« 初めの愛 | トップページ | ビューティフル・ネーム? »

2009年7月16日 (木)

天国を音楽にたとえると

天国で奏でられる音楽は、どのようなものであるか、
想像したことがありますか?

20世紀最大の神学者、カール・バルトは、
その著書『モーツァルト』(新教出版社)で、
「天国で天使たちが演奏する音楽は、
公式な演奏会では、J・S・バッハ、
しかし自分たちが楽しむためには、モーツァルトの曲」
というような言葉を述べています。
(今、手元に本がないので、正確な引用ではありませんが・・・)
これも、ひとつの意見としては、興味深いですね。

私にとって、「天国」を感じさせてくれた曲は、
確か二十歳頃に図書館の視聴覚室で聴いた、
パレストリーナの「教皇マルチェルスのミサ」でした。
演奏団体の正確なものはもう覚えていませんが、
確か、ボーイソプラノを使っていたと記憶しています。
(一般的には、タリス・スコラーズ盤で聴くのがおすすめです。)
当時ものすごく感動しました。

パレストリーナの作品では、それぞれ別な旋律が、
互いに絡み合って、精緻な美しい響きを醸し出します。
主旋律とそれを補う和音、というような関係ではなく、
お互いがお互いを活かし、高めあう関係といえます。

パレストリーナの他に、天国の響きを感じた体験としては、
聖霊に満たされた人たちのグループの集会で、
100人以上の人が同時に、
「異言」(参照:新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ12~14章)
で讃美しているのを聞いた時です。
一人ひとりは訳の分からない、違うことを歌っているのですが、
(当人にも、何を語っているのか、わからないことがほとんどです。)
しかし、「奇妙に」(としか表現しようがありません。)、
互いの声が響きあい、宇宙的に美しい響きを醸し出していました。
パレストリーナの作品の場合であれば、楽譜がきちんと存在しますが、
「異言」による讃美には当然、楽譜はありません。テキストもありません。
まさに聖霊の賜物でした。

天国での音楽については、別な考え方もできます。
パレストリーナの曲や、
大人数での異言による讃美、のような複雑なものではなく、
もっとすっきりとした形です。
たとえば、ピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲のような、
ソリストとオーケストラの関係、という考え方はいかがでしょうか?
ソリスト兼指揮者は、もちろんイエス・キリストです。
キリストを信じる者たちがそのオーケストラ・・・
(ソリスト兼指揮者、というのは、
よくモーツァルトのピアノ協奏曲などでやっていますね。
(余談ですが、ダニエル・バレンボイムによる指揮とピアノの、
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番の実演は、
今まで聴いた数あるコンサートの中で最高の演奏でした。)

オーケストラ、という団体は、教会や天国を考察する上で、
とても参考になります。
ヴァイオリンだけのオーケストラ、フルートだけのオーケストラ・・・
(「ベルリン・フィル 12人のチェリストたち」なんて団体はありますが・・・)
いかに美しい音色の楽器であっても、
同じ楽器だけで構成されたオーケストラなら、退屈です。

通常、オーケストラで最も音の数が多いのは、ヴァイオリンです。
反対に、出番が少ないのは、ティンパニ以外の打楽器類です。
銅鑼がクライマックスで1回だけ出てくる、なんてこともあります。
しかし、たった1回しか出てこないとしても、
とても重要な役割を果たしているはずです。
他の楽器では、代用ができません。
同じように、ヴァイオリンはフルートになれませんし、
フルートはヴァイオリンになれません。
(そもそも、なる必要がないのです。)

使徒パウロは、コリントの信徒への手紙Ⅰの12章で
(エフェソの信徒への手紙1、4章でも展開していますが)、
教会をキリストの体にたとえ、
教会に属する各人それぞれ、役割が違うことを語っています。
「もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。
もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
そこで神は、御自分の望みのままに、
体に一つ一つの部分を置かれたのです。」
(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ12:17~18新共同訳)

教会の中には、熱心な人とそうでない人がいます。
愛に満ちて、文字通り、「美しいハーモニー」を奏でる人がいれば、
図らずも、不協和音を響かせる人や、「特殊楽器」のような役の人もいます。
しかし、どの人も、教会にとって、必要な人なはずです。
(意識的に、教会に不和と分裂をもたらす人は別ですが・・・)

協和音ばかり、不協和音ばかりなら、音楽としてつまらないか、不快なだけです。
しかし、協和音と不協和音が適度にとり混ぜられているからこそ、
音楽は美しく響きわたるのです。

先ほど、あるオーケストラ曲において、
1回しか出番がない銅鑼の話をしましたね。
教会において、大事にされるべきは、
初めて教会に来た人(来始めた人)と、
ごくまれにしか教会に来ない人だと、私は考えています。
また、高齢の人や病気の人も大切です。
「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、
かえって必要なのです。」
(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ12:22新共同訳)
そういう人々への、普段から教会に来ている人の対応が、
その教会の「ハーモニーの美しさ」を図るバロメーターです。
教会において見るべきは、立派なステンドグラスや、
パイプオルガン、美しい装飾ではありません。
愛をこそ、見るべきなのです。

キリストを信じる私たちは、天国では、
地上以上に讃美することでしょう。
しかし、まず大切なのは、この地上で、
イエス・キリストへの信仰、という妙なる調べを響かせることです。
私も、その楽器の一つとして、
美しいメロディを奏で続けたいと願っています。

« 初めの愛 | トップページ | ビューティフル・ネーム? »

聖なる言葉」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

にほんブログ村

  • にほんブログ村
無料ブログはココログ