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2010年10月の39件の記事

2010年10月31日 (日)

NHK・「生誕200年 みんなのショパン」(10月31日放送)

10月31日放送、NHK「生誕200年 みんなのショパン」は、
クラシックファンとしてはちょっとがっかりな内容だったかも・・・
司会がお笑い芸人の方なので、しゃべりが過剰すぎる印象を受けました。
ショパンがバラエティ番組に無理やり引っ張り出されているような感じ・・・
4時間の生放送、というのも、ちょっと長すぎるように思えました。
私にとってはさすがに長いし、前述のとおりトークが過剰なので、
途中チャンネルを変えつつ、時折チラチラと観る程度でした。
実質、きちんと観たのは1時間にも満たないでしょう。
少し期待していた番組だったので、残念でした。
もう少し落ち着いた司会者を中核に、じっくりと演奏を聴かせた方がよかったのでは、
と思いました。
ただ、まったくショパンに縁がなかった人が、お笑い芸人の方などを縁に、
ショパンを聴くきっかけになったかもしれません。
クラシック演奏家のみならず、様々なジャンルのショパン愛好家のコメント等は、
視聴者にとって、格好のショパン入門になったかも・・・

番組では、視聴者アンケートによる「わたしの好きなショパン」第1位が決まりました。
第1位は「英雄ポロネーズ」でした。
確かに、「う~ん、名作!」(某カレーのCM時に中村紘子さんが言ったセリフ)・・・

ところで、私にとってのショパン・名曲ベスト3は・・・
第1位:夜想曲第20番
第2位:夜想曲第2番
第3位:「別れの曲」
最近では、2つのピアノ協奏曲もかなり好きになってきました。

ショパンのピアノ協奏曲ならば、ツィメルマンの指揮・ピアノによるCDが最高です。
(オーケストラパートが非常に雄弁です。)
ピアノソロなら、私にとっては個性派の演奏家よりも、
オーソドックスで、優等生的なアシュケナージの演奏が聴きやすいです。
個々のピアニストの解釈よりも、テクニックよりも、
ショパンの音楽そのものがはっきりと聴こえてきます。
(それぞれのピアニストは一長一短ですね。)

ショパン:ピアノ協奏曲第1番・第2番

ウラディーミル・アシュケナージ(p)/別れの曲〜ショパン名曲集(CD)

最近よく聴いているのは、オムニバス盤の「ショパン・カンタービレ」です。
いろいろなピアニストによる、極めつけの名曲を堪能することができます。
最近口紅のCMに出ていた、アリス=紗良・オットさんによる演奏も入っています。
このCDは愛する妻にプレゼントしましたものです。
ショパン入門には最適かも?

ショパン・カンタービレ

ハロウィンは日本に普及するか?

10月31日はハロウィン。
最近では、街角のショーウィンドーで、
ハロウィンのカボチャ(ジャック・オー・ランタン)を見かけたりすることが多くなりましたね。
ハロウィンは、着実に日本に定着しつつあるのでしょうか。
(私が毎回観ている『ケロロ軍曹』では、「トリック・オア・トリート」の代わりに、
「トリック・オア・ガンプーラ」などと言っていましたが(10月30日放送)・・・)

週刊文春では、
町中に溢れる「ハロウィン」 「経済効果」はどれくらい?
という記事を載せていました。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20101014-00000002-sbunshun-bus_all
この記事によると、ハロウィンの経済効果は、なんと「600億円」との試算!
なかなかのものですね。かの「ホワイトデー」以上だそうです。
(実際はどうなのでしょうね?)
日本では、商売になればなんでも普及するのかもしれません。
本来のキリスト教最大の祭りである、
「イースター(復活祭)」はいつになったら普及するのでしょうか・・・

ところで、ハロウィンはよくキリスト教のお祭り、と考えられていますが、
実際は、むしろキリスト教以前の、異教的な要素が極めて強いものですね。
キリスト教徒が多い国でも、アメリカなど一部の国だけで祝われるもので、
全てのキリスト教国で祝われるものではありません。
カトリックや正教会の人口が多いところにおいては、全然普及していません。

だから、子供達のために、
教会学校等であえてハロウィンをやったりする必要はないと私は考えます。
また、ハロウィンが日本でもっと広まればいい、とも考えません。
(世間の人が「やりたい」というのを反対するつもりもありませんが・・・
日本なら、「お化け」よりも、アニメのコスプレでもやった方がいいのでは?
「幽霊」よりも「綾波レイ」?)

ハロウィンといえばお化けや悪霊の仮装をしますよね。
キリストを信じる者としては、たとえ「まね」であっても、
悪霊の仲間になるべきではありません。
わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくはありません。
(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ10:20新共同訳)
聖書でなくとも、『徒然草』にはこういう名言があります。
狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。
悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。
」(第八十五段)

ちなみに、余談ですが、
北海道には、ハロウィンの「トリック・オア・トリート」(いたずらか、お菓子か)に似た風習があります。
七夕(7月ではなく8月)の際に、
「ろうそく1本おくれ、出さないとかっちゃく(「ひっかく」の方言)ぞ」(地方によって別バージョン有)といって、
子ども達が家々をまわり、お菓子をもらい歩きます。
最近では、この風習、どうなのでしょうかね?

2010年10月30日 (土)

祭司による祝福(6)(民数記6:24~26)【自作曲】

今回は、旧約聖書の民数記への作曲を紹介しましょう。
テキストは、旧約聖書 民數紀略(民数記)6:24~26文語訳です。

テキスト原文を引用します。
願くはヱホバ汝を惠み汝を守り給へ
願くはヱホバその面
(かほ)をもて汝を照し汝を憐れみ給へ
願くはヱホバその面(かほ)を擧(あ)げて汝を眷(かへり)み汝に平安を賜へ

原文では「ヱホバ」となっているところは、
作曲にあたって、すべて「主」と読み変えています。
《 》内は省略しました。
また、現代かな遣いを採用しています。

このテキストへの作曲は、現在までに7曲与えられています。
新共同訳が5曲、文語訳が2曲です。
先ほどなんとなく頭にこのメロディが久々に浮かんできたので、
今回紹介することにしました。
(機会があれば、(1)の曲も紹介したいと考えています。)

新約聖書では、
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、
あなたがた一同と共にあるように。

(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ13:13新共同訳)
という箇所が、祝福の祈りとして有名です。
三位一体の唯一なる神様の祝福!
プロテスタント教会における牧師先生からの祝祷として使われていますね。
一方、プロテスタント教会の中でも、「老舗」といえるルーテル教会では、
先ほどの民数記からの祝福を祝祷の言葉として使っています。
新共同訳で引用しましょう。
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて あなたに平安を賜るように。

(旧約聖書 民数記6:24~26新共同訳)

主が御顔を向けて」という表現に、
神様との人格的な交わりを見ることができますね。
宇宙に満ちる法則、といった冷徹な、非人格的な関係ではなく、
顔と顔とを合わせて」(Ⅰコリント13:12新共同訳)といった親しい関係・・・
皆様にも全能の主の祝福、御顔の照らしがありますように!

厳かな雰囲気の曲です。
メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

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2010年10月29日 (金)

無いものねだり~NHK・「シャキーン!」の「お星さまは知っている」から考える

日曜日深夜、寝る前になんとなくテレビをつけていると、
「シャキーン!・ザ・ナイト」という番組が放映されています。
(日曜日深夜0時40分~※再放送。本放送は毎週水曜日の19時20分~)
月~金の朝7時から放送されている子供向けの「シャキーン!」の、
次週のダイジェスト版みたいものだそうです。
深夜に見ると、シュールさが「通常の3倍」アップするかも?
毎回見ているわけではありませんが、大人が視聴しても面白いものです。
その中の、歌のコーナーで歌われる曲を今回は取り上げます。
お星さまは知っている」という歌です。
(作詞:小山哲朗・ブルースカイ 作曲:小山哲朗 歌:熊本野映)
※番組HPから歌詞を読むことができます。
子供向けの歌と侮ることなかれ、ですよ。
先日、たまたま朝の「シャキーン!」にチャンネルをあわせると、放送されていました。
そこで、今回の記事を書いてみようと思い立ちました。

この歌には、5人の登場人物(「人」でないものも含みます)と語り手が出てきます。
女の子と、おばあちゃんと、桜の木と、お人形と、お星さまです。
女の子は、おばあちゃんになりたいと思い、
おばあちゃんは、桜の木になりたいと思い、
桜の木は、人形になりたいと思い、
人形は、女の子になりたいと思います。
そして、それぞれお星さまに願いをかけます。
まさに無いものねだりですね。
メーテルランクの『青い鳥』を彷彿とさせます。

「隣の芝生は青く見える」とよく言いますね。
自分の持っていないものは羨ましく思えます。
先ほどの歌の結び近くに、こんな歌詞があります。
いつかきづくときがくる
じぶんのしらない じぶんのよろこび

幸福は、案外近くにあるものなのかもしれません。

人と自分を比較ばかりすると、
よほどの自信家でない限り、みじめになるだけです。
人は人、自分は自分。
それぞれに、かけがえのない、絶対的な価値と魅力があるものです。

むしろ、自分に与えられているものの価値に気づき、
「ありがたい」と感謝することこそ、幸福への近道です。
先ほどの歌で言えば、
女の子は女の子であることのすばらしさに気づけばいいのです。
おばあちゃん、桜の木、お人形も同様ですね。

ちょっと余談を・・・
今、原因はよくわかりませんが、
左足大腿部に痛みがあり、少し歩行しづらいです。
自分の足がロボットみたいになったような感覚です。
そうすると、何気ない「歩く」という行為が、
いかに精妙な動作なのかを改めて認識しました。
同時に、義足や杖をついて歩行されている方の苦労の片鱗を実感しました。
だからこそ、神様の恵みを改めて思いました。
苦しみにも感謝です。
常に喜んでいなさい。絶えず祈り続けなさい。
全てのことに感謝していなさい。
それこそ、あなたがたに対するキリスト・イエスにある神のみこころです。

(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一5:16~18エマオ出版訳)

ところで、妻は「シャキーン!・ザ・ナイト」の
おべとも学園」というアニメが好きです。
ムニャムニャ言っているセリフが、妻にとって、なぜか笑いのツボにはまるようです。
私も時々、それをマネして妻を笑い責めしています・・・
(すごくウケてます・・・)

おべとも学園

シャキーン!アニメ おべとも学園 ほっこり編

2010年10月28日 (木)

「政治とカネ」は問題なのか?~おすすめブログ記事「予算委員会の不思議」

予算委員会は予算の審議をするところである。ところが国民は予算委員会で予算の議論を見た事がない。テレビ中継がある時は何を質問しても良い事になっているため、予算委員会では専ら「政治とカネ」の追及が行なわれてきた。何故予算委員会で「政治とカネ」が追及されるのか、誰も不思議に思わないからこの国は不思議である。

田中良紹(よしつぐ)氏のブログ「田中良紹の国会探検」を最近知りました。
「国会TV」なるものを立ち上げた方です。
上記は、2010年10月26日の記事「予算委員会の不思議」の冒頭部分を引用しました。
http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2010/10/post_236.html#more
この記事、非常に読み応えがあります。
政治のあるべき姿を考えたい方は必読です。

国会の予算委員会、といえば、当然、予算を審議するところだろう、と考えますが、
実際には全然違っているようですね。
「政治とカネ」とか、最近では尖閣問題とか・・・
予算委員会で予算を審議できず、別の問題を論議するから時間が取れず、
結局官僚の言いなりのまま、膨大な赤字を垂れ流してきた、というのが実情みたいです。
仕分け人がまた人民裁判風にガンバッテいる姿をアピールしていますが、
これも結局、パフォーマンスに過ぎないものでしょう。

「政治とカネ」は果たして、そんなに問題なのでしょうか?
政治にカネがかかるのは当たり前ですし、
個人のカネならきれいで、企業・団体献金は汚い、というのも変です。
幼稚・ナイーブ過ぎます。
アメリカの大統領選挙などは巨額の金が動きますね。
いっそ企業・団体献金は尊いものだ、違法ではない、とした方が、
税金で政党に助成するムダ遣いをなくすことができますね。
それはともかくとして、予算委員会できちんと予算を審議しない、
これ自体が、既に税金の大きなムダですし、
国家予算のムダ遣いこそ、まさに「巨悪」といえましょう。
子々孫々、莫大な借金を築いていながら、しかも誰も責任を取らないのですから・・・
そして、NHKがムダ遣いの現場を流しておきながら、
誰も違和感を感じない、というところに、日本の政治教育の未熟さを感じます。

ニューズウィーク日本版に、興味深い記事がありました。
「日本を殺すスキャンダル狂い」(2010年9月7日)
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2010/09/post-1585.php
欧米では、カネや愛人の問題でスキャンダルを抱えた政治家でも、
国民のために政治力を発揮するなら、支持率は問題ではありません。
しかし、日本は違います。
「世論調査」というアヤシイものに振り回されたり、
官僚改革をしようとすると、実にタイミングよく「政治とカネ」の問題が出てきたり・・・
あまりにも幼稚な民主主義「ごっこ」ですね。
なんとかならないものでしょうか・・・

クリーンだが無能な政治家よりは、ダーティーでも有能な政治家の方がマシです。
「世論調査」程度でコロコロ変わるような総理大臣に国を預けていては、
国そのものが沈没してしまうでしょう。
不退転の志ある、実行力ある政治家を待望します。

2010年10月27日 (水)

10月なのに、クリスマス?~2010年札幌の初雪

朝起きて、窓を開ければ、10月なのにクリスマスのような光景が広がっていました。
寝室の窓から見える大きな松の木は、
真っ白に雪を抱いて、まるでクリスマスツリーみたいでした。
道路は真っ白。私の住んでいる地域では、10cmぐらい雪が降り積もりました。
札幌の今年の初雪は10月26日。
冬の風物詩となったササラ電車が例年よりかなり早く出動した、と新聞で読みました。
秋を満喫しないうちに、冬が一足先にやってきましたが、
まだ根雪になることはないでしょう。
秋も残りわずかですね・・・

主は仰せを地に遣わされる。
御言葉は速やかに走る。
羊の毛のような雪を降らせ
灰のような霜をまき散らし
氷塊をパン屑のように投げられる。
誰がその冷たさに耐ええよう。
御言葉を遣わされれば、それは溶け
息を吹きかけられれば、流れる水となる。

(旧約聖書 詩編147:15~18新共同訳)

下の3枚の写真は、妻が近くの大きな公園で撮影したものです。
秋と冬が絶妙に同居していますね。

20101027no01

20101027no02

20101027no03

いじめ自殺報道と、報道に価しないような教育ニュース

またまた、いじめによる自殺なのでは、という事件が報道されています。
事件そのものは大変気の毒とは思いますが、
こういう報道が、次の自殺の連鎖につながるというのを、
いつになったら日本のマスコミは悟るのでしょうか?
正義の味方面して、かえって害毒を撒き散らしているようなものです。
精神科医の和田秀樹氏が、名著『テレビの大罪』(新潮新書)にて、
自殺報道が自殺をつくる」という題で一章を割いています。
興味がある方はぜひお読みください。
少し引用してみましょう。


 「いじめ自殺」が起きると、ワイドショーやニュースはその話題で持ちきりになります。そこではいじめが自殺の原因と断定されますが、いじめられている人はそれこそ万単位でいるはずなのに、「いじめ自殺」とされる自殺は年間10件くらいです。いじめられた時にうつだったとか、家庭が崩壊していて相談相手がいなかったという、いじめ以外の背景に触れることなく、なんでもかんでもいじめのせいにするというのは実に短絡的と言わざるをえません。
 基本的にマスメディアには自殺誘発効果がありますが、もっとも誘発されやすい年代は青少年です。それなのに、「いじめ自殺」に関する報道は自殺報道のなかでも特にセンセーショナルで、「これなら自殺しても当たり前」と言わんばかりの論調です。さらに遺影や葬送の風景、涙する人々がこれでもかと映し出され、悲劇性をあおります。(これだけは多少改善されましたが)ほとんどの場合、自殺した少年たちは実名で報道されました。こうした個人情報を開示しておきながら、背景に潜む心の病について触れることはありません。日本の社会、なかでもテレビにおいて、心の病について指摘することはタブーになっているからです。自殺を予防したいという気持ちが少しでもあるならば、「私もつらかったけど、頑張ってよかったです」というようなケースこそ紹介しなければなりません。どれだけいじめられても、多くの人は自殺していないのですから。

(和田秀樹著『テレビの大罪』P.164~166から引用。)
※この文章は、WHO自殺報道ガイドラインと照らし合わせて、
いかに日本のマスコミ報道がそれから逸脱しているかを指摘しているものです。
原文では、どの部分に抵触するかという数字が書いてありますが、
引用においては割愛しました。悪しからず・・・


最近、Yahoo!Japanで素晴らしい記事を読みました。
「フィンランドの自殺率は、なぜ半減したのか」というものです。
http://xbrand.yahoo.co.jp/category/lifestyle/4917/4.html
自殺報道に関係する要点を記事から引用します。


また、自殺と関連するマスコミの報道自制問題も重要視された。自殺予防プロジェクト委員会の報告書には「自殺は、たとえて言うなら静かな水面に向けて石を投げ入れるようなもの」と書かれている。一人の自殺者によって周囲に大きな波紋が広がり、やがてそれが社会全体に行き渡るという意味だ。

フィンランド国内のマスコミも予防プロジェクトに協力した。自殺願望を誘発し、社会的に波紋を呼びそうな自殺報道を自制したのだ。個人の死亡ニュースを伝えるときも「自殺」という単語を使用せず、その経緯も報道しないという原則を立てた。

86年から97年までの10年以上にわたる自殺予防プロジェクトは、多大な効果を生んだ。90年に10万人あたり30人だった自殺率は毎年低下し、05年には10万人あたり18人に、08年には同16.7人にまで減った。世界第3位だった「自殺大国」としての順位も13位に落ち、フランスやオーストリアと同等の水準にまで回復。「自殺大国」としての汚名を返上することに成功したのだ。


日本だって、できるはずです。
自殺報道についてマスコミが自主規制するか、
それが無理なら、法律上での規制を求めたいものです。
年間3万人の死者数という「静かな戦争」の犠牲者を、少しでも減らすためにも・・・

あと、最近、教育関係でどうでもいいようなニュースが目だっているような気がします。
テストでとんでもない問題を出したとか、変な替え歌を歌ったとか・・・
つくづく不寛容な時代ですね・・・
愚かな教師は確かに問題ですが、新聞等で報道するような内容なのでしょうか。
教員の資質向上はぜひとも必要ですが、
マスコミがことさら教員を貶めるような報道を取り上げて、
教員への信頼感や尊敬の念を失わせているのが、
今日の教育問題悪化の原因になっているのではないでしょうか。
(もちろん、教員も教育技術を伸ばすよう絶えず努力すべきですが・・・)

以前、内田樹氏の『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)を読んだことがあります。
先生はナゼえらいのか、それは、先生が優秀だからではなく、
結局、生徒(弟子)がえらい、と思うから。リスペクトがあるからです。
(私なりのまとめ方ですが・・・)
代金との等価交換みたいな形で、「学ぶ」ことは無理でしょう。
尊敬や憧れの念があって、「学ぶ」という行為は成立するのではないでしょうか。

テレビの大罪

先生はえらい

(※2010年10月28日追記)
上述の和田秀樹氏が、2010年10月28日のブログで、
『「教師」問題』と題して、興味深い記事を書いています。
http://ameblo.jp/wadahideki/day-20101028.html
その中から、印象に残った箇所を引用します。

いずれにせよ、この手のことは、もう少しきちんと背景情報を調べて報道しないと、学校側も混乱するだけだし、それ以上に「冤罪」で、一人の教師の社会的生命を断ってしまうこともありえる。
警察の冤罪はボロクソにたたくくせに、自殺者もたくさん出して、人の社会的生命を断つような報道は平気で行う。
学校の教師というのは、たたくほうの聖域になっているようで、被害者を大量に出す詐欺事件でも、詐欺の疑いのある会社の実名は絶対に出さないし、行う人間にもモザイクをかける。警察が逮捕するまで、匿名報道を続ける。
しかし、今回のセクハラサイコロであれ、不適切クイズであれ、警察沙汰になったわけでないのに、事実上、行った人間が特定できる報道を重ねる。
教師をたたくのは、簡単だが、それで教師が本来の仕事ができなくなったり、教師をやめる人間が続出したり、教師がうつになったり自殺したりでは、教育レベルが下がって当然だ。
「問題」教師より、「問題」教師のフレームアップのほうがよほどテレビの大罪である。

2010年10月26日 (火)

詩篇117(34)【自作曲】

忘れた頃にやってくる、詩篇117シリーズです。
(もうちょっとで3ヶ月ぶり・・・)

今回で、詩篇117シリーズは、34曲目です。
テキストは、カトリック訳です。
イ長調のおだやかでのびやかな曲です。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

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2010年10月25日 (月)

詩篇142【自作曲】

前回に引き続き、詩篇142への作曲を紹介します。
前回は、8節(7節)だけでしたが、
今回は、詩篇142全体に対するものです。
テキストは、詩編142新共同訳です。
ニ短調から始まり、最後はニ長調で終わります。
孤独と嘆きが、やがて明るい讃美へと変えられます。
詩篇によくあるパターンですね。
ベートーヴェン風に言えば、「苦悩から歓喜へ」でしょうか・・・

バルバロ訳で8節(7節)は、
私の魂を牢から解き、
み名をたたえさせたまえ。
正しい者は私のまわりに押し迫り、
主が私を恵まれるようにと願う。

(旧約聖書 詩篇142:8バルバロ訳)
となっていましたが、
新共同訳では、
わたしの魂を枷から引き出してください。
あなたの御名に感謝することができますように。
主に従う人々がわたしを冠としますように。
あなたがわたしに報いてくださいますように。

となっています。
イメージが少し異なりますね。
新改訳では、
私のたましいを、牢獄から連れ出し、
私があなたの御名に感謝するようにしてください。
正しい者たちが私の回りに集まることでしょう。
あなたが私に良くしてくださるからです。
」となっています。
チェーン式新改訳(第2版)の7節(8節)への欄外註には、
私のたましいを、牢獄から連れ出し」の所に対して、
死の願望ではない。不当な投獄(または逆境の比喩)からの解放を願っている。
と書かれてありました。

旧約聖書的な世界観では、死後の世界は問題ではなく、
ひたすら生の世界、この世でどう生きるかが問題です。
命あるもののうちに数えられてさえいれば まだ安心だ。
犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ。

(旧約聖書 コヘレトの言葉9:4新共同訳)という御言葉に端的に表されています。
「天国=死後の世界」ということは、あまり考えない方が健全なのでは、と思います。
この世でどう生きたか、というのが、死後の世界につながりますが、
「死んでからのお楽しみ」で十分なのでは、と私は考えています。
「あの世」のことを考えすぎると、不健全で不活発になりやすいものです。
愛すること、感謝することを通して、既にこの地上から、天国は始まっているものです。
神様のすばらしい恵みに気づくことです。
(この主題については、またの機会に・・・)

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

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2010年10月24日 (日)

私の魂を牢から解き(詩篇142:8)【自作曲】

Alfieri1

上の絵は、ジョット作「聖フランチェスコの死」です。
とても素朴な絵で、その素朴さ故に、悲しみと嘆きがじかに伝わってきます。
だいぶ前に私は実物を見たことがあります。
(フィレンツェのサンタ・クローチェ教会にあります。)

今回は、聖フランチェスコにちなんで、詩篇142:8への自作曲を紹介します。
(なお、詩篇142:8というのは、新共同訳やバルバロ訳などのカトリック系の節数で、
新改訳、口語訳等のプロテスタント系の訳では、7節となります。)
テキストは、以下のとおりです。
私の魂を牢から解き、
み名をたたえさせたまえ。
正しい者は私のまわりに押し迫り、
主が私を恵まれるようにと願う。

(旧約聖書 詩篇142:8バルバロ訳)
この訳は、「聖フランチェスコの死」の絵や、
仏陀涅槃図みたいなのを連想させますね。
実際は、「肉体という牢獄」からの解放、というよりは、
むしろ、物理的な困難などを「牢獄」と捉えた方がいいはずです。
ただ、ヒルティの名著『眠られぬ夜のために 第二部』では、次のような解釈をしています。

「わたしのたましいをこのひとや(※牢)から出し、み名に感謝させてください(詩篇一四二の七)」これはアッシジの聖フランチェスコの最後の言葉でもあった。そしてまた、おそらくわれわれの最後の言葉となるかもしれない。というのは、全体として考えると、老年において多くの苦しみをともなうこの肉体的存在は、自由と、より善き、さまたげなき活動能力とを渇望するたましいにとって、ますます牢獄として感じられるからである。箴言四の一八※。※「正しい者の道は、夜明けのようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」
(ヒルティ著『眠られぬ夜のために 第二部』(岩波文庫)P.238「十月十八日」を引用)

作品の説明に戻りましょう。
少し憂鬱なメロディかもしれません。
中間部分は、
世界名作劇場の「小公女セーラ」ED曲「ひまわり」の一部に少し似ているかも・・・
なぜか最近、しばしば心に浮かんでくる曲です。
数年前に与えられた作品です。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

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眠られぬ夜のために(第2部)

2010年10月23日 (土)

おすすめブログ~公立学校の現状

これは見事!というブログを見つけました。
大阪で塾講師をしている男性(お名前は?「管理人」さん?)による、
公立学校の現状」というブログです。
教育現場の問題を鋭く、しかも端的にまとめておられます。
教育現場の痛い記事満載です。
このブログ、実は今月で記事を書くのをやめるそうです。
もったいない話かな、と思いますが・・・
もっと広く知られるべき価値があります。
ブログ全体の記事を読んでも、100に満たないものです。
特に読んでいただきたいブログの中心記事は2つです。
その記事の中で、ブログの主要記事リンクを網羅しています。

問題教師たち(まとめ1)
http://blog.goo.ne.jp/igiari99/e/aa3d01b0963c104c9587f54621977956
トホホ教師がいっぱいです。そのページから(まとめ2)にも行けます。

管理人的教育論(まとめ)
http://blog.goo.ne.jp/igiari99/e/dec751957f7f239dc286b3016a61071b
「子供は親と学校で決まる」、「詰め込みは教育」、
「できない子はやらない子」、「塾は必要ない」という教育論を展開しています。

現役教師が書くブログの類は、夢物語みたいのが多いですが、
(子供の主体性とか、問題解決とか、いきいきした瞳とか、・・・)
塾講師の方が書くと、公教育って、一体何なんだ・・・という深い認識がありますね。
この方、塾講師なのに、「塾は本来必要ない」とまで述べています。
すごい・・・
ただし、条件がありますね。
「学校がしっかりすれば・・・」
(「学校がしっかりすれば塾は必要ない」(8/8)という記事があります。)
無理かも・・・
だから、「塾は必要悪」(10/13)という記事もあります。
教育問題に関心がある方はぜひご一読を!

2010年10月22日 (金)

実は水の町、新宿~NHK・ブラタモリ「第3回 新宿で水道をたずねてブラタモリ」(10月21日放送)

新宿、といえば、どんなイメージを思い浮かべますか?
たいていは、都庁などの超高層ビル街とか、
歌舞伎町などのアヤシイ場所、というイメージでしょう。

今回の「ブラタモリ」では、全然思いもよらなかった新宿を知ることができました。
番組HPから放送内容を引用します。


ネオンきらめく巨大歓楽街、新宿。
とにかく華やかなイメージの街ですが、今回は人々の生活に欠かせない“水道”に注目してみました。
実は江戸時代から、新宿には水を供給する様々な施設が集中していたんです。玉川上水、淀橋浄水場など、新宿に残る各時代の“水道”の痕跡をたどります。
また、新宿には“水の名所”もありました。
今はなき、“十二社の池”の面影を、地元の方の証言をたよりにたどります。一見、水に関係するものはなくなってしまったかに見える新宿ですが、実は現在でも、見えないところに巨大な水道施設が!!
知られざる新宿の意外な一面を発見します。


都庁をはじめとする超高層ビル群が建っている場所、
実は数十年前まで、浄水場だったのです。

ちょうど昨年、東京方面に妻と一緒に半月以上滞在する機会があり
遅ればせながら、東京都庁の展望台に行きました。
8月だったので、
東京都庁都民広場での薪能もほんの少しだけ垣間見ることができました。
そのあたりをタモリさんらが歩いているのをTVで観ながら、
少し懐かしく思いました。

普通の人なら興味を持たないような玉川上水の跡とか、水道設備などを、
とても興味深く取り上げていて、「へぇ~」と思うことしばしばでした。
新宿の歴史を「水」という視点で見事に解き明かしていました。
新宿あたりの小学校の先生なら、
この番組をそのまま社会科の授業に使えそうかも?と思ったほどです。

それにしても、江戸時代には、世界でも最先端の水道設備があったなんて、驚きです。
先人は偉大ですね。
「玉川上水」の「玉川」は、川の名前ではなく、「玉川兄弟」の姓からだそうです。
番組の事前リサーチや編集もしっかりしているようで、
教養あふれるエンタテイメントに仕上がっていました。

おまけとして・・・
東京都水道局のマスコット、
「水滴くん」と「水玉ちゃん」はなかなかかわいらしかったです。

2010年10月21日 (木)

映画「コンペティション」

NHKハイビジョンで、
10月18日から21日まで4夜連続でピアニスト映画特集をやっています。
(NHKハイビジョンで10月31日放送予定の
「生誕200年 みんなのショパン」という番組の伏線なのでしょうか?)
戦場のピアニスト」、「愛情物語」、
そして今宵の「コンペティション」・・・
(明日は日本映画「神童」です。)
3日連続で観てしまいました。
戦場のピアニスト」については先日記事を書きました。
愛情物語」は、往年の名画ですね。
私は何度も観たことがあります。
ショパンの「夜想曲(ノクターン)第2番」をアレンジした主題曲と、
メロドラマが魅力です。

戦場のピアニスト [Blu-ray]

愛情物語  [DVD]

神童 [DVD]

さて、本題の「コンペティション」です。
実は、まったく存在を知りませんでした。
Amazonで調べても、ビデオはだいぶ前に出ていたようですが、
どうやらDVD化されていない作品のようです。
(少なくとも日本国内では・・・)
知る人ぞ知る、マイナーな作品・・・
そういう作品を、よくぞNHKは放送してくれましたね・・・
(一応、VHSビデオを紹介しておきます・・・)

Competition [VHS] [Import] (1980)

クラシック音楽好き、あるいは「のだめカンタービレ」が好きな人なら、
結構楽しめる作品だと思います。
(コメディタッチのところは全くありませんが・・・)
「コンペティション」というより「○○コンクール」といった方がわかりやすいですね。
コンクール出場者の人間模様が織り成す「協奏曲」といった観があります。
(実際、ピアノ協奏曲を弾くシーンが作品の頂点です。)
ラストはあまりにもあっけない終わり方なのはちょっと残念・・・
演奏シーンとか、心理的駆け引きのところは見ものですが、
全体的にはやっぱりB級映画かな・・・

主役のポールを演じたリチャード・ドレイファスの演技がなかなかよかったです。
(主人公にはあまり共感できませんでしたが・・・)

ところで、リチャード・ドレイファス主演の映画といえば、
陽のあたる教室」という名作があります。
教師が主人公の映画としては、「チップス先生さようなら」などと並ぶ傑作です。
陽のあたる教室」も音楽をテーマにした作品です。
原題は"Mr. Holland's Opus"(ホランド先生の「作品」)。
その「作品」とは何か、というのが、実に感動的ですよ。
映画館とTV、レンタルで計3回観ました。
その映画については、また別の機会に・・・
(「コンペティション」のDVDがないので、代わりに紹介しておきます。)

陽のあたる教室 [DVD]

2010年10月20日 (水)

「愛国」から「幸福」へ~政治、経済、教育・・・(※旅行記ではありません)

「愛国」から「幸福」へ・・・
といっても、旅行記ではありません。
「愛国心」の方の「愛国」です。

近頃は、「愛国」から「幸福」ではなく、
「売国」から「亡国」へ、
絶望の線路をひた走っているように思えます。
尖閣問題だけではありません。
産業の空洞化は深刻です。
日本の最大の資源である、「人」と「技術」が、
どんどん海外に流出して、
国内の雇用が減り、技術力が減り、社会不安が拡がっています。
「安い、安い」・・・「節約、節約」で、
日本製のものを日本人が買わなくなったら、
ますます日本の産業がダメになります。
企業は生き残りのために、生産拠点を海外に移していますが、
"made in Japan"のブランド価値を貶めています。
中国や韓国の人にとって、
"made in Japan"が価値あるものでなくなるのは、時間の問題でしょう。
輸出依存型の経済だからこそ、野蛮な隣国の顔色を伺って何も言えなくなるのです。

精神科医の和田秀樹氏のブログで興味深い記事がありましたので一部引用します。
(10月14日の記事「国家の見栄」から)

憂国ということだが、明治時代の偉人のことを調べてみると、彼らが国を守るということと同時に、外国に馬鹿にされないことを強く意識したのがよくわかる。
だから、軍事レベルを上がるだけでなく、教育レベルを上げ、豊かな国にしたいというのが悲願だった。
やはり自分の国の人間が外国に売り飛ばされるような貧困が残るのは恥ずかしいと思っていたようだ。
また外国にバカにされないいちばん大切な手段は教育レベルの高さだということもよくわかっていた。
今の「愛国」者たちは、貧困や教育の問題を放っておいて、日の丸と君が代と自衛隊と核と北朝鮮征伐がすべてのようにしか聞こえない。
国王や皇帝への崇拝を強い、金をなるべく軍備に使い、逆に国民を愚民化していき、貧富の格差が大きいというのは一般的にはバカにされることである。
北朝鮮がこれに一番近く、最初の項目がないのがアメリカだ。
アメリカというのは、世界の覇権国家になったが、世界に尊敬される国だったといえるだろうか?
日本の見本は、もう少し世界に尊敬される国にしないといけない。

(元記事は以下です。)
http://ameblo.jp/wadahideki/day-20101014.html

「愛国」の視点から言うと、教育は非常に問題ですね。
聖徳太子は知っているけど、中曽根康弘氏は知らないとか、
戦前の日本は非常に悪で、ダメな国であるとか・・・
(戦前なら何でも悪、戦後も謝り続けるしかない恥ずかしい国・・・)
こういう歴史観を持っている限り、日本の国を良くしようなんて思えるはずがありません。
また、「人のためになる」、「人をよろこばせる」、
「国をよくしたい」といった職業観・人生観を伝えることができない教育も問題です。

真の「愛国」とは、和田秀樹氏が指摘しているとおり、
教育レベルが高くなり、
内需拡大等によりできるだけ多くの国民が幸福になれるような社会を築くことでしょう。
それが、「愛国」から「幸福」への細いけれども確実な線路です。
貧困や教育の問題を放っておいて、日の丸と君が代と自衛隊と核と北朝鮮征伐がすべて
の「愛国」は、かえって「亡国」に突き進むようなものです。

2010年10月19日 (火)

映画「戦場のピアニスト」

映画「戦場のピアニスト」が、
10月18日にNHKハイビジョンで放映されていました。
静謐な映像の中で、人間の残虐さと高貴さ、
運命の理不尽さが描かれている傑作です。
私は映画館でこの作品を観たことがあるので、
このTV放映で2回目の鑑賞となりました。

この作品を観てから、
すっかりショパンの「夜想曲(ノクターン)第20番」が好きになりました。
ショパンの作品は、高校時代はよく聴いていましたが、
その後はすっかり「卒業」してしまいました。
甘すぎるショートケーキみたいな印象でした。
その印象を覆すような、「大人のほろ苦さ」を持つ曲が、
「夜想曲第20番」といえます。
(実際は、ショパンの若き日の作品なのですが・・・)

映画公開時に、「戦場のピアニスト」の主人公であり、原作者である
シュピルマンによるピアノ演奏のCDを買って聴いたことがあります。
(現在は手元にありませんが・・・)
全体的に、それほど印象に残らないようなものでしたが、
晩年の「夜想曲第20番」の演奏は、実に濃密で味わい深いものでした。
映画を数分間に圧縮したような感じ、というのがぴったりでした。

「夜想曲第20番」は、ドラマ「風のガーデン」の主題歌として、
平原綾香さんが歌詞をつけて「ノクターン/カンパニュラの恋」として歌っていましたね。
なかなかいい曲だと思いました。

映画の話に戻りましょう。
映画の中で最もすばらしいシーンは、
もちろん、主人公とホーゼンフェルト陸軍大尉の出会いのところでしょう。
ホーゼンフェルト陸軍大尉について調べてみると、相当な人格者だったようです。
教育者であり、カトリックの信仰者でした。
ただ、残念ながら、その人生の終わりは悲惨なものだった、というのが、
戦争と全体主義の理不尽さですね。
聖書にはこんな言葉があります。
この地上には空しいことが起こる。
善人でありながら 悪人の業の報いを受ける者があり 
悪人でありながら 善人の業の報いを受ける者がある。
これまた空しいと、わたしは言う。

(旧約聖書 コヘレトの言葉8:14新共同訳)
(キリストとバラバ、十字架上で悔い改めた人を想起させますね。)

死後50年以上も経ってから、
2007年10月、ポーランド政府はシュピルマンらを救った功績を顕彰してホーゼンフェルトにポーランド再生勲章を授与した。2009年2月にはイスラエル政府も「諸国民の中の正義の人」の称号をホーゼンフェルトに追贈した。」(WIKI記事から引用)
というのが、せめてもの救いですね・・・
主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。
(旧約聖書 詩編116:15新共同訳)

最後のシーン、
ショパンの「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」(オーケストラ付)の場面は、
余計な説明は一切ありませんが、
生きている喜び、演奏できる喜びが表現されていますね。

原作も読んだことがあります。
すばらしい内容ですので、こちらもぜひご一読を・・・

戦場のピアニスト

戦場のピアニスト

シュピルマン オリジナル・レコーディング

クライマックスシリーズの意義?

今年のパ・リーグ、クライマックスシリーズの覇者は、
なんと3位のロッテでした。
まずは、おめでとうと申しあげましょう。
(CS進出といい、今年のロッテはとってもラッキーな球団でしたね。)

ただ、これから日本シリーズを戦うにあたって、
仮に、セ・リーグでも3位の巨人がCSを制覇したら(たぶん無理そうですが・・・)、
リーグ3位同士の争いとなりますね。
それで、日本一を決める、というのは、なんか変だと思います。
クライマックスシリーズはそれなりに面白いとは思いますが、
やはりリーグ優勝したチーム同士が戦ってこそ、
真の日本一といえましょう。
クライマックスシリーズはそろそろ廃止した方がいいのでは、と思います。
シーズン中の熱闘を割り引いてしまう、変な敗者復活戦はいらないです。

2010年10月18日 (月)

主よ、とこしえに御言葉は(ラメド)(詩篇119:89~96)【自作曲】

今回も、詩篇119からの自作曲を紹介します。
「主よ、とこしえに御言葉は(ラメド)」です。
テキストは、旧約聖書 詩編119:89~96新共同訳です。
スケールの大きい曲調です。
「ラメド」はヘブライ語のアルファベットで12番目の文字です。

あなたの律法を楽しみとしていなければ
この苦しみにわたしは滅びていたことでしょう。

(旧約聖書 詩編119:92新共同訳)
律法」を「御言葉」と置き換えれば、まさにその通りです。
信仰あればこそ、御言葉あればこそ、
苦しい日々を不思議にも乗り越えることができるのです。
神様に感謝!

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

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2010年10月17日 (日)

あなたの御言葉は(ヌン)(詩篇119:105~112)【自作曲】

今回の記事で、通算600本目となります。
神様に感謝!

ということで、記念として、
詩篇119:105~112による自作曲を紹介します。
テキストは、旧約聖書 詩編119:105~112新共同訳です。
ロ短調で始まりますが、111節の御言葉から、ロ長調に変わります。
嘆きから確信に変わる曲です。

長大な詩篇119は、全聖書の中で最も多い節数がありますね。
176節にも及びます。
新共同訳では、(アルファベットによる詩)という見出しがつき、
8節ごとに、(アレフ)、(ベト)、(ギメル)・・・とつけられています。
これは、ヘブライ語のアルファベットの順です。
日本でいえば、「いろは歌」みたいなものでしょうか。
(ヌン)は、第14番目に位置します。
冒頭の、
あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。
(旧約聖書 詩編119:105新共同訳)は有名で、
この箇所を座右の銘にしている人も多いかもしれません。

この御言葉を読む時、私はジョン・ヘンリ・ニューマンの詩を思い出します。
(ジョン・ヘンリ・ニューマンといえば、つい最近、イギリスで、
ローマ教皇により聖人の一歩手前である「福者」とされましたね。
19世紀イギリスにおけるカトリック復活において非常に大きい役割を果たした人です。)
導き給え、光なる主よ」という詩です。
たえなるみちしるべの」という題で、讃美歌の288番として親しまれています。
今回は、『イギリス名詩選』から邦訳を引用しましょう。


導き給え、光なる主よ」 ジョン・ヘンリ・ニューマン

導き給え、恵み深き主よ、われ今闇にかこまる、
 光なる主よ、願わくばわれを導き給え!
夜の闇いよいよ深く、われ故郷を離るること遠し、
 主よ、われを導き給え!
わが歩みを乱し給うことなかれ、わが願いは、遠くを
見ることにあらず、---ただ一歩を照らし給わばたれり。

かつてのわれは今のわれと異り、主よ導き給えと、
 祈りしことなし。わが道を自ら選び、
自ら行かんとせり。されど、今は、祈る、
 主よ、導き給え、と!
かつてのわれは華やかなる日々を愛し、内心戦きつつも、
わが思いは傲りに溺れたり。主よ、わが過去を忘れ給え。

御力により、われ長き歳月に恵まれ今にいたる、---この後も、
 なお、主の導きにより生き続けん。
深き沼と沢をこえ、険しき山と滝をこえ、
 夜の明くるまで、主の導きあるを信ず。
曙きたれば、かつてわが久しく愛し、しばし見失いたる
親しき者たち、天使の如き笑みを浮かべ、われを迎えん。

(平井正穂編『イギリス名詩選』(岩波文庫)P.228~231から引用)


ただ一歩を照らし給わばたれり。」のところ、原文では、
"one step enough for me."となっています。
ここに、詩編119:105のエコー(「わたしの歩みを照らす灯」)があると思います。

参考までに、讃美歌288の歌詞の1、2番だけ引用しましょう。
元の詩との違いを見比べてみてください。


(1番)
たえなるみちしるべの ひかりよ
家路もさだかならぬ やみ夜に、
さびしくさすらう身を
みちびきゆかせたまえ。

(2番)
ゆくすえとおく見るを ねがわじ、
主よ、わがよわき足を まもりて、
ひとあし、またひとあし、
みちをばしめしたまえ。


人生は時には一寸先は闇だったり、
明るいと思っていた空がいつの間にか雨模様になったりと、
絶えず変わりゆくものです。
それだからこそ、
光そのものである神様の照らし、導きが必要なのです。
神は光であり、神には闇が全くない。
(新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ1:5新共同訳)

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イギリス名詩選

2010年10月16日 (土)

映画「美女と野獣」は恋愛の教科書

先日、初めてディズニー映画「美女と野獣」を妻と一緒に観ました。
(妻は既に観たことがありました。)
観終わった時、不覚にも涙が零れ落ちました。
愛の奇蹟を描いた傑作ですね。

ここで「野獣」として描かれている存在、
実は名前が最後までありませんね。
この「野獣」とは、女性から見た独身男性の象徴なのではないでしょうか。
粗野で粗暴、本当は王子様だなんて信じられない・・・
初めは良さなんてわからないかもしれません。
恐ろしいと感じる場合もあるし、理解不能かもしれません。
オタク的な趣味を持っていたらなおさらですね。
ある意味、「美女と野獣」は、「電車男」と同類の話といえましょう。
「美女」(顔のことよりも、心において「美女」)に出会うまで、
オトコは誰でも多かれ少なかれ、「野獣」みたいなものです。

「野獣」の部下は皆モノに変身させられていた、というのも象徴的ですね。
人格的な関わりというよりも、道具・手段としてしかみなしていない。
自己中心的な生き方をすると、M・ブーバー流に言えば、
「我―汝」の関係ではなく、「我ーそれ」になってしまいます。

「野獣」が自分の都合や欲望よりも、「美女」の願いを中心にして生きるようになると、
(映画では、野獣は一旦殺されますね。)
真に人間として生き返ります。
ここに、モテる生き方のヒントがありますね。
「愛されることよりも、愛することを」・・・

この記事を読んでいる「美女」のみなさま・・・
「王子様」は意外なところにいるものなのです。
経済的な「野獣」もいるし、仕事の「野獣」もいます。
オタクな「野獣」までいます。
外見的にはさえなくても、あなたの魔法の愛で、
「野獣」は真の人間となることができるかもしれませんよ。
「野獣」の対極にある「ガストン」的存在にだまされず、
良縁に恵まれますように・・・

ところで、最近は男性が恋愛に消極的で、女性の方がいわゆる「肉食系」となっていますね。
これでは、「美女『も』野獣」でしょうか・・・

「美女と野獣」は恋愛において、多くの示唆を与えてくれます。
婚活や恋愛を考えている人にとっては、教科書的作品といえましょう。



2010年10月15日 (金)

今年初登頂!~といっても、円山ですが・・・

先日、10月11日に、妻と一緒に登山をしました。
といっても、本格的なものではなく、
普通の人なら誰でも登れる、円山(標高226m)です。
妻が数ヶ月前から「登山したい~」とせがんでいたので、
なんとか年内にどこでもいいから登山を・・・と考えていました。
円山は既に2、3回妻と一緒に登った事がありますが、
今年はまだでした。

当日は天気がよく、眼下に札幌を一望することができました。
テレビ局(HBC)も取材に来ていましたよ。
写真は円山頂上から札幌駅方面を写したものです。

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2010年10月14日 (木)

NHK・クローズアップ現代「介護を担う家族を救え」(10月14日放送)

10月14日放送のNHK・クローズアップ現代では、
介護を担う家族を救え」という題で、
介護疲れによる介護殺人の背景と、
イギリスでの先進的な取り組みについて放送していました。
番組HPから、放送内容を転載します。

社会全体で介護を支えようと介護保険制度が始まって10年。しかし、介護する側の家族の負担感は軽くなっておらず、国の調査によれば4人に1人がうつ状態に陥っている。家族の形が小さくなったため、独身の子どもが高齢の親を支える“シングル介護”や、夫婦二人だけの“老老介護”が増加。一人一人の負担が重くなっているにもかかわらず、救う手立てがないのが現状だ。介護のために仕事を辞める“介護離職”や、介護に追い詰められた人が、親や配偶者の命を奪う“介護殺人”も増えている。一方、海外では“介護する側”を支える法律を制定した国もある。介護のストレスや経済状況などを聞き取り、休む機会を提供したり、手当を支給するなど、積極的な支援を始めている。日本で介護する側の家族を支えるにはどうすればいいのか。地域で始まった取り組みとその課題から、介護する側の支援のあり方を考える。

介護疲れからの介護殺人の背景を知ると、
殺人を犯した人は、極悪非道だからではなく、
もしかしたら、誰でも陥るものかもしれない、と思わされました。
統計によると、こういう悲劇は月に3、4件は起きているようです。
実際には、氷山の一角なのでしょう。

介護殺人と児童虐待は、意外にも根が同じなのかもしれません。
地域・社会からの孤立と絶望感が、
行き場のない憤り・怒りとなり、ついには凶行に至る・・・
人との関わりというものがいかに大切であるかを思います。
同時に、社会的サポートも重要ですね。

番組後半では、イギリスの先進的な取り組みを紹介していました。
番組でも紹介していましたが、
より詳しく紹介しているブログ記事を見つけましたので引用・紹介します。
(愛知県東郷町の町会議員、山下りつ子氏のブログ、
町会議員、山下りつ子の議会報告」)
要点を引用すると・・・
イギリスの介護者法の特徴は、
①介護者がどの程度、介護をすることができるのかをアセスメントする
 (自治体はアセスメント請求権が介護者にあることを知らせる義務がある)
②要介護者から離れて、自分の生活を楽しむための「介護休業制度」がある
③介護者手当、税制上の措置、公的年金制度上の取り扱いなど、介護を行うことで経済的に不利にならないよう、所得保障がある
(NHKによると、毎月3万円程度とのこと)
④介護者が仕事に戻れるよう支援する
詳しくは、下記をごらんください。
http://togo-gikai.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-1fd0.html
資料が豊富なので、介護問題を考えるには一読の価値があります。

介護の問題は保育園に入れない待機児童の問題などよりもはるかに深刻です。
(保育は数年待てばなんとかなりますが、介護はいつまで続くのかわかりません。
それどころか、よくなる事はあまりなく、だんだん悪化する一方の場合がほとんどです。)
しかし、待機児童の問題ほど注目されていないように思えます。
安心して老後を迎えられない、高齢者が大切にされない、という世の中は、
果たして幸福なのでしょうか。
また、介護する人が疲れ果て、介護殺人や老人虐待に追い込まれてしまうような、
現在の介護制度は、改善が必要です。
西欧並みの福祉政策の充実が望まれます。
一人一人の負担が増えても、できるだけ多くの人が幸福になれるような社会こそ、
望ましいと私は考えます。

2010年10月13日 (水)

映画「2001年宇宙の旅」~導入部と結末部以外は大傑作!

昨晩(10月12日)、NHKハイビジョンで、
映画「2001年宇宙の旅」を放映していました。
以前民放で何度か放送された際に、冒頭の部分のみ観た事がありましたが、
「つまらない」という印象が強く、宇宙空間に舞台が移るところからは観るのをやめていました。
ブラウン管テレビで観ると、迫力がなかったかもしれません。
R・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラかく語りき」冒頭部と、
J・シュトラウスⅡ世の「美しく青きドナウ」が使われているところまでは、
おぼろげながら覚えていました。
宇宙空間のシーンを見ても、たいして驚きがなかったです。

しかし、今回は我が家の液晶テレビで観ると、全然違って見えました。
映像の美しさと情報量の多さにあっという間に引き込まれてしまいました。
表題にあらかじめ書いたとおり、
導入部のサルの争いのシーンと、結末部の難解な場面は、
カットしても全然惜しくないと思いますが(「進化教」のプロパガンダに過ぎません。)、
宇宙空間のシーンは傑作の名にふさわしいものです。
映画というよりは、映像詩という名称の方がふさわしいかもしれません。
細部へのこだわりや質感は尋常なものではありません。
宇宙船の外部と内部はどちらもリアルさが他のSFを凌駕しています。
(スターウォーズシリーズの宇宙船でさえ、
この作品に出てくる宇宙船と比べれば安っぽく見えます。)
とても40年以上も前の作品とは思えないほどです。
よくここまで想像をめぐらしたものだ、と感嘆しました。
2001年はとっくの間に過ぎてしまい、
残念ながら、映画が想像したような宇宙旅行は、まだ本格的には実用化されていませんが、
あと30年、40年後ぐらいには、ごく一部の大富豪は、
映画の中にあるような宇宙旅行を楽しめるかもしれませんね。
私にとっては中間部分の映像美は理屈抜きで満喫できました。
映画公開当時に観た人は、さぞ驚愕したのでしょうね。
2010年に観ても、オドロキの連続なのですから・・・
なお、サルのシーンは、民放で放映されていたときは、
かなりカットされていたと記憶しています。
当然の配慮でしょう。

この映画の映像美へのこだわりと並んで、
音楽の使い方も驚異的でした。
映画冒頭でR・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラかく語りき」冒頭部を使っているところは、
クラシック音楽が映画の中で使われた最も有名で効果的なシーンといえます。
そして、宇宙空間におけるJ・シュトラウスⅡ世の「美しく青きドナウ」・・・
意外ながらも実に効果的です。
「美しく青きドナウ」ならぬ「美しく青き地球」・・・
それよりも、宇宙空間での自由さ、優雅さ、開放感や高揚感などを表現しているのでしょうね。

上記2曲とならんで、映画の中で重要なのは、モノリスのテーマとでも言うべき、
リゲティの諸作品です。
はっきりいって、気持ちが悪く、ホラー映画向けの異様な音楽なのですが、
(死霊が蠢いているような感じというか・・・)
映画の中では実に効果的に使われていました。
モノリスに不気味な神秘感を漂わす最大の立役者といえましょう。
キューブリック監督の慧眼に脱帽でした。

ちなみに、R・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラかく語りき」冒頭部の後、
どんな音楽か、聴いたことありますか?
私は・・・一度CDで聴いたことがありますが、
退屈で、途中で寝てしまいました・・・
たぶん、これからも聴くことはないかもしれません・・・
けれども、冒頭部だけなら、「カッコいいクラシック」ベスト10に確実入ります。

映画の中で出てくるモノリスとの接触と進化、というのは、
あれこれと議論されており、哲学的・宗教的な解釈までさまざまですが、
私は、あまり深く考えなくていいモチーフなのでは、ととらえています。
その部分は所詮、「進化教」のプロパガンダ、洗脳ビデオに過ぎませんので・・・

2001年宇宙の旅

2010年10月12日 (火)

おすすめブログ記事~「日本の教育はマイナーチェンジではダメなのでは?」(ニューズウィーク日本版・冷泉彰彦氏)

最近になってよく読むようになったブログの一つが、
ニューズウィーク日本版のサイトにある、
「プリンストン発新潮流アメリカ by冷泉彰彦」です。
日本国内では得られない視点で、アメリカの政治・文化や、
日本の政治・文化を考えるきっかけになります。

冷泉彰彦氏の10月12日の記事、
「日本の教育はマイナーチェンジではダメなのでは?」は、
「なるほど!」と思わされました。
日本の新聞記事(朝日新聞)に出ていた記事を元に、
日本の教育問題の痛いところを突いています。

記事の要点だけを、引用しましょう。
私なりに要旨をまとめるとしたら、
「税金を投入して生活保護世帯の子に塾代の補助をする、という問題解決ではなく、
公教育を正しい形にするのが、真の問題解決なのでは?」でしょうか・・・
なお、注目していただきたい箇所に下線を引きました。
(原文には下線はありません。)

例えば、今日付けの朝日新聞(電子版)には、「生活保護世帯の子に進学支援拡大、無料講習会や塾代補助」という記事がありました。記事中でも熊本県の蒲島知事が「生活保護世帯から大学や専門学校に進む若者向けの生活費貸し付けを始めた」というニュースなどは、政策としては至極当然だと思いますし、動機付けのされた若者であれば給付型の奨学金制度などへ発展させるべきだとも思います。

 ですが、このニュースの中で主要な問題として取り上げられていたのは、自治体が生活保護家庭の子供を対象に塾代の補助を行う例が増えているという話題でした。例えば東京都は生活保護家庭の子が塾に通う費用を補助する制度をスタートし、昨年度は1億2700万円を独自に支出したそうです、また。板橋区ではこの4月に、塾代補助制度を利用した子供の全日制高校進学率は87%で、生活保護世帯全体の進学率71%を上回ったのだそうです。

 その背景には「子どもが教育機会を失い、貧困が次世代に引き継がれる「連鎖」を防ごうとの狙い」があると記事は説明しています。私はこれに大変な違和感を覚えました。勿論、セーフティネットは大切で、少なくとも貧困家庭の子供には社会が教育を保障してゆくのは当然だと思います。ですが、どうして「塾代補助」なのでしょうか? 待ったなしの短期的な施策としては勿論、アリだとは思います。ですが、それはそれとして、公立中学校の正規の課程を履修しただけでは全日制高校へ進学するだけの学力は身につかず、「将来の貧困の連鎖」になってしまうのであれば、その中学校のカリキュラムなり指導者に問題がある、どうしてそう考えられないのでしょう?

記事ではもう一つ、英語教育についても実に痛い指摘をしています。

もう1つ、これは昨日のニュースですが、小中高の英語教員をひとり1000万円かけて米国に留学させるというアイディアがあるというのです。これも「塾代補助」と同根の問題であり、税金が投入されるという点でも、そして根本から改革しなくてはダメという点でも同じです。英語教師というのは英語ができるから人に教えられるのであって、英語ができないために公費で学習し直さなくてはならない人間がどうして英語教師なのかという問題はやはり疑問です。

 現在の英語教育は、水泳指導にたとえるならば、泳げない人間を指導者にして、畳の上で「平泳ぎの格好」の練習をさせているのと同じだと思います。要は畳を取り払って全員をプールに投げ込んでしまえば、先生も生徒も溺れてしまう、そんな悲喜劇に陥っているのです。世の中には英語が読めたり話せる人は沢山いるわけですから、これも「総取り替え」が手っ取り早いのであって、どうして1人1000万円などという話が出てくるのか分かりません。どう考えても、英語のできない「英語教師」を英語ができるようにするよりも、英語のできる人に指導法を教えて教師にする方が効率的だと思うのです。もっと言えば、同じカネを出すのなら学生や院生の若い人をどんどん海外に出して国際人にしたり、ホンモノの英語教師にしたりする方が前向きでしょう。

まさに同感です。
2つの記事とも、日本国内で教育問題を論じる際に欠けている視点を与えてくれます。
それは、端的に言えば、教員の資質向上でしょう。
上の2つなどは、ドブ川の悪臭の原因を絶たないで、香水でごまかすようなものですね。

いずれにしても、教育の目的とは「社会に出て役に立つ」人間の基礎能力を訓練することにあるわけで(英語の場合は「国際社会に」ということです)その最低限の目標が崩れてしまっている現況を考えると、もはや「マイナーチェンジ」ではダメだと言わざるを得ません。

ぜひ、記事そのものをお読みください。
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2010/10/post-208.php

2010年10月11日 (月)

映画「ピノキオ」に隠された神学~附:ヨナ書からの教会学校説教案

旧約聖書の十二小預言書の一つ、ヨナ書は、
映画「ピノキオ」の原作の一つとして知られています。
ピノキオやゼベットじいさん達が鯨の腹に呑み込まれてしまう元ネタが、
実はヨナ書だからです。
さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。
ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。

(旧約聖書 ヨナ書2:1新共同訳)
この箇所は、イエス様も引用されましたね(マタイ12:38~40)。

教会学校で、このヨナ書の話をする予定でした。
(都合により、中止となってしまいましたが・・・)
ヨナ書と「ピノキオ」との関係から、
説教の際に、少し「ピノキオ」のDVDを見せたら、と考えました。
そこで、「ピノキオ」のDVDをレンタルしました。

「ピノキオ」は過去に2回ぐらいDVDとTV放映で観たことがありますが、
今回観た版は、「プラチナ・エディション」とのことでした。
画像が圧倒的に鮮明で、その美しさにすっかり魅了されました。
(経年劣化や細かい傷など、かなり修正されているようです。)
とても1940年の作品とは思えないほど!
絵が動くオドロキ、美しさは、
フルCGで描かれた昨今のアニメよりもすばらしいとさえ思いました。

ヨナ書の元ネタの鯨のシーンだけ使えばいい、と思っていましたが、
作品全体を見ると、驚くばかりにキリスト教神学の要点が詰まっていることに気づきました。
神学用語を羅列してみると・・・
三位一体、創造、堕落、罪、回心、贖罪、復活、新生・・・
子ども向けと思ってあなどってはいけません!

「三位一体」はどこに出ているか、というと、
=ゼベットじいさん(創造者、放蕩息子を待ち続ける父)、
=妖精(奇蹟を行い、命を与える。聖霊を与える。)、
聖霊=ピノキオの良心であるジミニー・クリケット。
ここから「創造」も出てきますね。
「ピノキオ」は、ある意味、私たちそのものです。

ピノキオが学校に行こうとする際に、ゼベットじいさんがりんごを持たせるシーンがあります。
創世記3章の「知恵の実」を指し示しているように思えました。
その後、ピノキオは誘惑や堕落の道へとどんどん進んでしまいますね。
これが「堕落」です。
ピノキオや町の不良少年たちがロバに変身させられるシーンがありますが、
(この映画の中でどうも観るのがツライ場面です。)
聖書そしてキリスト教文化圏においてロバは、
「ばか者、とんま、のろま、頑迷な人物」という意味を持ちます。
(聖書では、たとえば詩篇33:9など)
ロバへの変身シーンは、
犯罪者として刑務所に入れられることの隠喩かもしれません。
具体的な違反と並んで、欲望に引かれてしまう姿は、「」を表します。

回心、贖罪」は、
ピノキオがジミニーと一緒に父であるゼベットじいさんを捜し求め、
鯨の腹にまで入り、助け出すところでしょう。
ピノキオは一度溺れ死んでしまいます。
耳はロバのまま、つまり「罪」を背負って・・・
(この部分では、ピノキオは私たち人間存在というよりは、
キリストの役目に近いです。私たちの罪を背負って十字架で死なれた主イエス・・・)

復活、新生」は、死んでしまったピノキオが、
生身の人間の子として新しい命をいただき、甦るところです。
私たちも、「罪に死に、キリストに生きる」なら、
「神の子」として永遠の命に生きることができます。

こう考察してみると、「ピノキオ」を単にヨナ書の元ネタとして紹介するよりも、
むしろ、ヨナ書をスタート地点に、「ピノキオ」から、
伝道的な説教を組み立てた方がいいと考えました。

以下が、教会学校で使おうと思っていた説教案です。
(結局、お蔵入りになってしまいましたが・・・)


(いつもの通り、「聖書のおはなし」を使う。「ヨナと大きな魚」のところを読む。)
(特に何も説明せず、いきなり「ピノキオ」を見せる。
「ピノキオって、知っている?」などと問いかける。
子どもの反応→どうして「ピノキオ」を見せるのか、という疑問。)
(鯨のシーンを見せてから)
今日の聖書のお話は、ヨナのお話でしたね。ヨナは大きな魚に呑み込まれてしまいますね。
そういえば、「ピノキオ」の中にも、まったく同じシーンがありましたね。
実は、「ピノキオ」のその場面は、ヨナ書が原作なのです。

ところで、みなさんは「ピノキオ」の話を知っていますか?(反応を見る。)
(ピノキオの話をざっと説明する)
ある意味、ピノキオというのは、私たちの姿のようです。
神様がすばらしいものとして私たちを創られましたが、
神様から離れてしまい、自分中心の生き方となってしまいました。
しかし、「悪い子」となってしまったピノキオを、作ったゼベットじいさんは、見捨てたでしょうか?
いや、海の底までも、探しにいきました。
そのように、神様は私たちを探し求めておられます。
私たちをこよなく愛しておられるからです。
私たちは、本当の「神の子」になるためには、何をしなければいけないでしょうか?
神様の方へ向き直し、罪を認め、イエス様を信じることです。
神の愛を信じることです。
私たちも、神様に背を向け続けるのではなく、
神様を求めて生きていきたいものですね。

聖書のおはなし

ピノキオ プラチナ・エディション

2010年10月10日 (日)

NHK・世界遺産への招待状「イタリアが愛した男~アッシジ~」(10月9日再放送)

アッシジ・・・
十数年前、一人でイタリア旅行をした時に訪れました。
バチカン、ルルドといった「聖地」にも行きましたが、
アッシジこそ、私にとっては今のところ最高の「聖地」です。
聖フランチェスコ大聖堂地下にある、
聖フランチェスコの墓の前で、思わず涙があふれたことを、
今でもはっきりと覚えています。
機会があれば、またぜひ行ってみたいところです。

NHKの「世界遺産への招待状」で、アッシジを取り上げていました。
(本放送は6月で、今回は「特選」という形の再放送でした。)
聖フランチェスコの生涯について大きく時間を割いた構成は、
はからずも立派な「キリスト教番組」となっていました。

「彼(聖フランチェスコ)はキリストと出会った。」・・・
取材者のインタビューに答えたフランシスコ会の修道士のコメントです。
この「キリストと出会う」ということが、取材者にはどうも理解できなかったようでした。
確かに、これは説明が難しいものですね。
合理主義的思考からすると、「神の呼びかけ」と言われても、
疑問しかわかないことでしょう。
そこは、一般日本人の代表として、正直だったと思います。
しかしこの番組は、「キリストと出会う」ということを、
聖フランチェスコという一人の熱烈な信仰者の生き様を通して、
間接的に、示唆的に語っていたといえます。

私が聖フランチェスコに興味を抱いたのは、高校生の頃でした。
聖書やいろいろな哲学書、宗教書を読みふける中、
物足りなく思ったのは、キリストの言葉をあれこれ論じている人は多いけど、
キリストの言葉そのものを「生きた」人が皆無でした。
しかし、聖フランチェスコはまさにキリストの言葉を「生きた」!
これをきっかけに、ますますキリスト教へ傾倒していきました。
20代前半頃まで、すっかり聖フランチェスコに魅了されていました。
「聖フランシスコの小さき花」とか、伝記などいろいろ読み、
ついにはアッシジまで行きました。
ジオットの絵の素朴さと真実さにも魅了されました。
私にとっては、聖フランチェスコは、キリスト教の真実さを力強く証しし、
真の信仰へと導いてくれた大きな恩人の一人です。

残念ながら、1997年の大地震によって、
聖フランチェスコ大聖堂のフレスコ画は甚大な被害を受けました。
番組では、その修復についても触れていました。
気の遠くなるような地道な作業でした。
(私が行ったのは、大地震の数年前でした・・・)

今回は、おまけとして、
聖フランチェスコの「太陽の賛歌」を転載します。
女子パウロ会のサイトからの引用です。


いと高い、全能の、善い主よ、
  賛美と栄光と誉れと、
  すべての祝福は
  あなたのものです。

いと高いお方よ、
  このすべては、あなただけのものです。
  だれも、あなたの御名を
  呼ぶにふさわしくありません。

私の主よ、あなたは称えられますように
  すべての、あなたの造られたものと共に
  太陽は昼であり、
  あなたは太陽で
  私たちを照らされます。

太陽は美しく、
  偉大な光彩を放って輝き、
  いと高いお方よ、
  あなたの似姿を宿しています。

私の主よ、あなたは称えられますように
  姉妹である月と星のために
  あなたは、月と星を
  天に明るく、貴く、
  美しく創られました。

私の主よ、あなたは称えられますように
  兄弟である風のために。
  また、空気と雲と晴天と
  あらゆる天候のために
  あなたは、これらによって、
  御自分の造られたものを
  扶け養われます。

私の主よ、あなたは称えられますように
  姉妹である水のために
  水は、有益で謙遜、
  貴く、純潔です。

私の主よ、あなたは称えられますように
  兄弟である火のために。
  あなたは、火で
  夜を照らされます。
  火は美しく、快活で、
  たくましく、力があります。

私の主よ、あなたは称えられますように
  私たちの姉妹である
  母なる大地のために。
  大地は、私たちを養い、治め、
  さまざまの実と
  色とりどりの草花を生み出します。

私の主よ、あなたは称えられますように
  あなたへの愛のゆえに赦し
  病いと苦難を
  堪え忍ぶ人々のために。

平和な心で堪え忍ぶ人々は、
  幸いです。
  その人たちは、
  いと高いお方よ、あなたから
  栄冠を受けるからです。

私の主よ、あなたは称えられますように
  私たちの姉妹である
  肉体の死のために。
  生きている者はだれも、
  死から逃れることができません。

大罪のうちに死ぬ者は、
  不幸です。
  あなたの、いと聖なる御旨のうちにいる人々は、
  幸いです。
  第二の死が、その人々を
  そこなうことは、ないからです。

私の主をほめ、称えなさい。
  主に感謝し、
  深くへりくだって、主に仕えなさい。

(訳:石井健吾)

※聖フランチェスコの生涯を描いた映画、
「ブラザーサン・シスタームーン」はオススメです!

ブラザー・サン シスター・ムーン [DVD]

2010年10月 9日 (土)

バーンスタインの指揮&ピアノによる「ラプソディ・イン・ブルー」~NHK・プレミアムシアター「バーンスタイン・イン・ヘーヒスト」(2010年10月9日放送)から

私にとってはバーンスタインが1つの基準になっていることは確かだ。
彼の解釈はとても洗練されたもので、まるで夜遅く、くわえ煙草で、
目の前にウィスキーのグラスを置いてピアノに向かって、
恋人のために弾いているような感じがある。

(ファジル・サイ)

これは、トルコ出身の天才ピアニスト、ファジル・サイが、
ガーシュウィンのCDライナーノートで述べている、
「ラプソディ・イン・ブルー」の解釈で影響を受けた人について述べているところです。

NHKハイビジョンで、10月9日に、
バーンスタイン指揮&ピアノ、ニューヨーク・フィルによる、
1976年6月にドイツで行われたコンサートの模様を放送していました。
その中で、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」の演奏は、
まさに冒頭に引用したファジル・サイの言葉そのものでした。

冴え渡るようなピアノではないし、オーケストラも少し鈍重な感じがしました。
しかし、なんとも味のある演奏でした。
無理してジャズしている、というようなものではなく、
少し崩れかけた、というか、退廃感、けだるさがよく出ていました。

私としては、「ラプソディ・イン・ブルー」はファジル・サイのCDで愛聴しています。
バーンスタインの演奏とはかなり違います。
ドイツのすっきりとした白ワインとフランスの濃厚な赤ワインぐらいの違いがあるかも・・・
しかしどちらもすばらしい演奏です。

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Gershwin / Bernstein / ガーシュウィン:ラプソディ・イン・ブルー/バーンスタイン:シンフォニック・ レナード・バーンスタイン 【CD】

スーパーで百円札を・・・ちょっと珍しい光景

「ティファニーで朝食を」ならぬ「スーパーで百円札を」・・・
どちらも、珍しい、というよりは、ありえないものですね。
しかし、先ほど妻と近所のスーパーに買い物に行った際、
レジのところで、私たちの前の客は、
なんと百円札を使って支払いをしていました。
レジ店員も当惑し、使えるか否かについて上司(?)に応援を頼んでいました。
その客は、
「人からもらったのだけど、さっさと使ってしまおうと思って・・・」と弁解していました。
私なら・・・人からもらったのだから、記念に保存しておくかな?
ちょっともったいない(かもしれない)話でした。
帰り道、妻と私は、どうしてその人は百円札を使ったのだろうと、
あれこれ推理して楽しんでいました。
曰く、
・実は「呪いの百円札だった。」(ありえませんね・・・)
・もらった人との関係が非常に悪いので、すぐ手放したいと思った。
・お金としての価値に疑問を思った。
というような感じで・・・
あれこれ想像をめぐらすというのは、元手がなくても楽しめますね。

主よ、あなたの慈しみは天に(詩篇36:6~11)【自作曲】

主よ、あなたは人をも獣をも救われる。
(旧約聖書 詩編36:7新共同訳)
聖書って、人間中心なのでは?

先日、インターネットキリスト教新聞のクリスチャントゥディで、
こんな記事を見つけました。
米カトリック教会 「世界動物の日」で動物祝福式」(2010年10月4日)
http://www.christiantoday.co.jp/international-news-3071.html
記事の要旨は、10月4日がアッシジの聖フランシスコの祝日にちなみ、
アメリカ各地で「動物祝福式」なるものが執り行われた、とのこと。
さすがに日本では、「動物祝福式」というのは聞いたことがありませんね。
(ペットに洗礼を授けているプロテスタントの教派があるとか・・・
たしか「子羊の群れキリスト教会」だったでしょうか・・・)
カトリックでは、家とか車なども祝福しますので、
家畜やペットも「所有物」の一種として祝福したのでしょうね。
ちなみに、聖フランシスコは、20世紀後半になってから、
「環境保護の守護聖人」とされています。
「小鳥へ説教した」とかの逸話が伝えられており、
有名な「太陽の賛歌」では、太陽や月などを「兄弟」と呼びかけたりしていますね。

聖書は人間を、神の創造の頂点としています(創世記1:28)が、
だからといって、自然をほしいままに搾取していいとか、
そういう考えではないはずです。
(人間を「自然の支配者」とみなさず、「自然の管理者」ととらえるべき、
というのが今日の神学的主流のようです。)

また、動物など自然界への配慮は、詩編104全編にわたって描かれています。
ヨブ記37~39章もそうです。
ヨナ書4章では、神様がニネベの住民12万人とともに、
無数の家畜を「惜しんだ」ためにニネベを滅ぼさなかった、とも書かれています。
エコロジーの観点からみてもすばらしい記述は、
使徒パウロによるローマ8章18~22です。
被造物がすべて今日まで、共にうめき、
共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。

(新約聖書ローマの信徒への手紙8:22新共同訳)
被造物(自然界)も「救われる」!
まさに、
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。
(ローマ11:33新共同訳)と感嘆せざろうえません。

さて、今回は冒頭に引用した御言葉が含まれる、
詩編36:6~11への作曲を紹介します。
使用テキストは新共同訳です。
昨朝ふと久しぶりに思い出しました。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

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2010年10月 8日 (金)

映画「ルパン三世 カリオストロの城」~何度も見たけど、やっぱり・・・

「ルパン三世 カリオストロの城」・・・
またテレビ放映されていました。
もう何回観たでしょうか。
テレビ放送だけで少なくとも10回は観ているはずです。
DVDレンタルでも観ていますから、20回近く観ているのでは?
次どうなるかの展開も、セリフもだいたい覚えているから、すべてわかっていても・・・
やっぱり、何度観ても面白い!
傑作ですね。
宮崎駿監督の作品では、理屈抜きで最も面白い作品の一つです。
(私の「宮崎駿ベスト3」は、この作品と「天空の城ラピュタ」、「魔女の宅急便」かな・・・)
違う世界や魔法や超能力や魔物がなくても、十分にストーリー展開だけで楽しめます。
何年かに1度は必ず観たくなります。
ワタクシも、「心を盗まれました」・・・
おじ様・・・(*^-^)

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2010年10月 7日 (木)

「神の存在」は「信ずべき」事柄なのか?~「ヘブル人への手紙」11:6の訳

昨朝、エマオ出版訳の新約聖書でヘブル(ヘブライ)人への手紙11章を読んでいると、
6節はこのように訳されていました。
実に、信仰によらなければ(神を)喜ばせることは不可能です。
なぜならば、(自ら)進んで神に近づこうとする者は、
神がご自分に求める者に今報いてくださる御方であられ、
また(今後も)報いる方になってくださると信じなければならないのです。

一般的な訳では、新共同訳を例にあげると、
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神が存在しておられること
また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、
信じなければならないからです。

(新約聖書 ヘブライ人への手紙11:6新共同訳)
となっています。他の訳でもだいたい大同小異です。

どうして、一般的な訳と違う訳をあえてエマオ出版訳がつけたのか、
欄外に記載がありました。
少し長いので、中心となる箇所だけ抜粋して引用します。
「・・・また聖書は、神の御存在は、人が当然認めなければならない自明の事実として取り扱っており、人間に神の存在を信じろとは語っていません。「初めに神は天と地を創造された。」と何の説明もなしに、語っています。この節の伝統的な訳は、聖書の主張に矛盾しています。聖書の中では一貫して「信じる」という語が、「信頼する」を意味しています。
(エマオ出版訳新約聖書P.543から引用)

古来から哲学者や科学者までもが、「神の存在証明」を成し遂げようとしてきましたが、
(アリストテレスやスコラ哲学、カントからゲーデルまで・・・)
そもそも、証明をする必要がなかったわけです・・・
第一、どんなに巧みな論理であっても、それで納得がいくものでしょうか。
論理は論理にすぎません。

「神はいるか、いないか」といったばかげた議論につきあうのは、
時間のムダといえるでしょう。
神を知らぬ者は心に言う『神などない』と。」
(旧約聖書 詩編53:2新共同訳)
人間の言い伝えにすぎない哲学、
つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。
それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。

(新約聖書 コロサイの信徒への手紙2:8新共同訳)

2010年10月 6日 (水)

萌え寺・了法寺の菩薩行~キリスト教会も追随すべき?

Yahoo!ニュースでこんな記事がありました。
萌え寺のテーマソングがダウンロードランキング1位に!
これからは仏教が熱い!?萌え仏像も準備中

(2010年10月5日)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101005-00000019-flix-movi
この「了法寺」の公式HPを実際に見てみると、
今までの「暗くて陰気な」お寺、というイメージを見事に覆し、
ここはアキバか?とさえ思わせるようなイメージチェンジが図られています。
(「了法寺」で検索すればすぐに出てきますよ。)
了法寺のテーマソング「寺ズッキュン!愛の了法寺」も実際に視聴してみました。
楽しそう~(でも、ぶっ飛びすぎ!)
従来の堅苦しい仏教界からはヒンシュクものかもしれませんが、
これも一種の「菩薩行」かもしれません。
オタクな人々を救う道であるし、
お寺が楽しいところだと思わせる演出は、なかなかだと思いました。
煩悩にまみれながらも、救いの道を示すとは・・・
見習うべきではないでしょうか。

対して、キリスト教会はいかがでしょうか。
教会の礼拝・ミサは、はたして東京ディズニーランドのような喜びがあふれているでしょうか?
それとも、お通夜状態でしょうか?
キリストは死んだまま、十字架にかかったままなのでしょうか?

聖書において、使徒パウロは、
弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。
すべての人に対してすべてのものになりました。
何とかして何人かでも救うためです。

(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ9:22)
と述べています。
ありきたりの伝道集会とか、そういった型や固定概念を打ち破って、
まだまだ多くの人に福音を届ける必要があるのではないでしょうか?

萌え寺をマネして「萌え教会」を作る、とか、そういう単純なものでなくても、
イメージキャラクターやイメージソングをいろいろ作る、
教会に来て楽しいイメージにするなど、工夫が必要ですね。
シスターの修道服姿にあこがれる人も意外と多いようです。
イメージ戦略も重要かもしれませんね。

ところで、カトリックの聖母像は、あれも一種の「萌えキャラ」かも?
今回のおまけは「萌えマリア様」?ではなく・・・
スペインの画家、ムリーリョの「無原罪の御宿り」です。

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2010年10月 5日 (火)

知らないものを礼拝するか、知っているものを礼拝するか?~米国での調査から

あなたがたは知らないものを礼拝しているが、
わたしたちは知っているものを礼拝している。

(新約聖書 ヨハネによる福音書4:22新共同訳)
初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、
よく見て、手で触れたものを伝えます。
すなわち、命の言(ことば)について。---

(新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ1:1新共同訳)

インターネットキリスト教新聞、「クリスチャントゥディ」の10月4日の記事に、
米では無神論者の方が宗教知識豊富? 宗教専門調査」というのがありました。
http://www.christiantoday.co.jp/international-news-3073.html
アメリカ人は、主要な信仰伝統の信条、実践、歴史、指導者などについて、
自ら信じているものを含めて知らない人がほとんどだ、という。

という、嘆かわしい実情です。
これを対岸の火事と思えるでしょうか?

記事の中で特に問題なのは・・・
興味深いのは、プロテスタントの回答者の53%が宗教改革の推進者はマルティン・ルターだと分からなかったこと。カトリックの45%が、聖体(聖餐式)でのパンとぶどう酒がイエス・キリストの肉と血に変化する、という教義を知らなかった。
マルティン・ルターは信仰箇条ではないですが(一般常識として知っておくべきですが・・・)、
「聖変化」を知らない、理解していない、というのはカトリックとして問題すぎますね。
冒頭に掲げたイエス様の御言葉、
あなたがたは知らないものを礼拝しているが、
わたしたちは知っているものを礼拝している。
」が痛切に響いてきます。
これは、ヨハネ4章での、サマリヤの女との対話の中の言葉です。
知らないもの」を儀式的にありがたがっているだけ、というのは、
あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。

(新約聖書 マタイによる福音書13:14新共同訳)
ということですね。

日本のプロテスタントは少数派として、
それなりに「証し」ができるよう、ある程度訓練されていると思いますが、
カトリックは、「その他大勢」のままでとどまっている人が多いですね。
聖書を一度も通読しないまま、一生を終える人も数多いようです。
とてももったいない話です、
キリストというすばらしいお方をよく知らないまま、人生を過ごすとは・・・

2010年10月 4日 (月)

主の祈り(カトリック・聖公会共通)(20)【自作曲】

久々に「主の祈り」シリーズです。

今回は、カトリック・聖公会共通の「主の祈り」への作曲の、
第20番目を紹介します。
ヘ長調の曲で、イメージでいえば「白」という感じです。
聖公会で使われる「頌栄」の部分も作曲しています。
今年の5月に与えられたものです。
神様に感謝!

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2010年10月 3日 (日)

「地の塩」ではなく「世の調味料」・・・マタイ5:13の面白い訳(附:聖書と味、調味料)

今朝、祈りの時間に「英和対照リビングバイブル 新約」でマタイ5章の英文を読んでいると、
面白い表現を見つけました。マタイ5:13の「地の塩」のところです。
ふつうは、
"You are the salt of the earth. But if the salt loses its saltiness, how can it be made salty again? It is no longer good for anything, except to be thrown out and trampled by men."
(New International Version)→「あなたがたは地の塩である。」
または、
"You are like salt for everyone on earth. But if salt no longer tastes like salt, how can it make food salty? All it is good for is to be thrown out and walked on."
(CONTEMPORARY ENGLISH VERSION)
→「あなたがたは地上においてすべての人のための塩のようなものである。」
などと訳されますが、
リビングバイブルの英語版では、
"You are the world's seasoning, to make it tolerable. If you lose your flavor, what will happen to the world? And you yourselves will be thrown out and trampled underfoot as worthless."
となっていました。

"seasoning"を手持ちの「ジーニアス英和大辞典」(電子辞書版)で調べると、
1.調味(料);味付けをするもの[こと]《◆salt, pepper, garlic, spice, herb, mustardなどをいい、sugarは含まない。》
2.(話などに添えられる)面白味(3.は省略)
とあります。
「地の塩」ではなく、「世(世界)の調味料」・・・
塩という単一の働きよりも、味に彩りをそえるさまざまな調味料。
実に面白い意訳ですね。

今回、聖書における「味」、「調味料」について少し調べてみました。
「食べる」という表現はさまざまな箇所がありますが、
「味」となると、かなり限られてきますね。
代表的なところを聖書箇所だけ列記しておきます。
時間があればご自分で読んで「味わって」くださいね。

・マナの味→出エジプト記16:31、申命記8:3
・酢に浸してパンを食べていた→ルツ記2:14、ヨハネ13:26
・蜂蜜を食べていた→サムエル記上14:27、箴言24:13
・卵の白身と塩→ヨブ記6:6
・渇く人に酢(酢いぶどう酒)を飲ませると・・・→詩編69:22、ヨハネ19:29
・スパイス(サフラン、シナモン)→雅歌4:14
・スパイス(はっか、クミン等)→マタイ23:23
・塩によって味付け、塩はよいもの→マルコ9:49~50

味わい、見よ、主の恵み深さを。」(旧約聖書 詩編34:9新共同訳)
りんごについてあれこれ考えるよりも、食べて味わう方が本質を知ることができるように、
神様も、味わうことができる、ともいえます。
まだ「味わった」ことのない方、とりあえず、「試食」はいかがですか?

2010年10月 2日 (土)

セ・リーグは日本の地域格差の縮図

今年のプロ野球、パ・リーグは最後まで消化試合などなく、
見ごたえがありました。
残念ながら、北海道日本ハムファイターズは僅差(0.5ゲーム差)で、
惜しくもCS進出を逃し、4位に終わりました。
来シーズンに期待しています(ダルビッシュが抜けてしまいそうで残念ですが・・・)。
最下位の楽天以外、どのチームも優勝、あるいはCS進出は夢ではなく、
実力が伯仲していました。
楽天だって、監督がもう少しマシなら、大差はつかなかったはずです。
(それでも、交流戦を見る限り、パ・リーグ最下位でさえも、
セ・リーグトップよりも実力が上のようですね。)

一方、セ・リーグは、上位3チームと下位3チームではあまりにも差がありすぎます。
(ヤクルトはよく健闘したとは思いますが・・・)
特に巨人と阪神が金にモノを言わせて、他球団からいい選手を引き抜き、
ますます強くなる一方、広島と横浜は絶望的に勝てない状況が続きます。
これはまさに、東京などの大都市に一極集中する日本の地域格差の縮図のようです。
下位3チームは、上位3チームの引き立て役にすぎないような状況が続くのは、
はたしてプロ野球全体にとってプラスなのでしょうか。
セ・リーグのプロ野球をつまらなくしている最大の要因が、
大差がつきすぎるようなチーム構成でしょう。

たとえば、セ・リーグとパ・リーグを固定ではなく入替制にするとか、
CSはあまり意味がないのでやめるとか、
資金力のない球団を日本野球機構(NPB)が援助するとか、
大差がつかないように、いろいろ工夫ができると思います。
(私はスポーツについては門外漢なので、あまり詳しいことはわかりませんが・・・)
また、東京に巨人とヤクルトがあるような場合、
原則は1都市1球団とするなどの工夫も必要なのでは?
そういう意味で、横浜がどうやら身売りして、新潟に行くかもしれない、
というのは地方の活性化にとってはプラスなのでは、と思います。
ちょうど、日本ハムが東京から北海道に本拠地を移動して成功したように・・・
(日ハムが北海道に来る前は、北海道は圧倒的に巨人ファンが多かったですが、
今では圧倒的に日ハムファンが多いです。地域密着型の展開をした結果です。)

プロ野球に限らず、東京などの大都市ばかりに人・モノ・金があつまり、
地方は疲弊するような今の日本のあり方。
地方は交通機関や医療なども切り捨て。
教育水準は低いままで、働きたくても仕事がない・・・
なんとかならないものでしょうか・・・

子どもの遊ぶ「意味」~「無意味」も効用

最近、子どもたちだけでの公園遊びをみかけることは少なくなりました。
理由は、子どもを狙った凶悪犯罪がよく報道されたからです。
(実際の数はどうなのでしょう?
よく言われることですが、犬が人を噛んでもたいしたニュースになりませんが、
人が犬を噛むなら大ニュースになりますね。
マスコミはごくまれにしか起こらないような事件を大げさに報道する傾向があります。
実際、犯罪件数は年々減っている、と統計が出されているにも関わらず・・・
人が人を信じあえなくしている大きな要因の一つが、マスコミの過剰報道です。)
たいてい、大人が子どもの外遊びを見守っていることが多いですね。
あとは、室内でのTVゲームばかりなのでしょう。

先日、産経新聞のWEB版で、こんな記事を読みました。
【こども】遊ぶ権利 阻害要因はナニ?(9月29日の記事)
http://sankei.jp.msn.com/life/education/100929/edc1009290739000-n1.htm
この要旨を記事から引用すると・・・

子供の「遊び」を邪魔する要因を探ったのは、国際組織「子どもの遊ぶ権利のための国際協会(IPA)日本支部」(事務局・堺市)。東京で5月、幼児教育や小学校長など子供にかかわりのある専門家を集め、遊びを阻害する要因の中で、深刻かつ「よくあるケース」と思われる場面を4コママンガでまとめた。
 一例を見ると、(1)「遊ぶと子供(の成長)に良いらしい」と、幼い子連れの母親2人が立ち話(2)そこで子供を「泥だんご遊び教室」に連れて行く(3)午後は忍者ごっこ教室へ(4)親は満足。子供は教室のはしごで疲れてヘトヘト。
 遊びの主役は子供なのに、「子供の体力や創造性を鍛えるか」など合理性を見いだそうとする大人。その結果、「子供から遊びの自由が奪われている」という筋書きだ。
 「遊びは、子供自らが夢中になれるもの。効率や効果などで遊びの価値ははかれない」とIPA日本支部の高橋博久代表。教育に割く時間が優先され、遊びは二の次となっているといい、「遊びを通じて、子供は幸せをつかむ手がかりを見つける。子供の遊びが十分でなければ、社会の未来や幸せを見い出そうとする力が弱くなってしまうのでは」と懸念する。

※詳細はぜひ記事をご覧ください。

いまや、遊びさえ「お勉強」しなければいけないとは・・・
遊びは強制されるものではありません。
もし強制されるなら、それはもはや「遊び」とはいえません。
楽しいから遊ぶのであって、
「子供の体力や創造性を鍛える」という効果効能は二の次のはずです。
なんでも「意味」とか「効果」をつけてしまうと、
かえって本来の目的を達成できない、という皮肉な結果となります。
多少の擦り傷に目くじら立てず、やんちゃで元気よく子どもたちを遊ばせたいものですね。

ホイジンガは人間を「ホモ・ルーデンス」(遊戯的人間)と定義づけ、
人は遊ぶ存在である、と説きました。
古来、日本でも、『梁塵秘抄』においては、
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。
と人間の生きる意味を遊ぶことにおいていました。
遊ぶ、楽しむ、笑う・・・
これが人間らしさを培うものです。
ですから、遊びに変な意味を持たせるよりは、「無意味」だけど子どもにとっては面白い・・・
それで十分なのでは?

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

2010年10月 1日 (金)

「カンダタ」化する日本国民~福祉国家デンマークとの比較

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の話はご存知ですね。
一応、あらすじをWIKIから転載しますと・・・

釈迦はある時、極楽の蓮池を通してはるか下の地獄を覗き見た。幾多の罪人どもが苦しみもがいていたが、その中にカンダタ(犍陀多)という男の姿を見つけた。カンダタは生前に様々な悪事を働いた泥棒であったが、一度だけ善行を成したことがあった。小さな蜘蛛を踏み殺そうとしたが思いとどまり、命を助けてやったのだ。それを思い出した釈迦は、地獄の底のカンダタを極楽へ導こうと、一本の蜘蛛の糸をカンダタめがけて下ろした。
極楽から下がる蜘蛛の糸を見たカンダタは「この糸をつたって登れば、地獄から脱出できるだろう。あわよくば極楽に行けるかもしれない」と考える。そこで蜘蛛の糸につかまって、地獄から何万里も離れた極楽目指して上へ上へと昇り始めた。ところが糸をつたって昇る途中、ふと下を見下ろすと、数限りない地獄の罪人達が自分の下から続いてくる。このままでは糸は重さに耐え切れず、切れてしまうだろう。それを恐れたカンダタは「この蜘蛛の糸は俺のものだ。お前達は一体誰に聞いて上ってきた。下りろ、下りろ」と喚いた。すると次の瞬間、蜘蛛の糸がカンダタのぶら下がっている所から切れ、カンダタは再び地獄に堕ちてしまった。
その一部始終を見ていた釈迦は、カンダタの自分だけ地獄から抜け出そうとする無慈悲な心と、相応の罰として地獄に逆落としになってしまった姿が浅ましく思われたのか、悲しそうな顔をして蓮池から立ち去った。

自分だけ地獄から救われようとして、他の人を蹴落とすようなことをすると、
結局地獄から救われなかった・・・
エゴイズムの無残な結果を表しています。
ところで、日本国民はどうでしょうか・・・
「○○手当」とか補助金とか減税とか、
「自分だけ」助かろう、儲かろう、国から金をせしめてやろう、そういう浅ましさで、
自分だけの幸せを求めると、
かえって国債の増加など、じわじわと自分の首を絞めるような結果になりつつあります。
コストカットのために生産拠点を海外に移して、
日本国民の雇用を不安にさせるような企業も同罪ですね。
このまま、「カンダタ」のような人を増やすことが、日本の幸福を増すのでしょうか?

10月1日に日本テレビ系で放送された、
『考えられない!?禁断ワールド~日本人の常識崩壊SP~』という番組を少し視聴しました。
そのなかで印象に残ったのは、デンマークの人のコメントでした。
デンマークは福祉国家なので、税金は高いです。
それでも、「自分だけ幸せになるより、みんなが幸せになる方がいい。」
(正確な引用ではないですが・・・)というコメントをしていました。
もちろん、ごく一部のデンマーク市民のコメントをもって、
デンマーク国民全体の意見とすべきではないでしょうが、
こういう意見がごく普通に出る、というのはすばらしいことです。
社会主義国家でさえ、なしえなかった理想ですね。
「世界一幸福な国」と言われるのは当然です。
実際、社会保障がきちんとなされるのであれば、
富をもろもろの不安を抱えながら蓄えなくてもいいわけです。
税金を払ったら、できる限り取り戻したい、という日本国民と、
自分もほかの人も幸福であれば、別に税金を取り戻そうとも思わないデンマーク。
どちらが幸福でしょうか。
(日本のモノつくりは安売り競争で対抗するよりも、ヨーロッパのブランドもののように、
付加価値・安心・信頼で勝負する方に転換すべきでしょう。)

宮沢賢治は、
世界全体が幸福にならないかぎりは、個人の幸福はありえない。
というすばらしい名言を残しました。
その同じ国民が、餓鬼畜生のようなあさましい心でいいのでしょうか?
受けるよりも与えるほうが幸いである。
(新約聖書 使徒の働き20:35新改訳)

「受ける」よりも「与える」心、
仏教で言えば、「布施」の心。
こういう人が少しでも増えるなら、日本の国にもまだ希望はあります。
蜘蛛の糸はまだ切れていませんよ・・・

日本語の奥深さ、おもしろさ~YTV系ドラマ「日本人の知らない日本語」最終回

YTV系ドラマ「日本人の知らない日本語」は今回で最終回。
結構面白かったです。
日本語の奥深さ、おもしろさをドラマ形式で知ることができました。
ドラマそのものは、マンガ的な要素が多く、多少現実感に欠けますが、
深刻なドラマよりも私はこういう方が好きです。
原作はドラマもストーリーもないのですが、
よくドラマに仕立て上げたな、と感心しました。

また、日本における外国人の立場、外国における日本のイメージなど、
よく取り上げてくれたと思います。
やっぱり主役は生徒役の外国人たちでした・・・
2010年7~9月期のドラマでは「GM~踊れドクター」と並んで一番楽しめました。

原作はすごくオススメです。
ドラマを見た人も見ていない人も、ぜひご一読を!

原作

原作2巻目

ドラマDVD-BOX

最高の道~愛(1コリント13:1~10、13)【自作曲】

あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。
そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。

(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ12:31新共同訳)

今回は、この御言葉に続く、聖書の中でも最も美しい箇所の一つ、
「コリントの信徒への手紙Ⅰ」13章の大半に作曲した自作曲を紹介します。
テキストは、新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ13:1~10、13新共同訳です。
11・12節を除く章全体への作曲です。

少し長い曲ですし、細かい音符がいろいろありますが、
親しみやすいメロディだと思います。
かなり前に与えられた曲で、最近なぜかこの曲がよく頭に浮かんでいます。

愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。
(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ14:1新共同訳)
どんな賜物に勝る最高の賜物、それが愛です。

とはいえ、霊的な賜物は必要がない、とか、
新改訳チェーン式の欄外註解のように、
「・・・新約聖書が完成した今は、そのような賜物(異言や預言など)の必要性は消えた。
というのも誤りです。
(それならば、「知識」もすたれているはずです。
知識」が「すたれた」なら、キリスト教は現在まで伝わっていないはずです。)

霊的な賜物は否定すべきものではありませんが、
一方、これを強調しすぎるのは、つまづきの元になります。
愛こそが、すべてを生かし、完成させます。
そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。
愛は結びの帯として完全なものです。

(新約聖書 コロサイ人への手紙3:14新改訳)

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

「20101001_1corinthians1301no01.MID」をダウンロード

「20101001_1corinthians1301no01.pdf」をダウンロード

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