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2009年6月の43件の記事

2009年6月30日 (火)

雅歌について

「エルサレムの娘たちよ、
わたしは黒いけれども美しい。」(旧約聖書 雅歌1:5口語訳)

雅歌は、聖書全体の中でも、特異な書です。
聖書であるのに、「神」、「主」(あるいは、それを指し示す言葉)、
「祈る」のような言葉が、まったく出てこない、
いやむしろ、意識的に避けられているからです。
(同様なものとしては、旧約聖書のエステル記があります。
ただし、「エステル記」は、プロテスタント・ユダヤ教版と、
カトリック版では相違があります。
カトリックが第二正典(旧約聖書続編)として採用している版には、
「神」や「祈る」という言葉が出てきます。)

上述の、エステル記であれば、
たとえ「神」や「主」という言葉が出てこなくても、
歴史の背後におられるお方(=神様)が、
確かに物事を最善に導いておられる事が、
容易に想像できます。

しかし、雅歌はどうでしょうか?
たぶん、訳注がついていない聖書(新共同訳や新改訳など)を、
ただ読んだだけなら、
「これのどこが聖書なんだ?」という疑問を抱くと思います。
単なる恋愛詩としか思えないからです。
私にとっても、初めはやはりそうでした。

たとえば、何も註解なしで、以下のところを読むと、
どう思われますか?
どうやら、「理想の女性の姿」、のようです・・・
「首は象牙の塔。
目はバト・ラビムの門の傍らにあるヘシュボンの二つの池。
鼻はレバノンの塔、ダマスコを見はるかす。
高く起こした頭はカルメルの山。
長い紫の髪、王はその房のとりこになった。」
(旧約聖書 雅歌7:5~6新共同訳)
聖書を読み始めて、初めてここを読んだ時、
「まるでピカソの絵の人物みたいだ。」と思いました。

雅歌は、読む人の心に応じて、装いを変えてあらわれます。
ある人にとっては、単なる恋愛詩にしか思えないものですが、
(※決して、この解釈は、間違ってはいません。念のため。)
私にとって、雅歌は、旧約聖書全体の頂上です。
(いや、私だけでなく、ユダヤ教のラビたちや、
キリスト教の教父たちも、同様な意見でした。)

洗礼を受ける前に、私はある方法に従って、
聖書全体を通読することに挑戦していました。
(100日間程度で、聖書全体を読む、というものです。
それは、本来は、共同体として、
「100週間で聖書全体を読みきる」、
というものでしたが、テキストを買ってはみたものの、
教会ではその方式は採用されそうもないので、
やむなく、自分ひとりだけでやってみました。)

そして、ついに雅歌を読む日が来ました。
当時、バルバロ訳で、通読をしていました。
(バルバロ訳のすぐれているところは、
注釈や挿絵が豊富なところです。)
バルバロ訳では、雅歌を、「神とイスラエル」、
「神と人間」、「神と教会」の寓喩であると解釈し、
それに基づいて注釈しています。

創世記から始まるイスラエルの歴史は、お世辞にも、
「聖なる」ものとはいえません。
むしろ、罪と背きの連続、といってもいいでしょう。
時々、すばらしい信仰のリーダーが現れては、
一時期、まことの神様を信じますが、
すぐに、元の偶像礼拝に戻ってしまいます。
しかし、それでも、いや、「にもかかわらず」、
神様は、イスラエルを愛し続けます。
「永遠の愛をもって、
わたし(神様)はあなた(イスラエル=神の民)を愛した。
それゆえ、わたしはあなたに、
誠実を尽くし続けた。」
(旧約聖書 エレミヤ書31:3新改訳)
私たちが属する、「聖なる」(はずの)教会(全キリスト教会)も同様です。
カトリック教会の歴史は、汚点だらけといっても過言でありません。
(プロテスタント諸教会も、「しみや傷」がないわけではありませんね・・・)
それにも関わらず、神様は、イスラエルの民と、教会の民を、
「お前たちはもうダメだ!」と決して見放すことはありません。
ただ、神様に立ち帰ればいいだけなのです。

先ほどの話に戻りますね。
私はその時、不思議な体験をしました。
雅歌の1行1行から、そしてその註解から、
神様からの圧倒的な愛を感じたのです。
いかに神様が、イスラエルを(そして、神の民を)愛しておられるか、
ひしひしと伝わってきました。
これは、言葉では言い表すことができません。
その時、イスラエルの歴史全体、教会の歴史全体が、
あたかも山の頂上から平野を見渡すように、
ヴィジョンとして見えてきました。
これは、初めての経験でした。
と同時に、それ以来、そのような体験は今のところないです。
私が、本当に、神の愛の確かさを知った時となりました。

冒頭に掲げた聖句は、まさにイスラエルの存在そのものをあらわしています。
「黒い(罪、背き・・・)けれども美しい(愛されている)。」
本来、愛される価値が既になくなっているはずのイスラエル、
しかし主は、決してイスラエルを見捨てられませんでした。
まさに、「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」
(新約聖書 ローマの信徒への手紙11:29新共同訳)

考えてみてください。
神様が、イスラエルの民に対して、
「あなたたちを祝福する。」と言われたのは、
律法を完璧に守る「よい子」だったからでしょうか?
もし、救いが、ただ人間的なものだけによるのであれば、
なんともろいものでしょうか?
神様の約束は、そんなにいい加減なのものでしょうか?
決して、そうではありません。
だからこそ、「神様はイスラエルを拒んで、代わりにキリスト教会を、
新たな神の民とした。」という、いわゆる置換神学は、
否定されるべきものです。
(イスラエルと教会との関係については、
また別の機会に改めて書きたいと思います。)

私は、神様のイスラエルに対する愛、そして、
イスラエルの神様への愛の力強さに圧倒されました。
その時から、本当に、神様は信頼できるお方であると実感しました。
雅歌とは、そういう書物なのです。

聖書は、人間の結婚で始まり(創世記1、2章)、
中間に、愛のすばらしさを歌いあげた雅歌があり、
最後に、神と神の民との結婚(ヨハネの黙示録19、21章)で終る、
偉大なる、神と神の民とのラブロマンスなのです!

Song of Songs(雅歌2:10)【自作曲】

6月30日は、愛する妻の誕生日です。

今回は、みなさんにこの曲を紹介すると同時に、
感謝をこめて、妻にこの曲を贈りたいと思います。

タイトルは、直訳すると、「歌の中の歌」となりますが、
実は、旧約聖書の「雅歌」の英語書名が、
"Song of Songs"なのです。

雅歌については、次回改めてコメントします。

テキストは、以下のとおりです。
恋人よ、美しいひとよ
さあ、立って出ておいで。

恋人よ、美しいひとよ
さあ、立って出ておいで。

ごらん、冬は去り、
雨の季節は終った。

花は地に咲きいで、
小鳥の歌うときが来た。
この里にも山鳩の声が聞こえる。

いちじくの実は熟し、
ぶどうの花は香る。

恋人よ、美しいひとよ
さあ、立って出ておいで。

恋人よ、美しいひとよ
さあ、立って出ておいで。

恋人よ、恋人よ、
あなたは 美しい。

(旧約聖書 雅歌2:10~13、4:1新共同訳)

私にとって、妻は今でも恋しい人です。
恋人よ、あなたはなにもかも美しく
傷はひとつもない。

(旧約聖書 雅歌4:7新共同訳)
世界中でいちばんすばらしい妻をお与えくださいました、
恵み深い主に感謝します!

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

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2009年6月29日 (月)

ハレルヤ全能の主(ヨハネ黙示録19:6)【自作曲】

前回に引き続いて、「ヨハネの黙示録」からの自作曲を紹介します。

前回紹介した「ハレルヤ 王の王 主の主」は、
ヨハネの黙示録19:6、7、16、4(新共同訳)をテキストとしていましたが、
今回紹介します曲は、ヨハネの黙示録19:6、1(文語訳)がテキストです。

「ハレルヤ 全能の主 
われらの神は 統治(すべし)らすなり

ハレルヤ 救(すくい)と栄光と
権力(ちから)とは、
我らの神の ものなり

ハレルヤ 全能の主」
(注:文語訳では、旧字体が使われていますが、
変換の都合上、現行のカナ遣い、漢字を使っています。)

前回紹介した曲は、10年以上も前に与えられた曲ですが、
この曲は、昨年の初冬に与えられたものです。
どちらも気にいっていただけると幸いです。

勝利者であり、私たちを愛してやまない主を賛美します!

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

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ハレルヤ 王の王 主の主(ヨハネ黙示録19:6)【自作曲】

「ハレルヤ、全能者であり、
わたしたちの神である主が王となられた。
わたしたちは喜び、大いに喜び、
神の栄光をたたえよう。

王の王、主の主
アーメン、ハレルヤ、ハレルヤ!

ハレルヤ、全能者であり、
わたしたちの神である主が王となられた。
わたしたちは喜び、大いに喜び、
神の栄光をたたえよう。

アーメン、ハレルヤ!」
(新約聖書 ヨハネの黙示録19:6、7、16、4新共同訳)

今回紹介する自作曲は、
主の栄光をほめたたえる、すばらしい御言葉をテキストにしています。

楽譜どおりに歌うと、かなりの高音域が連続しますので、
1オクターブ下げて歌うか、移調してもかまいません。
(私も残念ながら、この楽譜どおりには歌えません・・・)

途中の「神の栄光をたたえよう」のところは、
R・シュトラウスの『四つの最後の歌』の第3曲、
『眠りにつこうとして』の一部に影響を受けています。

全体的に、陰鬱な描写が続くヨハネの黙示録ですが、
実は主の勝利を高らかにほめうたうところこそ、
著者と初代教会が最も伝えたかったところなのでしょう。

この箇所への作曲は、この作品と、もう1曲あります。
そのもう1曲については、後で掲載します。
(ただし、まったく同一テキストではなく、
ヨハネの黙示録19:6、1(文語訳)がテキストです。)

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年6月28日 (日)

天上の礼拝(ヨハネ黙示録4:8)【自作曲】

『ヨハネの黙示録』ときいて、みなさんは、どのようなイメージを抱いていますか?
「世の終わり」、「終末」、「おどろおどろしい」、「阿鼻叫喚地獄」、
はては、「666」、「ハルマゲドン」・・・
確かに、どれも間違いではありません。
ただ、上記にあげたものは、共通して、「怖い」というイメージがあります。
信じない者、イエス様の救いを拒否し続ける人にとって、
ヨハネの黙示録は、裁きと滅びを宣告する書でしかありません。
しかし、信じる者にとっては、確かな勝利を約束する書となります。

以前、『オレたちに明日はない?―黙示録の解読ガイド』
(出版:視覚デザイン研究所)という本を読んだ際に、
次のような言葉があったと記憶しています。
「黙示録は、天上のミュージカルだ。」
(既に手元にない本なので、正確な引用でないかもしれません。)
この本自体については、私の心の中でも賛否両論があるので、
「オススメ」の書評を書くつもりはありません。
しかし、先ほどの言葉は、黙示録を読み解く上で、大きな鍵となりました。
実際、「ヨハネの黙示録」は、賛美の歌にあふれています。
(なお、視覚的に、ヨハネの黙示録を知ってみたい、というならば、
『オレたちに明日はない?―黙示録の解読ガイド』は一読をおすすめします。)

この世界を、一つの「映画」だとすれば、
私たちの「映画」の結末は、既に決まっています。
それは、キリストの勝利と、
「新しい天と新しい地」(ヨハネの黙示録21:1)が到来し、
「神が人と共に住み、人は神の民となる。
神は自ら人と共にいて、その神となり、
彼ら(キリストを信じる者たち)の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。
最初のものは過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21:3~4新共同訳)
という聖書の約束が実現するのです!
つまり、信じる者にとっては、ハッピーエンドな結末が待っています。
今がどんなにスリリングな展開の最中であっても・・・

今見える世界が、どれほど悪や困難に満ちた「夜」であっても、
必ず、「夜」の後には「夜明け」があり、「朝」が来るのです。
キリストを信じる私たちは、「夜」の世界にあって、
「夜明け」を宣言し、「朝」を先取りしています。
だからこそ、主をたたえずにはおられないのです!
「(主は)泣きながら夜を過ごす人にも
喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」
(旧約聖書 詩編30:6新共同訳)

前置きがかなり長くなってしまいましたね。
今回紹介する自作曲のタイトルは、「天上の礼拝」です。
新共同訳で、ヨハネの黙示録4章全体の見出しが、「天上の礼拝」となっています。
この曲が与えられたのは、もう12、3年前だと思います。

ヨハネの黙示録4:8への作曲は、現在までに5曲与えられています。
内訳は、新改訳1、新共同訳2、岩波書店訳1、文語訳1です。
その中でも、最も気にいっているのが、この曲です。
なお、上記5曲のうち、「天上の礼拝」とタイトルをつけたのは、この作品だけです。

テキストは以下のとおりです:
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。
神であられる主、万物の支配者、

昔いまし、常にいまし、後に来られる方。
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。

ほふられた小羊は、
力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、
栄光と、賛美を
受けるにふさわしいかたです。
アーメン、アーメン。」

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
(新約聖書 ヨハネによる福音書20:27新共同訳)
「しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、
信仰によって命を確保する者です。」
(新約聖書 ヘブライ人への手紙10:39新共同訳)
主イエスの救いと勝利を賛美しましょう!ハレルヤ!

テキスト・楽譜とメロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年6月27日 (土)

書評:福田勤著『イエス・キリスト 人生に奇跡を起こす言葉』


イエス・キリスト 人生に奇跡を起こす言葉―2000年間、人間の魂を磨き続けたメッセージ (知的生きかた文庫)


買ったきっかけ:
人にすすめようと思い、買いました。キリスト教系出版社ではない、一般の出版社の、しかも廉価な文庫本で、福音に触れることができるのは、貴重な存在です。

感想:
著者は、司祭で、現在フランシスコ会聖書研究所理事長です。福音書の中にある、イエス様が語られた代表的な言葉に対して、きわめて平易な言葉で、適切なコメントを述べています。改めて、イエス様の言葉のすばらしさを思わされました。「知的生きかた文庫」の中の一冊なので、たいていの書店に置いてあるはずです。聖書入門書としては、最適なのでは、と思います。

おすすめポイント:
イエス様の言葉一つに対して、だいたい3、4ページの記事が書いてあります。順番に読む必要はなく、適当なところから読んでも構いません。文庫本なので、通勤通学時のお供にも最適です。


イエス・キリスト 人生に奇跡を起こす言葉―2000年間、人間の魂を磨き続けたメッセージ (知的生きかた文庫)


著者:福田 勤




イエス・キリスト 人生に奇跡を起こす言葉―2000年間、人間の魂を磨き続けたメッセージ (知的生きかた文庫)

2009年6月26日 (金)

書評:北森嘉蔵著『聖書の読み方』

聖書の読み方 (講談社学術文庫)

買ったきっかけ:
高校生の時に、何度も読んだことがありますが、既に手元にはありません。
今回、人にすすめるためと、自分が改めて再学習するために買ってみました。

感想:
聖書「についての」本を読むことから、聖書「そのもの」を読むために最適な、聖書入門書です。 非常に適切な、聖書を読むコツが平易に書かれてあります。
おすすめは、「Ⅰ 聖書をどう読むか」のところです。ここだけでも、何度も繰り返して読むのをおすすめします。
講談社現代新書の時から比べると、値上がりしてしまったことは残念ですが、名著が読まれ続けていることは何よりです。



おすすめポイント:
聖書そのものを読む入門書としても、北森神学の入門書としてもおすすめです。
また、「大文字版」なので、読みやすいです。

聖書の読み方 (講談社学術文庫)

著者:北森 嘉蔵

聖書の読み方 (講談社学術文庫)

ユダへの言葉

「だが、人の子(イエス様)を裏切るその者(直接は、イスカリオテのユダ)は不幸だ。
生まれなかった方が、その者のためによかった。」
(新約聖書 マタイによる福音書26:24)
(※同じ言葉が、マルコ14:21にも書いてあります。
ルカ22:22では、「生まれなかった方が・・・」は書いてありません。)

上記の言葉について、ある人から質問がありました。
「どうして、イエス様はこんな厳しい言葉を言われたのでしょうか。
『生まれなかった方がよい』なんて、全人格を否定するような、
恐ろしい言葉を言われるとは・・・
イエス様は、すべての人を愛されていたのでは?
それなら、イスカリオテのユダも、例外ではないはずでは?」

確かに、この言葉は非常に厳しいですよね。
イスカリオテのユダと言えば、「裏切り者」の代名詞ですね。
イタリアの詩人ダンテの『神曲』の「地獄篇」では、
イスカリオテのユダは、地獄の最下層の方に落とされています。
(しかし、裁きをするのは神様ですので、
誰が地獄に行くのか、などというのは、
私たちが勝手な想像をめぐらすべき問題ではありません。)
はたして、イエス様も、ユダに対して、
この言葉によって、「お前は地獄行きだ!」と宣言されたのでしょうか?

まず、考えてほしいのが、
この言葉が、どのような状況の下で言われたのかです。
ユダがイエス様の下から離れ去った後でしょうか、
それとも、ユダが同席しているときに、でしょうか。

この言葉は、十二弟子全員が揃っている中で、語られました。
しかし、イエス様は、誰が裏切るかはご存じでしたが、
あえて、裏切る者の名を、公然とはさらしませんでした。
もし、「ユダが裏切り者だ」と直接明確に語っていたら、
どうなっていたでしょうか?
たぶん、弟子たちの間で、争いが起きていたでしょう。
イエス様は、裏切り者のユダでさえ、愛しておられました。
だから、明言は避けたのでしょう。

「それにしても、こんなに激しい言い方をしなくてもいいのでは?」
という疑問はまだ残りますね。
ここで、日常的な2つの場面を考えてみましょう。
①車が頻繁に通る道路のそばで、わが子が遊んでいます。
もう少しで、わが子は道路に出てしまいそうです。
車にひかれるかもしれません。
その時、親は、「危ない!」と大声を出すでしょう。
場合によっては、わが子を強引に道路から連れ戻すかもしれません。
その子の腕が痛むかもしれません。
普段は、大声をあげたりすることは、よくないことです。
しかし、命を救うためには、ぜひ必要なことですね。
②よく、TVドラマで、親子や教師と生徒のシーンで、
見かける光景です。
自暴自棄なセリフを言った子(生徒)を、
親(教師)が、「バカ!」と言って、
その子(生徒)の頬を平手打ちする。
平手打ちした側(親、教師)は、泣いています。
言葉と行為だけとれば、平手打ちした側の方が、
「侮辱」と「暴力」によって、「悪」となりますね。
しかし、その言葉と行為は、
愛から出るもの、のはずです。

イエス様は、ユダを愛していたからこそ、
厳しい言葉を使った、ともいえます。
ちょうど、上記①と②の例のように・・・
新約聖書 ヨハネの黙示録3:19には、
「わたし(イエス様)は愛する者を皆、
叱ったり、鍛えたりする。
だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。」(新共同訳)
と書かれています。
イエス様からの叱責は、愛のしるしです。
「およそ鍛練というものは、当座は喜ばしいものではなく、
悲しいものと思われるのですが、
後になるとそれで鍛え上げられた人々に、
義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」
(新約聖書 ヘブライ人への手紙12:11新共同訳)

たぶん、その時のイエス様の心の中では、
「ユダよ、気づいてほしい、今が最後のチャンスだ。
私を裏切ることがどういうことになるのか、よく考えてほしい。
今ならまだ間に合う。悪の道から離れ、目を覚ませ!」
と思われていたのでは、と私は推測しています。
神様は、自由意思を尊重されます。
決して、強制はされません。
だからこそ、「裏切る」という意思をも、あえて尊重されたのでしょう。
ユダは、「裏切る」だけではなく、
「従う」という意思も選択できたはずですが・・・

イエス様は、十字架につけられてから、
ご自分を十字架につけた人々や、
あざける群衆を前に、
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
(新約聖書 ルカによる福音書23:34)と言われました。
十字架の苦しみの中でも、人々を赦されたお方が、
単なる憤りで、あのような厳しい言葉を言われたはずはありません。

「人の子を裏切るその者は不幸だ。」は、確かにユダを指しています。
しかし、よく考えてみれば、他の弟子たちは、
ユダのように「直接的に」は裏切りませんでしたが、
イエス様がゲッセマネの園で捕えられてしまった時に、
みな、逃げてしまいました。これも「間接的」には、「裏切り」ですね。
私たちも、信仰に入ってから、何度、イエス様を裏切ったでしょうか・・・
私たちには、イスカリオテのユダを裁く権利はありません。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、
世(つまり、私たち)を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。」
(新約聖書 ヨハネによる福音書3:16新共同訳)
滅びていい人間など、一人もいません。
神様は、最後の最後まで、私たちが神様に立ち返るのを、
望んでおられます。
(もちろん、「そうしたくない」というならば、
その自由意思を尊重されますが・・・
イエス様も、ユダを救おうとしましたが、ユダ自ら、それを拒みました。)
だからこそ、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」
(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ6:2新共同訳)
なのです!悔い改めるのに遅すぎる、ということはありません。

主よ、わたしたちの神よ(ヨハネ黙示録4:11)【自作曲】

「主よ、わたしたちの神よ、
あなたこそ、栄光と誉れと力とを
受けるにふさわしい方。
(受けるにふさわしい方。)

あなたは万物を造られ、
御心によって万物は存在し、
また創造されたからです。
(創造されたからです。)

玉座に座っておられる方と
小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして
権力が、世々限りなく
ありますように。
アーメン」
(新約聖書 ヨハネの黙示録4:11、5:13、14新共同訳)

前回の記事の最後で、黙示録4:11を引用しました。
その関連として、今回、この自作曲を紹介します。
テキストは上記のとおりです。
( )内は私による追加です。

実はこの曲も、前回紹介した曲と同様、クラシック音楽に関係があります。
33小節からの、「玉座に座っておられる方と・・・」(黙示録5:13)のところは、
ブルックナーの「交響曲第6番」の第2楽章が、かすかに響いているかな、
と思っています。

この箇所への作曲は、今のところ5曲与えられています。
内訳は、新共同訳3曲、カトリック訳2曲です。

「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、
世々限りなくわたしたちの神にありますように。アーメン。」
(新約聖書 ヨハネの黙示録7:12新共同訳)

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。


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2009年6月25日 (木)

初めに言(ことば)があった(ヨハネ1:1)【自作曲】

「初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。

万物は言によって成った。
成ったもので、言によらずになったものは
何一つなかった。
言の内に命があった。

命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。

その光は、まことの光で、
世に来てすべての人を照らすのである。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
わたしたちはその栄光を見た。」
(新約聖書 ヨハネによる福音書1:1~5、9、14新共同訳)

今回は、ヨハネ福音書冒頭の、
有名な御言葉への作曲を紹介します。
よく、「初めに言葉ありき」と、文語形で引用されたりしますね。
テキストは上記のとおりです。
ここでいう「言(ことば)」とは、
ギリシャ語で、「ロゴス」といい、
本来は、「理性」などを表す言葉ですが、
ここでは、「究極の知性=天地万物の創造者」を指します。
宇宙は、「デタラメに」、「偶然」できたものではない!
いや、究極の知性によって、設計されている。
宇宙は、究極の創造者、デザイナーによって創造されたものである。
これこそ、聖書の一貫している主張です。

今回の曲の説明に戻ります。
この曲は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番の、
第2楽章を聴いていたときに、与えられました。
宇宙開闢の様子が、おぼろげながら、目に見えるようでした。

神の御子キリストの愛による、宇宙万物の創造・・・
私たちのちっぽけな頭脳の想像力を、はるかに超えてしまいます。
そういうわけで、あえて、この御言葉テキストへのコメントは、
遠慮させていただきます。
考えるよりも、むしろ、感じてほしい。そう思います。
ただ、参考として、他の聖書箇所を引用するにとどめます。

「御子(キリスト)は、見えない神の姿であり、
すべてのものが造られる前に生まれた方です。
天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、
王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。
つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。
御子はすべてのものよりも先におられ、
すべてのものは御子によって支えられています。」
(新約聖書 コロサイの信徒への手紙1:15~17新共同訳)

「主よ、わたしたちの神よ、
あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。
あなたは万物を造られ、
御心によって万物は存在し、また創造されたからです。」
(新約聖書 ヨハネの黙示録4:11新共同訳)

テキスト・楽譜と、メロディは、下記からダウンロード願います。


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2009年6月24日 (水)

わたしの魂よ、主をたたえよ(詩篇103:01(01))【自作曲】

朝起きて、窓の外を眺めると、
「なんて美しい朝なんだろう!」と感謝、感動で始まる一日は、
とてもすばらしいですよね。
(もちろん、たとえ窓の外が、暴風雨や大雪だったとしても、
感謝なことでしょうが・・・)

今回紹介する自作曲は、
テキストが、旧約聖書 詩編103:1~5(新共同訳)です。
すばらしい御言葉なので、引用しましょう:

「わたしの魂よ、主をたたえよ。
わたしの内にあるものは
こぞって 聖なる御名をたたえよ。

わたしの魂よ、主をたたえよ。
主の御計らいを何一つ忘れてはならない。

主はお前の罪をことごとく赦し
病をすべて癒し
命を墓から贖いだしてくださる。
慈しみと憐れみの冠を授け
長らえる限り 良いものに満ち足らせ
鷲のような若さを 新たにしてくださる。

わたしの魂よ、主をたたえよ。
主の御計らいを何一つ忘れてはならない。

わたしの魂よ、主をたたえよ。」

神様のすばらしい祝福がたくさん書かれていますね。
罪の赦し、病の癒し、死からの救い、精神的・物質的な祝福、
さらには、若さまで約束されています。

詩篇103は、22節まであり、長いので、
今のところ、テキスト全体通しての作曲はまだです。
しかし、主に1~5節への作曲を中心に、
各箇所への作曲は、現在までに10曲与えられています。
内訳は、新共同訳5曲、新改訳1曲、カトリック訳4曲です。
今回紹介した曲は、その中で一番古いものですが、
同時に、一番気にいっているものです。

「どうか、わたしの歌が御心にかなうように。
わたしは主によって喜び歌う。」(旧約聖書 詩編104:34新共同訳)

神様に感謝します!

テキスト・楽譜とメロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年6月23日 (火)

主の祈り(その8)「わたしたちの日ごとの糧を・・・」(2)

「主の祈り」シリーズ第8回目です。
今回は、前回に引き続き、
「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。」
の箇所について、考察します。
前回は、なぜこの句が主の祈りの中間部に位置しているか、
についてでしたね。
今回は、いよいよその内容について論じます。

この箇所については、おそらく古今東西さまざまな人々が、
解釈を述べていることでしょう。
私が読んだことのある中で、一番記憶に残っているのは、
D・カーネギー著『道は開ける』(創元社)の中にある一節です。
以下、引用します。
なお、原文には、「、、、」が強調のためつけられている箇所がありますが、
その部分には、下線を引きました。

 『心に留めてほしいのは、この祈りが今日の食物のみを求めている点だ。
この祈りは、昨日口にせざるをえなかった古いパンのことで不平を言っているのではない。
まして「おお神よ、穀倉地帯はカラカラに乾ききっており、
旱魃に見舞われるかもしれません・・・
そうなると、来年の秋にはどのようにしてパンを作ればよいのでしょう?」とか
「私が失業したら、神よ、私はどのようにしてパンを得たらよいのでしょう?」
などとは言っていない。
 そうだ。この祈りは私たちに今日のパンだけを求めるように教えている。
今日のパンこそ、人間が口にしうる唯一のパンなのだ。』
(D・カーネギー著『道は開ける』(創元社※文庫版)P30~31から引用)

上記の引用部分は、「今日、一日の区切りで生きよ」(第一章のタイトル)
ということを説明する中で、書かれています。
『道は開ける』には、悩みを克服するためのノウハウがたくさん書かれています。
ビジネス書コーナーには必ず置いてある本なので、
読んだことのある方は多いでしょう。

本文に戻りましょう。
「日ごとの糧」とは、まず、単に、その日その日の食事のことを指します。
もう少し拡大解釈すると、その日その日に必要なもの・ことをも指します。

日本では、よほどでない限り、
今日食べるものに困るということはありませんが、
(もちろん、日本でも、貧困が深刻化しているのは事実ですが・・・)
アフリカなどに行けば、子どもたちの将来の「夢」が、
「腹いっぱい食べること」だったりします。
そういう中では、まず、「今日」食べるものがあるだけで、
すばらしく感謝すべきことなのです。
飽食の国では、なかなか理解できないことですよね。

旧約聖書の「出エジプト記」から「申命記」において、
エジプトを出たイスラエルの民の荒野での生活が描かれています。
荒野では、普通の食べ物はなく、
神様が「マナ」を「毎日必要な分だけ」(旧約聖書 出エジプト記16:4新共同訳)
民に与えた、という記述があります。
「マナ」は、安息日という例外的な日を除いて、
保存することができませんでした。

なぜ、神様は、「日ごとの糧を今日もお与えください」と祈れ、
と命じたのでしょうか?
日ごとの糧を、「明日も、いつまでも」ではいけないのでしょうか?

おそらく、人間が自分の力に思いあがって、
神様に信頼するのを忘れてしまわないように、という意味かな、
と私は解釈しています。
飽食の国ほど、無神論や不可知論がはびこっていますね。

旧約聖書の「箴言」には、次のような言葉が書かれています。
『(神よ、私を)貧しくもせず、金持ちにもせず
わたしのために定められたパンで わたしを養ってください。
飽き足りれば、裏切り 主など何者か、と言うおそれがあります。
貧しければ、盗みを働き
わたしの神の御名を汚しかねません。』
(旧約聖書 箴言30:8~9新共同訳※()内は補足説明)

「明日のことまで思い悩むな」(新約聖書 マタイによる福音書6:34新共同訳)
と、イエス様は言われました。
父なる神様が、私たちを養ってくださるからだ、心配するな!
必要なものは、神様が与えてくださいます。
神様は、私たちを愛してくださる、恵み深い天の父だからです。

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。
神があなたがたのことを心配してくださるからです。」
(新約聖書 ペテロの手紙Ⅰ5:7新改訳)

私のようなものでさえ、「心配して」心にかけてくださるお方がいるのです!
だからこそ、日々の感謝を忘れずに、神様にささげていきたいものです。

2009年6月22日 (月)

身代わり

「罪と何のかかわりのない方(イエス・キリスト)を、
神はわたしたちのために罪となさいました。
わたしたちはその方(イエス・キリスト)によって
神の義を得ることができたのです。」
(新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ5:21新共同訳)

もしあなたが、ふとした出来心で、
会社のお金1億円を横領してしまった、と仮定します。
ふつうは、事件が発覚した時点で、
懲戒免職になるし、刑事告訴されてしまいますね。
そうなれば、新聞などでは、あなたの犯罪が報道されます。
当然、盗んだお金はすべて弁済する義務がありますが、
しかしあなたは、そのお金全部をギャンブルで使い果たし、
全然、返すあてがありません。

しかし、(これまた、滅多にありえない話ですが)
その会社の社長は、あなたのおじにあたる人で、
あなたを愛していたので、あなたの将来を思い、
あなたの罪を指摘して諭した上、
会社は諭旨退職とした上、退職金も支払いました。
また、盗んだお金については、社長自らが弁済しました。
あなたは、犯した罪を反省し、新しい人生を歩むことになりました。
刑法上の罪を犯したことがない者として・・・

これは私が作ったたとえ話ですが、
もしかしたら、実際にこんな事はありえるかもしれませんね。
罪を犯した人と、その償いをする人が違う、という話。
どこかで聞いたことはありませんか?
そう、聖書における、私たちと神様との関係、
私たちと罪とその罰との関係は、
まさに上記のたとえ話よりもすごいことです。

イエス様は、私たちを愛してくださった故に、
十字架において、私たちのすべての罪を引き受けてくださいました。
私たちの「負債」は、十字架上ですべて清算されました。
私たちはそれゆえにゆるされ、神との正しい関係を持てるようになりました。

「(キリストは)十字架にかかって、
自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが、罪に死んで、義によって生きるようになるためです。
その受けた傷によって、あなたがたはいやされました。」
(新約聖書 ペトロの手紙Ⅰ2:24新共同訳)

イエス様にすべての罪を担っていただくには、
どうすればよいのでしょうか?
ただ、信じるだけでいいのです!

「主イエスを信じなさい。そうすれば、
あなたも家族も救われます。」
(新約聖書 使徒言行録16:31新共同訳)

このグッド・ニュース(よきしらせ=福音)を信じましょう!

2009年6月21日 (日)

明日のことまで思い悩むな(教会学校説教案)

現在、私は、ある教会で、
教会学校スタッフをやらせていただいています。
今回、説教担当だったので、その説教案を掲載します。
なお、実際このとおりに話したのではなく、
そこに居合わせた子どもにあわせて、
内容をいくらか変更させました。

テキストは、新約聖書 マタイによる福音書6:34です。
せっかくなので、その全文を記載します。
「だから、明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。」
(新共同訳)
今日を大切にすること、悩みに対処する方法、
そして、夢を持つことについて、語ることにしました。


(説教案)
(①子どもたちに質問をする)
今日の聖書についてのお話をする前に、
みなさんに、3つの質問をします。
最初の質問は、
「宿題をやっていなかったり、
忘れ物をしたら、君の学校の先生は怒りますか?」
(意見を聴く)
では、2番目の質問は、
「今、恐ろしいと思っていることは何ですか?」
(意見を聴く)
では、最後の質問は、
「将来の夢、やりたい仕事は、何ですか?」
(意見を聴く)

たくさんのことを教えてくれて、ありがとう。
みんなの気持ちや夢を知ることができて、うれしいです。
ところで、今日の聖書の言葉は、
「明日のことまで思い悩むな。」でしたね。
明日のことは心配するな、恐れるな、と、イエス様は力強く語られました。

(②心配を除く方法その一)
では、明日のことを心配しないようにするには、
どうすればいいのでしょうか?
「心配するな」、「恐れるな」といっても、
人間だから、いろいろ心配しちゃうよね。
さっき、最初に質問したのは、
「宿題をしてこなかったり、忘れ物をしたら、
君の学校の先生は怒りますか」でしたね。
では、怒られないようにするには、どうしたらいい?
(質問する。答えを聴く。)
ふつうは、「宿題をきちんとする。
忘れ物がないように、明日の用意を今日のうちに行う。」ですね。
そう、まず、明日の心配を作らないためにも、
今日できることは、今日のうちにやっておくことです。
みなさんが、「後で、後で・・・」と言っているうちに、
もう「明日」が来てしまいます。
今日、という時間を、大事にしましょう。

(③心配を除く方法その二)ところで、先ほどの、
二番目の質問は、
「今、恐ろしいと思っていることは何ですか?」でしたね。
突然の大地震や、北朝鮮からの攻撃、
交通事故、新型インフルエンザ、
恐ろしい事件に巻き込まれることと・・・
考えれば、自分ではどうしようもないことはたくさんあります。
明日、それらの事が起きたら・・・と考えたら、
不安でいっぱいになってしまいます。
何千年か前、中国では、
「空が落ちてこないか」と心配していた人がいたそうです。
漢字で「杞憂」というと(見せる)、
「余計な心配をすること」の意味です。
「空が落ちてこないか」は極端ですが、
たとえば5月に、新型インフルエンザをうつされないために、
町を歩くときまでマスクしている光景、というのは、
ちょっと心配のしすぎ、やりすぎだと私は思いましたけど・・・
いろいろな不安で心がいっぱいになってしまう時、
そういう時こそ、聖書の言葉を思い出してください。
「明日のことまで思い悩むな。」
神様は、わたしたちを愛しています。
だから、すべての出来事の中に、
神様の守りと導きがあります。
神様がともにいてくだされば、恐れることなど何もないのです。
それに、不安に思っていることのほとんどは、
結局起きないことが多いのです。神様が守ってくださるからです。

(④夢を実現するために)
最後に、「明日のことを思い悩むな」とイエス様が言われたのだから、
夢を持ったり、将来の職業のことを考えるのは、
だめなのでしょうか。それは違いますね。
心配するな、ということと、
夢や目標を持ち続けることは、全然別です。
みなさんは、イチロー選手を知っていますよね。
彼はすばらしい野球選手です。
では、彼がすばらしいのは、「生まれつき天才」だったからですか?
そうではなく、彼は小学生の時から、
毎日欠かさず練習をし続けているからです。
実は、「生まれつき天才」という人は、いません。
努力し続けると、人はすばらしい能力を発揮できるようになるのです。
努力が天才を作るのです。
「イチロー選手は特別だし、とてもマネできないよ・・・」
そう思っているかもしれません。
何年から前に、ある教会学校で、
私はその当時小学4年生の女の子から、
こういう話を聞きました。
「私は、将来ユニセフで働き、
世界中の困っている人を助けたいから、
英語を勉強しています。」
私はとても感動しました。
今その子は、確か中学3年生です。
みなさんにも、夢や、将来なりたい職業がありますね。
では、その夢をかなえるために、今日できることは、何ですか?
昆虫博士になりたいなら、
ほかの人以上に昆虫図鑑を読んで覚える、とか、
体を鍛えるとか、いろいろあると思います。
できない理由をあれこれ考えて、何も行動しないなら、
それこそ「思い悩む」ことになります。
「今日」できることをまず行う。
「神様が私の仲間」、
「神様が私とともに生きて働いていてくださる。」
そう信じて、自分の夢をかなえていきたいですよね。

詩篇100(01)【自作曲】

前回、詩編100を引用しましたので、
それにちなんで、
今回は、自作の詩篇100(01)を紹介します。
テキストは、新共同訳によります。

現在、詩篇100への作曲は、
新共同訳6、カトリック訳1、バルバロ訳1の、
計8曲の作曲が与えられています。
今回紹介するのは、その中で一番最初に与えられた曲で、
なおかつ、一番気にいっているものです。

テキスト・楽譜とメロディは、下記からダウンロード願います。

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2009年6月20日 (土)

主の祈り(その7)「わたしたちの日ごとの糧を・・・」(1)

「主の祈り」シリーズ、今回は、
「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。」
の箇所について考察します。
この箇所は、2回に分けます。
1回目は、どうしてこの句が、中間にあるのか、
についてです。

「主の祈り」の中間部になってようやく、
人は自分の願い求めるものについて、
神様に打ち明けることになるのです。
しかし、どうして、個人的な願いが、最初ではなく、
この位置に来るのでしょうか?
いきなり、「神様、○○がほしいのです!」と
呼びかけるのではいけないのでしょうか?
(絶対にダメ、というわけではありませんが・・・)

みなさんが、親しい友人や、家族や、
親戚の家に行くと想像してください。
その際には、以下のようになるはずです。
(訪問の前に電話する、手土産を買う等は省略します。)
1.呼び鈴を押す。
2.玄関先に、相手が出てくる。歓迎される。
3.あいさつ。
4.家に入る。
5.ふつうは、雑談。あるいは、お茶など。
6.もし、大事な用件があれば、話す。
(お金を借りたい、悩み事相談等々)
7.相手に感謝を述べ、家を出る。
まあ、こんな感じでしょう。

上記のケースで、たとえば、
呼び鈴を押して、相手が出てきたところで、
いきなり、訪問者が、
「20万円必要なんです!」と言ったらどうなるでしょうか?
強盗の一歩手前みたいなものですね。
あるいは、玄関先で、訪問者がいきなり、
配偶者や子ども、職場関係などの陰口を言い始めたら、
どう思いますか?

同様に、神様に自分の願いを知っていただくにも、
順序があります。
神様は、私たちの願いをかなえる自動販売機ではありません。
神様はまず、私たちと心を通わせあいたい、と願っておられます。
神様と触れあう順序は、

1.神様に呼びかけること(天におられるわたしたちの父よ)
2.神様を賛美すること(み名が聖とされますように)
3.神様の願われていることに同意し、
その実現に協力する旨を表明すること
(み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。)
4.その上で、自分が願い求めるものを打ち明ける。
(わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。)
(※以下はまたの機会に述べるので省略します。)

詩編100には、ある意味で、
「神様の家」を訪問する「作法」が書かれていると言えます。
※(数字は、節)

1.全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
2.喜び祝い、主に仕え
  喜び歌って御前に進み出よ。
3.知れ、主こそ神であると。
  主はわたしたちを造られた。
  わたしたちは主のもの、その民
  主に養われる羊の群れ。
4.感謝の歌をうたって主の門に進み
  賛美の歌をうたって主の庭に入れ。
  感謝をささげ、御名をたたえよ。
5.主は恵み深く、慈しみはとこしえに
  主の真実は代々に及ぶ。
(旧約聖書 詩編100(全)新共同訳)

祈りは、神様を訪ねに、「神様の家」を訪問するようなものです。
自分の願いばかり述べたり、泣き言や愚痴ばかり言う訪問者は嫌われますが、
その家の主人(=神様)を愛し、敬い、ほめることが好きな訪問者なら、
きっといつでも、いつまでも、その家で喜ばれるでしょう。
「主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。」(旧約聖書 詩編23:6新共同訳)

私たちも、さあ、「神様の家」に行きましょう!

2009年6月19日 (金)

主の祈り(その6)「みこころが天に行われるとおり・・・」

「主の祈り」シリーズ、今回は、
「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」
という箇所について考察します。

まず、天におられるわたしたちの父」なる神様の、
「みこころ」とは何でしょうか?

よく、祈りの際に付け加えられる、
「みこころのままに」の、「みこころ」とは、
少し違うようです。
その場合の「みこころ」は、
神様の意思、神様が望むならば、
という意味です。
いやしや不思議な奇跡が起こるようなことを、
私たちが望む場合ですね。
祈って奇跡が起こることも、そうでないことも、
神様のご意思として受け取るべきでしょう。
どちらにしても、感謝なことです。
ただ、このレベルでの、「みこころ」とは、
私たちには知りえないものです。
(だからこそ、私たちは、あらゆることに関して、
まず祈るのです。)

しかし、主の祈りにおける「みこころ」とは、
いやしや奇跡が起こされるレベルのような、
相対的なレベルのものではなく、
絶対的に主が望んでおられることだと思います。
すなわち、イエス様が地上に来られたことに関連することです。
その「みこころ」とは、イエス様が語られた、
以下のみことばに示されています。

「これらの小さな者が一人でも滅びることは、
あなたがたの天の父の御心ではない。」
(新約聖書 マタイによる福音書18:14新共同訳)

「わたし(イエス様)が天から降って来たのは、
自分の意思を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方
(天の父なる神様)の御心を行うためである。
わたしをお遣わしになった方の御心とは、
わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、
終わりの日に復活させることである。」
(新約聖書 ヨハネによる福音書6:38~39新共同訳)

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(新約聖書 ヨハネによる福音書3:16新共同訳)

「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、
あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」
(新約聖書 ヨハネによる福音書17:3新共同訳)

私たちが、イエス様を信じ、神様の永遠の命にあずかること、
これこそ、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」
の意味だと私は思います。
また、地上において、愛が実現すること(神様への愛、人々への愛)、
これも、「みこころが天に・・・」の祈りが、地上で成就することになります。

これで、主の祈りの前半部分の考察が終わりです。
父なる神様にまず呼びかけ、
父なる神様を賛美し、
その御心が成就するよう、
まず、自分の必要なことを離れて祈る、それが、
「天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。」
ですね。

神様の祝福と平安がみなさんに豊かにありますように!

2009年6月18日 (木)

おすすめサイト~レムナント出版

久保有政氏の著作を紹介したついでですので、
氏が主宰する、「レムナント出版」のサイトを紹介いたします。
創造論、セカンド・チャンス論、日本の近代史等、
興味深い記事がたくさんあります。
日本のキリスト教会の先端を行く考察が盛りだくさんです。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/index.htm

書評:久保有政著『天地創造の謎とサムシング・グレート』

天地創造の謎とサムシンググレート―「進化論」と「インテリジェント・デザイン理論」 宇宙と生命体をデザインしたのはだれか!? (ムー・スーパー・ミステリー・ブックス)

買ったきっかけ:
久保有政氏の著作は、可能な限り、買うことにしています。
今年(2009年)の4月に新しい本が出たことを、氏のHPで知り、早く購入して読みたいと思っていました。

感想:
第1章〜第4章の、インテリジェント・デザイン論についての記事は、実に必読です。聖書からではなく、純粋に、科学的な思考と証拠だけで、進化論を反駁しているインテリジェント・デザイン論は、すばらしいと思います。
また、第5章以降の、聖書による創造論・創造科学の記事も、まだ未読の人にとっては、非常に有益でしょう。
ただし、第5章以降は、既に久保氏の他の著作で紹介されている内容が多いのが、少し残念でした。

おすすめポイント:
インテリジェント・デザイン論と、創造論・創造科学の入門書として最上です。進化論は絶対ではなかった!この世界は、偶然の産物ではなく、偉大なる知性(Something Great)によって綿密に創造されたものであるのが、よくわかります。

天地創造の謎とサムシンググレート―「進化論」と「インテリジェント・デザイン理論」 宇宙と生命体をデザインしたのはだれか!? (ムー・スーパー・ミステリー・ブックス)

著者:久保 有政

天地創造の謎とサムシンググレート―「進化論」と「インテリジェント・デザイン理論」 宇宙と生命体をデザインしたのはだれか!? (ムー・スーパー・ミステリー・ブックス)

主の祈り(その5)「み国が来ますように。」

「主の祈り」シリーズもいよいよ中盤、第5回目です。

今回は、「み国が来ますように。」の箇所について考察します。
ところで、「み国」とは、何でしょうか?
一般的には、死んでから赴くであろう、
永遠に神様とともにある世界である、
「天国」のことと理解します。

しかし、それなら、「み国」が「来ます」ではなく、
「み国に行けますように」の方が正しいのでは、
と考えないですか?
「天国」は、信じる私たちが、
「行く」、「向かう」ところであって、
「天国」の方が、この世界に来る、
とはどういうことでしょうか?

ちなみに、この箇所の「み国」は、
英語では、たいてい、"Kingdom"と訳されています。
単なる「国」ではなく、「神様の王国」という意味です。

話を戻しましょう。
ここでいう「み国」とは、2つの意味があると思います。

1つ目は、世界の終わり、終末における、
永遠の「神の国」です。
新約聖書の最後、「ヨハネの黙示録」に書かれている、
「新しい天と新しい地、聖なる都、新しいエルサレム」
(ヨハネ黙示録21:1~2)
のことです。
そこは、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」
(ヨハネ黙示録21:4新共同訳)ところです。
私たちがよく想像する、「天国」のイメージそのものです。

2つ目は、イエス様が福音宣教のはじめにおっしゃった言葉、
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」
(新約聖書 マルコによる福音書1:15新共同訳)
における「神の国」=「神様の王国」です。

「神様が王として支配・統治されるところ」、
そこが「神様の王国」です。
その王国には、この地球上には、具体的な地理的領土はありません。
しかし、イエス・キリストを信じる人々の心の中に、また、信じる者の間に、
確かにその王国は存在しています。

その王国では、愛がすべてです。
神様からの愛、神様への愛、
神様を通しての人々への愛、神様を通しての人々からの愛、
愛といつくしみのあるところ、そこに神様はおられるのです。
なぜなら、「神は愛」(新約聖書 ヨハネの手紙一4:16)だからです。 
また、必要であれば、イエス様が地上の生涯で、
たくさんのいやしの奇蹟をなされたように、
心と体のいやしも行われるでしょう。

だからこそ、私たちは、
「主の祈り」をただ形式的に唱えるのではなく、
神様の御心が実現されるよう、
すなわち「み国が来ますよう」、
私たちもその「平和の道具」として、
用いられるよう、具体的に祈り、行動したいものです。
よき「神様の王国」の国民として・・・

誰か、特別な人だけが、「み国が来る」ことに携わるのではありません。
私たちの小さな祈り、
小さなよい行いという「一滴」から始まるかもしれません。
「平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。」
(新約聖書 マタイによる福音書5:9新共同訳)

天国は、決して、死んだ後に行く「だけ」のところではありません。
いや、むしろ、この地上から、「天国」は、
既に始まっているのです!

2009年6月17日 (水)

主の祈り(その4)「み名が聖とされますように」

「主の祈り」シリーズの第4回目です。
今回は、「み名が聖とされますように」について考察します。

まず、言葉の訳について、調べてみましょう。
カトリック・聖公会共通版では、
「み名が聖とされますように」となっていますが、
正直言って、少しわかりにくい言葉だと思います。
他の日本語の口語体の訳では、どうなっているでしょうか?
手持ちの聖書で調べてみました。
「御名があがめられますように。」
(口語訳、新改訳、新共同訳、現代訳、エマオ出版訳)
「み名が聖とせられますように。」
(バルバロ訳)
「あなたの名が聖なるものとされますように。」
(岩波書店・新約聖書翻訳委員会訳)
「あなたの御名が聖とされますように。」
(回復訳)
「御名が尊まれますように。」
(フランシスコ会訳)
「(願わくは、)あなたの御名が敬われますように。」
(柳生直行訳)
「あなたの名を尊いものとしてくださいますように、」
(共同訳)
※ここへのコメントとして、共同訳には、以下のような注がついてます。
「『神が神としての栄光を表してくださいますように。』という意味。」

ちょっと煩瑣な記事になってしまいましたね。
要約すると、
「み名が聖とされますように」という表現か、
「み名があがめられ(尊まれ)ますように」の、
2つにしぼられます。

では、「聖とされますように」の、
「聖」とは、いったいどういうことなのでしょうか?
辞書の意味で、「聖なる神」といった場合の、
「聖」とは、「けがれなく、尊いこと」(広辞苑)とあります。
しかし、聖書的な意味での、「聖」とは、
手持ちの聖書事典から抜粋しますと、
「ヘブライ語の『カードーシュ』も、ギリシャ語の『ハギオス』も、
本来は、『分離する』あるいは『遮断する』という意味をもっている。
したがって、『神が聖である』と言われるとき、それは、
神の隔絶性、無比性、尊厳性、主権性・・・(中略)を指示する(中略)」

ますますわからない、ですか?・・・・
視点を変えて、「み名が聖とされますように」ということを、
身近な例で考えてみましょう。
たとえば、「○○の名を汚す」という表現がありますね。
ここで言う「名」とは、単なる「音」ではありません。
その、もの・こと・人・存在の本質をあらわします。
「名は本質を表す」は聖書的発想の重要な一つです。

これは私の解釈ですが、
「み名が聖とされますように」ということは、
「天におられるわたしたちの父」なる神様にとって、
というよりも、むしろ、
「わたしの心において、わたしたち信じる者の間において、
世の中のすべてで」、神様のお名前が、
尊敬され、あがめられ、聖なるものと認識されますように、
ということではないか、と考えます。
神様のお名前に、ふさわしい尊敬が払われ、
大いにあがめられること、
ひいては、多くの人が、そのお名前を信じること、
そうなりますように、ということではないかと、
私は考えております。

十戒の中で、
「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」
(旧約聖書 出エジプト記20:7、申命記5:11新共同訳)
というのがありますね。
旧約聖書においては、
「~してはならない。」という消極的な掟ですが、
新約聖書においては、むしろ積極的に、
「み名が聖とされますように。」となったのでしょう。

「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」
(新約聖書 使徒言行録2:21新共同訳※他にもあります。)
神様の「み名」には、救いがあります。

「み名が聖とされますように」を、
もう一つ別な視点から見てみましょう。
それは、「賛美」という視点です。

「主を賛美するために民は創造された。」
(旧約聖書 詩編102:19新共同訳)とあります。
私たちは、神様のすばらしさ、きよさ、その愛を知る時、
賛美せずにはいられません。
ちょうど、ロックコンサートに来ているファンや、
あるいはスポーツ観戦の際のファン・サポーターが、
すばらしい演奏や、すばらしいプレイに、
歓声をあげずにはいられないように・・・

しかし、神様への賛美は、
それらの歓声と違って、
ただ空に消えていくものではありません。
「けれども、あなたは聖であられ、
イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」
(旧約聖書 詩篇22:3新改訳)
「主を喜ぶことは、あなたがたの力であるから。」
(旧約聖書 ネヘミヤ記8:10新改訳の欄外別訳)

私たちの賛美の中に、神様が住んでくださるのです!
そして、それだけではなく、私たちの力となってくださるのです!
なんとすばらしい約束でしょうか。

だからこそ、私たちは、あらゆる祈りと願いに先立って、
まず神様を賛美するのです。
ちょうど、「主の祈り」のように・・・
「天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように・・・」

2009年6月16日 (火)

主の祈り(その3)「天におられるわたしたちの父よ・・・」

今回は、「主の祈り」の第3回目です。
今回以降は、「主の祈り」の各部分ごとに分けて、
語っていこうと思います。
なお、使うテキストは、
カトリック・聖公会共通の口語版を使います。

冒頭の「天におられるわたしたちの父よ・・・」に注目しましょう。
イエス様が、「わたしたちの父よ」と呼びかけられているのは、
どうしてでしょうか?

父なる神様は、イエス様「だけ」の父ではなく、
「わたしたち」すべての父なのです。
その「わたしたち」が、誰であっても・・・
目を閉じて、世界中の人が祈っているのを、
想像してみてください。
日本で、アメリカで、ヨーロッパで、
アフリカで、アジア各地で、
教会の中のみならず、牢獄の中や、
病床で、あるいは今、車を運転中かもしれません。
さまざまな言葉で、「天におられるわたしたちの父よ・・・」
と呼びかけている、その祈りのすべてを、
父なる神様はきいておられます。

イエス様が、もちろん神の子の代表ですが、
(特別な、「(神の)独り子」(新約聖書ヨハネ3:16)ですね。)
私たちも、イエス様への信仰を通して、
神の子とされています。
(参考:新約聖書 ローマ8章、ガラテヤ3章など)
いわば、「養子」としてですが、
しかし、「子である」という身分には変わりません。
当たり前のことなのですが、意外と気づいていないこととして、
イエス様「だけ」ではなく、私たちも、
「神の子」なのです!

「使徒信条」では、信ずべきことがらとして、
(私たちの)「からだの復活」がありますね。
イエス様は、「初穂として」(新約聖書 一コリント15:20)、
罪と死に打ち勝ったしるしとして、復活されました。
同じように、イエス様を信じる私たちも、
イエス様への信仰を通して、「神の子として」、
終りの日に、復活することになるでしょう。

そういうすばらしい約束のもとに、
私たちは、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけているのです。
なんというすばらしい約束を、父なる神様は、
イエス様を通して私たちに与えてくださったことでしょうか!

これを読んでくださった皆様に、
神様のすばらしい祝福と平安が豊かにありますように!

2009年6月15日 (月)

主の祈り(カトリック・聖公会共通)(07)【自作曲】※主の祈り(その2)

前回は、マロッテ作曲「主の祈り」の、
新しい日本語版を紹介しました。
今回は、自作曲の「主の祈り」を紹介します。

テキストは、カトリック・聖公会共通のもので、
現在教会で使用されているものです。
現在、私の毎朝の祈りのときに使用しています。

「主の祈り」への作曲は、現在のところ、
カトリック・聖公会共通版が9曲、
プロテスタント文語版が4曲、
カトリック文語版が1曲、
フランシスコ会訳が1曲、
新共同訳が1曲、
英語のが2曲、計18曲あります。
その中でも、一番気にいっているのが、
この曲です。

ところで、一般のプロテスタント教会では、
いまだに文語訳を使っているところが多いですね。
特に、年配の方が多いところはその傾向が強いです。
一方、若い人に対してどんどん伝道しているところは、
若い人にわかりやすいように、
独自の口語版又は聖書の訳をそのまま使っているようですね。

カトリックと聖公会においては、2000年2月15日から、
共通の口語訳使用が許可となっています。
これは、とてもすばらしいことだと思います。

プロテスタントとカトリックの文語版は、
確かにおごそかな感じがします。
しかし、文語にこだわるのは、
はっきりいって、福音宣教の障害だと思います。
日本の人口の1%にも満たないクリスチャン人口、
その中にあって、残り99%以上の人に向かって、
まだまだ語る必要があるのです。
教会の年配者や、儀式好きの人のために、
口語にこだわるのはよくないです。
年配の方への配慮は必要ですが・・・
(「主の祈り」や各種祈りのみならず、
賛美歌についても同様のことが言えます。)

また、できれば日本宣教のために、
カトリックとプロテスタント主要教派共同で、
さらに新しい、口語の「主の祈り」があればいいな、
と願っております。
クリスチャンの大多数が、一つになって、
「天の父」へ祈れる日が来れば・・・と思っています。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
下記からダウンロード願います。もちろん無償です。

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2009年6月14日 (日)

主の祈り(マロッテ作曲)【編曲】※主の祈り(その1)

今回から、10回にわたって、
キリスト教においてもっとも重要な祈りである、
「主の祈り」について、
編曲と自作曲を交えて、分かち合いたいと思います。

まずは、世界的に有名な、
マロッテ作曲による『主の祈り』"The Lord's Prayer"の、
日本語による、プロテスタント文語版と、
同じく日本語による、カトリック&聖公会版(口語)の2つを紹介します。
私による編曲版です。

この曲の日本語版は、リビングプレイズの271番
又はミクタム ワーシップ&プレイズの148番(こう えいか訳詞)が、
既にあります。
しかし、この訳は、非常に不完全な訳であり、
このままでは、教会の礼拝・典礼におそらく使えないと思います。

私の編曲版は、教会で広く用いられているプロテスタント文語版と、
カトリック&聖公会版の、テキストすべてを使っております。
多少歌いにくいところはありますが、
あくまで、「テキストに忠実」を目指しました。
伴奏付ですので、多くの教会で用いられるようになれば幸いです。

なお、最後の"pro"はプロテスタント文語訳版、
"cath epi"は、カトリック&聖公会版です。

メロディ(midiファイル)と楽譜(PDFファイル)とは、
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2009年6月13日 (土)

わたしは平和をあなたがたに残し(ヨハネ14:27)【自作曲】

前回、イエス様のみことば、
「わたしは、平和をあなたがたに残し・・・」
(新約聖書ヨハネによる福音書14:27)を引用しましたね。
それにちなんで、今回は、
そのみことばへの作曲を紹介します。
テキストは、新約聖書ヨハネによる福音書14:27(新共同訳)です。

「わたしは、平和を あなたがたに残し、
わたしの 平和を 与える。
わたしは、平和を あなたがたに残し、
わたしの 平和を 与える。

わたしはこれを、世が与えるように
与えるのではない。 世が与えるように
心を騒がせるな。おびえるな。
心を騒がせるな。おびえるな。

わたしは、平和を あなたがたに残し、
わたしの 平和を 与える。
わたしは、平和を あなたがたに残し、
わたしの 平和を 与える。」

ところで、ここでイエス様が語られている「平和」とは、
どのようなものでしょうか?
また、「平和」と聞いて、みなさんは、
どのようなことを想像しますか?

手元の辞書では、
①「戦争もなく、世の中が穏やかである・こと(さま)。」
②「争いや心配事もなく穏やかである・こと(さま)。」(スーパー大辞林)
とあります。
①の意味では、確かに日本は「平和」な国ですね。
しかし、②の意味ではいかがでしょうか?
毎年3万人の自殺者が出るのは、イラクの戦場以上です。
イエス様がおっしゃった「平和」とは、
まずは、①の意味ではないでしょう(含まれる、とも言えますが・・・)。

それでは、②の意味なのでしょうか?
それは、「世が与える」ものでしょう。

こういう話を聞いたことがあります。
ある国で、「平和」を題にした絵が募集されました。
いかにも、「平和な」光景を描いた絵がたくさんある中、
最優秀賞に選ばれた絵は、一見すると、
全然平和ではないものでした。
嵐が吹き荒れている中、
親鳥が木の上の巣で、ひな鳥たちを守っている、
という構図でした。
どこが「平和」なのでしょうか?
それは、嵐のなかであっても、
親鳥の翼の中で、ひな鳥たちは守られ、
安心しているからです。
平穏無事な中でだけ、成立する「平和」ではなく、
苦難・困難の中にあっても、ゆるがない安らぎ・・・
そういう「平和」こそ、私たちが真に必要なものです。

「あなたがたには世で苦難がある。
しかし、勇気を出しなさい。
わたしは既に世に勝っている。」
(新約聖書ヨハネによる福音書16:33新共同訳)
イエス様は、既に世に勝っています!
だから、心を乱すようなことがあれこれあっても、
悲しみや苦しみの中にあっても、
イエス様が「既に」平和を与えてくださっていること、
イエス様が「既に」勝利されていることを、
思い起こしましょう!

テキスト・楽譜とメロディは、下記からダウンロード願います。

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主の晩餐、の後の言葉についての考察

ある方から、次のような質問がありました。

新約聖書マルコによる福音書14:25において、
イエス様は、
「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、
ぶどうの実から作ったものを飲むことは
もう決してあるまい。」(新共同訳)
と言われています。
どうして、「もう決してあるまい。」なのでしょうか?
(何か意味があるのでしょうか?)

普通は、あまり気にならないところですね。
しかし、意外な質問というのは、
しばしば私たちの目をさらに見開かせるものです。

いろいろな解釈があるでしょうが、
ここでは私なりの解釈を述べておきます。

直接は、この記事の後にある、
「オリーブ山へ出かけていった。」(30節)
それで、もう時間がないから、ということなのでしょう。
さらに、イエス様がおっしゃた言葉は、
十字架の苦しみの中で、実現します。
マタイ・マルコ・ルカの共観福音書においては、
イエス様は、十字架の苦しみにおいても、
その苦しみを麻痺させるような、
「没薬を混ぜたぶどう酒」(マルコ15:23)
「苦いものを混ぜたぶどう酒」(マタイ27:34)
「酸いぶどう酒」(マタイ27:48)を飲もうとされなかった、
と書かれてあります。
最後の最後まで、
人類の罪と罰を極みまでその身でお引き受けになられた証ですね。
(ただし、ヨハネ福音書では、
死なれるすぐ直前に、
「ぶどう酒を受け」た(ヨハネ19:30)となっています。
しかし、これは、死なれる直前であり、
苦痛を紛らわすものではありません。
また、イエス様ご自身の意思ではなく、
「無理やり」飲まされたものです。
むしろ、詩編69:22(新共同訳)の預言の成就、ととらえるべきです。)

もう一つの解釈は、旧約聖書 民数記6章にある、
神様に特別の誓願を立てる「ナジル人」の規定が念頭にあったのでは、
とも考えられます。
これから、神様への特別の「誓願」、すなわち人類を救いたい、
という誓願を果たすために、
神様に献身したナジル人と同様に、
「ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
と言われたのかもしれません。
神様への献身のしるしとして、です。

以上をまとめると、
①目前に出掛ける目前で、時間がなかったし、
ご自分がこれからどのような苦しみにあうかも、
ご存知だったので、そのように言われた。
②十字架の苦しみの時のことを自ら預言された。
③神に献身した「ナジル人」となることを暗黙のうちに宣言された。
の3つではないか、と私は考えております。

もっとすばらしい解釈・意見があれば、
ぜひコメント願います。

「ぶどう園の労働者」のたとえ(マタイ20:1~16)

「ぶどう園の労働者」のたとえは、
マタイ・マルコ・ルカの共観福音書の中で、
マタイ福音書にしか記事がありません。
その割には、結構インパクトがあるたとえですね。
夜明けから「一日一万円」
(テキストでは、「一デナリオン」。当時の通貨単位ですね。
聖書学的な、煩瑣な議論を避けたいので、
今回は、今の日本の単位にあわせて「一万円」と書きます。)
という約束で、ずっと働いていた人と、
最後の一時間ぐらいしか働かなかった人が、
同じ金額であった、というオチがついてます。

一般的には、この「金額=一万円」というのが、
死んでから後の神様からいただける祝福、
恵みと考えられています。
だから、若い時からの信仰者でいるよりも、
年をとってから、死ぬ間際に洗礼を受けたって、
「結局」恵みは同じじゃない、
私は「天国泥棒」でいいわ・・・などといった議論になります。

今回、妻とここの箇所について話をしました。
討議しているときに、
私は改めて、じっくりとテキストを読み直しました。
すると、何十回も読んでいるはずのテキストに、
新鮮な発見をしました。
すなわち、
①「朝早く」からの労働者には、
報酬が「一万円」と約束されています。
②朝九時の労働者には、
「・・・ふさわしい賃金を払ってやろう。」(4節)
と書かれ、具体的な金額は書かれていません。
③昼十二時、午後三時の労働者には、
おそらく朝九時の労働者と同じ言葉だったのでしょう。
④夕方五時の労働者には、ただ、
「あなたがたもぶどう園に行きなさい。」(7節)
とだけ書かれています。
上記①~④のうちで、
確実に「一万円」という報酬が約束されているのは、
①の朝早くからの労働者だけです。

「な~んだ、当たり前じゃないか・・・」と思われた方は、
すごいな、と思います。
私たちは、しばしば、聖書を虚心坦懐に読まず、
思い込み、という色メガネを通して、
濁った目で読んでいることが多くないですか?

この箇所は、自分の記憶の中では、
全員、「一万円」の約束があった、と思いこんでいました。
しかし、上記②~④の人は、
そもそも「一万円」の報酬がもらえるなどと思わなかったはずです。
何らかの金額が支払われる程度、
場合によっては、支払ってもらえないかもしれません・・・
そんな不安の中で働いていたのでは、と推測できます。
結果が、「恵みとして」、「一万円」の報酬だった、ということです。

やはり、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」
(旧約聖書 伝道者の書【コヘレトの言葉】12:1新改訳)
ということが、人生の幸いですね。

だいいち、「晩年に、死ぬ間際になってから、洗礼を受ける」
なんてこと、そううまくいくとは限りませんよね。
「地上でどんなわざわいが起こるか
あなたは知らないのだから。」(伝道者の書11:2新改訳)
「天国泥棒」できる人は、その生涯において、
やはりその道にいたることができた、
恵まれた人なのだと思います。特例です。

信仰は、永遠の世界へのパスポートであり、
この世においても、そして来るべき世においても、
安心して生きていける「保険」のようなものです。
その「保険料」は、既にイエス様が、
十字架において支払ってくださいました!
「保険」よりもすばらしいのは、
既に生きているうちに、
その恵みを味わうことができることです。
福音は、決して、「死後の浄福」しか保障しない、
そんなものではありませんよ。
天国は、既にこの地上から始まっているのです!

2009年6月12日 (金)

Serenity Prayer(平安の祈り)【自作曲】

今回は、「Serenity Prayer(平安の祈り)」を紹介します。

20世紀アメリカの神学者、
ラインホルト・ニーバーの祈りへの作曲です。
ただ、今回改めてわかったのですが、
私がテキストとして使用している版は、
おそらくあまり知られていない私訳のようです。
確か、5~10年前に、
デボーション誌『幸いな人』に掲載されていたと記憶しています。
(どなたか、正確な事を教えていただける人がいれば幸いです。
なお、『幸いな人』については、今いろいろと問題になっていますね。
私は6、7年くらい前に、購読をやめてしまいました。)
一般的には、大木英夫氏の訳が有名です。
参考までに、私が使ったテキストと、
一般的に用いられている、大木英夫氏の訳を掲載します。

(今回のテキスト)
神よ、私に平安を
お与えください
私の力では、変えることのできないものを
受け入れるために

勇気をお与えください
私の力で変えることができるものを
変えていくために

そして、知恵をお与えください
その違いを、見分けることができるために

[神よ、私に平安を、
知恵を、勇気をお与えください]

※[ ]内は私による追加

(大木英夫氏の訳)
神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。


「わたしは、平和をあなたがたに残し、
わたしの平和を与える。
わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。
心を騒がせるな。おびえるな。」
(新約聖書ヨハネによる福音書14:27)

イエス様は平和の主です。
「平和と、信仰を伴う愛が、父である神と
主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。」
(新約聖書エフェソの信徒への手紙6:23)

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2009年6月11日 (木)

疲れた者、重荷を負う者は(01)(マタイ11:28)【自作曲】

今回は、新約聖書の中でも有名なみことばの一つ、
疲れた者、重荷を負う者は・・・」のところへの作曲を紹介します。
この箇所は、カトリック・プロテスタント問わず、
よく教会前の案内板に使われていますね。

テキストは、新約聖書 マタイによる福音書11:28~30(新共同訳)です。
同じ箇所(※28節だけの場合も多いですが)に、
現在、計12曲の作曲が与えられています。
内訳は、文語訳が1、英語のTEVが3、後8曲はすべて新共同訳です。
その中で、最も気に入っているのが、最初に与えられたこの曲です。

疲れた者、重荷を負う者は、
だれでも わたしのもとに来なさい。

休ませてあげよう。
休ませてあげよう。

わたしは柔和で 謙遜な者だから、
わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは 安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、
わたしの荷は軽いからである。
来なさい。

疲れた者、重荷を負う者は、
だれでも わたしのもとに来なさい。

ところで、イエス様のお声は、どんな声質であるか、
想像してみたことがありますか?
私は、たぶんバス・バリトンの音域の、
太くたくましく、それでいて心の平和さがあらわれたような
お声だと想像しています。
バッハの『マタイ受難曲』で、イエス様のパートは、
バス・バリトンの人が担当していますね。

この曲では、途中の部分の最後に、
「来なさい。」という呼びかけがあります。
ここは、イエス様が両腕を拡げて、
私たちを招いておられるようなイメージがあります。
歌うときには、イエス様があたかも呼びかけているかのような、
豊かな愛をこめて歌っていただけると幸いです。

主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

(旧約聖書 イザヤ書40:31新共同訳)

今、重荷を抱えている人、そういう人こそ、
イエス様のもとへ重荷をゆだねましょう!
主は喜んで引き受けてくださいます。
そして、みことばのとおり、新たな力を受けましょう!

神様の祝福と平安が豊かにありますように!

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2009年6月10日 (水)

詩篇23(01)【自作曲】

今回は、詩篇23(01)を紹介します。
確か、10年以上も前に、与えられたものです。

詩篇23は、特に好きな詩篇の一つなので、
同じ箇所(ただし、訳はそれぞれですが)に、
今のところ計13曲与えられています。
(内訳は、新共同訳4回、新改訳4回、カトリック訳5回です。)
その中でも、一番気にいっている曲が、
一番最初に与えられた、この曲です。
新共同訳への作曲です。

神様は慈しみ深く、生涯にわたって、
いや、地上の生涯が尽き果てた後も、
たえず私たちを導き、養ってくださいます。

テキスト・楽譜とメロディは、下記からダウンロード願います。
(なお、"all"の表記は、詩編23であれば、
その章全体に作曲をした、という意味です。
ただし、章全体、といっても、
「賛歌、ダビデの歌」とか、「セラ」は省きます。
もし、"...psalms023001...."というのであれば、
章全体ではない、ということです。)

神様の祝福と平安が豊かにありますように!

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2009年6月 9日 (火)

カインとアベル(創世記4章)

先日、妻と話しているうちに、創世記の「カインとアベル」の話が話題となりました。

妻と話しながら、私はふと気づきました。いや、気づかされました。
「・・・『カインとアベル』の話では、よく本文を読むと、
カインには神様は2回も声をかけられているが、
アベルには神様は語られていない!・・・」

信仰者の代表のような、アベルには、神様は語られず
(語られていたとしても、本文には記載されず)、
罪人の代表のような、カインに対して、神様は、2度も語りかけられるとは!
旧約聖書では、神様に語りかけられる、それだけで、非常な光栄です。
(現代でも、直接、御声を聴く、というのは、非常に稀だと思います。)

カインのような者でさえ、神様は決して見捨てられてはいなかった、ということに、
私は改めて神様の深い愛を感じました。
そして、本文を通して、罪への罰と、恵み、という、
「見えない十字架」が語られていることにも、
気がつくことができました。
すべては神様の恵みです。

神様は忍耐強く、心の「戸口に立って、たたいて」
(新約聖書 ヨハネの黙示録3:20新共同訳)おられます。
神様を心におむかえしませんか?

Miserere(詩篇51より)【自作曲】

昨日、ちょうど詩編51を引用しましたので、
今日は、それにちなんで、以前に作った曲を分かち合います。
(私が「作った」のは確かですが、曲を実際に与えてくださったのは、神様なので、
以後、「作った」ではなく、「(神様から)与えられた」と書きます。)

旧約聖書 詩編51の3、4、9、12、13、14、19節(新共同訳)から構成されます。
最初はハ短調から始まり、途中からハ長調になります。
その後、一時またハ短調に戻り、最後はハ長調で終わります。

テキスト・楽譜とメロディは、下記からダウンロード願います。

神様の恵みと愛は永遠です。
「こんな罪は、神様がゆるしてくれるわけがない・・・」などと、絶望しないでください。
神様の無限の愛を信じて!

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2009年6月 8日 (月)

高慢は神様が憎むもの

「主を畏れることは、悪を憎むこと。
傲慢、驕り、悪の道
暴言をはく口を、わたしは憎む。」(旧約聖書 箴言8:13新共同訳)

今朝読んだ聖書箇所に、この言葉がありました。
この言葉を通して、改めて、自分の高慢さを指摘されました。

実は、今年の4月と5月前半の間、聖書を読むのがとてもおもしろくて、
1日に計10種類の聖書を使って、計40章以上を読んでいました。
1日にだいたい1時間半~2時間以上も、聖書を読むことに費やしていました。
それで、何箇所かの集会において、あるいは友人に話す際、
「自分は1日に40章読んでいる。」と言ってしまいました。

上記のみことばにあるとおり、神様は、「傲慢、驕り」を「憎」まれます。
そのせいか、5月中旬から、日常生活でなかなか聖書をゆっくり読む時間が作れなくなりました。
「誇る者は主を誇れ」(新約聖書 1コリント1:31新共同訳)
聖書をたくさん読むことができたのは、神様の恵みでした。
そのことを、いつのまにか、自分の手柄にしていたことを、神様におわびします。

「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。」
(新約聖書 ヤコブの手紙1:17新共同訳)

「神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。
御前からわたしを退けず
あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
御救いの喜びを再びわたしに味わわせ
自由の霊によって支えてください。」(旧約聖書 詩編51:12~14新共同訳)

ただ神にのみ栄光あれ!

2009年6月 7日 (日)

お知らせ~ファイル名について

自作曲のファイル名の付け方について説明します。

通常、私の作曲は、楽譜作成ソフト「FINALE」で作成しています。
ファイル名については、たとえばマタイ6:26、34への作曲であれば、
冒頭の聖書章節箇所をタイトルとしていますので、「マタイ06:26」となります。
さらに、同じ聖書箇所に作曲する場合がよくあるので、
区別するため、「マタイ06:26(1)B♭」などと、調も加えて表記しています。
(長調は「B」、「G」など、短調は「Bm」、「B♭m」など)
詩篇においては、さらに、訳の略記(例えば新共同訳なら「新共」などとなります。

ブログ掲載にあたって、上記ファイル名を訂正します。
掲載ファイルはすべて英数半角表記が必要であるため、
20090606matthew0626no01.MID
というような表記となります。

先頭にファイル作成日付、次に聖書の書名の英語表記、章節、№、拡張子が表記されています。
テキストが全く自作の場合であれば、題のローマ字表記を、
原詞があれば、テキストの原詞のタイトルをつけます。
折をみて、変更する場合があるかもしれませんので、あしからず。

なお、私の作曲については、原則、著作権フリーとします。
個人で、あるいは教会等で神様を讃美するためであれば、どうぞ喜んで使ってください。
神様が私に与えてくださった曲ですので、聖書の言葉にならいます。
「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(新約聖書 マタイ10:8新共同訳)

神様に栄光あれ!SOLO DEO GLORIA!

2009年6月 6日 (土)

空の鳥をよく見なさい(マタイ6:26)【自作曲】

はじめて、自作の曲をアップロードしました。
テキストは、新約聖書 マタイ6:26、34(新共同訳)です。

「空の鳥を よく見なさい。
種も蒔かず、刈り入れもせず、
倉に納めもしない。
だが、あなたがたの 天の父は
鳥を養ってくださる。
あなたがたは 鳥よりも 価値あるものではないか。

だから、明日のことまで
思い悩むな
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は その日だけで
十分である
思い悩むな。」

イエス様は聖書の言葉を通して、いつも励まし、慰めてくださいます。

テキスト・楽譜とメロディは、下記からダウンロード願います。

「20090606matthew0626no01.MID」をダウンロード

「20090606matthew0626no01.pdf」をダウンロード

2009年6月 5日 (金)

ブログを始めるにあたって・・・継続への戒め

このブログを始めた日に、聖書以外に(聖書は毎日読み続けるのが基本です)毎日読み続けている本の一つの中で、次のような言葉がありました。
少し長いですが、引用します:

「六月五日

 生かされている悦びを語ることは、言葉の力によってその悦びを増幅することになる。天地の万物みんな生かされている悦びを語っているではないか。燃えるような若葉、空の色の碧、咲き出でた小草―みんな生かされている悦びを表現しているのだ。
 人間だけ黙って憂鬱に黙り込んでいるべきではない。自分の受けたおかげを人に対して話させていただくということは、悦びを表現することであると同時に、言葉の力にて悦びを殖やすことであり、語る相手を救うことであり、自分自身の心境の程度をはっきりさせることであり、話している事柄の中に自分自身も教えられることがあり、自分の向上にも役立つのである。
 黙ってこれまで得たおかげを握りつぶしている人の中には退転する人が多い。自分自身をハッキリ反省する上から心の日記をつけることは自分を退転せしめない一つの良法である。」
(谷口雅春著『生命の實相』第37巻 幸福篇 上 P.153~154から)

私も、神様からの「おかげ」を握りつぶすことのないよう、ブログという形で、口を開いていきたいものです。
「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる・・・」
(新約聖書 使徒言行録18:9~10※新共同訳)

神様に感謝!

今日の一句(短歌)

ホトトギス 初鳴き聞こゆ 白む朝 心ならずも 我目覚めおり

(眠れない夜がいつのまにか明け、ホトトギスの初鳴きが聞こえてきました。
鳥のさえずりで目が覚めるのなら、もっといいのですが・・・)

ブログを始めたきっかけ~『土佐日記』風?に

「男もすなる、日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」と、紀貫之の『土佐日記』は始まります。
これを現代的に変えてみると、「女もすなる、ブログというものを、男もしてみむとて、するなり」。
もっと言えば、「妻もすなる、ブログというものを、夫もしてみむとて、するなり」ですね。

妻が2009年5月からブログを始めました。
興味がある方は、ぜひみてください。
http://blogs.yahoo.co.jp/clara_mayama

私も対抗して(なのかな?)、ブログを始めてみました。
長続きできるよう、工夫しながら、書き続けていきたいと考えています。

書評:藤沢晃治著『「分かりやすい教え方」の技術』


「分かりやすい教え方」の技術(ブルーバックス)


買ったきっかけ:
コーチャンフォーで、教育関係の本を探していた折に、「新書売上№1」ということで手にとり、内容のすばらしさ、わかりやすさに思わず購入しました。

感想:
「教える」ということのコツについて、わかりやすく書いてあります。Amazonではなかなか手厳しいコメントが寄せられていますが、十分すばらしいし、実用的だと思います。

おすすめポイント:
第3章「分かりやすく教える」五つの心構え、第4章「分かりやすく教える」八つの技術は実用的で、必読です。


「分かりやすい教え方」の技術(ブルーバックス)


著者:藤沢 晃治




「分かりやすい教え方」の技術(ブルーバックス)

書評:平野耕一著『よくわかる聖霊論』(いのちのことば社)


よくわかる聖霊論


買ったきっかけ:
紀伊国屋書店のキリスト教書関係の書棚で見つけました。

感想:
今まで聖霊について書かれた本は、どちらかというと体験談やあかし、聖霊の賜物のうち特に異言や預言について強調されるきらいがありました。しかしこの本は、聖霊の賜物や聖霊の実といった現象よりも、むしろ神であられる「聖霊」そのものについて、聖書にはっきりとした根拠を置いて、わかりやすく体系的に学ぶことができる最良書です。この本が多くの人に読まれ、多くの教会で用いられることを願っております。 

おすすめポイント:
聖書の引用が多く、しかも適切です。


よくわかる聖霊論


著者:平野 耕一




よくわかる聖霊論

♪わたし賛歌

「わたしなんて・・・」という言い方はやめて
「わたしだから!」と胸を張って言いたい。
世界中で わたしはただ一人 ただ一人
神様の傑作なんだから

愛され、ゆるされ、生かされている
わたしの人生は価値がある
生きてる、それだけで尊い、すばらしい
わたしにしかできないことがある

だから、涙をぬぐって笑おう
心配ないよ、大丈夫!


(数年前、会社からの帰りの時、運転中に、与えられた詩です。
その日はひどく落ち込んでいました。
失意の中でも、神様は「詩」という形で
わたしを慰めてくださいました。
同時に、この詩への作曲も与えられました。
神様の愛は深いです。)

♪みことば天国(「おさかな天国」の替え歌)~新約全書名暗記用

系図で始まるマタイ伝
ちょっと短いマルコ伝
ルカはお医者で異邦人
奥が深いよ ヨハネ伝は

使徒 ローマ コリント(1・2)
ガラテヤ書
エフェソ フィリピ コロサイ テサロニケーーーー(1と2)

テモテ1・2 テトス
フィレモン ヘブライ
ヤコブ ペトロ1・2
ヨハネは1・2・3
ユダで手紙終り
ヨハネの黙示録
父と子と聖霊
主の愛あふれてる

さあさ みんなで 聖書を読もうよ
主イエスがぼくらを
待っている オゥ!

(ご存じ、「おさかな天国」の替え歌です。新約全27書をおぼえるために作りました。)

♪愛のあいさつ~愛する妻の誕生日記念日として

あいしあい、いのりあう
きみこそ、ぼくのすべて
いつまでも ともにいよう
あいしてる だれよりも

あいしあい、いのりあう
きみこそ、ぼくのすべて
いつまでも ともにいよう
あいしてる だれよりも
ふたりがであえたこと
かみのめぐみ かみのきせき
きみは ぼくのよろこび
I love you, Je t'aime, 我愛你
すきさ あいしてる ラララ

あいしあい、いのりあう
きみこそ、ぼくのすべて
いつまでも ともにいよう
てをとりあって、すすむ みらいへ
てんごくまでも つづく あいで
なみだも、わらいも、わけあって、ラララ
あいしているよ、ふかく、つよく
あいしているよ、だれよりふかく
ずっと、ずっと・・・

(昨年6月の妻の誕生日に、
エルガーの「愛のあいさつ」の楽譜にのせて、
プレゼントしたものです。)

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