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2009年11月の43件の記事

2009年11月30日 (月)

映画『クリスマス・キャロル』

11月29日(日)の夜、妻と一緒に、
映画『クリスマス・キャロル』を観に行きました。

原作である、ディケンズの『クリスマス・キャロル』は、
私にとっては、幼い頃からなじみのある物語です。
絵本として読んだのは、たぶん小学校低学年の時だったと思います。
両親が買ってくれた、世界名作文学絵本(だったと思いますが・・・)シリーズの中に、
『クリスマス・キャロル』がありました。
その後、高校生のときに、村岡花子の訳による新潮文庫版を読みました。
大変感動したので、
22~23歳頃まで、毎年クリスマスになると、読み返していました。
あと、たぶん1970年にミュージカル映画化された、
実写版の『クリスマス・キャロル』も、観た事があります。

ディズニーによる今回の映画化を知ったのは、テレビのCMによります。
そのCMが放送されていたときに、私は妻に、
「原作を読んだことがある?」ときくと、妻は、「ない」と答えました。
それで、私が妻に、「原作を読んでみたら?」とすすめると、
妻は、「それなら、日本語訳ではなく、本当の原作である、英語ので、
あなたが読んでみたら?」となってしまいました・・・
そうして、さっそく、原作の英語版(講談社英語文庫)を買うことになってしまいました。
妻は大変英語が得意なので、今はまず妻が、英語で原作を読んでいます。

さて、ようやく、映画の話に移りましょう。
映画が始まって、まず感じたのは、「奇妙な映像だな」ということです。
実写ではないし、さりとて単純なCGアニメ映画、というわけでもないし・・・
時には実写そのもの、という映像になると思えば、
なんだか人形劇のようにも見える時もあります。
しかし、物語が進んでくると、
どうしてこのような映像表現をする必要があるのかがよくわかります。
実写でも、単純なCGアニメでも表現できないからなのです。

話の筋は、有名な物語であるし、
実際に観てもらったほうがいいと思いますので省略します。
印象に残ったシーン等をいくつかあげます。

まず、カメラワークの見事さです。
実写であれば、ありえない視点からの映像がよく出てきます。
マーレーの亡霊が出現する前触れとして、ベルが突然鳴り出すところが、
その典型です。

一番美しいと思ったシーンは、
過去の精霊と一緒に、スクルージが空を飛んでいくところです。
あの飛翔感覚は、まるで宮崎駿の映画の飛行シーンを、
実写化したようなものに近いです。
そして、それはとても美しい光景でした。
ここだけでも、この映画は観る価値があります。

感動的なところは、
現在の精霊と一緒に、スクルージが、
使用人のボブの家でのクリスマスを見るところです。
それは、あたかも神様が地上を見下ろして、
憐みのまなざしを向けているような感覚でしょうか。

映像表現としてちょっとやりすぎかな、と思ったのは、
未来の精霊のところです。
見せ場としては、面白いのでしょうが、
あんなにスリリングな場面が必要だったのか、少し疑問でした。
ただ、未来の精霊に、一言もしゃべらせず、不気味さを強調したのは、
演出上とてもうまいな、と思いました。

クリスマスシーズンには、毎年観てみたい映画の一つになりました。
妻も、大満足でした。
原作ともども、ぜひ観る・読むことをおすすめします。
(なお、講談社英語文庫の、「オススメ度」が低いのは、
英語が得意な人向けだからです。)

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているのは愛です。
(新約聖書 コリント人への手紙 第一13:13新改訳)

クリスマス・カロル (新潮文庫)



クリスマス・カロル (新潮文庫)


著者:ディケンズ




クリスマス・カロル (新潮文庫)

クリスマス・キャロル―A Christmas carol 【講談社英語文庫】



クリスマス・キャロル―A Christmas carol 【講談社英語文庫】


著者:チャールズ・ディケンズ,Charles Dickens




クリスマス・キャロル―A Christmas carol 【講談社英語文庫】

2009年11月29日 (日)

聖なる、聖なる、聖なる(イザヤ6:3&黙示録4:8)【自作曲】

「あけましておめでとうございます。」と今言ったら、
とても奇異に感じないでしょうか?
でも、今年の教会暦では、今日から新しい年度になるのです。
(もちろん、教会暦で新しい年度になったから、といっても、
今日、教会で「あけましておめでとうございます。」なんて言いませんよ。
念のため・・・)

今年も、待降節になりました。
私の家の周りでも、外は真っ白に染まっています。
夕方16:30を過ぎたら、もう真っ暗な夜が始まります。
こういう季節だからこそ、
「世の光」である主キリストのご降誕を待ち望む時期としてぴったりですね。

待降節では、一般的に、イザヤ書がよく読まれます。
そこで、今週と来週で、イザヤ書への作曲を何曲か紹介しようと考えています。
(イザヤ書への作曲は、現在までに、全63曲与えられています。)
予定は6曲です。

第1回目のタイトルは、「聖なる、聖なる、聖なる」です。
テキストは、旧約聖書イザヤ書6:3&新約聖書ヨハネの黙示録4:8新共同訳です。
どちらのテキストにも、「聖なる」という言葉が3度出てきます。
「聖なる(かな)」という言葉を、旧約では、6つの翼を持つセラフィムが唱え、
新約では、同じく6つの翼を持つ4つの「生き物」が唱えています。
そこで、旧約のテキストから新約のテキストに飛躍する、
という発想が導かれました。

曲についてですが、
イザヤ書のテキストを歌う部分は、神秘の扉の前、
ヨハネ黙示録の部分は、神秘の扉が開かれて、光があふれている、
そんなイメージです。
男声で歌うことを想定しています。
冒頭の「聖なる・・・」のところは、ベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」中の、
「Sanctus」の部分に影響を受けています。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

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2009年11月28日 (土)

書評:毛利恒之著『恋ひ死なむ~殉愛のキリスト者 手島郁郎』(ミルトス)

「キリストの幕屋」の創始者、手島郁郎の伝記です。
手島郁郎の熱烈な信仰に惹かれて、
ぜひ読んでみたいと思っていた本です。
著者は、映画『月光の夏』の原作者でもあります。

全体としては、とても読みやすく、わかりやすい文章で書かれています。
読みやすいので、私は270頁余りのこの本を、1時間かからずに読み終えました。
手島郁郎という人を知る上で、一番よい入門書になるでしょう。
しかし、エリヤのような激しさを持っていた手島郁郎の信仰を、
とらえきれていなかったようにも思えました。
また、1950年代以降の話が、ほとんど触れられていなかったのも残念です。
少し物足りなさが残りました。

日本的キリスト教の最も成功した例が、「キリストの幕屋」ではないかと、
私は考えています。
手島郁郎の名は、日本において、もっと広く知られるべきものです。
(「キリストの幕屋」については、また機会があれば、
書いてみたいと思っています。)


恋ひ死なむ――殉愛のキリスト者 手島郁郎



恋ひ死なむ――殉愛のキリスト者 手島郁郎


著者:毛利恒之




恋ひ死なむ――殉愛のキリスト者 手島郁郎

モーニング・グローリー

11月28日の夜8:00~8:45に、
NHK総合の「ワンダー×ワンダー」で、
「モーニング・グローリー」という不思議な雲の現象を特集していました。
すると、そのすぐ後、同日夜9:00からの、
TBS系の「世界!ふしぎ発見」でも、まったく似たような特集をしていました。
NHKとTBSで、放送日の調整をした方がよかったのでは、と思いました。
特にニュース性が高いわけでもないし、リアルタイムの話題でもないのに・・・
なお、映像の美しさ等では、NHKに軍配をあげます。
それにしても、「モーニング・グローリー」という雲は、雄大で、大自然の驚異でした。
実際に見てみたいものです・・・

2009年11月27日 (金)

詩篇117(17)a&b(ブラームス:交響曲第1番第4楽章から)【編曲】

久々に、詩篇117シリーズ再開です。
今回紹介するのは、詩篇117の第17番です。

この曲は、ブラームスの交響曲第1番の第4楽章のメロディを編曲したものです。
テキストは、カトリック訳です。
なお、2つの版を用意しました。
"a"は、原調(ハ長調)版で、"b"は、それを低く移調したト長調版です。
高い声が出る人は、ぜひ"a"に挑戦してみてください。
普通の声の高さなら、"b"がおすすめです。

このメロディは、日本基督教団出版局の『讃美歌第二編』第59番、
すべてのもの統(し)らすかみよ」という賛美にもなっています。
(この曲も、原曲のハ長調から、歌いやすいト長調に低く移調しています。)
こちらの原詞は、"O Master of all, come we to Thy throne in praise"という題で、
Ernestine Hoff Emrickという人が作ったそうです。
参考までに、
手持ちのアメリカの讃美歌集"The Hymnal for worship & celebration"では、
"We are God's people"という題で、Bryan Jeffery Leechという人が、
別な詞をつけています。その曲の調は、ヘ長調になっています。

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年11月26日 (木)

『ハッピーバースデー~命かがやく瞬間(とき)』(青木和雄著)

私は毎週木曜日には、Yahoo!のテレビ視聴率ランキングを確認します。
今日、なんとなく、そのドラマの視聴率を見ていると、
10位に、「ハッピーバースデー」(フジテレビ)と書いてありました。
私はそのドラマを見ていないので、
「えっ、もしかして、あの『ハッピーバースデー』のドラマ化?」と驚き、
急いで調べたら、まさに、そのとおりでした。
青木和雄・吉富多美著の『ハッピーバースデー』(金の星社)のドラマ化でした。
全然気がついていませんでした。
知っていれば、必ず視聴していたはずです。残念・・・
(番組HPは以下のとおりです。)
http://www.fujitv.co.jp/wasuremono/happybirthday/index.html

この『ハッピーバースデー』は、原作が2つあります。
ひとつは、最初に出版された、
『ハッピーバースデー~命かがやく瞬間(とき)』で、
児童向けの作品です。
もうひとつは、大人向けに書かれた、
『ハッピーバースデー』です。
児童向けの原作に、主人公の母親の背景を追加しています。
どちらも金の星社から出版されています。
さらには、マンガ版もあります。
私は上記2つどちらも読みましたが、
おすすめしたいのは、児童向けの方です。
大人向けの方は、主人公の母親の過去・内面を、
児童向けよりも丁寧に書いていますが、
私としては、「蛇足」のようにも思えました。

この作品に出合ったのは、2002年か2003年頃です。
この本を買ったきっかけは、もう忘れてしまいましたが、
読んでものすごく感動し、何度も読んでは涙しました。
読み終えた時の充実感は、すばらしいものでした。

その後、この原作がアニメ映画化されていることを知り、
ぜひ見たいと思っていました。
何年か後に、市の図書館でその映画の上映会があったので、
見ることができました。
アニメ映画版にも大変感動しました。
(すばらしい内容なのに、自主上映映画扱いというのは、もったいないです。)

児童虐待やいじめ、心の傷など、この小説が扱う問題は深く、
何回も読み返す価値があります。
何度読んでも、感涙する個所は、
やはり、主人公あすかが、声を取り戻すところでしょう。
心の傷は、愛によってしか、癒すことができないものです。
児童に限らず、大人にも広く読んでもらいたい本の1冊です。

ハッピーバースデー 命かがやく瞬間(とき) (フォア文庫)



ハッピーバースデー 命かがやく瞬間(とき) (フォア文庫)


著者:青木 和雄,加藤 美紀




ハッピーバースデー 命かがやく瞬間(とき) (フォア文庫)

2009年11月25日 (水)

言語力を鍛える

NHK総合の「クローズアップ現代」は、良質な企画の番組が多いです。
毎回必ず視聴している、というわけではありませんが、
私が視聴する割合は多いです。
特に、現代社会特有の問題や、教育についてなどは、必ず視聴します。

今日は、「”言語力”が危ない~衰える 話す・書く力」というテーマでした。
最初に、サッカー日本代表の国際試合の話があり、
成績が振るわない原因の一つが、「言語力」の低下によるものである、
という分析結果を紹介していました(番組後半にも出てきます。)。
「どうして、サッカーに言語力が必要なの?・・・」と思いましたが、
見ていて、「なるほど・・・」と思わされました。
(言語力が低いと、試合時の意思疎通に支障が出るためです。)

この番組では、言語力の低下の実態(模擬面接や、中学校の作文等)と、
その原因(コミュニケーション不足、携帯依存等)を紹介し、
最後に、言語力をつける取り組みについて紹介していました。
特に、最後の、言語力をつける取り組みには、感心しました。
ある小学校では、グループ討議の時間を設け、
議題に対する自分の考えと、「なぜなら・・・・」という言葉を使って、
その理由・根拠を示す、という意見の提示を、児童にやらせていました。
(学力世界一の、フィンランドでは、このようなことを積極的にやっているようです。
フィンランドでは、授業中に児童が教師からの質問に答える際、
「○○はAだと思います。なぜなら・・・だからです。」と、
どの授業でもそのように発言させるそうです。
答えには、必ず根拠を添える。論理的思考を身につけることができますね。)
できれば、こういう良い取り組みは、全国で行なってほしいものです。

余談ですが、小学校国語の授業では、「○○の気持ちはどう思ったか?」などといった、
ある意味どうとでも答えられるようなものが、いまだに中心になっているようです。
これは、結局教師の思い込み・押し付けにすぎません。
国語嫌いの子を作る原因の一つではないでしょうか。
それよりも、
書かれてあることから様々な情報を読み取る能力(情報リテラシー)を磨く方が、
将来的に言っても、遥かに応用がきくはずです。
PISAの国際テストにおいても、情報リテラシーは重要です。
(この分野は、日本の生徒は点が低かったです。)
21世紀の基本的な学力の1つといえます。

私も、言語力を高めるために、日々このブログを書き続けていきたいと思います。
(言語力不足があれば、ゴメンナサイ・・・)

2009年11月24日 (火)

主の慈しみに生きる人々よ(詩編30:5)【自作曲】

朝目覚めたら、なぜかこの歌が、頭に鳴り響いていました・・・

今回紹介するのは、
詩編30:5~6新共同訳と、一部詩篇30:5新改訳をテキストにしています。
(※新共同訳と新改訳・口語訳・文語訳では、
詩篇の節が若干ずれている場合が多いです。
新改訳等では、たとえば詩篇30の場合、
ダビデの賛歌。家をささげる歌」(新改訳)という冒頭箇所は、
節に含めず、欄外扱いです。
しかし、新共同訳では、それらのタイトル的なものも、「1節」として数えています。
そのため、若干ずれが生じます。)

今回のテキストに、すべて新共同訳を使っていたならば、
詩編30:5~6となり、新改訳ならば、詩篇30:4~5となります。
(楽譜では、新改訳を使っているところは、一部なので、
詩編30:5~6と表記しました。)

使用テキストは、以下のとおりです。
下線部は、新改訳の部分です。

主の慈しみに生きる人々よ
主に賛美の歌をうたい
聖なる御名を唱え、
感謝をささげよ。

まことに、御怒りはつかの間、
いのちは恩寵のうちにある。
泣きながら夜を過ごす人にも
喜びの歌と共に
朝を迎えさせてくださる。
[アーメン]
(旧約聖書 詩編30:5~6新共同訳及び 詩篇30:5新改訳)

この曲が与えられたのは、もう10年以上も前だと思います。
女声で歌うことを想定しています。

冒頭に記載した今朝の件は、自分から思い出したわけではなく、
まさに、神様が私にあえて思い出させたのかもしれません。

日々、感謝すべきことがいっぱいあるし、
その喜びが、勝利の先取りとなります。
主をほめたたえ、賛美します!

味わい、見よ、主の恵み深さを。
いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
(旧約聖書 詩編34:9新共同訳)

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年11月23日 (月)

「サラリーマンNEO」の連続放送

今日は、「勤労感謝の日」ですね。
たいてい、土日祝日は、妻とどこかへ出かけていることが多く、
ふつう、正午~夕方は、テレビをずっと見て過ごす、というのは、
まずありません。
テレビを見てなんとなく過ごすよりも、
どこかに出かけた方が、よほど楽しいからです。
いつもならば・・・

今日の祝日に、NHKハイビジョンでは、朝の7:45から、夕方6時まで、
ほぼぶっ通しで、「サラリーマンNEO シーズン4」を一挙放送していました。
私たち夫婦は、正午前くらいから見始めました。
本放送時(日曜夜11時~)にも、毎回ではありませんが、
結構見ていました。
既に知っている内容が多かったですが、
2回目に見ても、とても面白かったです。

結局、途中で、妻と一緒に、
近くのスーパーまで歩いて買い物に行った約30分以外、
私たち夫婦は、夕方6時までずっと見続けてしまいました・・・
妻にとってもかなり面白かったようです。

ひたすらテレビ番組を見て過ごす昼下がり、というのは、
(DVDで映画を見る、というのは別として)
結婚以来、もしかしたら初めてかもしれません。
(昼から夕方にかけてのテレビ番組、というのは、
それほど見る価値があるとは思えませんので・・・
もしその時間家にいたとしても、テレビを見る以外の、
何か別な事をしていると思います。)

あえて言えば・・・
面白すぎて、外出する気になれなかった、というのが、
NHKへのうれしい苦言かもしれませんね。
(残念ながら、我が家にはまだ、
地上・BSデジタル対応の録画機器はありません。)

いろいろ面白いコント満載ですが、
面白さベスト3以内に入れたいのが、
「白石夫婦シリーズ」です。
NHKとしては、セリフがきわどい内容かなぁ・・・と思いますが、
露骨な言葉を使わなくても、ここまで表現できる、という意味で、
オドロキ・秀逸なコントです。

「いい夫婦の日」は、昨日でしたが、
別な意味で、今日もう一度、「いい夫婦の日」であったかな、
と思っています。
たまには、こんな日があっても、いいものです。

2009年11月22日 (日)

いつも喜んでいなさい/常に喜べ(Ⅰテサロニケ5:16~18)【自作曲】

「使徒パウロ関連作品シリーズ」第7弾です。
ひとまず、使徒パウロ関連作品シリーズは、今回で終了とします。

最終回は、「テサロニケの信徒への手紙Ⅰ」5:16~18による曲を、
2曲紹介します。
テキストは、新共同訳と、文語訳です。
参考までに、今回の曲のテキストである新共同訳と、文語訳と、
テキストではないですが、新改訳とエマオ出版訳も記載します。

(新共同訳)
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、
神があなたがたに望んでおられることです。
(文語訳)※旧字体を一部、現在の漢字表記にしています。
常に喜べ、絶えず祈れ、凡(すべ)てのこと感謝せよ、
これキリスト・イエスに由(よ)りて神の汝らに求め給ふ所なり。
(新改訳)
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
(エマオ出版訳)
常に喜んでいなさい。
絶えず祈り続けなさい。
全てのことに感謝していなさい。
それこそ、あなたがたに対するキリスト・イエスにある神のみこころです。

新約聖書の中で、特に好きな御言葉を3ヶ所選んでください、
と言われたら、私なら、
このⅠテサロニケ5:16~18と、ローマ8:28、
それと、ヨハネ3:16をあげます。
この3ヶ所で、自分の基本的な信仰は成り立っていると思います。

上記4種類の訳のうち、好きな箇所や特徴をあげれば・・・
・新改訳の「すべての事について、感謝しなさい。」の「すべての事」という所です。
新共同訳の「どんなことにも」よりも、いっそう具体的に感じます。
つまり、良いことも、自分にとって都合の悪い事態にも、という訳です。
・エマオ出版訳の「絶えず祈り続けなさい」は、
継続の時制がきちんと訳されています。何事も、「継続」が大切なのですね。
・文語訳は、さすがに格調高いですね。
・新共同訳は、ある意味平凡ですが、頭にすぐ思い浮かぶのが、この訳です。

Ⅰテサロニケ5:16~18への作曲は、この2曲も含めて、
今までに9曲与えられています。
(新共同訳4曲、文語訳4曲、バルバロ訳1曲)
「いつも喜んでいなさい。」はその第1番目で、
「常に喜べ(4)」は、一番新しい作品で、第9番目です。
なお、「常に喜べ(4)」の(4)とは、
文語訳での作曲で4番目、ということです。
この2曲は、それらの作曲のうち、
新共同訳と文語訳の代表です。

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年11月21日 (土)

生きることはキリスト(ピリピ1:21)【自作曲】

「使徒パウロ関連作品シリーズ」第6弾です。

今回のタイトルは、「生きることはキリスト」です。
テキストは、新約聖書 ピリピ人への手紙1:21、20新改訳です。

参考までに、ピリピ(フィリピ)1:21の、
新改訳と新共同訳と、エマオ出版訳のテキストを引用します。
ちょうど、この聖句は、エマオ出版訳の新約聖書の表紙に、
「他の訳との比較」、ということで、記載されているからです。
(新改訳)
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
(新共同訳)
わたしにとって、生きるとはキリストであり、
死ぬことは利益なのです。
(エマオ出版訳)
なぜならば、私にとって(私の中で働いておられる)キリストが
生命活動(の源泉)であり、(肉体が)死ぬことは益であるからです。

3つの訳のうち、一番簡潔なのは、新改訳ですね。
エマオ出版訳のは、「なるほど」と思わされます。
新共同訳は、「利益」という言葉がちょっとひっかかります。

それはさておき、ピリピ(フィリピ)人への手紙は、
使徒パウロが獄中で、
明日をも知れぬ命になるかもしれないという、
緊迫感の中にあって書かれたものとされています。
しかし、不思議な明るさと喜びが、書簡中に満ち溢れています。
「喜び」、「喜ぶ」という言葉(「喜」という字)が、
16回使われています(新共同訳の場合。久々に、実際に数えました。)。
エペソ人への手紙には、不思議な透明感があります。
ちょうど、モーツァルト最晩年の作品の数々のように、
死を越えた世界を、しっかりと見据えているからでしょう。

このテキストへの作曲は、現在までに、
この曲を含めて2曲与えられています。
そのうち、この曲の方が好きです。

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教育の目的

教育とは、より良い人間を育てることです。
苦しんでいる人や貧しい人を助けたいと考え、
行動する人を育てることです。
教育は、学校からではなく、
家庭から始まるのだということも忘れてはなりません。
世界観、行動基準は、家庭で学ばずどこで学べるというのでしょう。

これは、今日の読売新聞朝刊に出ていた、ヨゼフ・ピタウ氏の言葉です。
ヨゼフ・ピタウ氏は、カトリック教会大司教で、元上智大学学長です。
読売新聞の「時代の証言者」というコラムで、
氏の生い立ちから現在に至るまでが連載されていました。
今日が、ちょうどその最終回(23回目)でした。
毎回、興味深く読んでいました。

上記の言葉は、さすがすばらしい教育者だな、と思わされました。
良い会社、良い大学、良い高校に入る、のが、究極の教育の目的ではなく、
「より良い人間になるのが、教育の目的である。」というのは、
実にすばらしいことです。
今、「何のために勉強するのか」と疑問を持つ児童・生徒・学生が多いですね。
すると、親や教師は、「良い高校、良い大学、良い企業に入るため」としか、
答えられない場合が多いですね。
それなら、「じゃあ、良い高校、良い大学、良い企業に入ったら、どうなるの?」
という疑問が出てきます。
そうすると、「良い老後に備えるため」と答えたら、
「結局、死ぬために備えるなら、勉強しても意味がない」とならないでしょうか。
人生の目的を間違えた問いですね。

私たちは神の作品であって、
良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。
(新約聖書 エペソ人への手紙2:10新改訳)

また、冒頭の言葉は、学校に対して過剰な期待を抱き、
家庭での教育を放棄する傾向にある親に対して、
耳の痛い言葉ですね。
本当に大切なこと(世界観や行動基準、道徳)は、
教師が教えるのではなく、親が子に伝えるものです。

夢を描きにくい時代~終末論と希望

先日、妻と一緒に、ある寿司店に行った際、
その寿司店の来年のカレンダーを無料でもらいました。
カレンダーを見ると、当然の事ながら、「2010年」と書いてありました。
そこから、妻と、「10年前の2000年には、何をしていた?」という話になりました。
(その話題は省略します。)

それから、映画の「2001年宇宙の旅」の事をふと思い出しました。
残念ながら、2001年には、
あの映画のように、木星まで行く、というのは実現できませんでした。
(今も無理ですね。)
しかし、映画の結末はともかく、映画が作られた頃はまだ、
少しでも、未来に肯定的なヴィジョンがあったはずです。

しかし、いつの間にか、映画で描かれる近未来は、
ほとんどの場合、陰惨なものが多くなりましたね。
そんな中、ちょうど今日から、日本では映画『2012』が公開されますね。
(私はたぶん観にいかないと思います。)
近未来像が、あのような凄惨なものなら、子どもたちの希望はなくなります。
本当に、夢を描きにくい時代ですね。

なんと、「2012年に世の終わりが来る」と信じて、
自殺してしまった人も中には出たようです。
だから、わざわざNASAが異例にも、
「2012年地球滅亡説はでっちあげだ。」と声明を出したほどです。
(記事は以下でどうぞ。)
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2662082/4877955

ほかにも、ニューエイジ系の人たちが、
「2012年にアセンションを迎える」
(アセンション=ウィキペディアによると、
『「惑星地球の次元上昇」。
ニューエイジ、新興宗教などのスピリチュアルな考え方を尊ぶ思想では、
未来の予測の一つとして盛んに取り上げられるが科学的根拠はない。
アセンションの存在を支持する人々によれば、
アセンションとは人間もしくは世界そのものが
現在の三次元からより高次元の存在へと進化することとされる。
アセンションの存在を支持する人々は、
アセンションは2012年前後に起こるのではないかと推測しており、
現在の地球の環境問題や混沌とした社会現象、
人間の善悪に対する意識レベルの低下を
その変化への前触れであると見なしている。』)
などと主張しています。
それならば、2012年は、映画のような陰惨なものではなく、
むしろ、黄金時代の到来、となります。

あと、一部の福音派では、大艱難の前に、「携挙」がある、
と信じています。
大艱難の前には、「本物の」クリスチャンは、
天に引き上げられて皆いなくなるそうです。
「レフトビハインド」なんて小説も書かれていましたね。
(そうなればいいなぁ、とは思いますが・・・)

終末論の本家本元である聖書、特にヨハネの黙示録では、
終末の阿鼻叫喚の様子と同時に、
来るべきメシアの世の黄金時代が描かれています。
「終末の恐ろしい裁き」を強調して、信仰に入ることを強制する、
カルト的な教派もよくありますね。
私は、恐怖をネタに、信仰をすすめるのには反対です。
恐怖よりも、神への愛を信仰の動機にしたいものです。

それはともかく、はたして、2012年地球滅亡説とか、
2012年アセンション説、というのは、正しいのでしょうか?
私は未来の事はわかりません。
しかし、世界の終末がいつ来るのか、
それはわからない、ということだけは知っています。
キリストでさえも知らない事を、
私たちが知ることができるはずはないのです。
(「その日、その時(=終末の日)は、だれも知らない。
天使たちも子(=イエス様)も知らない。
ただ、父だけがご存じである。
(新約聖書 マタイによる福音書24:36新共同訳))

では、私たちは世界の終末とか、そういう情報に対して、
どうすればいいのでしょうか。
神様の言葉を信じましょう。
わたし(=イエス様)は、平和をあなたがたに残し、
わたしの平和を与える。
わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。
心を騒がせるな。おびえるな。
(新約聖書 ヨハネによる福音書14:27新共同訳)

神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
わたしたちは決して恐れない
地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも
海の水が騒ぎ、沸き返り
その高ぶるさまに山々が震えるとも。
(旧約聖書 詩編46:2~4新共同訳)

終末=阿鼻叫喚地獄、という陰惨なイメージではなく、
むしろ、→イエス様の来臨=栄光の時代の到来、
という、プラスのイメージを持ちたいものですね。
アーメン、主イエスよ、来てください。
(新約聖書 ヨハネの黙示録22:20新共同訳)

生きているのは(ガラテヤ2:20)【自作曲】

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「使徒パウロ関連作品シリーズ」第5弾です。

今回のタイトルは、「生きているのは」です。
テキストは、新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙2:20新共同訳です。

ところで、何で今回は、
仏像とマトリョーシカ人形の写真を使っているかを説明しますね。

仏像の写真は、平安時代に造られた、
重要文化財指定を受けている、「宝誌和尚立像」です。
中国に実在した和尚さんの伝説を、彫刻化したものです。
時の皇帝が、絵師に和尚の顔を描くよう命じたところ、
なんと和尚の顔が割れて(!!)、中から十一面観音菩薩が現れ、
刻々と顔を変えていくため、結局絵師は和尚の顔を描けなかった、
という伝説によります。
現在は、京都国立博物館にあるそうです。
私もかなり前に実物を見た記憶があります。

生きているのは、もはやわたしではありません。
キリストがわたしの内に生きておられるのです。
(新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙2:20新共同訳)
このパウロの言葉を、彫刻で表すと、たぶんこの仏像のようになるでしょう。
使徒パウロの顔が割れると、中からキリストの顔が現れる・・・

実際は、そういう即物的なことを、
使徒パウロは言いたかったのではありませんね。
霊的な意味では、洗礼によって自分に死に、
キリストにおいて甦ったわけですから、
本来は、それぞれの人生において、
キリストのように生きることを目指すのが、クリスチャンです。
使徒パウロはどこまでいっても、
彼固有の生き方と役割を全うしましたが、
その生き方、言葉、行ないは、常にキリストを証していました。
だからこそ、彼は自信を持って、
クリスチャンはどう生きるべきかについて、の手本として、
わたしがキリストに倣う者であるように、
あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。
(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ11:1新共同訳)と言えたのです。
「キリストを見なさい」、「使徒ペテロを見なさい。」とかではなく・・・

私たちも、同じように言えるでしょうか?
それとも、あのマトリョーシカ人形のように、
自分の思い、欲望・・・・・・
最後に小さく、申し訳程度にキリストが入っている、という程度でしょうか?
(自分のすぐ下に、キリストが出てくるならば、幸いですね。)
まぁ、キリストが全然いない、というよりは、
遥かに良い事ではありますが・・・

私たちは、キリストによって既に「神の子」とされています。
(参考:「あなたがたは皆、信仰により、
キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」
(新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙3:26新共同訳))
信仰における兄弟姉妹を、そのような視点で見ているでしょうか?
それとも、「所詮、皆、罪人じゃないか・・・」という視点でしょうか?
教会においては、どうも、「人間・神の子」よりも、
「人間・罪の子・罪人」という視点が強調されすぎます。
私たちが信仰にあるのは、単に、罪滅ぼし的なものではなく、
「神の子とされた!」という喜びであるはずです。

「法華経」に出てくる「観世音菩薩」は、
さまざまな相で、人々を救済するために出現する、とされています。
(「妙法蓮華経」中の「観世音菩薩普門品第二十五」)
観世音菩薩→キリストの変形版、と考えれば、
ある意味では、この世で出会うさまざま人、一人ひとりが、
姿を変えたキリスト様なのかもしれませんね。
(参考:マタイ25:31~46)

作品の解説に移ります。
ガラテヤ2:20への作曲は、現在までに、2曲与えられています。
その中で一番好きなのが、この曲です。
私も、使徒パウロ同様、この御言葉を、
確信と深い共感を持って、宣言したいなぁ、と希望しています。
(まだ、マトリョーシカ状態なのかもしれませんが・・・)

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年11月20日 (金)

だれでもキリストのうちにあるなら(Ⅱコリント5:17)【自作曲】

「使徒パウロ関連作品シリーズ」第4弾です。

今回のタイトルは、「だれでもキリストのうちにあるなら」です。
テキストは、新約聖書 コリント人への手紙Ⅱ5:17新改訳です。

参考までに、新改訳と新共同訳のテキストを併記します。
(新改訳)
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
(新共同訳)
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。
古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

この2つの訳を比較すると、1行目は、どちらかというと新共同訳の方が好きです。
キリストのうちにある」よりも、「キリストと結ばれる」の方が、
関係性をより明確にしています。
結ばれる」は、キリストとの愛の絆を連想させます。
2行目は、断然新改訳の方がすばらしいです。
見よ、すべてが新しくなりました。」!!!
新生のよろこびと感動が伝わる訳ですね。
キリストと結ばれるなら、過去は過ぎ去ったのです。

このテキストへの作曲は、現在までに、この曲を含めて6曲与えられています。
その中でも、一番好きなのが、この曲です。

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年11月19日 (木)

愛(Ⅰコリント13章)【自作曲】

「使徒パウロ関連作品シリーズ」第3弾です。

今回のタイトルは、「愛」です。
テキストは、新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰの13章4~8節新共同訳です。
聖書の中で、最も美しい章の一つが、このⅠコリント13章ですよね。

このテキストへの作曲が初めて与えられたのは、10年くらい前だと記憶しています。
ちょうど、モーツァルトのピアノ協奏曲第21番の第2楽章を聴いていたときでした。

ところで、このテキストの「愛」のところに、
自分の名前をあてはめてみたら、どうなりますか?
○○は忍耐強い、○○は情け深い・・・」
全部当てはまる人は、はたしているでしょうか?
そう、私を含めて、ほとんどの人は、なんと「愛」に遠いことでしょうか・・・
完璧にあてはまるとしたら、イエス様だけかもしれません。
イエス様は忍耐強い、イエス様は情け深い・・・」
完璧にはほど遠い存在である私たちですが、
それでもなお、イエス様が、
互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34新共同訳)と命じられましたから、
私たちも、愛を実現していきたいものです。

Ⅰコリント13:4~8への作曲は、この曲も含めて、5曲与えられています。

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年11月18日 (水)

「♪仕事が1番、家庭は2番・・・」?

「♪カステラ一番、電話は二番・・・」は、
文明堂の有名なCMソングですね。

11月17日深夜(今日の0:10~)に放送していた、
NHKの「TOKYOニュースRIMIX」という番組をたまたま少し見ました。

お堅いイメージのNHK(最近、そうでもなさそうですが・・・)で、
「セックスレス」についての番組をやっていました。
世界で一番、年間の「回数」が多い国とされるギリシャで、
ギリシヤ人の夫婦にインタビューしていました。
その中で、「すばらしいなぁ~」と思ったコメントがありました。
2人の子どもを持つ夫が、こう言っていました。
「どんなことがあっても、家庭が1番、仕事が2番だ。」
(メモをとっていたわけではないので、多少違うかもしれませんが・・・)
日本では、言いたくてもなかなか言えないセリフかもしれませんね。

「家庭が1番、仕事が2番・・・」
すぐさま、冒頭に挙げた、文明堂のCMソングの替え歌が頭に浮かんできました。
♪仕事が1番、家庭は2番、休日疲れてゴロ寝だけ・・・
日本でよくある光景かもしれません。
まぁ、次のよりは、ましでしょう。
♪仕事が1番、愛人2番、家庭は全然顧みず・・・
願わくは、以下のとおりでありたいですね。
♪家庭が1番、仕事は2番、休日大好き家族デー・・・
私にとっては、やはり「♪家庭が1番・・・」ですよ。

クリスチャンであれば、「教会」はいったい、何番にすべきでしょうか?
私は、「家庭」が1番であり、「教会」は、2番だと思います。
理由は、「教会」にせよ、「仕事」にせよ、その働きには、
「代え」の人がいつか必ず現れます。
しかし、「家庭」には、決して、「代え」はありません。
また、「信仰」は、決して、「教会」だけで行われるものではありません。
さらに言えば、夫婦の一方のみクリスチャンの場合で、
特に熱心な信仰の人の場合、
「教会」が、夫婦や家族の支障になっているケースもあるようです。
信仰熱心さが、家族の救いの妨げになることもあるのです。

日本の教会(特にプロテスタント)は、今まで、
個人伝道をメインにしてきました。
しかし、その「個人」だけで、家族に恵みを伝えられずに、
その人だけで終わってしまうことがとても多かった、と思います。
21世紀の伝道の単位は、「個人」よりも、「家族・家庭」だと私は考えています。

2009年11月17日 (火)

だれが、キリストの愛から(ローマ8章)【自作曲】

「使徒パウロ関連作品シリーズ」第2弾です。

今回の曲名は、「だれが、キリストの愛から」です。
テキストは、新約聖書 ローマの信徒への手紙8:35~37新共同訳です。

この曲を歌うには、2オクターブ以上の広い声域が要求されます。
たぶん、最後の絶叫にも似た、「・・・収めています!」、「・・・できましょう!」
のところは、普通の声の人には、歌うのがつらいかもしれません。
(私でさえ、その部分を歌うのは、少しつらいです。)
しかし、まさに、叫ばずにはいられないほどに、
キリストの愛はすばらしすぎるのです!!!

私は、ローマ8:37の訳では、新共同訳よりも、
新改訳の方が好きです。両方引用してみましょう。
(新共同訳)
しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、
わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
(新改訳)
しかし、私たちは、私たちを愛してくださる方によって、
これらすべてのことの中にあっても、
圧倒的な勝利者となるのです。

上記で、下線を引いたところに注目してください。
輝かしい勝利」と「圧倒的な勝利者」・・・
どちらが、魅力的な表現でしょうか?
やはり後者の方が力強く感じられます。

ローマ8:35&37の組み合わせによる曲は、現在までに、
この曲を含めて6曲与えられています。
新共同訳4曲、バルバロ訳1曲、カトリックの聖務日課から1曲です。
その中でも一番気にいっているのが、この曲です。

使徒パウロは、キリストを信じたら、いいことずくめだ、などとは、
決して言っていません。
むしろ、様々な迫害や困難がある、と正直に書いています。
しかし、それでも、たとえ命を失うような事態になろうとも、
キリストが示してくださった人知を超える神の愛から、
引き離すものは何もないんだ!という深い確信が、
使徒パウロに、あのような力強い言葉を書かせたのでしょうね。
文語訳の表現を借りれば、
勝ち得て餘(あまり)あり。」(ローマ8:37文語訳)なのですね!
それは、使徒パウロだけではなく、
あるいは、聖人級の信仰、といった特別な人だけではなく、
ほかならぬ、私たちにも用意されているものです。
神の恵みであるイエス様を賛美しましょう!

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年11月16日 (月)

大宣教命令行進曲(マルコ16:15、使徒16:31)【編曲】

今週は、使徒パウロにちなむ作品を紹介していこうと思います。
対象は、「使徒言行録(使徒行伝)」から、
「ヘブライ人への手紙」までです。
(ヘブライ人への手紙は、明確に、
パウロの著作ではありませんが、
便宜上、パウロの著作扱いとさせてください。)

第1弾は、マルコ福音書と使徒行伝の御言葉をセットにした、
勇壮な曲です。
題して、「大宣教命令行進曲」です。
今回の曲は、編曲です。
原曲は、ヴェルディのオペラ『アイーダ』中の、
有名な合唱曲である、「凱旋行進曲」です。
(いかにも、「これぞオペラ!」という感じの、豪華な曲です。)

テキストは以下のとおりです。
なお、原文は、一部旧漢字・旧かなづかいになっていますが、
便宜上、現在の表記にしているところがあります。
全世界を巡りて
凡ての造られしものに
福音を宣傳(のべつた)えよ。
[ハレルヤ]
(新約聖書 マルコ傳福音書16:15文語訳)

主イエスを信ぜよ、
然(さ)らば汝も
汝の家族も救われん
[アーメン]」
(新約聖書 使徒行傳16:31文語訳)

ところで、マルコ福音書16:15~18は、
「大宣教命令」と言われる箇所です。
(マタイ28:18~20もそうです。)
これを、英語で何というのか、調べてみました。
"Great Commission"と言います。
ウィキペディアの英語版に載っていました。
なお、ウィキペディアにおいて、
"Great Commission"の中文版はありましたが、
残念ながら、まだ日本語版はありませんでした。

歌詞は文語ですが、実におぼえやすいメロディですし、
実際、歌っていると、元気が出てきます。
家族の救いを信じて、日常的に歌われるようになれば幸いです。

ちなみに、先日、NHKのイタリア語講座応用編で、
作曲家ヴェルディの最高の"Opera"(作品)とは何か、
というのをやっていました(2009年11月6日(金)の回)。
彼にとって、最高の"Opera"とは、
「オテロ」でも「アイーダ」でもなく、
実は、彼が創設した、「音楽家の憩いの家」という、
世界で初めてかつ唯一の、音楽家のための養老院です。
彼自身「あの家はまさに(私の生涯で)最もすばらしい"Opera"!」と
断言した、というエピソードが伝えられています。
作曲家の美談ですね。

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年11月15日 (日)

Anima Christi【自作曲】

「カトリック的な作品」シリーズ第8弾で、
ひとまずこのシリーズ最終回です。

今回は、聖イグナチオ・デ・ロヨラによる、
"Anima Christi"(アニマ・クリスティ〔キリストの魂〕)を紹介します。

テキストは、以下のサイトでごらんください。
「きょうをささげる」という、カトリックのサイトです。
その中で、「アニマ・クリスティ」というところをクリックしてくださいね。
http://seseragi.jesuits.or.jp/sasage/index.htm

カトリック・正教会・プロテスタント各派において、
聖餐式(聖体拝領・領聖)の扱いは、様々です。
カトリックと正教会のように、
それが礼拝の中心になっているところに対して、
全然重要視しないプロテスタントの派もあります。
せいぜい、聖餐式をしても、年に2回程度とか・・・
また、どういうパンを使うのかも様々です。
(聖書的なのは、普通の食パンではなく、種なしパンです。)
さらには、カトリックのように、
原則、一般信徒は「キリストの血」をいただかないところもありますし、
(禁止されているわけではありませんが・・・歴史的な経緯によります。
また、特別な機会には、信徒も「御血」をミサ中に拝領できます。)
「ぶどう酒」ではなく、
「ぶどうジュース」を使うプロテスタントの派も結構あります。
(聖餐をいただく人の中には、アル中の人もいるわけですから、
賢明な判断である、とも言えますが・・・)

上記のような形式論争はともかく、
少なくとも私にとっては、
キリストの御体をいただくことは、
信仰生活の中心の一つに位置づけられています。

余談ですが、カトリックで使っている用語「聖体拝領」という訳語は、
"Communion"という本来の言葉からかけ離れているように思えます。
ラテン語の元々の意味は、「共有すること」です。
"com"(ともに)+"union"(一致)・・・
これは、単に、「私と神様との一致」だけを表すものではありません。
「私と神様との一致」しか念頭にないのであれば、
それはもはや、霊的なエゴイズムです。
(「拝領」という言葉で、うやうやしく、キリストの御体をいただく、
ということを強調したかったのでしょうが・・・)
「私と神様との一致」の他に、実は、キリストの体を通しての、
「キリストにおける兄弟姉妹との一致」があります。
(参考:「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。
(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 10:17新共同訳))

今回紹介したテキストは、どちらかというと、
「私と神様との一致」を強調したものです。
しかし、聖イグナチオは、決して、
恵みを自分にだけとどめていられませんでした。
キリストとの深い一致、
そしてキリストを通しての、兄弟姉妹への愛。
これこそ、いただいたキリストの御体と御血が、
文字通り、私たちの「血肉」となり、生きて働く時です。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

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サザエさんの頭

11月15日の「サザエさん」実写版ドラマを見ました。
観月ありささん演じるサザエさんを見て、
サザエさん独特のヘアスタイルは、
実はこうなっているのかぁ・・・と驚きました。
やっぱり、サザエさんはスゴイ!
(マスオさん役は、アニメ版とイメージがずれていたように思えました。)

「悪魔」が語る「本当のクリスマス」?

先日、niftyニュースをなんとなく読んでいると、
興味ふかい記事を見つけました。
「悪魔」のデーモン小暮閣下が、自身のブログで、
クリスマスについて意見を述べている、というものでした。
読んでみると、「悪魔」さんが書いた割には、
意外とまともなことを言っているなぁ、と感心しました。
記事とブログは以下をごらんください。
http://news.nifty.com/cs/technology/techalldetail/ameba-20091111-49846/1.htm
http://www.demon-kogure.jp/rev/index.cgi

要点を言えば(以下、niftyニュースからそのまま引用)、

1.本来キリスト教徒以外からは関係のない行事であること
2.「誰もが皆その『神の子の生誕を祝う行事』を快く感じていると思っているかの如き厚顔無恥な振る舞い、大間違いである」
3.11月に生まれた人に失礼
4.「そもそも行事は『恋しい人と過ごす日』でも何でもないのに、世間が阿呆みたいにそういう催眠術にかけられ踊らされている」
5.「その日を『金もうけに利用』している企業などの腰ぎんちゃくになって欺瞞行為を煽っているのは、これまたマス・メディアだ。スポンサーが怖いからだ」
とのことです。
みなさんはどう思いますか?

確かに、今や、クリスマス(イブ)は、サンタとプレゼントとケンタッキーの日か、
あるいは、「聖夜」ならぬ「性夜」になりさがっています。
また、欧米では、クリスマス前になると、
自殺者が多くなる傾向があるそうです。
本当の「聖夜」を、きちんと迎えたいものですね。

一本とってくれました!

先日、新聞やテレビ等で、
民主党の小沢幹事長が高野山の金剛峯寺を訪れた際に、
「キリスト教やイスラム教は排他的で独善的な宗教だ。」と批判して、
仏教を称賛した、という報道がありましたね。
(記事については、下記参照。)
http://www.christiantoday.co.jp/main/society-news-969.html
率直にいえば、「お前に言われたくねぇよ~」と思いました。\(*`∧´)/
無理解はなはだしいものではないか、と思いました。

そんな中、いつもウェブ上で読んでいる、
産経新聞のコラム「産経抄」11月14日付の記事は、
まさに「一本とってくれた」内容でした。
詳しくは、ぜひ記事をお読みください。
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091114/stt0911140332000-n1.htm

書評:前島誠著『ポケット聖書の教え』

先日、インターネット新聞の「クリスチャントゥデイ」で紹介されていました。
興味を持ったので、すぐ書店で立ち読みしてから、
楽天ブックスで買いました。
ユダヤ的な視点からの短い聖書解説がいっぱいです。
著者は、もともとカトリック司祭でしたが、
その後、玉川大学で教鞭を執った方です。
そのため、カトリック側からの視点も多いです。

この本は、どこから読んでもかまわないと思います。
気が向いたら、あるいは、興味があるところだけ
つまみ読みする、といった程度のつきあいでいいかな、と思います。

私が読んで、なるほど!と思ったところは何か所かありますが、
そのひとつを紹介しましょう。
体のともし火は目である。目が澄んでいれば、
あなたの全身は明るいが、
濁っていれば、全身が暗い。(以下省略)」
(新約聖書 マタイによる福音書6:22~23新共同訳)
いろんな解釈が可能なところですが、
たいていは、「目」を「精神」のあらわれるところ、
とするのが、一般的ではないでしょうか。

それに対して、前島氏のこの著作における解釈を引用しましょう。
まず、上記の聖書箇所を、独自に訳しています。
(念のため、独自訳であるか、
口語訳やフランシスコ会訳を調べて対照してみました。OKです。)
体のともしびは目である。
あなたの、目が健やかであれば、全身も明るい。
目が悪ければ、全身もまっ暗になる。
(マタイ6:22~23 上記P.52から引用)

「 さて、引用をごらんください。目が良いか悪いかという話です。
でも何を言いたいのかわかりません。
わからないはずです、これはヘブライ語の慣用表現なのでした。
 ヘブライ語で「目が良い」と言えば、気前が良い人のこと。
「目が悪い」というのは、けちん坊のことを意味します。
 けちな人は何となく暗い感じがする。
逆に気前のよい人はキラキラ輝いて見える。
そうではないか、とイエスは言った―――
これならわかるでしょう。
イエスはけちな人が大嫌いだったのです。
 残念なことに、新約聖書はギリシア語で書かれました。
そのため実際にイエスの話されたヘブライ語の意味内容が、
正確に伝わらない面がある。
他方、元のヘブライ語表現を推し量ることも可能というわけです。
(上記P.52~53から引用)
※下線は私による強調です。

NHKの「ためしてガッテン」なら、
「ガッテン!」とたたきたいところです。(*^-^)
持っていて損はない本だと思います。


ポケット 聖書の教え (中経の文庫)



ポケット 聖書の教え (中経の文庫)


著者:前島 誠




ポケット 聖書の教え (中経の文庫)

2009年11月14日 (土)

Veni Sancte Spiritus(聖霊への祈り)【自作曲】

「カトリック的な作品」シリーズ第7弾です。
(次回でひとまず「カトリック的な作品」シリーズは、終了します。)

今回は、「聖霊への祈り」(Veni Sancte Spiritus)への作曲を紹介します。
本来は、聖霊降臨祭(ペンテコステ)のミサにおいて、
「聖霊の続唱」として歌われたり、唱えられたりするものです。
(※高田三郎作曲による、典礼聖歌352番があります。)

カトリック以外の人には、
あまり知られていない祈りではないかと思いますので、
今回のテキスト紹介を兼ねて、記載します。
(なお、本文は、以下のサイトから転載しました。
"mo better blues"というブログです。
ただし、手元にある、ドン・ボスコ社発行の「祈りの手帖」と
違うところは、若干修正しました。主に漢字とひらがなの使い分けです。
また、私の曲にあわせて、空白行を挿入しています。

このブログは、
「聖霊への祈り」を掲載しているサイトを探していたときに、
見つけました。

書いている方は、難病の方のようで、
なおかつ、来年の4月にカトリック教会で、
洗礼を受ける予定のようです。
よろしければ、彼女のためにお祈りください。)
http://plaza.rakuten.co.jp/mobetterblues/diary/200905090002/


聖霊への祈り

聖霊、来てください。
あなたの光の輝きでわたしたちを照らしてください。
貧しい人の父、心の光、証しの力を注ぐ方。

やさしい心の友、さわやかな憩い、
ゆるぐことのないよりどころ。
苦しむときの励まし、暑さのやすらぎ、
うれいのときの慰め。

恵みあふれる光、信じる者の心を満たす光。
あなたの助けがなければ、
すべてははかなく消えてゆき、
だれも清く生きてはゆけない。

汚れたものを清め、かわきをうるおし、
受けた痛手をいやす方。
かたい心をやわらげ、冷たさをあたため、
乱れた心をただす方。
あなたのことばを信じて、
より頼む者に尊い力を授ける方。

あなたはわたしの支え。
恵みの力で、救いの道を歩み続け、
終わり無く喜ぶことができますように。アーメン。


これは、元々、ラテン語の祈りで、
"Veni Sancte Spiritus"といいます。
ラテン語原文に興味のある方は、
以下のサイトでどうぞ。
(ただし、日本語訳はありません。英語対訳のみ。)
http://en.wikipedia.org/wiki/Veni_Sancte_Spiritus

ところで、典礼聖歌352番の歌詞と、上記のテキストは、
微妙に相違しています。
(「聖霊の続唱」としてのテキストは、
女子パウロ会のサイトで掲載されています。)
http://www.pauline.or.jp/prayingtime/seirei01.php
この曲が最初に与えられたのは、5、6年前でしたので、
その際は、典礼聖歌のテキストに基づいていました。
しかし、今年になって、教会でお世話になっているある方から、
「聖霊への祈り」が書かれた小さなカードをいただいて、
再度、この曲を改作してみようと思い立ちました。
当然、カードと『祈りの手帖』にあわせて、テキストを改め、
また、メロディも細かい箇所をかなり修正しました。

この祈りは、1年に1度、聖霊降臨祭に歌うだけでは、
すごくもったいないものです。
私は、毎朝、いただいたカードを見ながら、
自作の曲を歌いながら祈っています。
(ぜひ皆様も、「聖霊への祈り」を日々唱えてみてください。
できれば、歌いながら、祈ってみてください。)
聖霊様の助けがあってこそ、
生き生きとしたクリスチャン生活を日々おくることができます。

高田三郎による「聖霊の続唱」は、まあまあ好きですが、
歌うのが難しいし、メロディが淡々としすぎているかな、
とも思います。何よりも、静的なイメージすぎます。
(その、フェルメールの絵や水墨画のような静謐さが好き、
という方も多いですが・・・)
聖霊様が働かれるところ、
そこにはダイナミックな力があらわれます。
だからこそ、私の曲においては、
喜びがほとばしるようなメロディとなっているつもりです。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

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あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。
そして、ユダヤとサマリアの全土で、
また、地の果てに至るまで、わたし(=イエス様)の証人となる。
(新約聖書 使徒言行録1:8新共同訳)

聖霊様、来てください!ハレルヤ!!!

2009年11月13日 (金)

Agnus Dei(平和の賛歌)【自作曲】※日本語2曲&ラテン語1曲

「カトリック的な作品」シリーズ第6弾です。

今回は、ミサの「平和の賛歌」(Agnus Dei)への作曲を紹介します。
(日本語のミサの式次第テキストは、
以下のサイトをごらんください。
京都市のカトリック桂教会のHPです。
Quick Timeがインストールされているパソコンなら、
MIDIによる典礼聖歌も再生可能です。)
http://www007.upp.so-net.ne.jp/catholic/katsura/mass.htm

「平和の賛歌」(1)は、既に紹介しましたので、
(10月9日(金)です。ホルスト"Jupiter"の編曲です。)
https://francesco-clara.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/agnus-dei-66f2.html
今回は、(2)と(3)、及びラテン語テキストへの作曲を紹介します。
この3曲は、いずれも11月11日中に与えられたものです。

「平和の賛歌」(2)は、穏やかなニ長調です。
対して、「平和の賛歌」(3)は、ロ短調です。
どちらも、#2つですね。
(3)の方は、「平和」を切実に願い求める響きがあります。
一方、(2)の方は、既にその「平和」が与えられている、
というような感じがします。

ラテン語の"Agnus Dei"は、グレゴリオ聖歌風のイメージですが、
部分的に、J・S・バッハの有名なカンタータである、
カンタータ第140番中の有名な旋律のこだまがあります。
この3曲の中では、ラテン語版のが一番好きな作品です。
作曲しようと思って、取り組んだのではなく、
本当に、ふと、思いがけない場所で、思いがけない形で、
このメロディは与えられました。
神の小羊である主を賛美します!

ラテン語テキストは、以下のとおりです。
Agnus dei, qui tollis peccata mundi
miserere nobis.
Agnus dei, qui tollis peccata mundi
miserere nobis.
Agnus dei, qui tollis peccata mundi
dona nobis pacem.

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2009年11月12日 (木)

主なる神をたたえよ(エルガー『威風堂々第1番』より)【編曲】

今日の大きなニュースの一つは、
「天皇陛下即位20周年」の式典についてでしたね。

日本のクリスチャンは、ともすると、反権力的傾向があり、
憲法に規定されているにも関わらず、
天皇陛下の存在を認めようとしない人が多いですが、
(聖書には、明確に、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。
(新約聖書 ローマの信徒への手紙13:1新共同訳)と書いてありますし、
また、「敬うべき人は敬いなさい。」(同13:7新共同訳)とも書いてあります。)
これはよくない態度だと思います(たとえ苦い過去があったとしても・・・)。
私は、日本国民の一人として、天皇陛下の即位20周年をお祝いします。
(信仰と愛国心は、相反するものではないです。)

その記念として、イギリスでは愛国的な曲として知られる、
エルガーの『威風堂々第1番』中の、
有名な部分を編曲した曲を今回紹介します。

この編曲は、エルガーのべストCDの中で、
『威風堂々第1番』の中間部(今回編曲した部分)に、
「希望と栄光の国」という愛国的な歌詞をつけて演奏されたものを聴いて、
感激したときに与えられたものです。
なお、オリジナルスコアは、4分の2拍子ですが、
編曲にあたって、2分の2拍子に変更しました。

余談ですが、私の妻に『威風堂々第1番』のCDを初めて聴かせた時、
「あっ、『あたしンち』の曲だ~」と驚いていました。
(エンディングテーマとして使われていましたね。)
エルガーの曲は結構好きです。

テキストは、旧約聖書 詩編72:18新共同訳です。

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

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そこで、まず第一に勧めます。
願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。
王たちやすべての高官のためにもささげなさい。
わたしたちが常に信心と品位を保ち、
平穏で落ち着いた生活を送るためです。
これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、
喜ばれることです。
(新約聖書 テモテへの手紙Ⅰ 2:1~3新共同訳)

子が犯罪者になっても親は親、子は子

11月10日の大きなニュースのひとつは、
外国人講師殺害事件の容疑者が捕まったことでしたね。
顔を整形してまで逃亡を続けた容疑者については、
司法が適切な裁きを下すはずです。

これに関連する報道で、ひとつ気になったものがありました。
容疑者の両親が、実際に顔を出して、
息子である容疑者が捕まったことに関して、コメントしていました。
正直言いますと、「ここまでして大丈夫なの?」と思いました。
ただでさえ、隣近所からは噂のタネになっているはずですし、
全国放送で、顔が知れ渡る、というのは、大変なことです。
「正義漢」ぶった人が、どんなことをしでかすかわからないし、
おそらく、しばらくの間は、日常生活にかなり支障が出ることでしょう。
(11月11日のNHKニュースでは、再び顔は映さないで、
改めて、息子の逮捕についてコメントしていました。)
しかし、堂々と顔を出して、
息子の逮捕についてコメントする姿は、潔く、尊敬に値すると思いました。

コメントの中で、注目したのは、父親が、
「息子がかわいいことには変わりない。」と述べたことです。
息子が卑劣な犯罪者になろうとも、親は親、子は子なのです。
容疑者は、もう成人ですから、親に責任はありません。
しかし、それでも、親であるから、子は見捨てられない。
親子の絆の深さを思いました。
(美術における「ピエタ」像が、私たちの胸を打つのは、
子(=イエス様)を思う母親(=聖母マリア)の胸の痛みが、
普遍的なものだからでしょう。)
ぜひ、容疑者は、親の愛を思い、更生してほしいものです。
(おそらく、この事件では、死刑適用にはならないはずです。)

こういう、親の愛の強さを知ると、
どうしても、神様の愛へと思いが飛んでいきます。
神様は、私たちが何度そむこうとも
(悲しまれますが)、決して、見捨てることはありません。
ただ、私たちが、神様のもとに立ち返ってくることを望まれています。
ちょうど、あの「放蕩息子のたとえ」のように・・・
父母はわたしを見捨てようとも、主は必ず、
わたしを引き寄せてくださいます。
(旧約聖書 詩編27:10新共同訳)

(※父母だって子を見捨てる場合があるのですから、
そう思えば、上記の容疑者は、恵まれていますね・・・)

Sanctus(感謝の賛歌)3曲【自作曲】

「カトリック的な作品」シリーズ第5弾です。

今回は、ミサの「感謝の賛歌」(Sanctus)への作曲を紹介します。
(ミサの式次第テキストは、
以下のサイトをごらんください。
京都市のカトリック桂教会のHPです。)
http://www007.upp.so-net.ne.jp/catholic/katsura/mass.htm

今週の企画は、本来、旧作を紹介するだけのつもりでしたが、
「作曲家魂」に火がつきまして・・・(^-^;
いきおい、今まで作曲していなかった、「感謝の賛歌」、
「平和の賛歌」(※"Jupiter"の編曲として、既に1曲紹介しましたが・・・)
への作曲が新たに与えられました。

今回紹介する3曲は、いずれも11月10日に、
一気に与えられたものです。

「感謝の賛歌」(1)は、メンデルスゾーンの有名な歌曲である、
「♪歌の翼に」の影響を受けています。
「歌の翼」ではなく、「ケルビムの翼」でしょうか・・・

「感謝の賛歌」(2)は、一昔前のSFアニメソング的な響きがします。
「感謝の賛歌」(3)が、実は(1)になるべき曲でした。
後で冒頭部分をまるごと作り変えたので、(3)となりました。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

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2009年11月11日 (水)

Credo(使徒信条)【自作曲】

「カトリック的な作品」シリーズ第4弾です。

今回は、使徒信条への作曲を紹介します。
テキストは、下記でごらんください。
カトリック中央協議会の公式HPです。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/dogma/dog01.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/prayers/creed.htm

日本語でのこの使徒信条になったのは、
意外と最近で、2004年のことです。
だから、このテキストへの作曲というのは、
まだほとんどないのではないでしょうか。

作品の解説に移ります。
作品の調は、イ長調で、私の作品では、「愛情」を表す調です。
「おとめマリアから生まれ~葬られ」のところは、
低い音が続きますが、「陰府(よみ)に下り」の最後で、
上昇する音になります。
そして、「三日目に死者のうちから復活し」のところで、
輝かしい高い音が連続するようになります。

使徒信条は、ともすると淡々と唱えられがちですが、
私にとっては、「三日目に死者のうちから復活し」の部分は、
光が満ち溢れるようなイメージがあります。
キリストは十字架で終ったのではなく、
復活の勝利をとられました!
だから喜びなのです。

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年11月10日 (火)

Gloria(栄光の賛歌)~日本語版&ラテン語版【自作曲】

「カトリック的な作品」シリーズ第3弾です。

"Kirie"の次は、"Gloria"(栄光の賛歌)というわけで、
今回は、日本語とラテン語によるGloria(栄光の賛歌)を紹介します。

テキストは、カトリックのミサで使用される、
「栄光の賛歌」です。
(ミサの式次第テキストは、
前回同様、以下のサイトをごらんください。
京都市のカトリック桂教会のHPです。)
http://www007.upp.so-net.ne.jp/catholic/katsura/mass.htm

なお、上記のHPや、典礼聖歌のテキストに対して、
あえて1箇所だけ、テキストを変更しているところがあります。
イエズス・キリスト」ではなく、「イエス・キリスト」に修正してあります。
既に、カトリック教会では、典礼等において、
以前の「イエズス」をやめ、「イエス」に統一しているわけですから、
当然、「栄光の賛歌」においても、「イエス」と歌われるべきです。
エキュメニカルな観点からも、また、日本伝道という観点からも、
至高なるお方(イエス・キリスト)の御名は、
プロテスタントにあわせて統一した名称を使うという、
カトリック教会の配慮は正しいと思います。

「栄光の賛歌」(日本語版)は、
カトリックの典礼聖歌のミサ曲2番を意識しました。
おだやかで、神様へ向かう愛のまなざしがあります。
(余談ですが、典礼聖歌のミサ曲は、
第1番、第2番を除いて、どれも歌いづらいと思います。
第3~7番になると、難解です。
特に第3~7番「栄光の賛歌」は、覚えるのが難しいです。)

"Gloria"は、ラテン語のテキストをそのまま使用しています。
ベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」の"Gloria"の部分を意識しています。
冒頭が高い音で始まりますので、かなり歌いづらいですが、
メロディとしては、おぼえやすいと思います。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
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Kyrie(あわれみの賛歌)(1)&(2)【自作曲】

「カトリック的な作品」シリーズ第2弾です。

今回は、「あわれみの賛歌」を2曲紹介します。
テキストは、カトリックのミサで使用される、
「あわれみの賛歌」です。
(ミサの式次第テキストは、
以下のサイトをごらんください。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/catholic/katsura/mass.htm
京都市のカトリック桂教会のHPです。
とてもよくまとまっていると思います。)

私の「あわれみの賛歌」(1)は、ト短調の曲です。
映画「ニュー・シネマ・パラダイス」の「愛のテーマ」に触発され、
作曲が与えられたものです。
「あわれみの賛歌」(2)は、グレゴリオ聖歌を意識しています。

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2009年11月 9日 (月)

Te Deum(テ・デウム~賛美の賛歌)【自作曲】

今週は、カトリック的な作品を紹介していきたいと思います。

第1弾は、「テ・デウム」です。
「テ・デウム」は、この詩のラテン語の冒頭、
"Te deum laudamus..."(われら神であるあなたを讃えん・・・)から、
この名称で呼ばれます。
中世から、聖務日課で使われていましたが、
17世紀以降、国家的な慶祝行事の音楽として、
多くの作曲家によって作曲されてきました。
その代表が、ブルックナーの作品ですね。

今回紹介するのは、ラテン語テキストではなく、
日本語テキストによります。
カトリック教会の『新しい聖務日課 教会の祈り』
(カトリック中央協議会)の、
P.37~38に基づきます。
既に、カトリックの「典礼聖歌」367番に、
高田三郎による作曲がありますが、
私の作品は、高田三郎の静的なイメージではなく、
動的なものとして、このテキストをとらえています。

テキストは、あまり知られていませんので、
今回、紹介します。
なお、私の作曲において付加したところは、
(  )で示しました。

賛美の賛歌(テ・デウム)


すべてのものの主、神よ、
あなたを たたえて歌う。
永遠の父よ、
世界は あなたを あがめとうとぶ。

神の使い、力あるもの、
ケルビムもセラフィムも
絶えることなく
高らかに賛美の声をあげる。

聖なる主、聖なる主、
すべてを治める神、
あなたの栄光は
天地をおおう。

ともに 声を合わせ、
あなたを ほめ歌う
救いを告げた預言者の群れ、
けだかい使徒と殉教者。

世界に広がる教会も
あなたを たたえる。
偉大な父、まことのひとり子、
あかしの力・聖霊を。

栄光に輝く王、
勝利のキリストよ、
とこしえに あなたは
父のひとり子。

すべての人の救いのために、
おとめから生まれ、
死にうち勝ち、
信じる者に神の国を開かれた。

父の右に座し、
すべてを さばくために、
栄光のうちに
ふたたび来られる。

とおとい血に あがなわれた
わたしたちを ささえてください。
諸聖人とともに
とわのいのちを喜ぶことができるように。

神よ、あなたの民を救い、
従う者を祝福し、
いつまでも
高め、導いてください。
導いてください。

日ごとに感謝をささげ、
世々に あなたの名を ほめたたえる。
わたしたちを きょうも、
罪から お守りください。

神よ、豊かなあわれみを わたしたちに。
あなたに寄り頼む わたしたちに。
あなたにかけた わたしの希望は
とこしえに ゆるがない。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

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なお、参考までに、ラテン語テキストを知りたい方は、
以下のサイトが便利です。
http://2style.net/misa/kogaku/kasi08.html

2009年11月 8日 (日)

信仰と律法との関係~現代的なたとえでの解釈

使徒パウロの「ローマの信徒への手紙」では、
信仰による救いが語られていますね。

特に1~5章で語られている、信仰と律法、
ユダヤ人とギリシャ人(=異邦人の代表)との関係、
罪とは、ということについて、
聖書をあまり読んだことのない人向けに、
うまく説明するたとえを以下のとおり考えてみました。

今、新型インフルエンザが大流行ですね。
日本でも、死者が50名ほど出ていますが、
今のところ、強毒性ではありませんね。
でも、たとえば、これが強毒性になり、
助かるためには、どんな健康法も利かず、
ただワクチンを打つしかないとしたら・・・

インフルエンザが、「罪」で、
「ユダヤ人」とは、ある種の健康法(→律法)を実践すれば、
どんな万病にかかることがない(→救われている)と主張するような人々。
ただし、その健康法を日々実践するのは、結構困難とします。
「ギリシャ人」は、そういう健康法をしない人々。
そう考えると、「ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にあるのです。
(新約聖書 ローマの信徒への手紙3:9新共同訳)ということになりますね。
そして、「信仰」とは、まずワクチンの効用(=神様の約束)を「信じ」、
実際に、ワクチンを「接種する」ことです。
そうすれば、「救われます」。
(ただワクチンの効能を「信じる」『だけ』では、救われません。
実際に、ワクチンを打つという「行為」が必要です。)

インフルエンザ用ワクチンの製造について調べてみると、
必ず、有精卵を使用して、そこにウイルスを植え付けるそうです。
つまり、死によって死を滅ぼす、というわけです。
十字架ですね。

聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。
それは、神の約束が、
イエス・キリストへの信仰によって、
信じる人々に与えられるようになるためでした。
(新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙3:22新共同訳)

2009年11月 7日 (土)

涙をぬぐわれる神(黙示録7章)【自作曲】

「諸聖人の日」、「死者の日」から、
11月の教会暦は始まりますが、
今週は、それにちなんで、
ヨハネ黙示録7章と、ヨブ記からの作曲を紹介してきました。
今回は、その締めくくりとして、
ヨハネ黙示録7章からの作曲を2曲まとめて紹介します。
どちらも、「神が彼らの涙をことごとくぬぐわれるからである。
(新約聖書 ヨハネの黙示録7:17新共同訳)という箇所を含む曲です。

人はなぜ苦しむのか、苦しみには何か意味があるのか・・・
人間にとって、とても重い問いの一つですね。
ある宗教では、「前世からのカルマ(業)によって、災いが起こる」と教えています。
(まだマシな方ですが・・・しまいには、「先祖・水子供養が足りないからだ」とか、
そんな教え方で、人を不安に陥れる宗教もありますね。)
では、キリスト教では、どのように苦難をとらえるのでしょうか?
少なくとも、「信じたらすべての災厄が消える」などとは教えていませんね。
(それなら、悪質なカルト教団と同じですね。)
苦しみにも意味がある。いや、苦しみさえも、益としてくださる!
プラスに変えてくださる!(参照:ローマ8:28)
その代表例が、イエス様の十字架と復活です。

ちょっと別な見方をしてみましょう。
たとえば、アクション映画や、サスペンス映画などで、
その映画を、初めから順に観るのではなく、
いきなり、最後のシーンから観たら、どうでしょうか?
主人公は波乱万丈いろいろあるけど、
最後にはハッピーエンドで終る、とか、
真犯人は○○だった・・・とか、
そういう結論を先に知っていれば、
映画にハラハラドキドキしつつも、どこか安心感があります。
(こういう映画の見方は、ちょっと邪道ですが・・・)

さらに別な例をあげましょう。
ドラマの『水戸黄門』は、途中どんな展開になっても、
放送終了前には、必ず印籠と決めゼリフが出て、
円満解決となります。
視聴者は、ワンパターンと知りつつも、
安心して、ドラマを見ていられます。
「信仰に生きる」とは、まさにこれに近いものがあります。
すなわち、まず人生の結論を知り、途中どんな困難があっても、
最終的には、安心して生きていける・・・
その結論とは、「神様が私を愛している」、「苦しみさえも益と変えてくださる」
そして、「来るべき世に、神様がすべての涙をぬぐわれる」ということです。

苦しみの意味は、生きている中で、見出す場合も多いですが、
やはり最終的な解決は、死後にはっきりとわかるものではないでしょうか?

サマセット・モームの代表作である『人間の絆』には、
たしかこんなような意味の箇所があったと記憶しています。
「人生の意味とは・・・人生は、ゴブラン織のようなもの。
人はそれを裏側からしか見ていない。」

別な言い方をすれば、人生はパズルのようなものです。
一つ一つのピースの模様は、何の意味があるのか、
さっぱりわかりませんが、しかし全体を組み合わせてみれば、
一つの大きな絵になる・・・
神様がそれを御覧になる・・・
そう考えれば、人生に無駄なことは一つもない、と確信を持てます。

先日紹介した、ロバート・シュラーの著書の中に、
実にステキな表現が出てきます。
傷(scar)が夢(star)に変わる(star into scar)
"scar"と"star"は英語ではスペル1字違いです。
ある物事が起きた、という「事実」は、
決して変えることができません。
しかし、それをどうとらえるか、という「真実」は、
変えることができます。
単に傷(scar)のままでとどめるのか、
それとも、それを、夢(star)へと変えるのか・・・
それこそ、信仰の世界です。
あなたがたには世で苦難がある。
しかし、勇気を出しなさい。
わたし(=イエス様)は既に世に勝っている。
(新約聖書 ヨハネによる福音書16:33新共同訳)

今回の曲の紹介に戻りましょう。
1曲目のタイトルは、「涙をぬぐわれる神」です。
テキストは、ヨハネの黙示録7:14~17新共同訳です。
3分の2はハ短調ですが、残り3分の1は、一応、変ホ長調です。
神が彼らの目から涙をことごとく ぬぐわれるからである。
(ヨハネの黙示録7:17新共同訳)の部分です。
明るい長調というよりは、
むしろ、深い慰めを感じさせるくすんだ長調、というイメージです。

2曲目は、黙示録7:17文語訳がテキストです。
おごそかなイメージです。

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年11月 6日 (金)

ヨブ記への作曲(2)(ヨブ19:25,26)【自作曲】

今回も、ヨブ記への作曲を紹介します。
テキストは、旧約聖書 ヨブ記19:25~26新共同訳です。
タイトルは、
わたしは知っている わたしを贖う方は生きておられ」です。

この箇所は、ヘンデルの『メサイア』の中でも、
一番美しいアリアのテキストにもなっています。
(第Ⅲ部第40曲)
"I know that my Redeemer liveth..."
で始まるこのアリアは、私にとって、
『メサイア』中一番好きなアリアです。
(『メサイア』のCDでは、
第39曲の「ハレルヤ・コーラス」と共に、
必ず聴く箇所です。)
このアリアは、今回のテキストの後に、
いきなり、Ⅰコリント15:20が付加されます。
そうすると、ヨブ記のテキストが、明確に、
復活を待ち望むものへと変貌します。
(『メサイア』のこのような関連づけは、
とてもすばらしいものです。
まさに、聖書で聖書を解釈するものです。
しかも、極上の音楽を伴って・・・)

今回の作曲は、ソプラノの声ではなく、
話者がヨブなので、男声を念頭においています。

中間部で、B♭を打ち消すナチュラル記号が出てきます。
この身をもって」(ヨブ19:25新共同訳)
のところに、悲痛な彩りを与えています。
ヨブの切実な願いをあらわしています。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
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2009年11月 5日 (木)

ヨブ記への作曲(1)(ヨブ1:21)【自作曲】

今回は、ヨブ記への作曲を紹介します。
テキストは、旧約聖書 ヨブ記1:21新共同訳です。
タイトルは、「わたしは裸で母の胎を出た」です。

私の作品の中では、非常に珍しく、
ヘ音記号を使っています。
陰鬱な響きがしますが、
最後には、嬰ハ短調から、あえて、ホ長調になります。
「あえて賛美する」・・・
主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ1:21新共同訳)
というテキストは、やけっぱちからこう言ったのではなく、
やはり、「心から」、「アーメン」(その通り!)と思って、
言ったのではないか、と考えます。
だから、このテキストへの作曲は、
短調で終わるのではなく、長調で終わる方がいいと考えます。

余談ですが、知り合いに、「丈夫」(じょうぶ)君という名の子がいます。
この名は、「ヨブ」の英語読みである、「ジョーブ(JOB)」から名づけた、
とその知り合いは教えてくれました。
ヨブの信仰に感動したからだ、とのことでした。

現在までに、このテキストへの作曲は、
この曲を含めて2曲与えられています。

ヨブ記は、義人の苦しみをテーマにしていますね。
しかし、一般的に考えれば、ヨブ記のテーマの解決は、
ヨブ記の中にありません。
それは、イエス様の十字架の中にある、と言えましょう。
(もちろん、ヨブ記38章~42章において、
ヨブは、まことの神に出会ったから、もうそれだけで、
十分な解決だ、
さらには、42章の「結び」は付加でしかない、
という解釈もありますが・・・)

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2009年11月 4日 (水)

北大のイチョウ並木

20091103_at_hokkaido_university

北海道大学構内の、イチョウ並木を見に行きました。
イチョウ並木は、ここ2、3日の寒さで、
急激に葉が落ちてしまったようです。
道路はまるで、黄色い絨毯を敷き詰めたようでした。
たくさんの人が見物に来ていました。
今年の秋も、もう終わりですね・・・
次は、まっ白い絨毯の到来を待つ日々です・・・
(写真を撮っているときに、ほんの少しですが、
雪が降っていました。寒かったです。)

2009年11月 3日 (火)

「私にしかできない仕事」

ロバート・シュラーの『「お金持ち」よりも幸せになれる方法』(PHP研究所)
という本を、最近、読み返しています。
原題は、"THE BE-HAPPY ATTITUDE"(直訳は、「幸福になる心構え」)です。
(残念ながら、現在、絶版のようです。)
邦訳タイトルは、ロバート・キヨサキの『金持ち父さん 貧乏父さん』という本が、
ベストセラーになった頃、出版されたので、
その本にあやかろうとして、つけたのでしょう。
原題とあまり関係がありません。
この本は、マタイ福音書5章の有名な「八つの幸い」をもとに、
文字通り、幸福になる心構えを説いています。
私にとって、ロバート・シュラーの著作の中では、最も好きな本です。
折あるごとに、何度も読み返しています。

今回、読んでいる中で、心に残った詩があったので紹介します。
ポール・ローレンス・ダンバーという、アメリカの詩人によるものです。


神は私に仕事を頼みました
しかし、私はあまりに忙し過ぎたのです。
それで私は言いました
他にも誰かいるでしょう、
それとも私が用がすむまで待ってもらえますか
どうやって神がその仕事を片づけたのか、分かりません
でも神は何とか片づけたようでした
しかし、私は何となく悪い気がしました
神に悪いことをしたと思ったのです。

そんなある日、私は神が必要になりました
すぐにでも神が必要だったのです
しかし、神は私にまったく答えてくれませんでした
やがて神がこう言うのが聞こえてきました
他にも誰かいるでしょう、
それとも私が用がすむまで待ってもらえますか

そんなある日、神はまた私に仕事を頼みました
今度は私は避けようとはしませんでした
私はいろいろなことをしていたのですが、
すべてやめました
そして神に頼まれた仕事をしました
自分のことは後回しにしました
神が私に仕事を頼んでくるのは
私にしかできない仕事なのですから
(『「お金持ち」よりも幸せになれる方法』P.95~96
訳:宮崎伸治氏)


「私にしかできない仕事」を持っている人というのは、幸せですね。
聖書の中でも、たとえば出エジプト記35章で、
見よ、主は、ユダ族のフルの孫、
ウリの子ベツァルエルを名指しで呼び
彼に神の霊を満たし・・・」
(旧約聖書 出エジプト記35:30~31新共同訳)
とか、神様から「名指しで呼」ばれる人が何人かいます。
いや、たとえ、「名指しで呼」ばれた、と書いていなくても、
聖書中の人物は、みな、それぞれ固有の役目を持っています。
決して、「他にも誰かいるでしょう」ではないのです。
某アニメの有名なセリフ、
「私が死んでも代わりはいるもの・・・」とは対極です。

一人ひとり、この世での役目は違います。
しかし、ひとつだけは共通です。
あなたがたがわたし(=イエス様)を選んだのではない。
わたしがあなたがたを選んだ。
あなたがたが出かけて行って実を結び
その実が残るようにと、また、
わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、
わたしがあなたがたを任命したのである。
互いに愛し合いなさい。
これがわたしの命令である。
(新約聖書 ヨハネによる福音書15:16~17新共同訳)

「愛される」よりも、「愛する」ために、
そして、神様の栄光を表すために、
私たちは命を与えられています。
その尊い使命=指名を、大切にしたいものですね。
皆様に神様の祝福と平安が豊かにありますように!

2009年11月 2日 (月)

初雪

北海道では、ついに初雪到来です。
遠くの山々や近くの山々の山頂は、雪で覆われていました。

昨日、11月1日(日)に、妻と、妻の親戚夫婦と一緒に、
ニセコ方面に行ってきました。
(親戚夫婦だけ、ニセコで一泊しました。)
妻の親戚夫婦は、両方ともクリスチャンで、
つい最近結婚したばかりです。
新婚旅行として、北海道に来ました。

天気予報では、雪や雨、とのことだったので、
ニセコに行っても、羊蹄山は見えないだろうな・・・と、
最初からあきらめていましたが、
ニセコ近辺では、雨や雪は降っていませんでした。
さらに、車の中で、私たち夫婦や親戚夫婦が賛美したりしていたせいか、
まさに奇跡的に、ちょっとだけ羊蹄山の山頂が見えました。
山頂は既に冠雪していました。
(携帯のカメラの写真なので、はっきり見えないですが・・・)
夕焼けも見えました。
神様に感謝!

下の写真は、ニセコの「ミルク工房」から私の携帯のカメラで撮影した、
羊蹄山の写真です。

主は仰せを地に遣わされる。
御言葉は速やかに走る。
羊の毛のような雪を降らせ
灰のような霜をまき散らし
氷塊をパン屑のように投げられる。
誰がその冷たさに耐ええよう。
御言葉を遣わされれば、それは溶け
息を吹きかけられれば、流れる水となる。
(旧約聖書 詩編147:15~18新共同訳)

20091101_yoteisan_from_milk_kobo

アーメン、賛美、栄光(ヨハネ黙示録7章)【自作曲】

ヨハネ黙示録7章からの曲を、前回に引き続いて紹介します。

テキストは、新約聖書 ヨハネの黙示録7:12新共同訳です。

この曲は、ヘンデルのオラトリオ『メサイア』のバスのアリア、
第43曲"The trumpet shall sound and the dead shall be rais'd"
にインスピレーションを得て、作曲が与えられました。
そのアリアの歌の部分ではなく、トランペットの独特なリズムが、
今回の曲にこだましています。

ヨハネ黙示録7:12への作曲は、この曲も含めて、
現在までに4曲与えられています。
その中でも、一番好きなのが、この曲です。

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

「20091102revelation0712no01.MID」をダウンロード

「20091102revelation0712no01.pdf」をダウンロード

2009年11月 1日 (日)

救いは、玉座に(ヨハネ黙示録7:10)【自作曲】

11月1日は、教会の教会暦では、「諸聖人の日」(全聖徒の日)です。
続く11月2日は、「死者の日」です。
この2つの祭日は、カトリック教会のみならず、
ルーテル教会など一部のプロテスタント教会でも記念します。
それにちなんで、今回から何回かにわたって、
ヨハネ黙示録と、ヨブ記から、数曲を紹介しようと思います。

まず初めは、ヨハネ黙示録7:10への作曲を紹介します。
テキストは、新共同訳です。
最後に、締めくくりとして、「アーメン」を付加しています。

この曲は、ヘンデルのオラトリオ『メサイア』の名アリアである、
第34曲"How beautiful are the feet of Him"
にインスピレーションを得て、作曲が与えられました。
(手元にある、『メサイア』のスコアでは、アルトの二重唱になっています。
しかし、私の念頭にあったのは、ソプラノ・ソロが歌うヴァージョンでした。)
聖書箇所は全然違いますが、雰囲気は似ているかな、と思っています。
ソプラノ・ソロ向けに書かれているので、少し歌うのが難しいかもしれません。

もともとのテキストでは、「数え切れないほどの大群衆が・・・大声で叫んだ
(新約聖書 ヨハネの黙示録7:9~10新共同訳)となっていますから、
ソロで歌うにはふさわしくないのかもしれません。
しかし、御言葉の美しさを噛み締めて、しっかりと味わっていただければ、
と願っています。

ヨハネ黙示録7:10への作曲は、この曲も含めて、
現在までに5曲与えられています。
その中でも、一番好きなのが、この曲です。

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

「20091101revelation0710no01.MID」をダウンロード

「20091101revelation0710no01.pdf」をダウンロード

ハロウィンと宗教改革記念日

10月31日は、ハロウィンでしたね。
日本でも、ハロウィンは少しずつ定着しつつあります。
かぼちゃちょうちんの「ジャックオーランタン」とか、
お化けとか、いろいろありますね。
ただ、私としては、これはキリスト教のお祭りではないと思いますし、
悪霊的な要素が強いので、好きではありません。
また、教会において、取り入れる必要がない習慣・祭である、とも思います。
(余談ですが、ハロウィンでは、「トリック・オア・トリート」の合言葉をもとに、
お菓子をもらう習慣がありますが、
北海道の七夕でも、似たような習慣がありますよ。)

もともと、ハロウィンは、11月1日の「諸聖人の日」を前に、
イギリスやアメリカなどで祝われるものでした。
日本で言えば、「お盆」にあたるもの、ともいえます。

あと、10月31日といえば、宗教改革記念日でしたね。
最近では、「信仰義認」を唱えたルーテル教会自体が、
「ルターは行き過ぎていた」みたいな発言をしていますし、
カトリック教会と共同で、
「義認の教義に関する共同宣言」に調印しています
(ルーテル世界連盟との調印。1999年)。
私としては、これはいい傾向だと思いますが、
ヨーロッパのカトリック・プロテスタント双方とも、
既に影響力を失いつつあることの証明のようにも思えます。
ヨーロッパは、もはや宣教師を送り出すよりも、
宣教師を必要としている、といえましょう。
私は、今ではあまりヨーロッパのキリスト教には、興味がありません。
21世紀のキリスト教は、アジアが中心になると思います。

ただ、いまだにプロテスタントでも、カトリックでも、日本では、
ヨーロッパの神学が中心ですね。
本当に、日本人に宣教するつもりならば、
カール・バルトやカール・ラーナーの神学研究よりも、
日本の諸宗教をもっと真剣に研究するとか、
内村鑑三などの先人の取り組みを再評価したほうがいいのでは、
とも思います。

最後に、私としては、「宗教改革記念日」というのは、
あまり好きではありません。
カトリック教会の堕落・腐敗に対して、
宗教改革というのは、歴史的な必然であったと思いますが・・・
「信仰によって『のみ』救われる」の『のみ』は、
やはり余計なものです。
これは、当のルーテル教会においても、
今ではこのようにとらえています。
(かといって、当時のカトリック教会の「行ないの強調」も、
聖書的信仰からの逸脱であった、と思います。
今日の、信者に献金を強要する悪質なカルト団体みたいなものに、
当時のカトリック教会が成り下がっていたからでしょう。
歴史を通じて、カトリック教会は、
主キリストが望んでいるとおりの信仰であった、と誰が言えるでしょうか?
反対に、プロテスタント諸派も、決して「無罪」ではありません。)
教会が、分裂という痛みを経験せねばならなかった、
負の意味での、記念の日、なのでは、と思います。
(教会があまりにも多種多様、バラバラになっている状況を、
イエス様は、どう思われるでしょうか・・・)

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