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2010年6月の13件の記事

2010年6月30日 (水)

W杯~ありがとう、日本代表!

ワールドカップの決勝トーナメント、日本対パラグアイで、
日本は惜しくも敗れてしまいました。
私はずっと生中継で観戦しながら応援していました。
両チームともほぼ互角の戦いで、延長戦でなんとか決まるかと思いきや、
まさか今大会初のPK戦までもつれ込むとは予想していませんでした。
PK戦で痛恨のミスシュートにより敗退したのは残念でしたが、
PK戦は運みたいなものですから、
ここまでやれば、文句を言いたくなる人は少ないはずです。
私は、負けてもすがすがしささえ覚えました。
全力を尽くしたのですから・・・
むしろ、1次リーグ敗退、3戦全敗みたいな大方の予想を覆して、
16強まで見事に勝ち上がったこと、そして、あと一歩で8強まで行けたこと、
こちらの方を大いに評価すべきですね。
私にとっても、改めて、実際のサッカーのおもしろさを実感しました。
また、日本代表が試合前に肩を組んで君が代を歌う姿は感動的でした。
(某教職員組合のみなさん、日本という国を誇りに思うべきです!)
日本中を勇気づけ、日本サッカー、アジアのサッカーの未来を切り開いた、
日本代表選手のみなさん、ありがとう!

2010年6月29日 (火)

キリスト教の攻め所と盾

愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。
彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。
(旧約聖書 詩篇14:1新改訳)

先日、新聞で、『なぜ、脳は神を創ったのか』なる本の広告が出ていました。
苫米地英人氏の著作です。
広告の詳細は忘れましたが、
「1992年に、神がいないことが科学で証明された」とかの見出しをつけていました。
19世紀以来、宗教は「科学」という言葉に滅法弱いですね。
信仰が揺るぎやすい人にとっては、ショックだったかもしれません。
この手の無神論は、別に今突如起こったものではなく、
キリスト教の2000年の歴史の中で、たえずあったものです。
ニーチェの「神は死んだ」宣言だって、真のキリスト教にとっては、
たいして脅威ではありません。
(実際、神はイエス・キリストとして死なれました!)
共産主義や古代ローマ帝国、江戸時代における凄惨な迫害でさえ、
信仰を完全に抹殺することはできませんでした。
どれほど科学が発達しようとも、真のキリスト教は消えることはありません。

外からの攻撃には強いキリスト教ですが、
やはり弱点があります。
それは、内部からのものです。
腐敗・堕落こそ、キリスト教にとっての真の脅威です。

実際、今、ヨーロッパやアメリカでは、
カトリック教会の権威がひどく失墜しています。
聖職者による性的虐待が次々と明るみに出ています。
(ヨーロッパばかりでなく、日本でも問題ですね。)
また、同性愛を認めるかというのも、大きな問題です。
さらには、各種の異端・カルト化した教会も、
真実のキリスト教を疑わせる要因となります。
内部からのほころびが、キリスト教の大きな弱点です。
真実の神様との生き生きとした関係を保ち続ける以外に、
信仰を守ることはできませんね。
もっといえば、聖霊による信仰こそ、本当に必要なものです。
主よ、助け守り導いてください!

主はわが巌、わがとりで、わが救い主、
身を避けるわが岩、わが神。
わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
(旧約聖書 詩篇18:2新改訳)

神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら。
私はゆるがされることはない。
(旧約聖書 詩篇62:6新改訳)

ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、
悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、
純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。
(新約聖書 コリント人への手紙第一 5:8新改訳)

2010年6月28日 (月)

教会の青年会における「青年」の定義

先日、所属教会で、他の教会の方と話をしました。
話題の一つが、青年会についてでした。
お互いの教会の青年会の事情について、情報交換をしました。
そこで、議論になったのが、
「青年会」の「青年」とは、いったいどこまでの範囲なのか、ということでした。
一般的には、10代後半~20代ぐらいまでの、独身者が、
「青年会」に所属できる範囲ですよね。
若者がたくさんいる教会であれば、その定義で十分だと思います。
しかし、日本の多くの教会では、この定義なら、
誰も該当者なし、ということになってしまうでしょう。
実際、私とその人の教会においても、
その定義では、青年会は成立しません。
10代後半~20代ぐらいというのは、
教会に関心が薄い時期ではないでしょうか。
むしろ多いのは、30代ぐらいの独身男女でしょう。
しかし、組織(受け皿)がなければ、なかなかまとまらないものです。

ここで、私が実際に見聞きした教会での青年会の実態をいくつか紹介しましょう。

・C教会:幼児洗礼を認める教会なので、青年会としてまとまるのは、
幼児洗礼組ばかり。成人になってから洗礼を受けた人は、
仲間に入るのが非常に難しい。
幼児洗礼組は、聖書について無知な割に、プライドだけやたら高く、
成人洗礼の人を見下していた。

・B教会:教会学校が機能していたので、
10代~20代の若者だけで30人以上いた。
ゴスペルグループを組織して、若者に活躍の機会を与えていた。

・L教会:中心は30代。青年会ではなく、「テモテ会」という名称を使っていた。
親睦を深めるような企画を毎月実施していた。

・N教会:教会員の子どもが中心。ほとんどが、たまにしか教会に来ない人ばかり。
大人のお膳立てで集まる程度。

本題に戻りましょう。
青年会の「青年」をどう定義するか。
私としては、各教会の事情に合わせて、
流動的に定義した方がいいと思っています。
10代後半~30代ぐらいまでとして、
原則は独身者だが、場合によっては既婚者・子持ちもOK。
そのように考えています。

ちなみに、商工会議所の「青年部」は、だいたい40歳ぐらいまでだそうです。

昔は、10代後半~20代ぐらいの独身者が青年会、
20代以上で既婚男性は壮年会・ヨセフ会、
同じく既婚女性は婦人会・女性の会・マリア会、
といった分け方で、たいした不満はでなかったはずです。
最近では、こういう分け方ではなく、
住んでいる地区でブロック分けするところも増えています。
(私の所属教会はそうです。)
ただ、こういう機械的な分け方は、結局は高齢者ばかり残って、
若手は加わらない・加わることができない、という機能不全に陥りがちです。

これからの分け方は、ある程度、年齢層を考慮の上、
機械的な分け方(地域や独身・既婚)ではなく、
たとえば趣味などのサークル活動的な要素で、
いろいろ分けていく方が、よほど効果的なのではないか、と私は考えています。
学校のクラブ活動的な要素を取り入れます。
趣味等で、セルグループを組織するわけです。
同じ地域だから、その人と仲良くなりなさい、
既婚者同士だから仲良くしなさい、というよりも、
仲良くなりやすいと思います。

昔よりも、対人関係で傷つく人が多いし、
そのために教会を離れていく人も多いわけです。
(クリスチャン「寿命」は3年とか・・・)
だからこそ、教会としても、受け皿として、
少しでも居心地のよさを提供した方がいいのでは・・・と思います。
「汝の敵を愛せよ」とはほど遠いかもしれませんが、
少なくとも、憎しみや怒りといった余計な摩擦を抑えることはできるはずです。
みなさんはどう考えますか?

2010年6月27日 (日)

礼拝における朗読奉仕

この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、
中に記されたことを守る人たちとは幸いである。
時が迫っているからである。
(新約聖書 ヨハネの黙示録1:3新共同訳)

今日は、教会の礼拝において、夫婦で朗読の機会が与えられました。
妻が第一朗読(旧約聖書)、私が第二朗読(新約聖書・使徒書)でした。
妻の教会での朗読奉仕は、これで2回目です。
妻は先週ずっと、1日1回は朗読の練習をやっていました。
私は、もともと朗読が得意なので、それほど練習はしませんでした。
むしろ、妻の朗読練習のコーチをやっていました。
当日の朗読ですが、妻の朗読はおおむね合格点でした。
私としては、私の朗読がほめられるよりも、ずっとうれしかったです。

さて、私の朗読ですが、マイクがいらないぐらいのはっきりした大きな声で、
あたかも使徒パウロが(ちょうど、ガラテヤ書のところだったので)、
その場で話しているかのように、朗読してみました。
政治の演説みたいに聞こえたかもしれませんが・・・
人によっては、お経のように、淡々と読む方を好むかもしれません。
しかし私は、使徒書簡なら、使徒たちが今、ここで、
その御言葉を語っている、神様が御言葉を通して語りかけている、
というのを忘れたくはありません。
お経のように読むのは、確かに「宗教的」かもしれませんが、
それは、言葉ではなく、「雰囲気」を愛しているに過ぎません。

御言葉がわからないから説教が必要、というのが一般的な考えですが、
私は、本来、聖書は「読めばわかるもの」と考えています。
もし、読んでもわからないなら、翻訳が悪いのか、
それとも、わかろうとしない、何か心の壁があるのかもしれません。
聞いてわかるように読むのが、正しい聖書の朗読方法だと思います。

今、ここで、神様が、朗読者が読む聖書の御言葉を通して語っている・・・
そういう朗読に出会えるとうれしいものです。

ちなみに、旧約聖書の朗読の場合は、
預言書なら使徒書簡と同じでいいですが、
創世記とかサムエル記とかなら、あまり感情をいれず、
少し低めの落ち着いた声で朗読すると効果的です。

聖書朗読の奉仕の機会は実に尊いものです。
機会があれば、何度でもやってみたいものです。

実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
(新約聖書 ローマの信徒への手紙10:17新共同訳)

機会と力を与えてくださった神様に感謝!

2010年6月26日 (土)

幻がなければ・・・(箴言29:18)

幻がなければ民は堕落する。
教えを守る人は幸いである。
(旧約聖書 箴言29:18新共同訳)

以前所属していた教会で、この箇所からの説教を聴いたことがあります。
ここでいう「幻」とは、「幻影」とか「漠然とした夢」ではなく、
いわゆる「ヴィジョン」です。
VIP聖書(現代訳=尾山令仁訳)では、この箇所を、
ヴィジョンが無いと、
人々は自分勝手なことをやりだす。
御言葉を守る人は幸いである。」と訳しています。

ちなみに、他の訳も参考までにあげておきましょう。
(新改訳)
幻がなければ、民はほしいままにふるまう。
しかし律法を守る者は幸いである。

(口語訳)
預言がなければ民はわがままにふるまう、
しかし律法を守る者はさいわいである。

(文語訳)
默示なければ民は放肆(ほしいまま)にす
律法(おきて)を守るものは福(さいわい)なり

(バルバロ訳)
神の示しがないと、民衆は手綱をはずす、
教えを守る人は、幸せである。

バルバロ訳では、この節に、
『神の示し』とは預言者の働きのことである。
『教え』は預言者の教え、または律法のこと。
」という註をつけています。

旧約聖書における「幻」とは、要約して言えば、
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、
あなたの神、主を愛しなさい。」(旧約聖書 申命記6:5新共同訳)
そして、神に従い、神の律法を守ることでした。
しかし、いつの間にか、イスラエルの民は偶像を欲し、
神の教えから離れ、自ら滅びを招きました。
「幻」を見失ってしまい、
手っ取り早い、目に見えるものに頼ってしまったからでしょう。

ところで、現代日本における「幻」とは何でしょうか?
かつての「幻」は、「高度成長」であり、「学歴社会」、「一億総中流」などでした。
今はどうでしょう。
いつのまにか、「幻」がなくなり、
代わって、「○○手当て」などの刹那的な「偶像」がはびこっている・・・
旧約聖書の言葉を引用すると、
そのころ、イスラエルには王がなく、
それぞれ自分の目に正しいことを行っていた。
(旧約聖書 士師記21:25新共同訳)
「イスラエル」に「日本」を、「王」のところに、
「(あるべき)ヴィジョン」を入れてみれば、
ぴったりしています。

選挙向けの「マニフェスト」(羊頭狗肉的・・・)ではなく、
20年後、30年後を見据えたような「幻」を語る政治家が出てきてほしいものです。

2010年6月25日 (金)

書評:松島修著『聖書に隠された成功法則』(サンマーク出版)

タイトルを読んで、あなたならどう思うでしょうか?
トンデモ本か、牧師さんが書いた本か、ビジネス書か・・・

本文を読んでみると、いきなり、
「聖書に隠されてきた4つのタイプ別診断チェックリスト」なるものがあります。
お堅い教派のクリスチャンなら、「占いじゃないの?」と勘繰りたくなります。
人間のタイプを、4つの福音書のシンボルである、
「人」、「獅子」、「雄牛」、「鷲」に分けています。
このシンボルの根拠は、旧約聖書のエゼキエル書1:10です。
教会では伝統的に、
この4つを福音書の記者(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)にあてはめています。
それはさておき、これは動物占いのたぐいではない、と著者もことわっています。
(P.146~147)
私はこの本によると「人」タイプだそうです。

人間のタイプを知ってそれにあった生き方を知る、というのは、
占いの本などでは常套句ですね。
キリスト教関係の本で、こういうのを見たのは、
カトリックのシスター鈴木秀子さんのでしか見たことがありません。
(こちらは、「エニアグラム」というやり方で、人間を9つのタイプに分けています。)
ただ、実際読み進めてみると、人間を4つのタイプに分けるというのは、
実はこの本の中でさして重要なことではないような気がします。
「6000年の時を経て解き明かされた4つのタイプ別診断とは?」
といった、怪しげなキャッチコピーはともかく・・・

この本の重要な主張は、
聖書は「宗教書」ではなく、人生の指南書である、というものです。

本文から引用してみましょう:
聖書は、宗教書ではありません。聖書は人生の指南書であり、普遍的な法則と、私たちの生きる意味と価値について書かれたものです。神への信頼(信仰)について書かれた書物です。宗教活動と、神への信頼は、一見似ていますがまったく異なるものです。
むしろ聖書を読めば、宗教が大きな間違いを犯しやすいことや、宗教活動をすることで成功するわけではないこともよく分かります。宗教は人を束縛するものですが、聖書は人を自由にするものです。宗教が聖書の大事な真理を隠してきたのかもしれません。聖書から宗教のベールをはがした時に真理が光り出します。

(同著P.17から引用)

私はビジネス書の自己啓発本の類が実は結構好きで、たまに読みます。
そういう類の本の要点は、実は聖書に書いてある場合をよく見つけます。
教会が、宗教というベールで、真理を見えなくしているのかもしれない・・・
その点では、上記に引用した意見に同意します。
大きな宝が首につけられているのに、
それに気がつかないまま過ごしているような人みたいですね。
(これは、法華経の中にあるたとえです。)

この本では、「教会に行き、礼拝に参加し、洗礼を受けましょう」
のようなことは言っていません。
広く、普遍的な価値として、聖書の中に示されている真実に気付くことが、
成功の秘訣だ、と結論しているのでは、と思います。
ビジネスパーソン向けの聖書入門にはちょうどいいのでは、と思います。
反面、教会の人にとっては、ちょっと怪しげな本と思えるかも?

私としては、
聖書を「成功法則」という視点でとらえた本書はすばらしいと思います。
また、牧師や司祭が書いたのではなく、
一般の人(投資コンサルタント)が書いたというのも注目に値します。
ビジネスパーソンとして成功したような人が、
どんどんわかりやすい聖書入門、信仰入門の本を書いてほしいものです。

この律法の書をあなたの口から離すことなく、
昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。
そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。
(旧約聖書 ヨシュア記1:8新共同訳)

聖書に隠された成功法則



聖書に隠された成功法則


著者:松島 修




聖書に隠された成功法則

2010年6月24日 (木)

2010年参議院選挙公示日に思う~主要各党の教育政策

今日から、来月7月11日に投票が行われる、参議院選挙が公示されましたね。

争点はいろいろありますが、私にとって関心が高いのは、
消費税を10%にすべきかとか、米軍基地の問題などではなく、
教育の問題です。
新聞やテレビ等で、各党の主張が出ていましたが、
どうも、教育というのは、
どの党にとっても「おまけ」程度にしか扱われていないのは残念です。
日本の未来がかかっているというのに・・・

改めて、WEB上で、
主要各党(民主党、自民党、みんなの党、たちあがれ日本、共産党・・・)の、
教育についてのマニフェストを読んでみました。

一番詳しいのは、共産党ですが、長すぎるので、わかりにくいし、
そもそも教育の分野は共産党には期待していませんので省略します。

民主党は、教育についてはあっさりしすぎています。
教育軽視といえないでしょうか?

自民党は、とても簡潔ながら、きちんと教育について大きくとりあげています。
しかし、もとはといえば、ゆとり教育を推し進めたのは、自民党ですから、
これもあまり期待できませんね・・・
(ただし、教員組合の力が強い民主党よりは、はるかにマシです。)

みんなの党の教育施策は、上記2党よりも具体的で、いいと思います。
ただ、扱いとしては、おまけ程度という印象は否めません。

読みごたえがあるのは、「たちあがれ日本」です。
なかなか良いと思いますが、「みんなの党」と足して2で割るとちょうどいいかも・・・
(詰めの不足が目立ちます。)

あと、その他各党ありますが、興味のある方は、ぜひご自分で調べてみてください。

私が政治家だったら、教育政策としては、次のようなものをあげるでしょう。
①小学校中学年以上において、担任が全教科を教えるのを廃止し、
教科ごとの担任制を導入する。
また、担任と副担任の2名で、学級運営にあたる。
②小・中は今までと同様義務教育とするが、
履修単位制とする。
すなわち、「読み・書き・計算」の最低ラインを上回っていなければ、
進級できないこととする。
成績次第では、留年もアリとする。
その反対に、飛び級もアリとする。
成績優秀な者は、国として手厚く保護する。
③全国学力テストの結果を各学校において開示し、
クラスの成績によって、教師の給与をランク付けする。
あまりに平均点が低いクラスの担任は、指導研修をする。
④教員の学校内での政治活動は一切禁止とする。
発覚した場合は、教員免許没収とする。

ぱっと考えたのは、こんな感じです。

「消費税」や「基地問題」、「政治とカネ」も大切ですが、
教育や医療・福祉の面は、日本の将来にすごく関わることです。
よく考えて、投票したいものですね。

主よ、御もとに身を寄せます(詩篇31:2~6)【自作曲】

昨日の朝、起きてすぐに、なぜか頭に浮かんだ曲です。

今回紹介するのは、詩篇31:2~6への作曲です。
テキストは、新共同訳です。

「(主よ、)恵みの御業によってわたしを助けてください。
(旧約聖書 詩編31:2新共同訳より)
まさに、今そんな心境です。
神様が一番よい方法で何らかの解決の道を開いてくださるでしょう。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

「20100624_psalms031002no01.MID」をダウンロード

「20100624_psalms031002no01.pdf」をダウンロード

2010年6月23日 (水)

ワタクシ、本の味方です

昨日、書店で見た光景です。

大型書店に行ったので、いろいろな場所をうろうろ歩いていたら、
児童書コーナーのところで、3、4歳の男の子が、
売り物の絵本を床に置いて読んでいました。
もし、子ども一人で、そういう事をしていたのなら、
私も「仕方ない子だな~」で済ませていたでしょう。
(たぶん、よその子であっても、注意します。)
しかし、明らかにその子の親がすぐ横に立っていながら、
男の子が床に本を置いて読んでいても、
何も注意しないで、立ち話をしていました。
「何だ、この親は・・・」とあきれてしまいました。
(こういう場合、注意すると親に逆ギレされることが多いので、
あえて通り過ぎました。)
たとえ後でその親がその本を買ったとしても、
少なくともお金を払っていない段階であれば、
お店のものです。
「自分のもの」と「人のもの」を区別することを教えるのは、
最低限のしつけではないでしょうか。

夕方に、STV(札幌テレビ~日本テレビ系列)ニュースを見ていたら、
本を大切にしないということでは、大人はもっとひどいことをやっているのを知りました。
札幌市の中央図書館をはじめ、札幌市の図書館全体で、
4000冊もの本が、破られたり、一部切り取られたりの被害にあっているそうです。
表紙だけ残して、中身がまったくなくなっていたりするものさえありました。
編み物のパターンの一部を切り取っていたり、
新聞のパズルコーナーがまったく切り取られていたり・・・

そういえば、以前、札幌市の中央図書館でいろいろな本を閲覧していたら、
ボールペンで書き込みしているものが何冊もありました。
「書き込みするぐらいなら、自分で買えよ!」と言いたくなります。
公共心のなさを見るたびに、「日本はこれではダメだな・・・」と思いたくなります。

ワタクシ、本の味方です。
書店であっても、図書館であっても、本は大切に扱ってほしいものです。

2010年6月22日 (火)

書評:菅原裕子著『子どもの心のコーチング』(PHP文庫)

「いま1番売れてる子育て文庫!!」という帯がついていました。

新聞広告で『子どもの心のコーチング』が紹介されていたのを観て、
「ぜひ読んでみたい!」と思っていました。

我が家には子どもはいませんが、
教会学校などで子どもと関わる機会が多いので、
児童理解と、親の心理の理解にとても役立ちます。

第1章では、「親の役割は何?」と題して、
親の役割とは子どもを思いのままに動かすのではなく、
子どもの成長をサポートすることだ、と説いています。
重要な概念として、「ヘルプ」と「サポート」を挙げています。
ヘルプ」と「サポート」の違いは、というと、
わかりやすいたとえを使って説明しています(P.31)
飢えている人がいたら、魚を釣ってあげますか?
それとも魚の釣り方を教えますか?」(P.31より)
ヘルプとは、魚を釣ってあげること、
サポートとは、魚の釣り方を教えることです。
ヘルプは親の自己満足、子どもの人生を横取りする行為」(1章の9)と否定され、
代わって、「親から子への最高の贈り物『サポート』」(1章の7)と、
親がサポートすることが求められています。

考えてみれば、子どもは親の所有物ではありません。
その子には、その子にしかできない人生があります。
ペットならいざしらず、子どもは独立していくのが当たり前です。
障害がある場合は別とすれば、
いつまでも子どもを自立させないような子育ては異常です。

2章では、「子どもに教えたい3つの力」として、
愛すること」、「責任」、「人の役に立つ喜び」が挙げられています。
最近では、「愛することだけで、「責任」や、
特に「人の役に立つ喜び」というのは、あまり言われなくなっていますね。

3章は「子どもを幸せにするしつけ」として、
ルール作りなどが論じられています。
4章は、コーチング的な内容です。
5章は、「親の幸せは自分で作る」と題して、
子ども自分の幸せを実現してはならない、と説いています。
どういうことか、というと、
親にも『パラサイト』と呼べる人たちがいます。子どもをヘルプし、子どもの人生に過剰に干渉し、そうすることで自分の人生を充実させようとするのです。このような親は、子どもを自分の自己実現の道具として使います。
(P.217より引用)
最近、こういう親が多いみたいですね。

最後の「おわりに~『ひび割れ壺』の物語」(P.248~)は、
短いながらも含蓄に富むすばらしい話です。
ここだけでも、この本を読む価値があります。

子育て中の人はもちろん、
子どもの教育に携わるすべての人に勧めたい一冊です。

2010年6月21日 (月)

GIANT KILLING ~ サッカーの楽しさを教えてくれたマンガ

今、日本中がW杯一色という感じですね。

私の小学生の時には「キャプテン翼」が大ブームでした。
翼君の「ドライブシュート」に代表されるような、魔球、強烈シュートが、
サッカーのイメージでした。
そのおかげで、学校の体育でサッカーの試合をやれば、
誰もが翼君や日向君モドキになろうとしていました。
しかし、サッカーが得意でない私のようなものにとっては、
サッカーは、ゴールキーパーか守備しかやらせてもらえない、
下手すると審判、いや応援しかできない、
つまらないスポーツというイメージしかありませんでした。
その後Jリーグが出来ても、サッカーのTV中継を観ることは、
まずありませんでした。
(北海道のコンサドーレ札幌が、もっと強かったら、違っていたかもしれません。)

2002年の日韓共同開催W杯は少し観ましたが、
夢中になるようなものではありませんでした。
前回のドイツW杯は、まったく観ていませんでした。
せいぜい、ニュースのスポーツコーナーで結果を観る程度。

そんな私が、今、毎日のようにW杯のTV中継を楽しんでいます。
日本時間で夜中3:30からのはさすがに観ませんが、
20:30、23:00からの試合は全試合ほぼ欠かさず観ています。
日本戦であるかどうかは関係ありません。

変わるきっかけになったのは、今年4月からNHKBS2でアニメ化された、
GIANT KILLING」です。
もっといえば、この作品を中心に、サッカーマンガを紹介していた、
NHKの「MAG・ネット」という番組を観たのがきっかけです。
この番組で、「GIANT KILLING」を知りました。
興味をもって、アニメを観ましたが、
アニメそのものは、それほど面白いとは思いませんでした(失礼!)。
思い切って、原作のマンガを読んでみると、すごく面白い!
今までのサッカー漫画は、プレイヤーが主人公であることが普通でしたが、
これは、監督が主人公です。
また、「キャプテン翼」や、最近なら「イナズマイレブン」のような、
ミラクル(というより、絶対ありえない)シュートは一切ありません。
監督を中心に、サッカーのプレイヤー、フロント、サポーターの姿を描くものです。
鳥瞰図のように、さまざまな人物の思いが交錯する姿を見通す視点が、
実に興味深いと思います。
現在、9巻まで読み進めています。
アニメよりも、原作の方が断然面白いです。
動かないマンガの方が、動きのあるアニメよりも迫力がある、
というのはなんとも不思議なものです。

弱小チームが強いチームを倒す~それが"GIANT KILLING"の意味です。
願わくば、W杯日本チームも、ぜひ"GIANT KILLING"を見せてほしいものですね。
がんばれ、ニッポン!

GIANT KILLING(1) (モーニングKC)



GIANT KILLING(1) (モーニングKC)


著者:ツジトモ




GIANT KILLING(1) (モーニングKC)

GIANT KILLING(9) (モーニングKC)



GIANT KILLING(9) (モーニングKC)


著者:ツジトモ




GIANT KILLING(9) (モーニングKC)

2010年6月20日 (日)

教会学校説教:ヤコブについて

教会学校で、創世記のヤコブについて説教をしました。

ヤコブは、兄のエサウを出し抜いて長子の権利を手に入れたり、
父イサクを欺いて長子の祝福を手に入れたりと、
「抜け目ない」、「ずるがしこい」というイメージがつきまといます。
教会学校ではなかなか扱いにくい人物ですね。

どのようにヤコブについて語ろうか、いろいろ考えました。
最初は、「ヤコブを裁判する」というやり方で語ろうと思いました。
まず、今教会学校でテキストとして使っている
『聖書のおはなし』のヤコブのところを読み、
それから、私が「検察」、子供たちと保護者を「弁護人」にして、
ヤコブを「裁判」してみよう、というものです。
「ヤコブは有罪か無罪か?」
子供たちが、ヤコブのよいところを見つけ、弁護します。
私が聖書を持ち出して、断罪します。
結果は・・・
私の妻を「裁判長」として、「有罪」判決をしますが、
すぐに「神様の恵みにより、無罪!」と言い渡そう、と思っていました。
しかし、この案は、結局ボツにしました。

昨晩寝ながら考えていると、新しいアイデアが浮かびました。
「祝福」という視点で、ヤコブの行動を解き明かし、
最後はヤコブではなく「ヤベツの祈り」(歴代誌上4:10)で
締めくくろう、という考えになりました。

実際に話した展開としては・・・
まず、子供たちに、「長男ですか?長女ですか?」などと聞きます。
次に、一昔前の長子相続と、現代日本での相続について説明しました。
それから、ヤコブの話に入りました。
ヤコブの行いは、道徳的に見て正しいものとはいえませんが、
神様からの祝福を何よりも求める、という点ではよかったことを説明しました。
そして、「祝福」とは何かについて説明し、
続いて、例として、のび太君みたいな人と出来杉君みたいな人を想定し、
前者はダメな子だが親に信頼し、親を愛する人、
後者をなんでもできるが、親を親とも思わない人として、
どちらが、親にとってかわいい子であるか、子供たちに尋ねました。
当然、前者ですね。
同様に、神様にとっても、才能・能力を鼻にかけて神様を認めない人よりも、
神様に信頼する人の方がかわいい、とまとめました。
最後に、祝福をもたらす「ヤベツの祈り」が印刷された紙を配り、
皆で何回かとなえました。

いつもは、話を読んで、2、3の簡単な質問をしながら、
メッセージを語る、というやり方なのですが、
たまにやり方を変えてみました。
子供たちの反応は結構よかったです。
参考になれば幸いです。

2010年6月19日 (土)

ブログ再開します

1ヶ月ぶりにブログを再開します。
今年の1月から5月半ばまでのように、
毎日更新、とはいかないかもしれませんが、
できれば毎日、無理なら2、3日に1回は更新目指して、
また書き続けていこうと思います。

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