主の祈り(その10・最終回)「わたしたちを誘惑におちいらせず・・・」
「主の祈り」シリーズ、ひとまず最終回です。
(当初から、10回シリーズの予定でした。)
なお、「主の祈り」は、やはり信仰の基本ですから、
折にふれてまた論じていくと思います。
「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」
新共同訳では、次のように訳されています。
「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」
(新約聖書 マタイによる福音書6:13新共同訳)
フランシスコ会訳においては、「悪」という語の注釈として、次のように書いています。
「『悪』の原語は男性にも中性にもとれる。前者であれば悪魔を指す。
後者であればあらゆる害悪を指す。(以下省略)」(P.23から引用)
(バルバロ訳では、「悪魔」と訳されています。)
「主の祈り」において、どうして、この一行が、
一番最後に置かれているのでしょうか?
いろいろな解釈があると思いますが、
私は、たぶん、「主を畏れよ。」ということなのでは、と考えます。
神様が誘惑をするわけではなく、
また、神様が悪をなすわけではありません。
(参考:「誘惑に遭うとき、だれも、
『神に誘惑されている』と言ってはなりません。
神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、
また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。
むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、
唆されて、誘惑に陥るのです。」
【新約聖書 ヤコブの手紙1:13~14新共同訳】)
(↑では、旧約聖書のヨブ記1章、2章はどう解釈すればいいのか・・・
確かに困る箇所ですね。
旧約では、神様とサタンの区別があまりなかったから、
としかいいようがありません。神様のミステリー(神秘)ですね・・・
しかし、新約では、確かに神様とサタンの区別がつけられています。
「わたし(=イエス様)は、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。」
【新約聖書 ルカによる福音書10:18新共同訳】)
悪魔や悪霊というのは、確かに存在するのでしょうか?
これは、教会においても、意見が分かれるものです。
悪魔や悪霊というのは、古代の世界観に基づいたもので、
特に、福音書に数多く出てくるイエス様による悪霊追い出しの話は、
神話的なものだ、と教えているところもあります。
しかし、私はそうは思いません。
聖書の解釈によらなくても、新聞やテレビ、あるいは歴史をひもとけば、
悪霊の業、としか思えないようなことがたくさんあります。
100万人以上の人が殺されたルワンダの大虐殺は、1994年のことです。
あるいは、「誰でもいいから殺したかった」
といった理由の事件はいかがでしょうか?
日本の自殺者が毎年3万人以上なのは、どうしてでしょうか?
悪魔や悪霊といっても、ホラー映画やオカルト映画のようなものではなく、
もっと巧妙なものではないかと思います。
(実に、ホラー映画やオカルト映画の悪魔や悪霊よりも、
もっと怖いのは、人間の心の中でしょう。
心の中にこそ、天国と地獄が既に存在するのです。)
新約聖書のペトロの手紙Ⅰでは、この事について言及しています。
「身を慎んで目を覚ましなさい。あなたがたの敵である悪魔が、
ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」
(新約聖書 ペトロの手紙Ⅰ5:8~9新共同訳)
これは私の経験ですが、以前、ある教会に所属していたとき、
そこで知り合った他教会の人と親しくなりました。
何回か、一緒に食事をしたり、私の自宅にも招きました。
親しくなった、はずでしたが、
ある時、その人は豹変してしまいました。
私にとっては、大変なショックでした。
何回か会って話した時には、その人がそのようになる可能性があるとは、
まったく思いもよりませんでした。
ダビデを殺そうとしたサウル王のように、悪霊がその人を支配してしまったのです。
そしてそれは、特別「罪深い人」だから、そうなる、のではなく、
意外と「普通の人」がそうなってしまうのです。
だからこそ、「悪魔や悪霊は、古代の世界観で、今は全部医学的に解明できる。」
とか、「そういった存在は、聖人レベルの人には来るかもしれないが、
私達のような『小物』には来ない。」というのは、現実無視の考えです。
また、「クリスチャンは聖霊に満たされている(はず)だから、
悪霊の支配は及ばない。」というのも、間違いだと思います。
現に、洗礼を受けても、自殺した人を何人も知っていますし、
教会の中や、「聖なる」修道院でも、殺人事件は起こりえるのです。
では、悪魔や悪霊を恐れるだけで、何も打つ手がないのでしょうか?
いいえ、違います!
「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。
そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」
(新約聖書 ヤコブの手紙4:7新共同訳)
信仰に固く立つだけで、神様ご自身が盾となって、私たちを守ってくださいます!
私に限らず、多くのクリスチャンたちが、それを経験しています。
「主よ、あなたは従う人を祝福し
御旨のままに、盾となってお守りくださいます。」
(旧約聖書 詩編5:13新共同訳)
私たちには、さまざまな霊的な「武器」があります。
その最も強力なものは、ほかならぬ「イエス様の御名」です!
また、イエス様の十字架の血潮、という力もあります。
さらには、「賛美」という力もあります。
賛美には、大きな力があります。
「主を喜ぶことは、あなたがたの力であるから。」
(旧約聖書 ネヘミヤ記8:10新改訳欄外別訳)
賛美しているうちに、困難から守られたり、
突然、思いもよらない道が開けてくることもあります。
賛美を、主が住まいとしてくださるからです。
(「けれども、あなたは聖であられ、
イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」
【旧約聖書 詩篇22:3新改訳】)
新約聖書 エフェソの信徒への手紙6:13~18には、
具体的な「神の武具」のリストがあります。
ただ、悪・悪人から守られるだけではなく、
積極的に、「攻撃」もできるのです!
(「攻撃は最大の防御」ですよね!)
信仰に立つ私たちはいわば、「キリスト・イエスの立派な兵士」
(新約聖書 テモテの手紙Ⅱ2:3新共同訳)なのです。
霊的な戦いのさなかにいるのです。
油断したり、高慢になったり、罪と妥協したり、
赦せない思いを手放せない、などがあると、
いつの間にか、敵の「捕虜」になってしまいます。
既にイエス様が、十字架と復活によって勝利をとられています!
現在の世界を、国際政治の例でいえば、
フセイン元大統領が支配していたイラクはなくなり、
新しい政権が支配するようになりましたが、
テロ事件のようなものはいつでも起こりえる・・・
神様の支配と、悪魔の攻撃との関係は、
まさにそのような状態なのでしょう。
(でも、この世の勝利者は、イエス様なのです!)
だからこそ、私たちは、日曜日だけでなく、
毎日、神様の絶大なる力により頼む必要があるのです。
既に神様との親しい関係があったとしても、
「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」
と日々祈る必要があるのです。
「恵み深い神様、『主の祈り』について、
たくさんの貴重な洞察をお与えくださいましたことを感謝します!」
「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子と信じる者ではありませんか。」
(新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ5:5新共同訳)
「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方(=イエス様)によって、
これらすべてのこと(=迫害や苦しみなど)の中にあっても、
圧倒的な勝利者となるのです。」
(新約聖書 ローマ人への手紙8:37新改訳)
ハレルヤ!
イエス様の御名を賛美します!
イエス様の十字架のみわざを讃美します。
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