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2009年11月 8日 (日)

信仰と律法との関係~現代的なたとえでの解釈

使徒パウロの「ローマの信徒への手紙」では、
信仰による救いが語られていますね。

特に1~5章で語られている、信仰と律法、
ユダヤ人とギリシャ人(=異邦人の代表)との関係、
罪とは、ということについて、
聖書をあまり読んだことのない人向けに、
うまく説明するたとえを以下のとおり考えてみました。

今、新型インフルエンザが大流行ですね。
日本でも、死者が50名ほど出ていますが、
今のところ、強毒性ではありませんね。
でも、たとえば、これが強毒性になり、
助かるためには、どんな健康法も利かず、
ただワクチンを打つしかないとしたら・・・

インフルエンザが、「罪」で、
「ユダヤ人」とは、ある種の健康法(→律法)を実践すれば、
どんな万病にかかることがない(→救われている)と主張するような人々。
ただし、その健康法を日々実践するのは、結構困難とします。
「ギリシャ人」は、そういう健康法をしない人々。
そう考えると、「ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にあるのです。
(新約聖書 ローマの信徒への手紙3:9新共同訳)ということになりますね。
そして、「信仰」とは、まずワクチンの効用(=神様の約束)を「信じ」、
実際に、ワクチンを「接種する」ことです。
そうすれば、「救われます」。
(ただワクチンの効能を「信じる」『だけ』では、救われません。
実際に、ワクチンを打つという「行為」が必要です。)

インフルエンザ用ワクチンの製造について調べてみると、
必ず、有精卵を使用して、そこにウイルスを植え付けるそうです。
つまり、死によって死を滅ぼす、というわけです。
十字架ですね。

聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。
それは、神の約束が、
イエス・キリストへの信仰によって、
信じる人々に与えられるようになるためでした。
(新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙3:22新共同訳)

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