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2010年7月の40件の記事

2010年7月31日 (土)

全国学力テスト~北海道の結果をみて(2010年)

今年(2010年)の全国学力テストの結果が公開されましたね。
北海道は・・・残念ながら、というか、予想どおりというか、
最下位をのたうち回るような結果でした。
特に、小6では、4科目(国語A・B、算数A・B)で全国最下位でした。
さらには、家庭学習が十分でない、という結果も出ています。

算数能力の低下は憂慮すべき事態ですね。
北教組の影響も大きいですが、
それ以上に、「算数の問題解決型授業」が何の疑問もなく、
当たり前のように行われているところが多いからではないでしょうか。
算数の問題解決型授業は、「問題解決」というものをはき違えています。
真の「問題解決」とは、知識をしっかりと身につけてから、
学んだ知識を応用できる、ということではないでしょうか。
ただ「自分で考えて、自分で解け」、「教科書は見るな」みたいなのは、
「育児放棄」ならぬ「教育放棄」です。教育版ネグレクトです。
(教科書こそ、もっともわかりやすい「型」なのに・・・
教科書を、教科書通り教えず、余計な回り道をさせるから、
算数はムズカシイ、ワカラナイ、ムリ・・・という気持ちを増幅させるのです。)
算数は、基本の「型」を見につけて、あとは練習がものをいいます。
「算数の問題解決型授業」のように、
1時間の授業で1つか2つの問題だけしかやらないような授業方式では、
当然、練習問題に取り組む時間がありません。
1時間で1つか2つの問題であれば、
わかる子には数分で解けても、わからない子は絶望的にわからないままで終わってしまいます。
できない分は宿題、となると、さらに、算数が嫌になります。
勉強するのが嫌だから、当然、家庭での学習習慣は身につきません。
(本州の有名な教育大学の附属小学校のようなところなら、もともと児童が優秀ですから、
そんなやり方でも、十分に児童は対応できますが、
一般的な公立学校では、算数嫌いを増やすだけです。)
教育格差を、教師自ら広げているようなものです。
「わからない人は、どうぞ塾へ行って勉強してください。
ここ(公立学校)は勉強を教えるところではないので・・・」とでも言いたいのでしょうか。
わからないものをわかるようにさせるのが、教師の務めです。
教師の自己満足的な「教育実践」のために、子ども達の将来を犠牲にするのでしょうか。
「学力はテストで測ることはできない」のレトリックでごまかすのでしょうか。
今回の結果は、「子ども達の学力低下」ではなく、
本当は、「教師の指導力低下」だと思います。
算数の問題解決型授業では、決して、算数の学力向上は望めません。
「問題解決型」は、実際は「問題解決型」いや「問題解決型」なのです。
(実際は、これは高校生や大学生、あるいはすごく優秀な児童・生徒に適用されるべきであって、
一般の小学生をこのやり方で指導しようとするのは、教育の自殺行為ではないでしょうか。)

子ども達のテスト結果という形で、北海道の教師が評価されているのです。
「今の子どもたちは・・・」、「地域や親の責任」を言う前に、
まず、教師自らが、結果を深く受け止め、反省すべきではないでしょうか。
教師は、教育のプロですよね。
たとえば、医者が、「私が病気を治せないのは患者が悪いからだ。」などと言ったら、
どうでしょうか。
保険のセールスマンの成績があがらないのは、お客さんのせいでしょうか。
そんなこと言ったら、「やめちまえ!」と一喝されるのがオチですね。
教師も同じです。

学力の問題は、単にテストの成績だけではなく、
社会に出てからのことにも関わります。
字が読めない、計算できない、忍耐や向上心がない・・・
これでは、労働力の質の低下であり、引きこもり、ニートの増加にもつながります。
子ども達の未来のために、道教委と各学校はきちんとした対策をしてほしいものです。

2010年7月30日 (金)

信仰とは(ヘブライ11:1,6)【自作曲】※2曲

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、
見えない事実を確認することです。
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神が存在していること、
また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、
信じていなければならないことです。
(新約聖書ヘブライ人への手紙11:1,6新共同訳)

今回は、上記のテキストに基づく曲を2曲紹介します。
どちらも、新共同訳です。
「信仰」の定義として有名な箇所ですね。
2曲とも今から6、7年ほど前に与えられた作品です。

ところで私は今、
平野耕一牧師による『信仰とは何ですか』(いのちのことば社)という本を、
少しずつ読んでいます。
(そのうち、書評記事を書く予定ですが・・・)
その第一部の中に、「何が信仰でないか」という一文があります。
それによると、
1.感情的興奮は信仰ではない
2.知的に理解することは信仰ではない
3.可能性思考は信仰ではない
4.自己啓発は信仰ではない
5.信仰は経験に基づくものでもない
6.信条を受け入れることでもない
と説いています(詳細は、ぜひ本で確かめてみてくださいね。)。
(同書P.26~33から抜粋)
私にとっては特に6.は興味深かったです。
極めて正統的な信条を告白しながら、
まったく力のないキリスト教が多いからです。

それでは、信仰とは何でしょうか。
同書によると、信仰とは、
『信条に基づいて行動する』、すなわち、信仰のことばに基づいて行動すること・・・」
(同書P.34から引用)
私の理解でもっと単純に言えば、
筋肉のように「信仰を使う」、ということでしょう。
信仰は、美しい宝石をただ眺めているようでは、真髄に達することはありません。
また、筋肉と同じで、使わなければ、やせほそります。
心の豊かさ、信仰までダイエットしてはいけないわけです。

味わい、見よ、主の恵み深さを。」(旧約聖書 詩編34:9新共同訳)
ぜひ、神様がどれほどすばらしいお方であるか、
皆様が深く知ることができますように・・・

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

「20100730_hebrews1101no01.MID」をダウンロード

「20100730_hebrews1101no01.pdf」をダウンロード


「20100730_hebrews1101no02.MID」をダウンロード

「20100730_hebrews1101no02.pdf」をダウンロード

2010年7月29日 (木)

千葉法相による死刑執行

昨日(7月28日)の読売新聞朝刊1面では、
死刑執行1年間なし」という見出しで記事が出ていました。
千葉法相は死刑執行反対論者だし、
おそらくこのまま、大臣を引退するまで死刑は執行されない、
と思っていました。全然ダメだ・・・
それが、同じ日の夕刊の1面では、
死刑、2人に執行」とデカデカと載っていました。
目を疑うような記事でした。
法相としては当然の判断ですが、
個人的信念を曲げたのは、国会議員としていかがなものでしょうか。
死刑を執行しないという事に対して、
轟々たる非難を浴びても、信念を貫いた方が、
個人としては、もしかしたらよかったかもしれませんけど・・・

それはともかく、日本の法律では、

刑事訴訟法 第475条
1 死刑の執行は、法務大臣の命令による。
2 前項の命令は、判決確定の日から6箇月以内にこれをしなければならない。但し、上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であつた者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しない。

となっています。

しかし、歴代の法相が、個人的な信条から、
法の番人でありながら、自ら法を守らない状況が続いています。
「刑が確定してから6カ月以内」というのは、まずありえないですね。

私は凶悪犯に対しての死刑はどちらかというと賛成です。
(ただし、冤罪にならないような十分な審理が尽くされるべきです。)
日本は法治国家なので、法に従って、粛々と刑の執行をすべきでしょう。
もちろん、そもそも死刑に値するような犯罪を犯さない、犯させないようにするのが、
一番いいことです。
死刑は本来あってはならないですが、必要悪ともいえます。

よく、人権団体や宗教団体(特にキリスト教)が、死刑に反対していますが、
個人における赦しを、社会にあてはめてはならないと思います。
社会正義と社会秩序を保つため、死刑はやむをえない刑であると考えます。
個人が赦す、赦さないは自己努力の問題です。

ただ、ヨーロッパのように、死刑を廃止する、というなら、
法相が自分の信念で執行を停止するというような法律違反を認めず、
きちんと法改正をすべきものでしょう。
刑法は憲法のように改正が難しいものではないのですから・・・

死刑の問題について、精神科医の和田秀樹氏が、
ブログで実に適切なコメントを書いております。
その部分だけ引用します:

そういえば選挙で落選した法務大臣が死刑を執行したという。

私としては、いくら冤罪の可能性があるからといって(それを最小限にする努力、たとえば取り調べの可視化や代用監獄問題の解決などは是非やってほしいが)、死刑と裁判で判決が確定したものを法務大臣が死刑にしないのは、行政が三権分立の精神を踏みにじっているとしか思えない。まして行政というのは、日本の場合は、立法府で法律を作れる与党の人間が行っているのだから、気に入らなければ法律を変えればいい(死刑廃止を含めて)のに、それをしないで、行政の段階で執行を停止するのはどういうつもりなのだろうか?金賢妃への莫大な支出といい、死刑囚を無駄に生かしておく経費といい、こういうものは行政訴訟を起こしても、払うのが国だから、大臣がいい加減なことをやる。株主代表訴訟のように、納税者代表訴訟のような制度を作って、無駄な金を支出した大臣そのものが訴えられるようにならないと、国の金が平気で使われてしまう。
※元の記事は以下です:
http://ameblo.jp/wadahideki/day-20100728.html

少し古いブログ記事ですが、法務大臣による死刑執行と法について、
適切な内容の記事がありますので紹介します。
http://miso.txt-nifty.com/tsumami/2005/06/post_167d.html

みなさんは、どう思いますか?

2010年7月28日 (水)

テレビ東京系「いい旅・夢気分」~「感動!夏の北海道 花めぐり」(2010年7月28日放送)

北海道で、一番好きな場所(観光地)は、と訊ねられたら、
私と妻は揃って、「美瑛!」と答えるでしょう。
美瑛町は、何度行ってもすばらしいところです。

本日(7月28日)放送の「いい旅・夢気分」では、
美瑛町と富良野(中富良野)の魅力を紹介していました。
この番組を観るのは久々でした。
妻の大好きな場所の一つ、「四季彩の丘」や、電動自転車によるサイクリング、
そして、「ポテトの丘」のコテージとレストランなどが紹介されていました。
「ポテトの丘」にはまだ泊まったことはありませんが、機会があれば、
ぜひ泊まってみたいと思っているところの一つです。
その隣にある、レストラン「ブラン・ルージュ(Blanc Rouge)には、
妻と一緒に2度行ったことがあります。
美瑛ではおすすめのレストランの一つです。
おいしいし、値段も手ごろですよ。
この番組を何度も観た中で、
初めて私たち夫婦が実際に行ったことのある場所が出てきたので、
とても興味深かったです。
また行きたいな~・・・

以前、夜に「ポテトの丘」とその隣の「ブラン・ルージュ」をさがして、
車を走らせたことがありますが、
夜だったので、全然わかりませんでした。
夜は地元の人じゃないと、たどりつけませんし、夜は宿泊客専用のようです。

番組の後半では、中富良野町のファーム富田が紹介されていました。
ここも、何度も訪れたことがあるところです。
7月中に行くと、一面ラベンダーのすばらしい景色が待っていますね。

今年の夏は、仕事の都合などで旅行には行けませんが、
テレビの画面を通して、目だけ、しばし妻と一緒に旅行に行っていました・・・

この記事を書くにあたって、美瑛の「ポテトの丘」のHPを見てみました。
「トピックス」というところを読むと、
「美瑛の丘が直面している問題」というのがあるのですね。
農業政策の問題や、観光客の増加に伴うゴミの増加・・・
景観を維持しながら、問題がうまく解決されるといいですね。

「ポテトの丘」のHPと、
隣のレストラン「ブラン・ルージュ」のHPは以下です。
ポテトの丘
http://www.potatovillage.com/jpn/top.html
ブラン・ルージュ
http://www.n43net.com/caravan2001/4day/6p.htm

下の写真は、2年前の8月に、妻と妻の友人一家と一緒に、
美瑛町の「四季彩の丘」で撮ったものです。
時刻は夕方でした・・・
四季彩の丘は、何度行ってもすばらしい景色・違った表情が楽しめます。

Sikisai_no_oka_in_august_2008

2010年7月27日 (火)

書評:高濱正伸著『わが子を「メシが食える大人」に育てる』(廣済堂出版・ファミリー新書001)

著者の高濱正伸氏は、埼玉県で学習教室「花まる学習会」を展開しています。
学習塾として、「野外体験」を行うなどの、ユニークな取り組みを行っているそうです。
私はこの本を書店で立ち読みした時まで、
残念ながら著者のことはまったく知りませんでした。

題の「メシが食える大人」とは、もちろん、「ごはん」のことではありません。
著者は、これを「自立した大人になること」と考えています。
具体的には、
1.経済的自立
2.社会的な自立
3.精神的な自立
の3つをさします。(P.40~41から引用)

そのために、10歳までに、5つの基礎力を身につけさせるべきだ、
と説いています。その5つの基礎力とは・・・
①ことばの力
②自分で考える力
③想い浮かべる力
④試そうとする力
⑤やり抜く力
(P.42~43から引用)
単に目先の「学力」だけではなく、
将来、社会人として活かせる力ですね。

最初の章では、
『「メシを食っていける力」が危ない!』と題して、
子ども時代の自然体験の重要さと、
その対極にあるひきこもり・ニートの問題について、
興味深い分析をしています。
この章だけでも、本書を読む価値は十分にあります。
文部科学省が主張する「生きる力」を、生活感あふれる言葉で言い換えると、
「メシを食っていける力」となるのでしょうね。

2章以下は、上記の5つの基礎力について、
具体的に、どうすればその力を養うことができるかを述べています。
中学受験を考えている子を持つ保護者の方なら、
とても興味深い内容だと思います。

もはや、公立小学校は保育園と化し、
学校でしっかりとした基礎学力・基礎体力をつけるのは難しい時代です。
塾が本当の意味での「学校」になってしまっています。
公立小・中学校の再生は望めないのでしょうか・・・

花まる学習会のHPは、以下です。
http://www.hanamarugroup.jp/
算数脳を鍛えるコンテンツがいろいろありますよ。

わが子を「メシが食える大人」に育てる (廣済堂ファミリー新書)


2010年7月26日 (月)

NHK・おはよう日本(7月25日放送)~「年間5万人 相次ぐ中退者に大学は?」

日曜の朝、NHKの「おはよう日本」を見ていると、
「年間5万人 相次ぐ中退者に大学は?」という題の特集をやっていました。
今、日本では、年間5万人もの大学中退者がでているそうです。
中退の理由はさまざまですが、
ささいな事で中退に至ってしまうケースが年々増えているようです。
そういう中で、
千葉商科大学における、大学中退をできるだけ防ぐための取り組みを紹介していました。

具体的には、
1.従来の講義形式である、1人の教授対何百人の学生、というやり方を改め、
1クラス30人程度の少人数制にする。
個人的関係づくりを重視する。
2.無断欠席した場合には大学職員から本人に確認の電話がかけられる。
などでした。
大学職員の方は学生をつなぎとめるために相当苦労・工夫しているようでした。

大学の中退率が高まれば、大学の評判が悪くなるし、
そうなると、経営に悪影響を与える・・・
今の若者の事情と、そういう経営的判断から、
上記のような取り組みを始めたのでしょう。
取り組み自体は評価したいですが、
そこまでやらねばならない若者事情こそ、問題でしょう。

番組ではきちんと取り上げられていませんでしたが、
NHKのアナウンサーが、
「ある大学では、大学入学前に合宿を行っている。」
とも述べていました。

大学生活は、自由・自主・自治・自律が基本ではないでしょうか。
単なる「生徒」から、「学生」そして「大人」として行動する。
それが今や、小学生並みの存在に堕ちてしまったのでしょうか。
上記の2の取り組みなど、特にそう思わされました。
「大学生」は、小「学生」になった?・・・

社会人になってから、会社を無断欠席したら、大問題です。
「課長が電話をくれなかったら、私は寝坊したんです。
私は悪くないです!」なんて開き直ることはできませんよね。

基本的な社会生活を学びなおすために、
他国で当たり前のようにある兵役義務のようなものを、
日本の若者に導入した方がいいのでは、とさえ思いました。

大学を簡単に中退してしまうなんて、もったいなさすぎます!
環境の変化、対人関係その他いろいろ問題があっても、
せっかく手に入れた大学という宝を、ぜひとも無駄にしてほしくないものですね。

2010年7月25日 (日)

YTV系ドラマ「日本人の知らない日本語」

2010年7月15日(木)から放送が始まった、
「日本人の知らない日本語」という深夜ドラマ、結構おもしろいです。

原作は、日本語学校で外国人に日本語を教える教師が書いた、
日本語学校でのユニークな質問やエピソードの数々をマンガと文章でまとめた本です。
(先日ちょっと立ち読みしました。なかなか楽しそうです。)
それを、ドラマ化したものです。
といっても、本来はエピソードの羅列みたいなものですから(立ち読みした限りでは)、
ドラマの筋など原作にはありません(と思います)。
主役の仲里依紗さんを狂言回し的に使うことで、
見事にコミカルなドラマに仕立てています。
(といっても、半分マンガのようなものですが・・・)

主役は仲里依紗さんですが、
彼女の役割はいわば客寄せパンダのようなものです。
本当の主役は、日本語を学んでいる外国人役のキャスト達です。
そして、隠れた主役は、日本語そのものです。

第1話で、印象深いエピソードは、
「マグロの数え方」でした。
マグロは、海を泳いでいると「一匹」、
釣り上げると「一本」(よく「一本釣り」と言いますね。)、
それを市場で切り分けると「一丁」、
さらに切り分けると「ひとかたまり」という意味で「一塊(ひところ)」、
スーパーでパック詰めされると、短冊に似ているので「一冊(ひとさく)」、
そして、人の口に入る時には、「一切れ」・・・
う~ん、なるほど!
まさに「一本取られた!」という感じでした。
マグロにおける「一丁」と「「一塊」はまったく聞いたこともありませんでした。
私もまだまだ日本語の豊かさに気付いていないな、と思わされました。
(ちなみに、上記はもっと視覚的にわかりやすく、番組HPに掲載されています。)
http://www.ytv.co.jp/nihongo/review/index01.html
ちなみに、「男」の数え方は?
「男一匹」だから、「一匹」?

第2話は、敬語がテーマでした。
これも、なかなかおもしろかったです。
コンビニとかファミレスで一時使われていた(今もよく使われているようですが)、
「1000円になります。」とか、「こちらが麻婆豆腐になります。」
とかの「なります」。じゃあ、これは今は麻婆豆腐ではないの?・・・

ドラマの中で、日本語を学ぶ外国人がバイトをするところがよく出てきます。
これを見て思ったことは・・・
そのうち、10年、20年後には、
「正しい日本語」、「正しい敬語」を話せる若い日本人は「希少動物」並みになり、
むしろ、外国人の方が正しい日本語や正しい敬語を使いこなしているのでは、
と危惧しました。

学力世界1の国、フィンランドでは、
小学校教育で、母国語を外国語のように学ぶ、と、ある本で読んだことがあります。
日本における国語教育はどうでしょうか。
相変わらず、人物の感情はどうだったとかの低レベルなものにとどまっています。
言語力を豊かにする取り組みがあまりないように思えます。
「心を豊かにする教育」は、本来、家庭がすべきであるし、
もし学校教育でするなら、道徳ですべきものです。
しかし、教職員は「道徳」をきちんと教えていません。
NHK教育の番組を見せたり、時々やる程度で終わることが多いようです。
(「日の丸・君が代」反対など、規範意識を欠くような教組が、道徳教育に反対しています。)

私は社会人になってから、職場の研修で初めて「敬語の正しい使い方」を学びました。
少なくとも、学校で敬語についてきちんと学んだ、という記憶がありません。
(もしかしたら、少しやっていたのかもしれませんが・・・)
日本人だから日本語がわかってあたりまえだろう、という暗黙の了解のもとで、
現在の「国語科」教育は成り立っています。
しかし、実態として、外国人を片親または両親に持つ子は増えているわけです。
当然、日本語の語彙が乏しいとか、学習に障害が出る場合もあります。
思い切って、日本語を外国語のように体系的に学ぶ、といった形態の授業に、
今の「国語科」を切り替えた方がいいのでは、と思います。

あと、漢字の読み書き同習というやり方も、よくないものだと思います。
「話せる、読める」が先で、「書ける」は後でもいいはずです。
日本の国語教育は根本から再構築する必要があると思います。
人物の感情をあれこれ想像させるだけの国語から、
読解力を養う国語への転換が必要でしょう。
「国語科」で「道徳」を教える、というのは、もう卒業すべきでしょう。


原作

原作2巻目

追記
ドラマDVD-BOX

2010年7月24日 (土)

八つの幸い(マタイ5:3~10)【自作曲】

この記事で、ちょうど500本目の記事となります。
神様に感謝!

500本目記念として、今回は、
イエス様の「山上の垂訓(説教)」の冒頭にある、
八つの幸い(真福八端)をテキストにした曲を紹介します。
テキストは、新約聖書マタイによる福音書5:3~10新共同訳です。

ところで、「心の貧しい人は、幸いである」(マタイ5:3新共同訳)
と訳されている箇所は、誤解を招き易い表現ですね。
ふつう、日本語では「心が貧しい人」というと、
感謝の念や美しいとかすばらしい、といった驚嘆の心がなく、
何事も功利的・金銭的に考えるような人を指しますね。
ここで、「心の貧しい人」以外のマタイ5:3の訳をいくつか紹介します。

(岩波書店訳)
幸いだ、乞食の心を持つ者たち、
天の王国はその彼らのものであるから。
(柳生直行訳)
神によろこばれる本当に幸福な人は、だれだと思うか。
ほんとうに幸福な人、それは自我を捨てた人たちである。
天国は彼らのためにあるのだ。
(共同訳)
ただ神により頼む人々は、幸いだ。
天の国はその人たちのものだから。
(エマオ出版訳)
霊の領域において貧しい者は幸いである。
なぜならば、天の御国はそのような人のものだからである。

新共同訳の前身、共同訳では、上記のように意味がわかりやすい訳なのですが、
新共同訳になった時点で従来の訳に戻ったのはちょっと残念です。
なお、直訳は「霊において乞食である者たち」(岩波書店訳傍注)とのことです。

この曲が与えられた時期はもう忘れてしまいましたが、
たぶん10年以上前だと思います。
時々頭に浮かんできます。
気に入っている曲の1つです。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

「20100724_matthew0503no01.MID」をダウンロード

「20100724_matthew0503no01.pdf」をダウンロード

2010年7月23日 (金)

NHK・「スター・ウォーズ」シリーズ一挙放送を全作観て

結局、全部観てしまいました・・・

NHKハイビジョンで、
7月17日から22日まで6日間連続、映画「スター・ウォーズ」を
エピソード順に放送する、という企画をやっていました。
エピソード1から、気づけばアニメも含めてエピソード6まで、
妻と一緒に全部観てしまいました。

映画一つ一つについて書くと長くなりますので、
全体的な印象だけを述べておきましょう。

エピソード1からエピソード3までは、
映像そのものは確かに美しいですし、
アクションも派手ですが、
やはり「実写がついたアニメ映画」という感をぬぐえませんでした。
エピソード4~6は、こちらの方が先に作られたにも関わらず、
やはり迫力があります。

ただ、エピソード1~3を観てから、
エピソード4~6を観ると、
ダース・ベイダーの印象がかなり違ったものになります。
これは大きな発見でした。

一番すばらしいのは、私にとってはエピソード4でした。

映画全体について、政治家や大学教授などがまじめに論じている、
「スター・ウォーズ~伝説は語り継がれる」(7月11日&19日放送)も、
(私は途中から観ましたが)見ごたえがありました。
現実の政治や歴史、ギリシャ神話や聖書、黒澤明監督の映画・・・
いろいろなものが、この作品のベースになっていることがよくわかりました。
単なる子供だましのSFにとどまならないのだ、と実感しました。
さらに、この映画が日本のアニメ・特撮などに与えた影響も考えれば、
まさに「現代の伝説・神話」といえる作品ですね。
機会があれば、また観てみたいです。

2010年7月22日 (木)

キリストにはかえられません(midi)

今回は、有名な讃美歌「キリストにはかえられません」のmidiを紹介します。
讃美歌第二編195、聖歌521、新聖歌428です。
讃美歌21では522です。
(ただし、讃美歌21では、ハ長調にされています。
この讃美歌は、ハ長調にすると、切なさが弱まってしまうと思います。)
讃美歌第二編195をベースに、伴奏部分では少し編曲しています。
今朝からしばしば、頭の中でこの讃美歌が流れていました。

キリストにはかえられません、
世のたからも また富も・・・

しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、
キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、
今では他の一切を損失とみています。
キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、
それらを塵あくたと見なしています。
(新約聖書 フィリピの信徒への手紙3:7~9新共同訳)
使徒パウロのこの言葉がエコーのように響いてくる讃美歌ですね。

ところでこの曲、讃美歌第二編・讃美歌21と、聖歌・新聖歌では、
わずかですが、歌詞が違っているところがあります。
3番で、「・・・このお方で心の満たされてある今は」が聖歌・新聖歌。
「・・・このお方で心の満たされている今は」が讃美歌第二編・讃美歌21です。
どちらも中田羽後訳となっていますが、どちらが正しいのでしょうか?

「20100722_id_rather_have_jesus.MID」をダウンロード

2010年7月21日 (水)

「キリスト教入門」・「聖書入門」本の損しない買い方・見分け方

最近、「図解雑学」シリーズやそれに類する本で、
聖書やキリスト教についてわかりやすく書かれた本が、
いろいろと書店に並んでいます。
(私は「図解雑学」シリーズ、結構好きです。
このシリーズで心理学関係の本を何冊も読みました。)
どれがいいのか、迷ってしまうほどです。
また、古くから「キリスト教入門」、「聖書入門」の類の本はたくさん出ていますね。
中には、「キリスト教入門」、「聖書入門」を銘打ちながら、
全然不親切な本もあります。
難解すぎて、どこが「入門」なんだ~と言いたくなります。
さすがに、そういう本は淘汰されつつありますが・・・

そう、そういう「入門」シリーズにも、当たりはずれがあります。
また、場合によっては、正統な信仰の立場に立たないものもあります。
そこで、今回は、
「キリスト教入門」・「聖書入門」本の損しない買い方・見分け方について考えてみましょう。

私の基準での見分け方は・・・

1.著者・監修者とその肩書きを読む。

食品で言えば、成分表示みたいなものです。
これで、ある程度見分けられます。
牧師や神父、あるいは神学者、聖書学者という肩書きであれば、
ある程度大丈夫といえます。
「宗教学者」とか「フリーライター」とかは要注意です。
(信仰者でない人が、信仰の案内を書くのは、
パリに行ったことがないのにパリのガイドブックを書くようなものです。)
また、大学教授の場合、キリスト教系の大学教授なら、
これもある程度大丈夫なものといえましょう。

2.キリスト教信仰で最も重要な「キリストの復活」についての記述を読む。

「聖書入門」、「キリスト教入門」の類の本では、必ず書いてあるはずです。
「キリストの復活」は神話だとか、
弟子の空想だなどの否定的な言葉が書かれてあるなら、
もはやその本は読むに値しません。
「キリストの復活」という「事実」抜きに、キリスト教は成立しません。
他にどれほど優れた記事があろうとも、ここがしっかりしていなければ、
信仰入門としては失格です。

3.キリストの奇蹟についての記述を読む。

どこでもいいですが、キリストの奇蹟についての記事を読んでみましょう。
奇蹟に対して否定的な説が出ていれば、
これもその時点で読む価値がないと判断できます。

4.その本を使って、別な人に勧められるかを考える。

自分自身よりも、
教会に来ている求道者にとってわかりやすい本かを考えてみると、
案外簡単です。
上記1~3と、他の適当な記事を少し読めば、
結論は見えてきます。

ちなみに、余談ですが、
最近「超訳 ニーチェの言葉」という本がベストセラーになっています。
ニーチェといえば、無神論の代表の一人ですね。
これを訳した人は、白鳥春彦氏です。
その同じ人が、「ビジネスマンのための聖書入門」とか、
「仏教『超』入門」の類の本を書いています。
売れれば、宗教さえネタの一つなのでしょうね・・・

最近、書店で立ち読みしたもので、
これはよさそう・・・と思った2冊を紹介します。
なお、立ち読みレベルですので、評価はしません。
ぜひ、ご自分の目で確かめてみてください。

図解 聖書 (歴史がおもしろいシリーズ!)



旧約聖書 (図解雑学)



(追記)おまけとして・・・
平野耕一牧師の「信仰とは何ですか」、
「希望とは何ですか」、
「愛とは何ですか」はオススメです。
「入門」というよりは、「実践編」に近いかもしれませんが、
キリスト教信仰のおおまかな全体像をつかむのに役立つと思います。


信仰とは何ですか


希望とは何ですか


愛とは何ですか



2010年7月20日 (火)

教会学校ではホラー映画好きの子にどう対処すべきか?

先日、教会学校で十戒を教えた様子の記事を書きました。
実は、教会学校の前半プログラムが終り、
もう少しで終了の時間を迎えようとしていた時、
ある困った問題が起きました。

一人の女の子が、ホラー映画の話をし始めました。
子どもは幽霊とかその類の話が好きだから、
やみくもに「そんなのダメだ!」とすぐにストップさせることはせず、
少し話させておきました。
すると、他の女の子も、その話に加わり、
油に火がついたように、ホラー映画談議がとまらなくなりました。
私はすっかり辟易しました。
ある子はあまりにも残虐な様子(書くのさえおぞましいです)を、
あたかも楽しいことであるかのように、
滔滔と話していました。
さすがに私は、「これはきちんとすべきだ」と思い、
話が途切れたのを見計らい、
すぐさま、落ち着いた口調で、その子にこういう問いかけをしました:
「○○ちゃん、自分がそういう立場だったら、本当に面白い?
自分がそのような目にあっても、楽しいの?
さっき、十戒で「殺してはならない」と習ったよね?
本当にそれはいいことなの?」
その子は黙ってしまいました。

ここで、道徳的な内容を教える3つの方法を考えてみました。
1つは、「品格」方式です。
これは、藤原正彦氏のベストセラー『国家の品格』に出ていた論法です。
「なぜ人を殺してはいけないの?→ダメだからダメ!」
論議しないやり方です。
2つめは、「霊的」方式です。
オカルトやホラー映画などに対して、
「これはサタンの業だ!」などと霊的存在を持ち出して、断罪し、
悔い改めを求めます。
3つめは、「学校」方式です。
「相手の立場を自分の立場に置き換える」やり方です。
学校とかではこういうやり方で諭す場合が最近は多いですね。
人にもよりますが、私なら、やはり3つめをとります。

プロテスタントの極端な派では、
魔法が出てくる映画やアニメはすべてサタンの業だ、などとして、
子どもには見せてはならない、と教えているところもあります。
ただ、私は残虐な様子を楽しむような内容でなければ、
少しは許容した方がいいと考えています。
まったくの「無菌状態」は、
オウム真理教に心酔した若者たちのような場合に至るかもしれません。
わずかの不思議な光景で、即座に人生観ががらっと変わってしまう・・・
汚れた悪霊を一つ追い出したら、
それがほかの7つの悪霊を連れてきた(ルカ11:24~26参考)みたいな状況でしょう。

教会学校で十戒を教えても(しかも、せいぜい30分程度)、
家庭では残虐なホラー映画を楽しむようでは、
やはり効果が薄いものです。
信仰教育の最高の場は、ほかならぬ家庭です。
親が(片親だけでも)信仰者なら、なおさら、
子どもの心の成長に配慮すべきでしょう。
あるイタリア人神父が、
「子供にとっては、親が預言者だ」と力説していたのを思い出します。
神様の愛と正義を、教会学校教師や聖職者ではなく、
ほかならぬ、親が子にまず伝えてほしい、そう願います。

あと、余談ですが、最近の子たちは、「生まれ変わり」を結構信じているようです。
ゲームのキャラがゲームオーバーしたら「リセット」できるかのように・・・
これも、きちんとすべき問題でしょう。

オカルト全般に対して、どう指導すべきかは、
またの機会に書きたいと思います。

イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。
あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、
あなたの神、主を愛さなければならない。
きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、
努めてこれをあなたの子らに教え、
あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、
これについて語らなければならない。

(旧約聖書申命記6:9~7口語訳)

将棋新聞を読む小学生~職業観の形成

先日の日曜日、教会に行くために、地下鉄に乗っていると、
ある親子をみかけました。
お母さんと、小学生の男の子です。
その男の子は、なんと、将棋新聞(正確に言うと、「週刊将棋」)を読んでいました。
大人でも、将棋新聞を読んでいる人は、見かけたことがありません。
まして、小学生が読んでいるなんて、すごいな~と思いました。
その子が将来棋士になるかどうかは私には知る余地がありませんが、
その年齢で、やりたい事、進むべき道が見えているというのは、
すばらしいことです。

以前、小学校の卒業文集で、「将来の夢は?」というのに対して、
「生活保護を受けて楽に暮らしたい。」と書いた子がいた、
という新聞記事を紹介したことがあります。
https://francesco-clara.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-3075.html
小学校高学年にもなって、自分の能力を活かす道を見出せない、というのは、
すごく残念なことです。親や教師は、どんな働きかけをしていたのでしょうか。
「なりたい自分」、「あるべき自分」、「自分の向いていそうな分野」へ、
周りの人の助けをもらいながら、少しずつ目標に近づいていく。
そういった、職業観・労働観の形成こそ、教育において特に必要ではないでしょうか。
大学生になっても、自分が何をしたいのかわからないのでは、ちょっと遅すぎます。

いつもよく読むブログ「Meiko Aikoku Blog」で、
「勤労観・労働観教育こそ重要」という題の記事があります。
すばらしい内容ですので、ぜひご一読を。
http://blog.livedoor.jp/meiko_aikoku_blog/archives/51577670.html


最近、ある方からもらった宗教雑誌(※キリスト教のではありませんが・・・)に、
「働く」ということについて、なかなかすばらしいことが書いてありました。


人生相談コーナーでの質問。「何をやってもダメな自分。生きるのがつらい」という問い。
それに対して、相談者は、その宗教の創始者の著作から答えます。
あなたを地上に生みだしたその神さまのみ心のとおりに働く、すなわち『はた』を「楽にすることをお考えになっていただろうかどうかということが問題なのであります。『はた』を楽にする、すなわち『人のために仕える』精神が人間からなくなった時、働く場所がなくなるのでありまして(以下略)」
そして、「仕事を得るには、「はたを楽にする精神」---与える心や愛の心を起こせば良いのです。」(以下省略)と答えていました。(『いのちの環』P.47から一部引用)


私は、これは真理だと思います。
職業によって、金を稼ぐことや安定した生活を得る事も大事ですが、
それ以上に、「人の役に立つ」生き方をすること、
これこそが、職業の意味でしょう。
そういう事を、親から子へ、教師から生徒へ伝えるべきです。

職業観に対するしっかりした教育がないから、
簡単に挫折し、簡単に仕事を放り投げたり、
ひきこもり生活に入ってしまうのではないでしょうか。
これは、その人の人生においても、また社会にとっても大きな損失です。
また、「競走は悪だ」という教育観は、人生全体から考えると、
「小さな親切・大きなお世話」な考え方です。
実際は、世の中はどこでも厳しい競争社会にも関わらず、
競走を避けることによって、傷つきやすくなった若者が増殖しています。
100万人~300万人といわれる「ひきこもり」の若者を増やした要因の一つかもしれません。

以前、村上龍氏の「13歳のハローワーク」という本がベストセラーになりましたね。
今回、この本について検索してみると、
なんと「13歳のハローワーク 公式サイト」というのがありました。
(興味がある方は、ぜひご自分で検索してみてください。)
中学生になったら、少なくとも、
自分の進むべき道をある程度知っておく必要があると思います。
こういうサイトが、教育現場でも活用されるようになることを希望します。

私が教会学校で出会った子の中で、忘れられない女の子がいます。
将来の夢を聞いたとき、
「私は、将来ユニセフで働きたいです。世界中の困っている人を助けたいから。
だから、英語を学んでいます。」と答えてくれました。
当時、小学5年生でした。
今はもう、高校生ぐらいになっているはずです。
その夢がどうなっているかはわかりませんが、
人を幸せにする、不幸から救う仕事をやりたい、
と思う子が1人でも増えることを願わずにはいられません。

2010年7月19日 (月)

教会学校で十戒をどう教えるか?

昨日、教会学校で、モーセの話と、十戒の話をしました。
今回は、十戒をどう子どもたちに教えるか、というテーマで書きます。

ところで、カトリック教会&ルーテル教会と、
ルーテル教会以外のプロテスタント教会&正教会で、
十戒が微妙に違っているのご存じですか?

カトリック版は次のとおりです。

1 わたしは、あなたの主なる神である。わたしのほか、誰をも神としてはいけない

2 あなたは、神の名をみだりに呼んではならない

3 あなたは、安息日(あんそくじつ)を聖とせよ

4 あなたは、父母(ちちはは)を敬いなさい

5 あなたは、殺してはならない

6 あなたは、姦通してはならない

7 あなたは、盗みをしてはならない

8 あなたは、偽証してはならない

9 あなたは、他人の妻に想いをかけてはならない

10 あなたは、他人のものをみだりに欲してはならない


プロテスタント教会&正教会版は、聖書そのままです。
聖公会の文語訳で引用してみましょう。

1 我のほかなにものをも神とするなかれ

2 なんじ、おのれのために、上は天にあるもの、
下(しも)は地にあるもの、
また地の下(した)の水の中にあるものの形に似せて偶像をつくり、
これにひれ伏し仕うるなかれ

3 なんじの神(かみ)主(しゅ)の名をみだりに言うなかれ

4 なんじ安息日(あんそくにち)を聖として忘るるなかれ

5 なんじ父と母とを敬え

6 なんじ殺すなかれ

7 なんじ姦淫するなかれ

8 なんじ盗むなかれ

9 なんじ偽りの証しを立つるなかれ

10 なんじむさぼるなかれ


カトリックは、聖堂内に聖母マリア像や天使その他の像を置くのを正当化するため、
本来の第2戒を外して、その代わりに本来の第10戒を2つに分けたみたいです。
ちょっと苦しいですね・・・

それはさておき、本論に入りましょう。
前述のとおり、カトリックとプロテスタント・正教会で十戒の番号が違っていますので、
カトリック版を( )で表すことにします。
あらかじめ、黒板に十戒を書いておきます。


十戒とは何か、なぜ人間に「掟」が必要なのか。
それを考えるには、スポーツの例(サッカーなど)がいいでしょう。

サッカーにはルールがありますが、もし、ルールが全然なかったら、
サッカーの試合をやっておもしろいでしょうか。
ボールを蹴っていた、と思えば、突然、手でボールを投げだすとか・・・
あるいは、ラインがあるのは「不自由」だから、
ラインを消してしまってはどうでしょうか。
「自由」どころか、ただ混乱をもたらすだけです。
しまいには、ケンカになるかもしれません。

神様が与えてくださった10の戒め
(「戒め」という言葉は、ルール、きまりということ、という説明が必要でしょう。)は、
人間を縛るために与えられたのではなく、
人間が人間らしく生きられるように与えられたものです。

最初の4つ(3つ)は、神様に対する戒めです。
ここでいう「わたし」とは、神様のことです。
「わたしは、あなたの人生のすべてに、責任を持っているよ。」
というのが、最初の戒めの意味です。

ところで、君たちは(注:今回来ていたのは、小学5、6年の女の子ばかりでした)、
マンガをいろいろと読んでいるよね。
ここに、Aさん、Bさん、Cさんがいるとします(黒板に書く)。
マンガでは、よく三角関係になったりしますが・・・
AさんはBさんを好きでした。
そうであれば、ふつうは、AさんはBさんに対して、
「あなた『』好きです。」と言いますね。
「あなた『』好きです。」と言ったら、どうなるだろう?
あなた『』」というと、他にも好きな人がいる・・・
私は、そのうちの一人にすぎない・・・
とっても失礼な言い方ですね。
Bさんにとって、聞きたいのは、
「あなた『』、あなた『だけが』好きです。」という言葉です。
神様にとっても同じです。
宇宙万物をおつくりになったお方を、他の何者にも比べることはできません。

(2~10はひととおり、簡単に説明します。
「父母を敬え」以下は、人に対する掟です。
人を大切にすること、そして、自分を大切にすることを、
神様は求めておられます。
「姦淫(姦通)してはならない」は、10歳以上の子がいる場合、
ひととおり説明した後、特別に説明します。
なぜ10歳か、というと、小学校4年になれば、
学校で「性」について学ぶことになっているからです。
もし、参加者が10歳以下ばかりの場合、
あっさりと、「結婚を大切にしなさい。」という意味だ、
という説明で十分です。
なお、「父母を敬え」は、親が離婚しているなどの事情がある子がいる場合、
慎重に扱った方がいいと思います。今回は、そういう事情がありませんでしたので、
当然のこととして扱いました。)

(カトリック版では、「あなたは」という言葉を使っていますが、
文語体では、「なんじ」ですね。
ここはわかりやすく、「あなたは」で統一しましょう。)

1~4(3)は、神様に対する掟でした。
それ以降の掟で、ひらがな4文字が共通して使われています。
さて、なんでしょう。
(子どもから、「あなたは」という答えが来ました。)
では、なんでこんなに「あなたは」が繰り返し強調されているのでしょうか?
(子どもから、「あなた『だけ』は」という答えが出てきました。)
そう、そのとおりです。
日本人は、「ほかの人がやっているから、私もやったっていいじゃん・・・」
とか考える人が多いですが、
神様は、「ほかの人がどうであろうと、『あなたは』、『あなただけは』
そうしなさい、そうしてはならない」、と命じています。

さて、「姦通してはならない」を説明します。
これは、わかりやすく言えば、
「結婚を大切にしなさい、結婚以外に男女の関係をしてはいけません。」ということです。
ところで、君たちはマンガが好きだけど、
マンガでは、よく、中学生や高校生が、愛しているからといって、
男女のこと(※セックスのこと)をしているけど、
これって、いいことなのかな?
以前、『14歳の母』というドラマがありましたね。
子どもを産むという決断をしたのはいいことですが、
本当にこれは、自分を大切にすることになるでしょうか。
私はそう思いません。
(子ども達から、芸能人の「できちゃった婚」の話などが出る。)
本当に、相手が、自分のことを大切にしているなら、
結婚するまで、(男女の関係を)待つことができるはずです。

神様は、私たちに人間らしい生き方をしてほしいから、
この10の戒めを与えられました。
今日はこの後で、10の戒めを紙に書いてもらいます。
(終り)


性の話は、教会だからこそ、きちんとすべきだと思います。
学校の性教育は、生物学的なもので、道徳性を無視しています。
10代だってセックスして当然、というのでは、
性感染症や、10代の望まない妊娠・中絶を防ぐことはできません。
教会がお上品ぶって、性のことを避けてとおるのはよくないと思い、
今回、十戒を教えるついでに語りました。

教会によっては、十戒においていろいろと強調点があるでしょうし、
十戒は、1度教えるだけで十分なものではありません。
今後も、折に触れて、十戒を暗唱させたりするなどの取り組みをしていくつもりです。
(主の祈り、十戒、使徒信条は暗唱できるようにすべきですね。)
十戒は、神の愛によるルールです。

2010年7月18日 (日)

ついに、我らの上に(イザヤ32:15~18)【自作曲】

今回は、イザヤ書32:15~18への作曲を紹介します。
どうして、この箇所かと言うと・・・
単に、昨日の朝、なぜか頭に浮かんできたからです。
旧約聖書における、聖霊降臨の預言の一つですね。
テキストは、旧約聖書イザヤ書32:15~18新共同訳です。
なお、テキストでは、「我々」(15節)となっていますが、
都合上、「我ら」に変更しています。

つくづく思うのは、信仰生活の中心は、聖書と祈り、
そして、聖霊です。
聖霊の働き、御力の助けがなければ、
クリスチャン生活は実を結びません。
聖書の言葉から慰めや力を受けるのも、
力ある祈りができるのも、すべては神であられる聖霊の働きです。
聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。
(新約聖書コリントの信徒への手紙Ⅰ12:3新共同訳)

電波がなければ、テレビはただの箱にすぎません。
テレビ自らは、どんなにがんばっても、自ら映像を生み出すことはできませんね。
同じように、聖霊に導かれることによって、
私たちは「神の像」(創世記1:26参考)としての人間を映し出すことができるのです。

聖霊によらない信仰生活は、単に自分の努力の成果であり、
つらいだけです。
雀のように羽をバタバタさせる信仰よりも、
鷲のように、翼を拡げて「風」に乗る信仰こそ望ましいものです。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
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2010年7月17日 (土)

NHK・「スター・ウォーズ 世界の兵士たち大行進!」(7月17日再放送)

7月17日から、NHKで「スター・ウォーズ」シリーズの一挙放送が始まりました。
普段SFものはまず観ない私と妻ですが、一応、観てみました。
エピソード1「ファントム・メナス」は今回初めて観ました。
まあまあおもしろかったデス。
(ファンのみなさん、ゴメンナサイ・・・)
実写がついているアニメ映画、という感じでした。
TVゲームみたいな感覚でした。
映画「ベン・ハー」の戦車競走のパロディみたいな、
「ポッドレース」のシーンは、刺激的な映像の割には、
スリル感があまりありませんでした。
なんでもCGでできちゃうと、ありがたみが薄れるものですね。

エピソード1の後に、おまけ番組として、
「スター・ウォーズ 世界の兵士たち大行進!」という番組が放映されていました。
私には、こちらの方がすごくおもしろかったです。
スター・ウォーズの雑魚キャラ、
ストームトルーパーのコスプレをする人たちが世界中から集まり、
その格好で、
アメリカのカリフォルニア州パサデナで毎年行われる「ローズパレード」において、
9㎞の行進をする、というものです。
2007年に、スターウォーズシリーズ公開30周年記念、ということで行われました。
「501軍団 501st Legion」というストームトルーパーのファンクラブ会員が、
全世界にいて、その中の200人が選ばれるまでの「ドラマ」と、
行進の訓練、行進当日の様子が記録されていました。
ガンダムキャラでいえば、「ザクⅡ大好き!」みたいなものですね。
その情熱には恐れ入りました。
参加者の中には、日本人の夫婦もいましたよ。

日本のコスプレは単に自己満足で終わっていますが、
501st Legionは、病院訪問とか、チャリティ活動にも熱心だというのが、
すばらしいな~と思いました。

ここ数日、「帝国のテーマ」が頭から離れないワタシです・・・

主の祈り(カトリック・聖公会共通)(17)【自作曲】

「主の祈り」シリーズです。

今回は、カトリック・聖公会共通の「主の祈り」への作曲の、
第17番目を紹介します。
今のところ、「主の祈り」シリーズ中唯一のハ長調の曲です。

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2010年7月16日 (金)

北教組VS北海道教育委員会~「学校教育における法令等違反に係る情報提供制度」

7月16日の読売新聞朝刊に、北教組関係の記事が出ていました。
残念ながら、読売新聞のサイトでは掲載されていないようなので、
北海道新聞の記事のリンクを掲載します。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/241734.html

北海道教育委員会では、
今年の5月から、教員の不祥事(特に、職場における政治活動→明確な法令違反)を防ぐために、
「学校教育における法令等違反に係る情報提供制度」というのを設けたようです。
http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/ksk/jyouhouteikyouseido.htm
これは、保護者や地域の人から、教員が法令や学習指導要領に違反している場合、
北海道教育委員会に通報できる、という制度のようです。
今までなかったのがおかしいぐらいの、当然の制度だと思います。
(偏向教育とか、ぜひ誰か告発してほしいものです。
今のところ、通報は1件もないようです。)
ただ、一般にはあまり知られていないようですね。
(私もこの新聞報道で初めて知りました。)

しかし、これに対して、北教組が抗議をした、というのが、
新聞記事の内容です。
(何でも反対しないと気がすまない団体ですので・・・
虫歯予防やAEDでさえ反対しましたし・・・
ただ、この記事の件は自らが招いた不祥事を全然反省していない証拠です。)
その代表者は、
先日、小林千代美元衆議院議員への不正献金で有罪(執行猶予)になった人です。
懲りないな~と思いました。
道高教組のHPで、
「北海道教育委員会「情報提供制度」導入の中止を求める教職員・道民の声
として、抗議内容が掲載されています。(この「道民の声」の「道民」とは?)
http://dokokyoso.jp/modules/bulletin/article.php?storyid=27
興味がある人は、読んでみてください。
教員は「治外法権」だとでも言わんばかりの内容です。
70年代の幻想は早く捨ててほしいものです。

教員が、学校内で特定の政治団体を応援したり、
宣伝活動を行うことは、明らかに法令違反です。
学校を離れて、個人として民主党なり共産党を応援するのは、
個人の政治的自由ですが、
学校のFAXや電話を使って、そういう活動をするのは論外です。
法令や規範を無視して、「政治活動の自由を制限するな!」などと、
自分たちの都合しか考えないのが、
困った教組である、北教組の体質です。

教員の政治活動とはちょっと違いますが、
7月16日には、東京の方で、小学校教員が強姦致傷事件の犯人として逮捕された、
という報道がありましたね。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100716-OYT1T00541.htm
教師というのは、他の公務員よりも社会的な影響が非常に大きく、目立つ存在です。
教員組合が主張するような、単なる「労働者」ではないのです。
(そのくせ、都合のいい時だけは、「聖職者」面をするわけです・・・)
教師自ら、社会的規範や法令を遵守する(コンプライアンス)を実践してないなら、
どうやって児童・生徒に「きまりを守れ」と言えるでしょうか。
教員は、児童・生徒のよい模範になってほしいものですね。
(きわめてあたりまえのことですが・・・)
がんばれ、北海道教育委員会!

「35人学級」の是非~教育への投資は日本の未来への投資

中央教育審議会の分科会が、
「公立小中学校の1学級の上限人数を、現在の40人から引き下げる必要がある。」
と提言した、と報道がありましたね。
文部科学省は「35人」を軸に検討しているそうです。
これについて、読売新聞が7月15日の社説で意見を述べています。
http://plus.yomiuri.co.jp/yolarticle/KJRIVPvpUep5YkpzIhheFTAZFq9XmsERKr1Uw6GuI3NIsNkTeL-e*gPjHHAMTAqV

さて、私の意見です。
私は、35人学級にするのは賛成です。
また、35人学級にする場合の、教員の大幅増にも賛成です。
特に小学校においては、大幅に教員を増やした方がいいと思います。
複数担任制や、小3以上は教科担任制にするなど、
1人の担任がなんでも教える、という状況から脱却すべきだと考えます。
(1人の担任がなんでも教える、というのが、
教育力低下の一因になっている場合が多いようです。
複数担任制にすれば、
学級崩壊や、担任の独裁を防ぐことが期待できそうです。)

読売新聞の社説では、財源の問題が指摘されています。
あたかも、教員を増やすのは問題だと言わんばかりの、
どちらかというと否定的なニュアンスで・・・

教員を増やすのは、日本の未来に投資することではないでしょうか。
コンクリートの塊(道路やハコモノ)は、そのうち壊れていきます。
しかし、教育は、子ども達(未来の納税者・有権者)の未来を切り開き、
豊かな国を築きます。国の将来を築き続けるでしょう。
選挙目当てのバラマキや無駄な公共事業に投資するよりも、
教育に投資すべきでは、と私は考えます。

教員を増やすことによって、新たな雇用や消費が生まれ、
税収の増加にもつながります。
また、教育関連の仕事も、新たな需要が生まれるかもしれません。

教育の問題は、消費税の増税や「政治とカネ」のような目立つものではありませんが、
もっと国民の間で論議したい問題ですね。
みなさんはどう思いますか?

詩篇117(32)【編曲】~五木の子守唄

昨日に引き続いて、
詩篇117シリーズです。

今回で、詩篇117シリーズは、32曲目です。
『五木の子守唄』のメロディを使っています。
テキストは、カトリック訳です。
中国、EU、日本・・・詩篇117のワールドシリーズでした。
(33曲目からは、また自作メロディに戻ります。)

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2010年7月15日 (木)

NHK・「ヘルベルト・フォン・カラヤン ~その目指した美の世界~」(7月13日放送)

7月13日に、NHKのハイビジョンで放映された、
「ヘルベルト・フォン・カラヤン ~その目指した美の世界~」を観ました。
カラヤンは毀誉褒貶が激しかった人でしたが、
やはり、20世紀後半の巨匠の一人でしょう。
私は、R・シュトラウスやブラームスの一部、
あるいは新ウィーン楽派などの演奏では、
カラヤンの演奏を高く評価しています。

ドイツで作られたこのドキュメント番組では、
普段なかなか知ることができない、
カラヤンのリハーサルの様子や、プライベートの様子を多く使い、
また、カラヤンをよく知る有名な音楽家へのインタビューなどで構成されていました。
小澤征爾、マリス・ヤンソンス、ラトル、キーシン、ムター、
クリスタ・ルードヴィヒ、グンドラ・ヤノヴィッツ等、錚々たる人々が、
カラヤンとの関わりや印象などについて語っているところだけでも貴重な映像です。
カラヤン自身へのインタビューも貴重でした。
カラヤンを好むか好まないかを問わず、
クラシックファンとしては、実に貴重な番組でした。

すごく刺激的だったところは、
マーラーの交響曲第5番のリハーサル風景を、
バーンスタインによる同曲のリハーサル風景と対比させるように、
交互に見せていたところでした。
カラヤンとバーンスタインは、しばしばライバル関係のように言われていました。
それを、死後20年も経ってから、このような形で並べることができるのは、
時代の経過を感じました。

カラヤンの指揮する姿は、絵になる光景ですね。
「ザ・指揮者」そのものといった感じです。

カラヤン指揮ベルリン・フィルによる、
ベートーヴェンの交響曲第5番&第8番のCD(70年代の録音)が、
私にとっては、初めて手にしたCDでした。
(残念ながら、とうの昔に手放してしまいましたが・・・)
私の父が、はじめてラジカセを私にプレゼントした際、
ついでに、そのCDを買ってくれました。
そういう意味では、私にとってカラヤンは、
クラシックの門を開いた演奏家といえます。
ただ、その後いろいろな演奏家を知るにつれ、
カラヤンの重要性は私にとっては薄れていきました。

今でもカラヤン指揮のCDでとても好きなのを5つあげると・・・
1.R・シュトラウス「交響詩『死と変容』、『メタモルフォーゼン』、『4つの最後の歌』」
(70年代の録音。先日このCDについては記事を書きました。)
2.R・ワーグナー「『タンホイザー序曲』、『ジークフリート牧歌』、
『トリスタンとイゾルデ~前奏曲と愛の死』)(80年代の録音)
(『ジークフリート牧歌』の演奏では一番好きです。
『トリスタンとイゾルデ』の『愛の死』も絶賛に価します。)
3.シェーンベルク『浄夜』他(70年代の録音)
(シェーンベルクの『浄夜』の決定版ですね。
ただ、併録のベルク、ウェーベルンの曲は、
曲自体の価値が私にとってはいまだにわかりませんので、
ほとんど聞いていません。)
4.「バロック名曲集~アルビノーニのアダージョ、パッヘルベルのカノン他」
(時代錯誤はなはだしい、きわめて重苦しいバロック演奏ですが、
「アルビノーニのアダージョ」と「パッヘルベルのカノン」はすごく好きです。
映画音楽のように聞こえます。
ただし、コレッリやヴィヴァルディなど、他の曲は、論外といえましょう。)
5.ブラームス『ヴァイオリン協奏曲』他(ソリスト→ムター)
(カラヤンの重苦しい演奏が、きわめて成功した例といえます。
カップリングのベートーヴェン『三重協奏曲』は興味がないので、
きちんと聞いたことがありません。)

クラシックファンの間では、
カラヤンや小澤征爾氏の指揮をやたらとけなす傾向がありますが、
それぞれの演奏家に、向き不向きがあるのですから、
もっと公平な評価が必要ですね。
(とはいえ、私は別に、カラヤンファンでもアンチ・カラヤンでもありません。)

R.シュトラウス:死と変容/4つの最後の歌



R.シュトラウス:死と変容/4つの最後の歌


アーティスト:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 カラヤン(ヘルベルト・フォン),ヤノヴィッツ(グンドゥラ)




R.シュトラウス:死と変容/4つの最後の歌

ワーグナー・ライヴ・イン・ザルツブルク



ワーグナー・ライヴ・イン・ザルツブルク


アーティスト:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 カラヤン(ヘルベルト・フォン),ノーマン(ジェシー)




ワーグナー・ライヴ・イン・ザルツブルク

シェーンベルク:浄夜



シェーンベルク:浄夜


アーティスト:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 カラヤン(ヘルベルト・フォン)




シェーンベルク:浄夜

アルビノーニ / 弦楽とオルガンのためのアダージョ



アルビノーニ / 弦楽とオルガンのためのアダージョ


アーティスト:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団




アルビノーニ / 弦楽とオルガンのためのアダージョ

ブラームス:ヴァイオリン協奏曲、他



ブラームス:ヴァイオリン協奏曲、他


アーティスト:ムター(アンネ=ゾフィー)




ブラームス:ヴァイオリン協奏曲、他

詩篇117(31)~Beethoven『歓喜の歌』【編曲】

昨日に引き続いて、
詩篇117シリーズです。

今回で、詩篇117シリーズは、31曲目です。
ベートーヴェンの『第9』の第4楽章『歓喜の歌』のメロディを使っています。
テキストは、カトリック訳です。

ちなみに、『歓喜の歌』はEU国歌(欧州連合賛歌)となっていますね。
歌詞は、もともとのドイツ語ではなく、ラテン語でつけられているそうです。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

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2010年7月14日 (水)

詩篇117(30)【自作曲】

忘れた頃、ではなく、珍しく昨日に続いて、
詩篇117シリーズです。

今回で、詩篇117シリーズは、ついに30曲目です。
テキストは、カトリック訳です。
楽譜には、「中国古謡『東天紅』の主題に基づく」と書いています。
これは、プッチーニのオペラ『トゥーランドット』のDVDを観ていた時に与えられました。
『トゥーランドット』では、「皇帝賛歌」として使われています。
中国風で、優雅な感じの曲です。
まさに、「すべての国」で、主は讃美されるわけです。
日の昇るところから日の沈むところまで
主の御名が賛美されるように。
(旧約聖書 詩編113:3新共同訳)

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2010年7月13日 (火)

詩篇117(29)【自作曲】

忘れた頃にやってくる、詩篇117シリーズです。
(2ヶ月ぶりです・・・) 

今回で、詩篇117シリーズは、29曲目です。
テキストは、文語訳です。
ロ短調ですが、暗い、というイメージではありません。
なお、文語訳では、「エホバ」という語を使っていますが、
この作品では、「主」と置き換えています。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
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2010年7月12日 (月)

NHK・世界遺産への招待状「ユダヤ民族2000年の祈り~マサダ~」

先日放送のNHK・世界遺産への招待状では、
イスラエルのマサダを紹介していました。
マサダは、紀元66年~73年のユダヤ戦争の舞台でした。
日本史でいえば、「島原の乱」の「原城」みたいなところです。
マサダにおける数年にわたる籠城の後、
ローマ軍が攻め込んで来た時、全員自決したことで知られます。
(日本でいえば、沖縄戦みたいな状況になったわけです。)
それから約2000年、イスラエルという国が復活し、
マサダは、イスラエル軍の入隊式が行われるところとなりました。
番組では、歴史的な経緯と、
マサダで成人式(※ユダヤ教における男子の成人式は13歳)を行う男の子、
ホロコーストを生き延び、何度も中東戦争で戦った人、
マサダを研究し続ける学者という、3人の視点で、
立体的にマサダの意味を浮き彫りにしていました。
マサダそれ自体は、そんなに行ってみたいところだとは思いませんが、
国を守る、民族の誇りを守る、過去を語り伝え続ける、
ということを考えるよい機会となりました。

最後の結論は、いかにも「平和を愛する」日本的なものになっていましたが、
まあ、仕方ないものでしょう。
(私自体、イスラエルがすることが何でも正しいとはさすがに思いません。
ただ、日本のマスコミがたきつけるような、イスラエル=極悪非道というのは、
あまりにも無知すぎるし、実態とかけ離れています。)

この番組を観てから、日本の歴史認識を考えました。
ひめゆりの塔や、広島の原爆ドームなどは、
「日本の悲劇」としてしか認識されていませんね。
「日本は中国などアジア諸国で悪いことをしたのだから、
その報いが来たのだ。」というような意識があります。
無差別攻撃をしたアメリカを責めることはまずありません。
それどころか、アメリカを「軍国主義からの解放者」としてあがめ祭っていました。
日本国民は、「哀れな被害者」というわけです。
日本民族の誇りは、地に落ちたままでよいのでしょうか。
自衛隊は、
本当に「二度と祖国を焦土にしない」というような固い決意があるでしょうか。
日本の近代史を、もう一度見直すべき時期ではないでしょうか。
公平な態度で、20世紀前半のアジア史を見つめなおしたいものです。

番組でのマサダの紹介は、以下でご覧ください。
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/invitation/archives/archive100710.html

あなたの御言葉が見いだされたとき(エレミヤ15:16)【自作曲】

先日、ある人から、こんな質問を受けました:
「あなたは、どうして、そんなに熱心なのですか?
何かきっかけがあったのですか?」
簡単に答えられそうで、意外に答えるのが難しい問いです。
これも、結局きちんと答えることはしませんでした。
「(クリスチャンとしては)普通ですよ。」ぐらいに答えておきました。

この問いに、ある程度きちんと答えるとすれば、
「神様に愛されているから」
「神様に選ばれているから」でしょうか・・・
(いずれにせよ、単に自分自身の熱心さだけでは、
説明できないことです。)

個人的な体験はいろいろ語ることはできますが、
私にとってはすばらしい出来事でも、
第三者(たとえ、それが親しい人だとしても・・・)には、
ピンとこないものが多いはずです。
神様との「睦言」、「秘め事」のような体験を語るのは、
恋人間や夫婦間の愛の秘密を語るようなものです。
聖書に書かれてあるような事は別とすれば、
その類の経験談は、語らない方がいいと思います。
(どうしてもそれを分かち合うべきならば、
主が示してくださるでしょう。
未信者・求道者への「あかし」として、特に有効な場合とか。)
新約聖書においても、使徒パウロはある種の神秘体験を、
実に控えめに語っています(Ⅱコリント12章)。
ベラベラと「神秘体験」(のようなもの)を語ったり、
あるいは、「主が示された」とよく口にするような人は要注意です。
中国の古典『老子』でも、
知る者は言わず、言う者は知らず。」という名言がありますね。

今回紹介するのは、エレミヤ書からの作曲です。
預言者エレミヤが、預言者としてキツイ言葉を語るゆえに、
迫害を受けるさなか、主への祈りの中で、
主への「愛の告白」をしているところです。
(もっとも、このすぐ後の行では、つらさや愚痴も主に訴えていますが・・・)

今回のテキストは、旧約聖書エレミヤ書15:16新共同訳です。
エレミヤ書15:6へは、この曲を含めて、
2曲与えられています。
(もう1曲のテキストは、バルバロ訳です。)
エレミヤ書のテキストを使い、音楽という形で、
主への情熱を表しています。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
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主の祈り(カトリック・聖公会共通)(16)【自作曲】

「主の祈り」シリーズです。
2ヶ月ぶりですね。

今回は、カトリック・聖公会共通の「主の祈り」への作曲の、
第16番目を紹介します。
今朝頭の中に浮かんできた曲です。
今年の4月に与えられたものです。

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2010年7月11日 (日)

すべての事を益に(ローマ8:28)【自作曲】

神を愛する人々、
すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべての事を働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。
(新約聖書 ローマ人への手紙8:28新改訳)

今回は、この聖句への作曲を紹介します。

私にとって、この聖句は、聖書全体の中でも、
特に生き方の指針となっているものです。
ヨハネ3:16と、ローマ8:28と、そしてⅠテサロニケ5:16~18。
もし新約聖書に、この3つしか書かれていなくても、
十分に、生きる指針となるでしょう。
(もちろん、あくまでもこれは仮定の話ですが・・・)
神様が独り子イエス様を惜しまないほどに、私(たち)を愛されている事、
すべての事を益としてくださる事、
だからこそ、喜び、祈り、感謝する事を、神様は望まれている・・・
聖書的信仰の要点は、ここにあります。
「神の愛」、「讃美」と「感謝」いう視点で聖書を読み解くとき、
御言葉の一つ一つが生きたものになります。

今回、改めて、ローマ8:28のいろいろな訳を読み比べてみました。
特に印象深いものを、3つ紹介しましょう。
(柳生直行訳)
神を愛する者、神の御計画に従って召し出された者のために、
神は人生のあらゆる出来事から幸福な結果を生み出して下さる、
ということをわたしたちは知っている。
(新和訳〈池田博訳〉)
わたし達は、神を愛する者、
すなわち、御計画に従って召されたる者には、
万事が相働きてとなることを知っている。
(リビングバイブル)
そして私たちは、神様を愛し、神様のご計画どおりに歩んでいるなら、
自分の身に起こることはすべて、となることを知っているのです。

新改訳や新共同訳など、通常「」と訳されている語を、
柳生直行訳では、「幸福な結果」、
新和訳では、「」と訳していますね。
より肯定的なイメージとなっています。

人生に無駄なことはない!
一切肯定の立場です。
聖書の信仰は、究極的な楽天主義です。
だからこそ、
私たちは、私たちを愛してくださった方(=神様)によって、
これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
(ローマ8:37新改訳)と宣言できるのです。
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
(ローマ8:31新改訳)
神様に感謝!

曲の紹介に移りましょう。
冒頭のメロディは、NHKラジオかどこかで、
BGMとして使われていたメロディに似ています。
(曲名はわかりませんが・・・)
穏やかな喜びがあふれた曲です。

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夢をとくヨセフ~すべてを益としてくださる神(教会学校説教案)

教会学校において、創世記のヨセフの話をしました。

例のごとく、『聖書のおはなし』という本を使って、
ヨセフの話をし、その後、説教をしました。
その話の要点を書きます。
今回は、ちょっと大人向けかも・・・


ヨセフの話は、図で表すと「√」のようなイメージの物語だと思います。
(※「√」については、中学生以上の子がいれば、「ルート」と説明するといいでしょう。
小学生以下の子ばかりの場合は、特に図形について説明する必要はありません。)
父からすごく愛され、兄弟から妬まれたゆえに奴隷にされ、
牢屋に入れられる、というどん底と絶望を味わいましたが、
最後には、神様によって引き上げられ、エジプトの大臣にまでなり、
兄弟たちとも和解することができた・・・
それを形で表すと、「√」のような形になるのではないでしょうか。

ところで、みなさんは「禍を転じて福となす」という言葉を聞いたことがありますか?
ヨセフの物語は、まさにこのことわざのようです。
聖書には、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、
万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
(新約聖書 ローマの信徒への手紙8:28新共同訳)
という言葉があります。
神様は、不幸、マイナスとしか思えないような事でさえも、
益、つまりプラスにしてくださる、という神様からの約束です。

みなさんの中で、今まで、「禍を転じて福となす」というような体験はありますか?
(訊ねる)
私には、いろいろありました。
すべてのことは、神様が最善に計らってくださった・・・
私はそう信じています。
良いことも、不幸と思えるようなことでさえも、
神様に感謝して受け取っていくとき、
神様はすべてを最善に導いてくださる。
これが、キリスト教信仰の核心です。

聖書を見ると、ヨセフは、奴隷に売られても、
牢屋に入っても、不平を言った、というのは書かれていません。
かえって、「主がヨセフと共におられ」(創世記39:23新共同訳)と
書かれています。
ヨセフも、不平を言わず、その状況状況において、
神様に信頼していたからこそ、最後の幸福をつかんだのではないでしょうか。
私たちも、そうありたいものですね。

2010年7月10日 (土)

輝いて見える日常~映画「耳をすませば」

「いやぁ、映画って本当にいいもんですね〜」
思わず、故・水野晴郎さんの名セリフを引用したくなります。

耳をすませば」は、私にとって、スタジオジブリの映画では一番好きです。
今回、TV放映を改めて観て、その思いは揺るぐことはありませんでした。
5、6回以上は観ているはずなので、ストーリーは完全に頭に入っています。
でも、何度観ても、新しい発見があります。
ストーリーそのものも、ピュアで、青春そのものといった感じで、
甘酸っぱく、まぶしすぎます。

この映画でどういうところが好きか、人によってさまざまでしょうが、
私にとっては、「何気ない日常が、輝いて見える」ところがすごく好きです。
洗い物が片付いていない台所や、狭苦しい玄関、
少し薄汚れた団地、本棚や蛍光灯まで、少しも手を抜かずに、
きちんと描いています。その質感がとても好きです。
電車から見える背景や、遠くに広がる夜景、
行き交う電車、ラストの朝焼け・・・
新鮮な感受性さえあれば、ありふれた日常でさえ、
芸術的な輝きを放つのです。

映画の中では、画家の井上直久氏が書いた、
「イバラード」の世界もステキですが、
それに匹敵するぐらい、
日常のありふれた光景がみずみずしく見えるところがすばらしいです。
日常だって、「ファンタジー」になりえるのです。

「耳をすませば」は、劇場公開時に観ました。
私にとっては、青春の思い出の1ページに欠かせない作品です。
(どんな出来事かは、あえて秘密ということで・・・)

昨年、用事があって、作品の舞台となった「聖蹟桜ヶ丘駅」近辺に行きました。
残念ながら、映画の舞台を訪ね歩くことは時間の都合上できませんでしたが、
何か、そこに降り立って、街を歩くだけでも、うれしかったです。
また、同じく昨年、札幌の三越で、
「イバラード」の井上直久氏の絵の展示会を観ました。
実に不思議な絵の世界をすぐ近くで見ることができてよかったです。

原作のマンガを読んだことがありますが、
原作ファンの皆様には申し訳ありませんが、
映画の原作でなければ、
決して読むことはなかったと思います。
(ストーリーはまあまあでしたが・・・)
ありふれた石ころ(失礼!)から、
輝く大粒のダイヤモンドを掘り出したようなものですね。
これを映画化することに決めた宮崎駿氏は、
映像の錬金術師みたいなものです。

ぜひ機会があればまた観たいものですが、
あまり頻繁に観たいとは思いません。
美しい想い出は、大切にしまっておいて、
時々眺めるぐらいがちょうどいいのでは・・・

この作品について、
ものすごく熱心なファンの方がサイトを作っていますので紹介します。
作品の舞台を訪ねたりするのに、とても便利なようです。
http://www.asahi-net.or.jp/~hn7y-mur/mimisuma/index.htm


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著者:柊 あおい




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2010年7月 9日 (金)

「主の祈り」各訳比較表

先日、ある人から「主の祈り」に関して、
こういう質問を受けました:
「『みこころが天行われるとおり地も行われますように。』とあるが、
「天」、「地も」が日本語として正しいのでは?」
私は答えに窮してしまいました・・・
考えたこともない質問でした。

今回、機会があって「主の祈り」について、
祈祷文や各聖書の訳を比較する表を作ってみました。
15種類の邦訳と、2種類の英訳を、A4・2枚分にまとめてみました。
参考になれば幸いです。
家にある聖書全部使おうかな、と思いましたが、
さすがに3ページ、4ページになるよりも、
これだけあれば十分かな、と思いました。
個人訳はほとんど割愛しました。

なお、上記の質問について、各訳ではどうなっているか、
ぜひ、ご自分で見て確かめてみてくださいね。

「lords_prayer_in_japanese.pdf」をダウンロード

2010年7月 8日 (木)

Amazing Grace (midi)

世界で最も知られた讃美歌の一つが、
Amazing Graceですね。
TVCMでもよく使われますし、
一般にもなじみ深い曲です。
ちなみに、私の携帯の着メロは、Amazing Graceを使っています。

今回、讃美歌に基づいてMIDIを作成してみました。
伸ばすところに分散和音などを足している以外は、譜面どおりです。
譜面は、英語の讃美歌集を元にしています。
部分的に、聖歌と違うところがありますが、だいたい同じようなものです。

「20100708_amazing_grace.MID」をダウンロード

参考までに、日本語の歌詞(1番のみ)と、英語の原詩(1番)を書きます。


(聖歌229・新聖歌233 「驚くばかりの」)
驚くばかりの 恵みなりき
この身の汚れを 知れるわれに

(リビングプレイズ64 「驚くばかりの」)
驚くばかりの 恵みなり
この身の汚れを 知るわれに

(讃美歌第二編167 「われをもすくいし」)
われをもすくいし くしきめぐみ、
まよいし身もいま たちかえりぬ。

(讃美歌21・451)
くすしきみ恵み われを救い、
まよいしこの身も たちかえりぬ

(原詩)
Amazing grace! How sweet the sound
That saved a wretch like me!
I once was lost but now am found,
Was blind but now I see.


私としては、歌いやすいのは、
リビングプレイズの歌詞です。
「♪めぐみなりき~」よりは、
「♪めぐみなり~」の方が、
無理なく歌えるからです。
みなさんは、上記の歌詞で、どれがお好きですか?

2010年7月 7日 (水)

六花亭の「おやつ屋さん」~毎月7日のお楽しみ

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20100707_oyatsuyasan2

この写真は、六花亭の「おやつ屋さん」の7月のものです。
「おやつ屋さん」は、毎月7日だけ、予約販売しているものです。
前月下旬~当月初めまで予約を受け付けています。
(確か、去年ぐらいから始まったみたいです。)
我が家でも今回は予約して、今日妻と一緒にいただきました。
とてもおいしかったです。
毎月違う内容なので、毎月楽しみです。

私は、北海道のお菓子店では、六花亭が一番好きです。
手頃な値段ながら、品のよさがあります。
六花亭のお店で通常売っているお菓子の中では、
特に「マルセイバターサンド」と「百歳(ももとせ)」、
「ブラウニー」がベスト3です。
また、直営店の喫茶室はよく使います。
ソフトクリームに「雪やこんこ」のクリームなしビスケットをのせた、
「雪やこんこ まじりっけなし」は、喫茶室に行くたびに、
ほぼ毎回注文します。
(※「雪やこんこ」というクリーム入りクッキーは、
クリームなしの、ビスケットだけの方がおいしいのでは、と思います。)
「また甘いものばかり・・・」と妻から叱られてしまう、超甘党のワタシです・・・

お菓子王国・北海道万歳!

2010年7月 6日 (火)

WORKING!! (作:高津カリノ)

眠れぬ夜、なんとなくテレビをつけていると、
WORKING!! 」というアニメが放映されていました。
北海道の某所にあるファミレス、という設定と、
実に個性的なキャラにすぐにハマってしまいました。
見始めたのは、7品目(7話)の、
不思議ちゃんキャラである山田が登場するところからでした。
折り返し地点を過ぎたような回からでも、
すぐに作品の中に入っていけました。
以来、最終話まで毎回アニメは録画して観ていました。
8品目(8話)では、定山渓温泉らしき風景が・・・おぉ~
終盤は、ハリネズミの恋、というような感じでした。

原作もおもしろいです。
まだ1巻目までしか読んでいませんが、
4コマ漫画のかたまりで1つのストーリー(~品目)を構成するところがユニークです。
1巻はちょっとページ数が足りない感じがありますが、
まぁ、腹八分目ということで・・・
ぜひとも続きが読みたいです。

もし、こんなファミレスが実際にあったら・・・
ワタシは、行かないでしょうね・・・
WORKING!! 」という割に、
働いていない感じがスゴイです。
食中毒ならぬ「WORKING!!」中毒にご用心・・・


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2010年7月 5日 (月)

いつくしみふかき(讃美歌312)

讃美歌312番「いつくしみふかき」は、
日本人に一番愛されている讃美歌の一つですね。
ミッションスクールでもよく歌われているようですし、
(以前の職場の同僚で、ミッションスクール出身の人がいました。
キリスト教はあまり好きではないけど、「いつくしみふかき」は好きで、
自分の葬式には流してほしい、などと言っていました。)
また、キリスト教のお葬式においても、
カトリック・プロテスタント問わずよく使われます。
私にとっても、特に好きな讃美歌の一つです。
ただ、近年は、この讃美歌を聴くと、
どうも、教会でのお葬式のイメージがつきまといます。
いろんな人のお葬式で、歌ってきたからです。

今朝、悲しい知らせを受けました。
他教会の知人のご子息が、7月4日早朝に、
交通事故で亡くなった、というものです。
(その人とは私は会ったことがありません。)
新聞の朝刊の北海道版に小さく出ていました。
年齢を見ると、まだ大学生でした。
なんともいえぬやりきれなさで、心がいっぱいになりました。
その知らせを聞いてから、今日は1日中、
頭の中で「いつくしみふかき」が流れていました。
あたかも、レクイエムのように・・・

ちょうど、讃美歌312番「いつくしみふかき」の楽譜入力をしていたので、
今回、みなさんと分かち合うことにしました。
歌いやすいように、メロディ部分はオーボエの音、
伴奏はピアノの音にしました。
1番から3番まで、最後にはアーメンをつけて歌うことができます。
なお、楽譜のダウンロードは今回ありません。

「20100705_itsukushimihukaki.MID」をダウンロード

新聖歌では、同じメロディで、
讃美歌版の歌詞(讃美歌312)と、
聖歌版の歌詞(聖歌607)どちらも歌えるようにしています。
(新聖歌209・210番)
私は聖歌版では歌ったことはありません。
讃美歌21版(讃美歌21・493)ならありますが・・・
(讃美歌21版は、あまり好きではありませんけど。)

今回は、讃美歌版・聖歌版・讃美歌21版の1番の歌詞を列記してみました。
私はやはり、讃美歌版の歌詞が好きです。
原詞を生かしているのは、聖歌版です。
讃美歌21版は・・・讃美歌版をちょっぴり現代的にしただけかな・・・

(讃美歌312)
慈しみ深き 友なるイエスは
罪 咎 憂いを 取り去り給う
心の嘆きを包まず述べて
などかは降さぬ 負える重荷を

(聖歌607)
罪 咎を担う 友なるイエスに
打ち明けうるとは いかなる幸ぞ
安きのなき者 悩み負う者
友なるイエスをば 訪れよかし

(讃美歌21・493)
いつくしみ深い 友なるイエスは
うれいも罪をも ぬぐい去られる。
悩み苦しみを かくさず述べて、
重荷のすべてを み手にゆだねよ。


イエス様の御言葉です。
疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。

(新約聖書 マタイによる福音書11:28新共同訳)

「いつくしみふかき」の原詩は、深い悲しみの中から生まれたそうです。
だからこそ、こんなにも人を慰める力があるのでしょうね。
神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、
わたしたちも神からいただくこの慰めによって、
あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。

(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 1:4新共同訳)

2010年7月 4日 (日)

まさかの南米両雄敗北~W杯準々決勝

W杯の準々決勝、ブラジル対オランダと、
アルゼンチン対ドイツの試合、どちらも意外な展開でした。
私の当初の予想は、ブラジル対オランダでは、ブラジルの勝利、
アルゼンチン対ドイツでは、アルゼンチンの勝利で、
優勝決定戦は、ブラジル対アルゼンチンの南米対決だと予想していました。
しかし・・・
結果は、どちらの試合も、南米がまさかの敗北でした。
ブラジル対オランダでは、前半は圧倒的にブラジル優勢で、
前半終了の時点で、私は2対0でブラジル勝利!とまで予想していました。
しかし、周知のとおり、後半はブラジルが失速し、レッドカードが出た時点で、
負けが決まったようなものでした。
最後まで冷静さを失わなかったオランダが勝利を勝ち取りました。

アルゼンチン対ドイツは、もっと意外な展開でした。
華麗な個人プレーのアルゼンチンが、圧勝かな、と予想していました。
(対韓国戦でのメッシ選手の活躍が圧巻だったので・・・)
しかし結果は、4対0でドイツの圧勝でした。
アルゼンチンは個人プレーばかりで、
チームとしてのまとまりが欠けていたように思いました。
(ドリブルで突進していく単調な攻め)
ドイツのパス回しは絶賛に値しました。
アルゼンチンは、せめて1点取ってほしかったですが・・・

ウルグアイ対ガーナ、スペイン対パラグアイはリアルタイムで観ていません。
さすがに3:30からはキツイです・・・
ウルグアイの、手でゴール阻止で一発退場、
というプレイはひどすぎましたね。
スペイン対パラグアイは予想通りの結果でした。

W杯は、日本戦が終わってしまったら、見るのも終り・・・
ではとってもモッタイナイ!
世界のレベルの高さをまだまだ楽しむことができます。
ナショナリズムに関係なく、純粋に、サッカーの魅力を堪能できます。
私にとっては、サッカーの魅力にようやく目が開かれたW杯となりそうです。

世界最高レベルの試合を見ていると、日本のサッカーの問題点、
特に攻撃の弱さを思い知らされます。
ただ、守備では、ブラジルを破ったオランダを1点に抑えたのですから、
相当なレベルである、と誇ることができるでしょう。
次回のW杯での活躍を期待したいですね。

ここで、優勝予想ですが・・・
おそらく、ドイツとオランダが優勝決定戦に進み、
ドイツが優勝するのではないでしょうか?
結果が楽しみですね。

2010年7月 3日 (土)

R・シュトラウス「変容(メタモルフォーゼン)」

だいぶ前ですが、PMFの初年度(1990年)に千歳市で、
マイケル・ティルソン・トーマス指揮ロンドン交響楽団の演奏を聞いたことがあります。
曲目は、たしかベートーヴェンの「レオノーレ第3番」と、
R・シュトラウスの「英雄の生涯」でした。
「英雄の生涯」を聴いているうちに、いつの間にか寝ていました。
「英雄の生涯」の冒頭は、勇壮な響きがあって好きですが、
それ以降は、今だきちんと聴いたことがありませんし、
聴かなくても、別にかまわないと思っています。

R・シュトラウスといえば、交響詩「ツァラトゥストラかく語りき」とか、
派手な交響詩や、「ばらの騎士」などのオペラが有名ですが、
私にとっては、R・シュトラウスの交響詩は退屈なだけです。
交響詩「ツァラトゥストラかく語りき」も、冒頭はものすごく有名ですが、
後の部分は、退屈すぎて、全然覚えていません。

しかし、R・シュトラウスの作品で、すごく好きなものが3つあります。
どれも、晩年の作品です。
「4つの最後の歌」、「オーボエ協奏曲」、
そして今回取り上げる「変容(メタモルフォーゼン)」です。

「変容」は、23の弦楽器だけで演奏されます。
華麗なオーケストレーションを誇るR・シュトラウスの作品としては異色です。
外面的な派手さはないですが、味わい深さは格別です。

私はこの作品を聴くたびに、廃墟に佇んで呆然としている人の姿が目に浮かびます。
そこから、過去の甘美な回想が始まり、
最後には、現実に立ち返る・・・
そんな様子が見えてきます。
曲の終りに、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」第2楽章からの引用が、
とても印象的です。

我が家には、「変容」では2種類のCDがあります。
ぜひともおすすめは、カラヤン指揮ベルリン・フィル(70年代)ので、
カップリングは交響詩「死と変容」と、「4つの最後の歌」です。
この盤は、「4つの最後の歌」の最もすばらしい演奏が入っているので、
私にとっては、お宝盤の一つです。
(ただし、私はいまだに交響詩「死と変容」は聴いていません。
※2010年7月時点)


今回、この記事を書く前に聴いたのは、もうひとつの盤、
ケンペ指揮ミュンヘン・フィルハーモニックの演奏です。
理由は・・・カラヤン盤より3分ほど短いから(^-^;

聴き比べてみると、カラヤンの指揮を「絹」とすれば、
ケンペの指揮のは「木綿」のようです。
しかし、味わいはそれぞれ独特です。
ケンペ指揮のもおすすめです。
ちなみに、併録(というより、こちらがメインなのですが)の、
シューベルトの「ザ・グレイト」は、まあまあぐらいの演奏です。

過去何種類か、聴き比べてみましたが、
上記以外でおすすめは、カラヤン指揮の80年代の録音ぐらいです。

「変容」は、気分が落ち込んでいる時に聴くのがすごくオススメです。
私も、昨日はこの曲が聴きたくなるような状態だったので・・・


2010年7月 2日 (金)

映画「紅の豚」

久々に、テレビ放送で「紅の豚」を観ました。
今回は、字幕放送で観ましたので、細かいセリフがよくわかりました。

今までにこの作品は、確か4、5回ぐらいは観たことがあります。
劇場公開時にも観ています。
宮崎駿監督の諸作品の中では、少し印象が薄いですが、
今回改めて見直すと、なかなかおもしろかったです。
余計な理屈抜きで楽しめる作品ですね。

「飛行シーン」、「古くさいメカ」、「美少女」・・・
といった、宮崎駿監督らしい要素がいっぱいでした。

今年の7月の金曜日は、毎週ジブリ作品の放映があります。
ちなみに、私がジブリ作品で好きなものベスト3は・・・
1.耳をすませば
2.魔女の宅急便
3.天空の城ラピュタ
でしょうか・・・
「耳をすませば」だけは不動の1位ですが、あとは順位がつけづらいです。
ただ、作品の映像表現の見事さだけとれば、「千と千尋の神隠し」が最高でしょう。
宮崎駿監督の作品限定、ということであれば、
「ルパンⅢ世 カリオストロの城」は何度観ても飽きません。
おそらく、20回以上観ていると思います。

来週の放映は、「耳をすませば」なので、
その時に、また作品について書きたいと思います。

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W杯、五輪と君が代、文部省唱歌「日のまる」

W杯での日本代表で、特に印象的だったのは、
選手たちが肩を組んで、きちんと「君が代」を歌っていた光景でした。
日本の代表として、とても誇らしい姿でした。
(もう一ついえば、北朝鮮の選手たちが、ブラジル戦の時に、
涙を流しながら、国歌を歌っている姿は、すばらしいと思いました。
日本から見ればひどい国なのに、国家への忠節を忘れない!
こういう点は、日本人は見習うべきです。)
反対に、オリンピックでは、金メダルを獲った日本選手が、
君が代」をまったく歌わず、口を閉ざしたまま、
日の丸が掲揚されるのを眺めているだけの光景がよく見られました。
日本の代表として、オリンピックに参加している、ということを忘れた、
残念な光景でした。
他国の金メダリストは、国歌をきちんと歌う選手がほとんどだというのに・・・

国旗を尊重せず、国歌を歌わない原因は、教育現場にあります。
教育現場では、日の丸・君が代は、
「軍国主義」の象徴として、教師たちから非常に忌み嫌われています。
しかし、これこそ、学習指導要領に反する行為です。
学習指導要領は、法的拘束力がありますから、
法令違反を、教師が行っていることになります。
教師自ら、規範を守らないようでは、
児童・生徒に示しがつきません。

小学校学習指導要領 第6節 音楽」では、
1年生で、「日のまる」【(文部省唱歌)高野辰之作詞 岡野貞一作曲】を習うことになっています。
また、指導計画のところでは、
(3) 国歌「君が代」は,いずれの学年においても指導すること。
と明記されています。
しかし、実際、「日のまる」をきちんと教えられた人は、少ないのではないでしょうか。
私は、小1の時、教科書にあったのは知っていましたが、
習った記憶がありません。
また、国歌は、高校卒業の時まで、歌う機会はまったくありませんでした。
小学校学習指導要領 第4章 特別活動」では、
3 入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。
と書かれているにも関わらず、いまだに、これに抵抗したり、
裁判を起こしたりする問題教師がいっぱいいます。
児童の規範意識を低める行為だと思います。
なお、学習指導要領については、文部科学省のHPで一般公開しています。
興味のある方は、ぜひお読みください。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301b.htm

この問題に関しては、大阪府の橋下知事が、一般人の感覚を代表して、
何度もコメントしています。全く同感です。下記は最近のコメントです。
http://www.sponichi.co.jp/society/special/2010politics/KFullNormal20100701029.html
あと、国歌と文部省唱歌「日のまる」に関して、
すぐれた論点のブログ記事を見つけましたので、紹介します。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bef13c9754fe9386a1a583931ac51f1f

「国をよくするために働きたい!」と思う子どもを育てる事こそ、
国家による義務教育の意義なのではないでしょうか?

2010年7月 1日 (木)

K先生の思い出

今朝、新聞のお悔やみ欄を読むと、K先生の記事が載っていました。
以前所属していた教会で、大変お世話になった方です。
私の所属教会が変わっても、変わらぬ態度で接してくれた数少ない人でした。
今年の2月頃、メールをいただいたのが、最後のやり取りでした。
その時点で、ガンであることを告げられていたので、
私は毎朝癒しのために祈っていました。
しかし、神様の「時」なのでしょう。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
(旧約聖書 伝道者の書3:11新改訳)
すばらしい人格者をこの世に送ってくださり、
なおかつ、そういう方と出会わせてくださった、
神様に感謝します。

K先生は、H大学の名誉教授でした。
信仰的には、聖書の奇跡記事について、
科学者として認めないような発言をたまに語っていましたが、
それ以外では、信徒の模範になるような人でした。
私はいろいろな教会でたくさんの信徒と出会ってきましたが、
K先生はその中でも指折りのすばらしい信徒でした。
心から尊敬できる人で、まさに人格者でした。
また、信徒の立場から、
アメリカやヨーロッパの最新の神学を研究し続ける点もすばらしかったです。
そして、若者や子どもに対する接し方は、私にとっても大いに参考になりました。
初めて教会に来る人への接し方についても、とても影響を受けました。
また、信徒が聖職者に頼りすぎるのではなく、
もっと信徒としての役割を果たすべきだ、ということをよく言われていました。

ここであらかじめお断りしておきますが、
私が「K先生」と「先生」づけをするのは、
大学教授だったからではありません。
教会では肩書きは重要ではありません。
実際、他にも大学教授の方を何人も知っていますし、
開業医(院長先生)や会社社長、幼稚園園長とか、
いろいろなお偉方と知り合いになりましたが、
だからといって、「先生」とか「社長」といった肩書きで呼ぶことはありませんでした。
(そういうこの世的な肩書きを一旦おいて、
神様の前に平等である、ということを知ることができるのが、
教会のすばらしいところです。)
しかし、K先生だけは、まさに教会においても、
「先生」と呼ばれるにふさわしい人でした。
私にとっては、当時の所属教会の主任牧師らよりも、
もっと影響を受けた人でした。

K先生からは、特に、教会学校の運営においては、最も影響を受けました。
K先生は、高齢ながらも、教会学校に携わっていました。
私が教会学校に携わるようになってから、会議で何度も意見を交わしました。
どちらかというと、最初は、私はK先生の意見に少し反発していました。
というのも、私は教会学校できちんと教理を教えるべき、
と生まじめに考えていましたが、
K先生は、教理よりもむしろ、遊びを重視すべき、
と主張していたからです。
しかし、K先生の主張の正しさは、教会学校に携わってから何年も経って、
心から実感しました。
遊びを大事にした事により、教会学校に子どもたちが定着したからです。
私が携わり始めた時は、0に近かったような教会学校が、
数年後、私が教会学校校長になった頃には、2ケタ出席が珍しくなくなりました。
もちろん、これは、隣接する幼稚園の協力も大きかったのですが・・・
(ただし、幼稚園の協力は、教会の歴史と等しいくらい、古くからあるものです。)
もし、私が、自説を曲げずに、教理を教えることにこだわり続けていたら、
教会学校は、0どころか、廃校になっていたかもしれません。
「遊び」を通して、福音を伝える、イエス様の姿を垣間見せる・・・
形式的に教理を教えるよりも、もっと大切なことに気付かされました。

K先生は、私がその教会にいる間に、
何度か教会の礼拝や信徒大会で説教されました。
今でも覚えているのは、マタイ5:14による説教です。
あなたがたは世の光である。
山の上にある町は、隠れることができない。」(新共同訳)
ただこれを語るだけではなく、本当にこれを生きている、
そういう人格から発せられる説教は、大変重みがありました。

ここまで書くと、どちらかというと、厳格なイメージを持たれるかもしれませんが、
実際に会って話をすると、ユーモアと知性、教養があふれる実に魅力的な人でした。
私にとって忘れられない人です。
将来、あのような好々爺として、教会の若い人や子ども達に接していきたい、
そんな手本になるような、真のすばらしいクリスチャンでした。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この3つはいつまでも残る。
その中で最も大いなるものは、愛である。
(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ13:13新共同訳)
信仰、希望、愛・・・この御言葉にふさわしい人でした。

主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。
(旧約聖書 詩編116:15新共同訳)

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