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2009年10月の34件の記事

2009年10月31日 (土)

詩篇117(16)【自作曲】

詩篇117シリーズ第16番です。

今回のテキストも、新共同訳です。

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

「20091031psalms117allno16.MID」をダウンロード

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「男がおとめに向かう道」(箴言30:19)

わたしにとって、驚くべきことが三つ
知りえぬことが四つ。
天にある鷲の道 岩の上の蛇の道 大海の中の船の道
男がおとめに向かう道。
(旧約聖書 箴言30:18~19新共同訳)

男と女が愛し合うことの不思議さ、
というのは、旧約聖書の昔から、今に至るまで、
変わらないものなのですね。
男女の愛は、美しい「神の炎」(雅歌8:6バルバロ訳)のようなものです。
愛し合う夫婦、カップルの姿は、実にほほえましいものです。

ところで、上記の箴言30:18~19は、
現代訳では、次のようになっています。
私にとって不思議なことが三つ、いや四つある。
それは、それぞれ特有の方法で、
難しい相手を容易に征服することである。
大空を飛ぶ鷲、岩の上をはう蛇、
海を横切る船、女の心を捕える男だ。」(現代訳)

実は、この箴言30:18~19は、
次の20節を強調・修飾するための、前置きのような句です。
20節は、こうなっています。
そうだ、姦通の女の道も。
食べて口をぬぐい
何も悪いことはしていないと言う。」(新共同訳)
姦淫する女もそうだ。
彼女は姦淫をしながら、全くしらばくれている。」(現代訳)

最近、新聞やテレビなどで、
婚活男性の連続怪死事件のことが話題になっていますね。
もしそれが事実だとしたら、とても恐るべき事件ですが、
(旧約聖書の言葉を借りれば、
わたしの見いだしたところでは、
死よりも、罠よりも、苦い女がある。
その心は網、その手は枷。
神に善人と認められた人は彼女を免れるが、
一歩誤れば、そのとりことなる。
(旧約聖書 コヘレトの言葉7:26新共同訳)
でしょうか・・・
もちろん、誤解のないように言いますが、
亡くなった方々が、「善人」でなかった、と言いたい訳ではありません。
念のため・・・)
ただ、事件の報道の姿勢は、非常に疑問に思います。
まだ警察が「容疑者」として逮捕していない人物なのに
(別件の詐欺事件で逮捕されてとはいえ・・・)、
どうして、私生活を暴いたりしていいのでしょうか?
少なくとも、正式に逮捕されるまでは、
「罪なし」とするのが、正しいことでは?と思います。
「報道の自由」の名のもとに、深刻な人権侵害が行なわれている、
と言わざろうえません。
某タレントの覚醒剤事件への異様な関心といい、
報道のあり方は、かなりおかしいものではないでしょうか?
マスコミ報道が、
セレブな人たちへの「ルサンチマン」(怨恨)で満ちている、
最近、そんな気がしてなりません。

人間の醜さや愚かさ、凶悪さなどを知るのは、
うんざりです。
それよりも、よいニュースをもっと報道してもらいたいものです。
終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、
すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、
すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、
それを心に留めなさい。
(新約聖書 フィリピの信徒への手紙4:8新共同訳)

2009年10月30日 (金)

In dulch jubilo(甘き喜びのうちに)

街を歩くと、早くもクリスマスのイルミネーションの準備をしていました。
もうクリスマスの時期なんですね・・・

今年、私の所属する教会の聖歌隊では、
クリスマス・イブの夜に、3曲歌う予定です。
そのうちのひとつが、"In dulch jubilo"(甘き喜びのうちに)です。
J・S・バッハ編曲によるオルガン曲は有名なので知っていましたが、
原曲そのものは聴いたことがありませんでした。

今回、聖歌隊の人たちのために、音とり用のCDを作成するにあたり、
言葉の発音などの参考になるよう、CDを探しました。
(今回歌うのは、原テキストどおり、ラテン語とドイツ語を交えたものです。)
そこで、今回紹介する、シャンティクリアのCDに出会いました。
日本語のCDのタイトルは、「聖夜のア・カペラ~クリスマス・ソングの玉手箱」です。
原タイトルは、"Sing We Christmas"です。

シャンティクリアは、アメリカのア・カペラ・ヴォーカルグループで、
男性12人だけで構成されています。

さっそく、"In dulch jubilo"の評にうつりましょう。
初めて、図書館でこのCDの"In dulch jubilo"を聴いたとき・・・
あまりの美しさに、涙がこぼれました。
まさに、「天上から響いてくるような・・・」という表現がぴったりです。
男性ばかりなのに、女性を交えたコーラスよりも響きが美しいです。
「天使の声」(よく、ボーイソプラノに適用される表現ですが・・・)というのは、
こういうのを指すのだろうか、と思いました。
また、1番から4番まで、それぞれ別のヴァージョンで聴ける、
という豪華さがあります。
2番はM・プレトリウス、4番はJ・S・バッハのものです。

CD全体、どれもすばらしいものですが
(あまりクリスマスという雰囲気はしませんが・・・
そのかわり、クリスマスに限らず、年間通して聴けるアルバムです。)、
この"In dulch jubilo"1曲だけでも、聴く・手に入れる価値があります。

あまりのすばらしさに、結局CDを手に入れました。
(近くの大型書店で、なぜか売れ残っていました。もったいない!
実は、Amazonで買うなら、定価の3倍以上の値で取引されています。
現在は、発売中止のようです。)
つい先日まで、朝の目覚まし用CDとして使っていました。
本当に、宝のようなCDです。

余談ですが、ハリストス正教会では、礼拝において、楽器を使いません。
「人間の声こそ、神の栄光をあらわすのに一番ふさわしい楽器である。」
という考え方からです。
シャンティクリアとか、(今回触れませんでしたが)タリス・スコラーズなどの、
すばらしいア・カペラを聴くと、ハリストス正教会の考え方は、
妥当なものだと思います。
(ただ、一般レベルでは、「神の栄光をあらわす」ような賛美というのは、
なかなか聴くことはできませんけど・・・)

シャンティクリアの公式ホームページは、以下のとおりです。
少し、歌声を聴くことができますよ。
http://www.chanticleer.org/sing/

2009年10月29日 (木)

書評:山花典之作『オレンジ屋根の小さな家』①~⑧巻

この作品を知ったきっかけは、
テレビ伝道番組の「ライフ・ライン」でした。
(たしか、2007年か2008年だったはずです。)
作者の山花典之氏が出演していました。
山花氏が、教会に来るきっかけなどについて語っていました。

番組によると、氏は、教会に来る前は、エッチなマンガなどを描いて、
それなりに「売れっ子」だったのですが、あるとき、行き詰ってしまいました。
そんな中、教会に通うようになり、洗礼に導かれました。
「ライフ・ライン」は長年見ていますが(必ず毎回見ているわけではないですが)、
氏の証は、今まで見た放送の中で、
たぶんベスト3以内に入る感動的なものでした。
その回の放送は、私の妻も一緒に見ましたが、やはり感動していました。

番組の最後のほうで、この『オレンジ屋根の小さな家』が紹介されていました。
内容や、マンガの中に聖句が出てくるなど、興味を惹くものがあったので、
いつかぜひ読んでみたいと思っていましたが、
なかなか読む機会がありませんでした。

つい最近になって、ようやく読む機会がありました。
まず、①~③巻から手に入れ、読んでみました。
不動産詐欺にあって、同じ家に同居することになった2つの家族の物語です。
全8巻のうち、①~③巻までがとてもすばらしいと思います。
④~⑧巻は、正直に言って、無理やり話を引き伸ばしている感が否めません。
(④巻か⑤巻くらいでまとめたほうがよかったようにも思えます。)

しかし、
一般的な青年コミック誌(「ビジネスジャンプ」誌)に連載されていたものとしては、
とても良心的な内容なものです。
家族の本当の幸せとは、夫婦とは、親子関係とは・・・
いろいろと考えされられました。
(主人公の会社員が、
あまりにも理想的すぎる夫像・父親像であることは否めませんが・・・)
また、一般のマンガの中に、きちんとした形で、聖書の言葉が出てくる、というのは、
本当に、絶賛すべきことです。

とても心温まる作品です。
①~③巻を読んだ後、一気に⑧巻を読んで、
すごく気に入ったら、④~⑦巻を読んでみるといいかもしれません。

この作品を簡潔に言い表すことができる聖句を引用して、
結びの言葉としましょう。
これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。
愛は、すべてを完成させるきずなです。
(新約聖書 コロサイの信徒への手紙3:14新共同訳)

電子書籍版(8冊セット)

2009年10月28日 (水)

詩篇117(15)【自作曲】

詩篇117シリーズ第15番です。

今回のテキストは、新共同訳です。

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年10月27日 (火)

フランクのヴァイオリン・ソナタ

私の一番好きなヴァイオリン・ソナタは、
フランクのヴァイオリン・ソナタです。
第2楽章以外、すべて秋のうららかな光景を連想させます。

私にとって、この曲には、いろいろな想い出があります。
中学生のときに、初めてヴァイオリン・ソナタというものを生演奏で聴いたのが、
この曲でした。
地元のヴァイオリン奏者が学校の体育館で演奏してくれました。
第2楽章の熱演を聴いた後、思わず拍手してしまいました。
当時はクラシック音楽にまったく疎く、実はまだ先があるのを知って、
ちょっと恥ずかしかった記憶があります。
ただ、当時は作曲家に対してまったく興味がありませんでした。

フランクの作品をよく聴くようになったのは、
それから5、6年後の、20歳頃からでした。
まずは、彼の代表作の一つである、「交響曲」から。
ついで、オルガン作品。そして、このヴァイオリン・ソナタ。
フランクの主要作品は、ほぼすべて、CDを買って聴いたことがあるくらいです。
ただ、今も好きなのは、
ヴァイオリン・ソナタと、オルガン曲の数々と、交響曲くらいでしょうか・・・

フランクのヴァイオリン・ソナタは、
青春の甘い1ページを彩るBGMでした。

当時は、オーギュスタン・デュメイのヴァイオリン&ピリスのピアノの盤でしたが、
最近(2009年10月現在)は、
カントロフのヴァイオリン&ルヴィエのピアノの盤で聴いています。


フランク/ラヴェル:ヴァイオリンソナタ(カントロフ盤)

フランク、ドビュッシー、ラヴェル:ヴァイオリンソナタ集(デュメイ盤)

2009年10月26日 (月)

詩篇117(14)【自作曲】

詩篇117シリーズ第14番です。

今回のテキストはカトリック訳です。
一部、テキストの追加があります。

本格的なソプラノまたはテノールの人でないと歌えない音域が出てきます。
(めったにないことなのです・・・)
残念ながら、私もさすがにこの曲をまともに歌うことはできません。
(カウンターテノール風に、裏声を使えば、なんとかなりますが・・・)

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年10月25日 (日)

神様からのプロポーズ

教会で、洗礼を受ける予定の方と話す機会があり、
その中で、洗礼の話題が出ました。
「洗礼を受けませんか?」と聖職者の方から言ってもらえたらうれしい、
という意見がありましたが、
私は、「恋愛と同じで、自分から『告白』した方がいい
(つまり、自分から、洗礼を受けたいと表明すること。)」と話しました。
洗礼は神様との結婚式、のようなイメージとして、私はとらえています。

教会から帰る途中、そこで話した様々なことを振り返りました。
その中で、上記の話を特に考えてみました。
洗礼を受けたい、と聖職者に表明することは、
あたかも、恋愛において、「自分から告白する」ことに相当するのか?
・・・いや、実は私たちは、既に神様から、何千年も前から、
プロポーズされているのだ!
根拠となる、神様からの「愛のプロポーズの言葉」を、
何箇所か、引用してみましょう。

わたし(=神様)は、とこしえの愛をもってあなたを愛し、
変わることなく慈しみを注ぐ。

(旧約聖書 エレミヤ書31:3新共同訳より)
わたし(=神様)はあなたととこしえの契りを結ぶ。
わたしは、あなたと契りを結び
正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。」(旧約聖書 ホセア書2:21新共同訳)
わたし(=神様)の目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。

(旧約聖書 イザヤ書43:3新改訳より)
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。
・・・(中略)・・・
わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、
わたしたちを引き離すことはできないのです。
(新約聖書 ローマの信徒への手紙8:35、8:39新共同訳より)
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、
御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、
キリストにおいてお選びになりました。
(新約聖書 エフェソの信徒への手紙1:4新共同訳)
神は、独り子を世にお遣わしになりました。
その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。
ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
(新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ4:9新共同訳)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
(新約聖書 ヨハネによる福音書3:16新共同訳)

まだまだたくさんありますが、
私たちの心を射止める神様からのプロポーズの言葉が、聖書にあります。
私たちが神様を信じるか、信じないか、というのは最初から問題ではなく
(当然、神様がいるのか、いないのか、という哲学的な問いは論外です。)、
私たちが、神様からの永遠のプロポーズに応えるか否か、それだけなのです。
洗礼を受ける、というのは、プロポーズに応え、神様と共に生きていく、
という「しるし」としての、
いわば「結婚式」や「婚姻届」のようなものではないかと、
だと私は考えています。

あなたの恋人はどんなにいいひと
だれにもまして美しいおとめ(⇒ここに自分の名を入れてみましょう)よ。
あなたの恋人はどんなにいいひと
こんな誓いをさせるとは。」(旧約聖書 雅歌5:9新共同訳)

『フルーツバスケット』と「慰めの子」

先日、暇つぶしに、nifty動画で、
アニメ『フルーツバスケット』第1話を見ました。
(第1話が無料だったので。)

このアニメは2001年の放送でしたが、
放送当時は全然知りませんでした。
その後、何年かたってから、
ある人から、原作のマンガをすすめられ、
確か、1巻は買って読んだのですが、
全然物語に共感できませんでした。
絵があまり好きではなかったし、
何よりも、設定(※後述)があまりに荒唐無稽だと思ったからでした。
その後、手放してしまいました。
当然、アニメを見るつもりもありませんでした。

それから月日が経ち、
再びこの作品に、マンガからではなく、
アニメから、なんとなく挑戦してみたわけです。

どうも、オープニングとエンディングは、あまり好きになれません。
(なんとなく、薄気味悪い感じがします。
異空間から漂ってくる音楽、という印象です。
ファンの方には、誠に申し訳ないですが・・・)
キャラのデザイン(特に、主人公の透)も、あまり好きではありません。
(原作の方が、かわいいと思います。アニメ版は、ちょっと昆虫的な感じです。)
声優さんも、一部疑問がありました。
(ただし、1話目のみ。)
しかし、それにもかかわらず、今回はなぜか、2話以降も見てみたい、
と思いました。

それで、さっそく、レンタルビデオ店で
(有料の動画配信よりも、安かったからです。)、
DVD2巻(第3~5話)を借りて見ました。
第3~5話を見ながら、何回か、涙が出ました。
荒唐無稽な設定(十二支の呪いにより、異性に抱きつかれると、
動物に変身してしまうこと)も、今回は、違和感なく受け入れることができました。
というのも、動物への変身、という設定を、「過去の触れられたくない経験」とか、
「心の傷」などのメタファーとしてとらえてみることができたからです。

主人公・透は、
とてもつらい経験(母の事故死、ホームレス経験等)があるのにもかかわらず、
動物への変身という重い秘密を抱える草摩家の人たちを、奇異の目で見ることなく、
そのありのままを受け入れます。
また、どんなつらいことがあっても、天真爛漫に、
明るく前向きに生きていく主人公の姿に、
草摩家の面々も、少しずつ、心を開いていきます。

考えてみると、私たちの中にも、「触れたくない過去」や「心の傷」というのは、
いろいろとあるはずです。
表向きは、どんなに取り繕っても、
消しがたい、癒しがたいものが心に一つ二つは必ずあるものです。
それを暴かれたりしたら、私たちの心は、ネガティブに「変身」します。
そういうときに、あるがままの自分を、
そのまま受け入れてくれる人がいれば、
「傷」そのものは消えないものの、
「傷」の見方は変わるかもしれません。
いや、確かに、生きる力が新たに与えられます。
聖書の中のこの言葉を思い出します:
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
(新約聖書 ローマの信徒への手紙12:15新共同訳)

聖書の中で、すばらしいあだ名をつけられた人がいます。
新約聖書 使徒言行録(使徒行伝)4章から登場する、
使徒バルナバです。
「バルナバ」とは、「慰めの子」という意味です(使徒4:36に説明あり)。
彼は、使徒4:36で本名の「ヨセフ」が1回出てくる以外は、
すべて「バルナバ」が使われています。
あだ名が、いつの間にか、本当の名になってしまったわけです。

『フルーツバスケット』の主人公も、まさに「慰めの子」として描かれています。
(アニメ版は、原作よりも、重みがあると思います。)
私たちも、誰かにとって、そういう存在として神様に用いられたら、幸いです。

「バルナバ、すなわち『慰めの子』という名は(使徒行伝4:26)、
すべてのキリスト者がかならず持っていなければならない美しい名である。
キリスト者のもとでは、つねに慰めがえられなければならない。
しかし、たいていの信者に接しても、
彼らが慰めの力をゆたかに持っているとは感じられないし、
またたえずあらゆる手立てをつくしてその力を求めて、
完全に満足すべき域に到達しようと努力しているとも感じられない。
これこそ、世間の人たちが彼らを非難する点であり、
それは全く当然である。
とりわけすぐれた人びとにも、
亡くなった時にあまり惜まれない点がかなり多いのにくらべて、
かえってごく単純な人で非常に残念がられることがある。
その理由は、後者が慰めの子であって、
彼らに接するときつねに心の『平和』が得られたのに反して、
前者はそうではなかったからである。」
(ヒルティ著『眠られぬ夜のために』第一部P.73~74岩波文庫版より引用)
(※下線部は原著では傍点)

ところで、原作のマンガは、全23巻で、アニメ版は、全26話です。
かなりの長丁場ですね。
マンガ・アニメとも全部読む・見るかは、まだまだこれからです。
(既にマンガは、1~3巻まで読破しましたが・・・)
結構少女マンガ好きなこの私のありのままも、
そのまま受け入れてくださるなら幸いです。


フルーツバスケット (1) (花とゆめCOMICS)



フルーツバスケット (1) (花とゆめCOMICS)


著者:高屋 奈月




フルーツバスケット (1) (花とゆめCOMICS)

2009年10月24日 (土)

祝!北海道日本ハムファイターズ日本シリーズ出場!

ようやくパ・リーグのCSが終わり、
無事、北海道日本ハムファイターズが日本シリーズ出場となりました!
おめでとうございます!

パ・リーグCS最大の見所は、やはり、第1戦でした。
正直に言えば、途中で見るのをやめました。
どう考えても、日ハムの逆転は不可能な展開だったからです。
このまま、2位の楽天が奇蹟の日本シリーズ進出になるのかな、
とさえ思わせたのが、第1戦途中までの楽天の勢いでした。
しかし、後で結果を知って、唖然となりました。
まさか、まさかの大逆転劇・・・・
9回裏の、5得点サヨナラ逆転ホームランは、
野球マンガ顔負けの劇的な幕きれでした。
日本シリーズ優勝がかかるような試合ではないのに、
あたかもそれ以上の価値があるかのような勝利でした。
その夜、テレビのスポーツニュースで同じシーンを何度も繰り返してみました。
それだけで飽き足りず、朝のニュース番組でも、同じシーンを見ました。
「最後まであきらめない!」
100の説教よりも、1つの実例によって、勇気をたくさんいただきました。
人生も同じですね。

一方、負けた楽天も、実に見事な戦いぶりだったと思います。
CS最終戦後の、両チームによる野村監督の胴上げが、美談でしたね。
来シーズン、楽天は、監督が変わるので、厳しい戦いになると思いますが、
ぜひ奮起してほしいと思います。
(ただ、これだけの実績を挙げた野村監督を解任してしまう、
楽天球団フロントは、あまりにも薄情かな、と思いました。)

日本シリーズは、両リーグの優勝チーム同士の戦いになりますが、
ぜひ、日ハムには、巨人を倒して日本一をとってほしいと願っています。

2009年10月23日 (金)

詩篇117(13)【自作曲】

久しぶりに・・・
詩篇117シリーズ第13番です。

今回のテキストは、新共同訳です。

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

「20091023psalms117allno13.MID」をダウンロード

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2009年10月22日 (木)

秋の名曲~ブラームスの諸作品

秋になると、なんとなく、ブラームスの曲が聴きたくなります。
私にとって、ブラームスの曲のイメージは、どれも、
秋か冬ばかりです。
(ブラームスのすべての作品を聴いたわけではないですが、
少なくとも、主要作品はそうです。
あえて例外を挙げるならば、
交響曲第1番の第3、第4楽章は、
「雪解け」のイメージがあります。
しかし、ヴィヴァルディの「春」のような、
さわやかなイメージはありません。
同曲の第1、第2楽章は、「冬」のイメージです。)

秋にも、初秋、中秋、晩秋とあるように、
それぞれ、初秋・中秋、晩秋のイメージの代表曲を選んでみました。

初秋~交響曲第2番
中秋~ヴァイオリンソナタ第1番、クラリネットソナタ第2番、
    間奏曲集、ピアノ協奏曲第2番
晩秋~クラリネット五重奏曲、交響曲第4番

どれもコメントしたい曲ばかりですが、
今回はあえて、晩秋の2曲だけに触れます。
紅葉がそろそろ終わり、
枯葉が舞い落ちる時に一番ぴったりなのが、
クラリネット五重奏曲です。
ブラームスの室内楽作品の最高傑作です。
10代、20代の頃の私にとって、この曲は、
陰鬱すぎ、あまり好きではありませんでしたが、
最近では、この曲と同編成で双璧をなす、
モーツァルトのクラリネット五重奏曲よりも好きです。
(ただし、季節限定です・・・
ブラームスのクラリネット五重奏曲は、11月のイメージです。)

家にあるCDは、
ペーター・シュミードル(クラリネット)&
ウィーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団の盤です。
(現在、発売していないようです。
タワーレコード等ではまだあるかもしれません。)
これは、モーツアルトのクラリネット五重奏曲も入っているし、
どちらも、たぶん同曲のベストCDではないかと思います。
ブラームスに関してだけいえば、
深刻すぎず、軽すぎず、
ブラームスの寂寥感と独特の美しさを十分に表現しています。

交響曲第4番は、カルロス・クライバー指揮ウィーン・フィルのが、
20代までのベストCDでしたが、
今は、クルト・ザンデルリンク指揮ベルリン交響楽団のがベストです。
(同時に、ブラームスの交響曲全集としてもベストだと思います。
こちらは、定番商品といえる存在なので、
タワーレコード等では必ずあるはずです。)
第1楽章は、
木から色づいた葉がひとひらずつ落ちていくようなイメージがあります。

ちなみに、私は「冬」になると、
シベリウスやチャイコフスキーの曲が聴きたくなります。
それはまたの機会に・・・

2009年10月21日 (水)

秋の困った使者

Koen200910


この写真は、先日、近くの公園で撮ったものです。
北海道では、もう秋は終わりを迎えようとしています。

私は、四季の中では、秋が一番好きです。
紅葉の美しさ、食べ物のおいしさ・・・
まさに、「実りの秋」ですね。

秋にふさわしい聖句を引用しましょう:
大地は作物を実らせました。
神、わたしたちの神が
わたしたちを祝福してくださいますように。
(旧約聖書 詩編67:7新共同訳)

しかし、秋になると、一つだけ、困ったことがあります。
それは、窓を閉め切っているのにも関わらず侵入してくるカメムシです。
その「手口」は、まさに忍者みたいだなぁ・・・といつも関心しています。
とはいえ、関心している場合ではなく、
こちらも知恵を絞って、可能な限り侵入口になりそうな隙間を埋める、
などの対応をしています。

カメムシにとっては、暖かい我が家は、
まさに「天国」なのでしょうね。
「狭き門から入れ・・・」なのでしょうか?

2009年10月20日 (火)

中国映画『追憶の切符』

今日、たまたま、21時頃に、NHKBS2をつけていたら、
『追憶の切符』という作品をやっていました。
21:00~21:04頃、映画のダイジェストと、
監督の作品への思いが語られていました。
その中で、「おっ!」と思う映像が出てきました。
なんと、マザー・テレサが創設した、
神の愛の宣教者会(ミッショナリーズ・オブ・チャリティー)」
の修道服を着たシスター役の人が出ているではありませんか!
それと、雲南省の雄大で、厳しくも美しい自然に惹かれ、
結局思わず全部見てしまいました。

おそらく、日本では一般公開されていない映画なのでは、
(昨年のNHKアジア・フィルム・フェスティバルで公開されたそうです。)
と思いますので、NHKのHPを引用して、あらすじを書いておきます。

孤児として育った一人の女性が、実の両親を探し出そうとするうちに、
愛の尊さに気づき成長していく様を描いた人間ドラマ。
テレビ局のリポーターとして都会で活躍する女性ユートン。
彼女が今取材しているのは、
おなかの子供が難病だと知りつつも出産に踏み切ろうとする若い夫婦の実情だ。
しかし、幼いころ親に捨てられたユートンにとって、
彼らの決断は不可解に思えた・・・。
雲南省の雄大な風景が美しく感動的。

(NHK BSオンラインより引用)

映画の中では、4組の親子が描かれています。
第1は、おなかの子が難病だと知りつつも、出産に踏み切った若い夫婦。
第2は、主人公の女性と、その養母(シスター)、そして、実の母。
第3は、主人公の友人である男性と、その養母である祖母。
第4は、自閉症の子と、その父親。

主人公は、生まれてまもなく、カトリック教会の前に置き去りにされました。
そのため、シスターの養女として育てられした。
主人公は大人になり、北京でテレビ局のリポーターになりました。
映画冒頭、おなかの子が難病だと知りつつも、
出産に踏み切った若い夫婦に彼女はインタビューします。
若い夫婦は答えますが、彼女にとっては納得がいきません。
「難病を抱えている子が生まれたら、子どもが苦しむことになる。
それなら、堕胎していたほうがいいのでは?」
彼女はそう思っていました。
若い夫婦の子は、出産後、すぐに亡くなってしまいました。

そんな中、彼女にとっての「母」である、シスターが脳溢血で倒れた、
との連絡がきます。
彼女は故郷に戻ります。
シスターは死ぬ間際に、彼女の本当の父母の手掛かりとなる、
2枚の切符を手渡し、彼女に、本当の父母を探すよう促します。
(ちなみに、この映画の原題は、『車票』です。英訳は"ticket"。)
シスターの死後、彼女は、幼馴染の男性とともに、
切符の出発点へと旅立ちます。

そして、ついに彼女は、実父母を探しあてますが、
残念ながら、二人とも既に他界していました。
しかし、実母の遺品の中に、
彼女は亡き母の彼女への愛を見出すのでした・・・

(本来なら、ネタバレものはあまり書きたくないのですが、
たぶん、この作品を今後日本で見る機会は、
あまりないと思われますので、
あえて書いておきます。)

亡き実母は、たくさんの切符を遺品として遺していました。
それはどれも、主人公が育った教会までの切符でした。
そして毎年、1月20日に、その教会で、清掃等の奉仕をしていました。
また、切符の中には、1枚だけ、北京行きの切符が残されていました。
その日付は、主人公の大学卒業の日でした。
主人公は、「母は私を決して見捨てたのではなかったのだ・・・」と気づきます。

映画全体は、なんとなく、青っぽいトーンで彩られています。
昨年の映画なのに、ちょっと古臭い感じさえします。
しかし、雲南省の場面で、それが生きてきます。
あと、中国のカトリック教会の様子が描かれていたのは貴重だと思いました。

また、これは監督の特徴なのでしょうが、
窓の外から人物を撮る、というシーンが多用されていました。
これは印象的な光景でした。

映画の中では、
有名な讃美歌「いつくしみふかき(讃美歌312番)」を元にした曲が、
静かに映画を彩っていました。これはなかなかのものでした。

映画の中で、特に印象的だったのは、
主人公の実母の顔が、一度も映し出されないことです。
必ず、後姿か、横向きの姿だけが描かれています。
あえて映さない、というのは、よい演出効果だったと思います。
実母は、彼女を教会に置き去りにしたとはいえ、
決して彼女からまったく離れてしまったのではなく、
むしろ、彼女が気づかないうちに、そばにいたのでした。

派手なところはありませんが、深い愛情が描かれた佳品だと思います。

さて、映画の中では、子を捨てる、という事が描かれています。
実際、「デパートで乳児が置き去りに」とかのニュースを見ますと、
とても心が痛みます。
まして、「高校生がトイレで出産後、乳児を殺した」などというニュースは、
絶句してしまいます。

どのような理由であれ、「親に捨てられた」、
「親に虐待された」というのは、
子どもにとって、生涯癒しがたい傷を与えるものです。
しかし、あえて言いますが、
子どもを育てられない何らかの理由がある場合、
子どもを殺してしまうよりも(中絶も含めます)、
何らかの方法で(施設に預けるとか、養子とか・・・)、
子どもに生きるチャンスを与えるほうが、
すばらしいことです。
そういう意味で、熊本の慈恵病院における、
「赤ちゃんポスト」の働きは尊いものだと思います。

映画の中では、カトリックのシスターが出たり、
教会でのミサの光景は描かれているものの、
信仰についての話はでてきません。
しかし、「命を大切にする」教会の姿勢は、
控えめながら、描かれていると思います。

ところで、私たちも、しばしば、
「神様に見捨てられた」と思うことはありませんか?
しかし、イエス様はこう述べられました。
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。
(新約聖書 ヨハネの福音書14:18新改訳)
私たちは、今はイエス様の存在に気がついていないとしても、
後の世では、主がいつも私たちとともにおられたことに気づき、
感謝をささげるに違いありません。

映画について書かれているブログを見つけましたので、
紹介します。
http://hkaddict.blog26.fc2.com/blog-entry-2564.html

望まない妊娠でお悩みの方へ・・・
http://www.chiisana.org/

2009年10月19日 (月)

自殺報道について~知る権利、知らない権利

日本では、毎年3万人以上の人が自殺します。
単純計算すると、1日あたり、約82人、
1時間あたりでは、約3人の人が、自ら命を絶っています。
(30000人÷365日÷24時間で計算。小数点以下切捨て。)

ところで、イラクにおいて、
2004年~2008年にテロや戦闘で死んだ人は、
8万人~10万人と言われます。
一方、日本は、戦争がないのに、毎年3万人自殺しています。
これはもはや、静かな戦争、ともいえる異常現象です。

私がほぼ毎日閲覧しているサイトの一つが、
精神科医の和田秀樹氏のブログです。
「和田秀樹オフィシャルブログ テレビで言えないホントの話」
http://ameblo.jp/wadahideki/

和田氏の今日(10/19)付のブログでは、
自殺報道のあり方について論じています。
http://ameblo.jp/wadahideki/day-20091019.html
これは、まさにそのとおりだと思いました。
マスコミが芸能人や政治家、あるいは、学校での自殺者を報じるたびに、
模倣して自殺する人が増えることがあります。
(自殺原因に「いじめ」が加われば、なおさらです。)
和田氏は、うつ病で自殺願望がある人に、
自殺報道を見せるのは、殺人に近い行為だ、とまで述べています。
実際、過去に、何人かの芸能人が自殺した後、
ファンが後追い自殺をしたり、
あるいは、いじめを苦にした自殺が大々的に報道されると、
模倣して自殺する子が何人もあらわれました。
マスコミは、「国民の知る権利」とか、「正義」を口にしながら、
間接的な殺人をたくさんやっているわけです・・・
こういう場合は、「知る権利」の他に、
「知らない権利」というのがあってもいいのでは、と思います。
自殺してしまったら、やり直しがききませんが、
生きているうちは、まだ望みがあるからです。
命あるもののうちに数えられてさえいれば、まだ安心だ。
犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ。
(旧約聖書 コヘレトの言葉(伝道の書)9:4新共同訳)

世界保健機構(WHO)は、自殺報道に関して、
2000年に、「自殺を防ぐために~マスコミへの手引き」という、
群発自殺(マスコミ報道がきっかけで、連鎖反応的に自殺が起こる事)を防ぐための
ガイドラインを発表しています。
(関連サイト)
http://www.j-cast.com/2006/11/16003851.html
しかし、日本のマスコミは、これに反する報道をし続けていますね。
視聴率が取れるなら、人が何人死のうとかまわないのでしょうか?
私は大きな疑問を感じます。

自殺の問題は、社会にとっても深刻ですが、
キリスト教会にとっても、決して縁遠い問題ではありません。
実際、私の今までの教会生活の中で、
教会で洗礼を受けたにもかかわらず、
何人かの方が自殺したのを知っています。
私自身、個人的に、
教会の信徒で、自殺願望がある人と、
何人か関わりをもったことがあります。
だから、決して、他人事とは思えません。

もし、このブログを読んでいる方で、
万が一に、自殺を考えている人がいるなら、
どうか、思いとどまってください。
今は闇しか見えなくても、きっと朝がやってきます!

自殺予防のためのサイトを2つ紹介します。
・日本いのちの電話連盟(全国のいのちの電話一覧)
http://www.find-j.jp/zenkoku.html
・新潟青陵大学大学院臨床心理学研究科教授 碓井真史氏のサイト
「こころの散歩道」内の、
「自殺と自殺予防のための心理」
http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/news/jisatu.html
(※碓井真史氏はクリスチャンです。)

最後に、聖書から、3つの聖句を引用します。
(本来なら、Ⅰコリント10:13も引用したいところですが・・・)
すべて、新共同訳の新約聖書からの引用です。
①「疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたし(=イエス様)のもとに来なさい。
休ませてあげよう。」(マタイ11:28)
②「事実、御自身(=イエス様)、試練を受けて苦しまれたからこそ、
試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
(ヘブライ2:18)
③「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、
また救ってくださることでしょう。
これからも救ってくださるにちがいないと、
わたしたちは神に希望をかけています。」(Ⅱコリント1:10)
イエス様に出会うとき、すべての闇は光へと変えられます!

みなさんの祝福をお祈りします。
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし
あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて
あなたに平安を賜るように。
(旧約聖書 民数記6:24~26新共同訳)
アーメン!

2009年10月18日 (日)

NHK・土曜ドラマ『チャレンジド』、『フルスイング』

2009年10月10日から、NHKの新しい「土曜ドラマ」として、
佐々木蔵之介さん主演の『チャレンジド』という作品が放映されています。
中学校の国語教師が、中途失明という困難を乗り越えて、
再び教職に励む物語です。

『チャレンジド』というタイトルは、番組HPによると、
「「チャレンジド(challenged)」は英語で障害者をさす。
神からチャレンジという使命を与えられた人の意。」とのことです。

私は、残念ながら、1回目を見逃してしまいました。
(というよりも、昨日まで、その存在を知りませんでした。)
まだ2回目ですが(全5回)、楽しみな展開です。

ただ、あえて難点を言えば、
内容そのものは大いに共感・興味をおぼえますが、
演技、という観点からみると、「?」がつくのが多いです。

特に、佐々木蔵之介さん演じる主役の動きが、一番疑問です。
一例を挙げれば、
失明、という障害がないかのように、教室で机と机の間を歩いたりしてました。
それと、他の出演者も、
セリフの言い方・展開が少しぎこちないようにも思えたのがちょっと残念でした。
(そういう点があったとしても、見る価値はあると思います。)

NHKの土曜ドラマで思い出すのが、
昨年(2008年)放送されていた『フルスイング』という作品です。
私は、放映時には見ていませんでしたが、
昨年の年末に連続再放送されたときに見て、
とても感動しました。
見ていて、何度も泣いてしまいました。
近年見たドラマの中では、一番すばらしい内容です。

この作品は、実話を元にしたフィクションですが、
まるで全部実話であるかのような説得力がありました。
(原作では、高校教師としての部分は、人生の最終場面ということもあり、
それほど記述が多くないですが・・・
しかし、プロ野球の打撃コーチとしての姿から、
ドラマのさまざまな場面を連想できるようなエピソードがたくさんありました。)

主役の高橋克実さんをはじめ、脇役の方々も名演技だったと思います。
プロ野球の打撃コーチから、一念発起して、59歳で高校の教師になり、
道半ばにして60歳で、病によって世を去った故高畠導宏さんの実話は、
もうそれだけでも十分感動的です。

エンディングに流れる、夏川りみさんが歌う、
「♪あの花のように」は実に美しく、感動的なものでした。
(あまりヒットしなかったようですが・・・)


このドラマの原作である、
門田隆将著『甲子園への遺言』もまた、実にすばらしい内容です。
人を教えたり、指導する立場にある人ならぜひとも一読をすすめます。

甲子園への遺言 伝説の打撃コーチ 高畠導宏の生涯 (講談社文庫)

2009年10月17日 (土)

アフリカの主の祈り

ブログ内に、「検索フレーズランキング」というコーナーがあります。
私が書いた記事の中にある言葉が、NIFTY検索で多く調べられると、
そのランキングに載る仕組みのようです。

たとえば、今日(10月17日)現在で、
ランキング1位は、「新約聖書 マルコ4:26」というフレーズです。
以前この記事については、書いた記憶があります。
しかし、3位の「アフリカの主の祈り」というのは、
自分で書いたことはありません。
そもそも、今日まで、
「アフリカの主の祈り」なるものが存在している事を知りませんでした。
このように、時々、よくわからないフレーズが、
検索ランキングに入ることがあります。

ところで、「アフリカの主の祈り」とは?と、
興味を持った私は、検索フレーズのところから、
その言葉を検索してみました。
すると、「アフリカの主の祈り」なるものが、実際にあったのです。
私が不勉強だったのかもしれませんが、
初めて知る「祈り」でした。
ここで、みなさんに紹介しましょう。
あるホームページからの引用です。
(引用元:
http://luminare.at.webry.info/200710/article_28.html


「アフリカの主の祈り」


完全に神の子として生きていないとき
  わたしは 「父よ」と呼びかけることは できません
自分の殻に閉じこもって ひとと連帯していないとき
  「わたしたちの」と口にすることは できません
地上に宝を積むことや地上の営(いとな)みに夢中なとき
  「天におられる」と軽々しく口にすることは できません
自分の栄誉や恥に心囚(とら)われ 神のみ名のもとに生きていないとき
  「み名が聖とされますように」と祈ることは できません
たとえ神の王国のためでも 
 すべて地上の力によって成し遂(と)げようとしているとき
  「み国がきますように」と祈ることは できません
示された天の導きを疑い 従うのを拒(こば)んだり 不満を抱いているとき
  「み心が行われますように」と祈ることは できません
この地上で何の奉仕にも自分を捧げようとしていないのに
  「天に行われるとおり地にも行われますように」と祈ることは できません
過去の追憶にふけり 今を存分に生きていないとき
  「今日を生きるのに必要な糧(かて)をお与えください」と祈ることは できません
ひとを恨(うら)んだり 憎んだりしているとき
  「わたしたちの罪をおゆるしください」と祈ることは できません
みずから誘惑に身をさらすようなことを平気でしているとき
  「わたしたちを誘惑におちいらせず」と祈ることは できません
祈りを武器に 魂のために戦おうとしていないとき
  「わたしたちを悪からお救いください」と祈ることは できません
心から祈れないときに 口先だけで祈りを唱え 「アーメン」ということは
  わたしには できません


この言葉を読むと、
ふだん、形式的に「主の祈り」を唱えてしまう事を、
反省せずにはいられないですね。
上の「基準」をそのまま適用するなら
(つまり、上の「祈り」を絶対的な真理のようにみなすなら)、
私には、「主の祈り」を祈る資格はない事を素直に認めます。

しかし、あえて反論を書かずにはいられません。
自分に祈る資格があるのか、という完璧主義では、
結局、祈らなくなります。
結局、「・・・できません」というのは、
神様よりも、自分を見つめるだけで、
そこで終ってしまいます。
(完璧にならないと祈ることができないのなら、
地上にその資格がある人はごくわずかしかいないはずです。)
たとえ形式的であったとしても、
祈ることを放棄してはならないものです。
主はこう言われる。
ぶどうの房に汁があれば、それを損なうな
そこには祝福があるから、と人は言う。
わたし(=神様)はわが僕らのために、
すべてを損なうことはしない。
(旧約聖書 イザヤ書65:8新共同訳)
だからこそ、「あえて」神様に近づき、
祈りの手を差し出すべきなのです。

そもそも、私たちは、神様を「わたしたちの」と、
呼びかける資格があるのでしょうか?
ヨブ記の言葉を引用すれば、
どうして、人が神の前に正しくありえよう。
どうして、女から生まれた者が清くありえよう。
月すらも神の前では輝かず、星も神の目には清らかではない。
まして人間は蛆虫
人の子は虫けらにすぎない。
(旧約聖書 ヨブ記25:4~6新共同訳)

それにもかかわらず、
そのあなた(=神様)が御心に留めてくださるとは
人間は何ものなのでしょう
あなたが顧みてくださるとは。」(旧約聖書 詩編8:5新共同訳)

わたしたちが神を愛したのではなく、
神がわたしたちを愛して、
わたしたちの罪を償ういけにえとして、
御子をお遣わしになりました。
ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
(新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ4:10新共同訳)

たとえどんな聖人級のような人であっても、
それだけでは、神様の愛に値しない、というのが、
聖書の絶対的な主張です。
信仰によって、神様の目に「義」とされるのです。

どうも、「信仰義認」という教義、
キリスト教用語はあまり好きではないので、
別な言い方をすれば、
神様との関係性が大切である、と言い換えることができます。

親が子どもを愛するのは、
その子の賢さとか、容姿端麗によるのでしょうか?
そんなことはないですね。
愛に理由などなく、
ただ、自分の子どもだから(=関係性)、愛するわけです。

小さい子で、かわいいのは、
人見知りしないで、なついてくる子です。
反対に、どんなにかわいい顔の子であっても、
こちらの愛と善意を信じられない子は、
残念ながら、あまりかわいいとは思えません。

私たちを神様が愛されるのは、
私たちが「神様の子」であるからです。
私たちは、それ(神様との関係性、神様に愛されていること)に気がついている。
それが、「信仰者」という存在です。

子であること、というのは、
普通、子どもが親を認めるのではなく、
親が、その子を「わが子」と認めることによって成立します。

だからこそ、「私は○○ができないから、
受洗しないほうがいい。」とか、
「私は主の祈りを祈る資格などない」などと、
自分を卑下する必要はありません。
大事なのは、神様が差し出している愛の手を、
しっかりと握ることだけです。

(追記:もちろん、時には自己を省みることが必要です。
たまには、上の「アフリカの主の祈り」なるものを、
いわば自分の姿を映し出す水鏡のように使ってみる価値は、
あるかもしれませんね。)

2009年10月16日 (金)

反対しない者は味方(ルカ9:50)

先日、ある大きな書店のキリスト教書コーナーを何気なく眺めていると、
こういうタイトルの本を見つけました。

イエス・キリスト 異次元からの宣告――「聖書」は神からの手紙だった



イエス・キリスト 異次元からの宣告――「聖書」は神からの手紙だった


著者:八島 高明




イエス・キリスト 異次元からの宣告――「聖書」は神からの手紙だった

だいたい、こういうタイトルからして、
「トンデモ本」である場合がほとんどなのですが、
(「キリスト教書」のトンデモ本とは、
たいていが、「キリストはインドで修行をしていた」とか、
イエス・キリストの存在が、
何か別の宗教によって解釈し直されているようなものを指します。)
何かひかれるものがあって、とりあえず立ち読みしてみました。
(だから、上記の☆はまったくつける資格がありませんし、
また、おすすめすべき本なのかどうかもわかりません。)

読んでみると、本当に、「意外にも」結構まともな内容でした。
(細かく言えば、いろいろ問題にすべきところがありますが・・・)
著者は、仏教や東洋のさまざまなオカルト宗教、哲学などを経て、
最終的にたどりついたのが、聖書であり、イエス・キリストである、
とのことでした。

ところで、この著者は、どういう人なのだろうかと、
巻末の著者肩書きを見てみたら、
なんと、占い師でした。
沖縄県で、「沖縄運命科学研究所」というのをやっているそうです。

私はそのとき、イエス様の言葉を思いだしました。
あなたたちに反対しない者は、
あなたたちの味方だからである。

(新約聖書 ルカによる福音書9:50フランシスコ会訳)

それと、旧約聖書の民数記22~24章に出てくる、
占い師バラムのエピソードも思い出しました。
バラムは、モアブ王バラクに請われ、
イスラエルを呪おうとしましたが、
反対に、イスラエルを祝福する者となりました。
民数記24:3では、
神の霊がそのとき、彼(=バラム)に臨んだ。」(新共同訳)
とまで書かれています。
異邦人で、占い師なのに、「神の霊が・・・臨んだ。」というのは、
すごいことです。
旧約時代では、「異邦人」は祝福の対象外だし、
「占い師」は、「生かしておいてはならない」存在でした。
それにも関わらず、モーセやエリヤと同じ、神の霊が臨まれるなんて、
すばらしい光栄に「その時は」与かることができました。
(イスラエルの民を祝福したバラムですが、
最後は、そのイスラエルの民に殺されてしまいました。
民数記31:8に記事があります。
バラムの名は、ヨハネ黙示録2:14では、
「間違った信仰」の象徴として使われていますし、
Ⅱペトロ2:15~16、ユダ11でも非難されています。)

神様は、時には、思いもよらない人や方法を使って、
ある人をまことの信仰に導く場合があります。
だからこそ、
反対しない者は・・・味方」(ルカ9:50)という御言葉は真実です。
それに、正統な教会(カトリック、プロテスタント問わず)と自称しているところが、
ヨハネ黙示録などに描かれた終末論を軽視する中、
この本には、きちんと、終末についても書かれていました。
(やっぱり、これも多少問題がありますが・・・)
もしかしたら、この著者は、
あなたは、神の国から遠くない。
(新約聖書 マルコによる福音書12:34新共同訳)のかもしれません。

奇蹟を信じない、いや、むしろ否定するような事を書いて、
(たとえば、大多数の聖書学者の著作など)、
「これがまことの信仰だ!」、「あれは異端だ!」
みたいな内容の本を読むよりは、よほどマシだと思います。
この場合は、一応「クリスチャン」であるにもかかわらず、
わたし(=イエス様)に味方しない者はわたしに敵対し、
わたしと一緒に集めない者は散らしている。
(新約聖書 ルカによる福音書11:23新共同訳)
とお叱りを受けるかもしれませんね。

なお、上記の本のサブタイトルに、あえて注文をつけるなら、
「・・・だった」という過去形を使うのどうかな、と思います。
聖書は、今も、神様からの手紙です

上記の本に限らず、
他宗教の方が書いた、聖書とイエス・キリストに関する本でも、
結構興味深く読めるものはたくさんあります。
たとえば、
GLAの教祖(?)
高橋佳子氏の著作『二千年の祈り~イエスの心を生きた八人』(三宝出版)とか、
生長の家創始者、谷口雅春師による『ヨハネ伝講義』(日本教文社)などは、
キリスト教の立場から見ると、確かに根本的な問題があるものの、
結構興味深く読めます。
(といっても、おすすめしたいわけではありません。)

異教・異端の人が書いたから排斥する、というような偏狭な心よりも、
むしろ、使徒パウロに倣って、
口実であれ、真実であれ、
とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、
わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。
(新約聖書 フィリピの信徒への手紙1:18新共同訳)
という態度をとりたいものです。

ところで、最近よく売れてるコミックの一つが、
中村光氏の『聖☆おにいさん』です。

聖☆おにいさん 1 (モーニングKC)



聖☆おにいさん 1 (モーニングKC)


著者:中村 光




聖☆おにいさん 1 (モーニングKC)

ブッダとキリストが主人公の、ギャグマンガです。
現在3巻まで出版されています。
(これもおすすめすべきなのかわからないので、無印です。)
私は少し立ち読みをしたことがありますが、
「面白いけど、ちょっとなぁ・・・」という感じでした。
(つくづく、こういう内容の本が出版できる、
日本という国は平和だなぁ・・・と思わされます。)
仏教・キリスト教の信仰を持つ人、持たない人問わず、
たくさんの人に読まれているようです。

「聖☆おにいさん」とか、「エヴァンゲリヲン」のたぐいからでも、
もしかすると、真実の神様を求める人が起こされるかもしれません。
マザー・テレサ曰く、
愛の反対は憎しみではなく無関心」ですから、
こういうきっかけも「アリ」かもしれませんね・・・
キリスト教会や既製仏教が内向きになり、世間から忘れられがちになる中、
代わりに、マンガという形で、存在をアピールされているのかもしれません。
みなさんは、どう思われますか?

なお、カトリックの女子パウロ会のサイト中のブログで、
この「聖☆おにいさん」の話題を取り上げています。
興味のある方はぜひご一読ください。
http://laudate.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-112c.html

2009年10月15日 (木)

今日は世界手洗いの日

NHKの夜7時のニュースの終わりに、
「今日、10月15日は『世界手洗いの日』です。」という紹介がありました。
これは、ユニセフ等が昨年定めたものです。

先日紹介しました、ユニセフニュースの中に、
こういうタイトルの特集記事がありました。
「石鹸は子どもを病気から守る『ワクチン』?」

見出しの記事をそのまま紹介しましょう。

「5歳未満の子どもたちの死亡原因の35%を占め、
毎年350万人の子どもたちの命を奪う下痢性疾患。
30秒にひとりは下痢性疾患で亡くなっています(推定)。
簡単に防げる病気で子どもたちが亡くなる悲劇をなくすには、
どうしたら良いのでしょうか?
その答えは手洗い。『手を洗いましょう!』---
この呼びかけを行なうために、ユニセフとパートナー機関は、
昨年の『国際衛生年』から10月15日を
『Global Handwashing Day(世界手洗いの日)に制定し、
世界各国でキャンペーンや活動を行なっています。」

記事のタイトルの意味は、
「石鹸が下痢性疾患等の直接的なワクチンになる」ということではなく、
「石鹸による手洗いによって、
・5歳未満の子どもが下痢にかかる割合を50%減らせる。
・5歳未満の子どもが呼吸感染症にかかる割合を23%減らせる。」
ということから、そういう意味で、
石鹸は、ワクチンのようなものだ、ということになるようです。

何もこれは、アフリカの不衛生なところだけの話ではなく、
日本でもそうですね。
うがいと手洗いの励行で、風邪やインフルエンザをある程度予防できます。
たかが手洗い、されど手洗い・・・

この「世界手洗いの日」の日本公式サイトは、以下のとおりです:
楽しい動画「世界手洗いダンス」なんてものもあります。
http://handwashing.jp/

何気なく毎日行なっている「手洗い」から、
世界を考えるいい企画だと思いました。


手洗いに関連した事を、おまけとして書いておきます。
トイレについてです。

どこかのニュース番組で、
「今、小学校では、和式トイレを使えない子が増えている。」
という特集をしていました。
実際、小学校に入学する子を持つある方から、
「うちの子、和式トイレのトレーニングをする必要がある。」
という話を聞いたことがあります。
最初、それを聞いたとき、「???」と思いましたが、
確かに、今やほとんどの家庭のトイレは洋式ですね。
しかし、小学校では、昔からある、和式の方が圧倒的に多いようです。
だから、「和式はコワイ」そうです。
(それでも、昔の汲み取り式のでないのだから、
落ちる心配はないはずなのですが・・・)

一方、アジア・アフリカの貧しい国々では、
「そもそもトイレが存在しない」とか、
「学校に、子どもがたくさんいるのに、
トイレは教師用1つと、生徒用1つしかない。
それで、学校では用を足せない。」
といった問題があるようです。

日本の子どもたちは、
恵まれすぎているのでしょうね・・・

『サウンド・オブ・ミュージック』③~映画

『サウンド・オブ・ミュージック』第3回目は、映画についてです。

第1回目に書いたとおり、この映画は、私と妻の一番好きな映画です。
私は、10回以上観ています。
映画館でも、2回観たことがあります。
もちろん、DVDを持っていますし、サウンドトラック盤も持っています。
映画を観たことがない人でも、
「♪ドレミの歌」ぐらいは、ほとんどの人が知っていますね。
映画の舞台であるザルツブルクを訪れる人のうち、
アメリカ人観光客の75%は、この映画を観たのが訪問の理由だそうです。
かくいう私も、20歳頃に、ザルツブルクに行ったことがあります。
ザルツブルクといえば、モーツァルトの生誕地ですが、
熱烈なクラシックファンである私も、ザルツブルクへは、
モーツァルト「巡礼」のためではなく、
「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台を訪ねるために行きました。
(なお、意外にも、地元ザルツブルクを含むドイツ語圏では、
この映画は不人気のようです。)

この映画の魅力を書けば、それこそたくさんあり、
とりとめのない文章になってしまいます。
そこで、3つのポイントを絞ります。
1.舞台の魅力
2.音楽の魅力
3.一番好きなセリフ

(1.舞台の魅力)
冒頭の、オーストリアの山々を空撮したシーンから、
ジュリー・アンドリュース演じるマリアが丘に立っているところへのアップ。
そして、高らかに歌われる「♪サウンド・オブ・ミュージック」・・・
もう、これだけでも、魅力十分です。
美しい湖や山々、丘、といった自然だけではなく、
ザルツブルクの町並みも、とても素晴らしいです。
映画を観るたびに、「あぁ、自分もあの場所へ行ったなぁ・・・」と感慨一入です。
ザルツブルクに行った際、現地のバスツアーで、
映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台を巡りました。
すべて、英語での説明でしたが、結構楽しめました。
またぜひ行ってみたいものです。

マリアと子どもたちが「♪ドレミの歌」を歌うミラベル宮殿とか、
「♪もうすぐ17歳」、「♪何かいいこと」が歌われる場所、
そして、高原!
(ここは、ザルツブルク市内ではなく、
ザルツブルクから結構離れた場所にある、
ザルツカンマーグートというところです。
たしか、ザルツブルクから、60km程だったでしょうか・・・)
とてもすばらしいところでしたよ。

ところで、先日、久しぶりに、
写真家の木之下晃著『ザルツブルク~永遠のサウンド・オブ・ミュージック』
という本を読み返しました。
(というより、以前は、写真しか見ていなかったかもしれません。
なお、残念ながら、この本は、現在絶版のようです。)
この本は、実に執念深く、映画のロケ地を訪ね歩いて作られたものです。
その中で、
「現地の『サウンド・オブ・ミュージック・ツアー』(前述のバスツアー)の説明は、
結構誤りがある。」という指摘が書かれていることに気づきました。
もしかたら、自分が聞いたツアーガイドの説明にも、
何か適当なところがあったのでは、
と思うと、ちょっと残念な気分になりましたが、
それ以上に、映画への愛を感じました。
たとえば、○○のシーンにちょっとだけ出てくる教会は、
実は△△の□□教会である、といったこだわり方がすごいです。
やはり、写真家の眼は違うな・・・と思わされました。
(木之下氏の専門は、音楽家の写真を撮ることです。)
冒頭の、マリアが歌うシーンは、どうやら、私有地で撮影されたようです。

(2.音楽の魅力)
この映画の曲は、名曲ぞろいで、どれも好きです。
「♪ドレミの歌」と「♪エーデルワイス」は、
たいていの人が知っているはずです。
『♪私のお気に入り』は、CMに使われたり、ジャズ用に編曲されています。

中学生・高校生のとき、NHKの基礎英語1・2・3等をやっていた動機の一つは、
英語で歌を歌うことでした。
特に、ミュージカルの曲を歌うのが好きでした。
ミュージカル、といえば、やはり、「サウンド・オブ・ミュージック」に尽きます。
(その他、「マイ・フェア・レディ」の「♪踊り明かそう」や「♪君住む街角」とか、
「雨に歌えば」の「♪雨に歌えば」とか、いろいろ覚えましたが、
やはり一番好きだったのは、「サウンド・オブ・ミュージック」の曲でした。)

今、手元にヤマハから出版されている、
「ボーカルセレクション サウンド・オブ・ミュージック」という、
映画中の主要な歌を集めた楽譜集がありますが、
この中の曲なら、だいたい歌えます。

映画の中の曲で、どれが好きか、と問われたら、
迷わず、冒頭の「♪サウンド・オブ・ミュージック」と、
「♪すべての山に登れ」と答えます。
特に、ソロで歌うなら、「♪すべての山に登れ」をとります。
(以前、合唱団に所属していたとき、
この「♪すべての山に登れ」を二部合唱で歌ったことがあります。)

この映画のサウンドトラックを聴くと、音楽だけでも、
映画のシーンがすぐ目に浮かびます。
実際、映画全体を観ると、結構長いので、
ちょっとだけ映画の気分を味わうために、
サウンドトラックだけ聴くとか、
あるいはDVDで、
歌だけを抜粋して視聴することがよくあります。

映画中、歌が出てくるところで、毎回感動する場面が、2つあります。
1つは、「♪すべての山に登れ」が歌われる場面で、
もう1つは、子どもたちが男爵夫人を歓迎するため、
「♪サウンド・オブ・ミュージック」を合唱で歌っている中、
トラップ男爵が、子どもたちと一緒に歌う場面です。

舞台のすばらしさ、そして、音楽のすばらしさ・・・
その他にも、すばらしいところはたくさんありますが、
どうやら語りつくすことができません。
また、映画と原作の違いを書けばたくさんありますが、
むしろ、「事実をもとにしたフィクション」と、
完全に割り切って観たほうが楽しめます。

余談ですが、バズ・ラーマン監督の映画「ムーラン・ルージュ」で、
「♪サウンド・オブ・ミュージック」が、奇妙な形で使われています。
これは結構ウケました。

最後に、
(3.一番好きなセリフ)について・・・

マリアが、修道院長から、トラップ家の家庭教師になることを命じられ、
修道院の門のところで言うセリフです。
原文は、
"When the Lord closes a door, somewhere he opens a window."
直訳すると、「主がドアを閉めた時には、彼(=主)は別のどこかに窓を開く」。
ある人は、「神様が扉を閉ざされたときには、どこかで窓を開けておいてくださる。」
と訳しています。
日本語の字幕と吹き替えでは、
「道はきっとどこかへ通じるわ」となっています。
これは、英語の原文のほうがすばらしいです。

このセリフ、字幕だけ見ていたときには、あまり気にもしなかったものですが、
確か、NHKの英語番組のテキスト(何だったかもう忘れましたが)で、
取り上げられていました。
それで、すばらしいセリフだなぁ、と改めて感銘を受けました。

考えてみると、人生、すべてが思いどおりになる、
なんてことは、ありえませんね。
しかし、道が閉ざされたように思えるときにも、
神様の愛を信じ、感謝して受け止めると、
また別の道が開けてくるものです。
聖書の中で、私が最も好きな聖句の一つは、
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには
万事が益となるよう共に働くということを、わたしたちは知っています。

(新約聖書 ローマの信徒への手紙8:28新共同訳)です。
神様がすべてを益(プラス)にしてくださる!
そうであれば、何も恐れることはありません。
聖書の信仰は、究極の楽観主義なのでは、と私は考えています。


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「サウンド・オブ・ミュージック」オリジナル・サウンドトラック



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アーティスト:サントラ,ロバート・ワイズ,リチャード・ロジャース,シャーミアン・カー




「サウンド・オブ・ミュージック」オリジナル・サウンドトラック

2009年10月14日 (水)

『サウンド・オブ・ミュージック』②~原作

『サウンド・オブ・ミュージック』シリーズ第2回目です。

前回は、原作に基づくアニメ「トラップ一家物語」を紹介しました。
今回は、原作そのものを紹介します。

アニメ「トラップ一家物語」の第10話に、
ヴァイオリンのエピソードが出てきます。
(結構感動しました。)
このエピソードは、原作(オーストリア編)にあるのかどうか、
念のため、原作を読んで調べてみました。
すると、確かにありました(アニメ版は、若干脚色が加えられていますが)。
調べるだけ、と思っていたら、ついつい、
結局オーストリア編を全部読んでしまいました。
これで読むのは3度目ですが、また新たな感動を覚えました。


サウンド・オブ・ミュージック (Modern Classic Selection)



サウンド・オブ・ミュージック (Modern Classic Selection)


著者:マリア・フォン・トラップ




サウンド・オブ・ミュージック (Modern Classic Selection)

サウンド・オブ・ミュージック アメリカ編 (Modern Classic Selection)



サウンド・オブ・ミュージック アメリカ編 (Modern Classic Selection)


著者:マリア・フォン・トラップ




サウンド・オブ・ミュージック アメリカ編 (Modern Classic Selection)

『サウンド・オブ・ミュージック』に原作があるらしい、というのは、
以前から知っていましたが、つい5、6年前までは、
読んだことがなかったです。
以前、たまたま図書館の児童書コーナーをぶらぶら見ていたときに、
この本を発見しました。
なんと、映画の続き(映画は、一家がオーストリアを脱出する場面で終っています)、
すなわち、一家がオーストリアを脱出した後、どうなったか、
というのが書かれていました。
さっそく、大きな書店で、この2冊を入手して、
一気に読みふけりました。

「事実は小説よりも奇なり。」という名言がありますが、
まさにトラップ一家の物語においても、あてはまります。

原作は、日本では2冊に分かれています。
映画の原作になった、オーストリア編と、
映画のその後を描くアメリカ編です。
どちらかというと、第2部のアメリカ編の方が、興味深かったです。
ヨーロッパでは有名人となっていたトラップ一家が、
亡命先のアメリカでは、まったく0から生活を築きあげ、
ついに、アメリカ市民権を手に入れ、
バーモント州のストウに、
「トラップ・ファミリー・ロッジ」の基礎を築くまで
(と、トラップ男爵の死)を描いています。
オーストリア編においても、銀行の破産や亡命など、
幾多の困難がありますが、
アメリカ編ではそれ以上の様々な困難があります。
しかし、一家の愛と信仰、そして音楽が、
困難を乗り越える力になりました。

「信仰とは?」といった抽象的な内容の本よりも、
本書のような、
生き生きとした具体的な信仰の姿を示すほうが、
信仰入門としておすすめできるのでは、と思います。
著者の深い信仰に基づく楽天的な生き方は、まさに絶賛に値します。

今回、改めてオーストリア編を読み返し、
とても感動した言葉がありました。
神の御心に『なぜ』はない。
ちょうど、5章のタイトルにもなっています。
映画の中で、
有名な「♪すべての山に登れ」が歌われるシーンがありますね。
主人公マリアが、神様の御心が何であるか、迷い、
修道院長に助言を求める場面です。
原作においては、マリアは、もう少しで修道院に戻る日が近づく中、
突然、トラップ男爵からプロポーズを受け、とまどい、
「神様の御心を求めるため」、修道院に戻ります。
そして、修道院長から示された神様の御心とは、
トラップ男爵と結婚することでした。
そのところに、先にあげた「神の御心に『なぜ』はない。」が出てきます。
この言葉、実は、修道院長のはめていた指輪に刻まれていたものでした。
原作でも、この場面は、とても感動的なところです。

祈るとき、「神様、なぜ(Why)?」と祈っても、
まず、答えはありません。
(参考「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。
造られた物が造った者に、
『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。
(新約聖書 ローマの信徒への手紙9:20新共同訳))
起きたことは、神様のご意思と受け止め、
その上で、これからどうすべきか(「いかに(How)?」)、ということであるならば、
きっと、神様は何らかの形で、応えてくださり、新たな道を示されるはずです。

数年前、NHKBSで、実際のトラップ一家で、
現在存命の方々を取材した番組が放送されていました。
これは実に興味深いものでした。
トラップ一家は、アメリカに移住後、ヴァーモント州ストウに、
「トラップ・ファミリー・ロッジ」を開きました。
いつか機会があったら、ぜひ行ってみたいところの一つです。
(トラップ・ファミリー・ロッジの公式ホームページは以下です。)
http://www.trappfamily.com/

実際の、トラップ・ファミリーシンガーズの歌声は、以下で少し聴くことができます。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/1479298

http://www.youtube.com/watch?v=mLLtRTQ9QEk
(有名なコラール「血潮したたる」を歌っています。
トラップ・ファミリー・シンガーズの実際の姿は、
今日の、古楽演奏の先駆者的存在だったのでは、と思います。)

2009年10月13日 (火)

『サウンド・オブ・ミュージック』①~アニメ「トラップ一家物語」

「一番好きな映画は何ですか?」と質問されたら、
私なら、迷わず、『サウンド・オブ・ミュージック』と答えます。
(ついでながら、私の妻も、同意見です。)
映画は10回以上観ましたが(映画館でも観たことがあります。)、
たぶんこれからも、何回観ても、すばらしい作品だ、という評価は、
変わることがないでしょう。
(おまけに・・・二期会によるミュージカルも観たことがあります。)
今回から、3回に分けて、
その『サウンド・オブ・ミュージック』関連の記事を書きます。

1回目は、「世界名作劇場」シリーズの中の一つである、
「トラップ一家物語」についてです。
この作品は、1991年放映のものです。
現在、NHKBS2で、再放送しています。
私は、録画して見ています。見るのは初めてです。
実は、放送当時は、全然見ていませんでした。
(その当時の私は、TVを見ることに、関心がほとんどなかったからです。
余談ながら、「世界名作劇場」シリーズで、放映時に全部通して見たのは、
1作もありません。当時、日曜の夜7:30は、クイズ番組を主に見ていました。
断片的に記憶があるのは、
「小公女セーラ」と、「愛少女ポリアンナ」ぐらいです。
再放送(主にNHKBS2など)で、ほぼ全部見たのは、
「赤毛のアン」(2回)、「愛少女ポリアンナ」、「私のあしながおじさん」です。
特に、「赤毛のアン」は、かなり原作に忠実で、完成度が高いと思います。
あと、正式には「世界名作劇場」には入りませんが、
「アルプスの少女ハイジ」は、全部見ました(2回)
妻は「ハイジ」がとても好きなので、DVD全巻セットをプレゼントしました。)

「トラップ一家」の話では、どうも原作よりも、
まず映画を中心に考えてしまいます。
私にとっては、映画の世界が、もう一つの現実になっている、とも言えます。
そういう中、アニメを見ていて、すごく当たり前の事に気がつきました。
主人公のマリアは、トラップ家に、家庭教師として赴任しました。
アニメでは(というよりも、原作どおりに)、
二人の子にきちんと勉強を教えている姿が描かれています。
しかし、映画では、マリアは、音楽と遊びは教えますが、
勉強をきちんと教えるシーンはなかったなぁ、
という事に気がつきました。
私にとっては、意外な発見でした。

多少の設定変更(マリアの年齢、トラップ男爵との年齢差、
子どもたちの順番等)はありますが、
おおむね、原作に基づいている作品です。

あと、このアニメのエンディング曲「♪両手を広げて」は、
とてもいい曲だと思います。
なお、テレビ放送の際のオープニングは、
おなじみの「♪ドレミの歌」ですが、
DVDや動画配信の場合は、オープニングが差し替えられています。

アニメの再放送は、まだ10話目くらいなので、
これからも楽しみに見ていこうと思います。

次回は、原作について書きます。

2009年10月12日 (月)

教育と『芋粥』~学びからの逃走

現在、私は、日本ユニセフ協会の、
「マンスリー・サポート・プログラム」に参加しています。
それで、日本ユニセフ協会から、定期的に、
「ユニセフ・ニュース」という会報が定期的に送られてきます。

その「ユニセフ・ニュース」最新号(vol.223 2009Autumn)に、
興味深い記事がありました。
「学校に行けない子どもたちに機会を!~学費の無料化を考える」
という特集記事です。
その冒頭の文章を、少し長いですが、引用します:

「現在、小学校に行くことができない子どもたちは
世界で1億100万人います。
その理由はさまざまですが、貧困が大きな要因となっています。
学校に行くには制服代、文具代、教科書代などがかかり、
そのお金を払えない家庭が多いのです。
また、家計を支えるために働きに出て、
学校に行く時間がとれない子も多くいます。
そういう子どもたちにとって、
「学費の無料化」は、学校に行く道を開く手段になります。」

世界中で、ほぼ日本の総人口に等しい数の子どもたちが、
小学校に行くことができない現実・・・
そういう意味では、日本の子どもたちは、
「天国」にいるようなものです。

その特集記事の中では、アフリカ西部に位置する、
トーゴの小学校教育に触れていました。
(「トーゴって、どこにあるの?」と思う方がほとんどだと思いますので、
ウィキペディアで確認してみてください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%B4
実は、私もよく知りませんでした。)
トーゴでは、以前、一人当たり年間4USドルの学費が必要でした。
しかし、そのお金さえも、払うのが困難、という理由と、
子どもを労働力としてあてにしているから、という理由で、
親が子どもたちを学校に通わせない、ということが多かったそうです。
しかし、つい最近になって、小学校の学費が無料化された、
と記事にありました。
日本や欧米諸国からすると、
わずか4USドル(日本円で400円程度)が払えないというのは、
いかに貧困であるか、を雄弁に物語っていますね。

アジアやアフリカの貧しい国の子どもたちにとって、
「学校に行ける」、「勉強できる」ということは、
とても幸福なことなのです。

しかし、翻って、日本ではどうでしょうか?
文部科学省の発表によると、
平成20年度の小・中学校の長期欠席者(30日以上の欠席者)のうち、
「不登校」を理由とする長期欠席者は、
小学校2万3千人、中学校10万4千人、とのことです。
(それでも、前年度より減っているそうです。)
不登校になる原因は、いじめとか、精神的な問題とか、
いろいろあるでしょうが、やはり多すぎると思います。
また、国際的な調査によると、
日本の中学生の宿題をする時間は、調査国(45カ国)中最短で、
一方、テレビを見る時間は、調査国中最長、との統計があります。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3943.html
(※この統計では、塾に行く時間は含まれていません。)
いずれにせよ、学力低下は進んでいます。
日本国憲法第26条には、
教育は権利であり、義務(ただし、「普通教育」のみ)である、
と書かれていますが、
今の子どもたち(や親たち)にとっては、「権利と義務」なのではなく、
金銭で対価を得る、サービスの一つに過ぎなくなっているのかもしれません。
しかも、「勉強させてもらっている」という感謝ではなく、
「勉強してやっている」というような態度で・・・

ここで思い出すのは、
芥川龍之介の短編『芋粥』です。
主人公の下級武士は、
「芋粥を腹いっぱい食べたい」という夢を持っていましたが、
その夢を、ある豪族が見事にかなえます。
しかし、実際に大量の芋粥を見て、
主人公は食欲が失せてしまった、という物語です。
国語の授業で読んだ事がある人が多いのでは、と思います。

日本も、敗戦の後は、
まさに今のアジア・アフリカの貧しい国と同じようなものでした。
焼け野原の中から、勤勉さと努力により、驚異的な復興を果たしました。
そして、世界でも有数の豊かな国になりました。
しかし、今や、日本は豊かになりすぎて、
未来を担う子どもたちが、学びから逃げつつあります。
日本の子どもたちは、学ぶことに、満腹状態なのでしょうか?
(たとえ満腹でも、「○○は別腹」というのがあるはずですが・・・)

8月に読んだ本で、特に心に残ったのが、
内田樹氏の『下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉』です。
不登校とか、勉強しなくなった子どもたち、という現象を分析する、
非常に興味深い本の一つです。

一方、中国の都市部では、超エリート教育をやっているようですね。
朝6時から夜寝るまで勉強漬けで、
海外留学を目指している子どもたちが増えてきているようです。
「ゆとり教育」とか、「詰め込み教育はかわいそうだ」とかいう、
マスコミや文部科学省、教員組合の愚かな主張のもと、
日本の子どもたちは勉強しなくなり、
一方で、中国や韓国の子どもたちはますます勉強する、
というのが現実です。
学問への取り組み、ということだけ考えても、
日本はだんだん没落しつつあります。

私は、この問題をどうしたらいいのか、
正直言って、わかりません。
二つだけ言えるのは、国の教育政策を変える必要があることと、
最後は親の姿勢である、ということだけでしょう。
みなさんはどう思いますか?

(参考)日本国憲法第26条
①すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、
ひとしく教育を受ける権利を有する。
②すべて国民は、法律の定めるところにより、
その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。
義務教育は、これを無償とする。


今回の記事に関連するサイト等を紹介します。
・日本ユニセフ協会
http://www.unicef.or.jp/
・内田樹氏のブログ「内田樹の研究室」
http://blog.tatsuru.com/

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)



下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)


著者:内田 樹




下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)



先生はえらい (ちくまプリマー新書)


著者:内田 樹




先生はえらい (ちくまプリマー新書)

2009年10月11日 (日)

聖書の意外な使われ方

BS11では、先月から、
「ウルトラ兄弟セレクション」という番組を、
毎週土曜日に放送しています。
「ウルトラマンA」以降の、ウルトラ兄弟が登場する回を中心に、
構成しているようです。
昨日、なにげなく、つい見てしまいました。
(小さい頃は、ウルトラマン大好き少年だったので・・・)

すると、面白いことに気がつきました。
なんと、怪獣名と、惑星名に、
聖書中の固有名詞が使われていました!
「超獣バラバ」と「ゴルゴタ星」、
しかも、ウルトラマン達が、そのゴルゴタ星で、
十字架につけられていました・・・
完全に、聖書のパロディですね。
(残念ながら(?)超獣バラバは、赦されることなく、
ウルトラマンAに退治されてしまいましたが・・・)

聖書に出てくる固有名詞は、
実際、意外な形で使用されていることがあります。
たとえば、「ウルトラマン」の代表的な怪獣の一つが、
ゴモラ」です。今もこれは人気が高いようですね。
創世記19章の「ソドムとゴモラ」からなのでしょう。
アニメ・特撮ネタで、こういうのを挙げていったら、
かなりたくさんの数にのぼるはずです。

思いつく限り、何例かあげてみると・・・
・「ゴリアテ」(※サムエル記上17章→ペリシテ人の大男の名)~
⇒映画「天空の城ラピュタ」に出てくる飛行戦艦の名称。
・「ボアズ」と「ヤキン(・ドゥーエ)」
(列王記上7:21→ソロモンの神殿の中にあった青銅の柱の名)
⇒「機動戦士ガンダムSEED」中の宇宙要塞の名称。
(さすがにこれは、TVで見たとき、「マニアックだなぁ・・・」と驚きました。)

あと、大ヒットした「新世紀エヴァンゲリオン」には、
聖書からの名称がよく出てきます。
そもそも「エヴァンゲリオン」という言葉自体、
ギリシャ語の「よき知らせ=福音」という言葉なのですから・・・
(このアニメについては、いろいろなネタ本が出ていますから、
省略します。)

いい意味でも、悪い意味でも、聖書に出てくる人名や地名、
エピソードというのは、力があるのだなぁ、と思わされます。
(悪用の代表例は、「ハルマゲドン」(黙16:16)でしょう。)

神の言葉は生きており、力を発揮し、・・・」
(新約聖書 ヘブライ人への手紙4:12新共同訳)
聖書の言葉には、やはり力があります。

ビジネス書で売れている本を、よく読んでみたら、
実は聖書に書いていることがベースになっていたりします。
案外、一般的なクリスチャンの方が、
聖書の力を知らない事が多いのではないでしょうか?
この世の子らは、自分の仲間に対して、
光の子らよりも賢くふるまっている。
(新約聖書 ルカによる福音書16:8新共同訳)
とイエス様はおっしゃっています。
私たちも、御言葉の力に、さらに目を見開きたいものですね。
わたしはあなたの掟を楽しみとし、
御言葉を決して忘れません。
(旧約聖書 詩編119:16新共同訳)

2009年10月10日 (土)

NHK語学番組

10月から、NHKのラジオ中国語講座
(正式には、「まいにち中国語」)を始めてみました。
NHKのラジオ中国語講座に挑戦するのは、
たしかこれで3回目ぐらいだと思います。
過去の挑戦は、「なんとなく」という理由でしたが、
今回は、少し実際的な必要があるので、
あきらめずになんとか半年間やり続けられたら、と考えています。

中国語(北京語)で難しいのは、発音です。
過去には、声調(中国語には、「a」の発音をするにも、
1声、2声、3声、4声という4つの声調があります。)でまず挫折しました。
今回は、なんとなくですが、最初のハードルを越えられたかな、
と思っています。

以前は、NHKのラジオ語学講座といえば、
朝早くとか、夜遅くの放送時間にあわせて聴くか、
何らかの方法で録音するか、あるいは、CDを買う、という方法でしか、
続けることはできませんでした。
しかし今は、便利になったものです。
「基礎英語1・2・3」や「ラジオ英会話」といった英語の番組の他に、
中国語、フランス語、イタリア語、ハングル、ドイツ語、スペイン語は、
インターネットで聴くことができます。
私はこれを利用しています。
NHK語学番組の、ラジオ番組ストリーミングのサイトは、
以下のとおりです。
http://www.nhk.or.jp/gogaku/streaming.html

NHKラジオの語学放送としては、
中学生の時に、基礎英語1・2・3を、質の悪いラジオで聴いて勉強していました。
(両親が初めて私に買ってくれたラジカセで、韓国製でした。
雑音の中から、ラジオの音声を拾って聴くような感じでした。
ただ、感謝なことに、そのおかげで、
私は音質にあまりこだわらなくなりました。
私の父はオーディオマニアだったので、
最初からすばらしいものを買い与えられていたら、
たぶん私もそういう方向へ進んでいたかもしれません。)

ラジオ講座を聴いている中で、ちょっと変わった思い出としては、
中学生のとき、早朝に、たしか基礎英語3を聴いていた際、
非常に珍しいことですが、放送が中断されました。
「昭和天皇崩御」の臨時ニュースによってでした。
ちょうど、番組の中で、
ビートルズの名曲「イエスタデイ」が流れていた途中で、
と記憶しています。
(記憶違いかもしれませんが・・・)

中学校3年間は、NHKの基礎英語1・2・3のおかげで、
英語の成績はとてもよかったし、
海外旅行に行った際にも、大いに活用することができました。

高校生のときには、学校の英語の授業が、とてもつまらなかったので、
その代わりに、ドイツ語・フランス語・イタリア語と、
「ラジオ英会話」をやっていました。

なぜ、ドイツ語やイタリア語なのか、というと、
なんとなく興味があったし、
後には、英語やドイツ語、イタリア語で歌をうたう、
という目標ができたからです。
(実際、今も、英語とドイツ語、イタリア語で、「歌う」だけなら、
全然支障がありません。)
特に、ドイツ語が好きでした。
シューベルトの歌曲や、ベートーヴェンの「第9」・・・
実際に歌えるようになりました。
(「第9」は2回、ステージで、
合唱団のバスパートで歌ったことがあります。)
また、実際に、高校生のときや、20歳頃に、
ヨーロッパへ何度か行ったので、使う機会がありました。
(ただ、「使い物になる」レベルではなかったので、
やはり英語をメインに使いましたが。)

ただし、肝心の、文法は、あまり身につきませんでした。
だいたい、最初の1ヶ月目は、割合簡単なのですが、
2ヶ月目からは、結構難しくなります。
ドイツ語なら、名詞の「性」(男性名詞・女性名詞・中性名詞)とか、
「格」とか、過去形が出てくると、もうついていけなくなりました。
それでも、ドイツ語は3、4回ぐらい、挑戦したことがあります。
イタリア語も同様です。

今までに挑戦したことがあるのは、
英語とドイツ語、イタリア語、フランス語、中国語の他に、
スペイン語(1回)、ロシア語(2回)、ハングル(1回)です。
どれも、テキストを買ってみたものの、放送初日で、
継続を断念しました・・・
ハングルとロシア語は、文字を覚えるのが大変です。
(それでも、ロシア語のキリル文字は、
少しだけ読めるようになりましたが・・・)

現在は、前述の中国語の他に、
基礎英語2と3を、6月くらいから聴いています。
(妻から、TOEICを受けるよう勧められているからです。)
中学生レベルの基礎英語2&3だけでも、
実際に、使うことができます。
今年、教会で、機会があって、
外国人観光客と英語で対応したことが何回かあります。
文法的には間違っていることが多いかもしれませんが、
とりあえずの意味は伝えることができました。
文法的に正しく、という学校教育(特に、高校の英語)では、
いつまでたっても、英語でしゃべることはできないのでは、
と思います。
間違ってもいいから、まず使ってみることが、
とても大切なことだと私は思います。

外国語を学ぶのは、楽しいものですよ。

2009年10月 9日 (金)

Agnus Dei(平和の賛歌)【編曲】

今回紹介する曲は、
ホルスト組曲『惑星』の中の超有名曲
木星」(ジュピター)を編曲したものです。

たしか、平原綾香さんの「♪Jupiter」が大ヒットしていた頃に、
与えられたもの、と記憶しています。
平原綾香さんの「♪Jupiter」、結構好きです。
歌詞がすばらしいですね。
ちなみに、平原綾香さんの曲で一番好きなのは、
「♪明日」です。ちょっと暗いですが・・・
あと、久石譲さんとのコラボ曲である、
「♪いのちの名前」もすばらしいです。
元々は映画「千と千尋の神隠し」の曲ですが、
平原綾香さんが歌い、伴奏がピアノソロだけになったことにより、
新たな印象を持つ曲となりました。)

先日、毎回必ず見ているTV番組の一つ、
名曲探偵アマデウス」(NHKBS2、NHKBShi、NHK総合)で、
ホルストの「惑星」が取り上げられていました。
その中で、ある指揮者が、この曲について、
「テーマは、『Life is beautiful』なんだ。」と語るところが印象的でした。

さて、作品説明に戻ります。
テキストは、カトリックのミサで使われる、
「平和の賛歌」です。

編曲上、工夫したところは、
原曲では、旋律が繰り返されるたびに、
1オクターブ上がって提示されます。
3回目に旋律が提示されるときには、
最初の音から2オクターブも高くなっています。
そうすると、まともにやれば、歌うことが非常に困難になります。
そこで、1回目と2回目を同じものとし、
3回目で、1オクターブ上げることにしました。
あと、最後の終わり方も、工夫しました。

ホルストの「惑星」は、クラシックを聴き始めた当初から、
とても好きな曲の一つです。
(といっても、全曲必ず通して聴くのではなく、
たいていは、抜粋で聴いています。
聴くのは、「火星」、「金星」、「木星」、「海王星」だけです。)

ある解説書によると、この「木星」の主題は、
「愛」である、とのことです。
そういう意味で(ちょっと我田引水的ですが・・・)、
神様への愛、神様からの愛を表明する、
「平和の賛歌」を歌うのにぴったりでは、と考えています。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

「20091009_agnus_dei_arranged_from_jupiter_by_holst.MID」をダウンロード

「20091009_agnus_dei_arranged_from_jupiter_by_holst.pdf」をダウンロード

なお、「名曲探偵アマデウス」の番組HPは、以下のとおりです。
http://www.nhk.or.jp/amadeus/

ホルストの「惑星」のCDで、私が持っているのは、以下のものです。

ホルスト:組曲「惑星」、エルガー:エニグマ変奏曲



ホルスト:組曲「惑星」、エルガー:エニグマ変奏曲


アーティスト:ボールト(エイドリアン),ジェフリー・ミッチェル合唱団




ホルスト:組曲「惑星」、エルガー:エニグマ変奏曲

2009年10月 8日 (木)

映画『きみに読む物語』

先日、BSフジで、映画『きみに読む物語』が放映されていました。
以前、DVDをレンタルして1度観たことがあるので、
今回で観るのが2度目になります。

アルツハイマー病で、療養をしている老婦人の元に、
ある老人が、足繁く通い、物語を読んで聞かせる。
その物語は、若い青年と女性との恋の物語。
朗読する老人と、老婦人との関係、
その物語には、どんな意味があり、
なぜ、老婦人にその物語を読み聞かせるのか、
というのが、この映画の中心です。

私にとっては、若者同士の恋の話よりも、
年を経ても、病であっても愛し続ける深い愛の方が、
胸を打ちました。
愛する、愛される、ということの、理屈を越えた世界。
愛の美しさ、強さを感じさせる名作だと思います。
ラストシーンの手前は、最も美しく、感動的であり、
かつ残酷な事実が、観る者を打ちのめします。
ただ、ラストは、ハッピーエンドとはいえないけれど、
「これでいいんだ・・・」と思える幕の引き方をしています。

映画の主人公の、愛する女性への想いは、強烈なものでした。
一方、愛される女性の側の愛は、といえば、
それほど特筆すべきものがなかったかな、と思いました。

映画のあらすじについては、以下のサイトでどうぞ。
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD6415/story.html

ところで、神様は、なぜ私たちを愛されるのでしょうか?
実はこれも、理屈を越えた愛ゆえに、だからでしょう。
私たちが何かできるから、とか、何かをささげたから、とか、
私たちが神様を愛しているから、とか、そういうことではないはずです。
(ローマ5章によると、
私たちがまだ「弱かったとき、罪人であったとき、であったとき」でさえ、
キリストはそういう者たちのために死んでくださった、とあります。
明らかに、神様の愛が、私たちの愛に先行するのです。!
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、
わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。
ここに愛があります。」(新約聖書ヨハネの手紙Ⅰ4:9新共同訳))

永遠の愛をもって、
わたしはあなたを愛した。
それゆえ、わたしはあなたに、
誠実を尽くし続けた。」(旧約聖書 エレミヤ書31:3新改訳)

わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。」(旧約聖書 イザヤ書43:3新改訳)

ここでの「わたし」は、もちろん神様です。
私たちは(いや、もっと厳密に言って、少なくとも「このわたしは」)、
神様の愛を受けるに値しない存在ですが、「にもかかわらず」、
神様からの愛をたくさん受けています。
私が神様を愛する何千、何万倍以上に、神様は私を愛されています!
独り子イエス様さえ惜しまないほどに・・・
だからこそ、感謝せずにはおられません。
いかに楽しいことでしょう 主に感謝をささげることは
(旧約聖書 詩編92:2新共同訳)

ある意味で、神様からの『きみに読む物語』とは、
「聖書」ということになります。
私たちは、神様をいつの間にか忘れています。
そして、自分が神様にとってどういう存在かさえ、
忘れてしまっていることが多いです。
しかし、聖書を読むことによって、
私たちと神様との関係、神様にとって私たちがどのような存在なのか、
思い出すことができます。
確かに、直接、「わたし」は聖書の中に出てきません。
しかし、アブラハムやモーセ、ペトロやパウロなどの中に、
あるいは名前さえ出てこない人物の中に、
「ああ、実は、あの人の姿はこの私だ!」というのが、
たくさんあります。
神様の愛と恵みを思い起こすためにも、
聖書を毎日読んでいきたいものですね。

DVD

Blu-ray

原作

2009年10月 7日 (水)

ヨハネの洗礼

10月6日の朝刊のテレビ欄を見ていると、
夜10:54~から、TBS系新番組として、
「ヨハネ」と書いてあるのを見つけました。
興味を持ったので、調べてみると、
「ヨハネの洗礼」という番組名でした。

番組の内容は、
「何も知らずにやってくる女性芸人の秘めた、
洗い流したい恥ずかしい過去を大暴露!
文字通りキレイさっぱり洗い流す衝撃のショートコメディー。」
(番組宣伝HPから引用)とのことでした。
たぶん、「オレたちひょうきん族」(懐かしい~!)の人気コーナー、
「ひょうきん懺悔室」の二番煎じ的な内容かな、と予想できました。

実際、参考までに、その番組を見てみました。
女性芸人の恥ずかしい写真を公開し、
それに対して、「罪滅ぼし」的な「懺悔」をさせられ、
最後に、その写真と女性芸人に、
大量の水が天井から浴びせられ、
「罪が清められる」(?)というものでした。

それにしても、どうして番組名を、
「ヨハネの洗礼」なんてものにしたのでしょうか。
よくわからない番組でした。
「洗礼」というよりは、
神道の「みそぎ」の方が適切な表現でしょう。
(余談ですが、神道の「みそぎ」と、
ユダヤ教の「清め」の考え方は、なんとなく似ていると思います。)

ところで、「ヨハネの洗礼」といえば、
本家本元(!)の聖書において、特に印象深いところがあります。
使徒19:1~7に書かれている記事です。
使徒パウロがエフェソ(エペソ)に行った際、
何人かの弟子に会い、彼らに問いました。
以下、聖書本文を引用します。
「(パウロは)彼ら(エフェソの弟子たち)
『信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか』と言うと、
彼らは、『いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません。』
と言った。パウロが、
『それなら、どんな洗礼を受けたのですか』と言うと、
『ヨハネの洗礼だけです」と言った。
(新約聖書 使徒言行録19:2~3新共同訳)

洗礼を受けているのに、聖霊を受けていない・・・
これは、聖書に書かれているだけの出来事でしょうか?
父と子と聖霊の名によって洗礼」(マタイ28:19)を受けたのに、
どうして、聖霊に満たされている人が、こんなにも少ないのでしょうか?
イエス・キリストは、きのうも今日も、
また永遠に変わることのない方です。
(新約聖書 ヘブライ人への手紙13:8新共同訳)
という御言葉が真実ならば、
イエス様の御名によって、奇蹟が今の時代にもあって当然ですし、
異言や預言などの聖霊の賜物や、聖霊の実があふれる信仰が、
今もあるのが不思議なことではないはずです。
リベラル派の人たちの、「聖書は神話だ」というのは論外として、
福音派の半分の人たちの、
「聖書が書かれた当時は、奇蹟があったが、
聖書が完成したので、今は奇蹟が必要ない。」という主張は、
全然根拠がないものです。
また、常識的・合理的なものしか認めない信仰も、
私にとっては???です。

私たちは、悔い改めを表す「ヨハネの洗礼」で満足していないでしょうか?
「悪いことをしない」程度のことだけなら(これも大切なことですが)、
別にキリスト教の信仰でなくてもいいはずです。
神様が約束されているのは、もっと祝福に満ちたものです。
あなたがたの上に聖霊が降ると、
あなたがたは力を受ける。
そして、エルサレムばかりでなく、
ユダヤとサマリヤの全土で、
また、地の果てに至るまで
わたし(イエス・キリスト)の証人となる。
(新約聖書 使徒言行録1:8新共同訳)
神様の力を受けましょう!

2009年10月 6日 (火)

書評:岡野昌雄著『イエスはなぜわがままなのか』

前回、いちじくについて書きましたが、
いちじくとイエス様との関わりで、
とても有名なエピソードがありますね。

それは、マタイ21:18~22、
及びマルコ11:12~14、11:20~25に書かれています。
イエス様が空腹を覚えられた際に、
葉の茂ったいちじくの木に近寄られましたが、
いちじくの季節ではなかったので、実はなく、
それで、イエス様は、いちじくの木を呪い、
そのいちじくの木は枯れてしまう、というエピソードです。

このエピソードについて、いろいろな解釈がつけられています。
今回は、それを紹介するつもりはありません。

今回、皆さんに紹介したい本があります。
フェリス女学院院長の岡野昌雄氏が著した、
『イエスはなぜわがままなのか』(アスキー新書)です。

これは、昨年出版された本です。
書店の新書コーナーで、この本を見つけたときは、
最初、キリスト教を否定するたぐいの本かな、と思いました。
一応、恐る恐る少し立ち読みしてみました。
すると、今までにない視点で、イエス様をとらえた本であり、
なおかつ、決してキリスト教批判の本などではなかったのでした。
(キリスト教関係の本を買う場合、
私は必ず2つの点をチェックしてから買います。
すなわち、キリストの復活と、奇蹟についての、
著者の立場です。
どれだけすばらしい事が書かれていても、
この2点を認めようとしないのなら、
読むに値しない、と思っています。
たとえ、著者が神父や牧師や神学者、聖書学者であろうとも・・・)

この本の1章では、先の「いちじくの木を呪う」エピソードの他、
・豚を集団自殺させる。
(マタイ8:28~34、マルコ5:1~17、ルカ8:26~37)
・動物を鞭でたたき出し、市場をめちゃくちゃにする。
(マタイ21:12~13、マルコ11:15~18、
ルカ19:45~48、ヨハネ2:13~16)など、
いわゆる「愛の人イエス様」という一般的なイエス様像に反する、
「理不尽な」姿を取り上げています。
「イエス様は、愛にあふれた方だ」という思い込み的な読み方を、
一旦白紙に戻す読み方ですね。
私も、思い込みが正され、
まさに「目からうろこ」(使徒9:18)という箇所がいくつもありました。
詳しくは、ぜひこの本を一読していただきたいと思います。
内容は非常にわかりやすいものです。

最後の3章まで読みすすめると、
「にもかかわらず」、「私は信じる」という、
著者の確信(特に、キリストの復活について)が語られています。
「裏口からの聖書入門」というような感じの好著ですよ。

著者の、フェリス女学院院長としての挨拶は、
以下のサイトでどうぞ。
http://www.ferris.jp/gakuin/aisatu.html

イエスはなぜわがままなのか (アスキー新書 67)



イエスはなぜわがままなのか (アスキー新書 67)


著者:岡野 昌雄




イエスはなぜわがままなのか (アスキー新書 67)

2009年10月 5日 (月)

干しいちじく

味わい、見よ、主の恵み深さを。
(旧約聖書 詩編34:9新共同訳)

先日、イスラエルの風土などを紹介した映画の上映会に、
妻と一緒に行きました。
映画が終わって、帰ろうとすると、
「お茶飲んでいきませんか?」と声をかけられました。
飲み物と共に、そこには、聖書に出てくる、
さまざまな果物(ただし、ドライフルーツが多かったです。)や、
ナッツ類・オリーブなどが並べられていました。
私と妻は、何種類か試食しました。
その中で、特においしかったのが、干しいちじくでした。

いちじく、というと、小さい頃は、
「イチジク浣腸」というイメージしかなかったです。
(ゴメンナサイ・・・)
スーパーで生のものをたまに見かけますが、
買いたい、と思ったことはありませんでした。
いちじくのジャムは、食べたことがありましたけど。
(手に入れやすいのは、アヲハタのジャムです。)

干しいちじくを食べるのは、その時が初めてでした。
(実のところ、生のいちじくも、その時には、
食べたことがありませんでした。
今日、妻とケーキ店に行った際、初めて、
生のいちじくも食べることができました。
珍しい、いちじくとみかんが上にのっているケーキでした。)
そのあまりのおいしさ、甘さに、大変感動しました。
思わず、ついつい、もう1個いただいてしまいました。

その映画の中では、冒頭に掲げた、
味わい、見よ、主の恵み深さを。」の、
元のヘブライ語が紹介されていました。
目だけでなく、舌までもが、
イスラエルと聖書の世界に引き込まれてしまいました。
(抽象的に、
聖書の中に出てくる「いちじく」とか「ぶどう」を考えるよりも、
実際に、味わってみると、理解が早い場合も多いですよ。)

強烈な印象を残した味だったので、忘れがたく、
先日、輸入食材店で、干しいちじくを探してみました。
イラン産やトルコ産のがありました。
トルコ産は、「無添加」と書いてあったので、それを迷わず買いました。
400円程度でした。結構おいしいですよ。
もし、機会があれば、
ぜひ一度食べてみることをおすすめします。
(ただ、味は、といえば、最初に食べたものの方が、
断然おいしかったです。)

干しいちじくを食べて、活性化した(?)私の頭は、
聖書の中で、「いちじく」という語が登場する、
様々な場面を思いめぐらせました。

今回、この文章を書くにあたり、改めて聖書をいろいろと調べてみました。
すぐ、創世記やヨハネ福音書、
雅歌、ヨハネ黙示録のところなどを思い浮かべました。
また、インターネットでも検索してみました。
ある人によると、聖書の中で「いちじく」は、67回出てくるそうです。
(植物の名前で一番多いのは、「ぶどう」だそうです。
なんと391回!
次が、「杉」で、70回。
「いちじく」は第3位です。)
さすがに、「いちじく」が出てくるすべての箇所を読み返すことはしませんでしたが、
記憶に残るところ何箇所かを読んでみました。

新共同訳聖書で、植物の具体名が初めて出てくるのが、
いちじくです。
(※「いのちの木」等は含まれません。)
二人(注:アダムとエバ)の目は開け、自分たちが裸であることを知り、
二人はいちじくの葉をつづり合わせ、
腰を覆うものとした。」(旧約聖書 創世記3:7新共同訳)
なんと、いちじくは、聖書最終巻の「ヨハネの黙示録」にも登場します。
(引用はしませんが、ヨハネの黙示録6:13にあります。下記参照。)
また、癒しのために、干しいちじくが用いられたこともあります。
(→イザヤ書38:21、列王記Ⅱ20:7)

そのほか、重要な箇所としては、
・列王記Ⅰ4:25(繁栄と平和)
〈※新改訳、口語訳、文語訳、現代訳では4:25ですが、
新共同訳、バルバロ訳では、5:5です。〉
・エレミヤ書24章(義人と悪人)
・ホセア書9:10(イスラエルの先祖)
・マタイ21:19(不毛な宗教)
・マタイ24:32~33(キリストの再臨)
・ルカ13:6~9(ユダヤ国民)
・黙示録6:13(最後のさばき)
※( )内は、チェーン式新改訳の付録、巻末索引によります。
チェーン式新改訳では、上記7箇所だけが索引で取り上げられていました。

いちじくは、「幸福、平和、豊かさ」の象徴だったようです。
参考になるサイトを紹介しますね。
「聖書の中のいちじく
(いちじく栽培とソフトドライイチジク日記~いちじく農家の日々)」
http://itijikusanshu.blog26.fc2.com/blog-entry-58.html
※「いちじく」が出てくる主な聖書箇所が載っています。

「聖書植物園 イチジク(西南学院大学のHP内)」
http://www.seinan-gu.ac.jp/shokubutsu/shokubutsu/43.html
※日本のスーパー等で売られているいちじくの形と、少し違いますね。

聖書の中の「いちじく」が出てくる箇所で、
私が好きなのは、次のところです。
恋人よ、美しいひとよ
さあ、立って、出ておいで。
ごらん、冬は去り、雨の季節は終った。
花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。
この里にも山鳩の声が聞こえる。
いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。
恋人よ、美しいひとよ
さあ、立って出ておいで。
(旧約聖書 雅歌2:10~13新共同訳)

いつも、主の御前に実を結んでいる、
良いいちじくのような歩みをしたいものですね。
いちじくの木から教えを学びなさい。
枝が柔らかくなり、葉が伸びると、
夏の近づいたことが分かる。
(新約聖書 マタイによる福音書24:32新共同訳)

2009年10月 4日 (日)

中秋の名月

10月3日は、十五夜でしたね。
みなさんの家では、どのようなイベントをされたでしょうか?

我が家では、日本風に、お団子とすすき、ではなく、
月餅を食べたり、など少し中国風でした。
公園で食べ物を食べながら、月を見たりもしました。

あと、0時を過ぎてから、妻と一緒にバルコニーに出て、
月を眺めました。
雲が多く、風が強かったので、
まるで月が走っているようだ、と妻が言っていました。
とてもきれいな、まさに中秋の名月でした。

ところで、夢を壊すような話ですが、
月は実際にはデコボコな砂の星ですよね。
自らは、光を放ちません。
しかし、太陽の光を受けて、月はあんなにも美しく光り輝きます。
まさに、神秘的です。
これは、まるで神様と私たちとの関係のようです。

私たちがすばらしいのではなく、
神様の恵み、神様の愛、神様の栄光を反映させて、
私たちは光り輝いているように見えるのです。

いかに幸いなことでしょう 
背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
(旧約聖書 詩編32:1新共同訳)
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、
鏡のように主の栄光を映し出しながら、
栄光から栄光へと、
主と同じ姿に造りかえられていきます。
これは主の霊の働きによることです。
(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ3:18新共同訳)
『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、
わたしたちの心の内に輝いて、
イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を
与えてくださいました。
(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ4:6新共同訳)

2009年10月 3日 (土)

変身

最近のCMで、とても面白いな、と思うものがあります。
ギャツビーのCMです。
岩尾望さんが、洗顔すると、なんとキムタクになってしまう、
というものです。
ここまで来ると、さすがに、
「これは誇大広告だ!」なんて目くじら立てる人はいないでしょう。
ナンセンス、ユーモアにおいて、抜群のセンスだと思いました。
参考までに、ネットでもそのCMを見ることができますので、
サイトを紹介します。
http://www.gatsby.jp/index.html
(「ムービー・CM関連」のところです。)

でも、もしこれが逆なら、どうでしょうか。
キムタクが洗顔をすると、岩尾望さん(あるいは、普通の人)になる・・・
商品イメージは、どうなるでしょうか・・・・?

私たちは、誰しも少しは、変身願望があるのでは、と思います。
変身には、2種類の方向があります。
+の方向と、-の方向です。

+の方向への変身とは、
一般人以上、人間以上の存在に変身したり、能力を獲得することです。
+の方向への変身の例は、
・ウルトラマンや仮面ライダーといった固定したヒーローへ実体が変わる
・ガンダム等の巨大ロボットなどに乗る事により、超人的な能力を獲得する。
・魔法によって、様々な姿に変化できる、という能力を得る。
・超能力、特殊能力を獲得する。
(ドラえもんのひみつ道具をのび太君が使うのも、これにあたります。)
・上記のような変身ではないが、貧乏な人が突然セレブになる、など。
(代表例が、オードリー・ヘップバーン主演の映画など)
たいていの場合、これは、「変身する」という、能動的なものです。
前述のCMの例は、もちろん+の方向への変身ですね。

-の方向への変身とは、
人間以下の存在に変身させられる
(たいていの場合、動物や妖怪など)ものです。
-の方向への変身の代表例は、
カフカの代表作『変身』にある、毒虫への変身です。
そのほか、魔法によって小動物にされたり、妖怪にされたり、
あるいはSF的な設定によって、モンスターになったり・・・
たいてい、この場合は、「変身させられる」となります。

私は小さいときからアニメや特撮が好きですが、
どうも、-の方向への変身が出てくる内容は、嫌悪感がありました。

これは余談ですが、8月に、東京・原宿の竹下通りを歩いていたとき、
ちょっと珍しい光景を見かけました。
ゴスロリの服を着ている女の子、というのは、
最近では全然珍しくないですよね。
しかし、私が見たのは、服はゴスロリで、
着ている人は、脂ぎった顔のオジサンでした・・・
東京での強烈な思い出の一つとなりました。

さて、なんとなく、とりとめのない話になってしまいましたね。
ところで、キリストを信じる人なら、誰でも「変身」できるのです!
誰でも、神様の目にとって、美しい存在になれるのです!
主イエス・キリストを身にまといなさい。
(新約聖書 ローマ人への手紙13:14新共同訳)
(※バルバロ訳では、「・・・を着なさい。」となっています。)
地上のどんなファッションで身を着飾るよりも、
主イエス・キリストを身にまとうなら、
地上であなたも心の底から「美しい人」にされます!

また、どんなにすばらしい洗顔料でも、
心の中は洗うことができません。
しかし、この方、イエス・キリストを信じるなら、
あらゆる罪から洗い清められます!
しかし、神が光の中におられるように、
わたしたちが光の中を歩むなら、
互いに交わりを持ち、御子イエスの血によって、
あらゆる罪から清められます。

(新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 1:7新共同訳)

だから、イエス様を信じることこそ、
最高のファッションであり、宝石であり、心のエステなのです。

わたしは主によって喜び楽しみ
わたしの魂はわたしの神にあって喜び踊る。
主は救いの衣をわたしに着せ、
恵みの晴れ着をまとわせてくださる。
花婿のように輝きの冠をかぶらせ
花嫁のように宝石で飾ってくださる。
(旧約聖書 イザヤ書61:10新共同訳)

2009年10月 2日 (金)

答えのないクイズ

先ほど、テレビ東京系の放送で、
「答えがない無いクイズ 爆笑人生問題」という番組を少し見ました。
番組の企画・着眼点は、なかなかだと思いました。
しかし、構成とか、司会者の在り方などは、少し疑問でした。
番組の前半は、割合まじめな問いがありましたが、
諸都合で後半はあまり見ていません。
最後の問いは、
番組の存在意義そのものをぶち壊すようなものだったかな、と思いました。
たぶん、単発、1回限りのスペシャル番組なので、
今後こういう企画はないと思いますが、
もし同じような番組をするなら、もう少し工夫が必要かな、とも思いました。

考えてみれば、
答えのない(「ない」というよりも、答えが無数にある)問いというのは、
たくさんあるものです。
たとえば、「幸せとは?」とか、「愛とは?」とか・・・
番組では、一般の人100人のうち、80人以上が「正解」ボタンを押せば、
「合格」であり、「正解」と認められていましたが、
やはり大事なのは、自分なりの答えを持つことですね。

人生そのものが、神様からの、大きな大きな、問いかけですね。
そしてそれは、多数決で正解が決められるものでもないし、
完全な「定義」を知識として知っているだけでも不十分です。
正しい答えを口にするよりも、
問い続けること、その中に、答えがあるのかもしれませんね。

私は、聖書の中に、神様への信仰の中に、人を愛することの中に、
「人生とは何か?」という答えがあると信じています。

2009年10月 1日 (木)

映画『サマーウォーズ』

毎月1日は、映画の日なので、
映画館では、1本千円で映画を観ることができますね。
久しぶりに、妻と一緒に、映画館に行きました。
8月1日から上映されている、『サマーウォーズ』を選びました。
私の市では、この作品は、10月9日までの公開予定のようです。

細田守監督の前作、『時をかける少女』がとても素晴らしかったので、
今回の作品も、ある程度期待していました。
予想以上に、いや、前作以上に素晴らしい出来だと思いました。

妻に、この作品を観終わってから、すぐに感想を聞いてみました。
「1本で2本分観た感じみたい。」というコメントでした。
確かに、映画の中では、
実際の世界でのドラマと、
ヴァーチャル世界(映画の中では「OZ」)でのドラマがあります。
私は、「セカンドライフ」とか、オンラインゲームとかはやりませんが、
そういうのにハマっている人には、映画の中の「OZ」は、
もうすぐ先の未来、という感じなのでしょうね。

テーマは、一言でいえば、「つながり」です。
インターネットや通信網、ヴァーチャル空間での「つながり」といった、
「デジタル」なつながりに対して、
家族・親戚・友達と、電話機(しかも、黒電話!)といった、
「アナログ」のつながり。

小さな、たわいのない嘘から物語は始まり、
そこから、とてつもなく大きなスケールで物語が展開していきます。
途中で出てくる小さなエピソードの積み重ねが、
後で問題解決の糸口になっていく、巧みな構成が絶妙でした。

一族が結束して敵に立ち向かっていく中、
世界中の、それこそ面識も何もない人々が一瞬、
ひとつの「家族」のようになってつながっていくところ、
(最終場面の少し手前)ここが私にとっては圧巻でした。

この物語を観終えて、私は2つの聖書箇所を思い起こしました。
一つは、新約聖書 ヨハネによる福音書12:24です。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
」(新共同訳)
もう一つは、旧約聖書のエステル記4:14です。
この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、
ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、
あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。
この時のためにこそ、
あなたは王妃の位にまで達したのではないか。
」(新共同訳)

物語の中で、主要人物の一人である、おばあさんの死というのが、
まさに世界の救いにつながっていくところが、
上記のヨハネ12:24の御言葉を連想させました。
そして、主人公と、そこに居合わせた一族が力を合わせ、
それぞれの役目を果たしていくところが、
上記のエステル記の御言葉を連想させました。

映画を観終わって、自分自身の「つながり」を考えてみました。
すぐ、10年程前の私の母方の祖母のお葬式を思い出しました。
そのお葬式には、200名以上の方が参列しましたが、
そのうちの半数、約100名が、家族・親戚縁者でした。
たくさんの子や孫がいたので、みんな集まると、それだけで、
すごい数になったのです。

人と人とのつながり、
特に自分の家族とのつながりを見つめるよい機会になると思います。
また、さわやかな青春映画としても、ぜひおすすめの作品です。

公式サイトは以下です。

http://s-wars.jp/index.html

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