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2010年6月27日 (日)

礼拝における朗読奉仕

この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、
中に記されたことを守る人たちとは幸いである。
時が迫っているからである。
(新約聖書 ヨハネの黙示録1:3新共同訳)

今日は、教会の礼拝において、夫婦で朗読の機会が与えられました。
妻が第一朗読(旧約聖書)、私が第二朗読(新約聖書・使徒書)でした。
妻の教会での朗読奉仕は、これで2回目です。
妻は先週ずっと、1日1回は朗読の練習をやっていました。
私は、もともと朗読が得意なので、それほど練習はしませんでした。
むしろ、妻の朗読練習のコーチをやっていました。
当日の朗読ですが、妻の朗読はおおむね合格点でした。
私としては、私の朗読がほめられるよりも、ずっとうれしかったです。

さて、私の朗読ですが、マイクがいらないぐらいのはっきりした大きな声で、
あたかも使徒パウロが(ちょうど、ガラテヤ書のところだったので)、
その場で話しているかのように、朗読してみました。
政治の演説みたいに聞こえたかもしれませんが・・・
人によっては、お経のように、淡々と読む方を好むかもしれません。
しかし私は、使徒書簡なら、使徒たちが今、ここで、
その御言葉を語っている、神様が御言葉を通して語りかけている、
というのを忘れたくはありません。
お経のように読むのは、確かに「宗教的」かもしれませんが、
それは、言葉ではなく、「雰囲気」を愛しているに過ぎません。

御言葉がわからないから説教が必要、というのが一般的な考えですが、
私は、本来、聖書は「読めばわかるもの」と考えています。
もし、読んでもわからないなら、翻訳が悪いのか、
それとも、わかろうとしない、何か心の壁があるのかもしれません。
聞いてわかるように読むのが、正しい聖書の朗読方法だと思います。

今、ここで、神様が、朗読者が読む聖書の御言葉を通して語っている・・・
そういう朗読に出会えるとうれしいものです。

ちなみに、旧約聖書の朗読の場合は、
預言書なら使徒書簡と同じでいいですが、
創世記とかサムエル記とかなら、あまり感情をいれず、
少し低めの落ち着いた声で朗読すると効果的です。

聖書朗読の奉仕の機会は実に尊いものです。
機会があれば、何度でもやってみたいものです。

実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
(新約聖書 ローマの信徒への手紙10:17新共同訳)

機会と力を与えてくださった神様に感謝!

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