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2009年6月26日 (金)

ユダへの言葉

「だが、人の子(イエス様)を裏切るその者(直接は、イスカリオテのユダ)は不幸だ。
生まれなかった方が、その者のためによかった。」
(新約聖書 マタイによる福音書26:24)
(※同じ言葉が、マルコ14:21にも書いてあります。
ルカ22:22では、「生まれなかった方が・・・」は書いてありません。)

上記の言葉について、ある人から質問がありました。
「どうして、イエス様はこんな厳しい言葉を言われたのでしょうか。
『生まれなかった方がよい』なんて、全人格を否定するような、
恐ろしい言葉を言われるとは・・・
イエス様は、すべての人を愛されていたのでは?
それなら、イスカリオテのユダも、例外ではないはずでは?」

確かに、この言葉は非常に厳しいですよね。
イスカリオテのユダと言えば、「裏切り者」の代名詞ですね。
イタリアの詩人ダンテの『神曲』の「地獄篇」では、
イスカリオテのユダは、地獄の最下層の方に落とされています。
(しかし、裁きをするのは神様ですので、
誰が地獄に行くのか、などというのは、
私たちが勝手な想像をめぐらすべき問題ではありません。)
はたして、イエス様も、ユダに対して、
この言葉によって、「お前は地獄行きだ!」と宣言されたのでしょうか?

まず、考えてほしいのが、
この言葉が、どのような状況の下で言われたのかです。
ユダがイエス様の下から離れ去った後でしょうか、
それとも、ユダが同席しているときに、でしょうか。

この言葉は、十二弟子全員が揃っている中で、語られました。
しかし、イエス様は、誰が裏切るかはご存じでしたが、
あえて、裏切る者の名を、公然とはさらしませんでした。
もし、「ユダが裏切り者だ」と直接明確に語っていたら、
どうなっていたでしょうか?
たぶん、弟子たちの間で、争いが起きていたでしょう。
イエス様は、裏切り者のユダでさえ、愛しておられました。
だから、明言は避けたのでしょう。

「それにしても、こんなに激しい言い方をしなくてもいいのでは?」
という疑問はまだ残りますね。
ここで、日常的な2つの場面を考えてみましょう。
①車が頻繁に通る道路のそばで、わが子が遊んでいます。
もう少しで、わが子は道路に出てしまいそうです。
車にひかれるかもしれません。
その時、親は、「危ない!」と大声を出すでしょう。
場合によっては、わが子を強引に道路から連れ戻すかもしれません。
その子の腕が痛むかもしれません。
普段は、大声をあげたりすることは、よくないことです。
しかし、命を救うためには、ぜひ必要なことですね。
②よく、TVドラマで、親子や教師と生徒のシーンで、
見かける光景です。
自暴自棄なセリフを言った子(生徒)を、
親(教師)が、「バカ!」と言って、
その子(生徒)の頬を平手打ちする。
平手打ちした側(親、教師)は、泣いています。
言葉と行為だけとれば、平手打ちした側の方が、
「侮辱」と「暴力」によって、「悪」となりますね。
しかし、その言葉と行為は、
愛から出るもの、のはずです。

イエス様は、ユダを愛していたからこそ、
厳しい言葉を使った、ともいえます。
ちょうど、上記①と②の例のように・・・
新約聖書 ヨハネの黙示録3:19には、
「わたし(イエス様)は愛する者を皆、
叱ったり、鍛えたりする。
だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。」(新共同訳)
と書かれています。
イエス様からの叱責は、愛のしるしです。
「およそ鍛練というものは、当座は喜ばしいものではなく、
悲しいものと思われるのですが、
後になるとそれで鍛え上げられた人々に、
義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」
(新約聖書 ヘブライ人への手紙12:11新共同訳)

たぶん、その時のイエス様の心の中では、
「ユダよ、気づいてほしい、今が最後のチャンスだ。
私を裏切ることがどういうことになるのか、よく考えてほしい。
今ならまだ間に合う。悪の道から離れ、目を覚ませ!」
と思われていたのでは、と私は推測しています。
神様は、自由意思を尊重されます。
決して、強制はされません。
だからこそ、「裏切る」という意思をも、あえて尊重されたのでしょう。
ユダは、「裏切る」だけではなく、
「従う」という意思も選択できたはずですが・・・

イエス様は、十字架につけられてから、
ご自分を十字架につけた人々や、
あざける群衆を前に、
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
(新約聖書 ルカによる福音書23:34)と言われました。
十字架の苦しみの中でも、人々を赦されたお方が、
単なる憤りで、あのような厳しい言葉を言われたはずはありません。

「人の子を裏切るその者は不幸だ。」は、確かにユダを指しています。
しかし、よく考えてみれば、他の弟子たちは、
ユダのように「直接的に」は裏切りませんでしたが、
イエス様がゲッセマネの園で捕えられてしまった時に、
みな、逃げてしまいました。これも「間接的」には、「裏切り」ですね。
私たちも、信仰に入ってから、何度、イエス様を裏切ったでしょうか・・・
私たちには、イスカリオテのユダを裁く権利はありません。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、
世(つまり、私たち)を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。」
(新約聖書 ヨハネによる福音書3:16新共同訳)
滅びていい人間など、一人もいません。
神様は、最後の最後まで、私たちが神様に立ち返るのを、
望んでおられます。
(もちろん、「そうしたくない」というならば、
その自由意思を尊重されますが・・・
イエス様も、ユダを救おうとしましたが、ユダ自ら、それを拒みました。)
だからこそ、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」
(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ6:2新共同訳)
なのです!悔い改めるのに遅すぎる、ということはありません。

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