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2010年2月の31件の記事

2010年2月28日 (日)

映画『時をかける少女』(アニメ版)

2月27日に、NHKBShiで、
アニメ版の映画『時をかける少女』が放映されていました。
私は劇場公開時に観ましたし、その後の数回のテレビ放映(民放)でも観ました。
今回でたぶん4、5回目になると思います。
アニメ映画としては、好きなものの一つです。

ただ、民放のテレビ放映時は、CMが入りますし、
何より納得できなかったのは、
エンディングが適当にカットされてしまっていたことでした。
今回、「さすがNHK!」と思ったのは、DVDなどで観るとおり、
CMは入らないし、エンディングも省略なしだったことでした。

何度も観ているので、セリフだけでも、
だいたいのシーンは想像できるほどですが、
やはりこの作品は何度観ても、すばらしいと思います。
青春そのもの、とでもいうか・・・
青春の日々は、ともすると、時間を浪費していることが多いですね。
主人公は、せっかく時間を跳躍する能力(タイムリープ)を得たのに、
実にくだらないことに使ってしまいます(結果的に、それでよかったのですが・・・)。
プリンを何度も食べたり、カラオケを何度も繰り返したり、
そのレベルならともかく、
恋愛においても、愛の告白を「無かったことに」してしまうなど、
「もったいない」ほどに、能力の浪費を繰り返します。

映画の中では、同じようなシーンが何度も使われます。
それだからこそ、何気ないごく日常的な場面に過ぎないものが、
「輝き」を放っています。
(本来、時は元に戻らないからこそ、一瞬一瞬が大切になるのです。
「一期一会」の精神ですね。)

この映画で一番好きなのは、といえば、エンディングの曲です。
奥華子さんが歌う『♪ガーネット』は名曲ですね。
実にさわやかで、この映画の中によく出てくる、
夏の澄み渡る青空のイメージがあります。
劇場でこの作品を観た後、思わずCDを買ってしまったほどでした。
(今も手元にありますよ。)

時をかける少女 時をかける少女

販売元:楽天ブックス
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ガーネット



ガーネット


アーティスト:奥華子




ガーネット

なお、来月中旬から、
『時をかける少女』の実写版映画(なんと映画化4回目!)が公開されるそうです。
主演は、アニメで主人公を演じた、仲 里依紗さんです。
映画の公式HPは、以下のとおりです。
http://tokikake.jp/indexp.html
なお、映画の公開にあたって、原作者の筒井康孝氏のコメントが秀逸でした。
『筒井は「『時をかける少女』は僕にとっては『金を稼ぐ少女』。
映画化されるたびに本が売れますから」』
このコメントは、以下から引用しました。
http://movies.jp.msn.com/news/article.aspx?articleid=236314

2010年2月27日 (土)

キム・ヨナ選手の金メダル

ついに女子フィギュアスケートの最終決着がつきましたね。
私は愛国者ですが、今回のフリーの演技では、
キム・ヨナ選手の圧倒的で素晴らしい演技に脱帽しました。
(浅田選手もよく健闘しました。銀メダルおめでとうございます!)
ジャンプなどの技術的なことについては専門家ではないのでわかりませんが、
「音楽」という観点を強調して、分析したいと思います。

浅田選手は、選曲の時点で、負けが決まっていた感があります。
ラフマニノフの「鐘」(元々はピアノ曲)のオーケストラ版。
聴いているうちに、重苦しい圧迫感があります。
浅田選手のイメージ(かわいらしい、さわやか・・・)とミスマッチでした。
たとえば、
チャイコフスキーの「くるみ割り人形」の「花のワルツ」のような曲を使って、
「子供っぽい」、「かわいらしい」イメージをもっと活かせばよかったのでは、
と思いました。
無理に「大人びた」演技を「させられている」という印象をぬぐえませんでした。
音楽をきちんと「表現する」、「見せる=魅せる」まで至らなかったようです。
いつもの「真央ちゃんスマイル」とはほど遠い、すごい形相もマイナスでした。
見ていてこちらまで「苦しい」感じがしました。
あと、ジャンプの羅列のような感があり、この曲で何を表現したいのかが、
あまり伝わってきませんでした。

対して、キム・ヨナ選手は、選曲がすばらしかったです。
カナダ・アメリカを極めて意識した、ガーシュウィンのピアノ協奏曲ヘ調。
(今後、「名曲」として、もっと多くの人に聴かれる曲となるでしょうか・・・)
軽やかで、リズミカルで、叙情的なところと激しいところが入り混じっています。
音楽をすごく「表現している」のが伝わりました。
華やかで、洗練された印象を与えました。
フィギュアスケートは、「スポーツ」であると同時に、
「芸術」でもあり、「エンターテイメント」でもあります。
ミスをしない、ジャンプを決めるのは当然ですが、
それ以上に、観客を楽しませる、「見せる=魅せる」要素はとても重要です。
キム・ヨナ選手の腕のしなやかさや、全体の体の動きは、
きわめて女性的で、優雅でした。
ジャンプの前の部分も、単なるつなぎではなく、見せ場がありました。
そして、全身で「演技する」よろこびを発散させていました。

私が見たところ、今回のフリーの演技に限って言えば、
すばらしかったのは、
1.キム・ヨナ選手
2.長洲未来選手
3.ラウラ・レピスト選手
4.浅田真央選手
5.安藤美姫選手
・・・・の順でした。
(ただし、ラウラ・レピスト選手は、ジャンプ技術は今ひとつでした。)

アメリカの長洲未来選手の演技は、実にかわいらしく、すばらしかったです。
今回はメダルに届きませんでしたが、
将来が実に有望な選手だと思いました。
音楽を活かした演技と、さわやかな笑顔が好印象でした。

浅田選手はまた次回の五輪に出場できるはずです。
さらに研鑽を積んで、次回は金メダルをとってほしいと期待しています。

2010年2月26日 (金)

冬期オリンピックのスキー競技

バンクーバーオリンピックを見ていると、
冬のスポーツは、かなり危険なものが多いのだなぁ・・・
と思わされます。
昨日見ていたのは、スキー・フリースタイルの「エアリアル」競技。
変形したU字型のジャンプ台を滑降して、空中に放り出される間、
いくつかの技を披露します。
テレビで見る限り、落下するときは、
あたかも小さい子が人形を放り投げた時のようにも見えます。
ジャンプする高さは、確か17mとか・・・
(正確でないかもしれません。あしからず・・・)
着地時の衝撃は、相当なものなのではないでしょうか?
中国の選手が、最高難易度の技に挑戦して、
残念ながら着地で失敗しましたが、
積極的な攻めの姿はすばらしいと思いました。
(余談ですが、昨日放送の「エンゼルバンク」というドラマ中で、
次のようなセリフがありました。
「成功の反対は何ですか?」という主人公からの問いに、
「失敗、でしょ?」と答えると、
「いいえ、何もしないことです。」と主人公が答えました。
何もしないで、「座して待つ」よりも、
「失敗してもいいから、あえて挑戦する」という姿勢の方がすばらしいですね。)

スキーのジャンプ競技。
これも怖い競技ですね。
私は「さっぽろ雪まつり」の際、
札幌・大倉山のジャンプ台の途中から、
トラックのタイヤチューブで滑り降りる、
というのに参加したことがあります。
ジャンプ台の途中ですから、50mぐらいの高さでしょうか。
そこから滑り降りるだけでも、
「二度とゴメンだ!」と思ったほどです。
まして、ジャンプ台の一番上からのところから、
スキー板で飛び降りるのは、
一般人からすると、狂気の沙汰です。
見るたびに、「よくあんなことできるなぁ・・・」と感心します。

スキー・モーグルにしても、
あるいはスーパー大回転などの滑降競技にしても、
なかなか危険な競技だらけなのだなぁ・・・とため息です。

エアリアルの写真が出ているサイトを紹介します。
http://homepage1.nifty.com/goh/sakusaku/1_1.htm

2010年2月25日 (木)

「最近の若者は・・・」は本当か?

最近の若者は○○だ・・・」という言葉をよく耳にします。
「草食系」とか「キレる」とか・・・
実は、「最近の若者は・・・」の言い草は、別に「最近」始まったものではありません。
確かな引用ではありませんが、ピラミッドを建設していた古代エジプトとか、
古代ギリシャのプラトンの時代でさえ、既にそういう言い方がされていたとか・・・

昨日、書店で、
小学館刊行の「SAPIO」2010年3月10日号をふと立ち読みしました。
面白い記事がありました。
後藤和智氏による
我田引水の根拠なき「若者論」をバラ撒く「元若者」たちの偽善
というものです。
http://www.zassi.net/mag_index.php?id=55
記事の要旨は、
「宮台真司氏や香山リカ氏のように、
全体からすると極めて少数で例外的な凶悪事件などを引き合いに、
今の若者は○○だ』と決め付けるような言い方をするのは、
社会全体にとって悪影響を及ぼしている」というようなものだったと記憶しています。
(雑誌を買ったわけでないので、正確でなかったらゴメンナサイ。)
ちなみに、後藤和智氏のブログは以下のとおりです。
新・後藤和智事務所~若者報道から見た日本
http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/
ブログをざっと見た限り、私は氏の意見に必ずしも全部賛成、
というわけではありません。あしからず・・・

最近の具体的な例を挙げましょう。
たとえば、スノーボードの国母選手。
服装問題でさまざまなバッシングを受けましたね(当然ですが・・・)。
ただ、国母選手たった一人をもって、
今の若者は礼儀を知らない」などと決め付けるのは、
いかがなものでしょうか?
「若者」には、同じ年齢くらいの人およそ何百万人かが含まれます。
その人たち「皆」が、彼のような人「ばかり」でしょうか?
そんなことはありえませんね。

ともするとマスコミは、悲観的な情報をタレ流しにしています。
そして、もっとまずいことは、
私達がそれらの情報の真偽をよく確かめずに、鵜呑みにしてしまうことです。
もっと客観的に、
かなりの人数を対象にして作られた統計資料をもとにするなら別ですが、
ある一部をもって、「今の若者は・・・」と断言するのはよくないですね。

ちなみに、こういう「今の若者は・・・」と単なる主観に過ぎないものを、
根拠もなく論じるのを、「俗流若者論」というそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%97%E6%B5%81%E8%8B%A5%E8%80%85%E8%AB%96
ごく一部の若者の傾向を、若者全体の問題に誇張して、大袈裟かつ興味本位に論じている事が殆どである。要は現代の若者を、日ごろの不平不満や鬱憤、苛立ちの単なる捌け口のターゲットの対象として攻撃しているに過ぎないといえる。」(WIKIより引用)

あと、「最近の若者は本を読まない」のは本当でしょうか?
本の質はともかく、実際には、「若者=青少年」は、
昔以上にたくさん本を読んでいる、という統計資料があります。
「今の若者はキレやすい」も本当でしょうか?
むしろ、全体的に見て怖いのは、
若者よりも、60歳以上の高齢者かもしれません。
高齢者の犯罪率は、1980年頃は1%だったのが、
2000年頃には、9%にものぼっている、という統計資料もあります。
http://news.livedoor.com/article/detail/4510394/
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2007/06/post_1e56.html
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2008/04/post_1fd4.html

私達はともすると、「よい知らせ」よりも「悪い知らせ」を信じがちです。
「今の若者は・・・」みたいのが口癖になったら、
精神的に年老いた証拠といえるかもしれませんね。
また、「日本はひどい国だ」のたぐい、
教員組合、共産党、キリスト教(政治運動主体のところ)の3Kのデマも、
信じるに価しませんね。(ついでに朝日新聞も?)
(特にキリスト教は、「赦し」を説く一方で、ちゃっかり過去の事を赦していません。
かえって、憎悪をあおっています。
これも正確に言えば、「すべての」キリスト教会がそうである、
というわけではありません。あしからず。)

私達が、若い世代を認め、励まし、新しい時代を築けるように、
もっと希望や夢を語る必要があります。
今の若者は・・・」という根拠のない「偽り」に、
当の若者たちが囚われ、
自信をなくし、やる気を失わせてはいないでしょうか?

あなたの未来には希望がある、と主は言われる。
(旧約聖書 エレミヤ書31:17新共同訳)

2010年2月24日 (水)

バンクーバーオリンピック~フィギュア・アイスダンス

バンクーバーオリンピックもそろそろ大詰め。
いよいよ今日からは注目のフィギュア女子シングルが始まりますね。

ところで、テレビ中継に関して言えば、
日本人選手でメダルが取れそうな種目は注目を集め、
民放でも生中継されますが、
日本人選手が弱かったり、出場していないと、
途端に注目は下がりますね。
そういう中で、NHKBS1はアイスホッケーなどのように、
日本人選手が登場していない競技をも、きちんと放送してくれるので、
ありがたいです。

さて、2月23日の注目は、フィギュア・アイスダンスの最終日、
フリーの演技でした。
(アイスダンスという種目は、派手なリフティングやジャンプなどはありませんが、
フィギュア・ペアとはまた違った魅力があります。
たとえば、衣装のセンスや音楽の選曲など。
競技時に歌付の曲を使えることは、シングルやペアとは異なります。)
金メダルをとったカナダのT・バーチュー / S・モイヤー組の演技は、
とても美しく、芸術的でした。
マーラーの交響曲第5番の第4楽章「アダージェット」をバックに、
優雅で華麗な舞が繰り広げられました。
さながら氷上のバレエのようでした。
2位のアメリカのM・デービス / C・ホワイト組もすばらしかったですが、
さすがに金メダルの演技は格が違いました。
スポーツ大会であることを忘れさせるような、夢の時間でした・・・

2010年2月23日 (火)

襟裳岬は「無一物中無尽蔵」

「♪襟裳の 春は 何も ない 春です~
森進一さんの大ヒット曲『襟裳岬」の有名な一節ですね。
(作詞:岡本おさみ/作曲:吉田拓郎/編曲:馬飼野俊一)
幼少の時に、この歌を聞き、その部分だけ覚えていました。
(正直に言うと、
「えりも みさきは なにも ない とこです」と覚えていましたw(゚o゚)w
えりも町の皆様、ゴメンナサイ!)
歌に惹かれて、いつか機会があれば、行ってみたいとは思っていましたが、
なにぶん、すごく遠いところなので、今まで行ったことはありませんでした。
(札幌から車で、高速道路を使っても、4時間ぐらいかかります。
これなら、飛行機で新千歳空港から、台湾まで行けますよね・・・)

このたび、仕事で、えりも町と、襟裳岬についに行ってきました。
いつもですとこのブログは写真が少ないのですが、
今回は、「サービス、サービス!」ということで・・・


1枚目は、宿泊したファームインの前庭から撮った、
襟裳岬方向の写真です。
荒涼とした丘は、E・ブロンテの『嵐が丘』の舞台を彷彿とさせました。
風が強すぎて、大きな木は育たないそうです。
写真で生えている木は、柏の木、とのことです。

20100222_erimo_no01


2枚目は、放牧されている短角牛の群れです。

20100222_erimo_no02


3枚目は、宿泊したところです。貸切状態で、なかなかよかったですよ。

20100222_erimo_no03


4枚目は、襟裳岬の写真です。展望台から撮りました。
襟裳岬はものすごく風が強いところです。
(年間290日くらい、風速10M以上の日があるそうです。)

20100222_erimo_no04


5枚目は、襟裳岬の海岸まで降りていって、撮ったものです。
(夏場は昆布干しをやっているので、立ち入り禁止です。)

20100222_erimo_no05


さて、冒頭の歌詞に戻りましょう。
「♪襟裳の 春は 何も ない 春です~
この歌によって、
「襟裳岬=なにもないところ」みたいなイメージが形成されたようですが、
この荒涼として、「なにもない」という風景は、
否定的なものではなく、むしろ、「無一物中無尽蔵」というべきものでしょう。

「無一物中無尽蔵」は禅の言葉です。
これに関して、何かいいサイト・ブログがないかな、と探してみました。
以下のが、禅にあまり興味がない人でも、
この言葉の要点をついているかな、と思いましたので紹介します。
http://blog.livedoor.jp/iwasakiyasushi/archives/51509423.html

ちなみに余談ですが、えりも町では、大ピンチがありました。
砂利道の先に、雪が積もっていました。
突っ切れると思ったところ、見事に埋まってしまいました。
雪の深さは、50センチ以上あったと思います。
(今年の1月初めに、大雪があったそうです。)
助けを求めて、通りすがりの車を呼び止めたところ、
なんと運よく(神様のお計らいです!)、
パジェロにウインチがついている車が止まってくれました。
ウインチに引っ張られて、すぐさま雪の中を脱出することができました。
まさに、「地獄に仏」ならぬ「地獄にキリスト」とでも言うべきか・・・
助けてくださった方と、そして神様に感謝します!

主にのみ、わたしは望みをおいていた。
主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。
滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ
わたしの足を岩の上に立たせ
しっかりと歩ませ
わたしの口に新しい歌を
わたしたちの神への賛美を授けてくださった。
人はこぞって主を仰ぎ見
主を畏れ敬い、主に依り頼む。
いかに幸いなことか、主に信頼をおく人。
(旧約聖書 詩編40:2~5新共同訳)

感謝、感謝!

2010年2月22日 (月)

迷える小羊・迷えぬ小羊・迷わぬ小羊

ある日の教会学校でのエピソード。
私は教会学校で、「まいごのこひつじ」(参考:ルカ15:3~7)というお話をし、
いくつかの質問を子供達にしました。
質問の2つ目は、「迷子になったことはありますか?」というものでした。
この質問の意図は、
「自分が迷子にになったとき、親や祖父母(一緒にいる大人)が、
必死になって、自分の事を探してくれたよね?
そのように、神様も、私達が迷ったままで捨て置くことはない。」
というものでした。
私の質問に応えて、小学校低学年の子と中学年の子、
高学年の子まで手を上げて、
素直に、「迷子になったことがある」と答えてくれました。
ただ、興味深い意見を述べてくれた子がいました。
小学校高学年の子です。
「迷子になったことはない。」
私は少し驚いて、「すごいなぁ、でもどうして?」と問い返すと、
その子は、「親と離れて行動したことがないから。」と答えました。
この発言は、後でいろいろ考えさせれました。

子供は概して好奇心の赴くまま、親(保護者)が目を離したすきに、
いつの間にかとんでもない所に行ってしまうものです。
そして、ふと気がつくと、親がいる場所を見失い、
しまいに不安に襲われ、泣き叫ぶわけです。
人生の通過地点みたいなものですね。
(かくいう私も、迷子経験者です・・・)

ただ、今や、子供にGPS機能付の携帯電話を持たせたりするなど、
なかなか「迷子になれない」場合が多いのかもしれません。
(安全対策という意味では、親はすばらしい配慮をしていると言えますが・・・)
昔は、聖職者から見て、信徒は「迷える小羊」でしたが、
今や、「迷えぬ小羊」も多いのかなぁ・・・な~んて思ってしまいました。
(一番いいのは、
羊はその声を知っているので、ついて行く」(ヨハネ10:4新共同訳)、
そういう「迷わぬ小羊」(かつて迷っていても、今は迷わない)でしょうね。)
(親が子供を心配して、防犯対策を講じるのは、今の時代、必要だと思いますが、
何事も、やりすぎは禁物ですね。)
迷子になる、というのは確かに現象的には「悪い事」ですし、
場合によっては、命が奪われたり、重度の怪我をするかもしれません。
ただ、「良い子」すぎるのも、どうなのかな、とも考えます。

芋虫がサナギになり、蝶として羽ばたこうとしているときに、
ある人が、「親切心」から、サナギをとってあげたそうです。
(親切心か、単なる興味本位か、忘れましたが・・・)
すると、その蝶は、飛ぶことができなかったそうです。

「かわいい子には旅させろ」とことわざにあるとおり、
ある程度の困難や危険は、子供に経験させておいたほうがいいのかもしれません。
みなさんは、どう考えますか?

ところで、私の所属教会の教会学校では、今年から、
小塩 節&小塩 トシ子著『聖書のおはなし』(キリスト教視聴覚センター)を、
教会学校テキストとして使うことに決めました。
冒頭の「まいごのこひつじ」はその中の一編です。
イラストは、メルヘン画家として知られる永田 もえさんです。
(「もえ」さんの漢字は、「くさかんむり」に「朋」)
とても絵がかわいらしいです。
聖書の話が小さい子どもにもわかりやすく、適切です。
ただこれを読んで終わりにするのではなく、
それらの話から、2、3の質問をすると効果的だと考えています。

聖書のおはなし



聖書のおはなし


著者:小塩 節,小塩 トシ子




聖書のおはなし

2010年2月21日 (日)

クリスチャンは怒っていいのか?

いつも読んでいるカール・ヒルティの名著、
眠られぬ夜のために 第二部』(岩波文庫)の2月20日のところは、
このような文章でした。
全文引用します。なお、訳者による訳注、傍点は省略します。


二月二十日
 「あなたがたの柔和を、みんなの人に示しなさい。」これは、多くの試練を経て、最後に浄化され気高くされたキリストの大使徒パウロが、その弟子たちに与えた特別に美しい言葉である。われわれは、他人に親切をつくすどんな機会をものがすまいと、生涯に一度は、固く決心しなければならない、たとえそれがただ一つのやさしい言葉や眼差しであっても。わたしたちは親切と金銭とを同一視することにあまりにも慣れすぎている。
 このことと、決して心に怒りを発すまいという、その反対の決意とは、いささかちがったものである。こういう決意は全く無益である。そうするためには、人間の怒りやすい天性が根本からすっかり変化しなければならない。しかしそれは、ただ神の恩寵のみが人の心のなかで成就しうることである。また、怒りの一種、つまり悪に対する嫌悪と手きびしい抗議―――たとえば商人と神の宮を汚す者とに対する聖殿のイエスを見よ―――、こういう怒りは、どんな時にも決して失ってはならない。ただ善い決意とか善い生活規則を守ってさえいれば、いつかあなた自身もこのような境地に達しうるだろう、などと信じてはならない。」


この文章の中心は、後半の、怒りに関するところですね。
「怒り」、「怒る」という言葉は、聖書中に結構出てきます。
そのうち、新約聖書で注目すべきは、次の3ヶ所です。
①「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。
日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。
(エフェソの信徒への手紙4:26新共同訳)
②「人の怒りは神の義を実現しないからです。
(ヤコブの手紙1:20新共同訳)
「肉の業は明らかです。それは、・・・(中略)・・・怒り・・・です。(以下省略)」
(ガラテヤの信徒への手紙5:19~21新共同訳)

「怒る」、「怒り」に類する言葉として、
「兄弟に腹を立てる」(マタイ5:22)、「兄弟を憎む」(Ⅰヨハネ3:15)などがあります。
これらは明らかに「罪」です。

では、「怒る」ことは、即「罪」なのでしょうか?
私はそうは思いません。
カール・ヒルティが書いているとおり、
主イエスが発したような「正義の怒り、聖なる怒り」というものがあります。
(現代で言えば、
幼児虐待とか民族大虐殺に対する怒り・激しい嫌悪感などがそれでしょう。)
また、現実問題、人間は喜怒哀楽という感情があります。
不当で理不尽な扱いを受ければ、誰でも怒り心頭になるはずです。
クリスチャンになる、とは、座禅を究めて不動心を得る、などというのとは違います。
何も感じなくなる、何でもOK、という仏教風の「涅槃」ではなく、
人間としての心を保ちながら、たとえ怒ることがあっても、
それにとらわれない心こそ、価値あるものです。
そうい意味で、新約聖書の中の上記①のような御言葉は、
「安全弁」のような役目を果たしていますね。
(怒ったら、即「罪」だ、と自分を責めなくてもいいと思います。
ただし、ずっと「怒り続けている」ならば、それは罪です。)
とはいえ、これは、単に努力・修養によってではなく
(人によっては、強い意志の力でそれは可能かもしれませんが・・・)、
神様の御力、もっといえば、聖霊様による心の一新が必要です。
聖霊様の愛に満たされる時、(一般的な)怒りなどの罪は打ち破られ、
その悪しき支配から解放されます。
従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、
罪に定められることはありません。
キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、
罪と死との法則からあなたを解放したからです。
(新約聖書 ローマの信徒への手紙8:1~2新共同訳)

何百トンの鉄の塊は、水面に浮かぶことも、空中に浮かぶこともできません。
重力の法則に支配され、沈むだけです。
しかし、浮力や揚力という力(その他いろいろありますが)により、
別な法則に支配されるとき、本来浮かぶはずのないもの、
飛ぶことがないものが、見事に浮かび、飛びます。
人間も同じです。
人間的な法則から、神の法則に支配されるとき、
奇蹟が起こります。

2010年2月20日 (土)

フィギュアスケートの王子様たち

妻は『ドラえもん』が好きなので、毎回一緒に見ています。
(ちなみに私は、『ケロロ軍曹』が一番好きなアニメなので、
毎回必ず見ています。)
2月19日の放送では、のび太のママが、
冬のオリンピックに夢中になっている光景が出てきました。
(カーリングのブラシみたいな「道具」が出てきました。)

私の妻も、バンクーバーオリンピックに夢中で、
朝から晩までずっとテレビに釘付けです。
(「なんだか、のび太ママに似ているなぁ~」なんて言ったら、怒られました・・・)
特に妻が好きなのは、フィギュアスケートです。
(日本の高橋選手がついに銅メダルをとりましたね!おめでとうございます!!!
リスクを犯しても、攻めの姿勢で4回転ジャンプに挑戦した姿はすばらしかったです。)
イケメンの「王子様たち」に夢中のようでした。
上位の選手ばかりではなく、下位の選手までよく知っていたのには驚きでした。
(確かに、カッコイイ選手が多かったですね。)

アブナイ、アブナイ・・・
ということで、
「『王子様たち』に夢中になってもいいケド、ボクが君の『王様』ダヨ。」
と冗談で妻に言いました。
もちろん、私にとって、妻は我が家の「女王様」デス・・・
敬礼!

高橋選手の銅メダルについての関連記事です。
http://news.cocolog-nifty.com/cs/article/detail/sports-201002191744/1.htm

2010年2月19日 (金)

フジツボ熱中人

先日、暇つぶしにテレビを見ていると、
NHKの「熱中時間」という番組が放映されていました。
この番組は過去何度も見たことがあります。
なかなか面白い(というよりは「妙な」)趣味の持ち主が数多く登場してきます。
その時の放映は、「フジツボ熱中人」という題でした。
倉谷うららさん、というフジツボの研究家が紹介されていました。

フジツボ、というと、海の岩場などにびっしりとへばりついている、
どちらかいうと、少し気持ちの悪い「貝」ですね。
(「貝」については、後で説明します。)
「どうして、フジツボなんかに熱中するのだろう?」と疑問でしたが、
わずか15分の放送を見て、考えが変わりました。

先ほど、フジツボを「貝」と書きましたが、実はこれは誤解なのです。
フジツボは、「貝」の仲間ではなく、エビやカニなどの甲殻類の一種です。
フジツボの、てっぺんにある穴から、蔓脚(まんきゃく)と呼ばれる「脚」が出て、
プランクトンなどを捕獲しています。
番組では、穴から蔓脚が出てくる様子が撮影されていました。
ちょうど、「おいで、おいで」と手招きするような様子が神秘的でした。

「フジツボ熱中人」の倉谷うららさんにとって、フジツボは、
美しい宝石の原石のような存在、だそうです。
自ら、フジツボをアクセサリーに加工したりして、身につけていました。
短い時間で、彼女の「フジツボ愛」がひしひしと伝わってきました。

一般的な人にとって、フジツボは嫌われ者、気持ちの悪いものですが、
倉谷うららさんにとっては、「美しい、偉大な」ものに見える・・・
船や岩にへばりついたフジツボを採取して、
汚れを落とし、磨くと、確かに美しいものに見えてきます。
彼女の見方を少し共有することができました。

倉谷うららさんは、宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』の主人公、
ナウシカのモデルになった、『堤中納言物語』の一編、
『虫愛づる姫君』を髣髴とさせるところがあります。
(結構、容姿端麗な方ですよ。)

ところで、神様にとっての人間は、
まさに倉谷うららさんにとってのフジツボのようなものではないでしょうか?
月も、星も、あなた(=神様)が配置なさったもの。
そのあなたが御心に留めてくださるとは
   人間とは何ものなのでしょう。」(旧約聖書 詩編8:4~5新共同訳)
わたしの妹、花嫁よ
あなたはわたしの心をときめかす。
あなたのひと目も、首飾りのひとつの玉も
それだけで、わたしの心をときめかす。」(旧約聖書 雅歌4:9新共同訳)

先ほど、倉谷うららさんが、フジツボの汚れを落とし、きれいにして、
宝飾品にしていることに触れましたが、
旧約聖書において、ちょうど同じような表現のところがあります。
神様が「人」(直接には「エルサレム」)を洗い、汚れを落とし、
美しくする、という記事です。
わたし(=神様)はお前を水で洗い、血を洗い落とし、油を塗った。
そして、美しく織った服を着せ、上質の革靴を履かせ、
亜麻布を頭にかぶらせ、絹の衣を掛けてやった。(中略)
こうしてお前は非常に美しくなり、女王のようになった。
(旧約聖書 エゼキエル書16:9~10、13新共同訳)

今、自分で自分を「価値のない者」と考えていませんか?
大切なのは、神様がわたしを、あなたを、どう見てくださっているかです。
わたし(=神様)の目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。」(旧約聖書 イザヤ書43:4新改訳)

番組HPは以下のとおりです。
http://www.nhk.or.jp/nj-blog/300/35612.html
倉谷うららさんの著作が岩波書店から出ています。
『フジツボ 魅惑の足まねき』というタイトルです。
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0074990/top.html
(どちらにも、倉谷うららさんの写真が掲載されています。)

(以下は、読んでいないので無印ですが、興味ある方はぜひどうぞ。)
フジツボ―魅惑の足まねき (岩波科学ライブラリー) [単行本]


堤中納言物語』の一編、『虫愛づる姫君』についてのサイトです。
虫愛づる姫君ファンクラブ
http://kakur.eek.jp/others/bunm001.html
綺羅拾遺
(『虫愛づる姫君』の現代語訳が読めます。)
http://www.h4.dion.ne.jp/~kirasyui/

鶴居・伊藤タンチョウサンクチュアリ

仕事で、道東方面に行ってきました。
弟子屈町から釧路市へ戻る途中、鶴居村に立ち寄る用事があり、
そのついでに、「鶴居・伊藤サンクチュアリ」に初めて行きました。
鶴居村には何十回も行ったことがありますが、
丹頂鶴を見る、といえば、道道53号線沿いの、鶴見台からばかりでした。
鶴居・伊藤サンクチュアリの名は知ってはいましたが、
行ったことはありませんでした。

当日は、雪が舞い降りる中、たくさんの丹頂鶴が、
そこに集っていました。
びっくりしたのは、丹頂鶴と一緒に、
エゾシカが数頭いたことでした。
丹頂鶴の優雅な姿は、何度見ても飽きません。
大変感動しました。

丹頂鶴を撮影するために、たくさんのカメラマンがいました。
ほとんどの人が、大きな望遠レンズ付のカメラを手にしていました。
ケイタイで撮っているのは、せいぜい私ぐらい・・・
下の写真は、私のケイタイで撮ったものです。
かなり拡大すると、エゾシカがいるのも見えるはずです。


20100219turuimura_tancho

ただ、これだとあまりよく見えませんよね。
「鶴居・伊藤サンクチュアリ」等で撮影された、丹頂鶴の優雅な姿を、
もっと美しい写真で楽しんでいただきたいと思い、
いくつかのサイトを紹介します。

・日本野鳥の会 鶴居・伊藤サンクチュアリ
http://www.wbsj.org/sanctuary/tsurui/index.html

・鶴居村HP~タンチョウ飛来状況
(冬に集まるタンチョウの様子を動画で楽しめます。)
http://www.vill.tsurui.lg.jp/tsurui/PD_Cont.nsf/0/A5A56446C8E17E434925764F004017A5?OpenDocument

・純白の瞬間~タンチョウギャラリー
http://www15.ocn.ne.jp/~tancho/

・保護区パトロール日記~強風のあと(2010年2月7日)
(丹頂鶴、エゾシカ、カメラマンの姿が撮影されています。)
http://yacho-hogoku.seesaa.net/upload/detail/image/B6AFC9F7A4CEA4A2A4C8-thumbnail2.jpg.html

写真や動画もいいですが、やはりこの目で見るのは格別ですよ。
次々と飛来する丹頂鶴、鳴き声、ダンス・・・
ぜひまた見てみたいものです。

2010年2月18日 (木)

信仰のアスリートとして~フィリピ3章から【自作曲】

今は冬のオリンピック真っ最中ですね。
連日の熱戦は楽しみです。

ところで、
新約聖書の中では、
明らかに古代オリンピック競技を意識した聖句がいくつかあります。
代表例を3つあげます。

なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、
目標を目指してひたすら走ることです。
(新約聖書 フィリピの信徒への手紙3:13~14新共同訳)

あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、
賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
競技をする人は皆、すべてに節制します。
彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、
わたしたちは朽ちない冠を得るために節制するのです。
(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ9:24~25新共同訳)

こういうわけで、わたしたちもまた、
このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、
すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、
自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。
(新約聖書 ヘブライ人への手紙12:1新共同訳)

信仰をあえてスポーツでたとえると、フルマラソンが一番ぴったり来ると思います。
冬のオリンピックなら、クロスカントリースキーの50km走とか・・・
忍耐強さ、ねばり強さ、持久力が求められます。
(もちろん、人それぞれ、信仰のあり方や役割が違いますが・・・)

オリンピックでは、上位3人にしか、メダルは授与されません。
しかし、イエス様がお与えになる「賞」は、信じ続けるなら、
それぞれにふさわしいものが与えられます。
だから、自分の確信を捨ててはいけません。
この確信には大きな報いがあります。
神の御心を行って約束されたものを受けるためには、
忍耐が必要なのです。
(新約聖書 ヘブライ人への手紙10:35~36新共同訳)

事は成就した。わたし(=イエス様)はアルファであり、オメガである。
初めであり、終わりである。
渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。
勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。
わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。
(新約聖書 ヨハネの黙示録21:6~7新共同訳)

だからこそ、私達も、信仰のアスリートとして、走り続けましょう!
いつもイエス様が応援してくださっていますよ!
そして、仲間が世界中に、時代を超えてたくさんいます。
あなたも私も、信仰の道を一人寂しく走っているのではないのですよ。

今回は、冒頭に引用した、フィリピ3:13~14への作曲を紹介します。
テキストは新共同訳です。

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

「20100218_philippians0313no01.MID」をダウンロード

「20100218_philippians0313no01.pdf」をダウンロード

2010年2月17日 (水)

バンクーバーオリンピック~フィギュア・ペア

昨日は、日本中がスピードスケート男子500mの、
長島選手、加藤選手の銀メダル、銅メダル受賞の快挙に沸いていましたね。
私もうれしいと思いましたが、私にとっての昨日の注目競技は、
フィギュアスケート・ペアでした。
フィギュアスケートの中で、一番好きなものです。
物語性、芸術性があり、なおかつ一番難しいものだからです。

ロシア代表の川口ペアは、ショートプログラムではとてもすばらしかったです。
芸術的な、優雅な演技でした。
川口悠子さんのフィギュアペアにかける並々ならぬ思いには脱帽ですし、
すごく輝いていました。
ただ、フリーではミスが何度もあったのが、痛かったですね。
結果はメダルには届きませんでしたが、健闘をたたえたいと思います。

フリーの演技では、金メダルの申雪ペアよりも、
銀メダルの中国ペア(外字になるので、名前を省略します)は、
絶賛に値する演技でした。
フリーでは最高得点だったのが納得です。
勢いと積極的な「攻め」の姿勢があり、
なおかつまったくミスがありませんでした。
音楽をきちんと表現していました。
私の妻も大変感動していました。
一日に何度も見ていたようです。
(私は夜に一度だけ見ました。)

それにしても、フィギュア・ペアの演技は、
どれだけパートナーを信頼できるかが問われますね。
「スロウジャンプ」では、男性が女性を文字通り投げて、
3回転~4回転のジャンプをします。
「スロウジャンプ」にしても、「リフティング」にしても、
もし失敗したら、相当痛いですよね。
男女シングルでジャンプが失敗するのの比ではないはずです。
相手を「信じる」ことが、強さと美しさにつながります。
これは、フィギュアスケートに限らず、一般でもそうですね。
(誰でも「信じる」必要がありませんが・・・)

最後に、おまけです・・・
車の中で、NHKラジオ第一を聴いていたときの中から。
「『フィギュアスケート』とかけて、『我が家の婚活中の娘』ととく。
その心は・・・」
「女子シングル、がんばりま~す!」
(正確な引用でないかもしれません)
おあとがよろしいようで・・・

2010年2月16日 (火)

詩篇117(21)【自作曲】

久々に、詩篇117シリーズです。

今回で、詩篇117シリーズは、21曲目です。
テキストは、新改訳です。
かなり高音が連続するので、一般の人には、歌いにくいかもしれません。
しかし、雄大な感じがします。

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

「20100216psalms117allno21.MID」をダウンロード

「20100216psalms117allno21.pdf」をダウンロード

2010年2月15日 (月)

ドレスコード

先日、ちょっと恥ずかしい思いをしました。
教会で結婚式があり、聖歌隊の一員として歌うことになりました。
ただ、私はその日、その事を忘れていました。
私の外出時のいつもの服装は、ジャケットを着ていることが多いのですが、
その日は、ジャケットを着ていませんでした。
たまたま教会を訪れると、
「そういえば、聖歌隊で歌うのだった!」と思い出しました。
ちょうど、結婚式の20分前でした。
会場の聖堂には、聖歌隊の人が数人しかいませんでした。
聖歌隊として歌いたいけど、服装がふさわしくない・・・
少し迷いましたが、聖歌隊のメンバーに聞いてみると、
「その服でもOKですよ。」とのことでした。
聖歌隊としては、きちんと役目を果たすことができましたが、
内心、恥じ入る思いでいっぱいでした。
私はマタイ22章の「婚宴のたとえ」を思い出しました。
王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。
(新約聖書 マタイによる福音書22:11新共同訳)

日本時間の2月13日から、バンクーバー五輪が開幕しましたね。
開幕前に、日本の国母選手の服装の乱れが、
いろいろと物議をかもしましたね。
http://news.nifty.com/cs/sports/fightdetail/fuji-zak20100213019/1.htm
私もつい最近、上記のように(意図しなかったとはいえ)
ドレスコードを破ってしまいましたが、
この件(国母選手の件)については、
やはり「国の代表」としての自覚をもっとこの選手にもってほしい、と思いました。

中部大学の武田邦彦教授が、この問題について、
なかなか含蓄のあるエッセイを書いていますので紹介します。
だらしない文化でも良いじゃないか」という反語的表現の題です。
http://takedanet.com/2010/02/post_3a52.html
(武田教授の上記エッセイの一部を引用します。)
(中略)第一、「だらしない」というのは文化だろうか?
子供がダメになるのは大人がそうしているからであり、
戦後、一貫して日教組がやってきた教育である。
自由な魂、民主的な思考、平和を愛する心は
「だらしない文化」からは生まれないとわたしは思うのだが。

2010年2月14日 (日)

恭喜發財!2010

今年は、2月14日が、旧暦の新年ですね。
ということで、「恭喜發財!
日本語での「あけましておめでとうございます」にあたります。
(あえてカタカナで広東語の発音を書くと、「コンフェイファッチョイ」)
ちなみに、来年は2月3日だそうです。
おめでたい言葉を書き連ねましょう。
」、「新年快樂」、「身体健康」、「出入平安」、「萬事如意」・・・
皆様に神様の祝福と平安が豊かにありますように!

妻が書いた飾りを、写真に撮ってみました。

20100214

2010年2月13日 (土)

脳とソフトウェア

前回の記事の補足的な内容です。

パソコンがどんなに優秀なスペックを持っていたとしても、
たとえば作曲のソフトがインストールされていなかったら、
パソコンを使って作曲することはできませんね。
少なくとも、一般の人にとっては。
もしかしたら、プログラマーの方がみなさんの中にいて、
自分で作曲用のプログラムを作成できるかもしれません。
しかし、それをもって、「作曲ソフトは不要である」と結論するのが暴挙ですよね。
作曲ソフトを使う人はかなり特殊な人でしょうから、
もっと一般的な、WORDやEXCELならいかがでしょうか?
WORDやEXCELをまったく0から一人でプログラミングできる人が、
世界に1人かあるいは100人ぐらい出たからといって、
WORDやEXCELの価値がなくなるでしょうか?

ちょっとまわりくどい言い方をしましたが、
人間の脳にとって、パソコンのソフトウェアにあたるものは、
人類が脈々と蓄えてきたさまざまな智恵・叡智です。
「子どもに考える力をつける」などと言って、
「問題解決型の算数」を普及させようとしているエラい教授先生や、
その阿諛追従者となっている教師達は、
WORDで複雑な表計算をさせようとしているようなものです。

算数の九九や筆算というのは、人類の文化遺産です。
それらを軽視するのは、傲慢であり、無知をさらけ出しています。
某国みたいに、コピー商品でしかないものを、
「うちのオリジナルだ」みたいなことを言っているのに近いです。

東京から名古屋へ行くのに、
「電車や新幹線で行くのは、子どもたちに『歩く力がつかない』」といって、
児童を「毎回」名古屋まで歩かせたら、どうなりますか?
脱落する子が多数でしょう。
児童虐待で逮捕されるかもしれません。
では、「昔からの指導方法は、子どもたちに『考える力がつかない』」といって、
問題解決型の算数を「毎回」させるのはどうでしょうか?
いろいろな意味で、学びから脱落する子が多数いても、
残念ながら、教師の「知的虐待」は罰せられませんね・・・
大切なのは、『自分の足でたどりついたか』ではなく、
目的地に着くことであるように、
『自分で考える』ことは目的ではなく、
「確実に、計算したりすることができる」ことではないでしょうか?

2010年2月12日 (金)

算数の問題解決型学習~学力「崩壊」の決め手

ある方から誘われて、某小学校での、研究授業を見学しました。
研究授業では、問題解決型の算数の模範授業が行なわれました。
「問題解決型」の算数、といっても、教育関係の人以外は、
あまり興味・関心がないでしょう。
ここで、私が価値判断を書くよりも、
まず、どんなことが行なわれたかという「事実」を書いてみましょう。

3年生の算数の授業で、12×23という問題を、
筆算を使わないで解く、というものでした。
指導計画によると、
1時間目:5円のチョコを20個買うといくらですか?
2時間目:12円のチョコを20個買うといくらですか?
3時間目~4時間目(研究授業):12円のチョコを23個買うといくらですか?
5時間目:筆算の仕方(例:86×30)
(6~9時間目は記載省略します。)

体育館を使っての授業だったので、
子どもたちは、元気がよすぎるほどでした。
(これは、まぁ、プラスに考えましょう。)

前日までのまとめを子どもたちに次々と発言させていました。
(指名なし発言)
「階段作戦」とか、なんだか聞きなれない言葉が飛び交っていました。
前日までに、子どもたちは、12×20=240、ということを教わっていた、
という設定でした。
その知識をもとに、筆算なしに、12×23=(276)を、
子どもたちに次々と考えさせ、発表させる、というものでした。
子どもたちは、まず、12×20=240だから、
12×23=(12×20)+(12×3)と分けて、
240+36=276、と考える子が多かったです。
次々に子どもたちに考えさせていましたが、
結局、似たような意見を、多少言葉を変えて発言させているだけでした。
そんなのが、20分くらい(最初に考える時間も含めて)続きましたか。
続いて、12×23を、23×12に変えて、
(23×10)+(23×2)=230+46=276
と解く子が出てきました。
その後、似たような意見が続きました。
(この辺から、私の思考力も停止し始めました。退屈・・・)
しまいに、12×23を、
(10+2)×(20+3)と分ける子が出てきて、
結局、きちんと解くことができず
(※中学生で習う、数学の分配公式を理解していないと解けません。)、
「どうしたらきちんと解くことができるのか?」というのを、
子どもたちに説明させて、結局きちんとは説明できませんでした。
授業時間の45分間を、10分以上もオーバーして、
「研究授業」は終わりました。

ここで、あらかじめお断りしておきますが、
私は、その教師を批判しているのではありません。
その教師の「教え方=問題解決型の算数」を批判しているのです。
たぶん、その教師は、研究授業のために一生懸命だったのでしょう。
その熱意には、頭が下がる思いです。

「問題解決型の算数」を広める教師たちは、口々に言います。
「子どもの思考力・創造力を育てる。」と。
しかし、実際はどうでしょうか?

問題点を端的に指摘します。
①なぜ、12×23というたった一問を解くのに、
1時間もかける必要があるのでしょうか?
正しい筆算のやり方をきちんと教えるのには、
5分とかからないはずです。
算数は、国語とかと違って、正しい答えは一つしかありません。
「考える力」云々よりも、子どもたちが、確実にできるようになることが大切です。
わかる子にとっては、こんな問題は楽勝すぎるし、
わからない子にとっては、いくらたくさんの子どもが説明しても、
かえって困惑するばかりです。
(最後のやり方を聞いたら、大人だって困惑するはずです。)
②実際、その授業が終った後、パネルディスカッションの時があり、
その研究授業を実演した教師が自ら語っていましたが、
「子どもたちの学力は、低いほうである。」とのこと。
私は、「当たりまえだ!」と内心思いました。
結局、何が正しいのか、よくわからないし、
わからない子にとっては、
12×23のような簡単な計算が、
おそろしく複雑怪奇なものに見えるはずです。
そうすれば、「ボク、ワタシには無理」、
「算数大嫌い!」となるはずです。
③こんな簡単な問題に、1時間もかけるから、
当然、練習問題は、授業中ではなく、宿題になります。
これがますます算数嫌いを生み出します。
④基礎・基本が身についていないのに、
応用的なことをやらせるのは、
赤ちゃんにマラソンをやらせるような愚です。
「問題解決型学習」というのは、小学生よりも、
高校生とか、大学生とかの、基礎が身についた人がやればいいものでしょう。
(もっとも、大学生も、
小学生の基礎・基本が身についていない人が最近多いようですけど・・・)

向山洋一+前田康裕著
『イラスト漫画で早わかり プロ教師が拓いた教育技術の基礎基本』(明治図書)に、
上記で述べた算数の問題解決型の授業の典型的な例を、
漫画の形で表しています。
( )は私による漫画の説明、
「 」は漫画のふきだしにあるセリフです。
【1コマ目】(教師が黒板に問題を貼ろうとしている。)
(教師)「今日の算数はわり算の問題だぞ この問題をみんなで考えよう」
【2コマ目】(黒板には次の問題が。)
「10まいずつ たばになった色紙が360枚あります。
20人で同じ数ずつ分けると1人分は何枚に」(問題の一部は省略)
(教師)「式と答えを画用紙にマジックで書こう」
「自力解決の時間だ 20分たっぷり考えよう」
(児童Aの心中)「360÷20=18 二十秒でとけるわ 簡単すぎてたいくつよ」
(児童Bの心中)「三百六十を十枚ずつ、まとめると三十六枚・・・二十でわれないぞ」
(児童Cの心中)「いつも画用紙に書くんだよな ノートは使わなくてもいいのかなぁ」
(児童Dの心中)「算数の教科書を開いたことがないけど・・・・」
【3コマ目】(二十分後)
(教師)「みんなの意見を聞いてみよう」
(児童Cが「ぼくの考えは・・・」と説明している)
(児童Aの心中)「方法が少しちがうだけで考え方は同じよ 無駄な時間だわ」
(児童Bの心中)「ぜんぜんわからないよー」
【4コマ目】
(教師)「みんなで力を合わせて一つの問題を解決しましたね。
『考える力』が大切なのです。算数の教科書の練習問題はすべて宿題でーす」
(児童の不満の声「えっー!」「またかー」「やだよー」)
【5コマ目】
(児童Aの心中)「一つの問題をだらだらと時間をかけてとくから
算数の時間はちっとも面白くないわ」
(児童Bの心中)「算数の時間はちっとも分からないよ 算数なんかきらいだー」
【6コマ目】
(向山氏)「こんな『問題解決学習』の方法では基礎学力を身につけさせることはできない!
算数嫌いの子どもを増やしているだけなのだ」
(同著P.164より引用)

いかがでしょうか?
参考になるサイトをいくつかあげます。
・学級崩壊解決の算数授業のコツ
http://www.geocities.jp/takesen12/newpage13.html
(問題解決型の算数の改良版?)
・The新語9@向山型算数
http://www.abetaka.jp/riron/sin/sin9.html
(「問題解決型の算数」の対極です。)
・教師修行ここから始まる~プロを目指して
http://blogs.yahoo.co.jp/eri_eri_eri_love/MYBLOG/yblog.html

以下の本はこの問題の参考になります。

算数科「問題解決学習」に対する批判と提言―科学的数学教育の視点からその非教育性を告発する (21世紀型授業づくり)


プロ教師が拓いた教育技術の基礎基本―イラスト漫画で早わかり


2010年2月11日 (木)

エンカレッジとディスカレッジ

教育の本質は『エンカレッジ』-つまりは勇気づけるに他なりません。
ところが、日本の場合どちらかといえば、
『ディスカレッジ』-やる気をそぐシステムがあります。
(竹中平蔵著『竹中式マトリクス勉強法』(幻冬舎)P.191より引用)

「エンカレッジ(encourage)」とは、
「励ます、勇気づける、促進する」などの意味があります。
その反対が、「ディスカレッジ(discourage)」で、
「落胆させる、がっかりさせる、勇気を失わせる、やる気をなくさせる、邪魔する」
などの意味があります。

金融担当大臣、郵政民営化担当大臣、総務大臣などの要職を歴任し、
現在は慶應義塾大学教授の、竹中平蔵氏による、
『竹中式マトリクス勉強法』は、なかなかの好著です。
竹中氏のとった政策に、異論がある人は多いでしょうが
(私もその一人ですが)、
人としての竹中氏は、尊敬に値する人物です。
この本の随所に、その人柄がにじみ出ています。

この本の中で、印象深いところは数多くありますが、
その中で特に1箇所、といえば、冒頭で引用したところの前後です。
日本とアメリカの教育に対する考え方が如実にあらわれています。
少し長いですが、冒頭の文の続きを引用してみましょう。


「 よく日本では、『分をわきまえろ』と言います。しかし、それは換言すれば『100%の力を発揮するな』と部分的に言っているようなもの。行きすぎると、『出る杭は打つよ』と軽く牽制しています。こうした教訓は、若い世代の芽を摘んでいるとしか思えません。
  一方、アメリカの教育にはエンカレッジの精神が根底にしっかりと存在します。私がハーバードで教鞭を取っているときも、娘の小学校を訪問したときも、それはよく感じました。
  こんなことがありました。娘が小学校時代、我々両親が先生に呼び出されたことがあったのです。『呼び出しを食らう』となると、日本の常識では、娘がなにか悪さをやったのかとドキッとするものです。
  ところが、アメリカではこの逆でした。娘がちょっと上手い絵を描いただけで(それが、実はたいした絵ではないのです)、『お嬢さんを、美術学校に行かす気はないのか?』
  あるいは、ちょっと数学や理科でいい点を取っただけで、『この地域に理数系のエリート校があるが、そこに行かせないか』と、こうくるのです。つまり、アメリカで『両親呼び出し』はある意味名誉なことらしい。日本とは、まるで正反対だったのです。
  また、アメリカでは小学校にも、表彰制度がありました。といっても、最優秀成績賞といった、いかにも名誉な賞だけではありません。学校のクリーンアップ(美化)に協力しただとか、運動を頑張っただとか、人にいい影響を与えたとか、日本では考えられないようなことにでも、賞を授与してほめたたえるのです。アメリカは国を上げて実にほめ上手です。
  私は、日本人も、ぜひこの『エンカレッジ精神』を取り入れるべきだと思います。教育とは本来、あれをするなだのこれは危険だの、ネガティブリストをあげつらうのではなく、ああしよう、こうしようとポジティブリストを示唆してあげるものなのではないでしょうか。
 」(同著P.191~193から引用)


まったく同感です。
これは、教育の世界に限らず、職場とかでも通用しますね。
日本の優秀な人材が外国に飛び出して、活躍している、というのは、
日本では互いに足を引っ張り合うような雰囲気だからなのでしょう。
日本の精神風土で、これは特に汚点というべきものです。

「エンカレッジ精神」は、ほかならぬキリスト教会において、
もっと取り入れてほしいものだと願っています。
つくづく、キリスト教会(カトリック・プロテスタント・正教会問わず)というものは、
互いを伸ばすよりも、足を引っ張りあうのが好きなようです。
残念ながら・・・
「ディスカレッジ精神」は、愛に反します。

終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、
すべて正しいこと、すべて清いこと、
すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、
また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
(新約聖書 フィリピの信徒への手紙4:8新共同訳)


竹中式マトリクス勉強法

2010年2月10日 (水)

NHK「プロフェッショナル」~第136回「定時制高校、明日への一歩」

NHKの「プロフェッショナル」は時々見ている番組です。
(残念ながら、今年の3月末で打ち切りのようですね。)

今回は、
「定時制高校、明日への一歩 高校教師 岡田倫代」という題でした。
なかなか見ごたえのある内容でした。

定時制高校に通う生徒は、自己肯定感が低い者が少なくないそうです。
偏見を恐れず、一般的な見方を言わせてもらえば、
「定時制高校」というと、普通の高校に入れなかった人が通うところ、
というイメージが強いですね。
(最終的には、定時制だろうと、全日制だろうと、
「高卒」には変わらないわけなのですが・・・)
それでも、私は、きちんと卒業しようとする生徒たちを、
立派だと思わずにはいられません。

そういう中で、この岡田先生は、
生徒の心に寄り添った指導をされているわけです。
教科を教える教師、という面よりも、
カウンセラー的な要素の方が目につきました。

岡田先生の教え子の中で、教員を目指す者が何名も出たことが、
番組の中で取り上げられていました。
すばらしい教師は、新たな教師を生み出します。
教え子の中から、1人でも2人でも、
「あの先生のようになりたい」と、教員を目指す者が現れたら、
その教育は、確かに「実を結んだ」といえるでしょう。

番組の最後の方で、いかにも「不良少女」のような生徒との関わりが、
取り上げられていました。
番組の中で、一番感銘を与えたところだと思いました。
心を閉ざしていたものが、心を開き、
封印されていた家族の思い出を、自然体で、
岡田先生に打ち明けていました。
そこまで待つ、見守る。
大変忍耐のいる仕事ですが、やりがいがあるのだろうなぁ、
と思わずにはいられませんでした。

私達一般の視聴者から見ると、
生徒たちの「輝き」というのは、あまり見えてきません。
誤解や偏見、「決め付け」で、彼らを見ているからでしょう。
しかし、岡田先生にとって、生徒たちは、
まばゆいばかりの原石のように見えるようです。
それはあたかも、法華経に出てくる常不軽菩薩の目のようです。
私も、そのように、出会う一人ひとりを、見ていきたいものです。

傷ついた葦を折ることなく
 暗くなってゆく灯心を消すことなく
 裁きを導き出して、確かなものとする。
(旧約聖書 イザヤ書42:3新共同訳)

番組HPに、今回の放送の要約がきちんと出ています。
http://www.nhk.or.jp/professional/backnumber/100209/index.html

2010年2月 9日 (火)

幸せは自分の心から

私は、毎朝聖書以外に、
信仰に役立つ本を何冊か少しずつ読んでいます。
そのうちの一つが、
万代恒雄牧師(1929~1994)の、
『幸せをよぶ一日一訓』(日本地域社会研究所)です。
365日、各1ページ分のメッセージ集です。
どのページも確信にあふれた力強い言葉が書かれています。

2月8日の記事は、今すごく共感できます。
せっかくなので、1ページまるごと紹介しますね。


(P.51ページを引用)
 『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ いのちの泉はこれからわく』
(箴言 四の二十三)
 人は喜びも、悲しみも、すべてを自分の心で受け止めているのです。それなのに、私たちの注目しているものは、金儲けであり、教育であり、健康であって、自分の心の成長でないのは大きな見当違いというべきでしょう。他人から見れば羨ましく思われるような生活をしていながら、少しの平安も感謝もない人もいれば、反面貧しくみじめに思えても、愉快で問題なしに生活している人がいるのは、すべて、心の状況を説明しないと理解できないのです。
 聖書は、「心はその人自身の苦しみを知っている。その喜びにもほかの者はあずからない。」(箴言 十四の十)と語って、すべての幸、不幸の本当の理由は、自分の心が知っていると言っています。
 心を平安に保とうと思えば、自分の心を騒がすようなものから遠ざかることが賢明なのです。他人を批判することや、不平不満ばかりが口から出る友人などは避けるべきでしょう。
 喜びをもちたいと思ったら、物質的なものばかり重んじて、精神的なことに関心のない人々との交際を絶つべきであって、心を大事にして、小さなことにも素直に喜べるような友人を大事にすべきでしょう。
 本当のキリスト信仰を追及している人々は、絶えず自己反省を神にあってしているはずですし、精神的・霊的なものの価値をよく知っているのですから、あなたが友人を求めているなら、必ずその中に加えてほしいものです。そして、あなたが心を守っていただけるように祈ることも欠かせぬことです。


なお、引用されている聖書の訳を調べたところ、いずれも新改訳でした。

ちょっと身近な最近の実例をあげてみましょう。
実は、2月7日(日)に、私は教会で転び、思い切り右ひじを強打しました。
私が通っている教会は、玄関でスリッパに履き替えず、
そのまま聖堂に入ることができます(私は気にいっています。)。
日曜日は、雪がかなり降っていたので、その雪が溶けて、
廊下で水に変わっていたのでしょう。
帰途につく知人がいたので、あいさつして、私は通り過ぎました。
後ろから、その方が私を呼びとめ、私が振り返ったところ、
いきなり「ズテ~ン」と無様に滑って転びました。
かなり痛かったですよ。

ところで、この現象を、どうとらえますか?
①教会の廊下で滑って転ぶなんて・・・ついてないな・・・
それとも、
②右ひじは痛いけど(今も少し痛みますが)、頭を打ったりしなかったから、よかった。
私は、心から②だと思っていますから、神様に感謝しています。

もっと一般的な例を考えてみましょう。
Aさんが、Bさんから、1万円をもらいました。
Aさんは、
①「Bさんから『1万円もらった!ラッキー!感謝感謝!」
②「Bさんから『1万円しかもらえなかった。」
1万円もらった、という現象・事実は一つですが、
それをその人の心の中でどう解釈するかによって、
「真実」は変わります。
②のような、不平不満の心を抱いている限り、
幸福はいつまでもやってこないでしょう。
「笑う角には福来る」ではありませんが、
幸福は、感謝する人のところに好んでやってくるものです。
誰かがあなたを幸福にしてくれるのを待つよりも、
自分から、幸福(感謝すべきこと、感謝したいこと)を見つけるのです。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、
神があなたがたに望んでおられることです。
(新約聖書 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5:16~18新共同訳)

万代恒雄牧師については、以下のサイトを御覧ください。
http://senkyokai.com/aboutus/founder/index.html


幸せをよぶ一日一訓―今日もいい日を! (グッドライフ・ブックス)



幸せをよぶ一日一訓―今日もいい日を! (グッドライフ・ブックス)


著者:万代 恒雄



雪さえも 写真に踊る 雪まつり

2月7日(日)夕方に、私と妻と友人の3人で、
第61回さっぽろ雪まつりの大通会場を見物してきました。
この日は雪がひどく降っていました。
それで、写真を撮ると、雪までもが写真に収まっていました。
(「白い点は、エクトプラズムで、実はこれ、心霊写真なんですよ・・・」
というのは冗談です。念のため・・・→そんなわけないですね。(*^-^))
舞い落ちる雪がライトに照らされて降ってくる様子は、
実に幻想的で美しいものでした。

1枚目の写真は、「5丁目 毎日新聞 氷の広場」の、
「大氷像 イオラニ宮殿」です。
ハワイ州ホノルルにあるイオラニ宮殿を氷で再現したものです。
これは、夜に行ったほうが、ライトアップされているのできれいです。

2枚目は、「8丁目 雪のHTB広場」にある、
「大雪像 韓国・百済王宮」です。
堂々とした雪像でした。

第61回さっぽろ雪まつりは、2月11日(木・祝)までです。
雪まつり公式サイトは、以下のとおりです。
http://www.snowfes.com/index.html

Sapporo_snow_festival2010no01


Sapporo_snow_festival2010no02

2010年2月 8日 (月)

突風を静めるキリスト(マルコ4:35~41)

2月7日の早朝、久しぶりに日曜早朝のキリスト教ラジオ番組、
「世の光いきいきタイム」を少しだけ聴きました。
(昔はよく聴いていましたが、最近はほとんど聴いていません。)
「たしか、水谷潔牧師のメッセージがあるはず・・・」と期待していましたが、
実は、先週放送済みでした(後でわかりました。)。
その代わり、最後の数分、原田憲夫牧師による、
「キリストにふれられた人(12) 嵐の中におられる」というメッセージを聴きました。
イエス様が嵐を静める奇蹟のところからのお話でした。
これが、私にとっては、電波を通して、神様が語りかけておられる、
と思えました。

ともすると、私達は、問題・トラブルの方ばかりに目が行きがちですが、
これらの「嵐」や「激しい波」ではなく、
目を向けるのはイエス様なんだ!と改めて気づかされました。
私は、今、信仰上の様々な課題(対人関係的なもの)を抱えていますが、
(神様の「訓練」であると受け止めています。
そういう意味では、大変ではありますが、同時に喜びもあります。)
その課題に右往左往するのではなく、
しっかりとイエス様を見据え、信頼することが大切なのだ、と
再認識させられました。
神様に感謝!
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、
『黙れ。静まれ。』と言われた。
すると、風はやみ、すっかり凪になった。
(新約聖書 マルコによる福音書4:39新共同訳)

「世の光いきいきタイム」、「ライフ・ライン」などの放送については、
下記サイトを御覧ください。
放送の一部を聴くことができます。
http://pba-net.com/index.html

NHKスペシャル「ミラクルボディ」第1回「滑降」

2月7日放送のNHKスペシャル「ミラクルボディ」第1回「滑降」を視聴しました。
スピード感あふれる映像は、見ていて怖いとさえ思いました。
スキーのアルペン・ダウンヒルの選手が滑降するとき、
最高時速は何と160km/hにも達するそうです。
(高速道路を走る車よりも速いのです!)
少しでもバランスを崩すと、死を招きかねないほどの大事故になります。
(事故の映像は思わず叫びたくなるほどの痛々しいものでした。)

今回の特集では、アルペン・ダウンヒルの世界王者、
アクセル・スビンダル氏に密着取材し、
様々な角度からその強さを分析していました。
競技時の分析のみならず、MRIを用いての分析や、
ゴーグルに超小型カメラを取り付け、
滑降時に何度瞬きをしているかを計測するなど、
スポーツ科学的に、強さの秘密を探っていました。

アクセル・スビンダル氏は数年前、競技中にバランスを崩して、
かなりの大怪我を負いました。
他の大怪我をした選手の話も出ていました。
(大事故で記憶障害になった選手もいました。)
一度大怪我をすると、恐怖感に支配されてしまうそうです。
恐怖感が、脳に「刻まれて」しまうそうです。
消しようがありません。
しかし、スビンダル氏は、事故が起きた同じコースで、
再起を図りました。
恐怖から目をそらす・避けるのではなく、恐怖を直視する。
恐怖感さえも、闘志に変える・・・
ついに彼は恐怖を克服し、見事なまでの再起を図ることができました。
その話は感動的でした。
人間のすばらしい可能性を感じさせますね。
単に、スポーツ界の話、で終らず、
私達の日常の恐怖感、囚われからの解放のヒントになりそうですね。

番組HPは、以下のとおりです。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/100207.html

ちなみに、私はスキーは全然ダメです。
あしからず・・・

2010年2月 7日 (日)

キウイ・ハズバンド

「キウイ・ハズバンド」という言葉をご存知ですか?
私は昨日初めて聞きました。
TBS系「世界ふしぎ発見!」の2月6日放送で取り上げられていました。
ニュージーランドの夫たちは、世界一だそうです。
ニュージーランドの国鳥「キウイ」のように、
良い夫であり、良い男であり、良い父である。
具体的には、
妻に対して愛情深く、積極的に家事を手伝い、子育ても積極的に協力する。
そして、強くたくましい男。
いやぁ~、まさに理想的な男性像ですね。

テレビを見ながら、妻からいろいろ責められました。\(;゚∇゚)/
「もっと家事に協力して!」
我が家では「子育て」はないですが、
多少は私は家事を手伝うものの、
やはり大半の家事は、妻が行なっています。
妻に感謝、感謝!
ただ、妻への愛情表現は、ニュージーランド人に匹敵かな~(*´σー`)
な~んて・・・

妻からは、「ハーフ・キウイ・ハズバンド」かな?などと言われましたが、
まだまだ努力が必要のようです。

そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。
妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。
(新約聖書 エフェソの信徒への手紙5:28新共同訳)

参考サイトは、以下のとおりです。
・番組HP
http://www.tbs.co.jp/f-hakken/mystery_1.html
・ニュージーランドの日本公式サイトでの特集
http://www.newzealand.com/travel/ja/about-nz/features/media_events_home/fushigi-hakken.cfm
・「ニュージーランド親子留学」(ブログ)
http://plaza.rakuten.co.jp/whitianga11/9002

2010年2月 6日 (土)

クリスチャントゥデイの記事から

キリスト教インターネット新聞の「クリスチャントゥデイ」のサイトは、
たいてい1日1回は閲覧します。
カトリック・プロテスタントといった大枠、
プロテスタント内の福音派・聖霊派・リベラル(社会)派といった小枠にこだわらず、
広い視点で、国内外のキリスト教関係の報道をしています。
私はキリスト教系の新聞を購読していないので、
このサイトは貴重な情報源です。

今回は、「クリスチャントゥデイ」の最近の記事(というより、エッセイ)で、
ぜひみなさんに紹介したいものを2つあげます。
1つは、佐々木満男弁護士による、
チャンスはいくらでもある!」(2月2日)です。
もう1つは、万代栄嗣牧師による、
すさまじい恵みと人々の驚嘆の狭間で」(2月1日)です。
前者は、キリスト教的な楽天主義、積極思考による人生の打開を説いています。
後者は、有名な「5つのパンと2匹の魚」の奇蹟の話を、
実際の人生に適用する話です。
どちらもすばらしい内容です。
佐々木満男弁護士
http://www.christiantoday.co.jp/column-news-672.html
万代栄嗣牧師
http://www.christiantoday.co.jp/column-news-671.html

なお、万代栄嗣牧師によるラジオ番組を、インターネットでも聴くことができます。
なかなか面白いと思います。
番組のタイトルは「アッとおどろく!ガブリエル」です。
万代牧師が謎の神学者、ガブリエル博士に扮して、
聖書についておもしろく語ってくれます。
http://iguigu.net/

思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。
神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
(新約聖書 ペトロの手紙Ⅰ5:7新共同訳)

2010年2月 5日 (金)

あきらめるのはまだ早い!~400字の励ましエッセイ(英文付)

今年の2月から、私たちの教会学校では、
毎月1回、保護者向けにニュースレターを発行することになりました。
その中で、スタッフ一人ひとりが、400字以内で
教育や信仰のこと、社会についてなど、
ある程度自由に書けるリレーエッセイコーナーを作りました。
栄えある第1回目は、なんと私の文章です。
前回の記事と重複するところがありますことをご了承ください。
(ちなみに、私たちの教会学校では、国際化に対応するため、
ニュースレターは全文、日本語と英語の両方で表記することにしました。)

題は、「あきらめるのはまだ早い!」です。
未来は、自分が選択するものであること
努力は報われることを強調しています。
NHK大河ドラマ『龍馬伝』の影の主役、岩崎弥太郎と、
私たちの親や祖父母を例に挙げています。
考えてみれば、終戦後は、焼け野原で食べ物もないようなところから、
今の豊かな日本は出発したのですよね。
私たちは、甘えすぎかもしれませんね。
なお、英訳は、私の妻によります。
感謝です!

「 読売新聞朝刊北海道版2月3日の記事の教育特集にこんな一文がありました。小6の男児が卒業文集の下書きに書いた将来の夢は、なんと「生活保護を受けて楽に暮らしたい。」でした。小6といえば人生これから。まだまだ夢と希望が溢れていてよいはずです。子供が未来に対して希望を持つことができないのは、親や教師や、私達大人の責任です。しかし、最終的に自分の人生を決めるのは、ほかならぬ自分自身です。「今、貧しいから、もうだめだ」とか、「勉強して何になる?」といった消極的態度は、自分で自分の未来を潰しています。ところで、今年のNHK大河ドラマは『龍馬伝』ですね。カッコイイ龍馬よりも、貧しくて汚い身なりの岩崎弥太郎が印象的。しかし、彼は生いたちの絶望的な状況を努力により克服し、ついには三菱財閥を築きました。偉人でなくとも、私たちの親や祖父母は、今よりもっと厳しい時代を立派に生きました。私たちにも、できるはずです。 」


“It is too early to give up!!”

There was an article printed at the Hokkaido page on Yumiuri morning Post on 3 Feb 2010. It was about the draft of a graduation composition of a Primary 6 boy. What the boy had written surprised me. He wrote “I want to lead an easy life just by obtaining the public assistance from the government.” There is a long way ahead for the life of a boy who is just Primary 6 when it is good to possess hopes and dreams for the future. We, grown-ups e.g. parents, teachers should take the blame for unable to let children possess hopes and dreams about the future. But, ultimately, it is not anyone else but oneself to determine one’s own life. Pessimistic thoughts like “Since I’m poor now, I have no future.”, or “study is of no benefit to me?” will only ruin one’s own future. A NHK historical drama called “A story about Ryoma’” is now showing on TV. There is a character named “Yataro, Iwasaki” in the drama. He lived in poverty almost half of his life. However, he worked and studied hard and he had overcome the despairing situation by every endeavor he had made. Finally, he built the Mitsubishi conglomerate. It is not only the heroes or great people, but even our parents and grand parents were capable to lead a good and meaningful life during the hard period in the past. We should not give up easily…

2010年2月 4日 (木)

小6の将来の夢~「生活保護を受けて楽に暮らしたい」

先日から、読売新聞北海道版の特集記事、
検証 北海道の教育」を紹介しています。

2月3日(水)朝刊の記事は、読んでいて驚愕でした。
記事の一部をそのまま引用します。

「 『生活保護を受けて楽に暮らしたい。』札幌市内の小学6年の男児がつづった”将来の夢”だ。同市内の小学校の校長は、数年前、児童が卒業文集の下書きに書き込んだ一文に衝撃を受けた。
 同市内の別の小学校教師も、勉強するように指導した際に返ってきた『生活保護をもらうからいいよ』という児童の言葉が耳に残る。
 この教師は、子供たちの変化を感じている。かつては、勉強が苦手な子でも、励ませば元気な返事が戻ってきた。今は淡々とした表情で『勉強しなくても何とかなるから』と言う子が多い。学ぶことをあきらめた子もいると感じている。(以下省略) 」

小学6年生の「将来の夢」が、
生活保護を受けて楽に暮らしたい。」とは・・・
あまりにも、悲しすぎませんか?
(実際、こういう子は、日本全体の同じ年の子からすると、
1%にも全然満たない程の数でしょうが・・・)
私がその子の担任教師だったら、号泣するかもしれません。
と同時に、自分のいたらなさを責めるでしょう。
教師は「教えることのプロ」ですから、
わからない子を少しでもわかるようにさせるのが、
一番大切なつとめです。
学ぶことへの無力感を感じさせたまま、というのでは、
教師として失格なのでは、と思います。
「やればできれ!」、「努力は必ず実を結ぶ!」ということを、
子どもたちに実感させたいものです。


教育の話はここまでにして、
ちょっと違った角度から、論じてみましょう。
「お金やモノを楽して受けるだけが、幸せですか?」ということです。
最近、中部大学の武田邦彦教授のサイトをよく読みます。
この方は、科学者の立場として、
「エコロジーは偽善だらけだ」とか、
「地球温暖化は疑問だ」という事をデータを使って主張しています。
著書多数です。
その是非はともかく、文章は説得力があります。
最近の文章の中には、
政府からの「子ども手当て」の類の補助金をあてにするのはやめよう、
のようなのがよくあります。
2月1日の記事は、「人の富の分配だけに興味がある政府」という題で、
もらうばかりの浅ましい心を批判しています。
興味のある方はぜひご一読を。
http://takedanet.com/2010/02/post_a8b4.html

聖書の中で、私が好きな言葉は多数ありますが、
ベスト3に必ず入れたい言葉の一つは、
受けるよりは与える方が幸いである
(新約聖書 使徒言行録20:35新共同訳)です。
生きる姿勢の一つとして、生涯指針にしていきたいと願っています。

聖書の中によく登場する湖は、ガリラヤ湖と死海です。
ガリラヤ湖から、ヨルダン川が流れ、その水は、死海に注ぎ込みます。
死海は、水をもらうばかりで、そこから出て行くところがありません。
そうすると、水と共に、塩分も溜まる一方で、
ついには生物の住めない湖となっています。
生き方の姿勢として、死海のあり方は、象徴的ですね。

2010年2月 3日 (水)

「愛はまことにも天国の扉を開く」

2月2日の朝の祈りの際に読んだすばらしい文章を2つ紹介します。
どちらも「愛」について語られているものです。
今回は、私のコメントは省略します。
深く味わってみてくださいませ。

「 人に対してもはや愛が持てなくなったり、あるいはペシミストや人間軽蔑者になったことを弁解しようとする人たちは、いつもきまって、彼らが愛したためになめたにがい経験について語る。かりに、彼らの言う通りであり、実際ほんとうにまじめに人を愛しようと試みたのだと、一応認めよう。でも、それ以来、彼らは人を憎むことによって、以前にましてよい経験をしたであろうか。
  しかし彼らはたいてい、本当に愛しようと試みたわけではなかったか、それとも、彼らのいわゆる愛はやはりエゴイズムにすぎなかったかである。正直にそれをしらべてみるがよい。 」
(カール・ヒルティ著『眠られぬ夜のために 第二部』(岩波文庫)P.31~32より)

「 愛は天上より天降って来た火である。愛は神からの賜物のうち最高のものである。何故なら神は愛そのものであるからである。
  誰かを自分が、自分の利益や幸福や快楽のためでなしに、純粋に愛し得たとき、其処に神があらわれているのである。

  天国の扉をひらくものは科学ではない。愛なき科学は時には人類を地獄の火の中につき落とすのである。愛があるとき科学がなくとも、常に其処に天国の扉がひらかれる。

  臨終に当ってただ一語『わたしは愛した。それがわたくしの生活であった』と言い得るような人になりたいものである。
  愛はまことにも天国の扉をひらく。 」
(谷口 雅春著『新版 女性の幸福365章』(日本教文社)P.40)

2010年2月 2日 (火)

「北海道」と書けますか?~基礎学力の低下を憂う

タイトルを見て、「???」と思われた方が多いはずです。
2月2日(火)の読売新聞朝刊の北海道版のところで、
検証 北海道の教育」という連載コーナーがあり、
そこの見出しが、「『北海道』書けぬ中1」でした。
私はその新聞記事の見出しを見て、さすがに目を疑いました。

記事は割合長いので、引用は省略します。
要点は以下のとおりです。


・昨年春、ある教育団体で全国の中1・1700名を対象に学力テストを行なった。
「自分が住んでいる都道府県の名前を漢字で書きなさい。」という設問。
採点時に、北海道内のある中学教師は、
「北海道」と漢字で書けない生徒が複数いることを知り、愕然とした。
「北海道」の「北」、「海」、「道」はいずれも小2で習う漢字ばかり。
中には、「海」を「毎」と書くなどの基本的な間違いがあった。
低学年で漢字の練習をさせていないからでは、という人もいる。
・釧路市の塾講師の話。中3で塾に来る子の1割が、
「1-5=」ができない。マイナスの概念が理解できていない。
「学校はつまづいた生徒を放置してしまっている。」
・全国学力テストの結果から表われる北海道内の基礎学力低下。
・道東のホテルで、採用試験に出した問題。
「2500円のシャツを2割引で売るといくらか?」
これでもわからない人がいる。
フロント係が客の住所の都道府県さえ書けないとしたら、
ホテルのイメージが落ちる。
「最低限の学力がなければ、仕事もできない。
観光業の地盤沈下も招いてしまう。」


数年前、私は3ヶ月間ほど、
ある中学生の家庭教師をやっていたことがあります。
数学を中心に教えましたが、
その子にとってわからないのは、
中学生の内容以前に、
小学校の分数の計算とか、漢字の読み書きとかのレベルでした。
残念ながら、その時の私は、
その子の成績を劇的に改善させることはできませんでした。
私にとってのその時の疑問は、
「学校の先生はいったい何をやっているんだ!」というものでした。
わからない生徒を、わからないまま放置している。
しかもそれは、小学生レベルの段階から。
「わかりたければ、お金をかけて、
塾へ行くなり家庭教師を雇うなりしてください。」
露骨にそういう事をいう教師は皆無でしょうが、
行動において、そう語っているに等しいです。
そうして、先生方は、自分たちの権利を守るために、
組合活動を熱心にやっている・・・
(北海道は、北教組が根強いところです。
教員組合が強いところは、概して、学力が低いです。
教員たちが法で禁じられたストをやったり、
自分たちの権利を守る一方、
子どもたちの「勉強しない権利」をも守っているのかもしれませんね・・・)
こうして、「ゆとり教育」のもとに、
否、「ゆとり」というよりも、「だらけきった」教育が、
子どもたちの可能性を潰しています。
私たちの貴重な税金が、
教育において、効果的に使われていないのは問題です。

2010年2月 1日 (月)

「善意」という名の悪意

先日のハイチ大地震に関して、興味深い記事を読みました。
mixiで、地震被害地に「千羽鶴」を送ろう、という呼びかけをした女性がいたそうです。
呼びかけにこたえて、全国各地から千羽鶴が届いたものの、
その行為に対して非難が殺到し、ついには断念となったそうです。
いろいろなサイトで取り上げられていました。
(参考)
http://news.cocolog-nifty.com/cs/article/detail/blog-201001291048/1.htm

20歳前後の頃、カトリック作家で、
難民救援活動家としても知られる犬養道子氏の著作に傾倒していました。
どの著作に書いてあったかは忘れましたが、こういう内容の文がありました。
アフリカのある国に、やはり千羽鶴を贈った人たちがいたそうです。
現地では、衛生状態が悪いし、人々は飢えに苦しんでいました。
そんな中、千羽鶴が入ったダンボール箱が届きました。
担当の職員たちは、折り紙の中に、医薬品や食料品が入っていないか、
期待して全部開いて(つまり、折った鶴を一枚の紙に戻して)調べました。
しかし、何も入ってなくて、たいそうがっかりしたそうです。

今回の、「ハイチに千羽鶴を」の運動に関して、
あるサイトでは、「ハイチでは、鳥は不吉なもの、悪魔の使い」だから、
全然喜ばれない、というコメントがありました。
国が違えば、文化も違う。
贈り物は、自分がうれしいものよりも、相手がもらってうれしいものを選ぶべきですね。
たとえば、自分が豚肉大好きだからといって、
イスラム教の国に豚肉を送ったら、どうなりますか?
下手すると国際紛争のもとになりかねません。
今回の大地震なら、救助団体に献金するとか、
医薬品を送るとか、そういうことが、相手に本当に喜ばれるものです。
相手のことを考えない「善意」は、かえって人を傷つけます。

(【2月2日追記】今回の記事を書いた後、私も何かしなければ、と思い、
ささやかながら、募金に協力しました。
私が募金したサイトは、以下のとおりです。
たまに、テレビの30分番組をやっている、キリスト教系の、
「国際NGOワールド・ビジョン・ジャパン」です。
http://www.worldvision.jp/news/report_0020.html?banner_id=goog_mc4170
あと、Yahoo!でもインターネット募金をやっています。
こちらは日本赤十字社への募金です。
http://volunteer.yahoo.co.jp/donation/detail/1301013/
世の富を持ちながら、
兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、

どうして神の愛がそのような者のうちにとどまるでしょう。
子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
(新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ3:17~18新共同訳)
↑今朝、ちょうどこの箇所を読みました。神様からの呼びかけだと思いました。)

さて、千羽鶴の話はここまでにして、
今回はさらに、教育における「善意」という名の悪意について考えましょう。

1月31日の読売新聞の「Pick Up」という、テレビ番組を紹介する記事は驚きでした。
フジテレビ系で毎週日曜21時から放送されている、
タモリさん司会の「エチカの鏡」を取り上げていました。
記事を引用します。
執筆者は「辻本芳孝」氏です。
鹿児島県で通山保育園など三つの保育園を経営する・・・(中略)横峰さんは、
『子供はすべて天才である』をモットーに、『読み、書き、そろばん』を重視。
園児たちは、卒園まで3年間で2000冊の絵本を読み、
小学校2年の漢字まで習得するという。
教育をダメにしたのは現場を知らない大学教授』が持論だ。
毎朝徒競走で競わせたり、泳ぎを覚えるためにプールに投げ込んだりと、
スパルタ教育風に見える。その背景には、
『子供には平等にありとあらゆる才能があり、才能のスイッチを入れるのが、
我々の仕事。スイッチが入れば、子供は勝手に学んでいく』という信念がある。

教育の世界では、ゆとり教育、という形で、
「競争は悪」と排除されてきました。
できる限り、怪我などのリスクを避けるよう、危ないことはさせません。
その結果、本来子供が持つ、能力を開花させる機会を、
必要以上に奪っていなかったでしょうか?

マンガの『巨人の星』に出てくる、「大リーグ養成ギブス」みたいなものを、
子供に強制することは、児童虐待の領域に入りますが、
「読み書き計算」の能力と「体力」は、徹底的に育てるほうが、
本当の意味での「愛」につながります。
それは、一生ものの財産になりますね。

およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、
悲しいものと思われるのですが、
後になるとそれで鍛え上げられた人々に、
義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
(新約聖書 ヘブライ人への手紙12:11新共同訳)

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