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2009年6月30日 (火)

雅歌について

「エルサレムの娘たちよ、
わたしは黒いけれども美しい。」(旧約聖書 雅歌1:5口語訳)

雅歌は、聖書全体の中でも、特異な書です。
聖書であるのに、「神」、「主」(あるいは、それを指し示す言葉)、
「祈る」のような言葉が、まったく出てこない、
いやむしろ、意識的に避けられているからです。
(同様なものとしては、旧約聖書のエステル記があります。
ただし、「エステル記」は、プロテスタント・ユダヤ教版と、
カトリック版では相違があります。
カトリックが第二正典(旧約聖書続編)として採用している版には、
「神」や「祈る」という言葉が出てきます。)

上述の、エステル記であれば、
たとえ「神」や「主」という言葉が出てこなくても、
歴史の背後におられるお方(=神様)が、
確かに物事を最善に導いておられる事が、
容易に想像できます。

しかし、雅歌はどうでしょうか?
たぶん、訳注がついていない聖書(新共同訳や新改訳など)を、
ただ読んだだけなら、
「これのどこが聖書なんだ?」という疑問を抱くと思います。
単なる恋愛詩としか思えないからです。
私にとっても、初めはやはりそうでした。

たとえば、何も註解なしで、以下のところを読むと、
どう思われますか?
どうやら、「理想の女性の姿」、のようです・・・
「首は象牙の塔。
目はバト・ラビムの門の傍らにあるヘシュボンの二つの池。
鼻はレバノンの塔、ダマスコを見はるかす。
高く起こした頭はカルメルの山。
長い紫の髪、王はその房のとりこになった。」
(旧約聖書 雅歌7:5~6新共同訳)
聖書を読み始めて、初めてここを読んだ時、
「まるでピカソの絵の人物みたいだ。」と思いました。

雅歌は、読む人の心に応じて、装いを変えてあらわれます。
ある人にとっては、単なる恋愛詩にしか思えないものですが、
(※決して、この解釈は、間違ってはいません。念のため。)
私にとって、雅歌は、旧約聖書全体の頂上です。
(いや、私だけでなく、ユダヤ教のラビたちや、
キリスト教の教父たちも、同様な意見でした。)

洗礼を受ける前に、私はある方法に従って、
聖書全体を通読することに挑戦していました。
(100日間程度で、聖書全体を読む、というものです。
それは、本来は、共同体として、
「100週間で聖書全体を読みきる」、
というものでしたが、テキストを買ってはみたものの、
教会ではその方式は採用されそうもないので、
やむなく、自分ひとりだけでやってみました。)

そして、ついに雅歌を読む日が来ました。
当時、バルバロ訳で、通読をしていました。
(バルバロ訳のすぐれているところは、
注釈や挿絵が豊富なところです。)
バルバロ訳では、雅歌を、「神とイスラエル」、
「神と人間」、「神と教会」の寓喩であると解釈し、
それに基づいて注釈しています。

創世記から始まるイスラエルの歴史は、お世辞にも、
「聖なる」ものとはいえません。
むしろ、罪と背きの連続、といってもいいでしょう。
時々、すばらしい信仰のリーダーが現れては、
一時期、まことの神様を信じますが、
すぐに、元の偶像礼拝に戻ってしまいます。
しかし、それでも、いや、「にもかかわらず」、
神様は、イスラエルを愛し続けます。
「永遠の愛をもって、
わたし(神様)はあなた(イスラエル=神の民)を愛した。
それゆえ、わたしはあなたに、
誠実を尽くし続けた。」
(旧約聖書 エレミヤ書31:3新改訳)
私たちが属する、「聖なる」(はずの)教会(全キリスト教会)も同様です。
カトリック教会の歴史は、汚点だらけといっても過言でありません。
(プロテスタント諸教会も、「しみや傷」がないわけではありませんね・・・)
それにも関わらず、神様は、イスラエルの民と、教会の民を、
「お前たちはもうダメだ!」と決して見放すことはありません。
ただ、神様に立ち帰ればいいだけなのです。

先ほどの話に戻りますね。
私はその時、不思議な体験をしました。
雅歌の1行1行から、そしてその註解から、
神様からの圧倒的な愛を感じたのです。
いかに神様が、イスラエルを(そして、神の民を)愛しておられるか、
ひしひしと伝わってきました。
これは、言葉では言い表すことができません。
その時、イスラエルの歴史全体、教会の歴史全体が、
あたかも山の頂上から平野を見渡すように、
ヴィジョンとして見えてきました。
これは、初めての経験でした。
と同時に、それ以来、そのような体験は今のところないです。
私が、本当に、神の愛の確かさを知った時となりました。

冒頭に掲げた聖句は、まさにイスラエルの存在そのものをあらわしています。
「黒い(罪、背き・・・)けれども美しい(愛されている)。」
本来、愛される価値が既になくなっているはずのイスラエル、
しかし主は、決してイスラエルを見捨てられませんでした。
まさに、「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」
(新約聖書 ローマの信徒への手紙11:29新共同訳)

考えてみてください。
神様が、イスラエルの民に対して、
「あなたたちを祝福する。」と言われたのは、
律法を完璧に守る「よい子」だったからでしょうか?
もし、救いが、ただ人間的なものだけによるのであれば、
なんともろいものでしょうか?
神様の約束は、そんなにいい加減なのものでしょうか?
決して、そうではありません。
だからこそ、「神様はイスラエルを拒んで、代わりにキリスト教会を、
新たな神の民とした。」という、いわゆる置換神学は、
否定されるべきものです。
(イスラエルと教会との関係については、
また別の機会に改めて書きたいと思います。)

私は、神様のイスラエルに対する愛、そして、
イスラエルの神様への愛の力強さに圧倒されました。
その時から、本当に、神様は信頼できるお方であると実感しました。
雅歌とは、そういう書物なのです。

聖書は、人間の結婚で始まり(創世記1、2章)、
中間に、愛のすばらしさを歌いあげた雅歌があり、
最後に、神と神の民との結婚(ヨハネの黙示録19、21章)で終る、
偉大なる、神と神の民とのラブロマンスなのです!

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