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2009年10月17日 (土)

アフリカの主の祈り

ブログ内に、「検索フレーズランキング」というコーナーがあります。
私が書いた記事の中にある言葉が、NIFTY検索で多く調べられると、
そのランキングに載る仕組みのようです。

たとえば、今日(10月17日)現在で、
ランキング1位は、「新約聖書 マルコ4:26」というフレーズです。
以前この記事については、書いた記憶があります。
しかし、3位の「アフリカの主の祈り」というのは、
自分で書いたことはありません。
そもそも、今日まで、
「アフリカの主の祈り」なるものが存在している事を知りませんでした。
このように、時々、よくわからないフレーズが、
検索ランキングに入ることがあります。

ところで、「アフリカの主の祈り」とは?と、
興味を持った私は、検索フレーズのところから、
その言葉を検索してみました。
すると、「アフリカの主の祈り」なるものが、実際にあったのです。
私が不勉強だったのかもしれませんが、
初めて知る「祈り」でした。
ここで、みなさんに紹介しましょう。
あるホームページからの引用です。
(引用元:
http://luminare.at.webry.info/200710/article_28.html


「アフリカの主の祈り」


完全に神の子として生きていないとき
  わたしは 「父よ」と呼びかけることは できません
自分の殻に閉じこもって ひとと連帯していないとき
  「わたしたちの」と口にすることは できません
地上に宝を積むことや地上の営(いとな)みに夢中なとき
  「天におられる」と軽々しく口にすることは できません
自分の栄誉や恥に心囚(とら)われ 神のみ名のもとに生きていないとき
  「み名が聖とされますように」と祈ることは できません
たとえ神の王国のためでも 
 すべて地上の力によって成し遂(と)げようとしているとき
  「み国がきますように」と祈ることは できません
示された天の導きを疑い 従うのを拒(こば)んだり 不満を抱いているとき
  「み心が行われますように」と祈ることは できません
この地上で何の奉仕にも自分を捧げようとしていないのに
  「天に行われるとおり地にも行われますように」と祈ることは できません
過去の追憶にふけり 今を存分に生きていないとき
  「今日を生きるのに必要な糧(かて)をお与えください」と祈ることは できません
ひとを恨(うら)んだり 憎んだりしているとき
  「わたしたちの罪をおゆるしください」と祈ることは できません
みずから誘惑に身をさらすようなことを平気でしているとき
  「わたしたちを誘惑におちいらせず」と祈ることは できません
祈りを武器に 魂のために戦おうとしていないとき
  「わたしたちを悪からお救いください」と祈ることは できません
心から祈れないときに 口先だけで祈りを唱え 「アーメン」ということは
  わたしには できません


この言葉を読むと、
ふだん、形式的に「主の祈り」を唱えてしまう事を、
反省せずにはいられないですね。
上の「基準」をそのまま適用するなら
(つまり、上の「祈り」を絶対的な真理のようにみなすなら)、
私には、「主の祈り」を祈る資格はない事を素直に認めます。

しかし、あえて反論を書かずにはいられません。
自分に祈る資格があるのか、という完璧主義では、
結局、祈らなくなります。
結局、「・・・できません」というのは、
神様よりも、自分を見つめるだけで、
そこで終ってしまいます。
(完璧にならないと祈ることができないのなら、
地上にその資格がある人はごくわずかしかいないはずです。)
たとえ形式的であったとしても、
祈ることを放棄してはならないものです。
主はこう言われる。
ぶどうの房に汁があれば、それを損なうな
そこには祝福があるから、と人は言う。
わたし(=神様)はわが僕らのために、
すべてを損なうことはしない。
(旧約聖書 イザヤ書65:8新共同訳)
だからこそ、「あえて」神様に近づき、
祈りの手を差し出すべきなのです。

そもそも、私たちは、神様を「わたしたちの」と、
呼びかける資格があるのでしょうか?
ヨブ記の言葉を引用すれば、
どうして、人が神の前に正しくありえよう。
どうして、女から生まれた者が清くありえよう。
月すらも神の前では輝かず、星も神の目には清らかではない。
まして人間は蛆虫
人の子は虫けらにすぎない。
(旧約聖書 ヨブ記25:4~6新共同訳)

それにもかかわらず、
そのあなた(=神様)が御心に留めてくださるとは
人間は何ものなのでしょう
あなたが顧みてくださるとは。」(旧約聖書 詩編8:5新共同訳)

わたしたちが神を愛したのではなく、
神がわたしたちを愛して、
わたしたちの罪を償ういけにえとして、
御子をお遣わしになりました。
ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
(新約聖書 ヨハネの手紙Ⅰ4:10新共同訳)

たとえどんな聖人級のような人であっても、
それだけでは、神様の愛に値しない、というのが、
聖書の絶対的な主張です。
信仰によって、神様の目に「義」とされるのです。

どうも、「信仰義認」という教義、
キリスト教用語はあまり好きではないので、
別な言い方をすれば、
神様との関係性が大切である、と言い換えることができます。

親が子どもを愛するのは、
その子の賢さとか、容姿端麗によるのでしょうか?
そんなことはないですね。
愛に理由などなく、
ただ、自分の子どもだから(=関係性)、愛するわけです。

小さい子で、かわいいのは、
人見知りしないで、なついてくる子です。
反対に、どんなにかわいい顔の子であっても、
こちらの愛と善意を信じられない子は、
残念ながら、あまりかわいいとは思えません。

私たちを神様が愛されるのは、
私たちが「神様の子」であるからです。
私たちは、それ(神様との関係性、神様に愛されていること)に気がついている。
それが、「信仰者」という存在です。

子であること、というのは、
普通、子どもが親を認めるのではなく、
親が、その子を「わが子」と認めることによって成立します。

だからこそ、「私は○○ができないから、
受洗しないほうがいい。」とか、
「私は主の祈りを祈る資格などない」などと、
自分を卑下する必要はありません。
大事なのは、神様が差し出している愛の手を、
しっかりと握ることだけです。

(追記:もちろん、時には自己を省みることが必要です。
たまには、上の「アフリカの主の祈り」なるものを、
いわば自分の姿を映し出す水鏡のように使ってみる価値は、
あるかもしれませんね。)

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