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2010年11月の39件の記事

2010年11月30日 (火)

児童中心主義教育の行く末~教育不祥事ニュースから

最近、教師が授業において、児童に変な課題を与えて問題になる、
というのが新聞で何件か取り上げられていました。
国語の授業において、「殺される前に殺せ」と点字翻訳させたり、
道徳の授業において、脅迫文を作らせたり・・・
(いずれも、山梨県での出来事です。)
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20101129-OYT8T00630.htm
この手のニュースをまとめた記事として、
キス、殺せ、毒クッキー…トンデモ先生が続々!教育界の混乱とは」という記事が、
11月29日に出ていました。
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/fuji-zak20101129017/1.htm

私は、別にそれらの教師達を糾弾したいがために今回取り上げたわけではありません。
点字翻訳と脅迫文のものに共通する、
児童の興味を引くため」という動機を問題にしたいのです。
(そもそも、殺人事件をネタに視聴率を稼いでいるマスコミが、
自らの害悪を反省しないで、糾弾している自体、滑稽ですね。脚下照顧!)

現在のゆとり教育では、
児童の興味・関心等に基づく学習や創意工夫を生かした教育活動」というのが重視されています。
(その最たるものは、「総合的な学習の時間」です。)
この「児童の興味・関心等に基づく教育」という観点から言えば、
あえて言えば、先ほどの点字翻訳と脅迫文の授業は、「大成功!」ではないでしょうか。
(もちろん、これは皮肉な意味です・・・)
児童どころか、保護者や一般市民の「興味・関心等」を引き起こしたのですから・・・

児童中心主義の行き着く先は、結局「児童にウケる!」だけです。
教師はお笑い芸人並みになるしかありません。
本当に、このような低レベルな教育でいいのでしょうか?
教師が一方的に知識を注入し続けるだけの教育に戻れば解決、とは思いませんが、
あまりにも行き過ぎた児童中心主義は問題です。

新聞沙汰になるようなレベルではなく、もっと一般的なものを考えてみましょう。
教師は、教科書をきちんと教えると、「管理教育だ」などと反発することが多いようです。
本当は、きちんと教科書を教えること「すら」できない場合が多いのに・・・
それで、わざわざ教科書をポスター大まで拡大コピーして、
児童・生徒には「教科書をしまうように」などと言い、
黒板を掲示物で埋めてしまいます。
そうやって、問題解決型授業をやったりするわけです。
時間のムダと、エコに反することのように思います。
これも、「児童の興味・関心等に基づく教育」というわけです。
「児童の興味・関心等」よりも、「教育効果」をもっと考えてもらいたいです。

ところで、山梨県といえば、日教組王国といえるところですね。
日教組と民主党の某大物議員との結びつきは、
わが北海道の北教組並みのようです。
それはともかくとして、教員組合が強いところは、
ヘンな教育がまかりとおりやすいのかもしれませんね。
山梨県の日教組問題については、
山梨の教育問題アラカルト」というブログがありますので、
興味がある方は、ぜひご自分で検索してみてください。
また、「山梨県 日教組」等のキーワードで検索すると、
いろいろと、問題が出るわ、出るわ・・・
最近、「自衛隊の政治的中立」について、お達しが出たそうですが、
それなら、教育の分野において、もっと厳しく取り締まるべきです。
(最後は横道にそれてしまいましたね。)

2010年11月29日 (月)

「干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」生き方

昨日の朝、グレースチャペル(基督聖協団市川教会)の平塚修久牧師によるメルマガを読み、
とても心に響きました。
エレミヤ書からのメッセージです。
全文を転載します。


心がなごむバイブルメッセージVol.783【エレミヤ17章】
---------------------------------------------------------------------
17:5 主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし/そ
の心が主を離れ去っている人は。
17:6 彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく/人の住めない不毛の地
/炎暑の荒れ野を住まいとする。
17:7 祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。
17:8 彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り/暑さが襲う
のを見ることなく/その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく/
実を結ぶことをやめない。
---------------------------------------------------------------------

心は目には見えません。それゆえ、人が何に信頼し、何を頼みとしているかは、
他人には見えにくいものです。しかし、人の心をご覧になる神様は、その人が
何に依り頼んで生きているかをご存知です。そして、人の心が何を頼みとして
いるかによって、その人の人生に目に見える確かな違いを現わされるのです。

「その心が主を離れ去っている人」は、「荒れ地の裸の木」のように、「恵み
の雨を見ることなく、人の住めない不毛の地、猛暑の荒れ野を住まいとする」
と言われています。これは、喜びも希望も潤いもない渇き切った心と生活を意
味しています。恵みの源である神様から離れ去るとは、そういうことなのです。

一方、「主に信頼する人」は、「水のほとりに植えられた木」のように「水路
のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々として」、
「干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」と言われています。
たとえ周りは干ばつに襲われても、水源である神様に信頼して歩む人は、決し
て渇くことなく、憂いもなく、青々と葉を茂らせて、実を結ぶ人生を生きるこ
とができるということです。

一人の神父が、こんな体験を記しています。ベトナム戦争終了後、その神父は、
「反革命分子」のレッテルを貼られて13年間もの間強制収容所に閉じ込められ
ていました。彼の独房には5人の看守が交代で彼を見張り、四六時中彼を監視し
ていたそうです。

そんなある冬の夜、彼は、寒さと孤独で眠れない日が何日も続く中、自分はい
ったいどうしたらいいのだろうと途方に暮れてしまいました。すると、その時、
彼は神様の御声を聞いたのです。「なぜ、そのような愚かな考えを持つのか。
あなたはとても豊かであるはず。あなたの心には、キリストの愛が宿っている
ではないか。イエスがあなたを愛したように、あなたも彼らを愛しなさい。」

翌朝から、彼は看守たちの中にいる主イエス様を愛するように努めました。そ
して、彼らに微笑みかけ、言葉を交わしました。すると、しだいに強制収容所
内の雰囲気が変わり、最後には公安局長でさえも、部下たちの外国語教育を神
父に願い出るようになったというのです。

御言葉は、まさしく真実です。

17:7 祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。
17:8 彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り/暑さが襲う
のを見ることなく/その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく/
実を結ぶことをやめない。

主の恵みと平和が豊かにありますように!
平塚修久


このメルマガに出ている「一人の神父」とは、
ベトナムのフランシスコ グェン・ヴァン・トゥアン枢機卿(故人)です。
このエピソードは、
その著書「5つのパンと2ひきの魚」(女子パウロ会)に出ています。
女子パウロ会のHPで同書を紹介している所から、
フランシスコ グェン・ヴァン・トゥアン枢機卿の略歴を紹介しましょう。


著者:
フランシスコ グェン・ヴァン・トゥアン
1928年4月17日 グェン家の長男として生まれる。
         キム・ロン小神学校、フー・スァン大神学校を経て
1953年6月11日 司祭叙階。ローマ、ウルバノ大学に留学。
1959年     博士号取得、帰国。フエ教区立ホァン・ティェン小神学校校長。
1967年6月   教皇パウロ六世により、ニャ・チャン教区の司教に任命される。
1975年4月23日 教皇パウロ六世により、サイゴン大司教区の協働司教に任命される。
1975年8月15日 ベトナム共産党政権により不当に逮捕される。
1988年11月21日に釈放されるまで、13年間、拘留、軟禁、独房生活を強いられる。
1991年 国外追放。
1994年11月24日 教皇ヨハネ・パウロ二世により正義と平和評議会副議長に、
1998年     同議長に任命される。
2001年1月21日 教皇ヨハネ・パウロ二世により枢機卿に親任される。
2002年9月16日 帰天。

http://shop-pauline.jp/?pid=3531957


この本は釈放までの13年間密かに信徒たちへ宛てて綴ったものだそうです。
昨日ちょっとだけ立ち読みしてきました。

干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」生き方とは、
周りの状況如何にかかわらず、神様の愛に気づき、
その無限の富を思いめぐらし、神様に信頼し続ける生き方、といえます。
無一物中無尽蔵 花有り月有り楼台有り
もとは中国の詩人・蘇東坡の言葉ですが、
よく禅語として引用されます。
「~しかない」ではなく、「~もある」。
不平や非難をまき散らすよりも、
感謝と讃嘆をまき散らす生き方をしていきたいものですね!

5つのパンと2ひきの魚―獄中からの祈り

2010年11月28日 (日)

『赤毛のアン』と不登校~ホームスクーリングという選択肢

世界名作劇場シリーズを代表する名作、
『赤毛のアン』には、主人公アンが、不登校になる話があります。
(アニメ版なら第14話、原作では第15章)
アンが学校に行くようになってから間もない頃、
ギルバート・ブライスに、赤毛のことを「にんじん、にんじん」とからかわれます。
アンにとって、最大の屈辱でした。
アンは思わず石板でギルバートの頭を殴り、石板は粉々に割れてしまうほど。
この事件は、ギルバートが謝ったのですが、アンは許そうとしませんでした。
悪いことに、次の日、アンは教室に入るのが遅れたために、
先生から罰として、ギルバートの横に座るよう命じられました。
屈辱に屈辱が重なり、ついにアンは学校に行かない事に決めました。
しばらくの間、アンの不登校は続くのでした・・・
『赤毛のアン』の有名なエピソードですね。
『赤毛のアン』はもう100年以上昔の話ですが、
「不登校」という事を考えるのに、少し役に立つかもしれません。

今日、日本では、平成21年度間の長期欠席者(30日以上の欠席者)のうち、
不登校を理由とする児童生徒数(小学校・中学校・中等教育学校(前期課程))は、
12万2千人いる、という統計があります(文科省HPから引用)。
不登校者の全員が「いじめ」で不登校になった、というわけではないと思いますが、
かなり大きな要因を占めているのは確かでしょう。

『赤毛のアン』では、アンの保護者であるマリラは、
無理にアンを学校に行かせようとはしませんでした。
(もちろん、まわりといろいろ相談をきちんとし、熟慮の上での決断でした。)
それでも、家庭ではきちんと勉強させていました。
後にアンは学校に戻りますが、アンの不登校のきっかけとなった教師の後任に、
すばらしいステイシー先生とめぐり合ったおかげで、
アンは優等生への道を歩むようになるのでした。

ところで、今回不登校の事について調べてみると、
日本国憲法第26条では「教育を受ける権利」が規定されていますが、
これは「就学義務」まではうたっていないようです。
就学義務については、学校教育法について規定されています。
ただし、学校教育法では、就学義務の猶予または免除、
という例外規定が書かれています。
実際のところ、数年前明らかになった事件のように、
公立中学校は、まったくの不登校でも、卒業証書を出してしまいます。
(札幌で、母親に8年間も監禁されていた21歳の女性が見つかった事件。)
学校には在籍しつつも、登校せずに、フリースクールに通う子も多いようですね。
「教育を受ける権利」は最優先に保障されなければなりませんが、
いじめとかの問題があるなら、その権利は阻害されます。
代替教育(フリースクールやホームスクール)を正当に評価する基準が必要ですね。
自殺にまで追い詰められるよりも、不登校でもいいから、
わが子に生きていてほしい、というのが、親の切なる願いでしょう。

キリスト教関係では、
福音派や聖霊派の人たちを中心にした、「チア・にっぽん」という団体が、
ホームスクーリングを推進しています。
これは、単に不登校対策、といった消極的な要素ではなく、
公立校で行われる進化論的な背景を持つ教育ではなく、
創造主と聖書を中心にした教育を行いたい、という積極的な教育を行いたい、
というものから始まりました。
やり方次第では、公立小中学校の保育園的な教育よりも、
積極的で健全な教育ができるかもしれません。
興味がある方はぜひ以下のサイトを御覧になってください。
チア・にっぽん
http://www.cheajapan.com/cheaj/about.html

ただし、不登校問題は、かなり複雑なものです。
子どもの将来を一番よく考えた上で、医療機関や法律との兼ね合いなど、
よく知っておく必要があります。
参考までに、2つサイトを紹介します。
・教育基本法の親の就学義務免除(日本ホームスクール支援協会)
http://homeschool.ne.jp/welcome/2006/06/post_5.html
・就学義務とは(就学義務についての法令の根拠等~ブログ「野に咲く花のように」)
http://edublog.jp/ieyasuminamoto/archive/68

私自身としては、公教育の特に道徳の授業などで、
いじめを許さない教育をもっと推進すべきだと考えますし、
「脱学校」とかの考え方は極論だと考えます。
ただ、どこの世界に行っても、残念ながら、「いじめ」は存在します。
子どもは決して、天使なんかじゃありません。
ましてや、大人の世界はもっと複雑で、時には陰湿です。
まともに戦うよりも、時には逃げる事も必要です。

大切なのは、不登校を克服する事よりも、
いじめや差別、偏見にも負けない、
なんでもいいから自信を持てる領域を、子ども自身が見いだすことでしょう。
ちょうど、アンが勉強や想像力にそれを見いだしたように・・・

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赤毛のアン

2010年11月27日 (土)

NHK・ドラマスペシャル「心の糸」(2010年11月27日放送)を観て・・・

う~ん、主題がちょっと見えないかな・・・
というのが率直な印象でした。
新聞朝刊のテレビ欄で内容を知り、結構期待していたのですが・・・
親子の葛藤がメインなのか、聾唖者の社会進出がメインなのか、
どちらも中途半端で終ってしまったような気がします。
松雪泰子さんら主な出演者が手話に挑んだことは大いに評価できますし、
障がい者もの=美談、で終らないところも評価できます。
でも、たとえば松雪泰子さんや谷村美月さんの役のところを、
本物の聾唖者の方に演じてもらう(たとえば忍足亜希子さんとか・・・)など、
少し配慮があった方がいいと思いました。
また、12月には全面字幕版を放送する、とのことでしたが、
最初から、字幕版を放送した方がよかったのではないでしょうか。
(我が家では字幕放送をいつも使っているので、特に字幕版を必要としませんが・・・)

ドラマの中では音楽の使い方と、「沈黙」の使い方がなかなかよかったです。
あと、ヤクザとの絡みの話は、なくてもよかったのでは、と思いました。
もう一工夫すればよかったかなと思いますが、
聾唖者についてドラマで取り上げた、という社会的な貢献は大きいと思います。
また、ネガティブ・ポジティブ両方の聾唖者の姿をきちんと描いたのもよかったと思います。

最近、障がい者の方々がどのように考えているか、いろいろと知る機会があり、
まだまだノーマライゼーション社会の実現は日本では遠いのだな、と痛感しています。
障がい者の方々の苦労は筆舌しがたいものです。
どうしても、ネガティブになりがちです。
だからこそ、障がいがあっても明るく生きる人の姿というのは、非常に貴重なものです。
ヘレン・ケラーとか乙武洋匡さんとか・・・
積極的に生きていく人は、障がいがあるなしに関係なく、
誰しも後押ししたくなるものです。
難しいことなのでしょうけど・・・

福祉社会の実現に向けて、NHKにせよ、民放にせよ、
いろいろな形で、障がい者の問題について、
これからも取り上げてほしいと願っています。

オリジナル・サウンド・トラック
NHKドラマスペシャル「心の糸」オリジナルサウンドトラック

幸せは思い切って1歩踏み出した所に~映画「幸せの1ページ」(Nim's Island)

ファミリー向けの映画です。

先日、TSUTAYAで映画「幸せの1ページ」を借りて、
妻と一緒に観ました。
冒険小説家が実は引きこもりだった・・・という設定が面白そうだな、と思ったからです。

原題は"Nim's Island"。直訳は「ニムの島」です。
邦題は原題とあまりにもかけ離れていますが、内容をよく表しているのかも、と思いました。

この映画の主人公は、南太平洋の孤島に住む少女、ニムです。
(キャラとしては、世界名作劇場の「七つの海のティコ」と「ふしぎな島のフローネ」の主人公を、
足して2で割って、現代的にしたもの、という感じかな・・・)
ただ、これだけでは映画的に売り出すのが難しいので、
ジョディ・フォスターというビッグネームを助演させているのでしょうね。
映画では、ジョディ・フォスターの見事なダメっぷりが見物です。
余計な理屈は考えないで、彼女のコミカルな演技を見るだけでも、
1度は観る価値があるでしょう。
半分はマンガ、と割り切った方がいいと思います。

ジョディ演じるアレックス・ローバーは、
ワクワクするような冒険小説を書いている一方、
実生活では家の外へ一歩も出ることができない外出恐怖症で、
重度の潔癖症です。
何か、インターネット社会の私たちの戯画のようですね。
世界の片隅で起こっている事や、深海や宇宙の果てのことまで知っている一方、
隣の人は何の仕事をしているか全然知らないし、
そもそも会った事がない、とか・・・
ニムの父親も、近視眼的な感じです。
小説家のアレックス・ローバーの分身である、
小説中の人物のアレックス・ローバーと1人2役です。

「海賊」とか、インディ・ジョーンズ風の人物とか、
少し期待させる反面、意外と何事も起こらず、
勘違いにつぐ勘違いで終る、という感じでしたが、
ハッピーエンドで終るので、後味はさわやかです。
(かなりあっさり終わってしまいます・・・まさに「1ページ」目で終わるような・・・)
家族や恋人と一緒に観ると楽しいでしょう。
動物たちも大活躍です。

ところで・・・
ドアを開けるのも「大冒険」のような人も、
今までとは違う「何か」を、勇気を持って一歩踏み出してみれば、
意外にも、すばらしい「幸せ」が待っているかもしれません。
扉の外で、「幸せ」がノックしているかも・・・

ジョディ・フォスター/幸せの1ページ

2010年11月26日 (金)

METの「トゥーランドット」今昔~NHKh放送版とDVD版

NHKハイビジョンで、「華麗なるメトロポリタンオペラ」と題して、
11月23日深夜から4夜連続で、
2009年にメトロポリタン歌劇場(以下「MET」)で上演されたオペラを放送していました。
私はヴェルディの「アイーダ」とプッチーニの「トゥーランドット」をそれぞれ途中まで観ました。
(「アイーダ」は第2幕の凱旋行進曲のところまででダウン・・・
なお、この記事はこのシリーズ最終夜「ホフマン物語」を聴きながら書いています。
あまりおもしろくなさそう・・・オランピア役のヴィジュアルはポップですが・・・)
こんなすばらしい舞台を、平日の夜中(午前0時~3時くらいまで)にやっているのは、
非常にもったいないし、こんな遅くにまともに観ていられないよ~というのが、
正直な感想でした。
せめて土曜日の夜10時ぐらいとかからにしてほしいものです。
(我が家ではまだデジタル放送対応のビデオ、レコーダーがありません。)

さて、今回書きたいのは、「トゥーランドット」についてです。
フランコ・ゼッフィレッリ演出の豪華絢爛たる舞台です。
1987年のMETでの上演は、DVD化されています。私も持っています。
オペラ演出の頂点のような舞台ではないでしょうか?
2009年版は、演じる歌手は違いますが、基本的には同じ舞台装置、演出でした。
少し変更されたのかな、という点はいくつかありますが、
視覚的に大きいのは、第2幕でトゥーランドットが謎かけをし、
カラフがそれを解いた後、
トゥーランドットの背中から羽根のような細長い幕(旗?)が出てくるところです。
DVD版では、
トゥーランドットの背中にガンダムのビームサーベルのような棒がいくつもあり、
それらが謎を解くたびに取り出されて拡げられていました。
2009年の演出では、背中のそれはなくなっていたようです。
(後で気づきました。)
細かい違いなど、実はどうでもいいことなのですけどね・・・
最近、「音楽の友」とかをまじめに読まなくなったせいか、
知っている歌手は、主役のマリア・グレギーナさんと、
ティムール役のサミュエル・レイミーさんぐらい・・・

「トゥーランドット」でいつも苦笑してしまうのは、
第1幕で、トゥーランドットの謎を解けなかったために、
処刑される運命にある異国の若い王子を見て、
カラフは「なんてひどい姫だ!罵倒してやりたい!」みたいな事を言った数分後、
トゥーランドットを一目見て、「なんと神々しい美しさだ・・・」と絶賛するところです。
トゥーランドット役は、失礼ながら、結構体格のいい方でないと勤まりません。
私が初めてMETの「トゥーランドット」(当時はLD!)を観た時、
誰が絶世の美女である(はずの)トゥーランドットかわからず、
トゥーランドットが出てきても、「あれはトゥーランドットのお母様かな?」と思ったほどでした・・・
(大変失礼!)
イタリア式恋愛は、瞬間湯沸かし器的に、すぐに火がつくのでしょうかね~
(あっ、舞台は中国でした・・・)
1987年のDVD版は、ヴィジュアルはともかく、歌としては、
エヴァ・マルトンさんの声が迫力ありましたし、
カラフはプラシド・ドミンゴさんだったので、文句なしでした。
2009年版のマリア・グレギーナさんもなかなかよかったですよ。
(後でDVDを改めて少し観直すと、1987年版の方が、若干キラキラ度が強い気がしますが・・)

テレビ放送の話に戻りましょう。
第2幕が終った時点で、既に1時半でした。
もう限界・・・
有名な「誰も寝てはならぬ」を聴く前に、
あきらめて寝てしまいました。
だって、「誰も寝てはならぬ」ですから・・・
(夜の1時半なら、よいこは「誰も起きていてはならぬ」ですね・・・)

「誰も寝てはならぬ」は、テノールのアリアとしては最も好きです。
荒川静香さんの金メダルですっかり一般的にも知れ渡るようになりましたね。
自分も輝かしい高音域が出るなら、ぜひ歌ってみたいな、と思っている曲です。
(残念ながら、二点F(F5)ぐらいが高音で出せる限界です・・・)

トゥーランドットは、よく考えれば、オペラ史上最強(というより最凶!)の、
「ツンデレ」キャラですね~
私は氷の姫君はゴメンですが、作品そのものはとても好きです。

ぜひこの放送、また別な機会に、もっと観やすい時間に、再放送してもらいたいものです。
舞台裏を垣間見せてくれたり、舞台真上のアングルがあったり、
歌手へのインタビューがあったりして、幕間も退屈することがありません。
(このシリーズ、映画館でやっていた「METライブビューイング」と同じものなのでしょうね。
私は映画館で観たことはありませんが・・・)

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2010年11月25日 (木)

わたしは生い茂るオリーブの木(詩篇52:10~11)【自作曲】

今回は、詩篇52への作曲を紹介しましょう。
タイトルは「わたしは生い茂るオリーブの木」。
テキストは、旧約聖書 詩編52:10~11新共同訳です。
なお、新改訳や口語訳等、プロテスタントのみの聖書では、
ここは8~9節となります。
テキストを引用しましょう。

わたしは生い茂るオリーブの木。
神の家にとどまります。
世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。
あなたが計らってくださいますから
とこしえに、感謝をささげます。
御名に望みをおきます
あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い
あなたの御名に。

(旧約聖書 詩編52:10~11新共同訳)

旧約聖書に出てくる三大植物、といえば、
ぶどう、いちじく、そしてオリーブです。
聖書で一番最初に「オリーブ」が出てくるのは、
ノアの洪水が終った後のところです。
鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。
見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。
ノアは水が地上からひいたことを知った。

(旧約聖書 創世記8:11新共同訳)
鳩がオリーブの葉を加えている絵は、
平和のシンボルとして有名ですね。
オリーブ油は、主への献げ物のパンの材料にもなりました。
士師記9:9では、
オリーブは「神と人に誉れを与える」ものとされています。
新約聖書では、異邦人とユダヤ人との関係を、
野生のオリーブの木と栽培されているオリーブの木との接ぎ木にたとえています。
(ローマ11:24)

では、詩篇52において、
どうして詩人は「わたしは生い茂るオリーブの木」と歌ったのでしょうか?
神様において、神様との関係において「栽培され」、
神と人に誉れを与える」存在である、
神様との正しい関係にある、と告白しているわけです。
それは、3~9節(新改訳等では1~7節)での「力ある者」との対比です。
まことの神様に結ばれ、手入れを受けて、私たちは豊かに実を結びます。
だからこそ、「とこしえに、感謝をささげます。」(11節)と、
私たちも主なる神様を讃えていきたいものです。

曲の紹介に移りましょう。
ニ長調の柔和な曲です。
10年以上前に与えられた作品です。
ここ数日、頭の中でよく流れていますので、
今回紹介に至りました。

ちなみに、我が家では、イタリア人にならって、
パンをオリーブ油に浸して食べることが多いですよ。
以前、NHK教育の「テレビ イタリア語講座」で紹介されていました。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

「20101125_psalms052010no01.MID」をダウンロード

「20101125_psalms052010no01.pdf」をダウンロード

2010年11月24日 (水)

神よ、わたしを探り・・・・(詩篇139:23~24)【自作曲】

今回は、詩篇139からの自作曲を紹介します。
テキストは、旧約聖書 詩篇139:23~24新改訳です。
短いので、テキストを記載します。

神よ。私を探り、私の心を知ってください。
私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見
私をとこしえの道に導いてください。

ロ短調の瞑想的な曲調です。
なお、上記テキストのうち、下線部は都合上、省きました。
今年の4月に与えられた作品です。

詩篇139は、神様が詩人(=私たち)のすべてを知っておられる、
ということをしみじみと瞑想するような内容です。
19節~22節は、ちょっと異質な調べが混じっている(敵を滅ぼすことを神様に訴えている)感じ・・・
結論は、今回のテキストである23、24節でしょう。
神様の恵みを深く思い巡らし、感謝し、今の困難(19~22節)を訴え、
直接的な願いを訴えます。
新共同訳で23、24節を引用してみましょう。

神よ、わたしを究め
わたしの心を知ってください。
わたしを試し、悩みを知ってください。
御覧ください
わたしの内に迷いの道があるかどうかを。
どうか、わたしを
とこしえの道に導いてください。

詩人の心の深い願いは、神様と心が結ばれることです。
私たちも、そうありたいですね・・・

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

「20101124_psalms139023no01.MID」をダウンロード

「20101124_psalms139023no01.pdf」をダウンロード

2010年11月23日 (火)

新しいアイデンティティーに生きる~映画「トイ・ストーリー」

11月22日に、テレビ東京系で、映画「トイ・ストーリー」が放映されていました。
実は、私はこの映画を観るのが初めてでした。
(フルCG映画、というのがウリ程度かな、ぐらいにしか考えていませんでした・・・
食わず嫌いでゴメンナサイ・・・)
妻は1度観たことがあるようですが、あまり記憶に残っておらず、
初めて観たのと同じような感じで、楽しんでいました。

フルCGかどうかなんて関係ないほど、ワクワクするような映画でした。
今まで観ていないのが損していたなぁ、と思えるぐらいに・・・
(おもちゃたちより人間の方がなんとなくぎこちなく見えるのが難点でしょうか・・・)
日本語吹き替えも非常に優れていました。
バズ・ライトイヤー役の所ジョージさんの声が、最初だけ少し違和感がありましたが、
すぐに慣れ、物語終盤にかけては、「やはりこの声じゃないと・・・」とさえ思えるようになりました。

映画の中で印象的なシーンは多々ありますが、
一番は、といえば、
自分を本物のスペースレンジャーだと思い込んでいたバズ・ライトイヤーが、
実は自分はただのおもちゃに過ぎず、空も飛べず、
台湾製である、という事実をはっきり知るところです。
コミカルなところではありますが、バズにとっては、アイデンティティーを喪失してしまうところです。
自信と誇りを喪失し、おままごとの相手役にさせられたところなどは、
生身の大人で言えば、自暴自棄になって酔いつぶれているようなものでしょう。
そんな中、相棒であるウッディが、彼を慰め、励まします。
ニセのアイデンティティー(本物のスペースレンジャーであること)から、
本当のアイデンティティー(アンディの愛するおもちゃ)に気づかせます。

このシーンは、『星の王子さま』の、
自分が愛していたバラは宇宙にたった一本の、唯一無二の存在だと思っていたら、
実は何百万本とあるうちのありふれた一本に過ぎない、ということに王子さまが気づくところ、
そして、改めて、その大切さ、かけがえのなさに気づくところを私に想起させました。
キリスト教信仰でいえば、
「あなたは罪人だ!」というメッセージなど馬耳東風だったのが、
切実に響くようになり、自らの罪深さに恐れおののく中、
「神はあなたを愛している!」という福音のメッセージを信じて、
神の子としての新しいアイデンティティーのうちに生きる姿に似ていますね。
しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、
その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、
――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――
キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。

(新約聖書 エフェソの信徒への手紙2:4~6新共同訳)

大人も子どもも楽しめる、傑作の名に値する作品です。
番組冒頭と最後で、しょこたん(中川翔子さん)が、
10歳の時に初めて観たときの興奮を熱く語っていましたが、
まさに、そのとおりであることを実感しました。

トイ・ストーリー スペシャル・エディション

星の王子さまオリジナル版

イエス様の洗礼(教会学校説教案)

先日、教会学校で「イエス様の洗礼」(マタイ3章他)についてお話しました。
いつもの通り、『聖書のおはなし』を使い、
そこに書かれている「イエスさまの洗礼」という話を読み、
その後、子供達に3つの質問をしました。
今回、用意した問いは以下の3つです。
1.洗礼とは何ですか?
2.イエス様は洗礼を受ける必要がありましたか?
3.あなたは洗礼を受けていますか?洗礼を受けたいですか?

このうち、1と3については、そんなに重要ではありません。
ただ、残念ながら、「洗礼とは何ですか」という問いに対しては、
あまりいい回答が出てきませんでした。
ひととおり、子供達の回答を引き出した後、
洗礼とはこういうものだ、ということをきちんと教えました。
(全浸礼と滴礼の話、そこから「キリストと共に罪に死に、キリストと共に生きる」
というような話などをしました。)
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、
その死にあずかるものとなりました。
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、
わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

(新約聖書 ローマ6:4新共同訳)
洗礼によって、キリストと共に葬られ、
また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、
キリストと共に復活させられたのです。

(新約聖書 コロサイ2:12新共同訳)
この水で前もって表された洗礼は、
今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。
洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。

(新約聖書 Ⅰペトロ3:21新共同訳)

今回特に取り上げたいのは、2についてです。
「イエス様は洗礼を受ける必要がありましたか?」
この問いについては、まず「洗礼とは何か」を理解させた後、
補助的な質問として、「どんな人が洗礼を受ける必要がありますか?」と問います。
答えは「すべての人」です。すべての人は罪をもっています。
だからこそ、罪を洗い清める洗礼を受け、神の子とされる必要があるのです。
今、何をためらっているのです。
立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。

(新約聖書 使徒22:16新共同訳)
(洗礼の意味はいろいろありますし、多面的にとらえるべきでしょうが、
子ども向けの説教の場合、あまりあれこれ詰め込みすぎても、
かえって理解が難しくなります。)

イエス様は神の子であり、地上で唯一、罪のないお方でした。
それなら、なぜ「罪人」と同じ、洗礼をお受けになられたのでしょうか?
ここを説明するのには、「連帯責任」という概念を用いると一番わかりやすいです。
(子どもに「連帯責任」といってもわかりませんので、
もっと具体的なたとえでわかりやすく説明する必要があります。)
私が用いたのはこんな話です。
「みなさんは、スーパーとかデパートで、間違って物を壊したりしたことありませんか?」
(ある!との声→具体的な話を聞く)
「それでは、この場合、その後壊したものをどうしたの?誰が悪いことになる?」
(親が弁償した、との声)
「物を壊したのは子どもですが、この場合は、親が責任をとって弁償します。
親は愛ゆえに、子どもの罪を引き受けます。」
「それと同じように、神様は、私たちを愛し、
その愛のために、私たちと同じものになってくださいました。」
「罪のないお方が、私たちと同じ、罪を引き受けた者となってくださったのです。」
「イエス様が洗礼をお受けになられたのも、私たちの愛ゆえでしたが、
それは十字架という形で完全にあらわされました。」
そのような話の後、洗礼を受けているか、受けたいかの話にもっていきます。

今回は都合上触れませんでしたが、
イエス様の洗礼、という主題はいろいろなアプローチができます。
たとえば・・・
・三位一体について(父、子、聖霊が出てくるので)
・イエス様でさえ、聖霊の力を必要とされた。
・洗礼と結婚の比喩
(愛するゆえに、同じものになりたいと願う。
結婚の目に見えるしるしが婚姻届や結婚式、結婚指輪、夫婦の共同生活であるように、
キリストに結ばれている、という目に見えるしるしが洗礼である。)

聖書のおはなし

なお、「罪人との連帯責任」説というのは、
北森嘉蔵の『聖書の読み方』(講談社学術文庫)に出ています。

聖書の読み方

2010年11月22日 (月)

メルキゼデクのように(詩篇110:3~4)【自作曲】

キリスト教における「祈りの王様」ともいえる「主の祈り」の中には、
「み国が来ますように」(御国を来たらせたまえ)という言葉がありますね。
「み国」という言葉は、普段の言葉ではまず使いませんが、
直接的には、「(神の)王国」ということです。
英語では"Kingdom"という語を使っています。
そう、主なる神様は「王」である、君主であり、
私たちの全生活を支配・統治されている、ということを表明していることになりますね。
(「主の祈り」については、
私のブログのカテゴリ「主の祈り」であれこれ書いていますので、
よろしければお読みくださいね。)

年間最終主日は、終末・再臨の時に「王」として来られる方を瞑想せよ、
と指し示すような聖書箇所を使っている教会が多いですね。
カトリック教会では、特に「王であるキリスト」として祝っています。
そこで、今回は、「王」であるお方を瞑想するにふさわしい自作曲を紹介します。
タイトルは「メルキゼデクのように」。
テキストは、詩編110:3~4カトリック訳です。
厳かな感じのホ短調の曲です。
なお、「おまえは永遠の祭司」という言葉が出てきますので、
そこは「あなたは」と読み替えた方がいいのでは、と思い、
(あなた)というの下に入れています。
ここでの「おまえは」は神様からメシアを呼ぶ際であって、
私たちが呼びかける場合は「おまえは」では変ですね。

「メルキゼデク」というのは、新共同訳の詩編110では、
(わたしの正しい王)」という本文に組み込まれた註が書かれています。
新約聖書の「ヘブライ人への手紙」7:2では、
メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。
(新約聖書 ヘブライ人への手紙7:2新共同訳)
という記述があります。
旧約聖書では、
わずか3ヶ所(創世記14章に2ヶ所、詩篇110に1ヵ所)にしか言及がない謎の人物ですが、
新約聖書のヘブライ人への手紙では9ヶ所にわたって言及されています。
キリストは新しい、メルキゼデクのような大祭司である、ということが、
巧みに論証されています。
詩篇110:4は特に有力な根拠とされているところです。

今回使用しているカトリック訳は、
あまり知られていませんので、テキスト本文を引用します。

生まれた日から あなたには王の威厳が備わっている。
あなたは朝の露のように生まれ、光り輝く。
『メルキゼデクのように、おまえは永遠の祭司。』
これは ゆるぎない神のことば。


参考までに、新共同訳と新改訳の同じ箇所を記載しておきます。

(新共同訳)
あなたの民は進んであなたを迎える
聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ
曙の胎から若さの露があなたに降るとき。
主は誓い、思い返されることはない。
「わたしの言葉に従って
メルキゼデク(わたしの正しい王)。」

(新改訳)
あなたの民は、あなたの戦いの日に、
聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える。
あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ。
主は誓い、そしてみこころを変えない。
「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」

カトリック訳の欄外註によると、
3節の原文は破損して、復元の試みが数多くなされている。」とのことです。
確かに、新共同訳・新改訳どちらも3節のところは意味不明ですね・・・
それらに対して、カトリック訳は、意訳かもしれませんが、
整った意味があります。
キリストのご降誕を預言するような内容になっていますね。
生まれた日から あなたには 王の威厳が備わっている。
あなたは朝の露のように生まれ、光り輝く。
ベツレヘムの星と羊飼いの礼拝の様子が目に浮かびそうです。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

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2010年11月21日 (日)

米国における5歳児プログラム~小一プロブレム解決のヒントになるかも?

教育関係で、ここ数年よく聞くようになった言葉の一つが、
小一プロブレム」です。
授業が始まってもふらふらと廊下を歩いているとか、
教室を歩き回ったりしている、などの問題行動を起こす児童によって、
授業にならない状況が発生することです。
(以前、ある小学校での小1の音楽の授業を拝見したことがありますが、
さすがにそこまでの状況はなかったものの、
小1の段階で、まったく授業についていけない子・参加しようとしない子を何人も見つけました。)

これについて、教育システムを改善するとか、
学校の教師の指導力が足りないとか、
幼稚園・保育園との連携がもっと必要だとか、
いろいろな改善策・問題点の指摘がされています。
しかし、一番問題なのは、教師の指導力などではなく、
「親によるしつけ」の問題でしょう。
「親によるしつけ」がおろそかになったツケを学校に廻すのは、本来お門違いです。
とはいえ、マスコミ等で「親によるしつけ」を棚上げにして、
教師・学校を叩く構造になっているのは、時代の流れなのでしょうね・・・
ますます小学校が「保育園」化するばかりです。
本当の「教育」は学習塾が引き受け、
経済的に厳しい家庭は真の教育を受けるチャンスを逃し、
さらに経済格差が拡大・固定化してしまう、という悪循環に陥るだけです。
貧困層の増加は社会不安・雇用不安を招くばかり・・・


それでは、この問題をどうすれば少しでも改善できるのでしょうか。
「幼児教育ポータルサイト」というHPでは、

この小一プロブレム(小一問題)に対して、どのような対策を行っていったら良いのでしょうか?
基本は幼少期から各家庭自分の子供に対してきちんとしつけを行っていくことが大切です。
その後、保育園や幼稚園、更には小学校の先生方との連携により対策を行っていくことでより良い状態に改善をしていくことが必要だと思います。
小一プロブレム(小一問題)がすでに起こっている学級では、即効性のある打開策は難しく、各学校の先生方も大変な問題として受け止めています。
現在の子供達は親とも友達に近く、先生とも友達のような関係であることが当たり前のようになってきていますので、目上の人に対する尊敬・敬う心が育ちにくい環境であるため、親や先生の言うことも聞かない子供達が増えてきているようです。
親の過保護・過干渉によるモンスターチルドレンなどの似たようなケースも見逃せません。
子供と親の関係として友達関係でも良い関係は築ける場合もあるかもしれませんが、親(特に父親)は怒ると怖いという感覚(悪いことをしたらいけないという気持ち)も大切です。
親と子供・大人と子供には上下関係があるという当たり前の関係が現代社会では崩れてきています。
学校での問題は複雑な要因などが絡み合いますが、基本的に各家庭でのしつけ教育が崩れてきていることが原因ですので、我々親達は幼児期のしつけや教育、親子関係に対してもっと学習していく必要があるように思います。
小一プロブレムやその他、現代の子供達に起こっている問題の多くは我々親のしつけや教育意識の低下が問題なのです。

という問題の分析と提言を行っています。
http://www.sehimiry.com/syouiti-p.html
しかし、これでは「親によるしつけ」の欠如を補うことは無理ですね。
強制力あるやり方が必要です。

先日、ニューズウィーク日本版公式サイトを閲覧していると、
冷泉彰彦氏のブログ「プリンストン発新潮流アメリカ」で、
日本の幼保一元化の問題について、米国での取り組みを基にした独自の提言がありました。
非常に興味深い記事ですので、ぜひご一読を!
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2010/11/post-225.php

米国の5歳児の教育プログラムは、公立小学校の「慣らし運転期間」のような位置づけで、
無償の公教育の初学年となっているそうです。
その教育内容については、記事から一部引用しましょう。

 「ビル・クリントン時代にアメリカが進めた教育改革も「K・トゥ・16」つまりキンダーから16年生(大学4年生)までの統一カリキュラムをガイドラインとして筋を通すことが中心でした。この「キンダー」は多くの場合は小学校に併設されていますが、午前午後の長時間保育ではなく、午前だけ、あるいは午後だけとの複式という形で子供の負担を軽減して(自治体のコストも軽減して)いる学区もあります。

 その教育内容ですが、学年終了時の到達度目標としては、非常に明確に定義されています。主要なものとしては以下のようになっています。

1)アルファベットの一部がわかる。数は10まで数えられる。
2)鉛筆やクレヨンなどを正しく持てる。はさみやノリなどが使える。
3)ボールをポンポン弾ませることができる。
4)モノの大小、多寡がわかる。
5)自分の名前が言える。着替え、トイレ、片付けができる。
6)一人遊びと集団遊びが区別してできる。指示に従える。
7)読み聞かせに集中できる。
8)親から抵抗なく離れることができる。

 何だか幼稚園にしては厳しそうだし、学校にしては目標が低すぎて不安だしという印象を持たれる方も多いと思いますが、それもそのはずであり、アカデミックなスキルも、社会性のスキルについても、正に「幼稚園・保育園」と「学校」の接続の機能を持たせた「ちょうど橋渡し」のカリキュラムになっているのです。

 その効果として、アメリカでは「小一プロブレム」は顕在化していません。」(以下省略)


日本においても、「子ども手当て」を増額したり、
保育園を増やすとかよりも、
もっと、子ども自身の将来を見据えた効果的な教育に、
貴重な税金を有効に投資すべきではないでしょうか?
上記であれば、明確な「到達度目標」があるのはすばらしいです。
(小学校の義務教育であれば、「読み・書き・計算」といった基礎・基本を、
到達目標をもって教えるべきでしょう。
「学力はテストでは測定できない」などと逃げ口上を言っているのでは、
いつまでたっても現実は変わりません。)

2010年11月20日 (土)

バレエ「ロメオとジュリエット」~CM効果は強烈!

妻はバレエや体操(平均台とかの方)、フィギュアスケートなど、
身体で美しい表現をするものを観るのが好きです。
私も、もともとフィギュアスケートなどは好きですが、
バレエはどうも・・・苦手です。
「くるみ割り人形」組曲とか、「白鳥の湖」組曲のような、
抜粋されたものは好きですけど・・・
長い時間、台詞もなくただ踊りを観続ける、
というのは、ちょっと退屈です。
(バレエファンのみなさん、ゴメンナサイ!)

NHK教育の「芸術劇場」で、
11月19日深夜に、
プロコフィエフのバレエ「ロメオとジュリエット」の、
英国ロイヤル・バレエ団による日本公演の様子が放映されていました。
妻と少し一緒に観ていました。
衣装と舞台は豪華絢爛でした。
バレエの質は・・・私にはよくわかりませんでした。
(妻は満足していました。)
妻はずっと観続けていましたが、
私は音楽だけ聴きながら、TV画面は観ずに、記事を書いたりしていました。
すると、耳に残るのは、
以前ソフトバンクのCMで流れていたあの曲です・・・
「モンタギュー家とキャピュレット家」という曲名です。
一度聴いたら忘れられない印象を心に刻みこんでしまいますね。
何年も経っているのに、CM効果は「予想外!」
バレエの中でこのメロディが何度も出てくるたびに、
「ロメオとジュリエット」よりも、
CMの方を連想して苦笑してしまうところがなんとも皮肉なものでした・・・
CM効果はなんと強烈なことか・・・
(以前「名曲探偵アマデウス」でもこのバレエを取り上げていました。
ジュリエットのテーマとか、いろいろありましたが、結局覚えていません・・・
「モンタギュー家とキャピュレット家」の冒頭部分が、ほかをすべて吹き飛ばしてしまう感じです。)

【送料無料選択可!】プロコフィエフ: バレエ「ロメオとジュリエット」(抜粋) / シャルル・デュトワ(指揮)/モントリオール交響楽団

「ロオとジュリエット」といえば、
(微妙に違うでしょ?・・・クラシック音楽では「ロオ」が多く、
原作の邦題や映画などは「ロオ」ですね。)
やはり原作そのものと、映画版を思い出します。
映画版のテーマ曲、結構好きです。

ロミオとジューリエット (岩波文庫)

ロミオとジュリエット

羊のように(ゼカリヤ9:16~17)【自作曲】

明日(2010年11月21日)は教会暦で言えば年間最終主日。
カトリックでは「王であるキリスト」の祭日、
プロテスタントでは教派によって呼称はさまざまです。
いずれにせよ、「終末」や「最後の審判」を意識させるような朗読箇所が選ばれるようです。
何はともあれ、また一つ年は過ぎ行き、新しい年度を迎えます。

今回は、旧約聖書のゼカリヤ書から、終末的イメージの箇所への作曲を紹介します。
テキストは、旧約聖書ゼカリヤ書9:16~17新共同訳です。

ゼカリヤ書9章といえば、受難週の最初(枝の主日)の、
主イエスのエルサレム入城を預言した箇所として、9節がよく知られていますが、
今回の16~17節は、それほど注目されていない箇所かもしれません。
テキストを引用しましょう。


彼らの神なる主は、その日、彼らを救い
その民を羊のように養われる。
彼らは王冠の宝石のように
主の土地の上で高貴な光を放つ。
それはなんと美しいことか
なんと輝かしいことか。
穀物は若者を
新しいぶどう酒はおとめを栄えさせる。


参考までに、新改訳(第3版)の同じ箇所も引用しましょう。


その日、彼らの神、主は、彼らを主の民の群れとして救われる。
彼らはその地で、きらめく王冠の宝石となる。
それは、なんとしあわせなことよ。
それは、なんと麗しいことよ。
穀物は若い男たちを栄えさせ、
新しいぶどう酒は若い女たちを栄えさせる。


新共同訳のテキストで讃美する場合、
彼らの」という言葉は、どうもよそよそしい響きになります。
そこで、楽譜では、「かれらの」の「か」の下に、
「(わ)」を補い、「われらの神なる主は・・・」と歌うことができるようにしてあります。

この箇所、「王冠の宝石」という、きらめくような言葉が使われていますね。
日本聖書協会の聖書本文検索サイトで調べてみましたが、
王冠の宝石」という言葉は、聖書全体でもここにしか使われていません。
(似た表現としては、イザヤ書61:10に、
わたしは主によって喜び楽しみ
わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。
主は救いの衣をわたしに着せ
恵みの晴れ着をまとわせてくださる。
花婿のように輝きの冠をかぶらせ
花嫁のように宝石で飾ってくださる。

というのがありますが・・・)
どれほど神様が私たち神の民を尊いものとして観て下さるか、というのが、
よくわかる表現ですね。

終末、最後の審判というと、どうしてもおどろおどろしい光景ばかりが強調されますが、
信じる者にとっては、究極の慰めの時となることでしょう。

あと、この箇所では、「穀物」と「新しいぶどう酒」という表現で、
キリストの御体と御血を指し示している(聖体拝領、聖餐式)とも言えますね。
わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
(新約聖書ヨハネによる福音書6:55新共同訳)

曲の紹介に戻ります。
なんとなく、クリスマス的な雰囲気が漂っているような感じの曲かもしれません。
柔和に、優美に歌うといいでしょう。
途中、私の作品としては非常に稀な、8分の7拍子が出てきます。
新しいぶどう酒」が「おとめを栄えさせる
という音楽的解釈にふさわしいかも・・・

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
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2010年11月19日 (金)

日本の「報道におけるタブー」

マトリックス』という映画のキャッチコピー、覚えていますか?

マトリックス 特別版

なぜ 気づかない」・・・シンプルですがとても印象的で、記憶に残るものです。
映画は、現実と見えていたものが、実は仮想世界だったことに主人公が気づくことから始まります。

ところで、「民主主義社会」で、
「表現の自由」、「報道の自由」があると思われているこの日本国、
実は、さまざまな報道のタブーがあるようです。ご存知でしたか?
マトリックス』顔負けかも・・・

先日、たまたま尖閣問題についていろいろ調べていた際に、
日中記者交換協定」なるものの存在を知り、
日本の主要メディアは中国に対して不利な報道ができないことを知りました。
(日本国内での尖閣デモをまったく報道しないことなど・・・)
そこから、「報道におけるタブー」という語で検索してみると、
ウィキペディアの「報道におけるタブー」という項目がトップに出てきました。
(ぜひ、ご自分で検索してみてください。)

記事を読んでみると、あるわあるわ・・・日本の報道におけるタブーが・・・
一例をあげると・・・
・記者クラブタブー
・スポンサータブー
(ウィキペディアには記述がないですが、パチンコのCM等に対してなぜ批判がないのでしょう?)
・芸能プロダクションタブー(某J事務所など)
・桜タブー(警察)
・菊タブー(皇室)
・宗教団体タブー
・中華人民共和国タブー(前述)
詳しくは、ぜひぜひ、ご自分で検索、ご一読を!

民放のニュースははっきりいってもともとあまり好きではありませんが、
(犯罪等の報道に不要な効果音をつける必要はありません!)
NHKニュースでさえ、最近ではあまり熱心に観なくなりました。
尖閣問題や小沢元幹事長の問題、内閣支持率の問題などは、
どうもニュースという形での「洗脳」という面が否めません。
なぜ 気づかない」・・・
私たちは、受身でニュースの洗脳映像を見せられるところから、
目覚める必要がありますね。
そのためには、報道にどういうフィルターがかけられているのか、
そこを知ることから始めるしかないのでしょうね。
プラトンの『国家』にある洞窟の比喩の話にある、
光の世界を見てきた囚人のように・・・
(プラトンの「洞窟の比喩」について、手っ取り早く知りたい方は以下が便利です。)
イデアの世界」(松原望教授のサイト「相関社会科学」から)
http://www.qmss.jp/interss/01/materials/plcave.htm

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

2010年11月18日 (木)

ひどい水泳教室のたとえ~小学校算数科における問題解決型授業の弊害

たとえ話をひとつ・・・


ある学校の先生(A先生、としましょう)が、水泳の授業をしました。
クラスの子たちは、
水が苦手で、顔を水につけるのもイヤ、という子もいれば、
泳ぎ方を少し知っている子もいました。
もちろん、スイミングスクールできちんと泳ぎを習っている子も結構います。
そういう中で、A先生は、「大切なのは自分で泳ぐ力だ」と言って、
水に慣れ親しむ事も教えず、ましてや泳ぎ方などは「自分で考えろ」と言って教えず、
とにかく、25m泳ぐ事を要求しました。
最初の30分ぐらいは、ひたすらデタラメでもいいからといって泳がせていました。
スイミングスクールに通っている子にとっては、簡単でつまらないものでしたが、
顔を水につけるのが怖い子などは泣き喚く始末。
ふざけて遊びだす子もいれば、溺れかける子もちらほら現われました。
(かろうじて、水難事故は発生しなかった、としましょう・・・)
水泳の授業の終わりに、
A先生はスイミングスクールに通う何人かの子にみんなの手本として泳がせ、
「ほら、こんな風に泳げばいいんだ!」といって、授業を終えました。
泳げる子にとっては簡単すぎるし、泳げない子は結局何も進歩がありませんでした・・・


この話は私が作った完全なるフィクションですが、何が問題なのでしょう?
まず、泳ぐ基礎というものや、
段階(ステップ)を経てさらに次の技能を習得させる、ということ怠っています。
さらには、安全に対する配慮もありませんね。
たまたま大事にいたらない(と仮定しただけですが)からよかったものの、
下手すれば水死する子が出てもおかしくありません。
教師の役割は、水が怖い子から水への恐怖心を取り除くことと、
初歩の「けのび」や「背浮き」などを教えること、
少し泳げる子はもっと泳げるようなアドバイスをすることですね。

では、小学校の算数ではどうでしょうか?
ちょっとまわりくどいたとえでしたが、
実はこのたとえ話、
小学校の算数科で教師たちがよく行っている「問題解決型授業」の戯画です。
算数科の問題解決型授業は、百害あって一理なしのひどい授業方法です。
水泳で言えば、生徒を溺れ死なすことさえあるような教え方です。
本来、大学生向きの授業形態のものを、小学生でやらせているわけです。
5mも泳げない児童に、水泳の北島選手のように泳いでみろ、というようなものです。
(ここから先は「たとえ」ではなく、実際上の問題です。)
基礎をきちんと習得させることなく、ただ「自分で考えろ」ばかり・・・
教科書にきちんと書いてあることを、あえて教科書を見せず、
1~2問で1校時(45分)をまるまる使ってしまう。
授業中に練習問題をする時間は無く、宿題にまわされてしまう。
塾に通っている子には簡単すぎる問題でも、
わからない子には全然わからないまま、授業が終ってしまいます。
子どもが算数を好きになる教え方ではなく、かえって算数嫌いを増やします。
教師がきちんと学校で基礎を教えないから、
塾に通うか、進研ゼミとかをやっていないと、学校の授業についていけません。
経済的に厳しい家庭の子は、「私、バカだから・・・」と諦めてしまいます。
(授業の具体例は、私の過去記事をどうぞ・・・)
https://francesco-clara.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-17ba.html

水泳教室で、子どもが危ない目に遭わされたなら、
親は訴訟も辞さないでしょう。
それなら、即、死にはつながりませんが、多くの子どもに緩慢な社会的な死をもたらす、
低学力という「危険」に晒している、算数の問題解決型授業をやっている教師はどうでしょう?
小学生程度の基礎的な算数の計算でつまづいている原因が、
このような問題解決型授業をやっている教師だとして、
塾等に行かないとわからないようであれば、
損害賠償を求めてもいいくらいなのではないでしょうか。
低学力は、すぐには問題化しないものの、
後々で、国全体に大きな影響を及ぼすことになるでしょう。
貧富の差の拡大、社会不安の増大、失業者や生活保護者の増加とか・・・
そこまで行かなくとも、中学生の数学で躓いている原因が、
実は小学生の四則や分数の計算だったりする事はよくあります。

パソコンはどんなにCPUのスペックがよくても、
基本的なソフト(WORDとかEXCELとか・・・)がなければ、何もできないようなものです。
計算力や漢字の読み書きという基礎・基本は、
まさにパソコンにソフトをインストールするようなものです。
「そんなの、検索能力(これが文科省の言う「生きる力」?)さえあれば、
別に文章ソフトや表計算ソフトはいらない」というのは、無理ですね。
基礎・基本の徹底が、子ども達へ真の「生きる力」の基の一つとなります。

今回の記事は、いつも読んでいるブログ「Meiko Aikoku Blog」の
見えない小学校の授業」という記事に触発されて書いてみました。
その記事からちょっとだけ引用しますと・・・

聞くところによると、小3生の子が「僕は、九九ができるんだよ!」と自慢するので、「なぜ、そんなあたり前のことで自慢をするのか?」と驚いてその子に聞いてみたら、「だって、クラスの半分はできないもん!」との返事だったとか。
信じたくない。
信じたくないけど、事実でしょうねそれ。

ぜひ、その記事も読んでみてください。
http://blog.livedoor.jp/meiko_aikoku_blog/archives/51617425.html
なお、札幌では小学生でも塾に行くのはごく当たり前のことになっています。
私が直接知っている例では、学校では問題解決型授業を行っているので、
塾とか公文式とか進研ゼミなどを使用しないと、勉強がわからないようです。
塾通いは、地方都市では、まだまだ抵抗感があるのですね・・・
ますます大都市と地方都市の学力差が広がるばかり・・・

高校無償化とか、そういうものも結構ですが、
一部教師のデタラメな教え方をなんとかしてほしいものです。
あるニュースによると、税金のほかに、教育費が世帯年収の37%にものぼるそうです。
教育費の高騰の一因は、公教育に対する不信からなのでしょう。
有権者として、決して見過ごせないものですね。

2010年11月17日 (水)

少子化対策・待機児童解消の前に・・・子供の幸せの視点を考えるべきでは?

保育園に入れない、待機児童の解消対策として、
政府は幼稚園と保育園の一体化をすすめようとしています。
保育園なり幼保一体化した「こども園」をいっぱい増やすのが、
仕事を持つ母親にとって便利であり、
保育に欠ける子を減らすのにいい、というわけです。
確かに、共働きが当たり前の現代日本では、
有権者にアピールできる内容ですね。

しかし、子供の視点から考えてみると、保育園などを増やすことが、
本当に、子供自身の幸福につながるのでしょうか?
母親と一緒にいる方が、はるかに幸せなのではないでしょうか。
私なら、保育園やこども園を増やすことに税金をつぎ込むぐらいなら、
3歳までは働かなくとも十分に食べていけるぐらいの手当を充実させた方がいいのでは、と考えます。
それに、待機児童の問題は、実は全国すべてで、ではなく、
大都市圏だけの問題です。
労働環境の整備などでもある程度対応できるのではないでしょうか。

少し古い記事ですが、
待機児童解消の問題について、短いながらも包括的な問題提起をしているものを見つけました。
子供の視点が欠けている…政策に苦言 池本美香・日本総研主任研究員」という、
産経新聞の記事です。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/dompolicy/400067/

日本の少子化対策・保育政策の問題点について、
中心となる部分を少し抜粋します。


--保育政策はどうか

 「待機児童をなくすことしか注目されておらず、半端だ。詰め込まれて長時間預けられる子供たちはどうなのかという視点がない。育つ環境が悪ければ後に問題行動も起こる。結局、中途半端にお金をかけて後でお金がかかる。少子化対策といっても、いかに多く子どもを生んでもらうかしか考えていない。それを受けて、子供は本当に幸せになっているのかという視点がない」

 --子供からの視点か

 「親と長時間一緒にすごせずストレスを抱えている問題に目が向けられない。何年も前から少子化対策が叫ばれてきたのに、だれも子供がどう感じているのかを考えない。子供がおかれた状況に目を向けようとしない。国際的に非常に珍しいことだ」

 --少子化対策の課題は

 「専門家が分化している。役所も分かれている。各分野をどうつなげていくか。幼保一体化がどうなるのか楽しみにしているが難航してるようだ。日本でいう認定こども園も、イギリスではその効果についてリサーチがあって、議会で詳細な報告書が出されている。日本でも、数を増やそうと話題になるが、効果についてリサーチ予算がないから、議論が深まらなくて運動論に終始している。どんな効果があるのか、財政的にどうなのか研究が必要だ」

ぜひ記事全体をご一読願います。
もぐら叩き的な問題解決ではないものとは、というのが少し見えてくるはずです。

クラシックファンとクラシックマニアの違い

先日、バーンスタイン指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団による、
マーラーの交響曲第9番のCDを買いました。
この曲では、「名盤」として定評のあるものです。

 

【送料無料】 CD/レナード・バーンスタイン/マーラー:交響曲第9番/UCCG-4691

 

実は、私はこのCD、かなり前(15年以上前)に買ったことがあります。
だいぶ前に手放してしまいました。
買うのはこれで2回目になります。
最近、すごくこの曲に惹かれています。
(それについては、また改めて書く機会を持ちたいと考えています。)
ワルター指揮VPOの1938年録音のを持っていますが、
当時の録音としては驚異的だとは思うものの、
やはり音質には物足りなさを感じてしまいました。

 

マーラー / 交響曲第9番 ワルター / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 輸入盤 【CD】 ※私が持っているのはこれではなく、EMI盤です。

 

このCDを再び買うにあたって、マーラーの交響曲第9番について、
いろいろなホームページやブログを覗いてみました。
そこで思ったのは、
「クラシックファン」と「クラシックマニア」の違いについてです。
「クラシックマニア」といえるような人は、
この曲のCDについて、なんと数十枚分についてコメントしていました。
同じ曲の違った演奏で、数十枚(たぶん、実際に購入されたりしたのでしょう・・・)
というのは、完全に筋金入りですね。

 

クラシックファンとマニア、どちらもクラシック好きということでは共通ですが、
程度が違います。
(今回は、演奏家レベルや大学で研究しているような人は考慮しないことにします。)

 

クラシックファンとは、間口が広いものです。
クラシックの曲が好き、好きな曲がある、クラシックのCDを1枚でも持っている、
演奏会に自分から1回でも行ったことがある・・・
この程度でも、十分にクラシックファンといえましょう。

 

対して、クラシックマニアとは・・・
・CDを何百枚(最低でも500枚以上ぐらい?)も持っている。
・ある曲について、違う演奏家の盤を最低でも数種類持っている。
場合によっては、同じ曲で何十枚も盤を持っている。
・それぞれの演奏家・指揮者の解釈について違いを指摘できる。
・演奏の好みのこだわりが激しい。

 

私はといえば・・・
昔は、ブルックナーの交響曲全集だけで何セットも所有していたり、
バッハの「マタイ受難曲」やヘンデルの「メサイア」などは、
10種類以上の盤を聴き比べしたりしていました。
しかしいつの間にか、それほどこだわりがなくなっていきました。
ほんとうにいいと言える演奏のCDを1枚だけ所有していれば、
十分だと考えています。
(例外的なものもありますが・・・ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」など・・・)
また、好みもかなり変わってきました。
以前は難解なものも好きでしたが、
今では、妻の趣味にあわせて、なるべく聴き易く、一緒に楽しめるようなものが好きです。
(妻が「この曲、よくわからない・・・」というと、そこでNGデス・・・)
ショパンやウィンナ・ワルツなど、
高校生以来ほとんど聴いていなかったものをよく聴くようになりました。
そういう意味で、私はクラシックマニアは無事(?)卒業デス。
生涯、一クラシックファンで十分かな、と思っています。

2010年11月16日 (火)

凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ(マタイ11:28~30)【自作曲】

凡て勞(ろう)する者・重荷を負ふ者、われに來(きた)れ、
われ汝らを休ません。
我は柔和にして心卑(ひく)ければ、我が軛(くびき)を負ひて我に學べ、
さらば靈魂(たましい)に休息(やすみ)を得ん。
わが軛は易く、わが荷は輕(かろ)ければなり
(新約聖書 マタイ傳福音書11:28~30文語訳)

今回は、マタイ11:28~30の文語訳への作曲を紹介します。
テキストは上記のとおりです。
マタイ11:28~30への作曲の第2番目です。
(かなり前に1曲紹介済みです。興味のある方は以下を・・・)
https://francesco-clara.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-8a3a.html
ニ長調のおごそかな包容力のある曲です。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

「20101116_matthew1128no02.MID」をダウンロード

「20101116_matthew1128no02.pdf」をダウンロード

2010年11月15日 (月)

おすすめWEB記事~「2つの誤り 変えないことと、変えすぎること」(藤原淳賀氏)

先日、キリスト教書店に行った際、
いのちのことば」2010年12月号を無料で頂きました。
(「いのちのことば」は「いのちのことば社」のPR冊子のようなものです。)
その中で、興味深い記事がありました。
聖学院大学総合研究所教授・日本バプテスト連盟恵約宣教伝道所牧師の
藤原淳賀氏による、
2つの誤り 変えないことと、変えすぎること」と題するものです。
これは、「いのちのことば」誌の「21世紀の教会のために」という連載の第2回目です。
すばらしい記事なので、全文タイプ入力して掲載しようかと思いましたが、
いのちのことば社のHPで全文掲載がありましたので、そちらをご覧ください。
http://www.wlpm.or.jp/cgi-bin/db/kiji_t.cgi?keys34=0002624

詳しくは、記事全文をごらんいただきたいですが、
中心となる文章を引用しましょう。


 永遠に変えられない真理はあるが、変えるべき多くの事柄がある。特にプロテスタント信仰はそのような変革を迫る面を強く持っている。もしあなたが二十年前に神を信じたが、それ以降は特に語るべき証しがないとすれば、それは問題である。キリスト者も教会も神の前に悔い改め、新たに変革され続けていかなければならない。プロテスタント宗教改革とは、単に十六世紀に起こった歴史的出来事ではなく、われわれの生の中で、現在も起こっていかなければならない。
 変革ということを考えるとき、今日の教会には二つの誤りが見られる。特定の時代の文化的状況で生まれた教会の形式や礼拝形式を後生大事に変えようとしないことと、それらを軽率に変えてしまうことである。
 《由緒正しい教会?
 教会堂を「教会らしい」ものにしようとして会堂に尖塔のようなものを取りつけたり、ステンドグラスの簡易版を窓ガラスに張ってみたりしている教会がある。ある程度の規模の教会になると、パイプオルガンを海外から買って、メインテナンス費で苦しんでいることもある。あるいは「由緒正しく」あろうと、近代のある一時期の礼拝形式を導入してみたり、説教が時代から乖離して難解なものになっていることもある。表面的・形式的な由緒正しさによって正統である気がして安心する。ある特定の文化的表現を普遍の真理のように崇めることが「伝統的な」教会にはある。
 それらの教会は、国教的なヨーロッパやアメリカの主流派教会への憧れを持っていることが多い。そのような教会やキリスト者の特徴は、キリストへの誠実さ、キリストのための苦難よりも、手続き、社会への影響力、社会的ステータスを語るところにある。また有名人や政治家や権力を用いて事をなそうとする。そして、それを教会本来の使命と呼ぶ。しかし、そこで前提とされている教会は、国家や主流社会と手を携えるコンスタンティヌス的キリスト教を指している。
 《時代に合わせる教会?
 逆に、キリスト教的背景のない日本人に届こうとして、時代と妥協する教会も出て来た。よく考えずに、変えてはならないことを軽率に変えてしまう誤りである。
 多くの場合は、教会の現状への危機感や不満などから現代人のニーズに応えようとして生まれてくる試みである。これは良い動機である。しかし、プロテスタント自由主義の動機もそれであった。このような教会は少しキリスト教的香りのついただけの安っぽい福音を語ったり、極端な場合にはキリスト教の教理を変えようとすることさえもある。若者を取り込もうとして、時代と妥協して(あるいは心中して)、軽い今風なサークルのようになることもある。福音によって若者が回心し変えられるのではなく、時代によって福音が変えられ、教会の性質が変えられていく愚である。
 また最近の聖餐式をめぐる問題に見られるように、キリスト教会二千年、プロテスタント教会五百年の、あるいは自分たちの教派の伝統と信仰告白を無視して、プロテスタント教会の二つの聖礼典(洗礼式、聖餐式)のうちの一つを牧師が自分の好みで変えようとすることも見られる。
(以下省略)


記事の要旨は、
・外面的な「伝統」(ステンドグラスやパイプオルガン等)を重んじるあまり、
福音の「いのち」を失ってしまった教会。
・聖餐を未受洗者に配る(日本キリスト教団の一部等で既に実施!)など、
福音を都合よく変えてしまった教会。
この2つは21世紀の日本宣教において問題である。
というものです。

「福音」という「宝」を人々に贈る時に、
どんな包装紙・袋・風呂敷に包んで持っていくか、というのは、
実はある意味、どうでもいいようなことです。
デパートで言えば、大丸の包装紙か、三越の包装紙か、高島屋の包装紙か、
あるいはイオンやその他スーパーのでもかまいません。
大切なのは、中身なのですから。
しかし、中身が壊れていたり、ニセモノだったりすれば、
どれほど高級な包装紙、斬新な包装紙や袋であっても、
まったく価値がありませんね。

聖書的な表現で言えば、「福音」は常に新しいぶどう酒のはずです。
しかし、いつの間にか古い革袋に古いぶどう酒(いや、ぶどう酢かもしれません・・・)を出して、
それで満足していたり、
あるいは、「ほかの福音」、「別の福音」(ガラテヤ1章)を提供しようとしていては問題です。

聖餐(カトリックでは聖体拝領)は、プロテスタントではおろそかにされがちですが、
非常に重要なものです。
「パンを裂く」ことは、キリストの教会が発足した頃から、受け継がれてきたものです。
単なる象徴的なものや儀式の一つといって済まされるものではありません。

先ほど少しふれた、日本キリスト教団等における未受洗者への配餐問題について、
ちょうどいいブログ記事(というよりは、短い神学論文といった方がいいかも・・・)がありましたので、
紹介と引用をしましょう。
日本キリスト教会・名古屋岩の上伝道所・相馬伸郎牧師の
「聖餐と教会-今日の教会の課題として-」(日本キリスト教団)という記事からです。
http://blog.livedoor.jp/iwanoue/archives/16257611.html

(中略)ところが、今日の教会の中で、急速にこの聖餐を巡って混乱が生じて来た。それは、日本キリスト教団の中で顕在化し、激しい議論が起こっていると伺っている。未受洗者の陪餐容認問題である。いわく、「伝道の進展のためには、受けたいと願う誰でも食することを可能にすべきである。洗礼受領の有無によって、聖餐の交わりから疎外することは、差別である」というような議論である。教区、地区によれば、それを推進(容認)する牧師が過半数をしめるところがあるとも言う・・・。この議論こそは、教会がその存在を賭けて議論すべき主題である。何故なら、この問題は、教会の生命そのもの、教会の存亡に関わるからである。自分達の救いそのものに関わる根源的問題なのである。もし、そのことに気づかない、あるいはそのように理解できないのであれば、まさに死の危機に瀕していることが明らかになっていると言わざるを得ない。それ故に、今、聖餐について聖書の信仰と教会の伝統から、正しい認識を深めることが焦眉の急なのである。(以下省略)


「区別」と「差別」を履き違えていることと、
聖餐式をあまりにも軽々しく考えていることが問題ですね。

変えるべきところと、変えてはいけないもの。
そこを見極めが大事ですね。

なお、カトリック教会やルーテル教会などでは、
聖体拝領・聖餐式の時に、未受洗者に対して「祝福の祈り」をしています。
上記のように、「一緒に食べないから恥ずかしい」ので「食べさせる」というようなものではなく、
キリストの御体はいただくことはできなくとも、
祝福がいただける、というのは、すばらしいやり方だと思います。

神よ
変えられないものを受け容れる心の静けさと
変えられないものを変える勇気と
その両者を見分ける英知をお与えください

(ラインホルト・ニーバーの祈り)

2010年11月14日 (日)

教会学校クリスマス会用ポスター(2010年)※WORD文書ひながた付

最近、「クリスマス ポスター」等のキーワードで検索して、
私のブログを訪ねて来る方が多くなってきました。
そろそろ、クリスマスの準備をする時期ですね・・・

そこで、今年私の教会で使おうとしている、
教会学校クリスマス会のポスター案を、WORD形式で提供します。
カトリック・プロテスタントどちらでも使えるような、シンプルなデザインです。
プログラム案としてもお役に立つことができれば幸いです。
絵やフォントが気に入らなければ、
適当に違うものに置き換えてもかまいません。ご自由にどうぞ。
ポスターのアイディアに困っている方の叩き台となることができれば幸いです。
なお、白黒印刷する場合は、フォントをすべて黒にしてくださいね。

「2010_for_cs_christmas.doc」をダウンロード

2010年11月13日 (土)

イエス・キリストが教会から追い出された~変なニュースから考えた教会のあり方

イエスが教会から追い出された」???なんのこっちゃ?
今日(11月12日)、MSN Japanのトップページの「ライフ」のニュースで、
写真付でこんな見出しがあったので、興味本位で、恐る恐る(?)クリックしました。
すると、こんな記事が出てきました。
http://topics.jp.msn.com/life/column.aspx?articleid=445483

記事の要旨は、
「日曜毎にイエス・キリスト風の格好でいろいろな教会を巡り歩いている男性が、
ある教会から入場を拒否され、警察に通報された。
イエスのような格好をして教会から追い出された形なので、
『イエスが教会から追い出された』とアメリカで話題になっている。」
というものです。
(ある意味、どうでもいいようなニュースですね。)
興味がある方は、元記事を暇つぶし程度に読んでみてください。

私はこの男性の行為と、彼を追い出した教会の是非を問いたいわけではありません。
それよりも、「イエスが教会から追い出された」という言葉から、
今日の教会のあり方と、聖書の中におけるイエス様の姿を思いめぐらしてみました。

イエスが教会から追い出された」・・・
これは、まさに現代の多くの教会の姿かもしれません。
みなさんの教会の礼拝やミサ、交わりの中に、
本当に、イエス様がいるでしょうか?
いつの間にか、ホンモノのイエス様は教会から追い出され、
人を救わない「偶像の」イエス「像」を拝しているだけ、となっていないでしょうか。
イエス様よりも、政治活動が中心になっていたり、
牧師や司祭への過度な依存により、イエス様を見えなくするほど覆いふさいでいませんか。
あるいは、カトリックなら聖母や聖人、
プロテスタントなら、エライ神学者(ルター、カルヴァン、バルト、ボンヘッファー等々)の方が、
聖書やイエス様よりも偉くなっていないでしょうか。
教会がカルチャースクール・サロン化して、
ホンモノの、今も生きて働いておられるイエス様が奇蹟をなされるのは、
かえって邪魔ものとされ(聖霊派的なものを毛嫌いすること)、
居心地のいい空間作りだけが優先されたり・・・
あるいは、愛「だけ」というニセモノのイエス様をホンモノと間違えていたり・・・
芸術や音楽が中心になってしまうのもこれに該当します。
何人の信者を獲得したかという「教会成長」至上主義もそうです。
神様よりも対人関係の方が大事になったり・・・
考えれば、いろいろな形で、イエス様を追い出しているのかもしれません。

聖書の中には、「イエスは・・・追い出された」というような記事がいくつかあります。
マタイ8章で、イエス様が悪霊を追い出された後、
町中の人から出ていってもらいたい、と言われてしまいました。
(同様の記事はマルコ5章、ルカ8章にもあります。)
ルカ4章では、故郷のナザレの会堂から、
憤慨した人々によって「イエスを町の外へ追い出」(ルカ4:29新共同訳)された、とあります。
ヨハネ8章では、神殿の境内で石を投げつけられそうになり、
「神殿の境内から出ていかれた」(ヨハネ8:59新共同訳)。
そして極め付きは、十字架です・・・
それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、
門の外で苦難に遭われたのです。
」(ヘブライ13:12新共同訳)

教会だけでなく、私たちも、
自分の心から、イエス様をいつの間にか追い出していないでしょうか。
イエス様は心の扉の外で待ち続けておられます・・・
見よ、わたし(=イエス様)は戸口に立って、たたいている。
だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、
わたしは中に入ってその者と共に食事をし、
彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。
わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。

(ヨハネ黙示録3:20~21新共同訳)
(案外、言っている本人も、結構アヤシイかもしれません・・・反省・・・)

そうそう、心に迎え入れるべきは、
「キリストのコスプレをしている人」とか、「キリスト風・キリストもどきの人」ではなく、
ましては救う力のない「イエス像」などではなく、
ホンモノの、イエス様だけですね!
はっきりとホンモノのイエス様を見分けることができますように・・・

2010年11月12日 (金)

「大本営発表」化しつつある日本のマスコミを疑え!~尖閣ビデオ流出事件と日本のマスコミの堕落・怠慢~

尖閣ビデオ流出事件について、
冷静な目で日本のマスコミの問題点を指摘している記事を見つけました。
ダイヤモンド・オンライン(週刊ダイヤモンドのオンライン版)で連載されている、
「週刊 上杉隆」の第149回の記事、
政府と一体化して尖閣ビデオの“犯人探し”に奔走する、矜持なき日本の記者クラブメディアを嗤う」です。
http://diamond.jp/articles/-/10043

記事の要旨は、「ジャーナリズムの役割とは?」ということです。


ジャーナリズムの最低限の役割は、権力監視、換言すれば、政府の隠そうとする事実を暴き、国民の知る権利に応えようとすることである。(中略)ただし、日本の記者クラブメディアを除いてだが――。
 今日(11月10日)も、朝のテレビ番組ではキャスターやコメンテーターらが政府の情報管理がなっていない、と声を荒げている。普段ならば、「情報公開」や「国民の知る権利」を声高に叫んでいるのに、今回はそんなことはお構いなしだ。政府と一緒になって犯人探しに躍起になっている。
(中略)
 今回も同様だ。本来ならばメディアがやらなければならない政府の隠蔽情報をユーチューブに投稿した誰かが暴いてくれたのだ。その「sengoku38」を犯人扱いするばかりではなく、国民の知る権利に応えた人物として、敬意を払うメディアがあってもいいのではないか。残念ながら、産経新聞を除いて、そうしたメディアはないようだ。」(記事から抜粋引用)


いつの間にか、私たちはマスコミの「大本営発表」に洗脳され、
思考がテレビの枠組に呪縛されていないでしょうか。
マスコミは「マスゴミ」、ただの政府・検察の犬になりつつあるのでしょうか。
戦前の「大本営発表」と大差ない状態にまで、堕落しようとしているのでしょうか。
戦前は軍部の圧力でしたが、
今や経済界(スポンサー)という形で、露骨な圧力がかけられています。
NHKでさえ、本当のスポンサー(日本国民)の「知る権利」よりも、
中国への遠慮と、「記者クラブ」という足枷がはめられてまともな報道をしていません。
日本政府の外交上の失策を、「情報漏洩」といったものに矮小化していいのでしょうか。
また、マスコミ自身も、「知る権利」を追究してこなかった怠慢を自己批判すべきでしょう。
日本政府は「sengoku38」氏や海保長官を処分するよりも、
証拠ビデオを隠匿した自らの責任をきちんととるべきではないでしょうか。
文語訳聖書を引用して言えば、
なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲(なげう)」(ヨハネ8:7)です。
不祥事を隠し続けてかえって問題を大きくし、ついには会社・ブランドが消滅してしまった、
雪印乳業の事件を思い出します。
コンプライアンスを企業に求めている大本である政府自らが、
コンプライアンスに反していては、話になりません。
「sengoku38」のような良心ある内部告発者を処罰するのは、
それこそ日本を全体主義国化するようなものです。

また、私たち日本国民も、マスメディアに対する情報リテラシーを身に付けるべきでしょう。
検察のリーク情報垂れ流し報道とか、
政治家や官僚を突如悪役に仕立てあげるものは、ある程度疑う必要があります。
最近であれば、「小沢元幹事長=悪人」といったイメージで語られるのが最たるものです。
よく考えないで、新聞やテレビを鵜呑みにするのは、実は恐ろしい事なのです・・・

2010年11月11日 (木)

NHK・クローズアップ現代「GAMANの芸術 ~日系アメリカ人 尊厳の世界~」(2010年11月11日放送)

11月11日放送のNHK・クローズアップ現代では、
GAMANの芸術 ~日系アメリカ人 尊厳の世界~」という題で、
第二次世界大戦中、
アメリカで強制収容所へ送られた日本人・日系人たちが、
物資が非常に乏しい(ほぼ、無いに等しい)中で作り上げられた、
さまざまな生活用品や芸術品などから、
当時の厳しい強制収容所生活にもくじけず、
人間の尊厳を保ち続けたというすばらしい事実について放送していました。
番組HPから、放送内容を転載します。


いま、アメリカ・スミソニアン博物館で開かれている『THE ART OF GAMAN』=”我慢の芸術”。第二次大戦さなかにゴミや木切れなどから作られた日用品が並ぶ異色の展覧会だ。作者は強制収容所で不自由な生活を強いられていた日系アメリカ人たち。不安と苦悩の日々を乗り切るために作られた杖やブローチ、表札、置物などは、収容所という過酷な環境とは思えない精巧なデザインに加え、“生への強烈な意思”が込められている。いったい、収容所の日系アメリカ人たちはどんな思いで作品作りあげたのか。50年の時を経てガレージや倉庫から作品が次々とみつかっている理由とは何なのか。極限の状況下でも、日系アメリカ人たちが決して失うことのなかった、人間の「尊厳」に迫る。


ちょうど先日、「99年の愛~Japanese Americans」というドラマが連日放送されていましたね。
あれはフィクションですが、こちらは事実です。

アメリカの強制収容所は、ナチスのそれとは目的を異にするとはいえ、
人間を抽象的な数字で管理するやり方は、共通でした。
そういう中、バラックに自分の名前の表札を掲げるという行為で、
人間の尊厳を失わなかった姿は特に感銘を受けました。
また、先日のドラマさながらのような人も紹介されていました。
日本人の不屈の精神と誇りを感じました。
戦争中、在米の日本人・日系人たちを辱めた当のアメリカ人たちが、
ようやく秘められた過去に目を向け始めた、というのもすばらしいですね。

絶望しかないような状況であっても、希望を失わず、「GAMAN」(我慢)で耐え忍んだ・・・
これは、不況とか諸々の問題にあえぐ我々日本人への強列なメッセージですね。
もう行き詰りと思えても、全財産を失っても、自暴自棄になったりするよりも、
何か前向きな方向に進んだ先人たちは尊敬に値しますね。
私たちも見習わねば・・・

中国の属国化はイヤだが、米国の属国ならOK?~知らず知らずの差別思考

いつも読んでいる精神科医・和田秀樹氏のブログで、
過激な意見ですが本質を衝いている記事がありました。
どこの属国になろうと勝手」(2010年11月7日)
http://ameblo.jp/wadahideki/day-20101107.html
国家の品位」(2010年11月8日)
http://ameblo.jp/wadahideki/day-20101108.html
要旨は、「このままでは日本は中国の属国になってしまう」と考えている人たちに対して、
「それなら、米国の属国ならOKなのか?」、
「中国の属国になった方がメリットがあるかもしれない」
(もちろん、属国になるよりも、独立国としての気概を示すべきである)・・・という「暴言」です。
とてもおもしろい意見だと思いました。
詳しくは、記事をお読みください。中国と北朝鮮の関係のところなどは興味深いですよ。
(もっとも、米国だろうと、中国だろうと、
どこの国の属国にもなるべきではありませんが・・・)

さて、私たち日本人は、知らず知らずのうちに、
欧米の人たち(白色人種)を自分達より「上」(容姿や文化等)の存在とみなし、
日本以外のアジア・アフリカの人たちを、「下」の存在と見下していないでしょうか。
特に、中国や韓国の人たちに対して、ひどい軽蔑感を抱いていないでしょうか。

たとえば、外資系企業に日本企業が買収された場合、
買収先がアメリカやヨーロッパの企業ではなく、
中国や韓国の企業の場合、ひどく屈辱的な事として取り上げられないでしょうか。
「外資」としては同じなのに・・・

もっと一般的な例を。
TVCMで、日本人以外の人が出てくる場合、
ほとんどが白人ばかりですね。
(ソフトバンクの「お兄ちゃん」は例外的で、稀有な存在といえましょう。)
一方、中国の人が出る場合は、たいてい烏龍茶とかその類だけです。
これも、無意識に白人>日本人>アジア・アフリカといった、
価値観の刷り込みをやっているといえましょう。
そろそろ、明治の「脱亜入欧」的な発想から脱却すべきではないでしょうか。

読売新聞の北海道版で、札幌の華僑の方が、こんなような発言をしていました。
「中国人だからといって、皆が皆反日ではない。
その証拠に、日本にたくさんの中国人が訪れているではないか。」
(正確な引用でなくてゴメンナサイ・・・→2010年11月9日朝刊の記事)
まさにそのとおりです。
特に北海道の経済・観光は、中国人旅行者によって大いに助けられています。
マスコミや一部の偏狭な人々が煽るようなものから、
一歩引きさがって、冷静な目で物事を見る必要があると思います。

2010年11月10日 (水)

「しずくのぼうけん」、「みずのたび」、「雪のひとひら」(ポール・ギャリコ作)、「水のいのち」(高田三郎作曲)・・・水をめぐる作品の数々

幼い頃、「しずくのぼうけん」という絵本を読んだことがあります。
自然界における水の循環を題材にした絵本です。

しずくのぼうけん

先日、NHKの「シャキーン!」で、「みずのたび」という曲を放映していました。
(作詞:小山哲朗 作曲:サキタハヂメ)
みずのこはたびをする 海がママ 雲がパパ 
空を渡って 地球のどこかにまいおりる
」・・・
軽快なメロディで、すぐに口ずさみたくなるような、ステキな歌です。
先ほどの「しずくのぼうけん」を、現代的にしたようなものです。

水の循環の不思議・・・というと、思い出すのは、
ポール・ギャリコ作の『雪のひとひら』(新潮文庫)です。

雪のひとひら

初めて読んだのは30歳過ぎてからですが、大変感動しました。
200ページ以下のファンタジー文学の中では、
私にとっては『星の王子さま』と双璧をなす、すばらしい作品です。
「雪のひとひら」という形で女性の一生をまさに「結晶化」しています。
宗教的な用語(神とか主、創造主等)を使わずに、
普遍的な形で、神様の存在を思わずにはいられなくなる傑作です。
男性のみなさん、ぜひ大切な人に、この本をプレゼントしてみてはいかがでしょうか。
(この本についてはそのうち、もう一度改めて、記事を書いてみたいと思っています。)

「水の循環」をテーマにしている作品で、もう一つ忘れてはならないのは、
高田三郎作曲の「水のいのち」です。
日本で合唱をやっている人で、この曲を知らないとモグリだ、と言われかねないほど、
合唱関係者にとっては珠玉の名曲です。
私もちょっとだけ練習したことがあります。

【送料無料】混声合唱組曲 水のいのち

日本合唱曲全集::水のいのち 高田三郎 作品集 1

今回は、「水の循環」をテーマにした作品をあれこれ語ってみました。

おまけに・・・
曲のタイトルに「水」とか「雪」がついている歌で、好きなのは・・・
「雪」なら、「雪の華」。
「水」なら、「水の星へ愛をこめて」かな(古過ぎ~)・・・
(「雪の降る町を」とかは、ちょっとこわ~いイメージかも・・・)

2010年11月 9日 (火)

映画「海洋天堂」を日本で上映させるために・・・

映画「言えない秘密」を観た感想を書いた昨日の記事に対して、
「まっぴ」さんから、コメントをいただきました。
本来、記事へのコメントを見ていただいた方がいいのですが、
今回は、特別にコメントを本文に転載します。


(以下、コメント)
てんしちゃんさん、はじめまして。突然の紹介で失礼します。

「言えない秘密」のジェイ・チョウが主題歌を歌い、グイ・ルンメイがピエロの女性役で出演している映画「海洋天堂」(原題)が今年中国・香港・台湾などで公開されたのをご存じでしょうか。

主演はジェット・リーで、アクションを封印して自閉症の息子の父親を演じました。ジェット・リーは脚本に感動し、ほぼノーギャラでこの映画への出演を決めたそうです。

この映画の劇中音楽担当は、久石譲さんです。医学監修には日本人も関わっているそうです。

しかし、この映画は娯楽作ではないので興行的に不安があるのか、日本での公開はまだ決まっていません。

そこで、この映画の日本公開を目指して『ジェット・リーの「海洋天堂」を日本で観たい!』という活動を以下URLのサイトで行っていて、ネットで賛同メッセージを募っているそうです。
もしよろしければ、ご協力お願いいたします。
http://oceanheaven.amaterasuan.com/

(注…私はこの日本公開活動の運営者ではありません)

映画「海洋天堂」のストーリーです

水族館に勤める王心誠(ジェット・リー)は、妻を亡くして以来、自閉症の息子の大福を男手ひとつで育ててきました。
大福は海で泳いだり、水中の生物と触れ合うのが好きでした。
大福が22歳になり、心誠は将来の息子の自立について考えていました。
そんな中、心誠が末期がんに侵されていることがわかり…

予告編動画(英語字幕付き)
http://www.youtube.com/watch?v=F6MGxP2_oi8

(引用終わり)


本来は記事に対する直接的なコメントというよりは、
宣伝的なコメントなので、コメント掲載はパスしたいところですが、
内容を読んで、なかなか良さそうなものだと思い、今回私からもみなさんに紹介しました。
私はこの「海洋天堂」という映画、初めて知りました。
「まっぴ」さん、コメントと情報提供ありがとうございます!
私もぜひ日本語字幕付で観てみたいと思いました。
予告編(漢字と英語で、なんとなくはわかります。)を観ただけで、
なかなか良さそうな映画だと思いましたよ。
音楽があの久石譲さん、というのもスゴイです。
自閉症関係の方だけでなく、広く一般の方が観ることが大事ですね。
(マンガ「光とともに・・・」のように・・・)
ちなみに、主演のジェット・リーさんは、
この映画の出演ギャラを1元(約12円)で引き受けたそうです。
http://www.excite.co.jp/News/asia_ent/20100824/Recordchina_20100824025.html
「●●時間テレビ」でチャリティーと銘打ちながら、
高いギャラをもらっている某国タレント達とは大違いですね。

Haiyangtiantang_03450x337_3


賛同メッセージにご協力していただける方は、以下のサイトへどうぞ。
ジェット・リーの『海洋天堂』を日本で観たい!
http://oceanheaven.amaterasuan.com/
もちろん、私も賛同メッセージに協力しました。

(2011年6月3日追記)
NHKBS1・ワールドWave トゥナイトでこの映画が取り上げられていました。

小さくなって見えてきたもの~札幌市営地下鉄のエスカレーター

先週の金曜日の朝、ちょっと左足をひねったようでした。
その時は別になんにも感じませんでしたが、昼過ぎから左足首が痛みだしました。
夜、帰宅してからその足首を見ると、腫れ上がって熱をもっていました。
翌日病院に行くと、「関節炎」と診断されました。
現在も湿布等で治療中です。

足が痛い時に、つらいのは、階段の昇降です。
今はできるだけ避けています。
普段なら、軽々と越えていく階段も、かなりこたえます。
エスカレーターとエレベーターのお世話になりっぱなしです。

私は普段地下鉄に乗る機会が多いので、
改札からホームや地上に出るときのエスカレーターやエレベーターは、
健康な時にはそれほど気にしていませんでしたが、
足が痛む時には、実にありがたいものだと感じています。

ところで、札幌市営地下鉄のエスカレーターは、
しばしば、登りだけ、または降りだけのエスカレーターがあって、
あとは階段で行くしかない、というところが多々あります。
(実際は、離れたところに反対方向のエスカレーターがあったりしますが・・・)。
高齢化社会に向けて、片側方向だけのエスカレーターから、
きちんと、登り降りがセットになったエスカレーターを設置した方がいいのでは、と思いました。
社会的に小さくなってみると(健常者→病人やけが人、高齢者、障がい者等)、
いろいろな問題が見えてくるものですね。
そういう意味では、この痛みや不便さも私にとっては感謝なことでした。

2010年11月 8日 (月)

時を越えた少女~映画「言えない秘密」

台湾映画「言えない秘密」(不能説的・秘密)がBSJapanで放映されていました。
ジェイ・チョウ(周杰倫)さんが主題歌提供と監督、腳本原案、作曲担当、主演をこなした作品です。

観始めると、まぶし~~い青春映画、全開~という感じでした。
まぶしすぎて、「オレも年をとったなぁ・・・」とつぶやいてしまうほど・・・(^-^;
さわやかな展開です。
ロマンティックなセリフもよく出てきます。
主人公たちがピアノを弾くシーンはすばらしいです。
古風なピアノを奏でるところや古い音楽室がロマンティックです。

途中から、三角関係で女のバトル勃発か、と思いきや、
いきなり、ファンタジー映画に早変わりしていきます。
「時をかける少女」ならぬ、「時を越えた少女」みたいな、
CG効果満載のSF的映像が実に効果的です。
中だるみしそうなところから、怒涛の謎解きが始まります。
ネタバレは書きませんけど・・・

結末は、もうちょっとすっきりとした展開にした方がいいのでは、と思いましたが、
なかなか「魅せる」作品に仕上がっていました。
(ありえなさすぎる結末ですが・・・)
結末はなんとなく、
クリストファー・リーヴ主演の「ある日どこかで」に似ている気もしますが・・・

この映画の見所は、たくさんある演奏シーンでしょう。
ピアノを弾いているシーンだけでも観る価値があります。
また、グイ・ルンメイ(桂綸鎂)さんの清純さも魅力的でした。
まだ日本語字幕でのDVDは発売されていないようです(2010年11月現在)。

ジェイ・チョウさんの映画では、「頭文字D」も面白いです。
原作のまんが通り、「藤原とうふ店」と書かれた車が出てきます。
細かい設定は原作と違うようですが、かなり楽しめましたよ。

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ドラマ「99年の愛~Japanese Americans」~一応、全話観ての感想・・・

ようやく終った・・・
さすがに、5日間連続で、毎日2時間以上というのは、長すぎたな~と感じました。
ドラマ「99年の愛~Japanese Americans」は、
内容としては20世紀という激動の時代を生き抜いた日系人たちの姿を通して、
戦争と平和、差別・偏見などを見事に描いた、教科書的作品だと思いました。
また、差別や戦争、不況でもくじけない日本人・日系人の姿を通して、
橋田壽賀子さんは、現代の日本人にエールを送ろうとしているのかな、
とも思いました。

ただ、ドラマ全体として観た印象としては、
とにかく、オールキャストで大物俳優をこれでもかと言わんばかりに、
贅沢に出演させていましたが、
演技としてはさして観るべきものがなかったようにも思えます。
(もちろん、大物揃いでしたので、「下手」という人もいませんでしたが・・・)
歴史的状況を登場人物のセリフの中で語らせたり、
広島と沖縄(いかにも悲惨な状況を語りたいがために・・・)に姉妹が引き取られるなど、
かなり強引な設定も目立ちました。

とはいえ、ご都合主義が目立つものの、
歴史の目まぐるしい展開に否応無く巻き込まれていくので、
結局、最後まで観てしまうドラマでした。
イモトアヤコさんの役が泉ピン子さんに引き継がれるところはちょっと苦笑・・・
(中井貴一さんと泉ピン子さんが夫婦役、というのはかなり無理がありました。
「渡る世間は鬼ばかり」ならぬ「渡る世間は差別ばかり」・・・)

ちなみに、全話一応観ましたが、
最初から最後までドラマに釘付け、という訳ではなく、
途中多少飛ばしてもついて行ける内容でした。
2日連続2時間ドラマか、
3時間ドラマぐらいに凝縮した方がもっとすばらしかったのでは、というのが率直な印象でした。あ

音楽としては、千住明さんによるテーマ曲が壮大なスケール感があってよかったです。
日系人によって結成された442連帯のドイツ軍との壮絶な戦闘シーンで、
ブラームスの交響曲第3番の第3楽章が、実に印象的に使われていましたのは見事でした。

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2010年11月 7日 (日)

主の祈り(カトリック・聖公会共通)(21)【自作曲】

久々に「主の祈り」シリーズです。

今回は、カトリック・聖公会共通の「主の祈り」への作曲の、
第21番目を紹介します。
ロ短調の曲で、「黒」のイメージです。
今年の7月に与えられたものです。
神様に感謝!

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

「20101107_lords_prayer_cath_epi_ver_no21.MID」をダウンロード

「20101107_lords_prayer_cath_epi_ver_no21.pdf」をダウンロード

2010年11月 6日 (土)

現代のマシューは自動車に乗って~「朝だ!生です旅サラダ」(11月6日放送)から

11月6日放送の「朝だ!生です旅サラダ」では、
「海外マンスリー」のコーナーで、カナダのプリンス・エドワード島の旅をやっていました。
プリンス・エドワード島といえば、言わずと知れた「赤毛のアン」の島。
私も妻もいつかは訪れてみたい場所です。
番組では佐藤藍子さんが旅人として案内していました。

プリンス・エドワード島での最初のシーンで、
B&Bのオーナーが自動車で佐藤藍子さんを迎えに行くシーンがありました。
なんとなく、現代版「赤毛のアン」というイメージでした。
「赤毛のアン」のマシューは、馬車でアンを迎えに行きましたが、
現代のマシューは、自動車で迎えに行った・・・
馬車が自動車に変わり、道路は舗装されていますが、
景色の美しさは変わらないようです。

番組では当然、「赤毛のアン」の舞台となったグリーン・ゲイブルズを紹介していましたが、
そこはもちろんのこと、シャーロットタウンなど、画面に映る場所すべてがとても美しく見えました。
「赤毛のアン」ばかりがプリンス・エドワード島の魅力ではないことを、
映像が雄弁に証明していました。
ますます行ってみたいです~

プリンス・エドワード島七つの物語

赤毛のアン

2010年11月 5日 (金)

Wikileaksと尖閣ビデオ流出~キリスト教界にも、内部告発は必要か?

昨日(11月4日)、NHKのクローズアップ現代で、
機密告発サイト・ウィキリークスの衝撃」というのを放送していました。
内容は、番組HPから引用します。

人々の知る権利に応える“正義のメディア”なのか。それとも国家の安全保障を脅かす“敵”なのか。インターネットの世界に突如、現れた内部告発サイト「ウィキリークス」が波紋を広げている。先月末、ウィキリークスは、内部告発者が流出した米軍の機密文書40万点を公表。イラク戦争で犠牲となった民間人の知られざる実態などが明らかになった。ウィキリークスは、この他にも既成のメディアが伝えていない政府や企業の機密を次々と暴露している。こうした動きに対しアメリカ政府は、ウィキリークスが「兵士たちを危険にさらしている」と批判し、協力者の摘発に乗り出した。ウィキリークスはどのようにして機密情報を入手し、影響力を高めているのか。ウェブサイトの創設者・ジュリアン・アサンジ氏を追い、謎に包まれたその実態に迫る。

アメリカ政府から名指しで「国家の敵」と非難され、
身に危険が及ぶかもしれない中、
敢然と勇気ある告発をし続ける、ウィキリークスの姿には感銘を受けました。

そんな中、今朝起きてニュースを観たら、
ウィキリークス顔負けの、尖閣ビデオ流出映像も衝撃的でした。
この後どうなることやら・・・

さて、今回私は別に政治評論を書きたいわけではありません。
「内部告発」をできる、キリスト教版のウィキリークスのようなサイト・機関があったらどうだろうか、
と考えてみました。

ともするとそういう存在は、2ちゃんねるのように誹謗中傷の嵐になってしまいます。
名誉毀損は許されざるものです。
そこで、単なる噂ではなく、客観的資料・証拠に基づいた告発ができるものとします。
一方的に非難・糾弾して終わりではなく、
超教派の第3者委員会による検証をし、
改善を勧告できるようにしてはいいのではないでしょうか。

ここで取り上げるべきものは、その教会の教えの根本に関わるようなものは除きます。
例えば、カトリック教会における聖母マリアの存在、
プロテスタント聖霊派における聖霊体験や聖霊の賜物の存在、
福音派における「聖書時代は奇蹟があったが、新約聖書がある今は奇蹟は不要」のたぐい、
リベラル派における政治運動への過度の傾倒、奇蹟の否定などです。
こういう類は、「不正」ではないので、取り上げません。
(不毛な神学論争になるだけです。)

取り上げるべきは、教会総会のやり方
(選挙をしないで役員が決定される、総会参加者すら数えずに総会が自動的に成立する等)や、
聖職者や教会役員(長老、執事)の不正・不品行、
カルト化している教会などを考えています。
特に、聖職者や教会役員への批判に対しては、聖書的原則に照らすべきです。
長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません。
(新約聖書 テモテへの手紙Ⅰ5:19新共同訳)
実際、被害妄想的な信徒がいっぱいいるからです。

たとえば、最近私が読んだブログから考えてみましょう。
一致はいずこに」というブログ記事です。
http://yaplog.jp/shinkichi1109/archive/351#commentform
日本キリスト教団の最高決議機関である、
日本キリスト教団教会総会の顛末について書かれています。
時代錯誤はなはだしい、70年代の左翼学生運動や労働争議を思わせるような、
不毛な論議です。
こういう記事こそ、日本キリスト教団の方々はぜひ知るべきです。
恥ずかしいと思わないのでしょうか。
日本におけるキリスト教宣教の大きな妨げになっているのではないでしょうか。
これはほんの一例です。

世界的に言えば、
カトリック教会司祭による児童への性虐待(「性」職者!)、
「ゲイ」職者の問題なども入りますね。
(プロテスタントでも、某有名牧師が性的暴行で逮捕されていますね。)

旧約聖書のエステル記におけるモルデカイやエステルのような勇気ある人物が、
告発して外圧をかけない限り、自浄能力がないようでは、
「地の塩・世の光」としての役割を、教会は果たせないのではないでしょうか。

2010年11月 4日 (木)

立場を変えて見てみると・・・~ドラマ「99年の愛~Japanese Americans」に思う

TBS系で、
「99年の愛~Japanese Americans」という、5夜連続ドラマを放映していますね。
私は第1話を途中から観ました。
なかなかすばらしい物語だと思いました。
(配役はともかくとして・・・)
アメリカ合衆国に渡った日本人たちと、
その子孫である日系人たちの愛と苦悩、差別などを描いた作品です。
ドラマの中では、日本人たちが「ジャップ」と罵られ、不当な差別を受けます。
その中でも、たくましく努力する姿を描こうとするようです。
戦争前でも、日本人たちはその勤勉さ故に差別され、
戦争中は、強制収容所へ送られるなど、
大変屈辱的な差別を受けてきた歴史が語られています。
(ドラマとは関係ありませんが、
広島・長崎に原爆が落とされたのも、「日本」だから、という説があります。
アメリカは、「自由と平等の国」なんかではなく、つい50年ぐらい前までは、
堂々と有色人種への差別がまかり通っていた国でしたね・・・)

ところで、同胞である日本人が、ドラマの中でとはいえ、
差別され、罵られる姿を観て、おもしろいと思うでしょうか?
日本人だから、差別されて当然、と思うでしょうか?
決してそうとは言えないはずですね。
それならば、ちょっと立場を変えてみましょう。
ドラマの中で差別される側である日本人を、中国人や韓国人、フィリピン人と置き換え、
差別する側であるアメリカ人を、日本人としましょう。
舞台は、戦前・戦中ではなく、現代に置き換えましょう。
それらの国の人から見て、同胞たちが日本社会で差別されている姿を見たら、
憤りを感じないでしょうか。
差別されるのは、当然でしょうか?
絶対に、そうではないですね!

インターネット上では、中国人や韓国人など、アジアの同胞たちに対して、
言われなき差別的言動が満ち溢れています。
そういう発言を広げる人たちは、心が麻痺しているのでしょうね・・・
想像力はこんなところにも必要なのです。

旧約聖書には、こんな御言葉があります。
あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持を知っている。
あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである。

(旧約聖書 出エジプト記23:9新共同訳)
外国人を大切にする、というのは古くからある人道的要請なのです。

ちなみに、私は外国人へ参政権を与えるのは反対です。
(在日朝鮮人の人に対しても同様です。)
人道的配慮と、参政権はまた別の問題と考えるべきです。

アメリカはいろいろな差別があったとはいえ、
移民を受け入れることで大きく発展してきました。
閉塞感漂う日本に新しい風を入れるには、
技術・能力ある外国人・外国籍の企業をどんどん受け入れた方が、
日本の国益にかなうと考えます。

2010年11月 3日 (水)

児童虐待通報は、日本国民の義務!~「そうだったのか!池上彰の学べるニュース」(11月3日放送)より

日本国民は誰しも、虐待を受けたと思われる子どもを発見した時は、
児童相談所へ通報(法律上は「通告」)する「義務」がある、という事をご存知でしたか?
実は、恥ずかしながら、私も今日まで知りませんでした。

11月3日放送の「そうだったのか!池上彰の学べるニュース」では、
児童相談所の仕事と児童虐待の問題について、
池上彰氏がわかりやすく解説していました。
その中で特に驚いたのは、冒頭の「日本国民の義務」でした。

根拠となる法律をきちんと引用しましょう。
児童虐待の防止に関する法律」(公布:平成12年5月24日法律第82号)


第六条 児童虐待を受けたと思われる児童を発見した者は、速やかに、これを市町村、都道府県の設置する福祉事務所若しくは児童相談所又は児童委員を介して市町村、都道府県の設置する福祉事務所若しくは児童相談所に通告しなければならない。


そんな義務があったのですか・・・
当の国民のほとんどは、知らないのでは、と思います。
(私もそうでした・・・)
もっと広く周知する必要があるのでは、と思います。
そうすれば、「他人の目」という抑止力をもっと発揮できるでしょう。

ちなみに、児童虐待と疑われる場合、というのは、
具体的に、どのような状態を指すのでしょうか。
また、通報はどこへ、どんな方法でしたらいいのでしょうか。
番組でも紹介されていましたが、メモを取っていませんでしたので、
特定非営利活動法人 児童虐待防止全国ネットワーク」のHPから引用します。


子ども虐待を発見したり、著しく子どもの様子が変だと感じたら、児童相談所(児童相談所共通ダイヤル℡0570-064-000)や市町村の担当窓口、福祉事務所に通告をしてください。

地域に住む私たちには、関係機関への通告の義務があります。また、学校や児童福祉施設、病院、その他の子どもの福祉に業務上関係のある団体、また、学校の教職員、児童福祉施設の職員、医師や保健師、弁護士、その他子どもの福祉に職務上関係ある人たちには、虐待を受けている子どもの早期発見と、虐待を受けていると思われる子どもを発見したときに速やかに関係機関に通告する義務が課せられています。

通告は、直接虐待をしているところを目撃していない場合でもできます。体に殴られたようなあざや切り傷をつけた子どもがいる、汚れた衣服を着て食事を与えられていないような子どもがいる、子どもが厳冬期に戸外に長時間出されている、子どもの姿は見たことがないけれど火がついたように泣いているのがいつも聞こえる、小さな子どもを残して両親がいつも外出し食事や世話を十分にしていない...。このように、著しく様子がおかしい、適切な養育を受けていない子どもがいるようだ、と気づいた方は地域の児童相談所に通報してください。

通告は、電話でも手紙でもかまいません。通告した人の秘密は守られます。通告した後で虐待でないとわかっても、通告した人に罰則はありません。


悲惨な児童虐待を少しでも減らすため、
私たちもできるだけの事はしていきたいものですね。

差別といじめ自殺~おすすめブログ記事「小六少女を死に追いやったのは日本社会に蔓延する差別か?」(水谷潔牧師のブログから)

久々に、心を大きく揺さぶられた記事でした・・・

毎日読んでいるブログの一つ、
「小さないのちを守る会」代表の水谷潔牧師のブログ記事
小六少女を死に追いやったのは日本社会に蔓延する差別か?」と、
「批判対象転化手段」としての反日デモとイジメによる自死報道
(ともに2010年11月1日)
http://blog.chiisana.org/?day=20101101
教育、マスコミ報道、日本における外国人差別問題を考えるのに、
とても有意義な記事です。
いじめが起きた学校・教師ばかりが責められ、
いじめを起こした当事者やその保護者については、責任を問われないことへの疑問と、
差別を生み出す日本の閉鎖性、マスコミ報道のあり方を告発しています。

桐生市の小6少女の自殺問題は、
最近、毎日のようにテレビや新聞等で報道されていますね。
私は安易な自殺報道はすべきでない、という見解から、
あえて、この報道については、見出しを読む程度に留めていました。
しかし、水谷牧師の上述の記事を読むに至って、
この問題は少なくとも私にとってはすごく身近な問題であることに気づきました。
「いじめの原因は、片親がフィリピン人であるから・・・」
明らかな人種差別ですね!

実は、私が携わっている教会学校の子供たちの構成は、
両親ともに「普通の」日本人よりも、
片親(たいてい母親)がフィリピン人、外国籍の子の方が多いのです。
(以前は「ハーフ」という言葉で呼ばれることが多かったですが、
最近では、二つの国民性を持つ、ということで「ダブル(W)」と呼ぶことが一般的です。
私も以下、Wという呼称で表記します。)

教会学校のWの子供達の中には、「肌が黒い」などの理由で差別的扱いを受け、
転校を余儀なくされた子もいます。
だからこそ、水谷牧師の記事は、切実さがあります。
教会学校という特殊なところを考えなくても、
今や都市部の公立小・中学校には、
片親が外国人、という子が何人かはいるはずです。
このような問題が、いつ、どこで起こっても、おかしくないかもしれません。
容姿で差別をするのは、致命的なものです。
人は生まれを選ぶことができないのですから・・・

最近では国際結婚は別に珍しくなくなりましたね。
中国籍や韓国籍、フィリピン国籍など、アジア系の配偶者を持つ場合が多いです。
しかし、一方で、いわゆる「白人系」の人は憧れをもって見られるのに対して、
アジア系の人たちは、言われなき蔑視を受ける場合があります。
これは日本の恥です。
真の愛国者ならば、外国人差別を国の恥と思うべきです。
同じアジアの同朋を、軽蔑でもってあしらうのを、恥ずかしいと思わないのでしょうか!?

記事の中で、実に正論と思った箇所は3つあります。
一つは、「しつけ」や「差別がいけないこと」をまず教えるのは、
教師ではなく、親(保護者)だということ。
(差別がいけないことであることを、教師もきちんと教えるべきですが・・・)
もう一つは、マスコミがいたずらに学校の責任を追及するだけで、
本当の当事者の問題を報道しないこと。
最後に、日本のキリスト教会の実情のところです。
この部分は、ブログから引用します。


そして、私は考えました。「私たち日本のキリスト者、日本の教会はどうだろうか?」と。在留異国人について言及した聖書の言葉に生きているだろうか?「最も小さい者の一人にしたのは」との主イエスの御言葉を実践してきただろうか?もしかすると、私たちは無意識の内に、フィリピン人を母に持つような子どもたちを隣人愛の対象から排除して、(よきサマリヤ人の話の場面に登場する)パリサイ人のごとき「同質者限定隣人愛」という偽善に歩んではいないかと?


私にとっては、水谷牧師の指摘は実に痛いものです。
自分の所属教会の恥部をさらすのは好みませんが、
残念ながら、私の所属教会では、
外国人(片親が外国人も含む)信徒との間に「隔ての壁」があります・・・
(しかも、系列教会の中では北海道を代表すべき役割の教会なのに・・・)
私は、これはおかしいと思うので、なんとかならないかと、
その「隔ての壁」を少しでも低くするよう、微力ながら努めています。
少なくとも教会学校においては、「キリストにおいて一つ」という立場から、
分け隔てなく接しています。
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
そこではもはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、
男も女もありません。
あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

(新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙3:26~28新共同訳)

2010年11月 2日 (火)

明けない夜はない!~NHK・「ドラクロワ」は好番組

NHKネタが続いてごめんなさい・・・

NHKで「ドラクロワ」という番組をやっていました。
私は途中からなんとなく観ることにしました。
今回初視聴です。
なかなか好番組ですね。
ドラクロワ、といえば有名なフランスの画家の名前。
なんで番組名が「ドラクロワ」なのかというと、
「ドラ」マチックな「苦労話(くろうわ)」(ちょっと強引・・・)、
略して「ドラクロワ」ということです。
それと、ドラクロワの代表作「民衆を導く自由の女神」(番組と番組HPで観ることができます。)のように、
人生を前向きに戦っていく女性の姿を重ね合わせたようです。

人生で味わう挫折感、うつ状態、苦悩、絶望・・・
「なんでワタシばっかりこんなに苦労しなきゃいけないの・・・」
そうつぶやいてしまうことはよくありますね。
日本では不幸にも、毎年3万人の人が自死を選んでしまいます。
しかし一方、困難を乗り越えてチャンスをつかむ人も結構いるはずです。
番組では、困難を乗り越えた人からの熱いメッセージや、
「幸せテクニック」、人生の「応援歌」などを紹介しています。
NHKが自殺予防に役立つような番組を放映しているのは、
公共放送としてふさわしいものですね。
「苦しんでいるのはワタシだけではない・・・」
「もしかしたら、まだ別の道があるかも・・・」
「ワタシよりも、もっと大変な人がいたんだ・・・」
「ワタシも、がんばってみようかな・・・」
この番組を観て、ヒントをつかみ、
前向きに生きることができる人が増えるといいですね。

私からも、聖書からの名言をプレゼントします。
あなたがたを襲った試練で、
人間として耐えられないようなものはなかったはずです。
神は真実な方です。
あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、
試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ10:13新共同訳)

ところで、「明けない夜はない」というのは、
実はシェイクスピアの「マクベス」の名セリフだそうです。
私だと、松田聖子さんが歌った名曲「瑠璃色の地球」の歌詞の一節を思い出します。
好きな歌謡曲の一つです。

2010年11月 1日 (月)

ロッキー・チョンさんの美声を堪能~NHK「名曲探偵アマデウス」・シューマン「詩人の恋」

今回の「名曲探偵」は、シューマンの歌曲集「詩人の恋」でした。
番組の構成はいつもながら楽しいものでしたが、曲の分析とかのところよりも、
今回はバリトンの声の美しさ(もちろん、伴奏も!)に魅了されました。
ロッキー・チョンさんという方で、
演奏時の髪型と雰囲気はなんとなく、古館伊知郎氏に似ていましたが(失礼!)、
声は絶品でした。
独特の繊細さとツヤがあります。
私はどちらかというと、テノールの声よりも、バリトンの声の方が好きです。
ロッキー・チョンさんの声は輝かしく、甘美さがあります。
ぜひ機会があれば、また聴いてみたい歌声でした。

私の不勉強のせいか、恥ずかしながら、初めてきく名前だったので、
調べてみました。
すると、やはり日本ではまだそれほど知られていないのかもしれません。
あまり詳しいのは見つけられませんでした。

短いですがちょうど適切なブログ記事を見つけましたので、そこから引用します。
「3児の母は天然ピアニスト」の「ロッキー・チョン 松川儒デュオリサイタル」です。
http://imitatiocriste.blog72.fc2.com/blog-entry-208.html


松川儒さんは、世界で唯一ヴォルフ歌曲全集(314曲)を弾き切ったピアニスト!
シューマン国際コンクール公式ピアニストで、平成19年度文化庁芸術祭<大賞>を、受賞された方です。

バリトンのロッキー・チョン氏は ヴォルフ歌曲コンクール、シューマン国際コンクールの覇者。美声を持ち、アジア人ならではの繊細さで奥深い音楽を作りあげる世界的なリート歌手。


ちなみにこのブログを書いている方は、クリスチャンの方みたいです。
アドレスに「キリストにならいて」のラテン語原題が含まれていますね。

この世の国は(1)(黙示録11:15他)【自作曲】

11月1日は教会歴で言うと、「諸聖人(全聖徒)の日」です。
「万聖節」と書いた方が厳かな感じがしますね。
続く11月2日は「死者の日」です。
ヨーロッパでは「お盆」のような時期にあたります。

この2つの日に関係しそうな聖書箇所、というと、
すぐ思い浮かぶのは、やはりヨハネ黙示録です。
ということで、今回は、
「諸聖人の日」、「死者の日」にちなむ(ちなみそうな)自作曲を紹介します。
タイトルは「この世の国は」。
テキストは新約聖書 ヨハネの黙示録11:15、17、18新共同訳です。
キリストの勝利を高らかに歌う、力強い讃美です。
この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。
主は世々限りなく統治される。

(新約聖書 ヨハネの黙示録11:15新共同訳)

この箇所への作曲は、この曲も含めて現在までに7曲与えられています。
新共同訳と新改訳が各2曲ずつ、
文語訳とフランシスコ会訳、英語(TEV)が各1曲ずつです。
その中で今回紹介する曲が最も気に入っています。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

「20101101_revelation1115no01.MID」をダウンロード

「20101101_revelation1115no01.pdf」をダウンロード

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