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2015年3月の12件の記事

2015年3月29日 (日)

フィギュアスケート世界選手権2015男女シングルを観て

フジテレビ系で中継していた世界フィギュアスケート選手権2015を観ました。
羽生・宮原が銀メダル フィギュア世界選手権
朝日新聞デジタル 3月28日(土)22時59分配信

女子シングルでは、フリーよりも、ショートプログラムの方が見応えがありました。
ロシアのエリザベータ・トゥクタミシェワ選手が圧巻の演技でした!
もはや、キム・ヨナ選手や浅田真央選手の活躍が、
過去のものになったなぁ・・・と演技のスゴさに呆然状態でした・・・
トリプルアクセルをあっさりと決めて、
なおかつスピード感あるパーフェクトな演技に言葉を失うほどでした。
(フリーは少し雑な感じもしましたが・・・)
日本の宮原選手も健闘していました。
正直言って、女子シングルで日本選手のメダルは期待していなかったのですが、
見事にロシアとアメリカの牙城を崩して2位になったのは絶賛に値しますね。
1位とは17点もの大差ですが、今後もまだまだ伸びると思いますので、
宮原選手にはぜひさらに頑張ってほしいものです。
私ども夫婦共に宮原選手を応援しています。
しかし、それにしてもロシア勢は強いなぁ・・・
金メダルへの道は険しいようです。
だからといって、女子シングルの放送の扱いが、
浅田真央選手が活躍していた時と比べ物にならないほど低くなっているのは、
どうも納得がいかないものがあります。

男子シングルでは、
ショートプログラムでデニス・テン選手が振るわなかったのが残念でした。
フリーではデニス・テン選手が一番光っていました。
羽生選手は日本では誰もが応援しているので、
私ども夫婦はデニス・テン選手と、
今回優勝したフェルナンデス選手を応援していました。
特に妻は、デニス・テン選手を気に入っています。
パトリック・チャン選手に次いで好きな選手だそうです。

余談ですが、今シーズンから音楽の選択肢が増えたにも関わらず、
使う曲が似たり寄ったりなのは???という気がしました。

2015年3月25日 (水)

NHKBSプレミアム・クラシック倶楽部「ファジル・サイ・須川展也 リサイタル」(2015年3月23日放送)

ファジル・サイは私の大好きな現役ピアニストの一人です。
NHKBSプレミアムの「クラシック倶楽部」で、
2015年3月23日に、
ファジル・サイ・須川展也 リサイタル」が放映されましたので、
録画して視聴しました。
収録は、2014年10月16日、東京オペラシティコンサートホールです。
放送された曲目は、
フランクのヴァイオリン・ソナタ(サキソフォーン版)と、
ファジル・サイ自作の
「組曲 アルト・サクソフォーンとピアノのための 作品55」でした。

フランクのヴァイオリン・ソナタは大好きな曲なのですが、
さすがにヴァイオリンからサキソフォーンに音色が変わると、
雰囲気がかなり違っていました。
ヴァイオリンで奏でられる原曲は、
秋のパリの並木道・・・みたいな雰囲気がありますが、
サキソフォーンでは、ニューヨークの大都会か、
もっと言えば酒場みたいな雰囲気になっていました。

サキソフォーンの須川展也はもちろん超一流の演奏者ですが、
この演奏では、「サキソフォーンでこんなこともできますよ!」
以上のものはなかったと思います。
ファジル・サイのピアノは単に伴奏というよりは、
指揮者・作曲家のピアノ演奏という感じでした。
惜しむらくは、フランクのヴァイオリン・ソナタは、
やはり「サキソフォーンではなく、ヴァイオリンで聴きた〜い!」
ということでした。
マルタ・アルゲリッチとイヴリー・ギトリス、
あるいはイツァーク・パールマンのコンビみたいな演奏になるかもしれませんね。

サイ作曲の「組曲 アルト・サクソフォーンとピアノのための 作品55」の方が、
自然な感じがして、聴きやすかったですが、
サイ特有の、ピアノの弦を直接はじく奏法とかが出てくるのが印象に残った程度でした。

ところで、NHKBSプレミアムの「クラシック倶楽部」、
2015年3月30日(月)から放送時間が変わるそうです。
毎(月)〜(金)午前5時~5時55分とのことです。
リアルタイムで観ることはほぼ無くなりますね・・・

2015年3月24日 (火)

フジテレビ系・月9ドラマ「デート~恋とはどんなものかしら~」(2015年1〜3月)

久々に「月9ドラマ」を堪能しました。
2015年1〜3月放送の「デート~恋とはどんなものかしら~」です。
主演の杏さん、長谷川博己さんの「恋愛不適合者」ぶりが爆笑モノでした!
助演の俳優さんたちもすごくイイ味を出していました。
1話目から画面に釘付け状態になってしまいました・・・
たぶん不器用な二人もハッピーエンドを迎えるとは思っていましたが、
最終話の最後の最後まで恋の行方が五里霧中状態でした。
「トムとジェリー」よろしく、「ケンカするほど仲がいい」のかな?
ラストシーンの少し手前で、
サブタイトルの「恋とはどんなものかしら」の元となる、
モーツァルトのアリアが流れていました。

それにしても、ちょっとだけ、「高等遊民」的に、
教養ある言葉がポンポンと溢れるのって、イイなと思いました。
(ニートになるのは別ですが・・・)

最終話では、主役の二人がたまたま乗り合わせたバスの中で、
上品だが少しコワそうな老婦人(白石加代子さん)から、
「恋は底なし沼」(だったかな?)みたいな話を聞かされるところがあります。
「百物語」でも語るかのような不気味さ・・・

恋って、愛するって、甘いだけのものではありませんね。
恋するが故、愛するが故の苦しさや切なさ、痛みがあるのです。
たとえば愛する家族のために家事をすることなどは、
愛がなければ、ただの苦役にしか思えないかもしれません。
しかし、自分の喜びよりも、
愛する人の喜びを自分の喜びとできるからこそ、
苦役さえも楽しみに変えることができるのです。

ラストシーン手前の、回想シーンで、
実は二人は随分前から運命の赤い糸(切符!)で結ばれていたことが明かされます。
見事な伏線でした!

最終話での、バスの中で老婦人からもらった1つのリンゴを、
二人で食べあうシーンは、結構官能的な感じがしました。
聖書の「アダムとエバ(イブ)」の話がベースにあるのでしょう。

女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
(旧約聖書 創世記3:6新共同訳)

ディズニー映画の「魔法にかけられて」みたいに、
いい意味で、王道ラブロマンスを見事に裏切る斬新な展開が見応えありました。
これからしばらくは月曜の夜はまたテレビ離れしそうです・・・
2015年1〜3月期の連続ドラマでは、満足度は文句なく№1でした!

デート~恋とはどんなものかしら~ Blu-ray BOX※2015年6月発売予定

デート ~恋とはどんなものかしら~ 単行本 (ノベライズ)

2015年3月22日 (日)

書評:奥田知志/茂木健一郎『「助けて」と言える国へ』(集英社新書)〜脳科学者から見る教育界は変!

NHKEテレの「こころの時代」2015年3月8日放送で取り上げられた、
北九州市の東八幡キリスト教会牧師、奥田知志氏の話に興味を持ち、
買って読んでみました。
奥田知志/茂木健一郎『「助けて」と言える国へ』(集英社新書)です。
(過去記事→
NHKEテレ・こころの時代~宗教・人生~「この軒の下で」(2015年3月14日再放送)

「助けて」と言える国へ ──人と社会をつなぐ (集英社新書)

ホームレス支援のプロフェッショナルである奥田氏と、
NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」の司会者であった、
茂木健一郎氏との対談です。
初版が2013年ですので、東日本大震災以後です。
例の「絆」が独り歩きしている風潮にも疑問を投げかけています。

ホームレス支援から見える現代日本社会の病理が、
二人の対談を通して炙りだされていきます。
奥田氏の行動の背景にあるキリスト教信仰についても、
非キリスト教徒である茂木氏なりの理解と考察があります。

本題であるホームレス支援の他に、
とても印象に残ったのが2つあります。
1つ目は、タイガーマスク現象(匿名の人が、児相などにランドセルを寄付すること)と、
東日本大震災直後から出てきた「絆」についてです。
対談の中でも何回か出てきますが、奥田氏本人の文章でまとめられていますので、
引用します。

(引用)
 人と人が本当に出会い絆を結ぶ時、喜びは倍加する。しかし傷つく。それは避けては通れない。出会った証と思えばいい。長年支援の現場で確認し続けたことは、「絆(きずな)は傷(きず)を含む」ということだ。傷つくことなしに誰かと出会い、絆を結ぶことはできない。誰かが自分のために傷ついてくれる時、私たちは自分は生きていいのだと確認する。同様に自分が傷つくことによって誰かが癒されるなら、自分の存在意義を見出せる。絆は、自己有用感や自己尊重意識で構成される。これが絆の相互性という中身だ。(中略)
 社会は傷を分配する仕組みである。自己責任や身内の責任のように、一部の人に傷を負わせるのではなく、再分配する。それが、社会というものだ。タイガーマスクが胸を張って正体をバラすことができる社会をつくりたいと思う。(中略)
 絆の傷は人を生かす傷である。致命傷にしてはならない。(中略)絆とは「傷つくという恵み」である。
(同書PP.240〜242より引用終)

ホームレス支援や社会保障に関することを、単に自己責任論や、
匿名での寄付といった形で金だけだして関わらない援助という形で終わらせず、
相互に「お互い様」「情けは人のためならず」という風にしたいという願いですね。

本書で印象に残った2つ目。
これが私にとってすごいインパクトがあるコメントでした。
茂木氏と奥田氏が対談している中、
奥田氏のご子息が不登校になった話が出てきました。
不登校の件について、茂木氏は不登校の子よりも、
教育界の方が病んでいるのではないか、ということで、
次のようなコメントをしています。

(引用)
茂木 僕は、脳科学をやっているので、色々な人を見ていて、ちょっと変な人というのはわかります。でも、不登校の子どもと会っても、大体ごく普通の健康な中学生という感じがします。逆に、学校の校長先生とか教育長さんの話を聞くと病的だと感じることが多いのです。文部科学省の人たちが、学校の先生の教育集会とかに来て話をするのを聞いても、その人たちの方が変わっていると思いますし、学校の先生が教育法の研究発表をすることがあるのですが、それを聞いていると全体的に変だと感じます。子どもたちの目が生き生きとしていましたとか、興味を持って取り組んでいましたとか、そもそも科学的なエビデンスが何もなくて、発表者の主観にすぎない。研究であれば、一部の条件を変えて比較しなくてはいけないのに、洗脳を受けているような印象です。
奥田 なるほど。

(同書PP.106〜107から引用終)
※下線部は筆者による。

今の教育界のいわゆる「研究授業」についての、
実に痛烈な批判が、反論の余地なくこの短いコメントの中に詰まっています。

そう、小学校の研究授業ではよく「生き生きと自分で考える子ども」とかの
研究主題が書かれていますが、一体どれだけ「研究」すれば、
それらは達成できるのでしょうか?
何でそんなに「研究」され続けなければいけないのでしょうか?
(「生き生きと自分で考える子ども」という、
ありもしない「理想の子ども像」を追い続ける、錬金術みたいなもの?
ここまで来ると単に「ドグマ」そのものです。)
「生き生きと」とは、計測したり、科学的に再現できるものでしょうか?
答えは「否!」ですね。茂木氏の指摘どおり、
そもそも科学的なエビデンスが何もなくて、発表者の主観にすぎない。」のです!
茂木氏は「洗脳を受けているよう」とまで述べています。
インチキエセ宗教「問題解決教」でしょうか?

王様は裸だ、と教師同士では言わない・・・
だからこそ、「外圧」が必要なのです。
そうでなければ現状維持のままで、
教師のインチキ「研究」は続くのでしょうね・・・

2015年3月16日 (月)

書評:『くちびるに歌を』(原作:中田永一 漫画:モリタイシ)

映画「くちびるに歌を」が公開されていますね。
評判がいい、と聞いています。
(私はまだ観ていませんが・・・)
先日、原作の小説をマンガ化した作品『くちびるに歌を』(全3巻)を、
ふと手にとり、面白そうだったので一気に読みました(レンタル店で借りました。)。

映画では(予告編を観る限りでは)、
新垣結衣さん演じる音楽の先生(柏木ユリ)が主人公ですが、
マンガ版では、自閉症の兄を持つ桑原サトルが主人公(の一人)です。
マンガ版では、柏木先生が背景的要素になっていることが、
物語に深みをもたせたと思いました。

兄(その存在は周りには秘密)の世話をするため、
「ぼっちのプロ」を自認し、誰とも付き合いがないまま中3を迎えた主人公。
ふと聴いた合唱部の歌声(その時は女声だけ)に衝撃を受け、
合唱部に入部することになります。
他に、音楽の先生目当てで来た男子も何人か入部するものの、
だらけた練習が多いまま、Nコン(NHKコンクール)の日が近づいてきます・・・
Nコンの課題曲はアンジェラ・アキの「手紙〜拝啓十五の君へ」(2008年度)。
このうたにちなんで、柏木先生は合唱部員に、
「誰にも見せる必要がないから、十五年後の自分に向けて手紙を書け」
と課題を出します。
サトルは、「誰にも打ち明けられない思い」として、
兄のことを手紙に書きます・・・

兄との関わりのところや、
終盤、兄のことを合唱部のみんなにカミングアウトするところは涙モノでした・・・

舞台が長崎県の五島列島なので、主人公一家はミサに行く(=カトリック)とか、
自閉症の兄が独り言でⅠコリント13章の一部や、
ガラテヤの信徒への手紙5章の一部をつぶやく(3巻に出てきます)とか、
そういう設定も少し興味深かったです。

もともと少年漫画誌「ゲッサン」に連載されていたので、
いわゆる「サービス」描写が何箇所かありますが、
読後感はとても爽やかな感じがしました。

それにしても、「手紙 〜拝啓 十五の君へ〜」は名曲だと思います。
歌詞も素晴らしく、メロディも素敵ですね。
好きな歌の一つです。

マンガ版
1巻

2巻

3巻

原作小説

アンジェラ・アキ「手紙〜 拝啓 十五の君へ」Single, Maxi

2015年3月15日 (日)

書評:ゴードン・D・フィー/ダグラス・スチュワート共著『聖書を正しく読むために[総論] 聖書解釈学入門』(いのちのことば社)※原題:How to Read the Bible for All Its Worth

我々が聖書を読む際に、ついつい思い込みで読んでいるところが、
いかに多いか、改めて気付かされました。
ゴードン・D・フィー/ダグラス・スチュワート共著の、
聖書を正しく読むために[総論] 聖書解釈学入門
※原題:How to Read the Bible for All Its Worth
(いのちのことば社)を読みました。
副題に「聖書解釈学入門」とあるように、
聖書解釈学の思考方法から始まり、
約460頁かけて聖書全体を大雑把に概括しつつ、
聖書解釈学の要点を教えてくれます。
原題を直訳すると、「その価値すべてを求めるための聖書の読み方」となります。
原題については、本の中でも触れられています。

(引用)
 本書の他の箇所についてと同じくらい多く、修正を求めるコメントを受けたので、この書の題について一言触れます。いいえ、私たちも出版社も、間違えたわけではありません。for All It's Worth(価値がどれだけであっても)でなくfor All Its Worth(その価値すべてを求めて)としたのは、Itsがアポストロフィーなしで出てくるときにのみ効果ある、故意のことば遊びなのです。そして結局私たちが強調したちことはこの所有格Itsにあります。聖書は神のことばであり、人々にとって偉大な価値を持つゆえに、読んでほしいと私たちは望んでいます。そして、もし聖書を「価値がどれだけであっても」読むのなら、その価値(its worth)を見いだすことになると思います。
(本書PP.15から引用終)

さすがに大著なので、10日間ぐらいかけて毎日寝る前に1章ずつ読んでいきました。
聖書解釈学とは、端的に言えば、
聖書本文がもともと意味していたことは何か、を明らかにすることです。

中世スコラ哲学の主張する、「聖書の四重の意味」
(聖書の語句には以下の四重の意味が含まれているとする。
(1)文字的意味…歴史的文字的意味のこと
(2)比喩的意味…テキストは教会に適用される
(3)転義的(道徳的)意味…テキストの個人に対する関係
(4)究極的意味…テキストの永遠的ないしは終末的意味を指す)の類は、
明らかに読み込み過ぎであり、
様々な異端やカルトが主張する、ある一箇所を拡大解釈する傾向から、
冷静に、テキストは何を語っているかを考えるのに、聖書解釈学は役立ちます。

本文の中で紹介されている、かなり強引な解釈の例を、
少し長いですが例示します。
(不謹慎ですが、大聖人による、あまりのトンデモ解釈に失笑・・・)
(引用)
 たとえ話の誤解という長い歴史の理由は、マルコ4・10〜12(//マタイ13・10〜13//ルカ8・9〜10)に記されている、イエスご自身が語ったことにまでさかのぼることができます。たとえ話の目的について聞かれたとき、イエスは、たとえ話は内部の者にとっての奥義を含んでいる一方、外部の者をかたくなにする、と示唆しているように見えます。それからイエスが、種まきのたとえを準寓喩的な方法で「解釈」したので、かたくなな理論と際限なく寓喩的な解釈が許可されたように見えたのです。たとえ話は、外部の者にとっては単純な物語で、彼らには「真の意味」「奥義」は隠されている、と考えられました。それらは教会だけのもので、寓喩という手段によって明らかにできるものでした。
 こうしてアウグスティヌスのような偉大で聡明な学者が、良きサマリア人のたとえに次のような解釈を示しました。
 「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で」=アダム
 「エルサレム」=天にある平和の町で、そこからアダムは堕落した
 「エリコ」=月であり、したがってアダムの死すべき運命を意味する
 「強盗」=悪魔とその使い
 「その人の着物をはぎ取り」=彼の不死をはぎ取り
 「なぐりつけ」=彼を説き伏せて罪を犯させることによって
 「半殺しにして逃げて行った」=生きてはいるが霊的には死んだ、それゆえ半分死んでいる
 「祭司」と「レビ人」=旧約聖書の祭司制と務め
 「サマリヤ人」=守護者を意味すると言われており、それゆえキリストご自身を意味する
 「傷に・・・・ほうたいをし」=罪の抑制を縛りつけることを意味する
 「オリーブ油」=善き希望の慰め
 「ぶどう酒」=熱き霊をもって働けという励まし
 「家畜」(「ろば」)=キリストの受肉の肉体
 「宿屋」=教会
 「次の日」=復活の後
 「デナリ二つ」=このいのちと来るべきいのちとの約束
 「宿屋の主人」=パウロ
 いかに新奇で興味をそそるものであっても、これがイエスの意図したことだとは完全に確信することは誰にもできません。結局のところ、その文脈は明らかに人間関係の理解(私の隣人とは、誰のことか)を求めるもので、神と人間の関係の理解は求めていません。そして、イエスがこのような鈍感なやり方で教会とパウロのことを予告したと考える根拠はありません。

(同書PP.238〜239より引用終)

よくここまで読み込んだ、というよりは、深読みし過ぎた例ですね。
こういう解釈から、『聖書の暗号』のたぐいに至るまでは、
ほんの僅かな差なのかもしれません。


聖書を正しく読むために[総論]

原書:How to Read the Bible for All Its Worth


聖書の正しい解釈を知る上でとても役立つ本です。
全460頁ですが、文章は平易で読みやすいです。

2015年3月14日 (土)

NHKEテレ・こころの時代~宗教・人生~「この軒の下で」(2015年3月14日再放送)

NHKEテレの「こころの時代」
(毎(日)5〜6時 再放送毎(土)13〜14時※2015年3月現在)では、
時々キリスト教の牧師や神父などを取り上げてくれます。
2015年3月14日再放送(本放送は3月8日)の回では、
この軒の下で」と題して、
北九州市の東八幡キリスト教会牧師、奥田知志さんを特集していました。
ホームレス支援活動で知られ、
過去にはNHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」でも取り上げられました。
(私はその回は観ていませんが・・・)

番組では、ユニークな木造建築の「軒の教会」のコンセプトと、
奥田牧師の活動を、インタビューを交えて紹介していました。

日本の家屋及び社会的あり方として、失われつつある「軒」。
「軒」を取り入れた、社会に開かれた教会(堂)の姿。
あと、困窮者のためのシェルターや、
路上生活者でいわゆる「無縁仏」になっている人を記念する、「記念堂」。
一番感銘を受けたのは、洗礼(バプテスマ)を受けるための、
「バプテストリー」(洗礼槽)が、高いところではなく、
床下にあるところでした。

私も、以前、札幌バプテスト教会(旧会堂時代)で、
講壇の上部に位置するところにあるバプテストリーで、
バプテスマを受けるのを見たことがあります。
会衆全員から見える位置にありました。
しかし、番組の中で、奥田牧師は、
キリストの謙卑(フィリピ2章)を引き合いに、
「バプテスマとは、天にのぼっていくのではなく、
低みへ下っていくのだから、バプテストリーを低い位置にした。」
というような事を述べていました(発言の引用は正確ではないですが・・・)。
なるほどと思いました。

後半は、ホームレス支援についての話でした。
教会員が、社会活動についていけなくなり、
教会から離れていくことが増えるなど、
決して順風満帆な歩みではなかったことが語られます。

日本のキリスト教会(カトリック・プロテスタント・正教会)において、
よく出てくるのが、「伝道か、社会活動か」というヘンな二者択一です。
「みことばへの奉仕」とか「霊的」=社会活動を行わない?
「宣教とは社会活動だ」?
まず、社会活動そのものは、決して「宣教」ではありませんし、
キリスト教会固有の活動でもありません。
(社会活動をする宗教団体はたくさんあります。)
反戦平和の政治活動や、沖縄の基地移設反対運動、
国旗国歌に反対することや、
ホームレス支援活動を行うのが、
キリスト教会の宣教だ、という風潮には私は「否!」と言います。
ニセモノの福音です。

しかし一方、「教会」と「この世」を分けて、
世の中に関心を持たず、
身近で困窮している人がいてもそしらぬ顔で通りすぎてしまう・・・
(イエス様の「善いサマリヤ人」のたとえそのものですね。)
そういう信仰は果たしてホンモノでしょうか?

私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは死んだものです。
(新約聖書ヤコブの手紙2:14〜17新改訳)
古くから議論される「信仰」と「行い」の対比ですが、
そもそも「信仰」と「行い」の二元論ではないのです。
信仰によって救われる」(「信仰によって(のみ)」の「のみ」は余計語!)のは、
確かなことですが、信じる(信じて救われる)ならば、生き方そのものが変わるはずです。
信仰と行いの一体性は、使徒ヤコブのみならず、
対極とされる(本当は違うのに)使徒パウロも述べています。

キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。
(新約聖書ガラテヤ人への手紙5:6新改訳)
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。
(新約聖書エペソ人への手紙2:10新改訳)

使徒ヨハネは、もっとはっきり「救われた人の生き方」を述べています。

私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。
世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。

(ヨハネの手紙Ⅰ3:14,17〜18新改訳)

番組の中では取り上げられませんでしたが、
東八幡キリスト教会のHPにある、
東八幡キリスト教会の使命(ミッション)」中の、
「3、腰にてぬぐいをしイエスに従う―隣人に仕える教会 」と、
「4、まちの教会となる―開かれた教会 」のところは感銘を受けました。
「腰にてぬぐいをし」は、ヨハネ福音書13章のところにあります。
手ぬぐいをとって弟子たちの足を洗われたイエス様・・・
しもべ(奴隷)の仕事をするまで自らを低くされたイエス様に倣い、
私たちも、愛に生きるのは、当然のことでしょう。
観念的な愛(ニーチェ流に言えば、「遠人愛」!)ではなく、
それぞれの置かれた場所で、愛を具体的に実践することが、
生きた信仰の証といえます。

番組を観て、東八幡キリスト教会のHPを拝見し、
奥田牧師について調べてみて、
奥田牧師の本を読んでみたくなり、
本を2冊注文しました。
もう、ひとりにさせない わが父の家にはすみか多し』(いのちのことば社)と、
「助けて」と言える国へ ──人と社会をつなぐ 』(集英社新書)
(※脳科学者・茂木健一郎氏との共著)です。

もう、ひとりにさせない わが父の家にはすみか多し

「助けて」と言える国へ ──人と社会をつなぐ


東八幡キリスト教会のHPはぜひご覧になってください。
昨年(2014年)に行われた献堂式の様子については、
「東八幡キリスト教会献堂式」(ブログ名:佐久間庸和の「天下布礼日記」)
という記事がとても充実しています。
(佐久間氏は冠婚葬祭会社「サンレー」の社長でありつつ、大学の客員教授でもあり、
「一条真也」というペンネームで、多数の本を書いている方です。
私も以前、代表的著書の『ロマンティック・デス―月を見よ、死を想え 』(幻冬舎文庫)
という本を読んだことがあります。現在絶版?)
キリスト者ではない方から見た、東八幡キリスト教会の姿です。
まさに「世の光」となって、地域で輝いている教会ですね・・・

2015年3月11日 (水)

書評:杉本智俊著『コー子ちゃんとすぎもとセンセイの聖書考古学 新約聖書編』(いのちのことば社)

表紙の萌えキャラが、聖書考古学への敷居を一気に低くしているかも?
(かわいいおめめのキャラ名は「コー子ちゃん」です!)
杉本智俊著『コー子ちゃんとすぎもとセンセイの聖書考古学 新約聖書編』
(いのちのことば社)を一気に読みました。

(引用)
 本書はクリスチャンで考古学初心者の「コー子ちゃん」が、大学で聖書考古学を教えている「すぎもとセンセイ」にいろいろ質問する形式になっています。
(本書PP.3から引用終わり)

全部で140頁ほどの本ですが、とても読みやすく、
新約聖書の世界が身近に感じられるように思えました。

欲を言えば、「コー子ちゃん」の役割が、見出し程度でしかなく、
「センセイ」ともう少し対話的に絡むような構成にした方がよかったのでは、
とも思いました。
せっかくの萌えキャラがあまり生きていない感じです。
(結局のところ、ほぼモノローグに近いのでは?)

とはいえ、イエス様が地上で歩まれていた時代の生活を、
いきいきと描いているところは一読の価値があります。
旧約聖書編ではさらなる面白さを期待したいところです。

コー子ちゃんとすぎもとセンセイの聖書考古学 新約聖書編

2015年3月 8日 (日)

NHKEテレ・クラシック音楽館「N響コンサート 第1798回定期公演」(2015年3月8日放送)〜ソリストにユジャ・ワン(Yuja Wang)登場!

ユジャ・ワン(王羽佳, Yuja Wang)が、
N響(しかも指揮者はデュトワ!)と競演、
それだけで、ワクワクしました。
2015年3月8日NHKEテレの「クラシック音楽館」、
第1798回定期演奏会(2014.12.17)の放映を視聴しました。
サントリーホールでの収録です。

ラヴェルのピアノ協奏曲はもちろんユジャ・ワンのソロで決まりでしたが、
実は、前半のプログラムの1曲、
ファリャ作曲「交響的印象“スペインの庭の夜”」も、
ピアノが大活躍する曲でした。
しかも、こちらもユジャ・ワンが弾いていました。
私は今回初めてこの曲を聴きました。
ファリャの曲は、ピアノ協奏曲に準ずる曲だそうです。
ピアノはオーケストラの楽器の一部といった感じでしたが、
ユジャ・ワンが弾くとフレーズの羅列も十分楽しく響いていました。
ピアノパートは伊福部昭の「リトミカ・オスティナータ」の一歩手前?
後述のラヴェルよりも実は印象に残りました。
(もしかして衣装のせいもある?)

さて、ラヴェルのピアノ協奏曲の方は・・・
派手にやってくれるかな、と思いましたが、
意外と控えめな感じでした。
ただし、第2楽章は繊細でありながらも神経質すぎず、
名演だったと思いました。
ちなみに、ファリャとラヴェルの曲では、
ユジャ・ワンは衣装を替えて登場していました。

我が家にあるラヴェルのピアノ協奏曲のCDは、
エレーヌ・グリモー(P)、ジンマン指揮ボルティモア交響楽団の演奏と、
アルゲリッチ(P)、アバド指揮ベルリン・フィルの演奏です。
グリモー盤は、第2楽章が繊細すぎるかな、と思っていました。
ほとんどブラームスの世界?・・・
その代わり、沈鬱で都会的な孤独を漂わせているがゆえに、
第2楽章に関してはアルゲリッチ盤よりもグリモー盤に軍配を挙げたいです。
しかし第1楽章、第3楽章では、華やかさ溢れるアルゲリッチ盤が優れています。
第2楽章で、都会の中の孤独感が漂っているのがグリモー盤だとすれば、
ユジャ・ワンの演奏は、カフェでちょっと一息、といった感じでしょうか・・・
しかし、グリモーの演奏・解釈とは違った魅力が、
この第2楽章にあることを示してくれました。

(参考)
グリモー盤

アルゲリッチ盤

後半の「火の鳥」、さすがデュトワ!といった感じでした。
(さほど好きな曲ではないので以下省略・・・)

おまけの、スクリャービン「幻想ソナタOp.19」もなかなかよかったです。
これは、以前「クラシック倶楽部」で放送されなかった部分にあたります。
煌めく音の洪水!〜NHKBSプレミアム・クラシック倶楽部- ユジャ・ワン(Yuja Wang 王羽佳) ピアノ・リサイタル -(2013年5月22日放送)

ラヴェルのピアノ協奏曲については、過去何度か記事を書いています。
よろしければお読みください。
ラヴェル:ピアノ協奏曲ト長調〜アリス=紗良・オットの演奏と、アルゲリッチ旧盤、グリモー盤

2015年3月 7日 (土)

書評:クレマインド(文・絵)『マンガ聖書時代の古代帝国』(いのちのことば社)〜旧約と新約の中間時代を知るのに便利!

旧約聖書と新約聖書の中間時代を中心に、
その前後の古代イスラエルと中東の世界情勢を見事に視覚化しています。
いのちのことば社から発刊された、『マンガ聖書時代の古代帝国』です。

マンガ聖書時代の古代帝国

取り上げられるのは、BC722のアッシリアによる北王国イスラエル滅亡から、
イエス様が生まれる少し前(BC4年頃?)までです。
旧約聖書で言えば、列王記第二〜エステル記及びエレミア書、エゼキエル書、
ダニエル書と十二小預言者と、
旧約続編(第二正典)のマカバイ記1・2が範囲に入ります。

読んでいて、政治の流れとかは実に「頭がスッキリ」するように理解できますが、
はっきり言って、戦争に次ぐ戦争、あるいは謀略とか、
黒歴史ばかりで、読んでいて暗澹たる気分になっていきます・・・
(中東の残虐さはアッシリアの昔から、
今のISまで連綿と続いているのかも・・・
まぁ、古代人の残虐さは、中東に限ったものではないですが。
古代ローマ帝国や中国の王朝とか、人間はこうまで残酷になれるのか、
という実例が歴史には満ち溢れていますね・・・)
しかし、イスラエルの滅亡から、
イエス様が降誕されるまでの歴史の流れをきちんと把握する、
ということにかけては、実に力強い味方になる本です。
旧約の終わりから、新約までの中間時代を知りたい、という方には、
ぜひオススメです。

文・絵の「クレマインド」は、韓国人のグループです。
本に「クレマインド」のHPが記載されていましたので、
一応紹介しますが、ハングル文字ばかりなのでよくわかりません・・・
興味のある方はどうぞ。
http://www.cremind.co.kr/
同じ著者グループによる、
マンガ 神なんていないと言う前に』(いのちのことば社)は、
以前に紹介しました。こちらもオススメです。

マンガ 神なんていないと言う前に

2015年3月 4日 (水)

書評:湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日文庫)

普段あまり政治的な本は読まない方ですが、
先日ふと札幌市中央区のジュンク堂書店に行って、
文庫本コーナーを散策している時に、
新刊本のところでタイトルに惹かれてつい買って読んだのが、
湯浅誠著『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日文庫)です。

湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日文庫)

湯浅氏は2008〜2009年の「年越し派遣村」村長として有名で、
民主党政権では内閣府参与を勤め、現在(2015年3月現在)法政大学教授です。
私にとっては、どちらかというと、
今まで「サヨク系」の人と思って敬遠していました。

この本の主題は「民主主義」です。
「決められない」民主主義が、
実に民主主義的な方法(多数決、少数意見の切り捨て)によって、
民主主義を否定する「ヒーロー」(政治的に言えば「独裁者」)を通して、
「決められる政治」になっていく危うさを、実に冷静に、
高校生程度の文書読解力があればわかる平易な言葉で指摘しています。
「強いリーダーシップ」「決められる政治」の代表として、
大阪市の橋下市長と安部総理を挙げています。
多くの人達が、自分たちの考えを表現し、抗議したり調整したりする権利を、
面倒だといって放棄し(=民主主義を放棄!)、
代わりに、ずばずば決めてくれる指導者を待望する・・・
ヒトラーの台頭を許したワイマール共和国末期の状況と、
なんとなく似ているのかもしれません。
(本書でも述べている通り、
別に湯浅氏は上記の政治家を個人攻撃するつもりはありません。
私自身も、たとえば安倍総理をヒトラー呼ばわりするつもりは毛頭ありません。)
まさに、エーリッヒ・フロムの言う「自由からの逃走」が、
長引く不況や経済格差の拡大により、そしてマスコミの単純化・白痴化によって、
日本でも蔓延しています。
面倒な民主主義というプロセスよりも、
小泉元首相のようなわかりやすいキャッチフレーズで、
どんどん「抵抗勢力」をなぎ倒すルサンチマンの火・・・
その結果、立法府の機能不全→内閣総理大臣の暴走→独裁化という、
民主主義の緩慢な死に向かいつつ有ります。

湯浅氏は、「民主主義は、面倒くさくてうんざりするもの」(PP.48)と、
NPO活動や政策づくりの現場に携わった経験から、
ため息混じりに論じますが、
「面倒くさくてうんざり」の対極にあるのが、
大阪市の橋下市長流の「水戸黄門型ヒーロー」(PP.54)待望論と、
「お任せ民主主義」そしてその正体である「強いリーダーシップ」
であると喝破します。
そういう「ヒーロー」が「既得権益」をバッサバッサと斬り捨てていく痛快さ。
著者は「ヒーロー」を「切り込み隊長」と形容しています(PP.29)。
(既に「小泉劇場」や「橋下劇場」、
あるいは民主党の「事業仕分け」でお馴染みですね・・・)
生活保護叩きやJA全中叩き、正規雇用者の待遇を非正規並に引き下げることetc・・・
「切り込み隊長」のヒーローが次々と「既得権益」を斬り捨てていったら、
いつの間にか、自分も斬られていた・・・
なんとも笑えない話ですが、いつその立場になるか、誰もわからないのです。

(引用)
 誰もが「自分自身の必死の生活と、そこからくるニーズ」は尊重されるべきだと思っているし、他の人の「生活とニーズ」も等しく尊重されるべきだと思っています。しかし、自分の必死の生活とニーズは、きちんと尊重されていないとも感じています。
 尊重されるべきものが尊重されていないという不正義が自分の身にふりかかっていて、他にもそういう被害者がいるらしい。なぜそんな不正義がまかり通るのかといえば、自分のことしか考えず、自己利益のために正義を踏みにじる「既得権益」が世の中にあるからだ。だから「切り込み隊長、頼むよ」ということで、バッサバッサとやってもらうことが正義にかなうと感じられるのですが、複雑な利害関係がある中でバッサバッサとやることで、気づいてみたら自分が切られていた、ということもありえるでしょう。
 なぜなら、自分にとっては「必死の生活とニーズ」であるものも、他の人からは「しょせんは既得権益」と評価されることがあり、それが「利害関係が複雑」ということだからです。
 自分はヒーローの後ろから、ヒーローに声援を送っているつもりだった。ヒーローはバッサバッサと小気味よく敵をなぎ倒し、突き進んでいく。「いいぞ、やれ」とはやし立てていたら、あるときヒーローがくるりと振り向いて自分をバッサリと切りつけた。
 一瞬何が起こったか理解できなかったが、遠のく意識で改めて周囲を見回してみたら、ヒーローをはやし立てている人は自分以外にもたくさんいて、そのうちの何人かは自分を指差して「やっつけろ」と言っていた。そのことに気づいたときには、自分はもう切られた後だったーーーという事態です。

(同著PP.35〜36から引用終)

著者は、例として、ご自身の兄(身体障がい者)を挙げています。
社会福祉法人で働き、障害年金を毎月8万円もらっているのも、
ある人々からすると、「生産性の乏しい者に税金が使われるなんて・・・」と、
「既得権益」と映るかもしれない、と述べています(PP.38)
たとえば生活保護の不正受給額は2012年度で191億円にものぼるそうですが、
生活保護全体に占める割合は0.5%程度です。
一部の不正受給者のために、本当に生活保護が必要な人々を切り捨てたり、
人権蹂躙を行うことは正しいことでしょうか?
生活保護の不正受給の件は「詐欺」に該当しますが、
たとえばTPPで大打撃を食らうのが目に見えている、農業の分野などはどうでしょう?
(TPPを締結して、結局儲かるのは多国籍企業だけなのに・・・)

魔法のボタンなんてない、
むしろ、面倒な「民主主義」というプロセスを経ることが大切だ、
と著者は様々な例を提示しながら静かに呼びかけます。
最後は、こんな言葉で締めくくられます。

(引用)
 「決められる」とか「決められない」とかではなく、「自分たちで決める」のが常識になります。
 そのとき、議会政治と政党政治の危機は回避され、切り込み隊長としてのヒーローを待ち望んだ歴史は、過去のものとなります。
 ヒーローを待っていても、世界は変わらない。誰かを悪者に仕立て上げるだけでは、世界はよくならない。
 ヒーローは私たち。なぜなら私たちが主権者だから。
 私たちにできることはたくさんあります。それをやりましょう。
 その積み重ねだけが、社会を豊かにします。

(同著PP.150〜151より引用終わり)

日本国憲法では、主権者は我々日本国民です。
しかしなんと、主権者であることを忘れていることでしょうか・・・
右か左か、といったレッテル張りに関係なく、
このような考えが広く日本中に浸透していくなら、
確かにこの国の未来にはまだ希望があります。
しかし、「長いものには巻かれろ」式の考えが趨勢となるなら、
戦前の軍国主義みたいな時代が再来するのかもしれません・・・
ただし、軍隊ではなく、グローバル企業が君臨し、国家は解体され、
「経済の神」にひれ伏すのでしょうね・・・

2015年3月 1日 (日)

2015年2月のページビュー(PV)数ベスト10記事一覧

2015年2月のページビュー(PV)数ベスト10記事は以下のとおりです:
(※トップページを除く)
ベスト3までは記事リンクをつけています。

一位.「学び合い学習」は日本の義務教育崩壊を招く!
~おすすめ記事『【解答乱麻】 TOSS代表・向山洋一 亡国の教育「学び合い学習」』
(MSN産経ニュース2012年11月24日掲載)

二位.NHKBS1・BS1スペシャル 「憎しみとゆるし~マニラ市街戦 その後~」
(2014年8月29日放送)

三位.NHKBSプレミアム・もうひとつのニュー・シネマ・パラダイス~
トルナトーレ監督のシチリア~(2015年1月28日放送)

四位.どの聖書が一番いいか?(新約聖書編)
五位.「学びあい」という美名の下の教育の堕落~
NHKEテレ・ETV特集「輝け二十八の瞳 ~学び合い 支えあう教室~」
(2012年2月5日放送)

六位.インクルーシブ(インクルージョン)教育は子どもにとって本当に幸福なのか?
~おすすめブログ記事「脱インクルージョン教育」(ブログ名:斜に構えてみる)

七位.NHKBSプレミアム・女優 満島ひかり まだ見ぬ世界へ~シェークスピアに挑む~
(2015年2月25日放送)

八位.ウコンは肝臓に悪い?~NHK・ためしてガッテン「肝臓の健康を守れSP」
(2011年6月29日放送)

九位.第66回さっぽろ雪まつりの夜の写真
〜白いダース・ベイダー(Darth Vader)?など

十位.映画「サン・オブ・ゴッド」(原題:SON OF GOD)
〜イエス・キリストの生涯を2時間弱で描くのはやっぱり無理?

先月も「学び合い学習」についての批判記事がプレビュー数1位を獲得しました。
2ヶ月連続です。
他に教育関係やNHK関係、キリスト教関係のもランクインしました。
先月は音楽関係はランク外でした・・・

札幌はもう春の足音が聞こえてきそうです。
雪融けが刻々と近づいています。
今月もご愛読よろしくお願いします。

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