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2009年9月の27件の記事

2009年9月30日 (水)

映画『エデンの東』

久しぶりに、DVDで、『エデンの東』を観ました。
私の好きな映画ベスト5に入る映画です。
何度観ても、感動する名作です。

かなり昔に、何度かテレビ放映されていましたが、
その時に少し観た時には、あまりよくわかりませんでした。
本格的に観たのは、30歳を過ぎてからです。
ひどく孤独を感じていた時に、VHSビデオをレンタルして観ました。
主人公キャルを演じるジェームズ・ディーンのすばらしさは、
絶賛に値しますね。
そして、テーマ曲の美しさ・・・
映画音楽の中でも、特に好きなものの一つです。
私はそのテーマ曲に、ヨハネ3:16の御言葉を歌詞にして、
曲にしました。そのうち機会があれば紹介しようと思います。

愛されない悲しさ・・・
特に、傷心のときに、この映画を観ると、
主人公の苦悩の深さが切実に感じます。
”It's awful not to be loved. It's the worst thing in the world.”
「愛されないことほど、この世でつらいことはありません。」
最後の場面で、語られるこの言葉は、
何度観ても、私の心を突き刺します。
自分の中にある、心の傷に、癒しの香油が注がれるような心地です。

あと、この物語の背景になっている、
旧約聖書創世記4章の「カインとアベル」の話や、
他の聖書箇所について、あるいは信仰について、
観るたびにいろいろと考えさせられます。

今回は、DVDに含まれている日本語吹替版で大半を観てみました。
残念ながら、ミュージカル映画の下手な吹替版のような、奇妙なものでした。
テレビ放映時に、カットされていたシーンが多かったのでしょうね。
日本語の中に、英語が時折混じってしまいます。
新たな、完全なる吹替版を作った方がいいのでは、と思いました。

どうしてわざわざ吹替版で観たのか、というと、
教会での中学生向けのプログラムで使えないかな、と思ったからです。
最近では、映画館でも字幕版よりも吹替版の方が人気ですね。
(私はもちろん、字幕版の方がいいですが。)
それで、この映画の吹替版はどうだろうか、と思って観たわけです。
しかし、吹替版は使い物にならないことがわかりました。

映画を観ながら、関連する聖書箇所を一緒に読んだり、
あるいは、各シーンで時々立ち止まって、
「どうしてこういう行動をとったのだろうか」や、
「自分と家族との関わり」などを考えられたらいいな、と構想中です。
そして、この映画の核心となる、罪と赦し、愛について、
映画を通して、福音を語ることができれば、とも考えています。

なお、吹替版ではなく、普通の字幕版で観るならば、
文句なしにすばらしいDVDといえます。あしからず。

エデンの東 [DVD]DVDエデンの東 [DVD]

販売元:ワーナー・ホーム・ビデオ
発売日:2009/09/09
Amazon.co.jpで詳細を確認する

2009年9月29日 (火)

コロサイ3:19の各訳

先日、エマオ出版訳で、
新約聖書の「コロサイ人への手紙」全章を読んでいたとき、
次のところに目が留まりました。
夫たちよ。妻を愛し続けなさい。
彼女たちに辛辣なことばを使ってはいけません。
(新約聖書 コロサイ人への手紙3:19エマオ出版訳)

ここで、注目すべきは、上記の2行目です。
通常、ここは、「つらく当ってはならない。」(新共同訳)と訳されています。
我が家にある日本語の聖書すべてで調べてみると、
口語訳、新改訳、岩波書店訳、共同訳、フランシスコ会訳、回復訳が、
新共同訳と同様の表現でした。
違う表現については、後で述べます。

ここは、上記の、
つらく当ってはならない。」という表現で読んでいたことが多いので、
さほど心にひっかかるところではなかったです。
しかし、「辛辣なことば」という訳には、
自分も反省する必要があるのでは、と思わされました。

それと、「妻を愛し続けなさい。」という訳。
エマオ出版訳の良い点の一つは、継続の時制をきちんと訳していることです。
この箇所に限らず、
たとえば有名な、
求めなさい。そうすれば、与えられる。」(マタイ7:7新共同訳)は、
求め続けよ。そうすれば必ず与えられる。」(エマオ出版訳)となります。
「愛する」や「求める」は、1回限りのものではなく、継続が必要なものです。
だから、「妻を愛し続けなさい。」は、単なる気分の問題などではなく、
意思的な行為です。
今日だけでなく、明日も、あさっても、生きている限り・・・
神様の厳かなご命令を、改めて再認識させられました。

参考までに、コロサイ3:19の一般的な訳でないものを掲載します。
夫たちよ、妻を愛せよ、苦々しくあしらうな。
(バルバロ訳。文語訳も似たような表現)
夫たちよ、妻を愛しなさい。無情な夫であってはならない。」(柳生直行訳)
一方、夫は妻を愛しなさい。冷たい態度を取ってはいけない。」(現代訳)
夫は妻を愛し、いたわりなさい。
つらく当たったり、邪険な態度をとったりしてはいけません。
(リビングバイブル)

上記で具体的だな、と思うのが、リビングバイブルの訳です。
反対に、あまりピンとこないのが、バルバロ訳と柳生直行訳です。

大事なのは、聖書の訳を知っていることではなく、実践することですね。
特に、エマオ出版訳のと、リビングバイブルのを心にとめていきたいです。

2009年9月28日 (月)

詩篇117(12)【自作曲】

詩篇117シリーズ第12番です。

今回のテキストは、バルバロ訳(講談社)です。
私の作品のうち、バルバロ訳の詩篇117への作曲は、
今のところ、この曲だけです。

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

「20090928psalms117allno12.MID」をダウンロード


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2009年9月27日 (日)

詩篇117(11)【自作曲】

詩篇117シリーズ第11番です。

今回のテキストも新共同訳です。
一部、テキストの追加があります。
(最後の「ハレルヤ」は、テキストでは1回のところ、全4回にしています。)

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年9月26日 (土)

アンジェラ・アキ『♪手紙』

今週は、シルバーウィークでしたね。

私は、といえば、あまり遠出はせず、
主に家で楽譜の入力をやっていました。
ある人から頼まれたので、アンジェラ・アキさん作詞作曲の、
『♪手紙』の合唱版の音取り用CDを作成するためです。

耳で聴くと、主旋律は全然難しくないのですが、
いざ楽譜を見てみると、
細かい音や、シンコペーションがたくさんありました。
特に、ピアノパートは結構手間がかかりました。
しかし、完成すると、とても美しく響いてくれます。

『♪手紙』は、初めてラジオ(TVだったかもしれませんが)で聴いた時から、
すごく心に響く曲でした。
メロディがとても美しいですが、歌詞はそれ以上に秀逸です。
特に前半部分、「15の僕」から、「未来の自分」への手紙の部分は、
自分の青春の「苦くて甘い」日々を少し思い出させます。
そして、今「苦くて甘い」日々をおくる、
十代の子たちへの優しいまなざしが、曲にあふれています。
私の好きな曲の一つです。

詩篇117(10)【自作曲】

詩篇117シリーズ第10番です。

今回のテキストも新共同訳です。

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

「20090926psalms117allno10.MID」をダウンロード

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書評:松尾芭蕉『おくのほそ道』(角川ソフィア文庫)

20090824_matsushima

この写真は、今年の誕生日に、日本三景の一つ、
松島へ初めて行った際に撮ったものの一つです。
松島に行ってから、無性に『おくのほそ道』が読みたくなりました。

月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。
『おくのほそ道』の、あまりにも有名な冒頭の一文ですね。
中学生の時、国語の授業で暗唱させられませんでしたか?
人生は旅・・・
中学生の時は、あまりピンと来なかったこの言葉も、
年月を経て、人生経験を重ねてくると、深く共感できます。

今回書評として取り上げるのは、
角川ソフィア文庫の「ビギナーズ・クラシックス 日本の古典」シリーズ中の、
『おくのほそ道』(全)です。
非常にわかりやすく、読みやすいものです。
最初に、振り仮名付の現代訳が書かれ、
次に原文、そして、解説やコラムがついています。
同じ角川ソフィア文庫から、少し硬い現代語訳が出ていますが、
私にとっては、この「ビギナーズ・クラシック」版で十分楽しめました。

ちなみに、冒頭の名文は、このように訳されています。
時は永遠の旅人である。すなわち、月も日もそして年も、
始まりと終わりを繰り返しながら、歩み続けて止むことはない。

(同書P.11から引用)

日本の有名な古典でありながら、きちんと全文読んだことがある人は、
意外に少ないのかな、と思います。
私も、今回ようやく、すばらしい古典を読破することができました。

実際に、松島に行ったり、『おくのほそ道』に出てくる地名の箇所を、
線路上通っただけでも、やはり親近感が違うと思います。
だから、読むのに一番いい時だったのかな、とも思えます。

おくのほそ道(全) (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)



おくのほそ道(全) (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)





おくのほそ道(全) (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

2009年9月25日 (金)

詩篇117(09)【自作曲】

詩篇117シリーズ第9番です。

今回のテキストは新共同訳です。
ロ短調の作品です。
ロ短調は、色で言えば「黒」のイメージがありますね。

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年9月24日 (木)

リルケの詩『秋』との出会い

前回は、リルケの詩『秋』への自作曲(日本語版&ドイツ語版)を紹介しました。
今回は、この詩との出会いについて書きたいと思います。

私がこの詩と出会ったのは、確か高校生の時です。
当時、私はドイツ語、イタリア語、フランス語などの、
英語以外の外国語を習得したいと思っていました。
(残念ながら、「ものにした」といえるレベルからは今も程遠いです。
しかし、文字、文章を音読したり、歌ったりするには、困らないです。)

特に、その中では、ドイツ語が一番好きでした。
ドイツ語関係の本として何冊か買いましたが、
その中の一冊が、小塩 節氏著の『ドイツ語コーヒーブレイク』でした。
(NHK出版。現在はたぶん絶版。)
この本は、前半が、ドイツ語の簡単な会話集となっていますが、
後半は、ドイツとドイツ文化を理解する上で欠かせない、
聖書、キリスト教に関する話がけっこう書いてあります。
その後半部分の中に、リルケの『秋』が掲載されていました。
ドイツ語関係の本なのに、ドイツ文学だけではなく、
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』まで取り上げられていました。
当時、文学少年だった私にとって、読書の指針となるような本の一冊でした。
いや、それ以上に、私にとって、
キリスト教・聖書への大きな道しるべとなった一冊、ともいえます。
(残念ながら、今この本は、手元にはないですが・・・)

リルケの詩『秋』への作曲が導かれたのは、
2005年の11月でした。
秋が終わりを告げ、もうすぐ冬が到来しようとしていた時です。
たぶん、すごく孤独感を抱えていた時だったのでしょうか?
作曲当時の事は、今ではもう思い出せません。
詩との初めての出会いから、十数年。
このような形で結晶することができたのは、
神様からのすばらしい恵みでした。

けれども ただひとり この落下を
限りなくやさしく その両手に支えている者がある

私たちが失意の中にあっても、
深い孤独を感じていても、
実はそのお方の御手に抱かれていることを、実感できますように・・・

秋(リルケ)【自作曲】※日本語版、ドイツ語版

窓を開けると、はや木々が色づいてきています。
もう秋ですね・・・

ということで、今回は、秋にちなむ自作曲を紹介します。
R・M・リルケの有名な詩の一つ、『秋』への作曲です。
日本語版とドイツ語版(原詩)両方です。
日本語版テキストは、新潮文庫の、富士川英郎訳によります。
まずは、テキスト全文を紹介します。


木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように
大空の遠い園生(そのふ)が枯れたように
木の葉は否定の身ぶりで落ちる

そして夜々には 重たい地球が
あらゆる星の群から 寂寥(せきりょう)のなかへ落ちる

われわれはみんな落ちる この手も落ちる
ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ

けれども ただひとり この落下を
限りなくやさしく その両手に支えている者がある

日本語版の曲の冒頭は、木の葉が舞い落ちる有様を、
音で表しています。
そして、テキスト中の「否定の身ぶりで」をも表しています。
そう、落ちていくのが、「いやだ、いやだ・・・」とつぶやくかのように・・・

テキストは、「けれども・・・」のところから、調子が変わっていますね。
宇宙の深淵に下っていく絶望。そこを救う「御手」。
音楽も、そこで短調から長調に変わります。
聖書の、人間のむなしさと神の永遠性を対比したような箇所を想起させます。
人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。
草は枯れ、花は散る。
しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。

(新約聖書 ペトロの手紙Ⅰ1:24~25新共同訳)

ドイツ語版の方は、前奏、後奏をつけていません。
こちらも、日本語版同様、短調から長調へ変わります。

テキストは、以下のとおりです。


Herbst

Die Blätter fallen, fallen wie von weit,
als welkten in den Himmeln ferne Gärten;
sie fallen mit verneinender Gebärde.

Und in den Nächten fällt die schwere Erde
aus allen Sternen in die Einsamkeit.

Wir alle fallen. Diese Hand da fällt.
Und sieh dir andre an: es ist in allen.

Und doch ist Einer, welcher dieses Fallen
unendlich sanft in seinen Händen hält.


この詩との出会いについては、次の回で書く予定です。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。
なお、"in japanese"と書いてあるのが、日本語版、
"in german"と書いてあるのが、ドイツ語版です。
(追記:ドイツ語版のPDFにおいて、
ウムラウトが正しく表記されていません。残念ながら・・・)


「20090924_herbst_by_rilke_in_japanese.MID」をダウンロード

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2009年9月23日 (水)

詩篇117(08)【自作曲】

詩篇117シリーズ第8番です。

今回のテキストも新改訳です。

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

「20090923psalms117allno08.MID」をダウンロード


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2009年9月22日 (火)

詩篇117(07)【自作曲】

詩篇117シリーズ第7番です。

今回のテキストは新改訳です。
一部、テキストの追加があります。
(最後の「ハレルヤ」は、テキストでは1回のところ、全7回にしています。)

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。


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「20090922psalms117allno07.pdf」をダウンロード

今回で、ちょうど100本目の記事になります。
神様に感謝!

2009年9月21日 (月)

「主の慈しみは決して絶えない」(哀歌3:22)【自作曲】

今回は、哀歌からの作曲を紹介します。
テキストは、哀歌3:22~27新共同訳です。

哀歌3章のこの部分は、悲痛な調子が続く哀歌の中で、
唯一、雲間から差し込む天からの光のような箇所です。
地獄絵の中の、恩寵の光といえる、珠玉の言葉です。

今回、この曲を紹介しようとしたきっかけは、
詳しくは述べませんが、先日、大きな苦しみがあったからです。
夜眠ろうとしても、自分を責める思いが、次々に涌いてきました。
「あの時、ああしなければよかったのに!!!!!!」
祈ろうにも、声があがらない、声が届かない、そんな感じでした。

しかし、苦悩の夜が過ぎ、私は深い眠りについていました。
目覚めたときは、不思議な心の平安がありました。
これは、私の祈りの結果などではなく、
一方的な、神様の深い憐れみによります。
そこで、すぐ頭に浮かんだのは、この、哀歌からの曲でした。

主の慈しみは決して絶えない。
主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。
『あなたの真実はそれほど深い。
主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言い
わたしは主を待ち望む。
主に望みをおき尋ね求める魂に
主は幸いをお与えになる。
主の救いを黙して待てば幸いを得る。
若いときに軛(くびき)を負った人は、幸いを得る。

(聖書新共同訳 哀歌3:22~27)

そういう意味で、神様の深い愛を再び確信できた、幸いの時となりました。
起きたことに対して、自分を責め続けても、前には進めません。
しかし、神様は、私に、前に進む力と、心の平和をお与えになりました。

毎朝読み続けている、ヒルティの『眠られぬ夜のために』第一部の、
九月十九日のところは、すばらしい言葉なので、ぜひ全文分かち合いたいです。

「私はかつて、無報酬で事務的な仕事を果たしてやったイスラエル人に、
半ば冗談、半ば本気で、この仕事のお礼は、彼からではなく、
イスラエルの神から払って頂くつもりだ、と言ったことがある。
すると、その神はすぐさま私の言質をとらえて、それからしばらくの間に、
私の生涯で最もつらい苦痛や心の痛手を、ほとんどひっきりなしに、
私に贈ってよこした。そしてこれを書いている今も、
私はその時の偉大な贈物を正しく評価し、
それをよく利用しようと、心をくだいている。
その賜物がなければ、この本も書かれなかったことであろう。
なぜなら、役に立つ著書と真の幸福とは、
両方とも苦しい土台なしに得られないからである。
不幸は、(逆説的に聞えるかもしれないが)
人生の幸福にぜひとも必要なものである。」
(ヒルティ『眠られぬ夜のために』第一部P.263〈岩波文庫版〉より)
※太線部分は、原文では、傍点をふってある箇所です。

不幸を礼賛するつもりはありません。
しかし、あたかも焼け野原に呆然と立ち尽くすような、
なんでこんなことが起きるのか・・・としか言いようのない現実であっても、
すべての事を、神様は益としてくださいます!
(イエス様の十字架という、世界最悪の事をも、
神様は最善へと変えてくださったではありませんか!)
神様の深い恵みと憐れみを賛美します!

この箇所からの曲は、現在までに、3曲与えられています。
その中で、最も心に刻まれているのは、この曲です。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

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2009年9月17日 (木)

詩篇117(06)【自作曲】

詩篇117シリーズ第6番です。

今回のテキストは新共同訳です。
なんとなく、不思議な感じの曲でしょう?
冒頭部分は、教会旋法の一つ、ドリア旋法を使用しています。
楽典の本に、ドリア旋法の音階が書いてあるのを見つけ、
それをピアノで弾いているうちに、与えられたもの、と記憶しています。

この曲は、グレゴリオ聖歌を意識しています。
ふわふわと漂うな感じは、
神様の永遠性をあらわしているもの、と考えています。

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年9月16日 (水)

詩篇117(05)【自作曲】

詩篇117シリーズ第5番です。

今回のテキストはカトリック訳です。
(「カトリック訳」と表記しましたが、
正式名称は、『ともに祈り ともに歌う 詩編 現代語訳』です。
長いので、以後、「カトリック訳」と表記します。
この訳は、『典礼聖歌』や、
『新しい聖務日課 教会の祈り』にも使用されています。)
一部、テキストの追加があります。
(最後の「ハレルヤ」は、テキストでは1回のところ、全7回にしています。)

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年9月15日 (火)

気分が落ち込んだ時に聴いてみたくなるクラシック音楽(重症編)

今回は、
「気分が落ち込んだ時に聴いてみたくなるクラシック音楽」の
「重症編」です。
「適量」使うと、クスリになりますが、「多用」しますと、
「中毒」になるかもしれませんよ。
音楽の「麻薬」みたいなものでしょうか・・・

 

絶望的な思いのときに、なぜか聴いてみたくなるのが、マーラーの曲です。
一番毒が強いのは、やはり「大地の歌」でしょう。
作曲家自身、「この曲を聴いたら自殺者が出るのでは」などと話していたそうです。
ワルター/VPOの1952年盤がやはりベストですね。
ただ、今私はこの盤を持っていません。
持っているだけで、何か虚無がささやいてくるような気がします。
今まで何回も買っては、しばらくすると、手放してしまいました。
次買うときは、おそらく、よほど精神的に混迷の時ではないか、と思います。

 

ワルター盤

 

次が、交響曲第9番。
現在は、ワルター/VPOの1938年盤で聴いています。
以前は、バーンスタインのグラモフォン盤で聴いていましたが、
今ではこちらの方がいいです。
70年前の録音とは思えないほど、音がはっきりとしています。

 

 

私にとって、マーラーの作品は、長大で、分裂的なので、
あまり好きなものではありません。
しかし、この2曲だけは、別格です。

 

続いて、シェーンベルクの「浄夜」。
カラヤン指揮BPOのがすばらしいです。
前半の重苦しさから、
後半の、すべてを受け入れるような愛の場面、
そのカタルシスがすばらしいです。

 

 

R・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」もすばらしいです。
これも、カラヤン指揮BPOのがいいです。
今私が持っているのは、1969年録音のものです。
(カラヤンは2回この曲を録音しています。
どちらもすばらしい録音です。
この曲については、他の指揮者のもいろいろ聴いてみましたが、
やはりカラヤン指揮のが一番いいです。
R・シュトラウスのような外面的な音楽には、
カラヤンの指揮が一番ぴったりです。)
現在の苦悩、過去の甘美な記憶、
そして、絶望的な現実に立ち戻る・・・
私はR・シュトラウスの交響詩は全然好きではありませんが、
晩年の諸作品(特に、この「メタモルフォーゼン」と「4つの最後の歌」)は、
クラシック音楽の中でも最高のものでは、と考えます。

 

 

「メタモルフォーゼン」を聴いた後に、クラシック音楽の至宝の一つ、
「4つの最後の歌」を聴くと、すばらしいカタルシス効果になります。
演奏は、これもカラヤン指揮BPO、ヤノヴィッツのソプラノがすばらしいです。
(この曲も、いろいろな盤を聴きましたが、満足できるのは、
この盤だけです。
ただし、伴奏がピアノ版なら、バーバラ・ボニーのがいいです。
※ピアノ版は、ほとんど出ていないはずですが・・・)
最近、実に久しぶりに聴いてみましたが、
美しさのあまり、涙がでました。
(美しさに慣れてしまう、というのは、実にもったいないことです。)
だからこそ、滅多に聴かないようにしています。

 

あと、マイケル・ナイマンの「ピアノ協奏曲」
(映画「ピアノ・レッスン」の曲を再構成して、
ピアノ協奏曲にしたもの)
もオススメです。
作曲者が指揮している盤か、NAXOS盤どちらもすばらしいです。

 

 

モーツァルトのピアノ協奏曲第24番。
モーツァルトには珍しく、苦悩する音楽です。
ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番に近いかな、とも思います。
内田光子/ザンデルリングのがすばらしいですが、
手に入れやすいなら、バレンボイム盤(旧盤、新盤)がオススメです。

 

旧盤

 

旧盤・全集

 

新盤

 

 

最後に、最高のカタルシス効果がある曲といえば、
やはり、ベートーヴェンの「第9」でしょう。
(※バッハの『マタイ受難曲』はさらに別格ですが・・・
これは、またの機会に書きたいと思います。)
"Durch Leiden Freude!"(苦悩を超えて歓喜へ!)
この曲はあまりに有名ですので、オススメ盤はいっぱいあるでしょう。
私が一番よく聴くのは、カツァリスによるピアノ版のCDです。
ピアノを聴きながら、頭の中で、
自分なりのオーケストラや合唱の音を奏でています。
普通の、オーケストラ版なら、ジンマン指揮のが今では一番好きです。
思い入れが深いのは、ショルティ指揮シカゴ交響楽団の盤です。
高校生のときの、希望の光となった盤でした。
(もちろん、フルトヴェングラー指揮のものとか、
もっとすばらしいのはいっぱいありますし、
それ以上に、多少レベルは落ちても、実演はすばらしいです。)

 

 

 

私は、上記の曲は、実はあまり聴きません。
それは、「慣れっこ」にならないためです。
それらの曲を聴くときは、「非日常」、
「精神的な『非常事態』」と位置づけています。
本当にすばらしい曲ならば、秘儀的な位置づけの聴き方にしたほうが、
「ありがたいもの」になると思いますよ。

 

苦悩する音楽を聴いた後に、希望の音楽を聴けば、
まさに自分でできる、ミュージック・セラピー(音楽療法)となります。
参考になれば幸いです。

気分が落ち込んだ時に聴いてみたくなるクラシック音楽

私はもともと、クラシック音楽が大好きです。
ふだんよく聴くのは、モーツァルトの明るい曲とか、
いろいろな作曲家のピアノ協奏曲などです。

しかし、なんとなく気分が落ち込んでいるような時に、
よく聴く曲の代表は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番です。

以下、レビューをごらんください。


ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第1番&第2番


買ったきっかけ:
妻が昨年の誕生日プレゼントの一つとして買ってくれました。宇野功芳氏オススメの盤です。

感想:
何度聴いても、飽きがきません。以前は、グリモー/アシュケナージ&フィルハーモニア響盤が私にとっての定盤でしたが、これを聴いてからは、物足りなくなってしまいました。

おすすめポイント:
あまり聴く機会のない、ピアノ協奏曲第1番もカップリングされています。これも、「こんなすばらしい曲なんだ!」と思わせるような、鮮やかな演奏になっています。ツィマーマンの天才がなせる業です。


ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第1番&第2番


アーティスト:ツィマーマン(クリスティアン)




ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第1番&第2番

もともと、この曲は、ラフマニノフが鬱から立ち直る過程で作曲されたものです。
ですから、第1楽章から第3楽章まで通して聴くと、
抑鬱から解放までのプロセスが音楽的に表現されている、ともいえます。

今回は、レビューを入れましたが、
次回は、レビューを入れずに、何枚かのCDを紹介しようと思います。

書評:パスカル・ズィヴィ著『”「信仰」という名の虐待”からの回復』

“「信仰」という名の虐待”からの回復 (21世紀ブックレット)


買ったきっかけ:
教会における聖職者等による行き過ぎた信徒管理の問題に関心を持ったので、購入しました。

感想:
まず、この本に書かれている、「信仰による虐待」が行なわれている教会、というのは、全体からすると、少数であることを認識していただきたいと思います。一部の教会でのことが、キリスト教会全体の体質である、と思ってほしくないです。
しかし、この本に出てくるような教会が実際にあるのは事実です。そして、熱心な教会であればあるほど、虐待やカルト化が起こりやすいのでは、とも考えます。
「楽しい」、「感動」は☆1つだけです。しかし、決して、「つまらない」、「価値がない」のではありませんよ。
実際、読み終えた感想は、「何でこんなひどいことが、教会で行なわれているのだろう・・・」という嫌悪感がすごくありました。しかし、たとえつらくても、事実を直視する勇気が時には必要です。
この前編である、『「信仰」という名の虐待』よりもオススメです。あるべき教会とは、ということを考えるには、必読の書といえましょう。
また、自分自身、マインドコントロールに陥っていないか、点検する必要があります。
そういう意味でも、読んでおくと非常に有益だと思います。
ただ、薄い本の割に、値段が千円近くするのはちょっと高めかな、とも思います。

おすすめポイント:
「虐待」の実態だけでなく、そこから、どう回復できるのか、というのが主眼です。
教会におけるマインドコントロールを解く一つの手段がいくつか紹介されています。
健全な教会とは、というのを考えるよいきっかけになります。


“「信仰」という名の虐待”からの回復 (21世紀ブックレット)


著者:パスカル・ズィヴィー




“「信仰」という名の虐待”からの回復 (21世紀ブックレット)

2009年9月14日 (月)

詩篇117(04)【自作曲】

詩篇117シリーズ第4番です。

今回のテキストは新共同訳です。
一部、テキストの追加があります。
(冒頭に「ハレルヤ」を追加。)

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年9月13日 (日)

詩篇117(03)【編曲】

詩篇117シリーズ第3番です。

今回は、編曲です。
原曲は、有名な「オーラ リー」(Aura Lee)です。
テキストは、新改訳によります。一部、語句の修正があります。
(2節の「私たち」→「われら」)

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年9月12日 (土)

詩篇117(02)【自作曲】

今回も、詩篇117への作曲を紹介します。
第2番は、新改訳への作曲です。
ダンスをするようなイメージがあります。

ちなみに、今日、教会の礼拝で、ダンスをするというのは、
普通、考えられませんが(聖霊派の一部は別ですが)、
聖書の時代では、讃美と同時に、踊りも「ささげもの」でした。
「踊りをささげて御名を賛美し・・・」(旧約聖書 詩編150:3新共同訳)
「主の御前でダビデは力のかぎり踊った。」
(旧約聖書 サムエル記下6:14新共同訳)
今日でも、民族宗教などで、踊りを「神」にささげる、というのがよくありますね。
ただ歌うだけでは、神様への感謝は、表現しきれません。
まさしく、「全身全霊で」、「力の限り」賛美したいものです。

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年9月11日 (金)

詩篇117(01)【自作曲】

今回から、詩篇117シリーズを随時掲載していきます。

詩篇117への作曲は、現在までに、編曲も含めて、36曲与えられています。
訳は、新共同訳、新改訳、バルバロ訳、カトリック訳、英語の訳によります。
訳は多少違うとはいえ、同じ箇所への作曲であっても、いかに多様になるか、
神様の御業のすばらしさをほめたたえるきっかけになれば幸いです。

今回は、新共同訳への作曲で、記念すべき第1番です。
テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年9月 8日 (火)

「真理はあなたたちを自由にする」はずが・・・

「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
(新約聖書 ヨハネによる福音書8:32新共同訳)
イエス様の言葉です。

しかし、イエス様がこう宣言されたにも関わらず、
教会に熱心に通いながら、
かえって、自由でなくなる人が多いのは、なぜでしょうか?
イエス様への信仰と、聖書の御言葉が、その人を自由にするはずなのに・・・

先日、ある人から、かなり久しぶりに電話がありました。
その人とは、所属教会が違っています。
電話は、20分以上にも及びました。
内容は、所属教会での牧師との見解の相違で、傷ついている、というものでした。
その人の趣味(楽器演奏)に関するものでした。
牧師から、一方的に、趣味を否定され、
しまいには、「それはサタンの業だ」みたいなことを言われ、
怒鳴られた、ということです。
その人は、結構信仰熱心な人です。

私としては、その話に耳を傾けつつ、
「なぜそこまで言われなければならないのか」と思いました。
いわゆる「『信仰』という名の虐待」なのでは、カルト化の前兆なのでは、
とさえ思いました。
私はその牧師を知っています。
何度か説教を実際に聞いたこともあります。
すごく熱心な牧師で、尊敬に値する人だ、と思っていました。

教会の牧師や司祭については、
「長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、
受理してはなりません。」(新約聖書 テモテへの手紙Ⅰ5:19新共同訳)
とありますし、また、
「あなたの民の指導者を悪く言うな。」(新約聖書 使徒言行録23:5新共同訳)
とも書いてあります。
どんな事情であれ、原則としては、聖職者を非難するのは避けたいものです。
(もちろん、新聞・雑誌で取り上げられたいくつかの教会の牧師のような、
セクハラを「神の名」によって信徒にするようなのは、論外ですね。)
そもそも、他教会のことなので、私には、正確な事情はわかりません。
しかし、その人が苦しんでいることは事実です。
なんとかしてあげたい・・・
今、私にできるのは、話をきちんと聴くことと、他の選択肢を示すこと、
そして、祈ることだけです。

「真理はあなたがたを自由にする。」
イエス様は、こうも言われました。
「あなたがたは、『先生』と呼ばれてはならない。
あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」
(新約聖書 マタイによる福音書23:8新共同訳)
私は別に、牧師や司祭といった、聖職者という存在を否定したい、
という意図はありません。やはり、教会には、そういう存在がぜひとも必要です。
しかし、聖職者による過度な信徒管理は、全然聖書的ではないと考えます。
残念ながら、「正統な」キリスト教会も、聖職者が信徒の個人生活に、
過度に干渉するなら、カルト化してしまうのです。

聖職者への召命は、確かに尊いものですが、
それだけが、神様に仕える道ではないはずです。

私は聖職者ではないので、あくまで信徒の立場から書きますが、
教会とは、ほどほどの距離をとったほうがいいのでは、と考えます。
また、一つの教会(現在の所属教会)だけを絶対化せず、
教会の「はしご」(複数の教会に通う)をしたほうが、
キリスト教界全体が活性化するのでは、とも考えています。
そうすることにより、聖職者のワンマン化・カルト化の被害を、
最小限にとどめることができると考えます。
(ただし、好き勝手に、自分の趣味にあう教会を探し続ける、
というのは、信仰的ではない態度である、とも考えますが・・・)

「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、
再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、
また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。」
(新約聖書 ヘブライ人への手紙5:12新共同訳)
教会に来るようになり、洗礼を受けてから、
まだ1、2年というならまだしも、
10年、20年もたっているのに、いまだに聖職者べったりの、
「聖職者依存症」になっている信徒が多いのではないでしょうか。

禅とかヨガなどでは、「導師(グル)」の言葉は絶対です。
キリスト教においても、修道院では、上長の言葉には、
従順に従わねばなりません。そういう修道誓願をたてているのですから。
しかし、キリスト教会の聖職者と信徒との関係は、
そうあるべきではないと思います。
なぜなら、先ほども引用したとおり、
「あなたがたは、『先生』と呼ばれてはならない。
あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」
(新約聖書 マタイによる福音書23:8新共同訳)なのですから。

成熟した信仰というのは、聖職者を敬いつつも、
まずは聖職者よりもキリストご自身をしっかりと見据え、
自分なりの信仰理解をもちつつも、謙遜に学び続けることでは、と考えます。

皆様に神様の祝福と平安が豊かにありますように!

2009年9月 4日 (金)

北海道&東日本パス(お得なJRきっぷ)

8月に、JRの「北海道&東日本パス」を使って、
札幌から東京まで行ってきました。
この「北海道&東日本パス」(以下、「パス」と省略)は、期間限定で、
価格は1万円ちょうどです。
今夏の発売期間は、6月20日~9月26日で、
使用できる期間は、7月20日~9月30日です。
連続5日間使用できます。
JRの普通列車乗り放題のお得なきっぷ、といえば、
「青春18きっぷ」が代表ですが(こちらは11500円)、
この「パス」は、津軽海峡を越えるような旅行をするなら、
断然、青春18きっぷ以上にお得だと私は思います。

青春18きっぷと比べてのメリットは、
1.札幌~青森の夜間急行列車「はまなす」の自由席に追加料金なしに乗れる。
(青春18きっぷでは、「はまなす」には乗れません。)
2.八戸~盛岡間の、青い森鉄道・IGR銀河鉄道に追加料金なしで乗れる。
などがあります。
(※もちろん、青春18きっぷは、使い方次第で、「パス」よりもお得になります。
たとえば、JR北海道、JR東日本以外のJRを利用する場合や、
1枚のきっぷを複数人で使用する場合などです。
その場合は、青春18きっぷをおすすめします。)

ちなみに、札幌駅~青森駅の、急行はまなすに乗るだけで、
片道9,550円です(乗車券7,980円+急行券1,570円)。
札幌から青森に行くだけで、ほぼ、元は取れることになります。
さらに、青森駅から東京駅
(実際に行ったのは、東京駅ではありませんでしたが)へは、
12,310円かかります。
つまり、札幌駅~東京駅へ行くだけで、
約12,000円ほどお得になるのです。

ただし、急行はまなすを除いて、
ほかは普通列車(一部、快速列車あり)だけなので、
列車に乗っている時間は朝から晩までになります。
結構大変でしたが、得がたい経験となりました。

2009年9月 3日 (木)

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

先月、東京国立近代美術館での「ゴーギャン展」に行ってきました。
ゴーギャンの作品は、あまり好きではありませんが、
大作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を
見ることができるので、見に行きました。
作品とその解説については、下記のサイトでどうぞ。
http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin_nous.html

タイトルにある、
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」は、
さすがに見ごたえのある作品でした。
非常に寓意的な作品でした。
私は絵画を見るときには、分析的・美術史的に見てしまう傾向があるので、
一つの作品に時間をたっぷりかけて見る、というのがあまりない方なのですが、
実に久々に、この作品の前でたっぷりと時間をかけて、
色々な角度、距離から、この作品を鑑賞できました。

結論から言えば、この作品の行き着く先(「我々はどこへ行くのか」)は、
聖書的なモチーフ(楽園喪失など)が使われているにもかかわらず、
「我々はどこへ行くのか」といえば、希望のない、死と輪廻なのでしょう。
(画面の右端と左端の、誕生と老衰・死の隣に、動物が描かれていることなどから)
東洋的見方としては、大いに共感できるのかもしれませんが、
聖書信仰に立つ者としては、やはり希望がないものだと思いました。
ただ、芸術作品としては、超一級の作品だな、と感心しました。

それにしても、この作品のタイトルは、現代に生きる我々にとっても、
大きな問いになっていますね。
これは、各人一度は考えてみる価値があります。
ゴーギャンは、巨大な絵画という形で、それを表現しました。
私たちは「生き方」という「作品」によって、その問いに答えていくのでしょう。
「我々はどこから来たのか」・・・
輪廻転生によって?「偶然」の産物?それとも、神様のご意思で?
「我々は何者か」・・・
猿の進化したもの?タンパク質の塊?
それとも、神様によって愛され、デザインされた、
「神の作品」(新約聖書 エペソ人への手紙2:10新改訳)?
「我々はどこへ行くのか」・・・
死ねば終わり?永遠に輪廻転生を続ける?
それとも・・・
結論は、ご自身で考えてみてくださいね。

2009年9月 1日 (火)

当ってほしくない「予言」~「防災の日」によせて

毎年9月1日は、「防災の日」ですね。
日本では、特に阪神・淡路大震災以降、
防災意識が非常に高まりましたよね。
私自身としては、震度5、震度6をそれぞれ1回ずつ、
実際に体験したことがあります。
どちらかというと、恐ろしかったのは、震度5の時でした。
かなり激しい揺れで、食器棚が倒れてきたりするのを見ました。
震度6のときは、家にいるのに、
なんとなく、船に乗ってゆられているような感覚でした。
直接の経験ではないですが、阪神・淡路大震災から2ヶ月後の神戸で、
教会のボランティアとして1週間ほど働いた経験があります。
2階建ての家(特に、1階が駐車スペースになっている家)の1階部分が、
軒並み潰れていた光景、高速道路が倒れていた光景などは、
いまだに忘れられません。

さて、今回は、先月の出来事について書きます。
8月11日に、静岡県を中心に、震度6弱の大地震がありましたね。
実は、その前の週の確か水曜日か木曜日に(正確には忘れましたが)、
私は大地震の夢を見ました。
そして、正確に「震度6」という言葉が夢の中で示されました。
8月9日の関東での地震(震度4程度でしたが)のすぐ後に、
家族や身近な人の前で、
「実は地震の夢を見た。震度6のが来るかも知れない。」と夢の内容を語りました。
そして、数日経ってから、実際に、震度6の地震が起こりました。
人的被害はそれほどひどくなかったことが幸いでした。

その後、8月中に、再び地震の夢を見ました。
今度は、たぶん8月のよりも、もっと大きな規模のものが、
関東を襲うのではないか、と危惧しています。
実際、いくつかの週刊誌で、8月下旬~9月に大地震が来るのでは、
という予想が書かれていました。

「予言」というと、だいたい不吉な内容が多いものです。
私の「予言」も、ぜひはずれてほしい、と願うところです。

皆様に神様の祝福と平安が豊かにありますように!

ブログ再開します

1ヶ月の夏休みが終わり、ブログを再開します。
今年の6月、7月までのように、毎日更新、とはいかないかもしれませんが、
できれば毎日、無理なら2、3日に1回は更新目指して、
また書き続けていこうと思います。

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