ブログ一時休止のお知らせ
突然ですが、諸事情により、8月中はブログを休止します。
9月から、再び書こうと思っています。
皆様に神様の祝福と平安が豊かにありますように!
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突然ですが、諸事情により、8月中はブログを休止します。
9月から、再び書こうと思っています。
皆様に神様の祝福と平安が豊かにありますように!
「都に上る歌」シリーズ、今回でひとまず終了です。
最終は、詩篇134です。
テキストは、旧約聖書 詩編134全部(新共同訳)です。
短いですのでお読みください。
この曲は、モーツァルトのピアノ協奏曲第27番の第3楽章
(または、同じくモーツァルトの歌曲「春への憧れ」)に、
インスピレーションを受けました。
ところで、聖書に書いてある祈りの姿勢をご存知ですか?
この詩編の2節に書かれています。
「聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。」(旧約聖書 詩編134:2新共同訳)
手をあげて祈る、という箇所は旧約聖書中にほかにもあります。
また、新約聖書においても、
「だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、
清い手を上げてどこでも祈ることです。」
(新約聖書 テモテへの手紙Ⅰ2:8新共同訳)という箇所があります。
実際、初期のクリスチャンたちは、
祈るときに、手を上げていたという証拠があります。
「オランス(祈る人)」という、
ローマ帝国の時代にカタコンベ(地下墓地)に書かれていた絵です。
参考までに、下記ホームページにて御覧ください。
http://inri7.ld.infoseek.co.jp/orans.html
あと、以前ヴァチカン市国に行った際、ミサを拝見しましたが、
「主の祈り」を唱えるときには、手を上げて祈っていました。
これは、古代教会からの伝統の名残なのでしょう。
(ちなみに、ミサにおいて「主の平和」をするときに、日本では、合掌した手のまま、
「主の平和」と一礼してあいさつしますが、ヴァチカンでは、握手していました。
第2ヴァチカン公会議後、各国において、
それぞれの国の伝統を尊重したミサのアレンジがされている、
というのを、当時知らなかったから驚きでした。)
私が初めて、日本の教会で「手を上げて讃美する・祈る」というのを見たときは、
かなり衝撃でした。自分の信仰を根本から覆されるような感じがありました。
しかし、慣れると、これはすばらしいものですよ。
各教会において、それぞれの伝統がありますから、
一般的な教会の礼拝・ミサにおいては、なかなか手を上げて讃美する、
というのはできないかもしれません。
しかし、自分の家なら、自由ですよね。
ぜひ、試してみてはいかがでしょうか?
気のせいか(私はそうは思いませんが)、それとも神様の祝福によってか、
普通に讃美するよりも、神様を近くに感じることができるはずですよ。
私はどちらかというと、日本的に「手をあわせて」祈るのが今でも好きですが、
機会があれば、手を上げて讃美したり、
あるいは毎朝の「ヤベツの祈り」を祈る際には、たいてい、手を上げて祈っています。
天皇陛下が行幸される時とか、国賓級の方をたたえるときは、
「万歳三唱」をしますよね。
あるいは、ロックコンサートなどでは、
聞いている人たちは、自分たちの喜びを表すために、
手を上げたりします。
それなら、世界を統べ治められる「王の王、主の主」であるお方に対しては?
手を合わせて、拝むだけで、自分たちの喜びや愛、感謝を表しきれますか?
まさに、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、
あなたの神、主を愛しなさい。」(旧約聖書 申命記6:5新共同訳)ですよね。
心の中で静かに思うことも大切ですが、体で表現するのはもっとすばらしいです。
小さな子どもが、親に向かって、
「だっこ!」と手をあげる様子はほほえましいですよね。
私たちが手を上げて讃美する時・祈る時、
見えない神様に「抱きついて」いると、想像をふくらませてみましょう。
神様は、きっと、わたしたち「神の子」たちをかわいくて仕方ないのでは、
と想像できます。
詩篇134には、現在、6曲与えられています。
新共同訳2、新改訳1、カトリック訳3です。
皆様に神様の祝福と平安が豊かにありますように!
テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。
「都に上る歌」シリーズ、今回は、詩篇133を紹介します。
テキストは、旧約聖書 詩編133全部です。
短いので、お読みください。
新共同訳では、
「見よ、兄弟が共に座っている。
なんという恵み、なんという喜び。」(旧約聖書 詩編133:1新共同訳)
と訳されていますが、
カトリック訳の方が、すばらしいのでは、と思っています。
「兄弟のように ともに住むのは、
美しく、楽しいこと。」(『ともに祈り ともに歌う 詩編 現代語訳』詩編133:1)
共に「座っている」よりも、共に「住む」方が、愛のわざが必要だからです。
詩篇133には、現在、3曲与えられています。
新共同訳1、カトリック訳2です。
この曲は、ある時ビートルズの有名な曲「ヘイ・ジュード」を聞いたときに、
なぜか与えられました。
テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。
今回は、前回紹介しました、
新約聖書エフェソの信徒への手紙6章にある、
「神の武具」についての曲を紹介します。
テキストは、新約聖書 エフェソの信徒への手紙6:13~18で、
新共同訳をベースにしていますが、適宜、新改訳を取り混ぜていますので、
下記を御覧ください。
なお、新改訳の部分は、太字にしています。
新共同訳本文を一部変えているところは、( )をつけています。
神の武具を身に着けなさい。
神の武具を身に着けなさい。
神の武具を身に着けなさい。
(しっかり立って)
腰には真理の帯を締め、
正義を胸当てとして着け、
足には平和の福音の備えをはきなさい。
なおその上に、信仰を盾として取りなさい。
悪い者の放つ火の矢を、みな消すことができます。
救いを兜としてかぶり、
救いを兜としてかぶり、
霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
御霊によって祈りなさい。
どんな時にも祈りなさい。
願い求め、根気よく祈り続けなさい。
基本的に、同じメロディが何度も繰り返されます。
覚えやすいと思います。
「わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、
神に由来する力であって要塞をも破壊するに足ります。」
(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ10:4新共同訳)
「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」
(旧約聖書 詩編46:2新共同訳)
神様の絶大な力と守りに、心の目が開かれますように・・・
テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。
「主の祈り」シリーズ、ひとまず最終回です。
(当初から、10回シリーズの予定でした。)
なお、「主の祈り」は、やはり信仰の基本ですから、
折にふれてまた論じていくと思います。
「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」
新共同訳では、次のように訳されています。
「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」
(新約聖書 マタイによる福音書6:13新共同訳)
フランシスコ会訳においては、「悪」という語の注釈として、次のように書いています。
「『悪』の原語は男性にも中性にもとれる。前者であれば悪魔を指す。
後者であればあらゆる害悪を指す。(以下省略)」(P.23から引用)
(バルバロ訳では、「悪魔」と訳されています。)
「主の祈り」において、どうして、この一行が、
一番最後に置かれているのでしょうか?
いろいろな解釈があると思いますが、
私は、たぶん、「主を畏れよ。」ということなのでは、と考えます。
神様が誘惑をするわけではなく、
また、神様が悪をなすわけではありません。
(参考:「誘惑に遭うとき、だれも、
『神に誘惑されている』と言ってはなりません。
神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、
また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。
むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、
唆されて、誘惑に陥るのです。」
【新約聖書 ヤコブの手紙1:13~14新共同訳】)
(↑では、旧約聖書のヨブ記1章、2章はどう解釈すればいいのか・・・
確かに困る箇所ですね。
旧約では、神様とサタンの区別があまりなかったから、
としかいいようがありません。神様のミステリー(神秘)ですね・・・
しかし、新約では、確かに神様とサタンの区別がつけられています。
「わたし(=イエス様)は、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。」
【新約聖書 ルカによる福音書10:18新共同訳】)
悪魔や悪霊というのは、確かに存在するのでしょうか?
これは、教会においても、意見が分かれるものです。
悪魔や悪霊というのは、古代の世界観に基づいたもので、
特に、福音書に数多く出てくるイエス様による悪霊追い出しの話は、
神話的なものだ、と教えているところもあります。
しかし、私はそうは思いません。
聖書の解釈によらなくても、新聞やテレビ、あるいは歴史をひもとけば、
悪霊の業、としか思えないようなことがたくさんあります。
100万人以上の人が殺されたルワンダの大虐殺は、1994年のことです。
あるいは、「誰でもいいから殺したかった」
といった理由の事件はいかがでしょうか?
日本の自殺者が毎年3万人以上なのは、どうしてでしょうか?
悪魔や悪霊といっても、ホラー映画やオカルト映画のようなものではなく、
もっと巧妙なものではないかと思います。
(実に、ホラー映画やオカルト映画の悪魔や悪霊よりも、
もっと怖いのは、人間の心の中でしょう。
心の中にこそ、天国と地獄が既に存在するのです。)
新約聖書のペトロの手紙Ⅰでは、この事について言及しています。
「身を慎んで目を覚ましなさい。あなたがたの敵である悪魔が、
ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」
(新約聖書 ペトロの手紙Ⅰ5:8~9新共同訳)
これは私の経験ですが、以前、ある教会に所属していたとき、
そこで知り合った他教会の人と親しくなりました。
何回か、一緒に食事をしたり、私の自宅にも招きました。
親しくなった、はずでしたが、
ある時、その人は豹変してしまいました。
私にとっては、大変なショックでした。
何回か会って話した時には、その人がそのようになる可能性があるとは、
まったく思いもよりませんでした。
ダビデを殺そうとしたサウル王のように、悪霊がその人を支配してしまったのです。
そしてそれは、特別「罪深い人」だから、そうなる、のではなく、
意外と「普通の人」がそうなってしまうのです。
だからこそ、「悪魔や悪霊は、古代の世界観で、今は全部医学的に解明できる。」
とか、「そういった存在は、聖人レベルの人には来るかもしれないが、
私達のような『小物』には来ない。」というのは、現実無視の考えです。
また、「クリスチャンは聖霊に満たされている(はず)だから、
悪霊の支配は及ばない。」というのも、間違いだと思います。
現に、洗礼を受けても、自殺した人を何人も知っていますし、
教会の中や、「聖なる」修道院でも、殺人事件は起こりえるのです。
では、悪魔や悪霊を恐れるだけで、何も打つ手がないのでしょうか?
いいえ、違います!
「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。
そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」
(新約聖書 ヤコブの手紙4:7新共同訳)
信仰に固く立つだけで、神様ご自身が盾となって、私たちを守ってくださいます!
私に限らず、多くのクリスチャンたちが、それを経験しています。
「主よ、あなたは従う人を祝福し
御旨のままに、盾となってお守りくださいます。」
(旧約聖書 詩編5:13新共同訳)
私たちには、さまざまな霊的な「武器」があります。
その最も強力なものは、ほかならぬ「イエス様の御名」です!
また、イエス様の十字架の血潮、という力もあります。
さらには、「賛美」という力もあります。
賛美には、大きな力があります。
「主を喜ぶことは、あなたがたの力であるから。」
(旧約聖書 ネヘミヤ記8:10新改訳欄外別訳)
賛美しているうちに、困難から守られたり、
突然、思いもよらない道が開けてくることもあります。
賛美を、主が住まいとしてくださるからです。
(「けれども、あなたは聖であられ、
イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」
【旧約聖書 詩篇22:3新改訳】)
新約聖書 エフェソの信徒への手紙6:13~18には、
具体的な「神の武具」のリストがあります。
ただ、悪・悪人から守られるだけではなく、
積極的に、「攻撃」もできるのです!
(「攻撃は最大の防御」ですよね!)
信仰に立つ私たちはいわば、「キリスト・イエスの立派な兵士」
(新約聖書 テモテの手紙Ⅱ2:3新共同訳)なのです。
霊的な戦いのさなかにいるのです。
油断したり、高慢になったり、罪と妥協したり、
赦せない思いを手放せない、などがあると、
いつの間にか、敵の「捕虜」になってしまいます。
既にイエス様が、十字架と復活によって勝利をとられています!
現在の世界を、国際政治の例でいえば、
フセイン元大統領が支配していたイラクはなくなり、
新しい政権が支配するようになりましたが、
テロ事件のようなものはいつでも起こりえる・・・
神様の支配と、悪魔の攻撃との関係は、
まさにそのような状態なのでしょう。
(でも、この世の勝利者は、イエス様なのです!)
だからこそ、私たちは、日曜日だけでなく、
毎日、神様の絶大なる力により頼む必要があるのです。
既に神様との親しい関係があったとしても、
「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」
と日々祈る必要があるのです。
「恵み深い神様、『主の祈り』について、
たくさんの貴重な洞察をお与えくださいましたことを感謝します!」
「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子と信じる者ではありませんか。」
(新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ5:5新共同訳)
「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方(=イエス様)によって、
これらすべてのこと(=迫害や苦しみなど)の中にあっても、
圧倒的な勝利者となるのです。」
(新約聖書 ローマ人への手紙8:37新改訳)
ハレルヤ!
イエス様の御名を賛美します!
イエス様の十字架のみわざを讃美します。
「都に上る歌」シリーズ、今回は、
詩篇131への曲を紹介します。
テキストは、旧約聖書 詩編131全部(新共同訳)です。
短いので、お読みください。
詩篇131へは、現在までに3曲与えられています。
内訳は、新共同訳1、カトリック訳2です。
この曲の途中で、ニ長調から、いきなり変ロ長調に転調するところがあります。
この、変ロ長調の部分は、
「母の胸にいる」という言葉から連想して、
心臓の鼓動を思い浮かべながら聞いてくださると幸いです。
詩篇130で深淵をさまよったあとに、
どうしてこの詩篇131があるのか、
はっきりとした意味はわかりませんが、
おそらく、「深淵を見たからこそ、思い上がるな」ということなのでしょうね。
「主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。」
(新約聖書 ルカによる福音書1:51~53新共同訳)
「心の貧しい者は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。」
(新約聖書 マタイによる福音書5:3新共同訳)
テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。
以前、「♪おさかな天国」の替え歌で、
新約聖書全部を覚える、
「みことば天国」を紹介しましたね。
今回は、旧約編を紹介します。
ただし、これはプロテスタント版です。
カトリック版は、機会があれば挑戦したいと思いますが、
旧約版にカトリック独自の書名を別に覚えたほうが早いと思います。
なお、旧約の書名は、基本的に、新共同訳のものです。
(※新共同訳では、
「サムエル記上・下」、「列王記上・下」、「歴代誌上・下」ですが、
「上・下」ではなく、「Ⅰ・Ⅱ」(新改訳)としています。)
あと、言葉と音をあわせるため、
「ハバクク」は、「ハバクーク」と少しのばしました。
誤記ではありません。
それでは、ぜひ楽しんで、覚えてくださいね!
「みことば天国(旧約編)」
世界のはじまり 創世記
出 レビ 民数 申命記
ヨシュア記 士師記に ルツ記です
Ⅰ・Ⅱサムエル Ⅰ・Ⅱ列王記
歴代誌Ⅰ・Ⅱ
エズラ ネヘミヤ
エステル ヨブ記に 詩編 箴言
コヘレト 雅歌 イザヤ
エレミヤ 哀歌
エゼ ダニ ホセ ヨエル
アモスに オバデヤ
ヨナ ミカ ナホ ハバクーク
ゼファニア ハガイ
ゼカリヤ マラキです
全部で39
さあさ みんなで
聖書を読もうよ
主イエスがぼくらを
待っている オゥ!
今朝、起きてすぐに、久々になぜかこの曲を思い出しました。
”You are loved”という言葉は、
愛すべき「不良牧師」アーサー・ホーランド牧師の言葉です。
では、誰から、「愛されている」のでしょうか?
もちろん、それは、イエス・キリストからです!
今回のテキストは、以下のとおりです。
”You are loved”
You are loved,あなたは
You are loved,愛されています
You are loved,永遠の愛で
イエス・キリストに
あなたのためには 命さえ
投げ出してくださった
愛がしたたる 十字架は
あなたのために
You are loved,あなたは
You are loved,愛されています
You are loved,永遠の愛で
イエス・キリストに
You are loved,
You are loved,
愛されています
You are loved,
You are loved,
イエス・キリストに
この詩の参考となる御言葉をあげておきます。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(新約聖書 ヨハネによる福音書3:16新共同訳)
「永遠の愛をもって、
わたし(=神様)はあなたを愛した。」(旧約聖書 エレミヤ書31:3新改訳)
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。」(旧約聖書 イザヤ書43:4新改訳)
メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。
「都に上る歌」シリーズ、今回は、詩篇130を紹介します。
「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
主よ、この声を聞き取ってください。
嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」
(旧約聖書 詩編130:1~2新共同訳)
De profundis clamavi ad te, Domine:・・・・・
ラテン語では、この詩編はこのように始まります。
この「深い淵の底」とは、一体どういうところでしょうか?
ある解釈では、死後人が赴く世界である「陰府(よみ)」である、
とのことですが、
旧約時代のユダヤ人たちは、
基本的に、この世のことしか考えていませんでした。
死後の世界よりも、今生きているこの世界を、
いかに神様の御心にかなって生きるか、
それこそが信仰深いユダヤ人たちの関心事でした。
したがって、ここは、死後の世界から神様に呼びかけている、
ということではありません。
「深い淵の底」、それは、いわゆるどん底の状態、
八方ふさがりの状態、四面楚歌の状態、
心が深い憂いの霧に包まれて、
何も肯定的な考えが浮かばないようなとき、そのような状態でしょう。
あるいは、「罪」が心をふさいでいるのかもしれません。
「罪の数々がわたしを圧倒します。」(旧約聖書 詩編65:4新共同訳)
死や、自暴自棄になることが、光や救いに見えるとき・・・
まさに、人生の深淵ですね・・・
しかし、神様にしか、救えない状態、そういう時こそ、救いの大チャンスです。
「わたし(=神様)を呼べ。わたしはあなたに答え、
あなたの知らない隠れた大いなることを告げ知らせる。」
(旧約聖書 エレミヤ書33:3新共同訳)
私たちには、24時間、神様へのホットラインがあります。
コンビニよりもすごいことです。
また、イザヤ書9:5は、新共同訳では「驚くべき指導者」となっていますが、
英語の訳では、"Wonderful-Counselor"となっているものが多いです。
つまり、神様こそ、「ワンダフル・カウンセラー」なのです!
しかも、診察料はいつでも無料!24時間営業なのです。
こんなすばらしいお方を知っている、
いやむしろ、そのお方に知られているのに
(参照「しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」
【新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ8:3新共同訳】)、
いかに私たちはその方を真剣に求めていないことでしょうか・・・
今回の曲のことに戻ります。
冒頭から、ロ短調の暗鬱な調子で始まります。
最後まで、明るい救いは見出せないかもしれません。
救いは、まだ見出せないかもしれません。
しかし、「主を待ち望み、御言葉を待ち望む」(詩編130:5、6参照)ことが、
心の冬を耐え忍ぶ力となります。
そして、もし心に罪があっても、赦しを求め、
神様の憐れみに寄り頼むなら、必ず神様からの赦しがあるはずです。
「主は憐れみ深く、恵みに富み
忍耐強く、慈しみは大きい。」(旧約聖書 詩編103:8新共同訳)からです。
「わたしたちの一時の軽い艱難は、
比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」
(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ4:17新共同訳)
だから、「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。
農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、
大地の尊い実りを待つのです。」(新約聖書 ヤコブの手紙5:7新共同訳)
主を信頼し、主を待ち望みましょう!
テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。
「父よ、あなたがわたし(=イエス様)の内におられ、
わたしがあなたの内にいるように、
すべての人を一つにしてください。
彼ら(=弟子たち、クリスチャン全体)もわたしたちの内にいるようにしてください。
そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、
信じるようになります。」(新約聖書 ヨハネによる福音書17:21新共同訳)
イエス様は、クリスチャンが一つであるよう、望まれています。
しかし、現実はどうでしょうか?
ある説によると、キリスト教の教派は、3万以上あるそうです。
それぞれが、「自分の教会こそ正しい」と主張するから、
こんなにも「キリストの体」がバラバラになっているのです。
バラバラだからこそ、力がなく、単独では大きなことができません。
ドーム球場を借り切る伝道集会も、伝道放送も・・・
(もちろん、何でも大規模にやればいい、というわけではありませんが・・・
ただ、伝道しない言い訳をしている教会があまりにも多いと思います。)
さて、そういう中で、先日、
クリスチャン新聞のインターネット版「JP NEWS」と、
キリスト教インターネット新聞の「クリスチャン・トゥデイ」で、
今年7月11、12日に、北海道の旭川市で行なわれた、
「旭川ゴスペルナイト in 旭川大雪アリーナ」の記事を読みました。
この手の伝道集会の記事には、あまり心打たれることが少ない私ですが、
この記事には久々に感心させられました。
旭川市内の、10の小さなプロテスタント教会が一致して、
旭川大雪アリーナという、大人数が入れるホールを使って、
伝道集会を開いた、というものです。
のべ3000人の参加者、献金額500万円以上、とのことで、
多くの決心者が出た、と記事には書かれていました。
その10の教会は、いずれも、教会員数100人以下のところばかり。
小さな教会でも、集まれば、大きな力となることの証明でした。
また、「一つである」ということへの、神様からの祝福なのでしょう。
私はこれまで、たくさんの教派の教会にお邪魔しました。
それぞれ、すばらしいところがたくさんあります。
もちろん、違いもたくさんあります。
しかし、キリストを伝える、というのには、違いはないはずです。
(「伝道するのはおかしい」と唱える、一部の変な教会は例外ですが・・・)
「バプテストのキリスト」、「アッセンブリーのキリスト」、
「日本キリスト教団のキリスト」なんて、あるわけないのです。
それぞれ、強調点が違うだけです。
カトリックとプロテスタントとでさえ、違うところよりも、
同じところを見れば、たくさんあります。
使徒パウロはこう述べています。
「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、
愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」
(新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙5:6新共同訳)
ここの「割礼の有無」という言葉を、
「どこの教会で洗礼を受けたか」に直せば、
そのまま現代の各教会にあてはめることができます。
有名な川柳の一句です。
「宗論は どちら負けても 釈迦の恥」
無用な宗派争いを戒めたものです。
これはキリスト教にも適用できますね。
無用な偏見による宗派争いをする時代ではありません。
一人でも多くの人に、まことのキリストを述べ伝えること。
宗派ではなく、キリストを述べ伝えることこそ、教会の使命です。
教派を越えた一致による伝道は、大きな実を結びます。
上記に引用した記事は、以下のサイトでごらんください。
JP NEWS
http://jpnews.org/pc/modules/xfsection/article.php?articleid=1743
クリスチャン・トゥデイ
http://www.christiantoday.co.jp/main/mission-news-1137.html
旧約聖書の箴言は、全部で31章あります。
これは、ちょうど1ヶ月の間で、1日1章ずつ読むのにふさわしいですね。
私は、以前ある本で、「箴言は31章あるので、1日1章ずつ読むといい。」
というすすめを読んでから、その習慣を続けています。
(なお、1ヶ月が30日間の場合、あるいは2月の場合は、
その月の最終日の章でやめるか、
あるいはその月の最終日に、残り分全部を読むといいでしょう。
どちらでもかまいません。)
何回読んでも、箴言を読むことによって、心を鏡に映し出すように、
あるいは、心の点検をするような気持ちになります。
ぜひ、試してみてはいかがでしょうか。
朝忙しくて、聖書を読む暇がない、という方でも、
1章ぐらいなら、読めるはずです。
もし、新聞やテレビに費やす時間が10分以上あるなら・・・
(デボーション的に読むと時間がかかりすぎるので、
むしろ、1日1章必ず読む、というなら、さらっと読んだほうが、
長続きします。大切なのは、良い習慣を身につけることです。)
なお、最近書店で見かけたのですが、
日本聖書協会から、『ユダヤ人の知恵~成功への道』という本が出ています。
旧約聖書の『箴言』と『コヘレトの言葉』の全文と、
ユダヤの豆知識を全ページに掲載したものです。
「ビジネスマン必読・必携の書」なる帯もついています。
興味がある方は、下記をごらんください。
http://www.bible.or.jp/purchase/newbible/jews.html
ユダヤ人の知恵~成功への道
「都に上る歌」シリーズ、今回は、詩篇128を紹介します。
テキストは、旧約聖書 詩編128全部(新共同訳)です。
短いので、どうぞお読みください。
この詩篇は、主を畏れる者への幸福を歌っています。
主を畏れること、労働への祝福、家庭の祝福、イスラエルへの平和の願い、
これらのことが短いテキストの中に詰まっています。
まさに、祝福が凝縮された詩編です。
私がこの詩編の中で好きな言葉は、
「妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木」
(旧約聖書 詩編128:3新共同訳)です。
私の妻は、まさにそういう存在です。
箴言の作者の一人にならって、この言葉を妻に贈ります。
「有能な女は多いが、あなたはなお、そのすべてにまさる。」
(旧約聖書 箴言31:29新共同訳)
テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。
明日は、日本の一部の地域で、皆既日食が見られますね。
先ほど、NHKの「クローズアップ現代」で、明日の日食の特集をしていました。
番組の中で、新潟県のある小学校教師による、
日食についての授業が紹介されていました。
とてもわかりやすく、すばらしい授業だな、と思いました。
よく、エクササイズで使われる、バランスボール(のようなもの?)を、
太陽に見立て、
短い定規の上につけた棒の上に、
地球と太陽に見立てた、小さい点(マッチ棒の先みたいなもの)をつけていました。
太陽、月、地球の大きさの比較が実感できる、
よくできた模型だと思いました。
地球と月との距離を1とすると、
地球と太陽の距離は、ちょうどその400倍になるそうです。
また、太陽の大きさは、ちょうど月の大きさの400倍だそうです。
この絶妙なバランス、単に「偶然」なのでしょうか?
私はここに、製作者である神様の「サイン」を見ます。
「月も、星も、あなたが配置なさったもの。」(旧約聖書 詩編8:4新共同訳)
先ほどの話に戻ります。
その教師は、子どもたちにその特別な定規を持たせ、
大きなボールを、40メートル離れたところに置きました。
そして、定規につけられた地球と月を目の前に置き、
太陽が隠れるかどうか、実験させていました。
結果は、見事、大きなボールが、小さな「月」と「地球」によって隠れました。
子どもたちにとって、すばらしい授業だったな、と思うと同時に、
私の心には、聖書の御言葉が浮かんできました。
「主の手が短くて救えないのではない。
主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。
むしろお前たちの悪が
神とお前たちとの間を隔て
お前たちの罪が神の御顔を隠させ
お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」
(旧約聖書 イザヤ書59:1~2新共同訳)
ここで、太陽を神様、地球を私たち、
月を、私たちと神様をさえぎるものに見立ててみましょう。
神様は途方もなく大きなお方です。
にもかかわらず、神様が見えなくなってしまうことがあります。
あるいは、かつて信仰していたのに、信仰をやめてしまう人もいます。
神様が見えなくなってしまった、わからなくなった、という声も聞きます。
それは、何が原因なのでしょうか。
私たち自身の目の前に、
神様を見えなくしてしまう「罪」や「偶像」はないでしょうか?
あるいは、「この世の思いや富の誘惑、その他いろいろな欲望」
(新約聖書 マルコによる福音書4:19新共同訳)が、
神様を見えなくしていないでしょうか?
そういう意味で、「日食」ならぬ「神の蝕」は、神様が、というよりも、
むしろ原因は私たちの側にあるはずです。
「御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。」
(新約聖書 ヤコブの手紙1:17新共同訳)
しかし、安心してください。
月は地球から見ると、太陽並みに大きな存在ですが、
実際には、太陽と比べると、すごく小さなものです。
同じように、まことの神様と、
悪魔や罪、その他私たちと神様とを隔てる存在を比べれば、
神様は圧倒的に大きなお方です!
神様と私たちを隔てる存在を、必要以上に恐れたりするよりも、
むしろ、神様の「びっくりするような恵み"Amazing Grace"」を仰ぎ見ましょう!
「主は太陽、盾。
神は恵み、栄光。
完全な道を歩く人に主は与え
良いものを拒もうとはなさいません。」(旧約聖書 詩編84:12新共同訳)
「これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、
神の御前で安心できます。心に責められることがあろうとも。
神は、わたしたちの心よりも大きく、
すべてをご存じだからです。」
(新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ3:19~20新共同訳)
とはいえ、別に、「日食」という現象それ自体は、
罪とか上にあげたようなこととは、
何の関係もありません。あしからず・・・
(妻にこの話をしたら、「月がかわいそうだ・・・」と言われてしまいました。
お月さま、ゴメンナサイ・・・
中国では、月は、美しいイメージの代表の一つだそうです。
テレサ・テンの北京語による歌に、「♪月亮代表我的心」という曲があります。
美しい愛の歌で、気に入っています。)
私も明日は、テレビやインターネットで、日食を楽しもうと思っています。
(残念ながら、私の住んでいる地域では、部分日食しか見られません。
それも、天気がよくないようなので、部分日食さえも見られないようです。)
余談ですが、「日食」という表記よりも、旧来の「日蝕」という表記の方が、
私には意味深いもののように思えます。
みなさんに神様の祝福と平安が豊かにありますように!
今回は、イエズス会の創立者、
聖イグナチオ・デ・ロヨラの「自分をささげる祈り」への作曲を紹介します。
テキストは、『きょうをささげる 祈りのしおり2009』(祈祷の使徒 編)という
小冊子の中にあったものを使いました。
(「きょうをささげる」については、下記ホームページをごらんください。)
http://seseragi.jesuits.or.jp/sasage/index.htm
テキストは、以下のとおりです。
主よ、私の自由をあなたにささげます
私の記憶、知恵、意思を皆受け入れてください
私のものはすべて、あなたからのものです
今、すべてをあなたにささげ、み旨にゆだねます
私に、あなたの愛と恵みを与えてください
私はそれだけで満たされます
それ以上何も望みません
このテキストに対して、現在、3曲与えられていますが、
今回は、そのうちの2曲を紹介します。
1曲目は、ホ短調で始まりますが、最後には、ホ長調に転じて終ります。
2曲目は、神への憧れに満ちた調べになっているかな、と思っております。
「こういうわけで、兄弟たち、
神の憐れみによってあなたがたに勧めます。
自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。
これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
(新約聖書 ローマの信徒への手紙12:1新共同訳)
ささげるのは、お金や時間だけではありません。
神様がもっとも喜ばれるささげものは、
私たち自身です。
私も、そうありたいと願っています。
みなさんも、ぜひそうでありますように・・・
(神様、あなたに従って歩むことができますように、
力をお与えください。アーメン。)
メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。
「20090720suscipe_no01.MID」をダウンロード
「20090720suscipe_no02.MID」をダウンロード
「都に上る歌」シリーズ、今回は、詩篇127(01)を紹介します。
テキストは、旧約聖書 詩編127全部(新共同訳)です。
短いのでぜひお読みください。
私は、眠るのが好きなので、
「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。」
(旧約聖書 詩編127:2新共同訳)
という句はうれしいものです。
良い眠りは神様からの祝福です。
詩編127には、「都に上る歌。ソロモンの詩。」
という見出しがついています。
その同じソロモンが書いたといわれる箴言には、
先ほどの箇所とは逆に、
眠りを愛することへの警告が書かれています。
「怠け者よ、いつまで横になっているのか。
いつ、眠りから起き上がるのか。
しばらく眠り、しばらくまどろみ
しばらく手をこまねいて、また横になる。」
(旧約聖書 箴言6:9~10新共同訳)
私にとっては、実に耳の痛い言葉です・・・
活動に焦る心には、一旦休息を、
怠惰な心には、喝を入れる・・・
聖書は、全体的に読むと、実にバランスがとれています。
(だからこそ、特定の聖句「だけ」読むとか、
パッと開いたところを読んで、神託のようにするのは、
いい読み方ではありません。
特に後者は、聖書を使っていますが、
占いに近い、危険なものだと私は考えています。)
この詩編を現代風に解釈したら、
過労への戒め、ということなのでしょう。
「良い贈り物、完全な賜物はみな、
上から、光の源である御父から来るのです。」
(新約聖書 ヤコブの手紙1:17新共同訳)
家庭の祝福、仕事の祝福、良い眠り、かわいい子どもたち・・・
これらはすべて、神様から与えられるものです。
感謝して、受け取っていきたいものですね。
詩篇127には、この曲の他に、カトリック訳への作曲が与えられています。
テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。
(※2010年3月29日追記)
一番下のリンク先で、晴佐久神父様の説教が聞けた、というのは、
2009年7月時点での話です。現在では、聞くことができません。
リンク先のFEBCが、どうやら削除してしまったようです。
FEBCのサイトをあちこち探してみましたが、
残念ながらこの記事で紹介した説教は、
聞けないようです。
多くの皆様にこの記事が検索され、読まれていますことを光栄に思います。
しかし、読んでから、リンク先に行くと、説教は聞けなかった・・・
というがっかりさせてしまうことは、不本意ですので、この追記を書きました。
晴佐久神父様の説教の内容でしたら、以下のサイトで読むことができます。
カトリック高円寺教会・福音の森
http://www.mori2001.com/mori_03/index.htm
あと、FEBCのサイトで、晴佐久神父の説教CDを販売しています。 あなたに話したい
約23分の試聴もできます(CD「あなたに話したい」)。
とても美しい日本語で、大変聞きやすいものです。
CD「あなたに話したい」※試聴あり。
http://www.febcjp.com/cdshop/hm101.html
CD「福音宣言」※試聴なし。
http://www.febcjp.com/cdshop/hm301.html
また、全国のキリスト教書店や、大型書店では、
晴佐久神父の説教集の本が販売されています。
代表的な、「あなたに話したい」を紹介しておきますね。
あなたに話したい
著者:晴佐久 昌英
(以下は、2009年7月の記事です。
上記のとおり、変更はありますが、そのままにしておきます。)
FEBCは、日本唯一のキリスト教ラジオ放送局です。
(日本全国をカバーする放送をしていますが、
電波状態がよくないと、なかなか直接聴くことはできません。
街中でも、車を運転中とかなら、まれに聴くことができます。)
ラジオを聴くよりも、最近では、「インターネット放送」が充実しているので、
そちらで良質な番組を楽しむことができます。
サイトは、下記のとおりです。
http://www.febcjp.com/index.html
さて、、今回紹介したいのは、FEBC全般、というよりは、
FEBCの特別番組、として収録された、
今キリスト教界で話題の、晴佐久神父による説教です。
カトリックの晴佐久神父が、
プロテスタント系の青山学院中等部で、
今年6月6日に特別説教を行なったものを収録したものです。
音声だけで30分と、少し長いですが、聴く価値は大きいです。
詳しくは、ぜひ実際に聴いていただきたいと思います。
この説教は、中学生たちを前に、
聖書の「罪」と、神の愛をとてもわかりやすく説いています。
特に、聖書が言う「罪」とは何であるかを、
若い世代にとって、そして日本人全体にとって、
納得できる形で語っているところがすばらしかったです。
どうも、プロテスタント(特に福音派・カリスマ派)の語る「罪」というのは、
私にとっては納得しがたく、
おそらく、一般的な日本人にとっても、
納得しかねるものではないでしょうか。
「あなたは罪人だ!」と言われて、
どれだけの一般的な日本人が、
「はい、そうです・・・」と素直に認められるでしょうか?
「生きている」「存在する」それ自体が罪・・・
「罪」とは、契約したおぼえがなくても、支払う義務がある、
NHKの受信料みたいなものなのでしょうか・・・
(幸い、わが家はきちんと受信料を払っていますが・・・
今や、NHKに訴訟を起こされる時代になってしまいましたので要注意です!)
その点、晴佐久神父の説教では、非常にわかりやすい例をあげて、
「罪」とは何であるかを説いています。
「罪」とは具体的なあれこれのことよりも、
神様との関係においてのことです。
この説教を聴けば、イエス様の語られた御言葉が、
本当に、「よきしらせ=福音」である、と実感できますよ。
その特別番組のサイトは、以下からどうぞ。
http://haresaku.febcjp.com/
「都に上る歌」シリーズ、今回は、詩篇126を紹介します。
テキストは旧約聖書 詩編126全部(新共同訳)です。
短いので、どうぞお読みください。
「涙と共に種を蒔く人は
喜びの歌と共に刈り入れる。」
(旧約聖書 詩編126:5新共同訳)
苦労は必ずどこかで報われます。
主が私たちの労苦をご存知だからです。
テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。
前回紹介した、「ヤベツの祈り」への作曲です。
テキストは、聖書新改訳 歴代誌Ⅰ4:10です。
祈りの言葉なので、わかりやすいように、
冒頭に「主よ」という言葉を付け加えました。
前回触れた、
ブルース・ウィルキンソン牧師の『ヤベツの祈り』(いのちのことば社)が、
教会で流行していたころに、与えられた作品です。
毎日の祈りに用いています。
短調ですが、力強い曲です。
「ヤベツの祈り」は、現在までに、7曲与えられています。
内訳は、新改訳3曲、新共同訳3曲、文語訳1曲です。
その中でも、一番気に入っているのが、
一番最初に与えられたこの曲です。
メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。
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ヤベツの祈り
ヤベツの祈り
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私の幼少期に、『♪ビューティフル・ネーム』という曲がヒットしていました。
(参考までに、以下のサイトで歌詞を掲載しています。)
http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/beautiful_name.htm
歌詞の引用は省略しますが、今聞いても、名曲だと思います。
昨日の夕方、ニュース番組を見ていたら、
「子どもの名前のつけ方」に関する議論を報道していました。
ここで、ちょっとクイズです。
その番組にでていた、難しい読みの名前です。
1.「天使」→①「みつかい」②「エンジェル」③「ミカエル」
2.「光宙」→①「コスモ」②「ピカチュウ」③「みつお」
答えは、一番下に書いてあります。
私が知っている例では、「大海」と書いて、
「メーア」という子がいました。
どうして「大海」で「メーア」なのかというと、
ドイツ語で、「大海」は、Meer(カタカナで表せば、「メーア」)だ、
とのことでした。
(確かその子が5、6歳の時に知りましたので、
今はたぶん、成人式を迎える頃でしょう・・・)
あと、聖書の人名を無理やり漢字にしているのもありました。
(「ギデオン」とか、「ヨシュア」とか・・・その漢字はもう忘れました。)
かつて、10年くらい前に、
子どもに「悪魔」と命名しようとした親のことが話題になっていました。
さすがにその例は極端な話ですが、アニメに出てくる名前とか、
絶対に読みようのない名前が増えてきているのも事実ですね。
子どもにつけた名前、というのは、一生、その子についてまわります。
あまりにもひどい名前は、子どもへの虐待ではないか、
とさえ、私は思います。
子どもが将来いじめられる確立が高くなるからです。
(もちろん、全部が全部そうであるとは限りませんが・・・)
ペットに名前をつけるのと、子どもに名前をつけるのでは、
意味あいがまったく違います。
私は、命名をある程度制限する、というのには反対ですが、
しかし、同時に良識を持ってほしいと願っています。
一人ひとりのこどもが、『♪ビューティフル・ネーム』となるよう・・・
ところで、よく考えてみると、
聖書の中で、結構ひどい名前をつけられた人が何人もいますね。
少し列挙してみますと、
「ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)」(旧約聖書 ホセア書1:6)
「ロ・アンミ(わが民でない者)」(同上 1:9)
「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(分捕りは早く、略奪は速やかに来る)」
(旧約聖書 イザヤ書8:1~3)
これは、父親が預言者であったため、象徴的な名前ですね。
あと、イスラエルの12部族のもとになった、
ヤコブの息子たちのネーミングが、創世記30章に書かれています。
これは、その母親たちの悲痛な願いの反映ともいえます。
今回特にとりあげたいのは、「悲しみ」という名前をつけられた人についてです。
日本人で、「悲しみ」なんて名前をつけられたら、その子はどうなるでしょうか?
下手をすれば、名前故に、自殺するかもしれませんね・・・
よくこんな名前をつけたものだと思いますが・・・
その人の名は、聖書では、「ヤベツ」といいます。
歴代誌(上・Ⅰ)4:9~10に出てきます。
(※「上」は新共同訳、「Ⅰ」は新改訳です。)
歴代誌(上・Ⅰ)の1~9章は、カタカナ人名の羅列が多く、
読みすごされがちですが、
実は意外な宝が眠っているのです。
特に、先ほどのヤベツの記事がそうです。
2002年頃、ブルース・ウィルキンソン牧師による、
『ヤベツの祈り』(いのちのことば社)という本が、
日本のキリスト教界でも大ヒットとなりました。
(私も読みました。なかなかいい本です。現在でも売っています。
平野耕一牧師の『ヤベツの祈り』(プリズム社)もすばらしい本です。)
その本に紹介されている、「ヤベツの祈り」を毎日祈ることで、
大きく信仰生活が変わったという人、
あるいは、教会が霊的に変えられた、というが多くあるそうです。
「ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。
『私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。
御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて
私が苦しむことのないようにしてくださいますように。』
そこで神は彼の願ったことをかなえられた。」
(旧約聖書 歴代誌Ⅰ4:10新改訳)
生い立ちや名前で、ヤベツは大きなハンデを負っていたと予測できます。
しかし、彼が神様に信頼したとき、
神様はそのマイナスをも乗り越える大きな祝福を彼に与えてくださいました。
「苦難のはざまから主を呼び求めると
主は答えてわたしを解き放たれた。
主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。
人間がわたしに何をなしえよう。
主はわたしの味方、助けとなって
わたしを憎む者らを支配させてくださる。
人間に頼らず、主を避けどころとしよう。」
(旧約聖書 詩編118:5~8新共同訳)
皆さんに神様の祝福が豊かにありますように!
(クイズの答え・・・1.→③ 2.→②)
天国で奏でられる音楽は、どのようなものであるか、
想像したことがありますか?
20世紀最大の神学者、カール・バルトは、
その著書『モーツァルト』(新教出版社)で、
「天国で天使たちが演奏する音楽は、
公式な演奏会では、J・S・バッハ、
しかし自分たちが楽しむためには、モーツァルトの曲」
というような言葉を述べています。
(今、手元に本がないので、正確な引用ではありませんが・・・)
これも、ひとつの意見としては、興味深いですね。
私にとって、「天国」を感じさせてくれた曲は、
確か二十歳頃に図書館の視聴覚室で聴いた、
パレストリーナの「教皇マルチェルスのミサ」でした。
演奏団体の正確なものはもう覚えていませんが、
確か、ボーイソプラノを使っていたと記憶しています。
(一般的には、タリス・スコラーズ盤で聴くのがおすすめです。)
当時ものすごく感動しました。
パレストリーナの作品では、それぞれ別な旋律が、
互いに絡み合って、精緻な美しい響きを醸し出します。
主旋律とそれを補う和音、というような関係ではなく、
お互いがお互いを活かし、高めあう関係といえます。
パレストリーナの他に、天国の響きを感じた体験としては、
聖霊に満たされた人たちのグループの集会で、
100人以上の人が同時に、
「異言」(参照:新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ12~14章)
で讃美しているのを聞いた時です。
一人ひとりは訳の分からない、違うことを歌っているのですが、
(当人にも、何を語っているのか、わからないことがほとんどです。)
しかし、「奇妙に」(としか表現しようがありません。)、
互いの声が響きあい、宇宙的に美しい響きを醸し出していました。
パレストリーナの作品の場合であれば、楽譜がきちんと存在しますが、
「異言」による讃美には当然、楽譜はありません。テキストもありません。
まさに聖霊の賜物でした。
天国での音楽については、別な考え方もできます。
パレストリーナの曲や、
大人数での異言による讃美、のような複雑なものではなく、
もっとすっきりとした形です。
たとえば、ピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲のような、
ソリストとオーケストラの関係、という考え方はいかがでしょうか?
ソリスト兼指揮者は、もちろんイエス・キリストです。
キリストを信じる者たちがそのオーケストラ・・・
(ソリスト兼指揮者、というのは、
よくモーツァルトのピアノ協奏曲などでやっていますね。
(余談ですが、ダニエル・バレンボイムによる指揮とピアノの、
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番の実演は、
今まで聴いた数あるコンサートの中で最高の演奏でした。)
オーケストラ、という団体は、教会や天国を考察する上で、
とても参考になります。
ヴァイオリンだけのオーケストラ、フルートだけのオーケストラ・・・
(「ベルリン・フィル 12人のチェリストたち」なんて団体はありますが・・・)
いかに美しい音色の楽器であっても、
同じ楽器だけで構成されたオーケストラなら、退屈です。
通常、オーケストラで最も音の数が多いのは、ヴァイオリンです。
反対に、出番が少ないのは、ティンパニ以外の打楽器類です。
銅鑼がクライマックスで1回だけ出てくる、なんてこともあります。
しかし、たった1回しか出てこないとしても、
とても重要な役割を果たしているはずです。
他の楽器では、代用ができません。
同じように、ヴァイオリンはフルートになれませんし、
フルートはヴァイオリンになれません。
(そもそも、なる必要がないのです。)
使徒パウロは、コリントの信徒への手紙Ⅰの12章で
(エフェソの信徒への手紙1、4章でも展開していますが)、
教会をキリストの体にたとえ、
教会に属する各人それぞれ、役割が違うことを語っています。
「もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。
もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
そこで神は、御自分の望みのままに、
体に一つ一つの部分を置かれたのです。」
(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ12:17~18新共同訳)
教会の中には、熱心な人とそうでない人がいます。
愛に満ちて、文字通り、「美しいハーモニー」を奏でる人がいれば、
図らずも、不協和音を響かせる人や、「特殊楽器」のような役の人もいます。
しかし、どの人も、教会にとって、必要な人なはずです。
(意識的に、教会に不和と分裂をもたらす人は別ですが・・・)
協和音ばかり、不協和音ばかりなら、音楽としてつまらないか、不快なだけです。
しかし、協和音と不協和音が適度にとり混ぜられているからこそ、
音楽は美しく響きわたるのです。
先ほど、あるオーケストラ曲において、
1回しか出番がない銅鑼の話をしましたね。
教会において、大事にされるべきは、
初めて教会に来た人(来始めた人)と、
ごくまれにしか教会に来ない人だと、私は考えています。
また、高齢の人や病気の人も大切です。
「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、
かえって必要なのです。」
(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ12:22新共同訳)
そういう人々への、普段から教会に来ている人の対応が、
その教会の「ハーモニーの美しさ」を図るバロメーターです。
教会において見るべきは、立派なステンドグラスや、
パイプオルガン、美しい装飾ではありません。
愛をこそ、見るべきなのです。
キリストを信じる私たちは、天国では、
地上以上に讃美することでしょう。
しかし、まず大切なのは、この地上で、
イエス・キリストへの信仰、という妙なる調べを響かせることです。
私も、その楽器の一つとして、
美しいメロディを奏で続けたいと願っています。
『♪あの素晴しい愛をもう一度』という曲をご存知ですか?
1970年代の有名なフォークソングですね。
私は中学生の時、学校の文化祭で、
クラス発表の合唱として歌ったことを覚えています。
(そのときは、1970年代前半の曲だということは、知りませんでしたが・・・)
歌詞の引用は省略しますが、
かつての熱愛が、今はもう冷めてしまった・・・・
そんな内容を歌った曲ですね。
今朝、ヨハネの黙示録の1章から5章を読んでいる時、
「しかし、あなたには責めるべきことがある。
あなたは初めのころの愛から離れてしまった。」
(新約聖書 ヨハネの黙示録2:4フランシスコ会訳)
というところで、なぜか思わず涙が出そうになりました。
フランシスコ会訳には、この箇所に註がついています。
「この愛(=初めのころの愛)は兄弟に対する愛を指す。
この愛から離れることは、キリストに対する愛から離れることである。」(P.913)
ただ、この註では、あまり納得がいきませんでした。
そこで、註がついている、他の聖書も調べてみました。
バルバロ訳、岩波書店訳はノーコメントでした。
新改訳チェーン式の訳注では、
「初めの愛から離れてしまった。」→
「偶然ではなく、故意に離れたの意。(以下省略)」とありました。
いずれも、納得がいくものではありませんでした。
(いずれの註も、それ自体、間違いではないはずです。
念のため。
むしろ、この御言葉が、
なぜ私の心を刺したか、ということの手掛かりを知りたかっただけです。)
聖書註解に頼ろうとしたことが徒労に終ったそのとき、
最初に引用した、『♪あの素晴しい愛をもう一度』の歌が、
頭の中に響いてきました。
私も、主と共に歩んできた今までの日々を振り返ると、
熱愛の時(=「初めのころの愛」)があり、
しばらくすると、熱愛が冷めてしまい、穏やかな愛に移ったり、
あるいは、冷え冷えとした関係になったこともしばしばでした。
熱愛の時には、聖書を少し読むだけで、次から次と歌があふれてきます。
しかし、聖書を読んでも、ただ文字を追っているだけ、
という時もよくあります。
(そういう時でも、あえて最低限、
1日に1章以上聖書を読む習慣だけは、
守り続けることをおすすめします。
形式にすぎなくても、それは大切な「種火」のようなものですから・・・)
夫婦関係でも、よく、「3年目からは倦怠期」なんて聞きますね。
ある生物学者は、愛の寿命は3年だ、なんて説を唱えています。
(人間が単なる「生物」でしかないのなら、そうかもしれませんが・・・)
クリスチャンの「信仰寿命」は3年、という悲しむべき説さえあります。
(3年ぐらいすると、教会から離れてしまうこと。
それが統計的に事実である、という教会も多いみたいですね。)
一方、何十年も連れ添う、仲睦まじい夫婦がいることも事実です。
同様に、信仰歴何十年、という人でも、
生き生きとした信仰を抱いている人もいます。
(本人の努力以上に、神様の恵みがあってこそ、なのでしょうね。)
「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」
(新約聖書 ヨハネによる福音書21:15新共同訳)
復活されたイエス様が、ペトロに3度問いかける箇所があります。
(イエス様が3度「わたしを愛しているか」と、
くどいほどペトロに問いかけるのは、
ペトロが3度イエス様のことを否んだ、という心の傷を癒すため、
という解釈を聞いたことがあります。)
私は、「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。」
という御言葉を通して、主から譴責されました。
他の人への愛に何か問題があった、というよりはむしろ、
「主への愛がなまぬるくないか」という指摘なのでしょう。
それは、愛の譴責です。
「わたし(=イエス様)は愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。
だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。」
(新約聖書 ヨハネの黙示録3:19新共同訳)
主を愛し、主に愛されているからこそ、
御言葉を通して心が動かされるのです。
かつて、『北斗の拳』というマンガ・アニメで、
「お前はもう死んでいる」という決めゼリフがありましたが、
主から、「あなたが生きているとは名ばかりで、
実は死んでいる。」(新約聖書 ヨハネの黙示録3:2新共同訳)
と言われたくはないですよね・・・
先ほどの、「初めのころの愛・・・」の御言葉には、続きがあります。
(主は、罪の指摘だけでは終りません。
それは、病気の診断だけで終る医者がないのと同様です。
診断と同時に、病気の治療が開始されますよね。
投薬や、入院、手術・・・私たちの心も同じです。)
「それで、あなたはどこから落ちたかを思い出しなさい。
そして悔い改めて、初めのころの行ないにもどりなさい。(以下省略)」
(新約聖書 ヨハネの黙示録2:5フランシスコ会訳)
今の私にとっての、「どこから落ちたか」、そして「初めのころの行ない」とは何か、
まだ結論が出ていません。
しかし、おそらく、もっと真剣に祈ること、もっと聖書を真剣に読むこと、
そして、もっと人を愛することなのかな、ということでは、と予測しています。
もしよろしければ、私のためにもお祈りください。
神様の御心にもっとかなう生き方ができるように・・・
私も、この文章を読んでいただいた皆様のためにお祈りします。
神様の恵みと平安とが豊かにありますように・・・アーメン
「都に上る歌」シリーズ、今回は、
詩篇125(01)を紹介します。
ハ長調の力強い作品です。
詩篇125への作曲は、現在までに、3曲与えられています。
新共同訳1、新改訳1、カトリック訳1です。
今回のテキストは、新共同訳です。
これも短いですので、お読みください。
「山々はエルサレムを囲み
主は御自分の民を囲んでいてくださる
今も、そしてとこしえに。」
(旧約聖書 詩編125:2新共同訳)
すばらしい約束ですね。
キリストを信じる私たちもまた、主の民です。
主が守っていてくださいます。
テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。
「都に上る歌」シリーズ、今回は、
詩篇124への作曲を紹介します。
テキストは旧約聖書 詩編124(新共同訳)全部です。
短いですので、ぜひお読みください。
苦難からの救いに対する神様への感謝がうたわれています。
「わたしたちの助けは 天地を造られた主の御名にある。」
(旧約聖書 詩編124:8新共同訳)
テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。
前回に引き続き、詩篇19からの自作曲を紹介します。
今回のテキストは、以下のとおりです。
「主の律法は完全で、
魂を生き返らせ
(生き返らせ)
主の定めは真実で、
無知な人に知恵を与える。
主の命令はまっすぐで、
心に喜びを与え
主の戒めは清らかで、
目に光を与える。
(与える。)
主への畏れは清く、
いつまでも続き
主の裁きはまことで、
ことごとく正しい。
金にまさり、多くの純金にまさって望ましく
蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
(主の律法は完全で、
魂を生き返らせ
(生き返らせ)
主の定めは真実で、
無知な人に知恵を与える。)」
(旧約聖書 詩編19:8~11新共同訳)
「律法」と聞くと、しばしば「重荷」、「負担」、「がんじがらめ」・・・
等の否定的なイメージの言葉を連想しがちですよね。
しまいには、イエス・キリストによって、
律法は廃棄されたので無用だ、とか・・・
(新改訳のローマ10:4では、「キリストが律法を終らせられたので」
と訳されていますが、
新共同訳では、「キリストは律法の目標であり」となっています。
私は後者が正しいと思っています。
なぜなら、イエス様ご自身、
「わたし(=イエス様)が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、
と思ってはならない。
廃止するためではなく、完成するためである。
はっきり言っておく。
すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、
律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」
(新約聖書 マタイによる福音書5:17~18新共同訳)
と述べられているからです。)
完全に、やっかいもの扱いですよね。
しかし、この曲では、主の律法・定め・命令は、楽しいもの、
心に喜びを与えるものとして表現されています。
実は、信仰深いユダヤ人にとっては、律法は喜びなのです。
実際、ユダヤ教の3大祭りの一つ、「スコット祭」の最後の日は、
「スィムハット・トーラー」(律法歓喜祭)という行事を行います。
この祭りについては、下記のサイトを御覧ください。
http://www.h3.dion.ne.jp/~ivrit/sukkot.htm
新約聖書でも、テモテへの手紙Ⅰ1:8では、律法を評価しています。
「しかし、わたしたちは、
律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。」(新共同訳)
(もちろん、救いの原則は、
イエス・キリストへの信仰によるのであって、
律法を行うことで救われるのではありません。)
聖書は、神様からのラブレターであり、同時に、ルールブックです。
ルールのないスポーツは、混乱と暴力を招きます。
ルールがあるからこそ、スポーツは楽しいのです。
同様に、神様からの明確な指針があればこそ、
人は安心して生きてゆけます。
「あなたの御言葉が見いだされたとき
わたしはそれをむさぼり食べました。
あなたの御言葉は、わたしのものとなり
わたしの心は喜び踊りました。
万軍の神、主よ。
わたしはあなたの御名をもって呼ばれている者です。」
(旧約聖書 エレミヤ書15:16新共同訳)
私にとっても、あなたにとっても、
聖書の言葉が喜びとなりますように・・・
テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。
「天は神の栄光を語り告げ、
大空は御手のわざを告げ知らせる。
昼は昼へ、話を伝え、
夜は夜へ、知識を示す。
話もなく、ことばもなく、
その声も聞かれない。
しかし、その呼び声は
全地に響き渡り、
そのことばは、地の果てまで
届いた。
[アーメン]」
(聖書新改訳 詩篇19:1~4)
今回と次回は、詩篇19からの自作曲を紹介します。
この曲のテキストは上記のとおりです。
高い音域が続きますが、
大空のように雄大なスケール感をもって悠々と讃美したいものです。
テキスト・楽譜は、下記からダウンロード願います。
「真に宗教的な人とは、神を見出すために教会に行くのでなく、
あらゆるところに神を見出す人のことであり、
多くの聖所を作るのではなく、
通常の場所を聖なるところとする人のことである。」
(ウィリアム・バークレー著・大島良雄訳『マルコ福音書』(ヨルダン社)P.223より)
先日、マルコによる福音書の註解書である上記の本を読んでいたときに、
この言葉のところで、目が止まりました。
この文は、マルコによる福音書8:11~13へのコメントの一部です。
「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、
天からのしるしを求め、議論をしかけた。」
(新約聖書 マルコによる福音書8:11新共同訳)
「天からのしるし」というのは、ファリサイ派の人々にとっては、
驚天動地の現象をさしていました。
これに対して、イエス様は、「心の中で深く嘆」(同8:12)かれた、
と書かれてあります。
バークレーの註解に戻り、その箇所を引用します。
「さて、イエスの見解ではそのような要求は、
神の支配を見たいという望みからでているのではなく、
むしろ、神の支配に対する無分別からきているのであった。
イエスにとっては、全世界は神のしるしに満ちていた。
畑の小麦、パンの中のパン種、
山の中腹の紅いアネモネなどのすべてが、イエスに神を語っていた。
(中略)誰でも見る目を持つ者にとっては、
神はすでにこの世にいたもうことをイエスは知っておられた。」
(ウィリアム・バークレー著・大島良雄訳『マルコ福音書』(ヨルダン社)P.223より)
そして、冒頭に掲げたあの文につながります。
太字の部分は、イエス様がたとえ話などで使われましたね。
イギリスの詩人、ウィリアム・ブレイクは、彼の有名な詩の中で、
「一粒の砂の中に世界を見
一輪の花に天国を見るには
君の手のひらで無限を握り
一瞬のうちに永遠をつかめ」(「無垢の予兆」壺齋散人訳)
とうたっています。
(この箇所についての記事をもっと読みたい方は、
ぜひ、下記のサイトもごらんください。)
http://kango.betoku.jp/article/0035850.html
異常な現象だけが、神を感じるすべ、ではないのです。
この詩は、日本の茶道の精神などにも通じるものがありますね。
奇蹟は、日常に転がっているのです。
ただ、それを奇蹟と認識していない・認識できないだけです。
神様は、ちっぽけな教会堂の中にだけおられるのでしょうか?
(たとえ、そこに、何千人もの人が集い、
立派なパイプオルガンやステンドグラスがあろうとも・・・
壮麗な神殿を主のために建てたソロモンでさえ、
「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。
天も、天の天もあなた(=神様)をお納めすることはできません。
わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」
(旧約聖書 列王記上8:27新共同訳)と告白しているほどです。)
いや、神様の栄光は、全世界に満ちあふれているのです!
「天は神の栄光を物語り、
大空は御手の業を示す。」(旧約聖書 詩編19:2新共同訳)
「主よ、御業はいかにおびただしいことか。
あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。
地はお造りになったものに満ちている。」(旧約聖書 詩編104:24新共同訳)
「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、
つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、
これを通して神を知ることができます。」
(新約聖書 ローマの信徒への手紙1:20新共同訳)
大自然だけでなく、身近な人間関係(ことに家族において)にも、
神様の愛は現われています。
「教会に行っている時」だけが「聖なる時」、
というのではなく、歩いているときも、食べているときも、
神様をおぼえて行うのであれば、みな、「聖なる時」となります。
「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、
イエスによって、父である神に感謝しなさい。」
(新約聖書 コロサイの信徒への手紙3:17新共同訳)
私も、そうありたいと願っています。
"And I could wish my days to be
Bound each to each by natural piety."
(from"The Rainbow" by William Wordsworth)
(「願わくば、私のこれからの一日一日が、
自然への畏敬の念によって貫かれんことを!」
『イギリス名詩選』(岩波文庫 平井正穂訳)P.156~157より)
「自然への畏敬の念」ではなく、「神への愛・神からの愛」によって!
この絵は、イギリスの画家、ホルマン・ハント(1827~1910)の代表作、
「世の光」"The Light of the World"です。
絵の主題は、新約聖書 ヨハネの黙示録3:1、3:20によっています。
(絵をクリックすると、拡大して見ることができます。
もっとはっきりと御覧になるならば、以下のサイトでどうぞ。)
http://art.pro.tok2.com/H/Hunt/Light.htm
「世の光」(新約聖書 ヨハネによる福音書8:12)であるイエス様が、
ドアをたたいています。
イエス様が立っている道は、雑草だらけ・・・
その他、象徴的な事物がいろいろと描き込まれています。
詳しくは、上記のサイトに説明が書いています。
この絵で最も印象的なところは、イエス様がたたいているドアに、
外ノブがないことです。
つまり、この家は、内側からしか、開けることはできないのです。
私たちの心を表しています。
イエス様は、心の戸をたたきますが、
「紳士」ですから、決して、無理にこじ開けて入ろうとはなさりません。
一生、開くことのない戸が、いかに多いでしょうか・・・
今回、紹介する自作曲は、ヨハネの黙示録3:20、21(新共同訳)によります。
まずは、もともとのテキストを引用します。
「見よ、わたし(=イエス様)は戸口に立って、たたいている。
だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、
わたしは中に入ってその者と共に食事をし、
彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
勝利を得る者を、
わたしは自分の座に共に座らせよう。
わたしが勝利を得て、
わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。」
(※太字部分が、修正したところです。)
今回の曲では、「わたし」というところを、原則「主」と読み替えました。
あと、若干の修正をしました。
イエス様が直接呼びかけてくださる言葉としてではなく、
客観的な呼びかけとするためです。
歌詞テキストは以下のとおりです。
「見よ、[主]は戸口に立って、たたいている。
だれか[主]の声を聞いて 戸を開ける者があれば、
[主]は中に入って その者と共に 食事をし、
彼もまた、[主]と共に食事をするであろう。
勝利を得る者を、[主]は[ご]自分の座に
共に座らせ[てくださる]。
座らせ[てくださる]。
[主]が勝利を得て、[天]の父と共に
その玉座に着いたのと同じように。」
(新約聖書 ヨハネによる福音書3:20、21新共同訳による)
イエス様が心の戸をたたいておられます。
あなたは、内側から、なんと答えるでしょうか?
「今、忙しいです。」?「結構です。間にあっています。」?
それとも、「入っています・・・」???
できれば、「どうぞお入りください。」と素直に返事をしたいですね。
あるいは、サムエル記上の言葉を借りれば、
「どうぞお話しください。僕(しもべ)は聞いております。」
(旧約聖書 サムエル記上3:10新共同訳)と・・・
イエス様はあなたの心の中に入られ、楽しく語りあい、
共に親しく食事をしたいと望まれています。
余談ですが、今年4月からの、NHKの朝の連続ドラマ「つばさ」を見続けています。
このドラマでは、昔のホームドラマみたいに、
家族・隣近所の人が、一つの食卓で食事をする場面がよく出てきます。
それらは、なごやかなシーン、ホッとできるシーンとして描かれています。
一緒に食事をする、という行為は、親しくないとできないですよね。
イエス様が、秘儀(秘蹟)として、
食事(聖餐式・ミサ)を私たちとの親しい交わりとしてくださったのは、
実に意義深いものですね。
テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。
「都に上る歌」シリーズ、今回もまた短調の曲です。
(詩篇120から陰鬱続きでゴメンナサイ。
詩篇125から、再び長調に戻ります。)
今回紹介するのは、詩篇123への作曲です。
テキストは、新共同訳を使用しています。
これもとても短いですので、お読みください。
この詩篇への作曲が与えられたのは、かなり前です。
確か、同じ教会の人から、私が傷つくような発言をされた時だった、
と記憶しています。
(それが何であったかは、覚えていませんし、もうどうでもいいことです。)
この曲を聴いて、「心が軽くなった」と思う人は、ほとんどいないかもしれません。
しかし、この曲を仕上げることが、私にとって、心の傷を癒すことになりました。
詩篇を通して、神様が、癒しの御手を差し伸べてくださったからです。
余談ですが、私は落ち込むようなことがあった時、
しばしば、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を全曲通して聴きます。
苦悩している曲を聴くことによって、不思議と苦悩が減っていたりします。
一種の音楽療法ですね。
同様に、苦しみの詩篇の言葉で、主を「あえて」讃美するとき、
(リルケの『ドゥイノの悲歌』に確か、
「あえて讃美する」という表現があったと記憶しています。)
主がその苦しみを包み、癒し、よきものへと変えてくださいます。
(今までの人生において、最も心傷ついた時に、
慰めとなり、即座の癒しとなったのは、意外にも、
呪いの言葉が連続するような詩篇109を通してでした。
普通に読めば、全然慰めを感じないようなところですが・・・)
だから、つらい時こそ、「あえて」主を讃美すべきなのです。
苦しみを通して、主がわたしの・あなたの心の門をたたいておられます・・・
メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。
「都に上る歌」シリーズ、今回は、
少し戻って、詩篇120を紹介します。
今まで紹介してきた曲は、どちらかというと、
長調の曲が多かったです。
最初は短調であっても、途中から長調になるとか、
すっきりとしたものが多かったはずです。
しかし、今回のは、最初から最後まで、短調で、
苦悩のまま終ります。
イスラエルの苦悩が歌われています。
「平和をこそ、わたしは語るのに
彼らはただ、戦いを語る。」(旧約聖書 詩篇120:7新共同訳)
今年1月早々から始まったガザ攻撃のニュース報道は、
世界中にイスラエル非難の声を大きくしました。
しかし、どうしてあのような大規模な作戦をしなければならなかったのか、
イスラエルに関する報道は極めて偏向的です。
イスラエルが一方的に「悪の権化」のような報道のされ方でした。
私はそのような報道のされ方に、とても腹が立ちました。
仮に、あなたの住んでいる隣の町に、
かつてのオウム真理教や、連合赤軍のような団体があって、
日本からの分離独立・革命を叫び、
連日ロケット弾で、あなたの住む町へ攻撃してきたら、どう思いますか?
「自衛隊を出して、掃討作戦を行え!」という声になるはずですね。
それとも(いや、それでも)、無抵抗反戦平和主義を貫きますか?
「聖人」みたいな人ならともかく、少なくとも私はそう言うでしょう。
多くの人が犠牲になるからです。
北朝鮮から、たった1発のミサイルが上空を飛んでいった、
それだけでも日本では大きなニュースになりましたが、
イスラエルでは、まさに「日常的に」、
死のミサイルが撃ち込まれる地域があるのです。
イスラエルによるガザへの攻撃は、世界的なニュースになりますが、
ガザからのイスラエルへの攻撃は、全然ニュースになりません。
また、ハマスの非道については、ほとんど報道されません。
(幼少期から、子どもたちにイスラエルを攻撃することや、
軍事訓練、自爆テロを称賛することを教えています。
また、イスラエルによる攻撃の犠牲者のうち、
どれだけがハマスによる「人間の盾」なのか、
これについても検証されていません。)
これは非常に不公平です。
もし、この問題をよく知らなかったけれども、
少しでも、真実を知ってみたい、と思われた方は、
ぜひ、まずは下記のサイトをご覧ください。
http://www.bfpj.net/about/about_israel_real.html
イスラエルを支援するクリスチャン団体である、
「ブリッジ・フォー・ピース・ジャパン」のサイトです。
さて、自作曲の紹介に戻ります。
テキストは、新共同訳を使用しています。
これも短いですので、お読みください。
テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。
前回は、詩篇121(01)を紹介しました。
今回から、詩篇120~134までで、章全体への作曲があるものを、
シリーズ化して紹介していきたいと思います。
詩篇120から、詩篇134までは、新共同訳では、
「都に上る歌」という見出しがついています。
私には、詩篇129、詩篇132を除いて、
作曲が与えられています。
(詩篇132は、部分的な作曲が与えられています。
詩篇は全部で150編ありますが、
そのうち、ごく一部にも作曲が与えられていないのは、
今のところ、詩篇129だけです。
それ以外は、どこか一節だけでも、何らかの形で、
作曲が与えられており、詩篇への作曲の総数は、
現在までに500曲以上になります。神様に感謝です!)
今回紹介するのは、詩篇122です。
これは、今のところ完成しているのは1曲だけです。
テキストは新共同訳を使用しています。
(これも短いですので、どうぞお読みください。)
新共同訳では、詩篇122:6は、
「エルサレムの平和を求めよう。」
と訳されています。
おだやかな、勧めの表現ですね。
しかし、新改訳では、
「エルサレムの平和のために祈れ。」
となっています。命令形ですね。
「エルサレムの平和のために祈れ。」
これは、神様からの命令だと、私は受け止めています。
また、創世記12章の有名なアブラハム(当時はアブラム)の召命のところでは、
「あなたを祝福する人をわたし(=神様)は祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」(旧約聖書 創世記12:3新共同訳)
という神様の約束が書かれています。
ここでいう「あなた」は、
直接的にはアブラハム個人ですが、
言うまでもなく、アブラハムの子孫であるユダヤ人全般があてはまります。
これは、単に聖書に書いてあるから、というだけでなく、
歴史によって、証明されています。
ユダヤ人を迫害する国家・団体は衰退するか、滅び、
ユダヤ人を祝福する国家・団体は繁栄しています。
歴史におけるイスラエル民族への祝福は、
聖書を観念論から解放します。
単なる机上の空論ではなく、現実(リアリティ)だからです。
しかし、残念なのは、今日でも、ユダヤ人国家であるイスラエルを、
正当に認めようとしない国家・宗教が多いことです。
イスラム教国ならまだしも、キリスト教会の多くが(特に日本では)、
反イスラエルなのは、非常に悲しむべきことです。
(だいたいそういう教会は、共産党まがいの主張をしています。
そして、肝心のキリストは、そこでは、力のないお方になっていて、
信仰は、単なる気休め的なものになりがちです。
教会が、政治運動の場になっています。)
イスラエルを否定することは、聖書を否定するようなものです。
神様の祝福の一つを失ってしまいます。
だから、私は毎日、イスラエル、ユダヤ人のために祈っています。
イスラエル、ユダヤ人を祝福する人は、神様から祝福されます。
(※だからといって、国家としてのイスラエルがすべて正しい、
ユダヤ人のすることは、すべて間違いがない、
などと言っているのではありません。念のため。)
私にとっては、カール・バルトやカール・ラーナーの神学を知らなくても、
いっこうに平気ですが、
ユダヤ的な考え方・ユダヤ人の歴史・文化を知らないことは、
自分の信仰にとって、大きなマイナスになります。
あなたも、「エルサレムの平和のために祈」る人になりませんか?
もう既にそうであるならば、実に幸いな人ですよ。
テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。
旅行に行く前に、何か特別なお祈りをすることはありますか?
私のおすすめは、この「詩編121」を読み、祈ることです。
「あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。
今も、そしてとこしえに。」
(旧約聖書 詩編121:8新共同訳)という句があるからです。
今回のテキストは、詩編121全体です。
新共同訳を使用しています。
(長くない章ですので、ぜひご自分でお読みください。)
この曲は、ロ短調から始まりますが、すぐにロ長調になります。
「わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。」(詩編121:2新共同訳)
主こそ、私たちの希望です!
詩編121への作曲は、現在までに、3曲与えられています。
この曲はその中で一番古いものですが、愛着あるものです。
メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。
7月7日から、プロフィール欄に、「メール送信」を追加しました。
私は、メールを書くのが(というよりも、文章を書く事全般が)好きですので、
このブログの記事について、あるいは、キリスト教、信仰、聖書について、
その他個人的に話してみたい、という方は、どうぞお使いください。
可能な限り、対応します。
また、本ブログ欄のコメント欄、トラックバック欄もぜひご活用ください。
(できれば、コメント欄、トラックバック欄に書いていただく方が、うれしいです。)
よろしくお願いします。
今日は、七夕ですね。
(東北、北海道は8月7日ですね。)
七夕といえば、愛の物語です。
というわけで、今回は、愛にちなむ曲を紹介します。
(かなり強引な展開でゴメンナサイ・・・)
愛、といえば、様々な愛のかたちがありますが、
私にとっては、やはりイエス様の愛が筆頭です。
イエス様のご命令は、要約すれば、単純です。
「神を愛し、隣人を愛しなさい。」
多くの神学者や聖職者がたくさんの著作を書いたり、
これについて説教をしていますが、
まとめてみれば、こうなります。
(ただ、口で言うのは簡単ですが、
行うのは、それこそ全人生をかけるに値するものでありますね・・・)
前置きはここまでにして、さっそく作品の紹介に移ります。
今回は、私の作曲ではなく、有名な曲の編曲(替え歌)です。
成田為三作曲の『浜辺の歌』の歌詞を、
イエス様の御言葉に置き換えました。
テキストは、新約聖書 ヨハネによる福音書15:12(新共同訳)です。
( )内は私の追加句です。
「わたし〔=イエス様〕があなたがたを愛したように、
互いに (互いに) 愛し合いなさい。
これがわたしの掟である。
(互いに (互いに) 愛し合いなさい。)」
ヨハネによる福音書15:12による作品は、この編曲も含めて、
現在までに4曲与えられています。
「互いに愛し合いなさい。」というイエス様のご命令を、
今、できるか(実践できるか)できないか、と問うよりも、
まず、耳を傾けること、そして、真理に同意すること。
そこから、神様が、私たちの心において、
御言葉が実を結ぶよう(実現するよう)、
必ず、力を与えてくださるでしょう。
互いに愛し合うことは、神様のみむねですから・・・
「実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
(新約聖書 ローマの信徒への手紙10:17新共同訳)
私の編曲が、少しでもお役に立つならば幸いです。
テキスト・楽譜(伴奏付)と、メロディは、下記からダウンロード願います。
辞書で、「助長」という言葉を引くと、
①力を添えて、成長・発展を助けること。ある傾向を著しくすること。
②〔苗の生長を助けようとして無理に引き伸ばし、
根を抜いてしまったという故事から〕不要な助力をして、
かえってそこなうこと。(スーパー大辞林)
と書いてあります。
先日、「マルコによる福音書」の4章を読んでいた時、
次の言葉に目がとまりました。
「土はひとりでに実を結ばせるのであり、
まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」
(新約聖書 マルコによる福音書4:28新共同訳)
ふだんなら、素通りしてしまいがちな箇所でした。
ここでいう、「土」とは、前後の文章から推測すると、
私たちの心を指します。
「種」は神様の御言葉。
神様はいろいろな形で、いろいろな方法で、
いろいろな人を通して
(まれに、直接夢や幻によって、という場合もありますが・・・)、
私たちの心に御言葉という種を蒔いてくださいました。
種が土に蒔かれたら、水や日光その他の条件によって、
自ずから、実を結ぶように、根が出て、茎が出て、穂が出て・・・
ついには実を結ばせます。
ところで、教会で、たまにこんな声をききます。
「私の信仰は、全然成長していない・・・
(洗礼を受けてから、かなりの年数が経つのに・・・)」
本当に、そうでしょうか?
イエス様を信じて、教会に来て、洗礼を受けて、
それからいきなり聖人のような生活をするようになるのは、
例外的なものです。ありえない、と言ってもいいでしょう。
じゃあ、10年、20年たったら、聖人生活?
それも、ほとんどの場合、ありえないものでしょう。
「聖化」というのは、一生かけて行われるものであり、
たいていの人においては、その過程は未完に終ってしまいます。
(しかし、後の世において、「傷もしみもない者」へと私たちは変えられます。)
先ほど述べたような人は、冒頭にあげた②の意味で、
たえず、あまりにも完璧すぎる存在(聖人など)と自分を比較して、
「ああ、私はまだだめだ・・・」などと思っているのかもしれません。
あるいは、言い訳としてか、同情を買いたいと思って、
そう言っているのかもしれません。
「神様が実を結ばせてくださる」のを、自分で否定することは、
よくないことですね。
神様は、何らかの形で、必ず実を結ばせてくださっているはずです。
種を蒔いてくださったのは、神様です。
だからこそ、種の成長も、神様が責任を持ってくださいます。
必要なのは、
「(自分でははっきりわからないかもしれないけれども)
確かに、私の信仰は、成長している(はず)だ!」という、
おおらかな信頼感でしょう。
(もちろん、傲慢になってはいけませんが・・・
なお、信仰の成長は、教会に行っている年数とか、
あるいは受洗してからの年数は、あまり関係ありません。
必要なのは、「もっと成長し、豊かな実を結びたい!」という思いです。)
「わたし(=イエス様)につながっていなさい。
わたしもあなたがたにつながっている。」
(新約聖書 ヨハネによる福音書15:4新共同訳)
「イエスはまことのぶどうの木」
(ヨハネによる福音書15:1~17新共同訳の見出し)
では、たいていは、「つながっていなさい。」
(裏を言えば、「離れてはいけない。」)というところに力点をおきます。
しかし、先ほど太字で強調したところは、つい最近まで、
私は看過していました。
イエス様が、まず、私につながっていてくださる!
私の手は、イエス様をつかむには、あまりにも弱く、小さすぎても、
イエス様の広く力強い御手は、しっかりと、私を、そしてあなたを、
離すことはありません!
このブログを始めて、はや1ヶ月が経ちました。
そして、今回の記事で、ちょうど、50本目になります。
書き続けることを支えてくださった神様に感謝します!
今回は、『神の愛』という自作曲を紹介します。
テキストは、
①新約聖書 ヨハネによる福音書3:16(新共同訳)
②新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ5:17(新共同訳)
③新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ4:16(新共同訳)
この①~③をつなげたものです。
以下がテキストです。
なお、( )内は、私が追加したものです。
①「神は、その独り子をお与えになったほどに、
世を 愛された。
独り子を信じる者が一人も
滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、御子によって
世が救われるためである。
(世が救われるためである。)」
〈※繰り返し〉
②「キリストと結ばれる人はだれでも、
新しく創造された者なのです。
古いものは過ぎ去り、
新しいものが生じた。」
③「神は愛です。」
(ハレルヤ)
〈※2回目の最後に〉(アーメン)
どうして、この3箇所が結びついたのかは、
いまでは思い出せません。
しかし、「神様に愛されている、という事実」、
「キリストによって(罪ゆるされ)新しくされている、という事実」、
「神は愛である、という事実」
この3つが、有機的に、美しく結び合わさったものだと思っています。
作曲が始まってから、初期の頃に与えられた曲で、
今でも気にいってます。
テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。
奇蹟、という言葉を聞いて、みなさんは、
どのようなイメージを連想しますか?
映画『十戒』に出てくる、モーセが杖を差し伸べて、
紅海を2つに分けるような、すごいものですか?
あるいは、新約聖書の各福音書に出てくる、
イエス様がなされた目覚しい数々の奇蹟でしょうか?
病人の癒し、死者を生き返らせる、波の上を歩く、
水を上質のワインに変える・・・
確かに、これらの奇蹟は、すばらしいです。
そして、病人の癒しなどの奇蹟であれば、
今日であっても、世界中のあちこちで起きています。
(さすがに、紅海を真っ二つに、というレベルの奇蹟は、
現代においては起きていませんが・・・
余談ですが、先日NHKテレビを見ていたら、
東欧の共産圏崩壊を象徴する、
「ベルリンの壁崩壊」についての番組をやってしました。
その裏には、どうやら、信仰の力がかなり働いていたようです。)
私自身も、かつて所属していた教会で、
祈りを通してのガンの癒しについて、聞いたことがありますし、
(2件知っています。)
重い精神病の癒しについても知っています。
また、アフリカからの伝道者が来て、
伝道集会において、目の前で、
その伝道者に祈られた人が、バタバタと倒れていく、
というのも実際に見たことがあります。
映像だけなら、そういうのは何度も目にしました。
あと、高校生のときに、「新世界紀行」というTV番組で、
死後100年以上も経っても変わらない、
聖ベルナデッタのご遺体の映像を見たのは、非常に衝撃的でした。
「確かに奇蹟はあるんだ!」という確信になりました。
(参考までに、聖ベルナデッタのご遺体の写真は、
下記のホームページで見ることができます。)
http://www10.ocn.ne.jp/~nevers-j/espace/frespace.htm
しかし、ちょっと考えてみてください。
そういう、目覚しい、人を驚かせるようなものだけが、
「奇蹟」なのでしょうか?
「奇蹟」は、特別に信仰深い人にだけ与えられる、
いわば、宝くじの1等賞あたるようなものなのでしょうか?
私はそうは思いません。
(これから書くことは、一般的な、まずまず健康的な人を念頭においています。
もし、この文章を読んでいる方で、何かお気にさわるような表現があれば、
どうぞお許しください。)
私にとっては、奇蹟は日常にあります。
今、この文章をタイピングしている指、
指が片腕に5本ずつあること、
これは考えてみれば、奇蹟だと思います。
5本の指それぞれが果たす、絶妙なバランス!
この文章を読んでいる瞳も、実に奇蹟といえるほどの、
非常に複雑聖妙な存在です。
(単なる「進化=偶然、デタラメによって成立すること」では、
「瞳」のようなものは決してできません!
知性をもって「造られた」お方がいるからなのです。)
今生きていること、これぞ、実は奇蹟の連続なのです。
ノーベル生理学・医学賞を受賞した、
アレキシス・カレル博士が、
『人間 この未知なるもの』という題の名著を書いていますが、
(現在でも、三笠書房の「知的生きかた文庫」で入手可能です。)
まさに、人間の体(いや、どんな単純な動植物、微生物であっても・・・)は、
まだまだ未知がいっぱいの、奇蹟の産物です。
人間やその他の生命体だけではありません。
この宇宙そのものが、ものすごい絶妙なバランスに支えられた、
奇蹟そのものの存在なのです!
「御子(=キリスト)はすべてのものよりも先におられ、
すべてのものは御子によって支えられています。」
(新約聖書 コロサイの信徒への手紙1:17新共同訳)
ただ、日常のことは、あまりにも「あたりまえ」すぎて、
感謝感激を忘れてしまいがちですね。
たとえば、ボールを手に握っていて、
ボールを手放すと、あるときは落ちるし、あるときは落ちない、
もしそういう法則性がない世界だったら、どうなりますか・・・
ボールから手を放すと、ボールは必ず落ちる、
という万有引力の法則があるのも、実はありがたいことなのです。
神様は、使徒パウロを通して私たちに、
「どんなことにも感謝しなさい。」
(新約聖書 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ5:18新共同訳)
と望んでおられます。
いつまでも、子どものようなみずみずしい心で、
日常にあるさまざまな「奇蹟」に驚き、感謝していきたいものですね。
レイチェル・カーソンの言う、
「センス・オブ・ワンダー」(不思議を感じる感覚)を忘れずに・・・
〈参照:レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』(新潮社)〉
「あなたは、わたしの内臓を造り
母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
わたしはあなた(=神様)に感謝をささげる。
わたしは恐ろしい力によって
驚くべきものに造り上げられている。
御業(みわざ)がどんなに驚くべきものか
わたしの魂はよく知っている。(中略)
あなたの御計らいは
わたしにとっていかに貴いことか。
神よ、いかにそれは数多いことか。
数えようとしても、砂の粒よりも多く
その果てを極めたと思っても
わたしはなお、あなたの中にいる。」
(旧約聖書 詩編139:13、14、17、18新共同訳)
最後に、旧約聖書の詩編139から引用しました。
旧約聖書の時代の詩人も、
「自分」という存在の不思議さを、深く驚き、
そして神様に、深く感謝していました。
神様が「私」を造り、「私」を知っておられる、というのが、
作者にとっての日常の奇蹟を感じたときでした。
ぜひ、全文を読んでみてくださいね。
神様の祝福と平安が豊かにありますように!
今、机の上に、一枚の少し色あせてきたポストカードがあります。
女子パウロ会発行の、「足あと」という有名な詩の抜粋版と、
バラの絵が描いてあります。
6、7年ぐらい前に、誰かからもらったものです。
その経緯については、もう忘れてしまいました。
(参考までに、女子パウロ会のサイトで見ることができます。)
http://shop-pauline.jp/?pid=2211470
このポストカードをいただいてから、少したった後、
今回紹介する「あしあと」の曲が与えられました。
ちょうど、そのポストカードが、デスクマットにはさまれてあったのを、
ふと見たときでした。
作曲している時に、涙があふれてきました。
今回のテキストは、以下のとおりです。
※( )内は私による追加句です。
なお、・・・・・・・・・・・・・のところは、
原文を省略しているところです。
『足あと』詞:M・パワーズ(訳者不明)
(わたし)
「ある夜、わたしは 夢を見た
(ある夜、わたしは 夢を見た)
神さまと 二人 並んで
わたしは 砂浜を 歩いていた
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
砂の上に 二組の
足あとが見えていた
一つは 神さまの そして一つは
わたしのだった
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし最後にわたしが
振り返って見たとき
ところどころで足あとが
一組だけしか
見えなかった
(見えなかった)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(神さま)
「わたしの愛する子どもよ
わたしは けっして
お前のそばを離れたことはない(ない)
お前がもっとも(苦しんで)
苦しんでいたとき
砂の上に一組の
足あとしかなかったのは
わたしがお前を抱いていたからなんだよ」
この詞の全文原詩(英文と日本語訳)については、
以下のサイトでご覧ください。
すてきな「足あと」の写真もついていますよ。
また、この詩の経緯についても簡単に書かれています。
http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/poetry/p_footprints.htm
(なお、作者M・パワーズがこの詩と、
自らの生涯について語った『あしあと』という本が出ています。
出版は、TV番組「ライフ・ライン」等を放送している、「太平洋放送協会」です。
キリスト教書店で手に入ると思います。
参考までに、太平洋放送協会のサイトを紹介します。)
http://www.pba-net.com/shop/shop.html
ちょっとアニメネタになってしまいますが、
曲の冒頭は、なんとなく、
『機動戦士ガンダム』のエンディング曲、
『♪永遠にアムロ』の一部に少し似ているかな、
あと、曲の最後の方にある、「♪砂の上に一組の・・・・」のところは、
『銀河鉄道999』のエンディング曲、
『青い地球』の一部に少し似ているかな・・・
と思います(もちろん、意識的にそうしたわけではありません、念のため・・・)。
「あなたたち(=直接的にはイスラエルの民、間接的には私たちすべて)は
生まれた時から負われ
胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたし(=神様)はあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。」
(旧約聖書 イザヤ書46:3~4新共同訳)
とうてい、自分の力ではもう歩けそうもない時、そういう時こそ、
恵み深い主に信頼しましょう!
私も、何度もそういう時を経験しました。
自分の力では、乗り切ることは不可能でしたが、
まさに、神様の恵みで、いつの間にか、
「涙の谷」を通りすぎていくことができました。
その時は、きっと、この詩のとおり、
神様が私を背負っていてくれたのでしょう・・・
テキストについては、たくさんの方がコメントしていますし、
テキストそのものがとても感動的なので、
あえて省略します。
あわれみに満ちた主を賛美します!
メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。
この絵は、レンブラントの有名な作品の一つ、「放蕩息子の帰還」です。
絵をクリックすると、拡大して見ることができます。
(なお、ヘンリ・ナウエンの名著として、この絵にインスピレーションを得て書かれた、
『放蕩息子の帰郷―父の家に立ち帰る物語』(出版社:あめんどう)がありますので、
興味がある方はぜひ一読をおすすめします。)
新約聖書 ルカによる福音書15章の、
有名な「放蕩息子のたとえ」に基づいています。
今回紹介する私の作品も、同じく、「放蕩息子のたとえ」を題材にしたものです。
聖書中の言葉だけで構成されています。
できれば、息子役と父親役の2人で歌うといいでしょう。
テキストは以下のとおりです。
(息子→父に向かって)
「お父さん、わたしは
天に対しても、
またお父さんに対しても罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません・・・」
(父→その僕たちに向かって)
「急いで いちばん 良い服を持って来て、
この子に (この子に) 着せ、
手に指輪をはめてやり、
足に履物を履かせなさい。
それから、肥えた子牛を連れて来て
屠りなさい。
食べて祝おう。
この息子は、死んでいたのに生き返り、
いなくなっていたのに 見つかったからだ。」
(新約聖書 ルカによる福音書15:21~24新共同訳)
この箇所は、新共同訳では、「『放蕩息子』のたとえ」と見出しがついています。
しかし、この曲では、あえて、放蕩息子が帰ってきた、ということよりも、
父親にとって、「息子が生きていた、見つかったぞ!」という喜びに焦点をあてて、
「見つかった息子」というタイトルにしました。
(ところで、どうして息子が父親のもとを離れたのか、については、
様々な解釈がありますが、
その中の一つとして、リルケの『マルテの手記』の最後の部分は有名ですね。)
冒頭、息子が、力なく、やつれきったような感じで、父親に呼びかけます。
本文の19節を見ると、息子の言葉にはさらに、「雇い人の一人にしてください。」、
という続きがありました。
家に来るまでに、もしかしたら、一生懸命練習したのかもしれません。
しかし、父親は、息子が見つかったという喜びで、
もうその先は言わせませんでした。
父親は息子をひしと抱きしめ、歓喜の涙を流しているはずです。
父親の喜びは、テンポが少し早くなるところと、音域の広さで表現されています。
父親が息子を発見した時の様子は、新共同訳ではこう書いてあります。
ルカによる福音書15章20節を引用します。
「そして、彼(=息子)はそこ(=異教・異郷の地)をたち、父親のもとに行った。
ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、
走り寄って首を抱き、接吻した。」
太字で強調した「憐れに思い」という訳は、
たいていの訳では、同様な表現になっていますが、
原語に一番忠実に訳されている(ただし、いろいろ問題点はありますが・・・)
岩波書店訳では、「腸(はらわた)のちぎれる想いに駆られ」となっています。
北森嘉蔵の名著『神の痛みの神学』を彷彿とさせる表現ですね。
腹が痛むほどに、激しく、息子、いや私たちを愛しておられる。
これこそ、天の神様が、私たちに示された愛です!
イエス様の十字架の言語を絶するような苦しみは、私たちへの愛のきわみです!
私は、この曲が自作曲ながら、36小節最後から始まる、
「♪この息子は・・・」のところを歌うたびに、新たな感動を覚えます。
神様にとっては、過去、私たちが何をしてきたか、何をしてこなかったか、よりも、
今、神様のもとに立ち戻っている、その事実がうれしいのです!
「わたし(神様)の目には、
あなた(直接的にはイスラエル、間接的には私たちすべて)は高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4新改訳)
と神様は言われます。
神様の目には、私たちはものすごい高価な宝石よりも、価値があるのです!
「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、
悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも
大きな喜びが天にある。」(新約聖書 ルカによる福音書15:7新共同訳)
神様の無限の愛を賛美します!
テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。
「20090703luke1521.MID」をダウンロード
久しぶりに、「主の祈り」シリーズの続きです。
今回は、
「わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。」の箇所です。
実は、上記の訳は、正確なものとはいえません。
「罪」と訳されているところが、特にそうです。
参考までに、いくつかの日本語訳を紹介しましょう。
新約聖書 マタイによる福音書6:12です。
「わたしたちの負い目を赦してください。
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」(新共同訳)
(※共同訳、新改訳、現代訳、バルバロ訳、フランシスコ会訳も大体同様)
「わたしたちに負債のあるものをゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。」(口語訳)
(※岩波書店訳、回復訳、新和訳も大体同様)
「私たちが、私たちに罪の負債を負っている人たちを赦したように、
私たちの罪の負債をお赦しください。」(エマオ出版訳)
「われらに悪を働く者をわれらが赦すように、
われらの悪をも赦してください。」(柳生直行訳)
以上のとおり、各訳において、「罪」と訳しているものはありません。
たいてい、「負い目」、「負債」という意味ですね。
(柳生直行訳の「悪」ならば、「罪」に近いニュアンスですが・・・)
ここでいう、「罪」とは、
いわゆる「原罪」のような、根本的なものではなく、
「思い、言葉、行い、怠り」における「過失」、「あやまち」です。
(日本語では、英語の"sin"(宗教的な意味での「罪」)と、
"crime"(法律上の罪、犯罪)のような区別がなく、
教会においてさえ、なんとなく、両者が混同されているようにも思えます。
だからこそ、「わたしたちの罪をおゆるしください。」
という訳では、少々誤解されやすいのでは、と私は考えています。)
根本的な意味での「罪」とは何か、という事については、
また別の機会にシリーズ化して書きたいと思っています。
神様に、「負い目」、あるいは「罪」、「過ち」を赦していただく条件とは、
自分が人の過ち、人の悪を赦すことです。
イエス様は、マタイによる福音書18:21~35の、
「仲間を赦さない家来のたとえ」で、
(人を)赦すことが、(神様に)赦される条件であることを述べています。
もっと簡潔に言えば、
「七の七十倍までも赦しなさい。」(マタイによる福音書18:22新共同訳)
ということですね。
(7×70=490だから、490回まで赦せ、ということではありません。
7は聖書では完全数です。ここでの数値は、「際限なく」を表します。)
ところで、みなさんの中には、
「あいつ(あの人)だけは絶対に赦せない!」という人がいますか?
ある人にとっては、「主の祈り」の、この箇所は、
心から祈ることができない、と思われているかもしれません。
「神様に赦されなくてもいいから、赦したくない、赦せない!」
とまで思っている方もいるかもしれませんね。
人を赦さないことは、いったい誰にとって、「得」なのでしょうか?
以前紹介した、D・カーネギーの名著『道は開ける』には、
「主の祈り」のこの箇所について書かれているところがあります。
少し長いですが、引用します。
「(中略)私たちが敵に憎しみを感じると、
むしろ自分自身が敵に支配されることになる。
支配力は私たちの睡眠・食欲・血圧・健康・幸福にまで及んでくる。
敵は私たちを悩ませ、苦しめ、仕返しさえしていることを知ったら、
小躍りして喜ぶであろう!
私たちの憎悪は少しも敵を傷つけないばかりか、
かえって私たち自身が、日夜、地獄の苦しみを味わうことになる。
(中略)キリストが、『自分の敵を愛しなさい』と言ったのは、
単に道徳律を説いただけでなく、二十世紀の医学をも説いていたのだ。
『七たびを七十倍するまで赦しなさい』といったキリストは、
高血圧症・心臓病・胃潰瘍・その他の病気について語っていたのだ。
(中略)キリストは『自分の敵を愛しなさい』と言った時、
いかにすれば私たちの表情が良くなるかについても説いていたのだ。
私や皆さんが知っている人々の中にも、
憎悪と怨恨のために顔のシワが増え、皮膚がこわばり、
せっかくの容貌が台無しになった例があるはずだ。
(中略)私たちが敵を憎むことによって精力を使い果たし、
神経質になり、容貌が衰え、心臓病に冒され、
寿命まで縮めていると知ったならば、
彼ら(敵、赦せない相手)は手を打って大喜びするのではなかろうか?
たとえ敵を愛することができなくても、少なくとも自分自身を愛そうではないか。
せめて私たちの幸福や健康や容貌を敵の支配にゆだねなくて済む程度に、
自分自身を愛そうではないか。
(中略)仕返しをしてはならない。
敵を傷つけるよりも自分を傷つける結果となるからだ。(中略)
きらいな人について考えたりして、
一分間たりとも時間を無駄にしないことだ。」
(『道は開ける』第13章 「仕返しは高くつく」より抜粋引用)
結局、赦すことは、自分の益となるのです。
だからこそ、もし赦せない相手がいるなら、
たとえ口先だけでもいいですから、
「○○さんを赦します!」と宣言しましょう。
(心にひっかかるたびに・・・宣言し続けるのです!)
そうすれば、いつしか口先だけ、形式だけであったのに、
実感が伴うようになるものです。
「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。」
(新約聖書 マタイによる福音書5:8新共同訳)
とあるように、神様にお会いするのであれば、
清い心が必要です。
「罪」、「負い目」があるままでは、神様への祈りは、
力がありません。
また、人とけんかした状態であっても同様です。
イエス様は、宗教的儀式よりも、
「兄弟と和解する方がまず先」という意味のことを言われました。
(参考:マタイによる福音書5:23~26)
私も、このことについては、実感したことが何度もあります。
最初のテキストに戻りましょう。
「わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。」
ここでは、「人をゆるします!」と神様の御前で、
はっきりと宣言しています。
これは、すばらしいことだと思います。
神様があわれみ深いお方であるように、
私たちも、赦す者でありたいものです。
そして、イエス様の十字架によって、
すべての罪が赦された者であることを、
いつまでも忘れず、驕り高ぶらないように・・・
今回、おまけとして、新共同訳の「主の祈り」への作曲を紹介します。
「主の祈り」に、初めて与えられた作曲です。
頌栄のところは、NCC統一訳を使用しています。
メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。
最近では、すっかり、「婚活」なる言葉が流行ですね。
ところで、キリスト教会の中では、いかがでしょうか?
年齢をまったく考慮しないとすれば、
教会における男女比は、
だいたい3:7ぐらいのところが多いと思います。
その中で、結婚適齢期にある若い男女となると、
しばしば、教会の中では、いい出会いがない、
ということがよくあります。
(20代、30代の若い人が全然いない教会も多いです。
あるいは、教会の中で、20代、30代は一人だけとか、
「自分以外皆既婚者」とか・・・)
「私の『みこころの人』はいつ現れるのかしら・・・」
なんて考えている人も多々あるのでは、と思います。
最近、私は面白いブログを見つけましたので紹介します。
中絶防止の活動を行っている、
「小さないのちを守る会」の代表である、
水谷潔牧師のブログ「命と性の日記~日々是命、日々是性」です。
http://blog.chiisana.org/
私はこのブログの全部の記事を読んだわけではありませんが、
(結構膨大です。)
つい最近の記事は、興味深く読みました。
題して、「脱!『みこころの人』伝説」シリーズです。
(2009.6.25~29)
「私には、神様が用意された、『みこころの人』(あるいは、「運命の人」)がいる!」、
という考えは、果たして信仰的に、正しいのか否か?
詳しくは、ぜひ、ご自分で読んで確かめてください。
クリスチャンで、年頃の独身女性は特に必見です。
また、既に結婚している方も、改めて、考えるきっかけになると思います。
ほとんどの教会において、性を語るのは、タブー視されています。
何か、性や恋愛が、罪悪視されているような気もします。
もっとおおらかに、恋愛や性について、語ることができたらいいのに、
と考えていますが、みなさんは、いかがでしょうか?
なお、「小さないのちを守る会」のHPも紹介します。
興味のある方は、ぜひごらんください。
http://www.chiisana.org/
雅歌シリーズのしめくくりとして、
(そのうちまた書くかもしれませんが・・・)
今回は、雅歌8:6~7への自作曲を紹介します。
「わたしを刻みつけてください
あなたの心に、印章として
あなたの腕に、印章として。
わたしを、わたしを、
刻みつけてください。
(繰り返し)
愛は死のように強く
火花を散らして燃える炎。
大水も愛を消すことはできない。」
(旧約聖書 雅歌8:6~7新共同訳)
「わたしを刻みつけてください」のところは、
一読すると、意味不明のところですね。
この箇所について、別の聖書箇所から註解しますね。
旧約聖書 イザヤ書49:16には、
「見よ。わたし(神様)は手のひらにあなたを刻んだ。」(新改訳)
とあります。
新改訳チェーン式の註解には、
「昔は、手のひらに恋人の名を彫り刻んだ。」(P.1108)とあります。
手のひらなら、一日に必ず一度以上、見るはずですね。
今でも、好きな人、モノを、
わざわざ刺青をして体に彫り刻む人がいますね。
同様に、神様は決して私たちのことを忘れたりはしません。
テキスト自体へのコメントは省略します。
「考える」よりも、「感じる」方がいい曲だからです。
魂の永遠の恋人なる主を賛美します!
メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
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1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
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