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2013年12月16日 (月)

「よい子になりましょうね」説教の問題点

所属教会の主任の聖職者が最近変わり、
社会的な行動を促す内容の説教が語られるようになりました。
たとえば、「特定秘密保護法案」に反対しよう、みたいなことが、
聖壇から語られることもありました。

私自身は、クリスチャンは霊性と共に、
社会正義も追求すべきだと思いますが、
説教として聖壇からそういう内容についてばかり語るのは好ましくないと考えます。

教会には何のために来るのでしょうか?
左派系新聞の解説と何ら変わらないようなことを、
本当に我々信徒は聞きたいのでしょうか?
(しかも「教会の教えだ!」と政治的信条の一致を強制される!
これこそ教会で行われる「思想・信条の自由」の無視では?)

社会変革・連帯というのも結構ですが、
「神に愛されている」という実感なしに、
本当に神の御業を行うことができるでしょうか?

社会正義を呼びかけ、善行をしようと呼びかける説教しかしないのは、
ガソリンがないのに車を動かすようなものかもしれません。
あるいは、ガソリンで動く自動車に軽油を入れてしまうものか・・・
(昔誤ってやってしまったことがあります・・・)

聖霊様の力抜きで、人間同士の連帯を訴え、説教を通して政治的な行動を促すのは、
結局「よい子になりましょうね」説教といえます。
そういうのは年に数度ならともかく、
毎週そんな話題ばかりなら、ニセモノ・混ぜ物の福音にほかなりません。
(そんなに簡単にできるなら、そもそも福音なんて必要ないでしょうし、
イエス様が十字架にかかって私たちの罪を贖う必要もなかったはずです。)

神様の愛を実感できるからこそ、人を愛せるようになり、
平和・喜び・寛容その他の聖霊の実を結ぶことができるのです。

わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
(新約聖書ヨハネの手紙Ⅰ4:19新共同訳)

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