初めの愛
『♪あの素晴しい愛をもう一度』という曲をご存知ですか?
1970年代の有名なフォークソングですね。
私は中学生の時、学校の文化祭で、
クラス発表の合唱として歌ったことを覚えています。
(そのときは、1970年代前半の曲だということは、知りませんでしたが・・・)
歌詞の引用は省略しますが、
かつての熱愛が、今はもう冷めてしまった・・・・
そんな内容を歌った曲ですね。
今朝、ヨハネの黙示録の1章から5章を読んでいる時、
「しかし、あなたには責めるべきことがある。
あなたは初めのころの愛から離れてしまった。」
(新約聖書 ヨハネの黙示録2:4フランシスコ会訳)
というところで、なぜか思わず涙が出そうになりました。
フランシスコ会訳には、この箇所に註がついています。
「この愛(=初めのころの愛)は兄弟に対する愛を指す。
この愛から離れることは、キリストに対する愛から離れることである。」(P.913)
ただ、この註では、あまり納得がいきませんでした。
そこで、註がついている、他の聖書も調べてみました。
バルバロ訳、岩波書店訳はノーコメントでした。
新改訳チェーン式の訳注では、
「初めの愛から離れてしまった。」→
「偶然ではなく、故意に離れたの意。(以下省略)」とありました。
いずれも、納得がいくものではありませんでした。
(いずれの註も、それ自体、間違いではないはずです。
念のため。
むしろ、この御言葉が、
なぜ私の心を刺したか、ということの手掛かりを知りたかっただけです。)
聖書註解に頼ろうとしたことが徒労に終ったそのとき、
最初に引用した、『♪あの素晴しい愛をもう一度』の歌が、
頭の中に響いてきました。
私も、主と共に歩んできた今までの日々を振り返ると、
熱愛の時(=「初めのころの愛」)があり、
しばらくすると、熱愛が冷めてしまい、穏やかな愛に移ったり、
あるいは、冷え冷えとした関係になったこともしばしばでした。
熱愛の時には、聖書を少し読むだけで、次から次と歌があふれてきます。
しかし、聖書を読んでも、ただ文字を追っているだけ、
という時もよくあります。
(そういう時でも、あえて最低限、
1日に1章以上聖書を読む習慣だけは、
守り続けることをおすすめします。
形式にすぎなくても、それは大切な「種火」のようなものですから・・・)
夫婦関係でも、よく、「3年目からは倦怠期」なんて聞きますね。
ある生物学者は、愛の寿命は3年だ、なんて説を唱えています。
(人間が単なる「生物」でしかないのなら、そうかもしれませんが・・・)
クリスチャンの「信仰寿命」は3年、という悲しむべき説さえあります。
(3年ぐらいすると、教会から離れてしまうこと。
それが統計的に事実である、という教会も多いみたいですね。)
一方、何十年も連れ添う、仲睦まじい夫婦がいることも事実です。
同様に、信仰歴何十年、という人でも、
生き生きとした信仰を抱いている人もいます。
(本人の努力以上に、神様の恵みがあってこそ、なのでしょうね。)
「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」
(新約聖書 ヨハネによる福音書21:15新共同訳)
復活されたイエス様が、ペトロに3度問いかける箇所があります。
(イエス様が3度「わたしを愛しているか」と、
くどいほどペトロに問いかけるのは、
ペトロが3度イエス様のことを否んだ、という心の傷を癒すため、
という解釈を聞いたことがあります。)
私は、「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。」
という御言葉を通して、主から譴責されました。
他の人への愛に何か問題があった、というよりはむしろ、
「主への愛がなまぬるくないか」という指摘なのでしょう。
それは、愛の譴責です。
「わたし(=イエス様)は愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。
だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。」
(新約聖書 ヨハネの黙示録3:19新共同訳)
主を愛し、主に愛されているからこそ、
御言葉を通して心が動かされるのです。
かつて、『北斗の拳』というマンガ・アニメで、
「お前はもう死んでいる」という決めゼリフがありましたが、
主から、「あなたが生きているとは名ばかりで、
実は死んでいる。」(新約聖書 ヨハネの黙示録3:2新共同訳)
と言われたくはないですよね・・・
先ほどの、「初めのころの愛・・・」の御言葉には、続きがあります。
(主は、罪の指摘だけでは終りません。
それは、病気の診断だけで終る医者がないのと同様です。
診断と同時に、病気の治療が開始されますよね。
投薬や、入院、手術・・・私たちの心も同じです。)
「それで、あなたはどこから落ちたかを思い出しなさい。
そして悔い改めて、初めのころの行ないにもどりなさい。(以下省略)」
(新約聖書 ヨハネの黙示録2:5フランシスコ会訳)
今の私にとっての、「どこから落ちたか」、そして「初めのころの行ない」とは何か、
まだ結論が出ていません。
しかし、おそらく、もっと真剣に祈ること、もっと聖書を真剣に読むこと、
そして、もっと人を愛することなのかな、ということでは、と予測しています。
もしよろしければ、私のためにもお祈りください。
神様の御心にもっとかなう生き方ができるように・・・
私も、この文章を読んでいただいた皆様のためにお祈りします。
神様の恵みと平安とが豊かにありますように・・・アーメン
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