考えるとき、今日の教会には二つの誤りが見られる。特定の時代の文化的状況で生まれた教会の形式や礼拝形式を後生大事に変えようとしないことと、それらを軽率に変えてしまうことである。
 《由緒正しい教会?
 教会堂を「教会らしい」ものにしようとして会堂に尖塔のようなものを取りつけたり、ステンドグラスの簡易版を窓ガラスに張ってみたりしている教会がある。ある程度の規模の教会になると、パイプオルガンを海外から買って、メインテナンス費で苦しんでいることもある。あるいは「由緒正しく」あろうと、近代のある一時期の礼拝形式を導入してみたり、説教が時代から乖離して難解なものになっていることもある。表面的・形式的な由緒正しさによって正統である気がして安心する。ある特定の文化的表現を普遍の真理のように崇めることが「伝統的な」教会にはある。
 それらの教会は、国教的なヨーロッパやアメリカの主流派教会への憧れを持っていることが多い。そのような教会やキリスト者の特徴は、キリストへの誠実さ、キリストのための苦難よりも、手続き、社会への影響力、社会的ステータスを語るところにある。また有名人や政治家や権力を用いて事をなそうとする。そして、それを教会本来の使命と呼ぶ。しかし、そこで前提とされている教会は、国家や主流社会と手を携えるコンスタンティヌス的キリスト教を指している。
 《時代に合わせる教会?
 逆に、キリスト教的背景のない日本人に届こうとして、時代と妥協する教会も出て来た。よく考えずに、変えてはならないことを軽率に変えてしまう誤りである。
 多くの場合は、教会の現状への危機感や不満などから現代人のニーズに応えようとして生まれてくる試みである。これは良い動機である。しかし、プロテスタント自由主義の動機もそれであった。このような教会は少しキリスト教的香りのついただけの安っぽい福音を語ったり、極端な場合にはキリスト教の教理を変えようとすることさえもある。若者を取り込もうとして、時代と妥協して(あるいは心中して)、軽い今風なサークルのようになることもある。福音によって若者が回心し変えられるのではなく、時代によって福音が変えられ、教会の性質が変えられていく愚である。
 また最近の聖餐式をめぐる問題に見られるように、キリスト教会二千年、プロテスタント教会五百年の、あるいは自分たちの教派の伝統と信仰告白を無視して、プロテスタント教会の二つの聖礼典(洗礼式、聖餐式)のうちの一つを牧師が自分の好みで変えようとすることも見られる。
(以下省略)


記事の要旨は、
・外面的な「伝統」(ステンドグラスやパイプオルガン等)を重んじるあまり、
福音の「いのち」を失ってしまった教会。
・聖餐を未受洗者に配る(日本キリスト教団の一部等で既に実施!)など、
福音を都合よく変えてしまった教会。
この2つは21世紀の日本宣教において問題である。
というものです。

「福音」という「宝」を人々に贈る時に、
どんな包装紙・袋・風呂敷に包んで持っていくか、というのは、
実はある意味、どうでもいいようなことです。
デパートで言えば、大丸の包装紙か、三越の包装紙か、高島屋の包装紙か、
あるいはイオンやその他スーパーのでもかまいません。
大切なのは、中身なのですから。
しかし、中身が壊れていたり、ニセモノだったりすれば、
どれほど高級な包装紙、斬新な包装紙や袋であっても、
まったく価値がありませんね。

聖書的な表現で言えば、「福音」は常に新しいぶどう酒のはずです。
しかし、いつの間にか古い革袋に古いぶどう酒(いや、ぶどう酢かもしれません・・・)を出して、
それで満足していたり、
あるいは、「ほかの福音」、「別の福音」(ガラテヤ1章)を提供しようとしていては問題です。

聖餐(カトリックでは聖体拝領)は、プロテスタントではおろそかにされがちですが、
非常に重要なものです。
「パンを裂く」ことは、キリストの教会が発足した頃から、受け継がれてきたものです。
単なる象徴的なものや儀式の一つといって済まされるものではありません。

先ほど少しふれた、日本キリスト教団等における未受洗者への配餐問題について、
ちょうどいいブログ記事(というよりは、短い神学論文といった方がいいかも・・・)がありましたので、
紹介と引用をしましょう。
日本キリスト教会・名古屋岩の上伝道所・相馬伸郎牧師の
「聖餐と教会-今日の教会の課題として-」(日本キリスト教団)という記事からです。
http://blog.livedoor.jp/iwanoue/archives/16257611.html

(中略)ところが、今日の教会の中で、急速にこの聖餐を巡って混乱が生じて来た。それは、日本キリスト教団の中で顕在化し、激しい議論が起こっていると伺っている。未受洗者の陪餐容認問題である。いわく、「伝道の進展のためには、受けたいと願う誰でも食することを可能にすべきである。洗礼受領の有無によって、聖餐の交わりから疎外することは、差別である」というような議論である。教区、地区によれば、それを推進(容認)する牧師が過半数をしめるところがあるとも言う・・・。この議論こそは、教会がその存在を賭けて議論すべき主題である。何故なら、この問題は、教会の生命そのもの、教会の存亡に関わるからである。自分達の救いそのものに関わる根源的問題なのである。もし、そのことに気づかない、あるいはそのように理解できないのであれば、まさに死の危機に瀕していることが明らかになっていると言わざるを得ない。それ故に、今、聖餐について聖書の信仰と教会の伝統から、正しい認識を深めることが焦眉の急なのである。(以下省略)


「区別」と「差別」を履き違えていることと、
聖餐式をあまりにも軽々しく考えていることが問題ですね。

変えるべきところと、変えてはいけないもの。
そこを見極めが大事ですね。

なお、カトリック教会やルーテル教会などでは、
聖体拝領・聖餐式の時に、未受洗者に対して「祝福の祈り」をしています。
上記のように、「一緒に食べないから恥ずかしい」ので「食べさせる」というようなものではなく、
キリストの御体はいただくことはできなくとも、
祝福がいただける、というのは、すばらしいやり方だと思います。

神よ
変えられないものを受け容れる心の静けさと
変えられないものを変える勇気と
その両者を見分ける英知をお与えください

(ラインホルト・ニーバーの祈り)

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