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2010年1月31日 (日)

中学生の問い~信仰Q&A

先日、4名の中学生+1名の小学6年生を引率して、
市内の複数の教会を「巡礼」しました。
それぞれの教会を巡って、祈りをささげる、
一種のスタンプラリーみたいなものでした。

その中で、本来プログラムには無かったものですが、
ある教会で祈りが終った後、
私は中学生たち(正確には上記のとおりですが)に、
「信仰に関するどんな質問でもOKだよ」と言って、
子どもたちが普段思っている信仰上の疑問について自由に話させ、
それに対して、明確に答えました。
以下、中学生たちの主な問いと、それに対する私の答えを書きます。
(  )内が私の答えです。
(みなさんの中には、私の答えに疑問を持つ人がいるかもしれません。
別にそれはかまいません。
むしろ、「自分ならどう答えるか?」を考えてみた方が有益ですよ。)
中高生向けの信仰プログラムをしている人に参考になれば幸いです。

Q1
聖書では「神がこの世界を造った」と言っているが、
進化論や、「ビッグバン」説からすると、そうは言えないのでは?
(A1 進化論は、日本ではあたかも科学的事実の扱いだが、
米国や韓国では「創造論」もある。進化論自体、まだ仮説にすぎない。
「46億年前に地球が誕生」というのも、その長さを測る単位は、
ある種の仮説にすぎない。
「偶然に」宇宙ができた、というのは、
ゴミ箱をものすごい長い間かきまわしていたら、「偶然」テレビができた、
というのに等しい。そのほうが、よっぽど「信仰」である。
この宇宙には、創造主なる方がおられる。
明確な意図とデザインによって、万物は造られた。
世の中の「定説」というのは、意外と疑わしいものだ。
私は進化論否定の立場をとるが、
自分なりに、どちらが正しいのか、いろいろと調べてみた方がいい。)
※参考サイト
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/souzouka.htm

Q2
幽霊は存在するのか?
(霊的なものは、確かに存在すると思う。
ここにラジオがあれば、電波を受けて、音が鳴る。
同様に、ある種の人には、
普通の人には見たり聞いたりすることができないものを感じることがある。
ただ、あまり恐れる必要はない。
神様の力の方がもっと強い。
ある意味、本当に恐いのは、幽霊よりも人間である。
幽霊が呪い殺せるのはせいぜい1人か2人程度だが、
人間は、ボタン一つで何十万人も殺すことができる。)

Q3
広島に原爆を落とす前に、パイロットたちは「祈祷会」を開いていたそうだ。
こういう祈りは正しいのか?
(これは、キリスト教が悪いのではなく、戦争が悪いのである。
広島・長崎に原爆を投下したのは、一種の差別と人体実験ではないか。
その証拠に、第二次大戦中、米国では日系人だけが強制収容所に入れられるなど、
差別的な扱いを受けた。
当時の米国でははまだまだ黒人などへの差別がたくさんあった。
日本人を同じ人間と思っていなかった所業だ。)

Q4
占いを信じるか(これは私からの質問)
⇒いわゆる「クリスチャンホーム」でも、
占いが身近な所まで浸透している事実が露見しました。
何の罪悪感や嫌悪感も持っていない様子。
(未来が決定されていて、本当に面白いものだろうか?
たとえば、「占いによると、あなたは今日死にます。」と言われたらどうする?
どうにもならないだろう?
神様を信じるなら、失敗さえ、神様によってプラスと変えられる。
だから「運命」なんて恐れることはない。
人生に無駄なことはないよ。)

Q5
聖書の最初の方(注:創世記1章)を読むと、
人間が万物を支配せよ、と書かれている。
聖書は極めて人間中心的な世界観ではないのか?
(少なくとも、私たちは犬や猫ではなく、人間なので、
どうしても人間中心にならざろうえない。
人間は神様からこの地上の管理を任されている、
いわば、「管理人」にすぎない。
人間が好き勝手な事を何でもやっていい、ということではない。
人間は万物の霊長、地上の支配者だから、
好き勝手にやっていい、と考えるようになったのは、
産業の発達と、進化論の普及による。)

15分程度の時間ですが、すばらしい質問がこのように出ました。
中学生ともなれば、いろいろな事を考えているものです。
私としては、中学生たちが、このような問いを持っている、
そのこと自体がすばらしいと思いました。
問いを発した一人ひとりを私は称賛しましたよ。

従来の信仰教育では、一方的に知識を「詰め込んで」、
盲目的・無批判的にそれを受け入れることが「信仰的」とされていませんでしたか?
子どもたちが「お行儀よい姿」になることを目的とするのは、偽善の土壌です。
心を開いて、問いを抱いた「あるがままの姿」を、
神様の御前にさらけ出すことが、真の意味での信仰教育の第一歩です。

イエス様が弟子たちの汚い足を洗われたことを思い起こしましょう。
ペトロが、『わたしの足など、決して洗わないでください』と言うと、
イエスは、『もしわたしがあなたを洗わないなら、
あなたはわたしと何のかかわりもないことになる』と答えられた。
(新約聖書 ヨハネによる福音書13:8新共同訳)

たとえば自分が病気で医者にかかるとき、
医者には、「○○が痛いのです。」などと言いますよね。
それは、決して恥ずかしいことなんかではありませんよね。
病気を素直に認めることから、「治療」は始まります。
同様に「魂の名医」であるイエス様の前に行くとき、
偽善的な美辞麗句の祈りを捧げるよりも、
偽らない疑問をぶつけた方が、かえって真実の祈りになることがあります。
(詩篇の数多くが、そのような祈りですね。)
「足を洗われる」ような、自分の醜さや汚さ、過去の過ちさえも、
自分の存在のプラス面もマイナス面もひっくるめて
全部、受け入れられるような経験は、神様への大きな信頼につながります。
それとも、使徒ペトロが言ったように、
わたしの足など、決して洗わないでください
という状態に留まり続けますか?

ともあれ、私にとって、久々に心が燃えたひとときとなりました。
神様に感謝、感謝!

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