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2010年3月 1日 (月)

神様の力の蛇口として(マタイ10:19~20)

引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。
そのときには、言うべきことは教えられる。
実は、話すのはあなたがたではなく、
あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。
(新約聖書 マタイによる福音書10:19~20新共同訳)

信仰生活において、一番すばらしい経験にあげたいことといえば、
みなさんなら何をあげるでしょうか?
祈ってすぐ奇蹟が起こること?
(もちろん、これはすばらしく、得がたい経験ですね。)
いわゆる「聖霊体験」や「神秘体験」?
聖霊様に触れられて、歓喜の涙を滝のように流す時?
それとも・・・

私なら、信仰を求めて教会に来た人に、
イエス様のこと、聖書のこと、教会のことなど、
信仰全般にわたって説明している時をあげたいです。
特に相手が、あれこれ難しい質問をしてくる時はなおさらです。
(ただし、真剣な問いかけに限ります。)
昨日の日曜日、久しぶりに、その恵みをいただく機会がありました。

時々、自分の考えをはるかに越えた智恵が、
すらすらと口からあふれ出てきます。
それは、私の力ではなく、神様の力である、と思わざろうえません。
冒頭に掲げた、マタイ10:19~20を実感できます。
次から次へと、適切なたとえや、
適切な聖書箇所が口からあふれてきます。

確かにいわゆる「聖霊体験」や「神秘体験」は、
ものすごくすばらしいことです。
ただ、それは自分自身の益で終わります。
しかし、「証をする」という「真剣勝負」は違います。
相手の益になり、そして自分自身をも高めます。
(自分自身を高める、というのは、おまけのようなものですが・・・)

大切なのは、そういう機会が与えられたら、
ひるまず、恐れず、知恵を尽くして、
神の恵みを語り続けることです。
そのとき、「私」や「あなた」と言う小さな蛇口から、
神様の力という「生ける水」が、あふれ流れてきます。

信仰において、
人を納得・説得できるのは、論理ではなく、神様の力です。
わたしの言葉もわたしの宣教も、
知恵にあふれた言葉によらず、
”霊”(=聖霊)と力の証明によるものでした。
それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、
神の力によって信じるようになるためでした。
(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ2:4~5新共同訳)
神様に感謝します!

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