主の晩餐、の後の言葉についての考察
ある方から、次のような質問がありました。
新約聖書マルコによる福音書14:25において、
イエス様は、
「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、
ぶどうの実から作ったものを飲むことは
もう決してあるまい。」(新共同訳)
と言われています。
どうして、「もう決してあるまい。」なのでしょうか?
(何か意味があるのでしょうか?)
普通は、あまり気にならないところですね。
しかし、意外な質問というのは、
しばしば私たちの目をさらに見開かせるものです。
いろいろな解釈があるでしょうが、
ここでは私なりの解釈を述べておきます。
直接は、この記事の後にある、
「オリーブ山へ出かけていった。」(30節)
それで、もう時間がないから、ということなのでしょう。
さらに、イエス様がおっしゃた言葉は、
十字架の苦しみの中で、実現します。
マタイ・マルコ・ルカの共観福音書においては、
イエス様は、十字架の苦しみにおいても、
その苦しみを麻痺させるような、
「没薬を混ぜたぶどう酒」(マルコ15:23)
「苦いものを混ぜたぶどう酒」(マタイ27:34)
「酸いぶどう酒」(マタイ27:48)を飲もうとされなかった、
と書かれてあります。
最後の最後まで、
人類の罪と罰を極みまでその身でお引き受けになられた証ですね。
(ただし、ヨハネ福音書では、
死なれるすぐ直前に、
「ぶどう酒を受け」た(ヨハネ19:30)となっています。
しかし、これは、死なれる直前であり、
苦痛を紛らわすものではありません。
また、イエス様ご自身の意思ではなく、
「無理やり」飲まされたものです。
むしろ、詩編69:22(新共同訳)の預言の成就、ととらえるべきです。)
もう一つの解釈は、旧約聖書 民数記6章にある、
神様に特別の誓願を立てる「ナジル人」の規定が念頭にあったのでは、
とも考えられます。
これから、神様への特別の「誓願」、すなわち人類を救いたい、
という誓願を果たすために、
神様に献身したナジル人と同様に、
「ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
と言われたのかもしれません。
神様への献身のしるしとして、です。
以上をまとめると、
①目前に出掛ける目前で、時間がなかったし、
ご自分がこれからどのような苦しみにあうかも、
ご存知だったので、そのように言われた。
②十字架の苦しみの時のことを自ら預言された。
③神に献身した「ナジル人」となることを暗黙のうちに宣言された。
の3つではないか、と私は考えております。
もっとすばらしい解釈・意見があれば、
ぜひコメント願います。
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