「成長する種」のたとえ(マルコによる福音書4:26~29)
辞書で、「助長」という言葉を引くと、
①力を添えて、成長・発展を助けること。ある傾向を著しくすること。
②〔苗の生長を助けようとして無理に引き伸ばし、
根を抜いてしまったという故事から〕不要な助力をして、
かえってそこなうこと。(スーパー大辞林)
と書いてあります。
先日、「マルコによる福音書」の4章を読んでいた時、
次の言葉に目がとまりました。
「土はひとりでに実を結ばせるのであり、
まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」
(新約聖書 マルコによる福音書4:28新共同訳)
ふだんなら、素通りしてしまいがちな箇所でした。
ここでいう、「土」とは、前後の文章から推測すると、
私たちの心を指します。
「種」は神様の御言葉。
神様はいろいろな形で、いろいろな方法で、
いろいろな人を通して
(まれに、直接夢や幻によって、という場合もありますが・・・)、
私たちの心に御言葉という種を蒔いてくださいました。
種が土に蒔かれたら、水や日光その他の条件によって、
自ずから、実を結ぶように、根が出て、茎が出て、穂が出て・・・
ついには実を結ばせます。
ところで、教会で、たまにこんな声をききます。
「私の信仰は、全然成長していない・・・
(洗礼を受けてから、かなりの年数が経つのに・・・)」
本当に、そうでしょうか?
イエス様を信じて、教会に来て、洗礼を受けて、
それからいきなり聖人のような生活をするようになるのは、
例外的なものです。ありえない、と言ってもいいでしょう。
じゃあ、10年、20年たったら、聖人生活?
それも、ほとんどの場合、ありえないものでしょう。
「聖化」というのは、一生かけて行われるものであり、
たいていの人においては、その過程は未完に終ってしまいます。
(しかし、後の世において、「傷もしみもない者」へと私たちは変えられます。)
先ほど述べたような人は、冒頭にあげた②の意味で、
たえず、あまりにも完璧すぎる存在(聖人など)と自分を比較して、
「ああ、私はまだだめだ・・・」などと思っているのかもしれません。
あるいは、言い訳としてか、同情を買いたいと思って、
そう言っているのかもしれません。
「神様が実を結ばせてくださる」のを、自分で否定することは、
よくないことですね。
神様は、何らかの形で、必ず実を結ばせてくださっているはずです。
種を蒔いてくださったのは、神様です。
だからこそ、種の成長も、神様が責任を持ってくださいます。
必要なのは、
「(自分でははっきりわからないかもしれないけれども)
確かに、私の信仰は、成長している(はず)だ!」という、
おおらかな信頼感でしょう。
(もちろん、傲慢になってはいけませんが・・・
なお、信仰の成長は、教会に行っている年数とか、
あるいは受洗してからの年数は、あまり関係ありません。
必要なのは、「もっと成長し、豊かな実を結びたい!」という思いです。)
「わたし(=イエス様)につながっていなさい。
わたしもあなたがたにつながっている。」
(新約聖書 ヨハネによる福音書15:4新共同訳)
「イエスはまことのぶどうの木」
(ヨハネによる福音書15:1~17新共同訳の見出し)
では、たいていは、「つながっていなさい。」
(裏を言えば、「離れてはいけない。」)というところに力点をおきます。
しかし、先ほど太字で強調したところは、つい最近まで、
私は看過していました。
イエス様が、まず、私につながっていてくださる!
私の手は、イエス様をつかむには、あまりにも弱く、小さすぎても、
イエス様の広く力強い御手は、しっかりと、私を、そしてあなたを、
離すことはありません!
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