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2012年1月17日 (火)

「プリンストン発 新潮流アメリカ」(冷泉彰彦さんのブログ)の、日本の教育についての記事2つ(2012年1月)

ニューズウィーク日本版のサイトに連載中の、
アメリカ在住の作家、冷泉彰彦さんのブログ
プリンストン発 新潮流アメリカ」を1、2年前から読み続けています。
アメリカの政治やスポーツ、文化などについての記事も興味深いですが、
それ以上に、アメリカという対岸から
日本の政治・文化・教育などを眺める独自視点がユニークです。

今月の記事で、日本の教育に関するものは2つあります。
まずは、1月11日記事の「尾崎豊の再評価が不要な理由」。
成人式にちなんで、朝日新聞の社説で「今の若者に尾崎豊のような反抗を期待」する、
というメッセージと、それに反論した知識人の論争について書いています。
尾崎豊云々にはあまり興味がありませんでしたが、
なぜ80年代後半~90年代に尾崎豊が時代の寵児となり、
同時に校内暴力がはびこったのか、という背景の分析として、
日本のゆとり教育について論じているところが痛快でした。
その部分を引用します。
(前後の記事本文もぜひお読みください。)※下線部は筆者による。

(引用)
 日本が最も豊かであったあの時代に、どうして校内暴力の反抗が起きたのでしょうか? そこには2つの理由があると思います。1つは、日本が高度成長から二度の石油ショックを乗り越え、自動車と電気製品を中心に輸出型ビジネスを大成功させる中、ようやく「豊かな社会」を実現したという時代背景です。物質の豊かさは精神の豊かさ、つまりより高度な抽象概念への関心や、より高度な付加価値創造への欲求へと若者を駆り立てたのです。

 ところがそこに、教育カリキュラムとのミスマッチが起こりました。教育カリキュラムはせいぜいが「前例を疑わない官僚」や「主任教授の忠実な弟子である研究者」「代々受け継がれてきた職人的な創造者」などをエリートとして養成しつつ、多くの中間層に関しては定型的な労働における効率を追求する人材育成のプログラムしかなかったのです。

 つまり、若者の中には無自覚ではあっても「その先の社会へ」と進むモチベーションが高まっていたのに、教育がそれに応えなかったのです。やがて、ずいぶん後になってから「ゆとりと総合的学習」などという半端なコンセプトが提出されましたが、基礎訓練を強化した上で抽象的な概念のハンドリングへ進むのではなく、基礎訓練の劣化を伴いつつ指導者の育成もせずに「総合」などというのでは破綻するのは当たり前でした。

 ちなみに、この「ゆとり」に関して言えば、前思春期には基礎を叩きこんで、思春期から先に抽象概念にチャレンジさせるという定石も外していました。実際はその反対だったのです。前思春期に「おままごと」のような「総合」をやらせておいて、思春期以降は「受験勉強」に戻って定型的な訓練と規範への盲従を強いるという、まるで人格を成長「させない」ようなプログラムになっていた点も厳しく批判されなくてはなりません。

 もう1つ、校内暴力の背景にあったのは教員の質の低下でした。80年代の世相の中では、「利害相反の中でコミュニケーションの仲介をする」という当たり前の社会的行動を「忌避する」タイプが多く教員になっていったように思います。バブルの拡大を前にして「ビジネス志向」の若者が企業社会に飛び込む中で、「そうではない」タイプが教壇を目指したのです。

 拝金主義を嫌って本質的な人格育成を担う志があるのならまだ良かったのですが、利害相反の調整行動を「イヤ」だ「辛い」というタイプを教員にしたのは間違いでした。世代間のカルチャーがどんどん変化する中で、教員に求められるのも「高度な利害相反の調整能力」であったのです。そのスキルのない教員には、生徒の「変化への衝動」や「権威への疑い」に対処できるはずはありません。

 そこで当然の帰結として管理教育が導入されました。管理教育というのは、強者ゆえに管理に走るのではなく、無能な弱者ゆえに細かな規則などによる管理でしか学級運営(クラス・マネジメント)ができない、教育のレベル低下であったのです。原理原則を軸として柔軟な価値判断や現実的な紛争調整をすることができない無能な教員が、生徒の「変化や破壊の衝動」を圧殺するという悲劇が繰り返されたのでした。
(引用終)

下線を引いた部分は短いながらも、
ゆとり教育と「総合的な学習の時間」の歴史的総括といえましょう。
基礎がないのに、応用も総合もあるわけがないのです。
「総合的な学習の時間」は、壁新聞を作らせて終りとかのレベルです。
資源と時間のムダではないでしょうか?
むしろ、冷泉彰彦さんの主張のとおり、基礎を充実させるほうが優先でしょう。
総合的な学習の時間は、
どんどん縮小すべきか、少なくとも教師用のテキストはきちんと作るべきだと考えます。


話は変わって、2つ目の記事は、先日行なわれたセンター試験についてです。
センター試験の「中身」を辛口批評する(1月16日)
英語のテストと国語のテストの比較と傾向について論じています。
特に国語のテストについては酷評しています。
(引用)
 日本の企業社会は、長い間「ビジネスに役立つ本当の教育は企業が担う」などといって、「大学は入試で基礎能力の選別をしてくれればいい」とか「意味を問うことなく素直に暗号解読や情報の記憶を」する学生が好ましいなどと言って来ました。それを今になって、外国人の若者のほうが使えるなどと「裏切り」に等しいをことを言っているわけです。

 そうした時代状況を考える以前の話として、この「センター試験国語」の問題は何とかならないのかと思います。一番の問題がいい例で、これでは、基礎能力そのものの判定にもならないのではないでしょうか? 試験の直後でもあり、各予備校や新聞社は問題をサイトに公開しています。皆さん、是非一度ご覧になることを薦めます。

 それにしても、問題用紙が遅れたとか、リスニングの機械が足りなかったという話ばかりではなく、問題そのものが「求める人材像の能力要件」や「高校生への学習の方向性のメッセージ」として適切なものかどうか、そうした観点からの議論が必要だと思うのです。
(引用終)
最後の一文は考えさせられますね・・・

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