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2010年10月 7日 (木)

「神の存在」は「信ずべき」事柄なのか?~「ヘブル人への手紙」11:6の訳

昨朝、エマオ出版訳の新約聖書でヘブル(ヘブライ)人への手紙11章を読んでいると、
6節はこのように訳されていました。
実に、信仰によらなければ(神を)喜ばせることは不可能です。
なぜならば、(自ら)進んで神に近づこうとする者は、
神がご自分に求める者に今報いてくださる御方であられ、
また(今後も)報いる方になってくださると信じなければならないのです。

一般的な訳では、新共同訳を例にあげると、
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神が存在しておられること
また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、
信じなければならないからです。

(新約聖書 ヘブライ人への手紙11:6新共同訳)
となっています。他の訳でもだいたい大同小異です。

どうして、一般的な訳と違う訳をあえてエマオ出版訳がつけたのか、
欄外に記載がありました。
少し長いので、中心となる箇所だけ抜粋して引用します。
「・・・また聖書は、神の御存在は、人が当然認めなければならない自明の事実として取り扱っており、人間に神の存在を信じろとは語っていません。「初めに神は天と地を創造された。」と何の説明もなしに、語っています。この節の伝統的な訳は、聖書の主張に矛盾しています。聖書の中では一貫して「信じる」という語が、「信頼する」を意味しています。
(エマオ出版訳新約聖書P.543から引用)

古来から哲学者や科学者までもが、「神の存在証明」を成し遂げようとしてきましたが、
(アリストテレスやスコラ哲学、カントからゲーデルまで・・・)
そもそも、証明をする必要がなかったわけです・・・
第一、どんなに巧みな論理であっても、それで納得がいくものでしょうか。
論理は論理にすぎません。

「神はいるか、いないか」といったばかげた議論につきあうのは、
時間のムダといえるでしょう。
神を知らぬ者は心に言う『神などない』と。」
(旧約聖書 詩編53:2新共同訳)
人間の言い伝えにすぎない哲学、
つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。
それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。

(新約聖書 コロサイの信徒への手紙2:8新共同訳)

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