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2010年9月の36件の記事

2010年9月30日 (木)

『嵐が丘』と襟裳岬~NHK・3ヶ月トピック英会話 聞く読むわかる!英文学の名作名場面(第1回)

9月29日から始まった、NHKの語学番組の新シリーズ、
「3ヶ月トピック英会話 聞く読むわかる!英文学の名作名場面」の第1回を視聴しました。
第1回目は、エミリー・ブロンテの名作『嵐が丘』を取り上げていました。
番組の3分の2は、作品の一部の朗読と解説、英会話での応用で、
残りが、名作の舞台を女優の内山理名さんが実際に訪ねる、というものでした。
英文学ファンにはおすすめの語学番組です。

『嵐が丘』は高校生の時に読みました。
サマセット・モームの『世界の十大小説』という本で取り上げられていたので、
期待をもって読みましたが、最初の40ページぐらいがどうも退屈でした。
実際、読むのをやめようかな、と思ったほど・・・
しかし、そこを突破すると、強烈な世界が拡がっていました。
小説の世界にすっかり圧倒され、魅了されました。
ヒースが一面に茂る丘をいつか実際に見てみたいものだと思ったほどです。

今回、番組の終わりに『嵐が丘』の舞台となったハワースを紹介していました。
荒涼としたヒースの丘は、どことなく、今年行った襟裳岬周辺の景色に似ていました・・・

嵐が丘(上)

嵐が丘(下)

2010年9月29日 (水)

主に向かって喜び歌おう(詩編95:1~7)【自作曲】

主に向かって喜び歌おう。
救いの岩に向かって喜びの声をあげよう。

(旧約聖書 詩編95:1新共同訳)
今朝この御言葉とこの歌が、なぜか私の心に響き渡っていました。

今回紹介するのは、
「主に向かって喜び歌おう」という自作曲です。
テキストは、旧約聖書 詩編95:1~7新共同訳です。
明るく、勢いがあり、喜びがあふれたメロディです。

詩篇95:1~7は、この曲を含めて7曲与えられています。
新共同訳が3曲、新改訳が1曲、カトリック訳が3曲です。
その中でも一番気に入っているのがこの曲です。
10年以上前に与えられたものです。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

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2010年9月28日 (火)

日本テレビ系・「魔女たちの22時 4時間スペシャル!魔女世界一決定戦!!」(9月28日放送)

我が家では普段、夜7時はNHKニュースを視聴するのですが、
最近、尖閣諸島のニュースが出るたびに違うチャンネルに変えます。
日本政府の対応のまずさ・弱腰さと中国政府の理不尽さ、傲慢さに憤りを覚え、
見るたびに不快になるからです。

そんな中、チャンネルを変えてたまたま視聴したのが、
「魔女たちの22時 4時間スペシャル!魔女世界一決定戦!!」という番組でした。
いつもは毎週火曜日夜10時から1時間放映されている番組の4時間スペシャル版でした。
(さすがに4時間は長すぎるので、最初から最後まできちんと視聴したわけではありません。)
この中で何人かの有名人(この番組では「魔女・魔王」)の驚くべきエピソードが紹介されていましたが、
中でも特に印象的だったのは、
体重100キロでもアメリカでモデルになった中山潤さん、
1歳で両足切断、両足義足ながら陸上100m走で世界記録を出した、
エイミー・ムリーンズさん、
そして、イランで孤児になり、日本でイジメと貧困に耐えながら女優になった、
サヘル・ローズさんです。

この手の番組だと、「体重○○㎏がダイエットで△△㎏へ劇的ダイエット!」
とかの人がよく出るようですが、
体重が100㎏であろうと、その人にはその人しかない魅力があるはずです。
中山潤さんは、「太っていたらミジメ」ではなく、
「太っていたっていいんだ!」と気づいたところがすばらしかったです。

エイミー・ムリーンズさんは、障害を障害と思わず、
挑戦し続けるところがすばらしかったです。
サヘル・ローズさんは、逆境にめげずに夢を実現したこと、
そして義理の母親の驚くべき愛情に感動しました。

見る人々に生きる力と夢をもたらす「魔法」をかける、
すばらしい「魔女」たちでした。

2010年9月27日 (月)

NHK・ETV特集「ハーバード白熱教室@東京大学 日本で正義の話をしよう」(9月26日放送)

9月26日放送のNHK・ETV特集は、
「ハーバード白熱教室@東京大学 日本で正義の話をしよう」と題して、
今話題のサンデル教授による東京大学での特別講義、全3時間余を、
1時間半に編集したものを放送していました。
かねてから期待していた通りの、知的興奮がありました。
参加者の多くが若い人たちでしたが、
「さすが東大!」とうならせるような発言が多かったのはよかったです。

全体的な印象としては、「講義」という名の即興コンサート、
音楽のないコンサート、という感じでした。
番組の中でもある参加者が「オーケストラの指揮者のようだった。」とコメントしていましたが、
私もそのような印象を受けました。
クラシックでたとえるなら、サンデル教授の「指揮」によって奏でられる、
東大+一般人「オーケストラ」による、
バルトークの「管弦楽のための協奏曲」、
あるいはJ・S・バッハの「ブランデンブルク協奏曲」といったところでしょうか。
各人の意見を引き出し、自在に主題を次々と展開していくところは見事でした。
哲学すること、議論を重ねることがこれほど面白いものか、と改めて思わされました。

日本では、ディベートの文化がないため、
ともすると議論は属人的となり、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎し」的な論法になりがちです。
議論によって全人格まで否定してしまう・・・
これでは、議論にならないでしょう。
ヨーロッパなどでは、会議でどれだけ激しく対立した議論をしても、
会議が終れば仲良し、というのはよくあることのようです。
議論と人格を分けるからです。
そういう文化を育まねば、テレビで見たような光景は、
とうてい望めないでしょう。

サンデル教授の講義は、2コマにわたりました。
最初は、「イチローの年俸は日本の教師の平均所得の400倍、
オバマ大統領の42倍。これは公正か?」という問いから始まり、
具体的な例をあげながら、多様な意見を巧みに引き出しつつ、
功利主義、カントやアリストテレスの考えを紹介していました。
議論そのものとしては、後半のものよりも、こちらの方が面白かったです。

2コマ目の授業は、家族への忠誠心や愛国心、
前の世代の過ち(戦争など)を今の世代が謝罪すべきか、
といった問題が提起されていました。
特に、日本人は謝罪好きですから、
たとえば東アジアの国々(特に中国と韓国)にどこまで謝り続ければいいのか、
いろいろと考えさせられました。
こちらの論議は、なんとなく神学論争的雰囲気が否めませんでした。
戦前は何でも悪、アジアで日本は悪いこと「ばかり」をしていた、という「信仰」と、
未来志向的な考え方では、水と油みたいでした。
(日本の歴史認識問題については、また別の機会に書いてみたいと思っています。)

サンデル教授にあてられて発言した人たちは、
どの人もそれなりに立派な意見と根拠(「なぜなら・・・」)を述べていたのには感心しました。
日本の教育においても、正答だけを問う教育から、
答えと根拠をきちんと述べるような教育
(フィンランド等では当たり前のことですが・・・)に転換する必要がありますね。

結局、サンデル教授の授業は、答えがありませんでしたが、
それでいいのでしょう。
自分にとって何が「真実か」、これは各人で問い続ける必要があるからです。
余韻を残して、「講義」というコンサートは幕を降ろしました・・・
「アンコール」がぜひ欲しいところですね。

主に結ばれて死ぬ人は幸いである(黙14:13)~ある人の死に寄せて

日曜日、帰宅すると、妻のYahoo!メッセンジャーあてに、
悲しい知らせが入っていました。
妻の友人の弟が、急逝したとの知らせでした。
後で聞くと、まだ30代の若さだったそうです。
その人には、私はまだお会いしたことはありませんが、妻は顔なじみでした。
妻の友人から私たちに、今年何度も「祈ってください」という要請がありました。
今年の5月ぐらいから、何度も死線をさまよい、ICUに出たり入ったり、という状況でした。
そういう中で、妻の友人は、信仰を求め、教会に通うようになりました。
亡くなった方も、つい最近、信仰を告白していたそうです。
洗礼を受けるまではいかなかったそうですが・・・
(病院を退院しようと準備していたところ、容態が急変したそうです。)
妻がその友人に電話をかけ、いろいろ話をしているときに、
その友人は、「神様が、信仰を告白するまで命を延ばしてくださったのかもしれない。」
と言ったそうです。
ある意味、そうでしょう。

病気の癒しのために祈る時、劇的に癒されることもあれば、
そうでない場合もあります。
だからといって、落胆してはいけないのです。
私たちの地上の命は永遠に比べるとほんのつかの間ですが、
主とともにある命は永遠なのですから・・・
たとえ癒されたからといって、この命は永遠ではありません。
それよりも、永遠の癒しともいうべき、救いを受け入れる方がもっと大切です。
わたしたちの一時の軽い艱難は、
比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。

(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ4:17新共同訳)

また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。
「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」
(聖)霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。
その行いが報われるからである。」

(新約聖書 ヨハネの黙示録14:13新共同訳)
主の名を呼び求める者はだれでも救われる
(新約聖書 ローマの信徒への手紙10:13新共同訳)

2010年9月26日 (日)

主の御名を呼ぶ者は皆、救われる(ヨエル3:4,5※2:31,32)【自作曲】

今回は、旧約聖書の預言書の一つ、ヨエル書からの曲を紹介します。
テキストは、旧約聖書ヨエル書3:4~5新共同訳です。
ロ短調の、少し暗い感じの曲です。

ところで、新共同訳、バルバロ訳などのカトリック系の聖書と、
口語訳、新改訳などのプロテスタントのみによる訳とでは、
ヨエル書の章数が違います。
プロテスタントのみによる訳は3章、カトリック系は4章あります。
プロテスタントのみによる訳で、ヨエル書2:28~32となっているところは、
新共同訳とカトリック系の聖書では存在せず、
3章として独立しています。
新共同訳やバルバロ訳などでの4章は、プロテスタント訳での3章です。
(調べてみると、写本の系統によって分割する章数が違うそうです。)
よって、新共同訳以外の主な聖書(口語訳や新改訳など)をお使いの方なら、
ヨエル書2:31~32となります。

本題に戻ります。
この聖書の箇所は、聖霊降臨を預言したところとして有名です。
使徒言行録2章でも引用されています。
主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。
(旧約聖書 ヨエル書3:5新共同訳)は、
使徒パウロがローマ10:13で、
すべての人が救われる根拠として引用しています。

本当に、すべての人は救われるのでしょうか?
神学的に、難しいところですね。
たとえで考えてみましょう。
日本国内でテレビを持っている人は皆、NHKテレビを視聴することができますが、
皆がNHK受信料を払っているわけではないですね。
(ちなみに、我が家はきちんと払っていますよ。)
あるいは、年金をもらう権利を有していても、もらっていない人がいるかもしれません。
現況届という、今生きていますよ、という事を証明する書類を出して、
年金が支給されます(最近では、制度が変わっているようですが・・・)。
それらのように、キリストはすべての人を「権利上」救っておられますが、
すべての人が、「事実上」救いを受け取っているわけではありません。
救いは、自己申告制なのです。
日本の神社のように、その地域に住んでいる人なら誰でも氏子=信者とみなす、
そういうものではないのです。
洗礼を受けたから自動的に救われる(予防接種みたいに・・・)というのも違います。
意識的に、救いを受け取り、意識的に、救いの道を歩み続ける事・・・
「救われた!」というのは過去の一時点であり、
同時に、現在進行しつつあることなのです。
(臨終間際に洗礼を受けるなど、例外が多々ありますが・・・)

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2010年9月25日 (土)

賛美のいけにえ(ヘブライ13:15)【自作曲】

今回も「賛美」に関する御言葉への作曲を紹介します。
テキストは、新約聖書 ヘブライ人への手紙13:15新共同訳です。
だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、
絶えず神に献げましょう。

旧約時代の神への「いけにえ」は、各種の動物や小麦等でした。
イエス様は、ご自身を完全ないけにえとして献げられました。
この方(=イエス様)は、ほかの大祭司たちのように、
まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。
というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。

(新約聖書 ヘブライ人への手紙7:27新共同訳)
そして、私たちは・・・
イエス様を通して、「賛美のいけにえ」を献げるのです。
究極には、自分の生活を通して、神の栄光を現わすことが、
神様への最高のいけにえですね。
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。
自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。
これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

(新約聖書 ローマの信徒への手紙12:1新共同訳)
それよりもはるかに易しい第一歩は、口を通して賛美をささげることです。
恋人(や配偶者)をほめるのが心の悦びであるように、
神様をたたえ、感謝を献げるのはすばらしいことです。
そしてそれは、大きな力になります(ネヘミヤ8:10)。

メロディは、なんとなく「鉄腕アトム」の主題歌に似ている感じがあります。
弾むように、楽しく口ずさんでみましょう。

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2010年9月24日 (金)

主を喜ぶことはあなたがたの力である(ネヘミヤ8:10)【自作曲】

主を喜ぶことは、あなたがたの力であるから。
(旧約聖書 ネヘミヤ記8:10新改訳の別訳)

今回は、この御言葉への作曲を紹介します。
主を喜ぶことは、本当に力になりますよ!
また、人間の生きる意味でもあります。
主を賛美するために民は創造された。
(旧約聖書 詩編102:19新共同訳)

新改訳本文では、
あなたがたの力を主を喜ばれるからだ。」(ネヘミヤ記8:10)となっています。
新共同訳では、
主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(同上)です。
私としては、冒頭に掲げた別訳の方が一番すばらしいと思っています。

だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、
絶えず神に献げましょう。

(新約聖書 ヘブライ人への手紙13:15新共同訳)

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2010年9月23日 (木)

DVD「アポカリプス~黙示録~」

この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。
時が迫っているからである。

(新約聖書 ヨハネの黙示録22:10新共同訳)

先日、妻と一緒にレンタルビデオ店へ行くと、
「アポカリプス~黙示録~」というレンタルDVDがありました。
「アポカリプス」とは、ギリシア語で「黙示」という意味で、
普通はこれだけで「ヨハネの黙示録」を指します。

この種の作品は、キリスト教書店で購入しないと見ることができないものですが、
珍しくも、フツーのレンタルビデオ店にあったのです。
(キリスト教書店という狭いところを相手にせず、広く一般を相手に、
こういう作品を提供してほしいものです。)

「アポカリプス~黙示録~」は、
イタリアのRAI(イタリアの国営放送。日本でいえばNHK)が制作した、
おそらくテレビドラマでしょう。

映画「2012」のような天変地異満載の刺激に満ちた映像を期待するなら、
がっかりすると思います。
陰謀論のたぐいが好きな人にとってもそうでしょう。
(私はそれらは嫌いですが・・・)
しかし、きちんと聖書、特にヨハネ黙示録を読み解きたいと願う人にとっては、
大いに参考になると思います。

この作品について触れる前に・・・
ところで、教会の伝承によれば、
「ヨハネによる福音書」、「ヨハネの手紙Ⅰ」、「ヨハネの手紙Ⅱ」、「ヨハネの手紙Ⅲ」
そして「ヨハネの黙示録」の5つの文書は、使徒ヨハネが書いたとされています。
しかし、今日では、使徒ヨハネが「ヨハネによる福音書」と「ヨハネの手紙Ⅰ」を、
長老ヨハネ(使徒ヨハネとは別人で、詳細は不明)が、「ヨハネの手紙Ⅱ・Ⅲ」を、
さらに別人のヨハネが、「ヨハネの黙示録」を書いた、という説をとるのが基本のようです。
私は「ヨハネによる福音書」と「ヨハネの手紙Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」を書いたヨハネと、
「ヨハネの黙示録」のヨハネは別なのでは、と考えています。
「互いに愛し合いなさい」が基調の文書と、
終わりの日の恐ろしい裁きを描いた文書では、あきらかに違うと思うからです。
(事実はどうかはわかりませんが・・・)

しかし、このドラマにおいては、教会の伝承のとおり、
それらすべてを書いたのは使徒ヨハネとなっています。
また、イタリアらしく、
カトリックに配慮した内容(ヨハネ19章と黙示録12章での聖母への言及)があります。
※ただし、黙示録12章の「女」は、聖書どおり(教会の象徴)にもとることができますし、
聖母マリアととることも可能な、両義的な映像表現となっていました。

パトモス島に流され、苦役についている使徒ヨハネ(島では偽名を使っている)の生き方と、
聖書には書かれていないサブストーリーをからみあわせ、
その中でヨハネ黙示録1章、4~8章、12章、19章、
21~22章についてできるかぎり映像化しています。
特に、7つの封印のところ(黙示録5~8章)は、CGを駆使して、
幻想的な光景を、現代(20、21世紀)の映像(飢餓に苦しむ子らなど)を交えて
見事に映像化しています。
(もちろん、ハリウッド超大作には及ばないですが・・・)
黙示録の内容を単にローマ帝国の崩壊で済まさず(リベラル派的解釈)、
現代にまで視点を拡げているのは評価できます。

また、キリストをあえて直接描いていないところや、
愛の使徒と呼ばれた使徒ヨハネの人柄を
さりげなく描いているところなどはすばらしいです。
今の日本なら、「イエスは主である」ということは別に命に危害が及ぶことがありませんが、
ヨハネ黙示録が書かれた頃は、狂気の皇帝によるキリスト者への徹底的な迫害があり、
そういう背景で、信仰を言い表すことの覚悟、というのも見る側に問うています。
苦しみの中での確かな希望とは何か、を考えるきっかけになるかもしれません。
ぜひ、レンタルビデオ店で探してみてください。

余談ですが、レンタルビデオ店で借りることのできる信仰的におすすめな作品としては、
「ローマ帝国に挑んだ男―パウロ―」があります。
こちらは、まあまあおすすめです。
(聖書の内容と違うところが結構ありますが・・・)

2010年9月22日 (水)

十五夜によせて~日本のお月見ケーキと香港の月餅

今日は十五夜。

お月見といえば、昔は月見だんごとすすき。
今は・・・
デパート地下の食糧品売り場で、
モロゾフの「お月見ケーキ」なるものをみつけました。
かわいいので思わず買ってしまいました。

下の写真は、その「お月見ケーキ」と、
妻の親戚からいただいた香港の月餅(奇華至尊月餅)を仲良く並べて写真に撮りました。
最近、日中関係がギクシャクしていますね。
十五夜にあたって、平和を祈ります。
おいしさには国境はない!

(9/22 23:50追記)
今日は無理かな、と思っていたら、月が顔を出していました。
北海道の中秋の名月を撮った写真を1枚追加します。


Otsukimi_cake_and_mooncake_no01_2


Otsukimi_cake_and_mooncake_no02_2


20100922_moon

2010年9月21日 (火)

「正義」はコワイ~ネットデマの恐怖

今朝新聞を読むと、こんな記事がありました。
(私が読んだのは読売新聞ですが、
北海道新聞のWEBで載っていましたので紹介します。)
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/252140.html
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/250823.html
記事の要旨は、
8月に札幌で発生した連続女性暴行事件の容疑者(不動産会社社員)と同姓だが、
まったくの血縁関係がない不動産会社社長が、
「容疑者の実家だ」と掲示板などでデマを流され、
しまいにはわけのわからない人から会社に電話が来たりするなど、
風評被害にあった、というものです。
風評被害打消しの取組も紹介されていました。

つくづく、「正義」というのは、コワイな~と感じました。
根拠がないのに、一方的な思い込みで、相手を断罪する、
安っぽくて幼稚で狂信的な正義感・・・

通行人が自分に関係のない争いに興奮するのは 犬の耳をつかむようなものだ。
(旧約聖書 箴言26:17新共同訳)
陰口は食べ物のように呑み込まれ 腹の隅々に下って行く。
(旧約聖書 箴言26:22新共同訳)
イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。(中略)
そこを通りかかった人々は、頭を振りながら(軽蔑を表す動作)イエスをののしって言った。
『おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、
十字架から降りて自分を救ってみろ。』

(新約聖書 マルコによる福音書15:25、29、30新共同訳)

しばしば、「通りかかった人々」、「通行人」が、手ひどい言葉を浴びせてくるものです。
Yahoo!のニュースへのコメントとかでも、胸が悪くなるようなものが多々あります。
まして、2chなんて、吐き気がしそうなぐらいです。
人間って、これほどまでに悪意に満ちているのか・・・
と思わざろうえなくなるほど・・・

何年か前、「手紙」という映画を観ました。
山田孝之さん、沢尻エリカさん主演の作品です。
犯罪者を兄に持つその弟の苦悩を描いていました。
本人が罪を犯したわけでないのに、その身内だからというだけで、
犯罪者と同様の扱いを受ける・・・
観ていて強く印象に残りました。
目には目、歯には歯」(出エジプト記21:24新共同訳)の旧約聖書でさえ、
罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、
父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、
悪人の悪もその人だけのものである。

(旧約聖書 エゼキエル書18:20新共同訳)と書いてあります。
そういう時代から何千年も経ったのに、
いまだに旧約以前の段階にとどまる必要がありましょうか。

イエス様が「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
(新約聖書 マタイによる福音書7:1新共同訳)とおっしゃったのは、
私たちの精神的健康も考慮されていたのではないでしょうか。
余計な正義感で心を興奮させるよりも、
まず自分の足元をみるべきでしょう。

手紙

2010年9月20日 (月)

あなたの業を主にゆだねれば(箴言16:3)【自作曲】※2曲

あなたの業を主にゆだねれば 計らうことは固く立つ。
(旧約聖書 箴言16:3新共同訳)
人間の心は自分の道を計画する。 主が一歩一歩を備えてくださる。
(箴言16:9新共同訳)

今回は、箴言への作曲を2曲紹介します。
1曲目のテキストは、上記2個所からです。
2曲目は、箴言16:3のみです。
ともに5~10年以上前の作品です。

「主にゆだねる」とは、どういうことでしょうか。
よくある誤解は、「主にゆだねた」のだから、何もしなくていい、
果報は寝て待て、のように、人間の側は何もしなくていい、という考えです。

旧約聖書の士師記7章を読むと、ギデオンの勝利は、
神様100%であり、人100%であった、と解釈できます。
神様が勝利を与えてくださった、これが神様の側からの見方です。
しかし、ギデオンは実際にたったの300人で大軍に立ち向かう必要がありました。
人間の側としては、ギデオンが雄雄しく戦ったので、勝利を得た、という見方になります。
信仰によって勝利を受け取っても、実際にそこに立つ必要があるのです。
神様の愛は、人間を過保護にはしないようです。

モーセの出エジプトの奇蹟もそうですね。
モーセは疑わず、手を海に差し伸べる、という信仰の行為によって、
奇蹟が現されました。
棚からボタ餅式の考えではないのです。

神様が自分の業を祝福してくださる
(当然、その業は、神様の御心にかなうものである必要がありますが・・・)
そう信じて、結果は神様が最善にしてくださるのだ、という安心感をもって事を行う。
それが「主にゆだねる」ということです。

神様がわたしの味方であれば、恐れることはないのです!

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2010年9月19日 (日)

NHK・「ギフト~E名言の世界~スペシャルセレクション」(9月19日放送)

NHKの「ギフト~E名言の世界~」は教養あふれるすばらしい番組です。
毎回必ず視聴しているわけではありませんが、
できるだけ視聴するようにしています。

9月19日放送の「ギフト E名言の世界 スペシャルセレクション」は、
過去半年間の放送のダイジェスト版のような内容でした。
どれも味わい深い、珠玉の名言がたくさん出てきました。
今回特に印象深かったのは、ヘレン・ケラーの言葉でした。
Believe, when you are most unhappy, that there is something for you to do in the world. So long as you can sweeten another's pain, life is not in vain.
不幸のどん底にいるときこそ、信じてほしい。世の中にはあなたにできることがある、ということを。他人の苦痛を和らげることができるならば、人生は無駄ではないのです。
(確かこの回、視聴していたはずですが・・・)
聖書で言えば、
わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。
また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、
あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。

(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ1:6新共同訳)でしょうか・・・
実際、自分の苦しみの経験を分かち合うことが、
ある人にとっての慰めになるのを見るのは、
信仰体験の中でもすばらしいものの一つですよ。

「ギフト~E名言の世界~」は、
単なる語学番組としてはもったいないぐらいの存在なので、
これからも継続してほしい番組の一つです。
また、2、3ヶ月に1回程度、
このような形でダイジェスト版で放送してもらえるとうれしいものです。

ソロモンの知恵~本当の「知恵」とは何か?(教会学校説教案)

教会学校において、列王記上3、10章からの、
「ソロモンの知恵」という話をしました。

例のごとく、『聖書のおはなし』という本を使って、
その部分の話をし、その後、説教をしました。
その話の要点を書きます。

このお話では、列王記上に出てくるソロモンの繁栄についてまずふれています。
その頂点は、列王記上10章のシェバの女王の来訪です。
(このところは、読んだだけで、あとは一切ふれませんでした。)

次に、列王記上3章にある、ふたりの女による子をめぐる争いと、
ソロモンの知恵(大岡裁きならぬソロモン裁き)のところを話しました。
物語の途中で、あえて物語を読むのを止めて、
二人の女の争いをちょっと「実演」してみたり、
子供達に結末を予想させてみました。
聖書に書いてあるとおりの予想をしてくれて、一安心でした。
(ついでに、「大岡越前」の話も少しふれました。)

それから、「主を畏れることは知恵の初め。
(旧約聖書 箴言1:7新共同訳)という御言葉を用いて、
「知恵」について、一緒に考えてみました。
・「知識」と「知恵」の違いとは?
・「恐れる」と「恐れる」の違いとは?
この2点は、言葉の説明でした。
また、「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う。
(旧約聖書 詩篇14:1口語訳)の御言葉も使い、
どれほど頭がいいと言われている人であっても、
「神なんかいない」というのは、聖書の基準では「愚かな者」である、と教えました。
(最近、有名なホーキング博士が「神がなくても宇宙は自然に発生する」旨の発言をしていましたね。
テレビの部品を全部用意しておいて、5億年ぐらい経ったら、
「自然に、偶然に」テレビができるでしょうか?
「宇宙は『偶然に』できた」というのは、これよりももっともっとはるかに愚かな説です。
聖書に立つキリスト者は、進化論的考えと妥協してはいけないのです。)

本当の「知恵」とは何でしょうか?
私が考える「知恵」とは、人を生かすことができるもの、
愛があるもの、と考えます。
単に「頭がいい」だけでは、「知恵がある」とはいえません。
(「頭がいい」けど、汚職や痴漢などで捕まってしまった人はいっぱいいますね。)
知恵」を得る「初め」は、
主を畏れる」ことです。
主を畏れる」とは、「恐ろしい」と思う、というのも入りますが、
主を尊敬し、愛し、従うことです。
ちょうど、健全な過程において、子どもが父親を恐ろしいと思いつつも、愛するように・・・
(「サザエさん」のカツオと波平のような関係?)
これがまことの「知恵」を得る第一歩です。

最後に、「主を畏れることは知恵の初め。」を暗唱させました。
記憶力がいい子はすぐに暗唱できるようになりました。

話は代わりますが、
今回の教会学校では、小礼拝(聖書のお話と祈り、讃美)の後、
何人かに「十戒」の暗唱チェックをしました。
きちんと暗唱の練習をしてきてくれたのがうれしかったです。

聖書のおはなし

NHK・名作ホスピタル~ココロとカラダに効くアニメ(9月18日放送)

9月18日の新聞朝刊・テレビ番組表の記事を読んでいると、
NHK教育の欄で、夜11時から、
「名作ホスピタル心と体にアニメ ストレス対ガンダム」
という番組が記載されていました。なんのこっちゃ・・・
どうして「ストレス対ガンダム」なのか、興味を持って、
実際に視聴してみました。

番組では、心のストレスによる病気と、精神科にかかることについて、
アニメ(今回はガンダム)を処方箋に使うという架空の病院を舞台にしたドラマと、
芸能人のトーク、そして医療情報をあわせて30分でまとめていました。
ガンダム(ファースト)では、中間管理職の悲哀をもつブライト艦長に焦点をあて、
上からの理不尽な命令と下から(アムロら)の突き上げに苦しみ、
精神的にも肉体的にも消耗してしまう姿と、
相談者の苦悩を重ねあわせてみる、という視点を与えていました。
2度もぶった! 親父にもぶたれたことないのに!」(アムロの名セリフ)
出た~、という感じでした。

アニメのサブキャラを取り上げ、精神的なストレスを語る、というのを、
テレビで放送したというのは斬新だったと思います。
ただ、芸能人のトークがメインなのか、ドラマ+アニメがメインなのか、
医療情報がメインなのか、今ひとつわかりにくい気がしました。
NHKで放送中の「名曲探偵アマデウス」みたいな構造の方がいいのではと思いました。
あと、ドラマはアニメの「空中ブランコ」のパクリみたいな雰囲気がありました。
徹底的にパロディにするか、もっと違う形にするか、工夫が必要かも・・・

この番組は、NHKが新たな番組の試作品として作っている
「番組たまご」の一つです。
うまくいけばシリーズ化するのでしょう。
構成をもっと整理した上で、1クール放送してみてほしいかな、と思いました。

2010年9月18日 (土)

テレビ東京系・土曜スペシャル「今年の秋は人気の名山に登ろう!!」(2010年9月18日放送)

2010年9月18日のテレビ東京系・土曜スペシャルでは、
今年の秋は人気の名山に登ろう!!」と題して、
東京都・神奈川県の高尾山~陣馬山、長野県の天狗山、
長野県・富山県の白馬岳、秋田県・岩手県の秋田駒ケ岳の登山が特集されていました。
どれも、1泊2日の行程で、手軽なものからアイゼンを使うような本格的なものまで、
登山の楽しみを紹介していました。

昨年(2009年)、妻と一緒に高尾山に登ったので、懐かしく見ていました。
高尾山から、幻のような形でうっすらと、富士山を望めました。
いつか高尾山にもう一度行く機会があれば、
ぜひ今度こそ高尾山から富士山を眺めてみたいものです。
私たち夫婦は高尾山口駅(清滝駅)から
ケーブルカーで高尾山駅まで行き、
そこから山頂目指して歩きました。
余談ですが、本州に住んでいる妻の友人夫婦は、
なんとケーブルカーを使わずに、数時間もかけて山頂まで行ったそうです。
すごい・・・

その他の山では、白馬岳の光景がすばらしかったです。
元マラソン選手や元自衛隊の方だから、
初挑戦(?)でもきつそうな山に登ることができたと思いますが、
なんとなく、安易に登れるような印象を与えていたようにも思えたのが、
少し気になりました。
妻はテレビに映る白馬岳の景色を絶賛していました。
機会と体力があれば行ってみたいものです。

2010年9月17日 (金)

読売新聞北海道版の記事から~「新卒」重視は本末転倒(9月16日朝刊)

9月16日の読売新聞北海道版で、興味深い記事がありました。
『「風向計」~「新卒」重視は本末転倒』というものです。
記事を書いたのは、帯広の坂本ビル社長・坂本和昭氏です。
検索してみると、ご本人がブログに記事をそのまま載せていました。
http://202.212.67.251/cgi-def/admin/C-010/Blog/tdiary/index.rb?date=20100916

記事の要旨は、日本企業が「新卒」という肩書きを重視するが故に、
「就職留年」が増えていることは、社会にとっても本人にとっても不幸である。
大学での就職支援のあり方についての疑問などです。

日本の大学の問題は、4年制大学にもかかわらず、
実際には、2年勉強して、あとは就職活動がメインということではないでしょうか。
日本に来る留学生にとって、理解できない状況のようですね。
これは、大学だけの問題ではなく、日本社会の構造的なものによるものでしょう。
大学がハローワークや職業訓練校状態になっているのが現実です。

職業にとって有益なら、大学に行くより職業訓練を充実させるとか、
大学というものの価値をもっと高める努力が必要なのでは、と思います。
役に立つか、立たないかといった功利主義よりも、
学問を純粋に究める4年間があってもいいのではないでしょうか。
文学や哲学などは、確かに就職にはあまり役に立たないでしょう。
しかし、心を豊かにするものです。

即戦力を求めるあまり、結局、一部の人だけが就職のパイを分け合い、
その他大多数が失業、というのは、結果的に、社会を弱くし、不安化させます。
企業においても、人を育てるという姿勢をもっと持ってもらいたいものです。

2010年9月16日 (木)

NHK「名曲探偵アマデウス」・ウェーバー「魔弾の射手 序曲」

今回の「名曲探偵」は、ウェーバーの「魔弾の射手 序曲」でした。
冒頭、4本のホルンで奏でられるメロディの部分は、
神秘的な森の雰囲気を表わすそうです。

ところで、冒頭のこのメロディ、実は讃美歌として使われています。
有名な讃美歌のひとつである、
主よ、み手もて」(讃美歌・285、讃美歌21・504、新聖歌384)です。
神様への信頼を歌っている、大変親しまれている讃美歌ですね。
その1番の歌詞だけ引用しましょう。

主よ、み手もて ひかせたまえ、
ただわが主の 道をあゆまん
いかに暗く けわしくとも、
みむねならば われいとわじ

神聖な森の雰囲気のメロディのすぐ後に、
悪の力のモチーフが出てきます。
それにしても、
シベリウスの「フィンランディア」から
やすかれ、わがこころよ」(讃美歌・298、讃美歌21・532)を作ったり、
この序曲の冒頭部分から「主よ、み手もて」を作った讃美歌作者たちのセンスは絶妙ですね。
闇のテーマのすぐ手前を使うとは・・・

この曲は最後には、愛の力が悪の力を打ち破る大団円を示唆しています。
いつもながら、楽しく見ることができました。
毎回恒例のオチもよかったです。
私にとっては見逃せない番組のひとつです。

2010年9月15日 (水)

「僅かな愚行」が世界を燃やす~宗教的不寛容

死んだ蝿は香料作りの香油を腐らせ、臭くする。
僅かな愚行は知恵や名誉より高くつく

(旧約聖書 コヘレトの言葉10:1新共同訳)

アメリカでのコーラン焼却という「僅かな愚行」は、
インドなど世界各地で死者を出すまでになってしまいました。
まさに、聖書の言葉どおり、「高くつく」ものになりました。
キリスト教の「知恵や名誉」を自ら踏みにじるような行為です。
コーランを焼却ついでに、世界全体をも燃やそうとでも考えているのでしょうか?
イスラム教が多い国でのキリスト教伝道にとって障害となり、
また、アメリカにおいても、イスラム教との間に憎悪を生み出しています。
もし反対に、イスラム教の国で聖書が燃やされるような事になったら、
どんな気分でしょうか。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、
愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。

(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ13:1新共同訳)
異言」は信仰の言葉、と解せば、たとえどんなに信仰的であっても、
愛がなければ」騒音にすぎません。
人々に平和の福音の代わりに、不快さと争いをもたらします。

このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、
彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。

(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ8:12)
この御言葉は、宗教的寛容について語ったものではありませんが、
あえて、寛容の根拠にしたいものです。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
(新約聖書 マタイによる福音書5:9新共同訳)
人々が憎悪や恐怖心に圧倒されている時だからこそ、
平和を実現する人々」となりたいものです。

2010年9月14日 (火)

はじめての生ジャズ~小野塚晃『Rera』発売記念ライブin 札幌

本格的なジャズの生演奏をはじめて聴きました。

私はクラシックが専門なので、ジャズは興味がなく、
喫茶店でBGMとして流れているのをなんとなく聴く程度でした。

ある人から、ライブのチケットをいただきました。
「小野塚晃『Rera』発売記念ライブ」
コンサートの日付は、ナントもらった当日!
チケットの値段は\4,500・・・結構高い・・・
もったいないので、急遽妻を誘って、一緒にライブへ行きました。
私は「小野塚晃」という名前はその日初めて知りました。

小野塚晃氏について検索してみると、wikiに項目があるぐらい有名な人だと知りました。
どんな曲を演奏するのだろう・・・
期待と不安の中、ライブが始まりました。
会場は、札幌市にたくさんの店舗を持つ宮越屋珈琲の
「ホールステアーズカフェ エスプレッソバーギグ」(すすきの)。
狭い会場の中、たくさんの人が来ていました。

アップライトピアノとベースとドラムで、なかなか心地よい時間が流れていきました。
北海道の大自然からインスピレーションを得たものが多いそうです。
欲をいえば、会場が狭すぎるので、ドラムが響きすぎたぐらいでしょうか。
妻もおおむね満足していました。
喫茶店でCDが流れていたら、ちょうどよいBGMになると思いました。
ちなみに、「Rera」とは、アイヌ語で「風」とのこと。
千歳アウトレットモール・レラやバスケットボールのレラカムイ北海道でも
「Rera」を使っていますね。
下は「Rera」のCDです。

 【送料無料】 CD/小野塚晃/RERA/ZACL-9045

2010年9月13日 (月)

聖書は胎児をどう描いているか~小さないのちを守る会・ニュースレター「ぷろらいふ」№55から

最近、昼のドラマで「天使の代理人」というのが放映されているそうですね。
妊娠中絶を思いとどまるよう説得するグループ
「天使の代理人」(フィクションですが・・・)の話、とのことです。
昼のドラマといえば、愛憎ドロドロの作品ばかりみたいですね。
たぶん、私は見る機会がないと思いますが、
安易な中絶を考えるきっかけになればいいな、と考えます。

ところで、聖書では、人間の命はどの時点からと考えているでしょうか。
代表例は、詩篇139:13、16ですね。
あなた(=神様)は、わたしの内臓を造り 母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。
わたしの日々はあなたの書にすべて記されている まだその一日も造られないうちから。

(旧約聖書 詩編139:13、16新共同訳)
受精の段階から、既に「命=人」とみなす、と解釈すべきでしょう。
(カトリックや福音派などでは、ここは聖書的立場に立っています。)
日本では、妊娠21週目までは「命=人」とみなされず、中絶可能です。
しかし、聖書の基準からすると、立派な殺人です。
安易な性交渉と安易な中絶・・・
日本における自殺と中絶の多さは、命の軽視の表われです。

先日、「小さないのちを守る会」のニュースレター№55が家に届きました。
「話してみませんか?『聖書は胎児をどう描いているか』を」という記事が心に残りました。
短いながらも、すばらしいものですので、ぜひ広く伝えたいと思い、
今回その部分をPDF化しましたので、御覧ください。
「20100913_chiisana.pdf」をダウンロード
「小さないのちを守る会」は、現実の「天使の代理人」のようなものですね。

なお、「天使の代理人」は原作があります。

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2010年9月12日 (日)

9・11に宗教的寛容を考える

忌まわしい9・11テロから早9年。
人々に平和をもたらすはずの宗教が、かえって憎しみを拡げてしまった、
悲しむべき事件でした。

テレビであの事件の報道を初めて見たときは、
映画でも観ているのかと錯覚しました。
まったく信じられない・・・
私がリアルタイムでテレビ報道を見た中では、
阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件と並ぶ衝撃的な映像の一つです。

今、そのアメリカでは、9・11テロに関して2つのニュースが話題になっています。
1つは、ニューヨークのグラウンド・ゼロ(世界貿易センター跡)の近くに、
イスラム教のモスクが建設予定となっていることに反対運動が起きていること、
もう1つは、フロリダ州の牧師が、コーランを焼却する、と騒いでいたことです。
どちらも、宗教的不寛容を現すようなものです。
イスラム教への嫌悪感・恐怖感・憎しみが、目に見える形で現われたものですね。
自由の国アメリカらしからならぬものです。
コーラン焼却については、他国で死者まで出ているそうです。
メディアを使った悪質な宣伝といえましょう。

聖書(特に旧約)を単純に読むと、偶像礼拝と他宗教に屈することは「悪」で、
他の宗教の神殿を破壊したりすることは最大の善のようにさえ思えます。
それが、狂信や中世の異端審問につながっているのでしょう。
「コーランか剣か」といえば、イスラム教の専売特許のように言われますが、
それ以上にひどいことをやってきたのは、残念ながらキリスト教の側でした・・・

カトリックは第2ヴァチカン公会議後、かなり宗教的寛容さを持つようになりましたが、
つい50年前までは、偏狭なものでした。
(他宗教には寛容ですが、プロテスタントに対しては今も不寛容な場合が多いです。)
プロテスタントは、リベラル派のところを除けば、概して偏狭です。
イエス様から見れば、地上の教会の分裂は、どれほど心が痛むことでしょうか・・・

上の2つのニュースに関して、興味深いブログ記事がありますので紹介します。
1つは、水谷潔牧師のブログ「命と性の日記~日々是命、日々是性」の9月10日の記事です。
コーラン焼却が中止に。これが、日本なら教会はどうする?
http://blog.chiisana.org/?day=20100910
もう1つは、生長の家総裁・谷口雅宣氏のブログ「小閑雑感」9月10日の記事、
アメリカの2つの出来事」です。(「小閑雑感」で検索してみてください。)
どちらも妥当な見解です。

聖書、特に新約聖書から、宗教的寛容について御言葉の根拠を引き出せないものでしょうか。
いくつかありますが、3つだけ引用しましょう。いずれも新共同訳からです。
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)
人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。
憐れみは裁きに打ち勝つのです。
」(ヤコブ2:13)
悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。
祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
」(Ⅰペトロ3:9)

聖書は使いようによっては、人種差別の根拠とさえなりうるものです。
より多くの人が幸福になることを求め、進んで真の平和をつくり出す信仰こそ、ホンモノです。
自分と同じ宗教の色にすべての人を染め、塗りつぶしてしまおうとするのはニセモノです。

伝道はすべきですが、政治勢力と結びついたものは、かえって信仰を堕落させてしまいますね。
寛容さはこれからの信仰にぜひとも必要な徳といえましょう。

2010年9月11日 (土)

NHK・増刊「きょうの世界」 いま“正義”を考える ~「白熱教室」サンデル教授に迫る~(9月11日放送)

9月11日に、NHKBS1で、
増刊「きょうの世界」 いま“正義”を考える~「白熱教室」サンデル教授に迫る~」
という番組が放送されていました。
サンデル教授にNHKのアナウンサーがインタビューしたものです。

サンデル教授は、哲学にありがちな「個人の自由と幸福の追求」にとどまらず、
道徳や正義を強調して、大多数の人の幸福と個人の自由を両立させる、
という考えに立つようですね。
日本において今欠けつつある、「公共心」の復活を考えるきっかけになればいいですね。
ハーバード白熱教室」の内容を30分にギュッと凝縮したような内容でした。
そのうち、8月の東大での講義がNHKで放送されますから楽しみです。

ところで、サンデル教授の授業は、「ハーバードだから」特別なものなのでしょうか。
どうやら、そうでないみたいです。
ニューズウィーク日本版のHP中で連載されている、
冷泉彰彦氏のブログ「プリンストン発 新潮流アメリカ」の9月6日の記事によると、
アメリカでは一般的なもののようです。
日本流の教育(小学校から大学まで)が、知識の伝達を一方通行的にしているから、
ソクラテス流教育が、魅力的で斬新なもののように見えてしまうのでしょうね。
日本の教授方法が問われています。
(冷泉彰彦氏の記事は、以下で御覧ください。)
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2010/09/post-193.php

サンデル教授の本は、まだ読んでいませんが(立ち読みはしていますが・・・)、
哲学書としては異例の売れ行きみたいですね。
哲学ブームが一過性のものではなく、ホンモノになることを願っています。
単に理屈をこねるために哲学するだけでなく、
自分も他の人をも幸せにするものこそ、真の哲学といえましょう。

2010年9月10日 (金)

結婚の本質~結婚式の讃美歌からの考察(主は教会の基となり/いのちとひかりたもう神よ)※midi付

日本キリスト教団の「讃美歌」には、
結婚式用の讃美歌が3曲掲載されています。
428「またきあいたまうかみよ」、429「あいのみかみよ」、430「いもせをちぎる」です。
全567曲中の3曲ですから、割合としては約0.5%です。
「讃美歌第二編」では、わかりにくいですが、何曲か掲載されています。
ただし、使用されることはきわめて稀だと思われます。
「讃美歌21」では、4曲掲載されています。
「讃美歌」の428、429の言葉遣いを現代的にした、
101「いのちとひかりたもう神よ」(今回紹介します)、
102「全き愛与える主よ」、
それと、103「主よ、いま二人は」(「讃美歌」13のメロディを使用)、
現代の讃美歌である104「愛する二人に」(歌詞とメロディがステキな曲です。)
ただし、103、104はあまり使われないのではないでしょうか。
割合としては、約0.7%です。
改めて考えてみると、意外に少ないものですね。
(ただし、讃美歌312「いつくしみふかき」も使う場合が多いようです。)

これらの讃美歌のうち、同じメロディで結婚式にも一般讃美歌として使われるのは、
讃美歌21・101(讃美歌429)の「いのちとひかりたもう神よ」(愛のみかみよ)だけですね。
讃美歌21・390の「主は教会の基となり」(讃美歌191「いともとうとき」)は有名な讃美歌です。

結婚式の時によく朗読される、エフェソの信徒への手紙5:21~33を、
エマオ出版訳で引用します。
下線部は、この訳独特の特長あるいいところだと私が思った箇所です。

キリストを恐れ敬う心をもって、お互いに服従しなさい。妻たちよ。主に従うように、自分の夫に対しても(服従しなさい)。それは、実にキリストが教会のかしらであられ、またそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらだからです。教会がキリストに服従しているように、妻も全てのことで、夫に服従すべきです。夫たちよ。自分の妻を愛し続けなさい。実にキリストが教会を愛され、そして教会のためにご自身を捨てられたごとくにです。キリストがそのようにされたのは、ことばによる水の洗いによって教会をきよめて聖くするためであり、そして、しみや、しわや、それに類するものを何一つ持たないばかりか、聖く傷のない栄光の教会を、ご自身で、ご自身の前に立たせるためであったのです。夫たちは、このように自分の妻を自分自身のからだとして、愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。未だかつて自分のからだを憎んだものはいません。かえってそれを養い、大事に育てます。そのようにキリストも教会に対して同じようにしておられます。なぜならば、私たちがキリストのからだの構成部分であるからです。このために人はその父と母を離れ、その妻と結び合わされなさい。そしてその二人は一心同体となりなさい。この奥義は偉大です。実に私はキリストと教会について語っています。いずれにしてもあなたがた各人は、自分自身の妻を自分自身として愛しなさい。そして妻も夫を敬うようになりなさい。

参考までに、口語訳の同じ箇所も掲載しておきます。
(口語訳)
妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、 また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。 それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。 自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。 「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。 この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。

地上の結婚の本質は、天上におけるキリストと神の民との愛にあるのです。
聖書と信仰という二つの視点で物事を見ると、3Dメガネで見るように、
現実が立体的で生き生きと喜びに満ちたものになります。

それにしても、聖書のこの箇所は、何度読んでも、すばらしさを覚えます。
夫は妻に対する愛を、妻は夫への尊敬を求められています。
折りあるごとに読み返す必要がありますね。

エマオ出版訳では「服従」と訳されているところは、
新共同訳では「仕える」と訳されています。
エマオ出版訳では、夫は妻を「愛しなさい」(一般的な訳)ではなく、
愛し続けなさい」となっています。継続を表していますね。
「釣った魚にエサをやらない」ではいけないのデス。
あと、「妻もまた夫を敬うようになりなさい。」というのも面白いですね。
最初は尊敬できなくても、少しずつでも相手のいいところをさがし続ける・・・
愛は結婚式で完成なのでありません。むしろ、スタートラインに立っただけなのです。
ちょうど、教会における洗礼式がそうであるように・・・

今回、「主は教会の基となり」と「いのちとひかりたもう神よ」の歌詞を、
ひとつの楽譜にまとめてみました。
ぜひ楽譜を眺めながら、味わってみてはいかがでしょうか。
メロディと伴奏もつけてみました。
伴奏の低音部分に、楽譜にはない装飾音を少しつけています。

「20100910_aurelia.MID」をダウンロード

「20100910_aurelia.pdf」をダウンロード

ちなみに、讃美歌は古い歌詞の方がいいという人が多いですが、
この曲(讃美歌21・101/390)は現代版(讃美歌21)の方がすばらしいと思います。
古い方の讃美歌の歌詞を1番だけ書いておきましょう。
(讃美歌429→讃美歌21・101)
あいの御神よ、みまえに立つ
この妹(いも)と背を めぐみ祝し、
いとうるわしき 愛のころも
よそわせたまえ とこしなえに

(讃美歌191→讃美歌21・390)
いともとうとき 主はくだりて
血のあたいもて 民をすくい
きよき住居(すまい)を つくりたてて
そのいしづえと なしたまえり

おまけとして・・・
讃美歌21の104は先ほども触れましたが、
すばらしい歌詞とメロディです。
もっと歌われていい曲だと思います。
愛の喜びと、試練を超える愛の強さ、信仰の大切さを歌い上げています。

2010年9月 9日 (木)

あなたの御言葉は(5)(詩篇119:105)【編曲】~モーツァルト・ピアノ協奏曲第26番第1楽章から

あなたの御言葉は、わたしの道の光
わたしの歩みを照らす灯。

(旧約聖書 詩編119:105新共同訳)

今回は、モーツァルトのピアノ協奏曲第26番の第1楽章にあるメロディに、
上記の御言葉を歌詞としてつけた編曲を紹介します。
テキストは上記のとおりです。

わずか8小節の短い曲です。
最後の2楽章はまったくの編曲部分です。
みなさまの聖書理解の「灯」になれば幸いです。

詩篇119:105への作曲は、この曲を含めて8曲与えられています。
新共同訳が5曲、他はカトリック訳、英語(TEV)、文語訳が各1曲ずつです。
そのうち1曲は、詩篇119:105~112(ヌン全体)への作曲です。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

「20100909_psalms119105no05_from_mozart_piano_concert_no26.MID」をダウンロード

「20100909_psalms119105no05_from_mozart_piano_concert_no26.pdf」をダウンロード

2010年9月 8日 (水)

御利益信仰は悪なのか?

読売新聞朝刊の「時代の証言者」というコーナでは、
著名人が自分の人生を語る、という連載をしています。
現在は、カトリック作家として知られる、曽野綾子氏の連載が続いています。

9月7日の、第12回目の中で、気になった文章があったので、引用します。

「 旧約聖書の思想は、善いことをしたら報われる、つまり勧善懲悪です。それに対して、イエスの教えを伝える新約聖書は、現世の御利益というものを一切拒否する思想です。
  現世で報われるため善いことをするのは、お茶の缶を買うため自動販売機に120円を入れるようなもの。神はそうした安っぽい因果関係を望まないでしょう。
  報われても、そうでなくても、やるべきことをやる。それが本当の信仰で、人間の美学なんです。そうした思想に私は軸足を置くことにしたのです。
(以下省略)」

どうも、「御利益信仰」というのは、キリスト教の中では、軽蔑されるきらいがありますね。
特に、知的なキリスト教信仰の人には、唾棄すべきもののように思われています。
曽野綾子氏に限らず、カトリック・プロテスタントどちらにも多いものです。
まるで、奇蹟が起きたら困ってしまうかのようですね・・・
(理性的な信仰が揺るがされるので・・・)

確かに、お正月に賽銭を5円とか10円、100円いれて、
「パン、パン」と手をあわせて、家内安全、商売繁盛を願う「信仰」や、
「お金がもうかる」、「病気が治る」とかを売りにした「信仰」とは、
本来のキリスト教信仰は違います。
それらは、自分の欲望を「神」としただけです。
彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、
恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。

(新約聖書 フィリピの信徒への手紙3:19新共同訳)

それなら、病人が「癒し」を求めるのは、「悪」なのでしょうか?
病気の癒し=御利益信仰、という図式が成り立ちます。
もし、現世的な御利益をすべて一切拒否せよ、というのであれば・・・

聖書に示されたまことの神様を信じるならば、必ず「奇蹟」が起きます。
その「奇蹟」とは、具体的な病気の癒しなどの場合もありますが、
いろいろな意味で、喜んでいきいきと生きることができる、ということが多いです。
無意味と思われた人生に意味が与えられ、
神様の愛を実感して生きることができる・・・
これを奇蹟といわず、なんといえばいいでしょう。
キリスト教の「天国」は既にこの世から始まっているのです。

考えてみてください。
福音書からキリストの奇蹟を取り除いたら、どれほどのものが残りますか?
いわゆる「御利益」を否定したい人たちは、
はっきり言っておく。わたし(=イエス様)を信じる者は、
わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。

(新約聖書 ヨハネによる福音書14:12新共同訳)や、
信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、
新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、
病人に手を置けば治る。

(新約聖書 マルコによる福音書16:17~18新共同訳)
といったイエス様の御言葉を、インチキだとでも言いたいのでしょうか。
人間は弱いものです。
「しるしや奇蹟は現代では必要がない」というような考えは、
神様の恵みなどなくても私は信じている!と言いたいのではないでしょうか。
ある意味、「カミサマ」以上の人たちなのかもしれませんが・・・

しるしや奇蹟は、自分自身のためというよりも、他の人を信仰に導くもののため、
と考えた方がいいでしょう。
使徒パウロでさえ、自分自身への癒しはかなえられなかった、という見本があります。
何が神様の御心か、明確なもの(人の救いなど)とそうでないものがあります。
私たちは神様に期待して、祈り続ける必要があるのです。
「天国(死んでからの世界)」ばかりを望むのではなく、
主の祈りにあるように、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」
そう、天国をこの地上にもたらすために、私たちは祈り続け、御言葉を伝え続けるのです!
「御利益信仰」とバカにされてもいいではありませんか。
「御利益」は絶対的なものではありませんが、
神様が今も生きて働いておられることを知るきっかけとなります。
お上品ぶって神様に何も求めない「頭の良い子」であるよりも、
神様の恵みを知っている「甘えん坊」でありたいと思います。

子どもの時、父親(母親でもいいですが)が給料日にケーキを買ってきた、
という記憶はありませんか?
ケーキは確かにうれしいプレゼントです。
しかし、ケーキが大事なのではなく、
ケーキを買ってきてくれる父親こそ、最も大切なのです。
奇蹟それ自体が大事なのではなく、奇蹟の源である神様こそ大事なのです。
神様はいろいろな形で恵みを現したいと願っておられますよ!

2010年9月 7日 (火)

NHK・クローズアップ現代「奨学金が返せない~若者たちの夢をどう支えるか~」(2010年9月6日放送)

9月6日放送のNHK・クローズアップ現代では、
「奨学金が返せない~若者たちの夢をどう支えるか~」という題で、
大学の奨学金返済に苦しむ若者たちの問題について放送していました。
番組HPから、放送内容を転載します。

今、奨学金の返済に苦しむ若者が急増している。大学の授業料が高騰し、返すべき奨学金の額が500万円を超えるケースもあるなか、正社員の職を得られない若者が増えているためだ。奨学金を貸している日本学生支援機構は一定の期間、返済を猶予する一方、期限を過ぎた若者たちに対しては取り立てを強化し、返済を求めて年間4000件以上の訴訟を起こしている。非正規の職をかけもちしても返しきれないローンを背負い、途方に暮れる若者たち。「貸与型(ローン)」ではなく、欧米で主流を占める「給付型(返済不要)」奨学金を国レベルで立ち上げるべきだとの声も高まっている。若者の可能性を広げるはずの奨学金が、夢を奪いかねない現状をどう打破できるか、その方策を探る。

この番組では、「困った、困った」だけで終わらず、
東京大学の画期的な取り組みについても報じていました。
経済的な事情により、授業料を納めるのが困難な家庭で、
成績優秀者であれば、授業料が免除されるというものです。
この制度を使って、親からの仕送りに頼らず、
寮生活をしながら、バイトで生活費を稼いでいる苦学生が招介されていました。
こういう人は、ぜひ応援したいものですね。

日本の未来を築くのは、教育です。
その教育が、あまりにも金がかかりすぎるため、
貧富の格差を固定化するものになりつつあります。
塾に通わないと小学校の勉強さえわからない、
経済的に厳しい家庭は挽回のチャンスがないまま、
低学力に甘んじてしまう・・・
「自己責任」、「規制緩和」などのもっともらしい言葉の中で、
もがき苦しんでいる人が数多くいます。

勉強する気がない人まで応援するつもりはありませんが、
一生懸命がんばっている人、才能・能力がある人は、
家族だけでなく、さまざまな奨学金制度などで支援すべきです。

ちょうど、OECDによる日本の教育への公的支出についての最新ニュースがでましたね。
毎日新聞と産経新聞の記事を引用します。
同じニュースでも、新聞によって扱い方が微妙に違いますね。


(毎日新聞~Yahoo!ニュースから引用)
<OECD>教育への公的支出、日本最低、家計負担は重く
毎日新聞 9月7日(火)19時30分配信
 経済協力開発機構(OECD)は7日、加盟各国の教育に関する予算や政策などのデータを比べた「図表でみる教育10年版」を公表した。07年の国内総生産(GDP)に占める、教育機関に対する公的支出の割合はOECD平均が4.8%。これに対し、日本は3.3%と比較可能な28カ国中最下位だった。

 日本は06年がワースト2位、05年が最下位と毎年低迷している。公的支出の割合が最も高いのはアイスランドの7.0%で、以下、デンマーク(6.6%)、スウェーデン(6.1%)と続き、北欧諸国の教育に対する積極投資が際立った。

 一方、日本の教育支出に占める家計負担(授業料など)の割合は、OECD平均(17.4%)の2倍近い33.3%で、24カ国中4番目に負担が重かった。特に幼稚園などの就学前教育段階(56.2%)と、大学などの高等教育段階(67.5%)の家計負担が重い。

 日本以外に家計負担が50%を超えたのは、就学前教育段階がオーストラリア、韓国の2カ国、高等教育でもチリや韓国など5カ国だけだった。

 また、08年の小学校1クラス当たりの児童数(OECD平均21.6人)を比べたところ、データがある27カ国のうち、日本は韓国、チリに次いで3番目に多い28人だった。中学校の生徒数(同23.7人)は33人で、韓国に次いで23カ国中2番目に多かった。

 民主党は野党時代から「OECD並み教育の実現」を掲げ、今年度から高校無償化を実現したが、今回の調査結果に政権交代後の施策は反映されていない。OECDは「他の多くの国でも教育支出が増大しており、日本の政策変化が反映されてもOECD全体での相対的な位置がどうなるかは分からない」としている。【井上俊樹】


(産経新聞~msn産経ニュースから引用)
日本は教育後進国? 公財政支出の教育費割合28カ国中最下位 OECD
2010.9.7 18:40
 経済協力開発機構(OECD)は7日、2007(平成19)年の加盟各国の国内総生産(GDP)に占める教育費の公財政支出の割合を公表した。日本は3・3%で28カ国中、最下位だった。
 日本は比較的、GDPが高いため、教育費そのものの額は大きい。ただ、同じようにGDPが高い米英仏独は、いずれも日本より高く、特にフランスは5・5%に上っている。トップはアイスランドで7・0%。
 文部科学省は「日本は私立学校に在籍する子供や学生も多い。少子化で教育費の公的支出が抑制されている面もあり、一概に日本が教育に力を入れていないとはいえない」としている。
 日本の教育費全体のうち、公費が占める割合は66・7%で、家計や企業など私費が33・3%。一方、フランスでは公費の割合が91・0%に上っており、ほかの英独と比べても、日本は公費の割合が低かった。
 1学級の平均的規模は日本は小学校が28・0人、中学校が33・0人。加盟国平均は小学校で21・6人、中学校で23・7人で、いずれも日本より少なかった。文科省は来年度から順次、全国で1学級が35人を超えることのないように、少人数化を進める方針。

(文部科学省のHPで資料を公開しています。)
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/21/09/__icsFiles/afieldfile/2009/09/14/1284648_1.pdf

教育に公費を多く使うと、なぜか叩かれ、
無駄な公共事業をやれば、拍手喝采です。
公務員が高級取りだと騒がれます。
しかし、本当に必要であれば、賃金カットの世の中に反してでも、
教師の賃金を上げるとか、増員するなどの処置はなされるべきです。
教育を軽んじるのは、国力の減退につながります。

教育に金がかかりすぎる日本の制度そのものの見直しと、
奨学金制度の抜本的改革、
そして志のある企業経営者や資産家が、
苦学生たちに寛大な手を差し伸べてくれることを期待しています。

2010年9月 6日 (月)

グレースチャペル・平塚修久牧師による「雅歌」からのメッセージ

グレースチャペル(基督聖協団市川教会)の平塚修久牧師が、
メルマガで「雅歌」から1章ずつポイントを絞ってメッセージをしていました。
8月30日から9月6日までの全8回シリーズでした。
とてもわかりやすいものです。
私は旧約では雅歌は特に好きなところなので、
参考になりました。

各回のメルマガ本文だけをそのまま転載します。
なお、毎回結びの文が同じなので、一番最後に1回だけつけました。
聖書の引用はすべて、新共同訳です。

(8月30日)
心がなごむバイブルメッセージVol.693【雅歌1章】
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1:2 ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く
1:3 あなたの香油、流れるその香油のように/あなたの名はかぐわしい。
おとめたちはあなたを慕っています。
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今日から雅歌を読んでいきましょう。雅歌は「歌の中の歌」と言われる書ですが、内容は読めばすぐに分かるように、男女の恋愛を歌ったものです。そんな書がどうして聖書の中に入れられたんだろう?と不思議に思われる人もいることと思いますが、若い男女の純愛を神様と神の民の関係に例えて読んでみると、私たちの信仰に関して大切なことを教えている書であることが分かります。

1:2 ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く…

ここには、恋する男性に愛される、甘くとろけるような思いが歌われています。それがぶどう酒にもまして快いと言うのです。おそらく、そんなことさっぱり分かりませんと言う人は、ほとんどいないのではないでしょうか?(いたら、
すみません。)

でも、一方で、相手が神様となるとどうでしょうか。私たちの神様に対する愛は、どこか意志的であったり、義務的であったりすることはないでしょうか。信仰は単なる教理ではありません。もちろん教えは大切なものですが、信仰とは、意志も感情も含めて神様を愛することなのです。だからこそ、そこに喜びが生まれ、賛美が生まれ、献身が生まれるのです。

そういう神様への愛が分からないと、私たちの信仰は、いつの間にか喜びや自由を失って、単なる義務になったり、形式になったりしてしまう恐れがあります。

礼拝や教会の交わりに疲れを覚えるということがあるものですが、そんな時は、雅歌を読んで、もう一度自分と神様との関係について考えてみるとよいかも知れません。

1:15 恋人よ、あなたは美しい。あなたは美しく、その目は鳩のよう。

1:16 恋しい人、美しいのはあなた/わたしの喜び。わたしたちの寝床は緑の茂み。


(8月31日)
心がなごむバイブルメッセージVol.694【雅歌2章】
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2:5 ぶどうのお菓子でわたしを養い/りんごで力づけてください。わたしは恋に病んでいますから。
2:6 あの人が左の腕をわたしの頭の下に伸べ/右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに。
2:7 エルサレムのおとめたちよ/野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください
/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。
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7節の言葉は、3章5節、8章4節にも繰り返されており、雅歌を読み解くキーワードの1つです。

病むほどに激しい恋、激しく相手を求める愛…たとえどんなに激しく深いものではあっても、愛はけっして呼びさまされたり、強制されたりするところから生まれるものではありません。愛は、美しく純粋で自由に生きる野のかもしかや雌鹿のように、どこまでも純粋で自発的なものであり、まったき自由の上にあるからこそ、真実で美しい愛が目覚め、育っていくのです。

信仰の真髄が神様へのまったき愛であるなら、信仰にも無理や強制はけっしてあってはなりません。つまり、100%の自由の上にあってこそ、真実な信仰が生まれ育っていくのです。

時々、神様はどうしてエデンの園に善悪の知識の木なんて置いたのか分からないという人がいます。あんなものさえなければ、人は罪に陥らなかった。そもそも神様は、人が絶対に罪に陥らないように造ってくれれば、こんな苦労はなかったのだ、と言うのです。

でも、それは、真実な愛と信仰の本質をわきまえた意見ではありません。愛はどこまでも自発的なものであり、信仰もまた自由の中にこそあるべきものなのです。イエス様も弟子たちを導く時に、「わたしの後に従いたい者は…」と、あくまでも弟子たちの自由を尊重されました。神様は私たちの自由を尊重してくださいます。大切なことは、その自由をどのように生かすかということです。パウロはこう勧めます。

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)

愛と結ばれてこそ本当の自由があり、自由があってこそ真実な愛と信仰があるのです。


(9月1日)
心がなごむバイブルメッセージVol.695【雅歌3章】
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3:1 夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても/求めても、見つかりません。
3:2 起き出して町をめぐり/通りや広場をめぐって/恋い慕う人を求めよう。
求めても、あの人は見つかりません。
3:3 わたしが町をめぐる夜警に見つかりました。「わたしの恋い慕う人を見かけましたか。」
3:4 彼らに別れるとすぐに/恋い慕う人が見つかりました。つかまえました、
もう離しません。母の家に/わたしを産んだ母の部屋にお連れします。
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恋しい人のことを想うと、夜も眠れないほどに慕わしく、すぐにでも会いたい気持ちでいっぱいになってなおさら眠れなくなってしまう…恋するおとめの熱い思いが伝わってきて、なんだか読んでいるだけで気恥ずかしくなってくるような気がします。確かに、そんな熱い思いにかられる経験が、誰の人生にもきっとあるのだと思います。

そして思いました。そうか!こういう激しいほどの恋心を与えてくださるのも神様なんだ。神様は、こういう心を人間に与えて、愛するということを教えてくださっているんじゃないだろうかと。

もちろん、それは、神様ご自身の愛に及ぶべくもありませんが、それでも、その熱さ、その激しさ、その一途さということからすれば、神様の愛の強さ、高さ、広さ、深さを理解する上で大いに役立っていると言えるのではないでしょうか。

少なくとも、このことだけは確かです。すなわち、神様は、若者たちの熱い恋愛にはるかにまさって熱く、強く、一途な愛をもって私たちを愛してくださったということです。そのためには、愛する独り子を十字架にかけることさえいとわないほど激しい愛をもってです。

私たちの信仰の根源は、こういう神様の愛にあるのです。その愛に出会い、その愛に包まれ、その愛に満たされて生きること、それがクリスチャンの信仰の本質なのです。だからこそ、私たちもまた、激しく熱い心で、主を愛し、主を慕い、主を求めて生き続けたいものです。

「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。」(マタイ22:37~38)


(9月2日)
心がなごむバイブルメッセージVol.696【雅歌4章】
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4:1 恋人よ、あなたは美しい。あなたは美しく、その目は鳩のよう/
ベールの奥にひそんでいる。髪はギレアドの山を駆け下る山羊の群れ。
4:2 歯は雌羊の群れ。毛を刈られ/洗い場から上って来る雌羊の群れ。
対になってそろい、連れあいを失ったものはない。
4:3 唇は紅の糸。言葉がこぼれるときにはとりわけ愛らしい。
ベールの陰のこめかみはざくろの花。
4:4 首はみごとに積み上げられたダビデの塔。
千の盾、勇士の小盾が掛けられている。
4:5 乳房は二匹の小鹿。ゆりに囲まれ草をはむ双子のかもしか。
4:6 夕べの風が騒ぎ、影が闇にまぎれる前に/ミルラの山に登ろう、
乳香の丘にわたしは登ろう。
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2章から3章にかけては、「おとめの歌」が詠われていましたが、4章では「若者の歌」として、男性から女性に向けての愛の賛歌が詠われています。

ベールの奥にひそんでいる目は鳩のように愛らしく、髪はギレアドの山を駆け下る山羊の群れのように美しく、健康で清潔な歯と紅の糸のような唇からこぼれる言葉は愛らしく、こめかみも、首も、乳房も…と賛辞は尽きません。恋する若者の目には、すべてが美しく輝いて見えてしまうのです。

実は、これは神様から私たちへの愛のメッセージなのです、と言ったら驚くでしょうか? えっー! ほんとかな? と我が身を思うと思わず疑ってしまうかも知れませんが、やっぱりそれは本当なのです。イザヤ書で神様はこう記しています。

43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(新改訳聖書)

これは、神様の告白の言葉です。そして、約束の言葉でもあります。神様は約束通り、愛する私たちと共にいて、私たちの罪の身代わりに独り子イエス様を十字架にかけて下さいました。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

神様の愛は本気の愛、真実な愛、そして永遠の愛なのです。そんな愛に包まれている者として、私たちも確信をもってこう告白したいものです。「私は神様に愛されています!」と。


(9月3日)
心がなごむバイブルメッセージVol.697【雅歌5章】
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5:2 眠っていても/わたしの心は目覚めていました。恋しい人の声がする、
戸をたたいています。「わたしの妹、恋人よ、開けておくれ。わたしの鳩、
清らかなおとめよ。わたしの頭は露に/髪は夜の露にぬれてしまった。」
5:3 衣を脱いでしまったのに/どうしてまた着られましょう。
足を洗ってしまったのに/どうしてまた汚せましょう。
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夜、おとめの家に若者が訪れ、戸をたたいて「開けておくれ」と呼びかけました。ところが、おとめはすでに床の中、若者の来訪に胸が高鳴りつつも、戸を開けるのをためらっていたのです。そして、ようやくおとめが床から起きて戸を開けると、そこにはもう若者の姿はありませんでした。

おとめは若者を求めて闇の中を捜しまわりました。しかし、若者は見つかりませんでした。代わりに、夜警に見つかってはたたかれ、城壁の見張りには衣をはぎ取られてしまったのです。そのとき、おとめはエルサレムのおとめたちに言いました。「もしわたしの恋しい人を見かけたら/わたしが恋の病にかかっていることを/その人に伝え」て欲しいと。

すると、おとめたちは言いました。
「あなたの恋人はどんなにいい人なんでしょうか。あなたにこんな誓いをさせるとは。」(9節)

おとめは答えて言いました。

5:10 わたしの恋しい人は/赤銅色に輝き、ひときわ目立つ。
5:11 頭は金、純金で/髪はふさふさと、烏の羽のように黒い。

5:16 その口は甘美、なにもかもわたしを魅惑する。エルサレムのおとめたちよ
/これがわたしの恋する人、これがわたしの慕う人。

これはもちろん、おとめと若者の恋愛の歌です。でも、なんとなく私たちの信仰の歩みにも似てはいませんか。イエス様は私たちの心の戸をたたいています(黙示録3:20)。しかし、私たちは、ためらっているうちにイエス様を見失い、しばらくの間、暗闇をさまようということがないでしょうか。そういう意味で、これはひとつの大切な教訓の歌でもあるようです。

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』」(黙示録3:20~22)


(9月4日)
心がなごむバイブルメッセージVol.698【雅歌6章】
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6:4 恋人よ、あなたはティルツァのように美しく/エルサレムのように麗しく
/旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。
6:5 わたしを混乱させるその目を/わたしからそらせておくれ。
あなたの髪はギレアドを駆け下る山羊の群れ。
6:6 歯は雌羊の群れ。毛を刈られ/洗い場から上って来る雌羊の群れ。
対になってそろい、連れあいを失ったものはない。
6:7 ベールの陰のこめかみはざくろの花。
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これは、しばしの間離れ離れになっていた恋人が再び出会った時に、若者がおとめに言った愛の言葉です。4章にも、同じような若者からおとめに向けての愛の告白の言葉が記されていましたが、6章には、それとちょっと違った表現が見られます。

6:4 恋人よ、あなたはティルツァのように美しく/エルサレムのように麗しく
/旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。

「美しい」とか「麗しく」というのはわかりますが、「恐ろしい」とはいったいどういうことでしょうか? まさか“鬼嫁”のようになってしまったと言うことではないでしょう。

それは、「旗を掲げた軍勢のように」と表現されているように、美しくはあってもただ弱くてうぶなだけの女性というのではなく、目を見張るほどの威厳とたくましさをも備えた女性であることを意味しているのではないでしょうか。
愛するおとめの中に、そんな魅力を感じ取った若者の驚きを垣間見るような気がします。

だからこそ、若者はこう告白するのです。

6:8 王妃が六十人、側女が八十人/若い娘の数は知れないが
6:9 わたしの鳩、清らかなおとめはひとり。その母のただひとりの娘/
産みの親のかけがえのない娘。彼女を見ておとめたちは祝福し/
王妃も側女も彼女をたたえる。

王妃や側女や若い娘は数多くいるけれども、私が愛するおとめのような女性は他にはいない。ただ一人の女性(ひと)であると語られています。これは恋人から夫婦への自覚の深まりであるとも言えるでしょう。そして、これは主イエス様の私たち(教会)に向けての思いでもあるに違いありません。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」(エフェソ5:25)


(9月5日)
心がなごむバイブルメッセージVol.699【雅歌7章】
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7:10 それはわたしの恋しい人へ滑らかに流れ/
眠っているあの人の唇に滴ります。
7:11 わたしは恋しい人のもの/あの人はわたしを求めている。
7:12 恋しい人よ、来てください。野に出ましょう/
コフェルの花房のもとで夜を過ごしましょう。
7:13 朝になったらぶどう畑に急ぎ/見ましょう、ぶどうの花は咲いたか、花盛りか/
ざくろのつぼみも開いたか。それから、あなたにわたしの愛をささげます。
7:14 恋なすは香り/そのみごとな実が戸口に並んでいます。
新しい実も、古い実も/恋しい人よ、あなたのために取っておきました。
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7章は、前半(2~10a節)が若者のおとめへの愛と賛美の歌であり、後半(10b~14)がそれに答えてのおとめの若者に対する愛の告白の歌となっています。

互いに相手を強く求め、深く信頼し、すべてをささげ尽そうとする愛。どこまでも純粋であとうとし、いつまでも続くことを願う愛。確かにそれは美しいものです。

しかし、人の愛は決して完全ではありません。やがて熱が冷める時があり、ときには突然の心変わりということもあるのです。でも、だからこそ私たちには神様が必要なのではないでしょうか。神様の中に、決して終わることのない永遠の愛を見出すことが必要なのではないでしょうか。それなくして、私たちの心は真の平安を見出すことはできないからです。

神様は、アダムとエバが罪に陥ったその時から、彼らを救い出すことを約束されました(創世記3:15)。やがてアブラハムを選び、その子孫を通して、神様の祝福を全世界に届けようとされました(創世記12:1~3)。そして、ついに独り子イエス様を地上にお遣わしになり、十字架によってその救いを完成されたのです。

その間、神様の愛と慈しみは、決して消えることなく、変わることなく、全人類に向けられていたのです。そして、今もその愛と慈しみは、私たちの上に注がれています。なぜなら、神様の愛は決して変わることも終わることもないからです。

「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。『彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く』と書いてあるとおりです。」(コリント二9:8~9)


(9月6日)
心がなごむバイブルメッセージVol.670【雅歌8章】
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8:6 愛は死のように強く/熱情は陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎。
8:7 大水も愛を消すことはできない/洪水もそれを押し流すことはできない。
愛を支配しようと/財宝などを差し出す人があれば/その人は必ずさげすまれる。
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いよいよ、雅歌の最終章。本章には、「歌の中の歌」と呼ばれた雅歌の真骨頂とも言うべき言葉が記されています。

恋するおとめは若者に言いました。

8:5 りんごの木の下で/わたしはあなたを呼びさましましょう。
あなたの母もここであなたをみごもりました。
あなたを産んだ方も/ここであなたをみごもりました。

先には、「エルサレムのおとめたちよ、誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。」(8:4)と歌ったおとめは、ついに自ら若者の愛を呼びさまそうと決心するようになりました。

8:6 わたしを刻みつけてください/あなたの心に、印章として/あなたの腕に、印章として。

古代バビロニアでは、自分の実印をひもに付けて首から胸のあたりにかける習慣があったそうですが(創世記38:18)、ここでおとめは、私をあなたの心と腕に刻みつけて、肌身離さずにいてほしいと願っているのです。激しく深い愛の芽ばえです。

そして、雅歌はそのような愛をこう歌いました。

8:6 愛は死のように強く/熱情は陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎。
8:7 大水も愛を消すことはできない/洪水もそれを押し流すことはできない。

愛の力強さと激しさを、これほどまでに突き詰めて表現した言葉を私はほかに知りません。でも、もちろん、これはあくまで人間の愛の表現です。しかし、その愛にもこれほどに激しい強さがあるのだとすれば、まして、十字架の上に現わされた神様の愛の強さと大きさは、私たちの想像をはるかに越えているに違いありません。

そのような愛に包まれ生かされる喜びに溢れるとき、私たちもまた激しいほどの愛をもって神様を愛する者とされてゆくのではないでしょうか。信仰に生きるとはそういうことです。(雅歌、了)

主の恵みと平和が豊かにありますように!
平塚修久

2010年9月 5日 (日)

9条以外でも憲法改正は必要では?

民主党の代表選の話題が、最近のトップニュースとしてよく出ます。
9月14日の選挙でどちらが勝つのか、私には予測できません。
菅氏か小沢氏か、という二択が、国民全体ではなく、
国民のごく一部にすぎない民主党員に迫られています。
しかも、参政権がない人でも民主党員にはなれるそうなので、
実質上、外国人でさえも国会元首となる人を選ぶ権利があります。
私は日本人ですが民主党員ではないので、選ぶ権利がありません。
正直言って、どちらも選びたくないかな・・・
清廉潔白だが実行力のなさそうな(?)菅氏よりは、
悪役レスラーのような小沢氏の方に、どちらかというと期待しています。

それにしても・・・
アメリカの大統領選挙のように、国家の代表を直接選べる制度にしたほうが、
もっとすっきりした気持ちになるのでは、と思います。
1年ごとにコロコロ内閣が変わるような事態にもなりません。

そのためには、憲法第66条、67条を変えた方がいいのでは、と考えます。
憲法改正、というと、すぐ第9条の改正が議論され、
「平和憲法を守れ!」という声になります。
(「平和憲法を守れ!」という人に限って、
憲法第1条~第8条(天皇)を軽視していることが多いのでは?)
しかし、憲法は別に第9条だけで成立しているものではありませんよね。
第9条以外でも、変えた方がいいところはいろいろあるはずです。
第9条で思考がストップしてしまうところから、そろそろ脱却すべきです。
憲法を変えるのを、あたかもモーセの十戒を変えるかのような扱いにするのは、
大変こっけいだと言わざろうえません。
憲法も、法律の一つにすぎないのです。
時代に合わなくなれば、変える必要があるはずです。

「第33回北海道を歩こう」に夫婦で参加して

「北海道を歩こう」の第33回大会に夫婦で参加しました。
札幌市南区の真駒内緑小学校から、33km先の支笏湖まで歩く大会です。
支笏湖まではさすがに遠いので、10kmのコースの方を選びました。
夫婦でこういう大会に参加するのは初めてです。

妻はこの大会のために、平日は毎日3、4km歩いていました。
私はといえば・・・これといって、準備はしませんでした。

朝8時から大会の開会式が始まり、10分後には先頭グループがスタートしました。
しかし、参加人数がかなり多かったので、私たちがスタートしたのは、
8時半頃でした。
天候が心配でしたが、結局雨は降りませんでした。

歩いている途中、参加者の中でとても仲のよさそうな熟年夫婦を見かけました。
夫はもう白髪が目立つような人でした。
その夫婦はずっと手をつないで歩いていました。
年をとっても、愛が深まっていくというのは、なんとすばらしいことでしょう!

スタートから約2時間後、10時40分頃には、
10kmコースのゴール地点である真駒内カントリークラブに到着しました。
ゴールゲートは、妻と手をつないで、万歳の姿勢でくぐり抜けました。

帰りの道はバスで地下鉄南北線真駒内駅まで送ってくれました。
2時間かけて歩いた道も、バスならたった10分間・・・
車中から、私たちより後の人たちを眺めていました。
おそらく、トップと最後尾は、2、3kmぐらいの差がついていたかも。

妻はしきりに「来年は33kmのコースに参加したい!」と言っていますが・・・
私は・・・まだ答えは保留です。
さすがに疲れました・・・

諦める理由などない We Believe!~北海道日本ハムファイターズと北海道民

北海道民なので、北海道日本ハムファイターズ(以下「日ハム」)を応援しています。
今年の4月は、絶望的な連敗続き・・・
まさかの最下位生活でした。
しかしいまや、もう少しでCS進出も目前です。
諦める理由などない We Believe!
すばらしいキャッチフレーズですね!
CS進出のみならず、優勝だって夢ではありません。
日ハムは北海道の希望そのものです。

北海道は今、不況で就職難です。
学力低下も著しいです。
景気が悪いから・・・を口癖・言い訳にしがちです。

そんな中、ほぼ毎日読んでいるブログのひとつ、
「Meiko Aikoku Blog」では、
「『どうせ無理、どうせできない』という言葉を口にするのはやめよ!」
というような内容の記事を何度も書いています。
(諦めムードが漂う釧路のマチで、
学習塾の立場から、学力向上を熱く続けるすばらしい教育記事が魅力です。)
これは、反語的な「諦める理由などない We Believe!」ですね。
(最近では、8月29日の記事「諦めの漂う街・負けぐせのついた街」に書かれています。)
http://blog.livedoor.jp/meiko_aikoku_blog/archives/51590992.html
諦めムードに陥ったら、そこで終わりです。
9回裏2アウト・ビハインドからでも、大逆転があるかもしれないのです。
過疎化や不況にもかかわらず、いや、「だからこそ」、
希望を捨ててはいけないのです。
今年、私は幸いなことに、
農村などで新たな取組をし、あきらめない人々に会う機会が与えられました。
北海道も、まだまだ捨てたものではないと思います。
脱出のヒントは、案外身近なところや、地道な努力の中にあるのかもしれません。
まずは、希望を失わないことです。

2010年9月 4日 (土)

道端のブラックベリー・ジャム

休日なので、妻と近所の大きな公園を散歩していました。
そこから帰宅する途中、家から1kmほど離れた住宅街を歩いていたときのことです。
妻が、面白いものを発見しました。
「ブラックベリージャムです。どうぞご自由にお持ちください。」という張り紙が、
ある家の前に張られており、
そこには、小さな小瓶に入ったジャムがいくつか置かれていました。
私たちの背よりも高い場所にあるその家の庭から、
その原料になったものと思われる、ラズベリー(?)の実がたくさん見えました。
私たちは内心少し恐れながら、その言葉を信じて、
ジャムを一瓶だけいただいてきました。

帰宅後、疑うようで大変恐縮だったのですが、
念のため、私がまず味を確かめてみました。
問題ありませんでした。(疑ってゴメンナサイ・・・)
そのジャムをクラッカーにつけて、妻と一緒に味わいました。
作ってくれた人と、神様の導きに感謝しました。

都会では人が人を信じられなくなる中、
こういう気持ちを示してくれる人がいるというのは、
なんともうれしいものですね。
人と人とが互いに信じあえる世の中であってほしいものです。

書評:平野耕一著『希望とは何ですか』(いのちのことば社)

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
その中で最も大いなるものは、愛である。

(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ13:13新共同訳)
希望はわたしたちを欺くことはありません。
わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

(新約聖書 ローマの信徒への手紙5:5新共同訳)

「信仰、希望、愛」は、神に対する徳(対神徳)と呼ばれます。
信仰と愛については、あまたの本が書かれています。
しかし、希望はどうでしょう?
意外にも、希望についての本はあまり見たことがありません。
プロテスタントでは、アンドリュー・マーレーの『神を待ち望め』(いのちのことば社)、
カトリックでは、前教皇ヨハネ・パウロ二世の『希望の扉を開く』などといった本はありますが、
後者は希望そのものについての本ではありませんし・・・

今回紹介する平野耕一牧師による『希望とは何ですか』のテーマは、
ズバリ「希望」です。
著者はこの本の「はじめに」で、村上龍氏の小説『希望の国のエクソダス』の
有名なセリフ「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。
だが、希望だけがない。
」を引用し、
ついで、東京大学社会科学研究所が世界初の総合学問として2005年に発足させた
「希望学」について触れ、本を書くきっかけについて述べています。
(本書P.3~7から抜粋)

著者が分析する聖書的な「希望」の本質については、ぜひお読みください。
薄くてわかりやすい本なので、あっという間に読み終えることができるでしょう。

「希望」の聖書的根拠については、だいたいわかりますが、
「信仰」と「愛」に比べると、どうしても、存在感が乏しい感じは否めませんでした。
著者の力量というよりは、テーマそのものの問題なのでしょうね。

印象に残ったのは、P.57から始まる「5.主なる神と希望」という章です。
神様ご自身が、希望そのものだという発見がありました。
神様の本質の一つが、希望なのです。
聖書に示された創造主なるお方は、決定論者、運命論者ではないのです。
すべてのことは決まっているともいえるし、決まっていないともいえるのです。

ところで、最近世界中が注目しているニュースの一つとしては、
チリで起きた落盤事故ですね。
地下700メートルのところに閉じ込められた人々を救おうと、
あらゆる方法が検討され、実行に移されつつあります。
(どうか、全員救助されますように・・・)
ここで大事なのは、やはり「希望」ですね。
「助かる、助けられる」という希望を油として、
命の火を灯し続ける必要があります。
「もう助からない、ダメだ・・・」と助けられる側、助ける側どちらかが諦めたら、
そこで希望はなくなります。
私たちの生活においても、もしかすると、
救いようのない深い穴に生き埋めにされているような体験をするかもしれません。
しかし、そこでこそ、希望をもって神様の救いと光を待ち続ける必要があるのです。

幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、
ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた。

(新約聖書 使徒言行録20:20新共同訳)
深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
(旧約聖書 詩編130:1新共同訳)
しかし、そんな時でも確かな希望を抱く人なら、
ですから、皆さん、元気を出しなさい。
わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、
そのとおりになります。
」(新約聖書 使徒言行録20:25新共同訳)といえるでしょう。
私たちも、希望をもたらす人、希望にあふれた人になりたいものですね。
希望の源である神が、
信仰によって得られるあらゆると喜びと平和であなたがたを満たし、
聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

(新約聖書 ローマの信徒への手紙15:13新共同訳)
アーメン!

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2010年9月 3日 (金)

わが恩惠(めぐみ)なんぢに足れり(Ⅱコリント12:9)【自作曲】

『わが恩惠(めぐみ)なんぢに足れり、わが能力(ちから)は弱きうちに全うせらるればなり』さればキリストの能力の我を庇(おほ)はんために、寧ろ大(おおい)に喜びて我が微弱(よわき)を誇らん。この故に我はキリストの爲に微弱・恥辱(はづかしめ)・艱難(なやみ)・迫害・苦難(くるしみ)に遭ふことを喜ぶ、そは我よわき時に強ければなり。
(新約聖書 コリント人への後の書(Ⅱコリント)12:9~10文語訳)

今回は、上記の御言葉をテキストとした曲を紹介します。
目覚しい奇蹟を現した使徒パウロでさえ、
自分自身への本当に必要な癒しは体験できませんでした。
しかし、それは、しばしば信仰が弱くなる私たちにとって慰めといえましょう。
信仰が強い=奇蹟が起きやすい、ならば、
奇蹟は信仰に比例する、という法則になってしまいます。
奇蹟は神様の一方的な恩寵ですね。

『わが恩惠(めぐみ)なんぢに足れり、わが能力(ちから)は弱きうちに全うせらるればなり』
というイエス様の御言葉が最近再び心に響いています。
今信仰につながっているのは、私の力というよりは、
イエス様の恵みだと、はっきり断言できます。
弱さのうちに働く神様の愛と恩寵を実感しています。
神様への感謝をこめて・・・

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
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2010年9月 2日 (木)

あなたの重荷を主にゆだねよ(詩篇55:23)【自作曲】

わたしを嘲る者が敵であれば それに耐えもしよう。
わたしを憎む者が尊大にふるまうのであれば 彼を避けて隠れもしよう
だが、それはお前なのだ。
わたしと同じ人間、わたしの友、知り合った仲。
楽しく、親しく交わり
神殿の中を共に行き来したものだった。

(旧約聖書 詩編55:13~14新共同訳)

旧約聖書の詩篇は、苦しみをうたったものが数多くあります。
メシア(救い主)の苦しみ(受難)を預言したもの、とされる
詩篇22や35、69、まったく希望がない詩篇88などが代表例でしょう。
今回紹介する詩篇55も、苦しみの詩篇です。
親しい人に裏切られた苦しみと、そこからの救いを神様に求めている詩です。
愛弟子の一人、
イスカリオテのユダに裏切られたイエス様の心境を代弁するかのようです。
いや、むしろ、この私の心を代弁しているのでは、と思える時があります。
親しい人に裏切られる、というのは、ひどくこたえるものです。
まして、相手が友人であり、クリスチャンならなおさら・・・
愛が満ちあふれる場である教会が、厭わしいものに思えてしまうこともあります。
わたしの信頼していた仲間 わたしのパンを食べる者が
威張ってわたしを足げにします。

(旧約聖書 詩編41:10新共同訳)

ふだんは大げさな表現にさえ思える詩篇の言葉一つ一つが、
にわかに現実味を帯びてきます。
私にとって、最近そんな状況が続いています。
そういう時こそ、神様の慰めと力を体験する時です。
人からの慰めや気休めではなく、
「確かに、神様が私と共にいてくださる!」という不思議な確信が、
御言葉を通して与えられます。
私は、難破して海に漂っている者に差し伸べられる、
「救いのロープ」をつかむように、
御言葉というロープをしっかり握って、
「救いの船」へと引き上げられつつあります。

神様への感謝をこめて、今回は、
詩篇55:23の御言葉への作曲を紹介します。
昨日の朝、心に響いてきたものです。
テキストは、以下のとおりです。
あなたの重荷を主にゆだねよ
主はあなたを支えてくださる。
主は従う者を支え
とこしえに動揺しないように計らってくださる。

(旧約聖書 詩編55:23新共同訳)
この曲が与えられたのは・・・かなり前だと思います。
「あなた」というところを、「わたし」として歌うことができるようにもしています。
(聖書で「あなた」と書いてあるところに、自分の名を入れて読むと、
切実さがよくわかりますよ。)

疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたし
(=イエス様)のもとに来なさい。
休ませてあげよう。

(新約聖書 マタイによる福音書11:28新共同訳)
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。
神が、あなたがたのことを心にかけてくださるからです。

(新約聖書 ペトロの手紙Ⅰ5:7新共同訳)
私たちを愛して止まない、イエス様の深い愛と計らいに感謝します!

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2010年9月 1日 (水)

歩む道を神にゆだねよ(詩編37:5~6)【自作曲】

歩む道を神にゆだねよ。
神は信頼する人を助け、その人のまことを光のように輝かし、
正しさを ま昼のように明らかにされる。

(詩編37:5~6カトリック訳)

教会の人間関係で、最近少し不快な思いをしました。
詳しくは書きませんが・・・
そんな中で、上記の御言葉が、私の心の支え、癒しとなりました。
主は御言葉を遣わして彼らを癒し
破滅から彼らを救い出された。

(旧約聖書 詩編107:20新共同訳)
今回は、その御言葉への作曲を紹介します。
テキストは冒頭のものです。

詩篇37は、悪に目を向けるのではなく、
心を落ち着かせて主に信頼することを説いています。
主が最善の方法で解決してくださるはずです。

この御言葉への作曲は、この曲を含めて計4曲与えられています。
すべて、カトリック訳への作曲です。

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